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本日、「復活の聖なる徹夜祭」が行われました。

 

「復活の聖なる徹夜祭」は、キリストの過越を記念します。1年の典礼の中で最も盛大で、中心的な祭儀が今日行われる復活の聖なる徹夜祭です。

今日の典礼は、「光の祭儀」「ことばの典礼」「洗礼式」「感謝の典礼」の4つの部分で構成されています。この典礼では、復活ろうそくなどキリストの復活と新しい命を象徴するシンボルが多く用いられます。

 

復活の聖なる徹夜祭では、洗礼式が行われます。

これは、初代教会からの伝統です。洗礼は、受難と死を通して復活したキリストの復活に与り、一人ひとりが古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わる「過越」です。したがって、復活の聖なる徹夜祭がそれにもっともふさわしいとされてきました。

松戸教会でも、本日、11人の方が受洗されます。典礼が始まる前には、シスターやカテキスタと予行練習を行い、洗礼式に備えます。

 

 

 

 

 

 

 

午後7時……。
いよいよ復活の聖なる徹夜祭が始まります。

 

復活徹夜祭は、「光の祭儀」によって盛大に、ルルドから始まります。
ミサの始まりに、フィリップ神父様が、「」について説明され、火を祝福されます。

 

そして、復活ろうそくに描かれた十字架に、祈りの言葉とともに5つの印がつけられます。この印はキリストが受けた5箇所の聖なる傷を表します。

そして、アルファ(Α)とオメガ(Ω)が刻み込まれ、祝福されます。アルファ(Α)・はじめと、オメガ(Ω)・終わりというのは、時間と空間を示します。聖書では、アルファ(Α)とオメガ(Ω)は、万物の最初と最後を意味し、永遠の存在である神とイエス・キリストを指します。

 

イスラエルの王である主 イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。(イザヤ書44章6節)

 

時間と空間があるために、ものには限界があります。しかし、時間と空間がなくなるとその限りがなくなって、すべてのものは完成します。

 

 

そして、祝福された新しい復活ろうそくに灯しました。

 

 

復活ろうそくを先頭に行列し、会衆は、聖堂へと移動します。

 

 

 

 

御聖堂入口でフィリップ神父様が、復活ろうそくを高くかかげて、「キリストの光」と歌い、会衆は「神に感謝」と答えます。

 

御聖堂中央付近で2度目の「キリストの光」が歌われると、復活ろうそくが、侍者たちによって会衆のろうそくに灯されます。

 

祭壇の前で3度目の「キリストの光」が歌われます。
そして、復活ろうそくがろうそく台に立てられ、献香されます。

 

 

そして、聖歌奉仕グループから先唱が「神の御使いよ、天に集い、声高らかに喜び歌え」と復活讃歌を高らかに歌い始めます。

 

 

 

 

復活讃歌が終わると、会衆は蝋燭の火を消し、1年の教会の暦の中で最も豊かな「ことばの典礼」が始まります。
復活徹夜祭の朗読は、「神が人間の歴史を通してどのように働きかけてくださったかを深く味わうことが出来る」ようになっています。

 

第1朗読では…

神が6日間で、天と地とそこにある全てのものを造られたことを語ります。人間の創造は、神の創造のわざを締めくくる最後のものです。この朗読箇所で描かれているのは、「人間とはそもそもどのようなものとして造られたか」ということであり、ここに神に「良し」とされた人間本来の姿を見ることが出来ます。

 

復活徹夜祭の朗読では、1つ1つ朗読が読まれ、答唱詩編が歌われた後に、司祭が祈願を唱えます。

 

 

第2朗読では…

「エジプトからの過越の出来事」は「主の過越」のかたどりとして最も重要です。
紀元前13世紀、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を神様は救い出されました。このエジプト脱出の出来事は、イスラエルの民にとって根本的な救いの体験でしたが、キリスト者はこの出来事を、キリストが死から復活のいのちに移ったことと結び付けて考えます。また、紅海を渡ったこの救いの出来事は、キリスト者の洗礼を前もって表すものと考えられています。

 

 

第3朗読では…

神に背いて荒れ果てたイスラエルの地と捕囚の地にあったイスラエルの民に向かって、回復の預言をエゼキエル(捕囚時代の預言者)は語ります。それは、人間の功績によるものではなく、まったく神ご自身による新しい創造の業とも言えるものです。特に、洗礼式を意識して朗読されます。

 

 

旧約聖書の最後の朗読に続く答唱と祈願が終わると、復活ろうそくから祭壇のろうそくにが灯され聖堂を明るくします。旧約の暗闇の中から新約のが訪れたことを意味します。
そして、カンパネラが響き渡る中、栄光の讃歌が歌われます。

 

 

第4朗読では…

使徒パウロが、人が神の恵みにより、信仰によって神との正しい関係に入ると述べたあと、キリスト者が洗礼によって招かれた新しい生き方について語っています。

 

 

福音朗読では…

イエス様がご復活された朝の箇所が朗読されます。
イエスに従ってきた女性たちが、墓に向かうと、入り口の大きな石がすでに脇へわきへ転がしてありました。墓の中にはいると、白い長い衣を着た若者が婦人たちに「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」と告げます。

 

 

 

第1朗読 創世記 1章1節・26節~31a節
第2朗読 出エジプト記 14章15節~第15章1a節
第3朗読 エゼキエルの預言 36章16~17a・18~28節
第4朗読 使徒パウロのローマの信徒への手紙 6章3~11節
福音朗読 マルコによる福音書 16章1~7節

 

 

そして、フィリップ神父様のお説教が行われました。

説教要旨

復活祭は、教会の暦の中でも最も大事な祝日です。
この喜びの御ミサに共に与ってたくさんの恵みを頂いています。

第1朗読の創世記では、神様が何もないところから全てを創造されたこと、つまり、生きるものすべての特赦が描かれています。
命をいつくしむところから天と地を想像されました。生きるものすべて、男と女を自分にかたどって創造されました。すべてのものが、神様のご計画を果たすために存在すると思い起こさせます。創世記をさらに読み進めていくと、神さまから受けた尊厳と栄光を人間は、罪により、どのように失ったかが分かるでしょう。

罪は、霊的な奴隷状態と考えることが出来ます。
罪に生きることは、エジプトに行ったユダヤ人たちの奴隷状態と同じです。
第2朗読の出エジプト記では、神様が、エジプトでの奴隷状態からどのようにして、紅海をわたって、ユダヤ人を救ったかが、わかります。
教会は、これをキリストが、人類のためになさった事として見ています。そして、罪の奴隷から新しい国へ、罪のない神の子として導きます。
だから、教会は、ユダヤ人をエジプトから解放したことを洗礼のしるしと考えます。ちょうどユダヤ人が紅海を渡り、約束の地に向かう途中であるのと同じように、キリスト者は、洗礼の水をとって、復活の命へと向かっていくのです。

第3朗読では、神の国で生きる姿が描かれています。
天の国の民のお祝いとは、神様が私たち1人ひとりと、とこしえの契約を結び、喜び、祝います。天の国の民の私たちの願いはすべて満たされるでしょう。
天の国の民になるのにお金はかかりません。ただ1つ必要なのは、神様にすべてを委ねることです。自分の考えや言葉ではなく、神様に従順である事です。神様は、その代わりに、聖霊を送ってくださり、心の大きな石を取り除き、従順な心にしてくださいます。

第4朗読では、聖パウロが、キリスト・イエスに永遠の結ばれる為の筋道を私たちに教えてくれます。
ちょうどイエス様が死んで、死者のなかから復活されたように、多くの罪を抱く私たちも、死んで、イエス様と一緒に復活し、新たな命に与ります。

洗礼とは、キリストの死に与り、自分の罪と自分勝手な心に死んで、新しい命に生まれ変わるための儀式です。
洗礼を通して、神の子として、再び生まれ、神の国の食卓に座る権利を与えられるのです。

最後に福音書では、神の救いの業の完成をイエス様の復活に記念する神秘です。
復活が私たちの信仰の土台「罪のゆるし」です。キリスト者としての信仰のしるしです。キリスト者としての力とエネルギーを湧き起させる出来事です。
その記述は、マグダラのマリアと2人の婦人の話で始まります。
初代教父となる最初の弟子聖ペトロやエルサレムの初代司教のヤコブでも、最も愛された弟子であり、聖母マリアを世話を託された聖ヨハネの話ではないのは少し驚きます。
むしろ、『マタイによる福音書』にあるように、名高い罪深き女であるマグダラのマリアからこの話は始まっているのです。イエス様に7つの悪霊を追い出してもらったその娼婦です。
福音書によれば、イエスへの真実の愛の深さは、その人の知恵で決まるのではなく、どれだけ自分の罪を知り、どれだけ主なる神に赦して頂いたかによるのです。

イエス様を心から愛した婦人たちは、その時代の慣習に従い、遺体を香油で清めるためにイエス様の墓に向かいました。イエス様をとても愛したガリラヤの3人の婦人たちは、その時、白い長い衣を着た若者から、良い知らせを聞き、驚きました。神様のメッセージは、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」と、いうものでした。

先程、私たちは、「この夜、死の枷を打ち砕き、勝利の王として死の国から立ち上がられた」と、そして、「この聖なる夜、悪は打ちはらわれ、罪は清められ、恵みが注がれて、喜びが満ちあふれる」と、高らかに歌いました。
この聖なる夜に、私たちは、再び信仰の土台「隅の親石」を思い起こします。

イエス様は、私たちのために死んで、死者のなかから復活されました。
そして、死から甦り、永遠の命を分かち合うことを、信仰ある全ての人々にくださいました。

私たちが、この信仰を持っている事が、洗礼をもっているしるしなのです。そして、この夜、11人の兄弟姉妹がキリスト者になるために洗礼を受けます。神の国に向かう信仰の旅路のなかで、ともに助け合いながら成長していきましょう。
そして、この夜、イエス・キリストの弟子たちのしるしを受けた私たちも洗礼のしるしを新たにしましょう。
もう1度、自分の十字架を背負い、キリストに従う事を約束して、十字架の道を歩み、これから復活しましょう。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

 

 

 

 

 

そして、いよいよ洗礼の儀が行われます。

この1年間、シスターやカテキスタの方々から様々なことを学び、洗礼を受ける決心をされ、今日を迎えます。
フィリップ神父様に促され、11人の洗礼志願者が代父母の方々と一緒に祭壇の前に並びます。

 

 

そして、諸聖人の取次ぎを願い、連願が会衆によって歌われます。
まず、聖歌奉仕グループのメンバーが先唱し、会衆が続きます。

主よ哀れみたまえ、主よ哀れみたまえ。
神の母聖マリア、我らのために祈りたまえ。
聖ミカエル、我らのために祈りたまえ。
聖なる神の使い、我らのために祈りたまえ。
洗礼者聖ヨハネ、我らのために祈りたまえ・・・

 

荘厳に諸聖人への連願が続きます。

 

 

連願が終わると、次にフィリップ神父様が、聖霊の働きを祈りながら、復活ろうそくを3度浸し、「水の祝福」します。
この祝福され聖化されたは、これから次の復活祭まで聖水として、様々な場面で使われます。

 

 

そして、洗礼志願者たちにフィリップ神父様が、「悪霊の拒否」を問い、悪を捨てる覚悟を表します。次に、洗礼志願者たちは、同じくフィリップ神父様の3つの問いに答え、「三位一体の神への信仰」を宣言します。

 

 

信仰宣言の後、いよいよ、1人ひとり、祝福された聖水を3度注がれ、父と子と聖霊の御名により洗礼が授けられます。

 

 

 

そして、聖香油が受洗者の額に塗られ、聖霊を受けます。

 

 

続いて、キリストに結ばれた新しい人になったことを表す「しるし」として、代父母は受洗者に白衣を着せ、フィリップ神父様が「あなたがたは、新しい人となり、キリストを着るものとなりました」と宣言します。

 

 

代父母は、フィリップ神父様から、復活ろうそくからを点けた蝋燭を渡されます。

 

そして、フィリップ神父様は「光の子として歩みなさい(エフェソの信徒への手紙5章8節)」と、仰れ、代父母から、受洗者へ蝋燭が手渡されます。
は、キリストを表し、キリストに照らされたキリスト者の生き方をも表します。

 

 

蝋燭が受け渡されると、受洗者に「洗礼名」が与えれます。
聖人から頂いた洗礼名は、受洗者の方々の新たな誕生と使命を表すものです。
一人ひとり、洗礼名の書いたカードをフィリップ神父様から頂きます。

 

 

洗礼式の最後に、洗礼の約束の更新が行われます。
受洗者から復活ろうそくが会衆のろうそくにも灯されます。

 

 

そして、信徒全員で、自分が洗礼を受けた日のことを思い起こしつつ、信仰宣言を唱えます。

 

使徒信条を唱えられた後、祝福された水を会衆に、フィリップ神父様が散水します。これにより、洗礼の約束が、更新されます。

 

 

 

 

そして、共同祈願が唱えられます。
松戸教会の信者が心を合わせ、共同体として、1つのキリストの体として、心を一つに祈願します。

共同祈願では、信徒から受洗者の方への祈願が唱えられました。

 

そして、受洗者の代表が、洗礼を受けた喜びと今日のこの日の誓いを祈願します。

 

 

 

 

共同祈願が唱えられると、感謝の典礼が始まります。

奉納は、受洗者の方々によって行われました。

 

 

奉納の清めの際には、祭壇、そして、復活ろうそくに献香が行われます。

 

 

 

 

そして、聖変化……
パンとぶどう酒は聖別され、パンがキリストの御体、そして、葡萄酒がキリストの血へとなります。
キリスト者は、それを受け、キリストと同じものになっていくのです。

 

 

 

 

平和の挨拶の際には、フィリップ神父様が内陣から降りてこられて、受洗者の方々とひとりひとり、平和の挨拶を交わされました。

 

 

 

拝領前に、信仰を今一度告白します。
主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう
私たちキリスト者は、ご復活したキリストにもう1度、自分の十字架を背負い、従う事を誓います。

 

 

 

 

そして、聖体拝領は、今日、受洗された7人の方々が最初に受けます。(4名は小学生以下のため、初聖体は別の機会となりました)
受洗された7人の方々は、両形態の聖体拝領となりました。初めてのご聖体は、どのようなものだったでしょうか…

 

 

 

 

聖体拝領後、入門講座を指導して下さった愛徳カルメル会のシスターから受洗者の方々の紹介があり、1人ひとり、会衆に向かい、自己紹介と挨拶がされ、新たな兄弟姉妹に会衆から歓迎の拍手が贈られました。

 

そして、教会から記念品が贈られました。

 

 

 

 

そして、受洗者された方々の笑顔と新たな兄弟姉妹を迎えた信徒一同の喜びのうちに復活の聖なる徹夜祭のミサを終えました。

 

 

 

 

ミサ後、受洗者の方々、フィリップ神父様と記念撮影。

 

そして、代父母の方々も一緒に!

 

受洗者の皆様、ご受洗おめでとうございます。
そして、主の御復活おめでとうございます!




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皆さん、ご復活おめでとう! 主はよみがえられた、アレルヤ!

イエス・キリストの復活はキリストを信じるものにとっていちばん大切な出来事です。
聖霊の力を与えられた弟子たちを通して、福音を声高らかに宣べ伝える使命を持つた教会の礎に大きな意味を持っています。福音書に書かれたこの事実がなければキリスト教信仰はなかったでしょう。
イエス様が苦しみを受けて死に、3日の後に復活すると福音書で言われています。
イエス様が命を捧げられたことを思うと、どうしても、イエス様が受けた耐えがたい苦しみに私たちは注目してしまいがちです。
福音書に書かれたイエス様は、死ぬほどに強くむち打たれ、頭に突き刺す茨の冠をかぶせられ、自分の十字架を担がされました。手と足に釘を貫かれ、イエスさまは十字架につけられ高くかかげられました。これまでに考えられた最も残酷で非人道的な重い刑罰の形でした。私たちのために耐え忍んだイエス様の苦痛を思わずにはいられません。

しかし、このご復活を考えるとき、もう一つの見方も考えられます。
イエス様が十字架につけられる前のある時点で苦しまれたのです。イエス様のいちばん近い友に背を向けられ、裏切られた時に感じた苦痛です。
ご自分の心血を注いだ12人の弟子を、イエス様は自分で選びました。これらの人たちはこの世の家族と同じでした。イエス様を囲んで、イエス様から教えを学び、イエス様に仕えて宣教しました。彼らはイエス様の『腹心』でした。イエス様は弟子たちを愛していましたが、それでも、ずっと前から弟子たちのなかに公然と裏切る者がいるだろうとわかっていました。ユダが銀貨30枚でイエスを売るでしょう。それからペトロがイエスを知らないと言うでしょう。マルコ福音書によれば、このことをイエスさまはゲッセマネに発つ前に予告していますが、イエスさまの心を深く突き刺したに違いありません。イエスさまがこぶしで殴られ、唾を吐きかけられているとき《マルコ14:65》、ペトロはキリストから離れることにやっきになっていました《マルコ14:66-72》。そこにいた人たちは3度ペトロに近づいてイエスの仲間ではないかとたずねました。そして3度ペトロは『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と言って否定しました。《マルコ14:71、ESV》イエスさまが死刑の判決を受け、むち打たれたとき、近くにいた友たちはイエスさまに背を向けました。

イエス様はその時が来ることをわかって、そうなるべきことを理解していたとはいえ、なんと心が痛んだことでしょう!
おそらく私たちも同じようなことを感じたり、前に経験したと思つたりするかもしれません。ユダのような、自分に背を向ける友達や家族がいるかもしれません。今自分が耐えている苦しみの原因はそんな人たちかもしれません。わたしたちは苦痛と失望を通して闘っています。でも、頼れると思っていた人たちはどこかに行ってしまいました。教会の中でだれかに傷つけられたかもしません。肉体の痛みは身体が痛くなりますが、感情の痛みは霊魂をじかに切り裂きます。生きていく中で、誰かが自分を落ち込ませようとするでしょう。だれかが自分に背を向けて苦痛にさせるでしょう。
でも、ここに解決の鍵があります。イエスさまは見捨てられ、裏切られ、十字架につけられましたが、これらすべてに打ち勝ちました!
人間は不完全なものですが、キリストは復活してあなたがたを倒れさせはしないでしょう!

福音書は人間や王子たちに信仰を置かないようにと言っています。代わりに、このイースターでイエス・キリスト、復活された方、あざけり、苦痛、友の裏切りに耐えたかたに、自分たちの永遠を置きましょう。
この世の思わぬ危険や苦しみからは、ほど遠い希望を持つことができるように。
イエス・キリストは罪と死に打ち勝ったのです。このイースターで、父である神様が私たちを見捨てずに、私たちの心に、私たちの家庭に、復活されたイエス様を与えてくださったことを、皆で喜び祝いましょう。

もう一度、皆さん、ご復活おめでとう!!

 

 


 

 

Happy Easter

On The Third Day He Rose from the Dead

 

 

Happy Easter to all!

The Lord is Risen, Alleluia! The Resurrection of Jesus Christ is the most important truth in our Christian Proclamation. The effect of this is the foundation of the Church immediate Mission of Proclaiming the Gospel through the power of the Holy Spirit given to the Apostles. Without this Gospel Truth there would be no Christian Faith.

We are told in the gospel that Jesus predicted his predicament that he will suffer, die and after three days, he will come back to life. Often as we think about the sacrifice of Jesus, we tend to focus on the unbearable physical pain He endured. We have read in the gospel that He was flogged to death, and had a crown of thorns driven into His scalp. He was made to carry His own cross. Nails were punched through His hands and feet before He was hoisted into the air on the cross. The most inhumane and cruel forms of capital punishment ever devised. It’s hard not to focus on the pain He endured for us.

But, as we look at this Easter, let us consider another way of looking at it.
Jesus Was made to suffer in the moments before His crucifixion. Let us consider the emotional pain Jesus endured as his closest friends turned their backs and betrayed him. Jesus personally chose 12 disciples whom He poured himself into. These men were almost His earthly family, surrounding Him, learning from Him, and serving in His ministry. They were Jesus’ “inner circle.” Jesus loved them, and yet He knew ― long before that some of these men would publicly betray Him. Judas Would sold him for 30 pieces of silver. Then Peter would deny him ― which, according to Mark, Jesus foretold prior to leaving for Gethsemane ― must have stung deeply. As Jesus was being beaten and ridiculed (Mark 14:65), Peter was busy distancing himself from Christ (Mark 14:66-72). Three times people approached Peter to ask him if he was associated with Jesus, and three times Peter denied Him, ‘I do not know this man of whom you speak.’ ” (Mark 14:71, ESV). At a time when Jesus was being accused and beaten, His friends turned their backs on Him. What emotional pain this must have caused, even as Jesus knew it was coming and understood that it had to be!

Maybe we are feeling this, and it sounds familiar. Maybe we have friends or family members who have turned their backs on us, or perhaps ― like Judas ― they were instrumental in causing the suffering we are now enduring. Maybe we are struggling through pain and despair, and the people we thought we could depend on, have disappeared. Maybe we have been hurt by others in the church. Bodily pain hurts physically, but emotional pain slices directly to your soul.
In our lives sometimes, people will let us down. People will turn their backs on us and cause us pain. But here s the key ― Jesus was forsaken, betrayed and crucified, but He conquered all of that! People are imperfect, but Christ is risen and will not let you down!

The Gospel tells us not to put our faith into men or princes. Instead, in this Easter let us place our eternity in Jesus Christ, the Resurrected One, who endured scorn, pain, and betrayal by His friends, so that we may have a hope that extends far beyond the pitfalls and pains of this world. Jesus Christ has conquered sin and death. In this Easter, let us rejoice and be glad for God the Father, has not abandoned us but instead has given us this Jesus the resurrected One to be in our hearts and in our homes.

Again, Happy Easter to All!!!

 

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC




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本日、復活の主日(日中)のミサが8時から、そして、10時半からの2回のミサが行われました。

特に、10時半からは、国際ミサが行われ、御聖堂に入りきれないほどの信徒が訪れ、エントラスもいっぱいになっていました。
そして、この最も特別なミサの祭壇奉仕は、中高生と中高生担当のリーダーが務めました。

 

 

 

入堂後、まず、フィリップ神父様が祭壇と復活のろうそくに献香されました。

 

栄光の讃歌の時にカナパネラが鳴らされ、荘厳に復活の主日のミサが開祭されます。

 

 

 

第1朗読は、ローマ軍の百人隊長であったコルネリウスから招待を受けた聖ペトロがイエス・キリストについて証言する箇所が朗読されます。
復活した主・イエス・キリストに力づけられ、聖霊に導かれた初代教会の姿を思い起こします。

 

第2朗読は、英語で朗読されました。そして、「Thanks be to God」と会衆が答えました。
今日の箇所のなかでは、洗礼によってキリストとともに死に、キリストともに復活させられたキリスト者の新しい生き方と栄光が語られます。

 

 

そして、復活の続唱、そして、アレルヤ唱を歌い、福音を迎えます。

 

 

福音朗読は、日本語と英語で、行われました。

福音朗読では、イエス様が十字架で死んでから3日目の早朝の出来事が語られます。
マグダラの聖マリアに墓が空になっていることを聞いた聖ペトロと聖ヨハネの2人の使徒が、走って墓へ向かい、墓が空になり、遺体を包んでいた亜麻布が落ちているのを見つけます。
イエスは、必ず死者の中から復活されるということになっているという聖書の言葉を、2人はまだ理解しなかったのである

 

 

第1朗読 使徒言行録 10章34a、37~43節
第2朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 3章1~4節
福音朗読 ヨハネによる福音書 20章1節~9節

 

 

 

そして、フィリップ神父様のお説教が、日本語と英語で行われました。

説教要旨

復活の主日は、恵み溢れる信仰に感謝し、喜びを共にする日です。
キリストの復活は信仰の土台であり、人類の歴史の中で最も尊い大切な出来事です。
私達キリスト者にとってこの日に匹敵する日は他にないでしょう。
この日こそ、神様が造られた主イエス・キリストの日です。全ての希望と幸せは、復活の主日に起こったことから始まります。まさに、夢が実現した日です。
神様の力によって大きな石が動かされ、墓が開き、墓の中は空になっていることが分かりました。
苦しみ・絶望・悲しみが、取り除かれ、永遠の命に生きる希望と恵みに満ちた新しい将来が開かれました。
神様は私達に対し、ご自分の愛を完全にはっきりと示されたのです。
今日の福音書を読むと復活の日の朝の弟子たちの興奮が伝わってきます。
それは、彼らが復活の知らせ・福音を急いで伝えていることからも感じられます。まさに神の民になったことに気づき、彼らの心は喜びに満ち溢れていました。
復活の日の弟子たちの喜びは私たちの喜びにもなり、それは、今まで伝えられてきました。
私たちは、永遠の命を宿すとされましたので、神様のいらっしゃるところで、再び生きる喜びを味わいます。今日こそ、私たちは、復活の命に与ります。いまや、人生の旅路を1人で歩いているのではありません。
イエス様は、私たちの救い主として、心を清くしてくださる方として、私たちといつも一緒に歩いてくださります。
イエス様は、私たちを救うためにいつも側にいてくださいます。
イエス様は、私たちがいつどんな仕事をする時でも励まし、力を与えてくださいます。
復活祭は、キリストの死に対して生まれる命を喜び祝います。
復活されたキリストは苦しむ私たちの為に来られます。ご聖体とともにある愛の力は私たちの内にあり、私たちは勇気をもって、自分の命を捧げます。新しく洗礼を受けた兄弟姉妹も私達とともに神の愛である福音を伝えるという新しい使命を任せられています。
今日の復活祭は、私たちは自分自身の復活をみつめる新しい機会が与えられています。
私たちは、イエス・キリストの死に触れますか?
私たちは、イエス・キリストの死に深く根を下ろしていますか?
イエス様は、私たちの心の中に深く入ってこられていますか?
それとも私たちは利己的な闇の中にいますか?
イエス様は復活されたので、もしまだ闇の中にいるのならば利己的なこだわりを持ち、闇の中にいるのであれば、復活の霊的な意味はありません。
今日、私達は目を覚まし、復活した命であること、また、イエス様を通し、私たちが神の民であることを心に留めるべきです。
命の意味を探し求める人は、いつかイエス様が父である神様の下に行く道であること、そして、苦しむ人々にとって安らぎが与えられるところに行く道であることがわかるでしょう。
今日、この日にイエス様に「神様、イエス様、私はあなたの民です。今日この日に心を開き、私の心の中にあるあなたの命の賜物をより多くお与えください」と祈りましょう。
父と子と聖霊の御名によって アーメン。

 

 

 

共同祈願では、まず、日本語で昨夜の復活の聖なる徹夜祭で受洗された方々への祈りが唱えられました。

 

そして、受洗した受洗者の代表も、喜びと誓いを唱えました。

 

次に、韓国語、英語、タガログ語、ビサヤ語、ポルトガル語、ナイジェリア語、スリランカ語、広東語など様々な言葉で唱えられました。

 

 

 

 

そして、感謝の典礼に入ります。
奉納の歌は、MCCICコーラスが歌います。

MCCICから花束やフルーツなど国際色豊かな奉納がされます。

 

 

清めの際の献香が行われます。
フィリップ神父様が復活ろうそく、祭壇に献香されます。

 

 

そして、聖変化が行われます。

 

 

交わりの儀となり、主の祈りを唱える際には、隣の人と手をつなぎ、それぞれの母国語で唱えます。
(主の祈りを唱え終わるのに、それぞれの各言葉で終わりが違い、日本語が一番時間がかかりました…)

 

 

そして、聖体拝領。

 

普段教会に来れない方々もいらっしゃり、400人以上の方々がミサに与り、主のご復活を共に祝います。
そのために、聖体奉仕者が御聖堂に入れずにエントランスホールでミサに与った方々や、御聖堂の右側の列、左側の列に座っている方々にご聖体を授けます。

拝領の歌もMCCICコーラスが歌います。国際ミサならでの光景ですね。

 

 

聖体拝領後、イータスーエッグの祝福が行われます。
家に持ち帰り、改めて家族とご復活の喜びを分かち合えて頂けたらと思います。
(卵を運ぶのは、青年達です)

 

 

そして、昨夜の復活の聖なる徹夜祭で受洗された方々の紹介が、入門講座を指導して下さった愛徳カルメル修道会のシスターから改めて行われました。

 

 

お知らせの時間には、教会学校の子どもたちが、来週行われる2018年度の入学式・1学期始業式のお知らせをしてくれました。
小学生の皆さん、是非教会学校に来てくださいね!

 

 

そして、今までお世話になった愛徳カルメル修道会のシスター塚部が異動されるということで、ご挨拶がありました。
今まで本当にありがとうございました!

 

 

ミサの終わりに、洗礼を受けた時の事と思い起こし、私たちもそれぞれの生活の場でキリストの証人となるよう派遣の祝福を受け、ミサが閉祭されます。
(最後にアレルヤ!と主のご復活の喜びを表します)

 

松戸教会では、昨日行われた復活の聖なる徹夜祭のなかで受洗された11名の方々を、新たな家族として迎えることが出来ました。
本当にご受洗おめでとうございます。

そして、主のご復活おめでとうございます!!!




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本日、復活の主日(日中)のミサのなかで、聖体奉仕者の任命式が行われ、13人の聖体奉仕者の任期の更新が行われました。

聖体奉仕者は主任司祭の推薦により菊池大司教様より任命されるものです。

 

司牧評議会委員長が、菊池大司教様からの任命証を読み上げます。

 

そして、一人ひとり、フィリップ神父様から任命証が手渡されました。

 

 
任期は、来年の復活祭(2019年4月21日)までとなります。

 

 
病者、高齢者にとって病床でいただく聖体は、人々の病を担ってくださる主イエス・キリスト様に出会い、その癒しの力に触れ、主の苦しみと復活のいのちに結 ばれる大切な秘跡です。また、たとえミサに行けなくとも、父なる神様と主イエス、そして教会共同体としっかり結ばれていることの大切なしるしにもなりま す。

 

 

使徒言行録第6章1-6節

そのころ、弟子たちが増し加わるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人 が、ヘブル語を使うユダヤ人に対して不満を漏らしていた。というのは、彼らのやもめが、日ごとの分配でおろそかにされていたからである。そこで十二使徒は、大勢の弟子たちを呼んで言った。「わたしたちが神の言を差し置いて、食卓に仕えるのはふさわしくありません。そこで兄弟たちよ、あなたがたの間から、 良い証しのある、その霊と知恵に満ちた人を7人選びなさい。その人たちを、この仕事に任じましょう。ただしわたしたちは、祈りと言の務めをひたすら続ける ことにしましょう」その言は、すべての人を喜ばせた。そこで、彼らは信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、ピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、その人たちを使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた。




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主のご復活おめでとうございます!

毎年、復活の主日のごミサの後には、教会学校の子どもたち・卒業生たちがイースターエッグを配っています。
今年も教会学校の子どもたちが、元気いっぱい卵を配りました!

卵を持っていない人を探して卵を持っていき、声をかけている子たちもいました。
頑張りましたね。

たまごはすぐなくなってしまいましたね!

来週8日からは教会学校の新年度が始まります。
みんな元気に集まってくださいね!
初めて…という子どもたちも大歓迎です!
今年も楽しく勉強したり遊んだりしましょう。