中高生

 

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは3人。

今日は、今まで勉強したことをベースにもう1度、秘跡、教会、そして、キリスト者の生き方について、一緒に考えてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● 秘跡としての教会 ●

 

先週は、洗礼を受け新たに信者になった方のお祝いの会がありました。
そして、その前の週には、みんなの後輩たちが、初聖体に与りましたね。そして、初聖体に与った後ミサの後には、パーティを行いました。
なぜ、わたしたちは、これらのことを祝うのでしょうか?
儀式を済ませたから?祝うべきことだから?

「祝ってもらう」「祝ってあげる」と思っているならば、それは違います…
受洗された人、受堅された人、初聖体に与った子ども達だけに喜ばしい事があったのではありません。
私達一人ひとりに、同じくらいの喜びがあったから、共に祝うのです。
それは、本当にとても素晴らしいことが、私たち一人ひとりに起こったからです。

前に、教会の話をしましたね。教会とは、エクレジア・呼び集められた者です。キリスト者として、共に喜び、共に悲しむことができる人が加わったのです。

そして、私たち共同体は、1つのキリストの体として共に祈り、ともに神の国を目指すのでしたね。
つまり、新たに入信の秘跡(洗礼・聖体・堅信)を受けた方々が加わったということは、私たちがまた1つ大きな力を得て、神様のもとに歩めるということです。
だから、私たち、それぞれに大きな喜びがある出来事なんです。

 

さて、ところで、みんなは7つの秘跡、覚えていますよね。
みんなで1つずつ言ってみましょう。

そう、洗礼・聖体・堅信・叙階・結婚・ゆるしの秘跡・病者の塗油でしたね。
私たちは、秘跡を与ることによって、「私たちが見る事の出来ない神様の愛、存在を感じる事が出来る」ようになります。
つまり、秘跡は、神様との出会いそのものなのでしたね。
そして、信仰の弱い私たちは、「わたしはある」という名前の神様の存在を感じ、信仰を強めていきます。

また、イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ(ヨハネによる福音書14章9節)」と、仰っている通り、イエス様を通して、神様の存在、神様のことを感じることが出来ますよね。
私たちは聖書を通してそれを現わしている出来事を知っています。

イエス様においてのみ、一度だけ神の恩恵が人類に余すところなく完全に示されました。神のしるしとして、人間としてお生まれになったイエスは、同時に神御自身でもありますから、非常に「特別なしるし」だと言えます。カール・ラーナー師(20世紀を代表する神学者・イエズス会)は「実在的シンボル」と呼んでいます。

そう…キリストご自身が秘跡そのものなのです。この事を原秘跡と言います。
「原」という言葉には、他のすべての秘跡がイエス様において示された神の恩恵に由来しているという意味が込められています。

 

 

この2つのこと(私達共同体がキリストの体であること・秘跡のこと)を踏まえたうえで、今日の話をしましょう。

みんなは、十字のしるしの意味をおぼえていますか?

父と子と聖霊のみ名によって

神様・イエス様・そして、聖霊とのつながりの中にいる自分。その中に含まれる自分。
そして、使徒信条には、「聖徒の交わり」という言葉があります。
私達は、「神様・イエス様・聖霊(そして、その聖霊を注がれている信者)の交わり」によって、そして、そのなかで、生かされている…これが、十字のしるしに含まれる意味の一つです。

「聖徒」とは、使徒聖ペトロたちイエス様の時代の弟子たちから今の私たち、そして、将来のキリスト者のことを言います。
ミサで行われる聖変化の時、まさに私たちは、時空を超え、イエス様が最後に弟子たちと食事をした「最後の晩餐」の場にいます。そして、2000年間それは絶えることなく行われてきました。そして、これからもそれは続いていくでしょう。
過去、現在・未来の聖徒たちが心を合わせ、イエス様の体を頂き、繋がっていく。これこそが聖体の神秘なんですよね。それこそ、まさに「聖徒の交わり」です。
つまり、「十字架のしるし」は、時空を超えた全ての信徒との関わり、交わりをさしてもいます。

先日、ある勉強会の分かち合いのなかでで、信徒の方が、「祈りとは、自分が祈ると同時に祈られている、という事」と仰っていました。
私たちが誰かのために祈る時、誰かも私達のために祈っているということ。
みんなの亡くなった高祖父さんや高祖母さんはどうでしょう?みんなのことをきっとお祈りしていたと思います。
みんなはどうですか?将来の自分のこども、孫たちのために祈りたいとおもいませんか?
私たち、過去・現在・未来、全ての信者が、祈り、祈られている…祈りとは、私たちが、まさに「十字架の関わりの中にいる」事を認識できるものなのですよね。

 

その「聖徒の交わり」こそが、教会です。
過去・現在・未来において、全ての神様から呼び集められた者達のことを言うのです。

ところで、教会の聖堂には、必ずご聖櫃があり、「ご聖体」があります
イエス様がそこにおられるのです。
今は、様々な事情でなかなか難しいのですが、昔、建てられた聖堂には、本当に建物の真ん中にご聖櫃があります。私たち、集められた者達の真ん中にイエス様がいるということのしるしですね。
そして、聖パウロが「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場(エフェソの信徒への手紙1章23節)」という通り、イエス様を、頭とし、私達一人ひとりが、キリストの体という話はよくしていますよね。

ということは、教会は、イエス様の存在を感じる場でなければなりません。つまり、神様を感じれる場所でなければなりません。
「神様を感じれる?」という事は、秘跡とはいうことですよね?
教会は「救いの普遍的秘跡」(教会憲章48)なのです。
ということは、私たち全てのキリスト者に出会った時、出会った人が、神様やキリストを感じてもらえなければなりません。私たち「呼び集められた者」は1つの体となり、ともに神の国を目指します。教会を通して、イエス・キリストとの出会いにおいて完成するとカトリック教会は信じているのです。

キリスト者になることで、キリストの体の一部になることで、私たちはともに歩み、神の国を目指します。
復活徹夜祭の光の祭儀のなかでも、神父様が「始まり(α)から終わり(Ω)まで」といいますね。それは、「神様による創造からイエス様の再臨まで」と言う意味です。

神様は、創造の時から、私たちを幸せにするために、いつか共に神の国に到達できるように、願っていて、私たちがそれを心の底からそれを信じ、1つのキリストの体として、イエス様がもう1度来られる、終わりの時を目指し、歩んでいき、神様・イエス様によって「本当の自分、ありのままの自分が、救われる」と、私たちは信じています。
本当の自分、ありのままの自分とは、決して「わがままし放題してよい」というわけではありませんよね。

例えば、1つの点を求める時に、必ず2つの直線が必要になるように、私達も、本当の自分、ありのままの自分を知るためには、2つの直線が必要になります。
そう、まさに「十字のしるし」ですよね。
神様・イエス様・聖霊(聖徒)の交わっているところこそ、「本当の自分・ありのままの自分」なんですよね。
だから、神様だけ、イエス様だけと繋がっていればいいという人が時々いますが、それだけでは不十分です。確かに、神様は、「本当の自分・ありのままの自分」を、慈しみ、愛して下さっています。教会共同体という直線もあって初めて、本当の自分・ありのままの自分を見つけることが出来ます。お互いが交わり合い、分かち合い、愛し合ってこそ、初めて本当の自分・ありのままの自分を見つけることが出来るのです。その「本当の自分・ありのままの自分」こそ、「救われる自分」です。
だから、共同体が成長すれば、自ずと自分も成長することが出来ます。(線がy軸上でプラスになれば、点の位置も変わりますよね)
そうやって少しずつ神の国を目指し、我々は歩んでいくんですね。

だから、昔(第2バチカン公会議前)は、「教会の外には救いがない」と教会は考えていました。
もちろん、それは今でも堅持されています。しかし、私達、キリスト者がその考えにおいて、「貧しい人」を放置しておいてよいという事ではないという事を、第2バチカン公会議では、もう1度思い出します。

よくカトリック、プロテスタント各教派問わず、教会の入り口に書かれている有名なみ言葉があります。ちょうど、来週の福音の箇所ですね。マタイによる福音書11章28節から30節を開いてみましょう。

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

マタイによる福音書11章28~30節

 

はい、ありがとうございます。
では、もう1カ所、今度は、マタイによる福音書28章19節を開いてください。

 

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

マタイによる福音書28章19-20節

 

 

イエス様は、私達全てのキリスト者に「すべての民」に福音宣教を命じられています。
教会は、イエス様によって救われる場であると同時に、私達全ての「呼び集められた者達」が、教会に来た人たち、そして、お互いが、神様・イエス様を感じるものでなくてはいけません。
つまり、教会を通して、全ての人々、に神様・イエス様に出会う喜びを届ける使命を負っているのです。
教会は全人類のための救いの秘跡」だからです。

イエス様は、私たちの重荷を共に負ってくださいます。だからこそ、今度は、私たちが誰かの重荷を負うことが求められているのです。
たとえば、一人ひとりの力は「難しい数学の問題を自分は解けないかもしれなけど、人に優しくは出来る」、とか、「速く走る事は出来ないけど、歌は上手に歌える」って感じです。
でも、1人ではダメなことも、教会「呼び集められた者達」ならば、誰かがそれを担えます。誰かが、それをなせるからです。神様と違い、私たちの力は有限ですが、キリストの体となった時、それは可能になりますよね。

パパ様(教皇フランシスコ)は、教会は「野戦病院であれ」と仰られています。
キリスト者として、常に「貧しい人々」と共にあり、常に最前線の場にいることを、私達一人ひとりが忘れないようにしないといけないですね。
そして、教会は、イエス様のように、常にオープンで、誰もが、どんな人もが、来たくなるような場所でなくてはいけません。

最後に、マタイ福音書の5章13節を開いてみましょう。

 

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
マタイによる福音書 5章13-15節

 

 

有名な「地の塩世の光」の話です。
「地の塩世の光になりなさい!」じゃなくて、「私たちは、地の塩世の光」と言い切ってますよね。
教会は、私達「呼び集められた者達」は、「地の塩世の光」なんです。
でも、塩気がなくなれば…燭台の上に置かなければ、無意味ですよね。イエス様が仰る通り「捨てられて人々に踏みつけられるだけ」になります。

教会がもし「全ての人々にオープンじゃなくなり」「神様を感じれない場所」になるばら、無意味です。存在の意味はなくなります。だから、私達一人ひとりが、イエス様のように「オープンで」「貧しいものに寄り添い」「互いに愛し合わなければならない」ですね。だって、私達一人ひとりが、教会の一部なんですから。

 

では、もうすぐミサが始まります。
今日は、下原神父様の初ミサです。ミサに与って、たくさんの恵みを頂きましょう。

今日学んだことを思い出しならが、ゆっくりと、十字のしるし、そして、主の祈りを唱えて、終わりにしましょう。

 

 


 

 

来月の中高生の勉強会はお休みです。
その代わり、7月25日にみんなで集まって、BBQをしようと思います!錬成会もありますしね!

そして、9月は、第1週にまた勉強会を行います!
2学期もまた頑張りましょう!!