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今日は、堅信のための第7回目の勉強会です。
堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

今日は、中高生の勉強会です。(月1回、第1日曜日は受堅者も含めた中高生の勉強会と合同になります。)

さて…今日の内容は、「イエス・キリスト」についてです。
イエス様については、みんな様々な話で知っていると思いますが、もう1度イエス様について考えてみましょう。
今回も、主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● イエス・キリスト ●

さて…今日はイエス様について勉強します。
前回の神様と同じくらい難しい内容です。出来るだけわかりやすく説明するように頑張りますから、みんなも一生懸命ついてきてください。今日は、本当に大事な内容です。

まず、イエス様の話に入る前に知っておいてほしい話をします。
「キリスト」という意味をみんな知っていますか?
キリストいうのは、イエス様の苗字(ラストネーム)ではありません。
キリストというのは、ギリシャ語の「クリストス」が日本語になまって「キリスト」となりました。英語で「エァプーㇽゥ」が日本語になると「アップル」になる感じですね。
また、アラム語では、「メシア」と言います。「メシア」というと、少し聞き覚えがある言葉かもしれませんね。
ギリシャ語は、当時パレスチナ(イスラエル)を支配していたローマ帝国の人々の多くが話していた言葉です。そして、アラム語は、普段イスラエルの人たちが話す言葉です。当時のパレスチナ地方は、この2つの言葉に加えて、ヘブライ語、この言語は、当時の聖書、今の旧約聖書の言葉ですね。(今でいう神父様のような)祭司を務めていたサドカイ派やファリサイ派の人達、政治家など、社会を治める人々が使っていました。当時は3つの言葉が話されていていました。3つのグループがあったと考えても良いかもしれません。
豆知識ですが…(この当時の)ユダヤ人というのは、少し定義が難しいのですよね。
この当時のユダヤ人というのは、アブラハムの子孫(血統的つながり)で、なおかつ、ユダヤ教を信仰している人達を指していて、たとえば、血統的にはアブラハムの子孫であってもユダヤ教を信仰していない、つまり、神様(ヤーウェ)を信仰していない者はユダヤ人とは言いません。よく聖書の中でも出て来る異邦人というのは、実際にアブラハムの子孫ではない人々を言う場合もありますが、もっと言えば、アブラハムの子孫だけど、ユダヤ教を信仰していない人々、つまり、神様を信じていない人々を指したりします。このあたりの話は、  来週、聖霊降臨について勉強するので来週もしますね。
とにかく、クリストス(キリスト)もメシアも「油注がれた者」という意味です。
「油注がれた者」に関しては、前少し話したと思います。
神様から役割を与えられた者が、神様からその役割を果たすために力を与えて頂く「しるし」として、油を注がれます。その人たちの事を「油注がれた者」と言うのでしたよね。
旧約聖書では、王、祭司、預言者が油を受けていました。
例えば、聖書の「~~」書とか「~~」の預言とかの「~~」という方々、これは預言者ですね。預言と予言、間違えないようにね。神様の言葉を預かってみんなに伝えるのが預言者、未来を予知するのが予言者だからね…モーセとか、エリヤ、エリシャ、イザヤ…それから、洗礼者ヨハネもみんな預言者です。
それから、士師記に出てくる士師、ダビデやソロモンのような王ももちろん油注がれた者ですね。彼らは、イスラエルの民を導き、豊かな国を作り、神様の思いを達成するために油を注がれます。

クリストス(キリスト)、メシアの本来の役割は、「神の国の実現」にあります。
預言者は、神様の言葉をイスラエルの民に伝えることで、王たちは政治によって、祭司たちは民と神様を繋げ、神の国の実現を目指します。
しかし、紀元前590年ごろ(つまり、イエス様の生まれる590年前ごろ)、イスラエルという国が滅び、イスラエルの民は奴隷にされ、解放された後も様々な国の支配を受けていくなか、いつのまにかクリストス(キリスト)、メシアの役割、意味は「ダビデやソロモン王のようなイスラエルが栄えていた頃に戻す人」という意味に変わっていきます。
始めはちょっとした違いでしたが、イエス様が生まれる頃には、だいぶ変わった意味になっていました。その違いは、「実際に日本という豊かな国で育った」みんななら分かるかもしれません。今のこの日本という国が本当に神様が望むような状態になっているかということですよね。
この違いが、イエス様を将来苦しめることになります。覚えておいてくださいね。

さて、イエス様が「クリストス(キリスト)、メシア」である事は、旧約聖書を通して、描かれています。
例えば、イザヤ書11章1~10節を開いてみてください。

ありがとうございます。
みんな勉強会を通して、だいぶ聖書をひくのが早くなってきましたね。
最後の10節にこう書かれています。

 

その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

イザヤ書11章10節

 

エッサイというのは、ダビデのお父さんです。
つまり、ダビデの子孫からクリストス(キリスト)、メシアが出るとここで預言されています。
そして、4~9節のように私たちの今の世の中では考えられないような事が起こります。例えば、「狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち…(イザヤ書11章6節)」と書いてあります。狼も豹もライオン(若獅子)普通なら食べてしまうも子羊や子山羊や子牛と共に生活し、争いはありません。クリストス(キリスト)、メシアが現れると、そのような状態になるとイザヤは記しています。まさに「平和」な状態ですよね。
イエス様がダビデの子孫である事は、マタイ福音書の一番最初(マタイ福音書1章1~17節)に書かれています。ちょっと聖書を開いてみますか?
6節にエッサイ、ダビデという名前がありますね。
イエス様がクリストス(キリスト)、メシアであることを裏付けているわけです。

さて、イエス様が、クリストス(キリスト)、メシアであることは、聖書にある通りです。
私たちは、人と出会った時、その人がどのような人であるか、その人の才能、能力がどのくらい高いのか低いのか一瞬にして判断しないといけない時があります。もしかしたら、人生において、それはとても必要な能力なのではないかなと、私は思います。自分より相対的に高いか低いか、ここは自分の方が勝っているけどここは負けているとか、スポーツをしているとそういう判断を急に迫られることが多いかもしれませんね。それを見極めることで自分を成長させることが出来るし、人を尊敬できるようになります。
福音書で出て来る多くの人々も、イエス様にあった時、様々な判断を下します。様々な気持ちを持ちます。ある人はイエス様を「主」と呼び、ある人は「詐欺師」と呼びます。ある人は「ダビデの子」つまり、クリストス、メシアと呼び、ある人は「大工の子」と呼びます。
それでは、プリントを見てください。福音書のなかで「イエス様をどう呼んでいるか」「イエス様がどう呼ばれているか」をみんなで聖書をひいて、確かめてみましょう。

 

ルカ福音書1章35節

生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる

大天使聖ガブリエルがマリア様に受胎告知をするシーンですね。
大天使聖ガブリエルは、イエス様の事を「聖なる者、神の子」と呼ばれるとマリア様に告げています。
マリア様は、それをどう思われたのでしょうか?

 

マルコ福音書   1章11節

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者

イエス様が洗礼者ヨハネに洗礼を授けられた時、神様がイエスさまに聖霊を送り、こう言われます。
神様はイエス様を「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼ばれました。

 

ルカ福音書     4章22節

この人はヨセフの子ではないか。

故郷ナザレの会堂でイエス様が安息日の礼拝(キリスト教のミサのようなもの)で朗読・説教を行った時に、故郷の人たちはイエス様を「ヨセフの子」、つまり、「大工の子」と言います。
当時は、学校に行ける人はある特定の人達だけ、お金持ちや祭司の一族だけでした。識字率(文字の読み書きが出来る人たちの割合)も非常に低かった時代です。(今でも日本のようにみんな文字の読み書きが出来る国というのは珍しいです)イエス様が大工の子と知っている故郷の人たちは、文字の読み書き、ましてや、聖書の解説など出来るはずもないと考えてしまいます。
大工の子であるという部分で、事の本質、イエス様が何者であるかということを考えず、イエス様を受け入れません。
イエス様は、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と仰います。
みんなも、兄弟や教会学校でよく知っているメンバーが叙階して、司祭となり、ミサを司式しても、お説教とかちゃんと聞ける?「~~の兄弟じゃん!」とか言っちゃわない?
事の本質、人の本質を見極める事の大事さ、「その人が何者なのか」と分かることの大事さがここでもわかると思います。
ここで、もしイエス様を「ダビデの子」と認識出来れば、その人はどれだけ救われたのだろう?

 

マルコ福音書10章47-48節

ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください

エリコという町にいたバルティマイ(バル=子、ティマイの子という意味の名前)は目が見えませんでした。
彼は、イエス様の事を「ダビデの子=クリストス(キリスト)、メシア」と呼びます。
もしかしたら、目が見えないからこそ、物事の本質が見えたのかもしれません。
当時、体に障害があったり、皮膚病になった人々は、「神様から罰を受けている人」と考えられていました。だから、社会からはじかれて、人々と交流する事が出来ませんでした。(生活がほぼできない状態だったわけです。)そういうなか、イエス様が自分が住む町に来ると聞き、いても立ってもいられなかったのでしょう。
前も話しましたが、「主(ダビデの子)よ、憐れんでください」というのはシンプルですが、とても大事なお祈りです。
神様を心の底から信じているからこそ、「憐れんでください」という言葉を発せられたのですね。

 

マタイ福音書16章13-16節

弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

イエス様に「人々は、人の子(ご自分)のことを何者だと言っているか」と尋ねられた(12使徒も含めたくさんの数の)弟子たちは、「エリヤ」や「エレミヤ」という最も尊敬されていた大預言者の名を言います。預言者は「神様の言葉を聞き(預かり)みんなに伝える人」です。イエス様は、「神の子」なわけですから、だいぶ意味が違いますよね。「手紙を出した人」と「手紙を配達してくれた人」では、まったく意味が違います。みんなも手紙が届いた時に配達してくれた人から手紙を貰ったとは思わないでしょ?もちろん、配達してくれる人がいて初めて手紙は届きますから、とても大事な仕事です。ましてや神様からのメッセージを届けてくれるわけですから、特別な人しか出来ません。でも、意味は全く違います。
聖ペトロはここで初めてイエス様を「メシア、生ける神の子」と呼びます。
このシーンは、ペトロの信仰告白と呼ばれています。もちろん、聖ペトロも心の奥底からイエス様をメシア、生ける神の子と信じてはいなかったでしょう。その意味もまだ分かっていません。先程言ったように「クリストス(キリスト)・メシア」という意味が「神の国を実現する人」から「イスラエルをダビデの時代のように栄えられる人」と認識が変わっている時代です。聖ペトロも「ローマ帝国から解放してイスラエルを栄えさせてくれる人」と思っていた部分もあったでしょう。だから、この後、聖ペトロは、イエス様に「サタン」と呼ばれてしまいますし、ご受難の際にも三度「知らない」と言ってしまいます。
イエス様を本当に心の奥底から「メシア、生ける神の子」と分かるのは、聖霊降臨の時まで待たなければなりません。それでも、聖ペトロは、「メシア、生ける神の子」とイエス様を始めて呼んだのです。これは凄い事だと思います。

 

ヨハネ福音書 4章25-30、41-42節

「わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

サマリアの女と言われるシーンですね。
サマリアというのは、当時のイスラエルで特別な地域でした。彼らは、「混血」であったために「ユダヤ人」ではないとされていたのです。(一番最初に話した話を思い出してね…)だから、ユダヤ人は、サマリアの人々と交流する事を嫌っていましたし、してはならない事とされていました。
善いサマリア人の話でもそこがポイントになります。つまり、当時のイスラエルの人々から、サマリアの人々は、神様の恵みを受けられない人々と考えられていたといっても良いかもしれません。
そして、更にこの女性は、「わたしには夫はいません」と言っています。前に話をしたと思いますが、当時のイスラエル社会では、女性は結婚しているか、子どもがいないと、社会の外に出されます。それは、実質的に生活できないという事になります。
イエス様は、「サマリア」の「女性」と話をされ、そのなかで初めて自分が「クリストス・メシア」であると仰います。
イエス様は、ご自分から「クリストス・メシア」である事はほとんど言いません。女性もイエス様を「メシア」かもと言います。社会の外にいる「サマリア」の「女」にそれを言われたという事がどれ程の慈しみであったか、考えてみましょう。女性にとっても、数千年待ち焦がれていた時が、今、まさに起ころうとしているということ、どれほどの救いになったのしょうか。
メシアと思った喜び、その方と出会えた、その喜びを女性は、町の人々、自分を疎外していた人々に伝えます。サマリアの女性がどれくらい嬉しかったかわかりますよね。喜びは、人々に、周りの人々に伝えたくなります。そうじゃないですか?美味しい食べ物や楽しかった出来事はみんなに伝えたいですよね。サマリアの人々も女性のその喜びに触れ、普通ならば「疎外していた人」の話は聞かないのでしょうが、イエス様に会いに来ます。それくらい女性から「喜び」が溢れていたのでしょう。そして、サマリアの人々もイエス様に会い、「この方が本当に世の救い主である」と信じます。
サマリアの人々も、イスラエル社会から疎外されていたので、女性と同じように喜びに満ち溢れたのではないでしょうか。そして、その出会いを起こしてくれた女性に感謝したのではないかと思います。

 

ヨハネ福音書18章33-37節

それでは、やはり王なのか

ご受難の際に、ポンティオ・ピラトから尋問を受けたシーンですね。先日の聖金曜日、主の受難の祭儀でも朗読されました。
ピラトは、「王」の意味を分かっていません。
先程話した「クリストス・メシア」の意味を、イエス様の弟子たちも含め、全員が誤解しています。ピラトの質問にイエス様は、まず、「わたしの国はこの世には属していない」とお答えになりました。
そして、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と仰います。
ピラトやイスラエルの民衆たち、そして、弟子たちが、イエス様を本当はどう思っていたのか、どう感じていたのか、何者だと思っていたのか、わかるシーンですね。

 

ルカ福音書23章47節

本当に、この人は正しい人だった

イエス様が十字架上で亡くなられた時、ローマ帝国の百人隊長がこう言います。
受難、そして、死を見たローマ帝国の百人隊長は、こう言います。その時、彼は、イエス様が、何者であったか、分かったのでしょう。

 

ちゃんと書き出せましたか?
そして、それぞれの福音書の場面でイエス様についてどう思ったか、わかりましたか?
他にも、いくつか、このような箇所があります。みんなも探してみて、イエス様の事を人々はどのように言っているのか、調べてみてください。

 

ところで、イエス様は、どのような事をなさったのでしょうか。そして、どのような方だったのでしょうか?
先程のナザレの会堂でのお説教の際にイエス様はこうおっしゃられています。

 

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。

ルカによる福音書4章18-19節

 

ここはすごく大事なところですね。
まず、冒頭の「主の霊」、これはまさに聖霊です。なぜ聖霊がイエス様の上におられるかと言えば、貧しい人に福音を告げ知らせるために油を注がれた、つまり、神様から貧しい人に「神の国」が始まったことを告げ知らせる役割を与えられたからだと仰っています。そして、その神の国とは、「捕らわれている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人に自由を与えるもの」なのだということですね。初めに読んでもらったイザヤ書のような世界がイエス様が来られることによって起こると宣言されています。
この後、イエス様は、確かに貧しい人と常に共にあり、捕らわれている人を解放し…盲人の目を見えるようにし、圧迫されている人々を自由にします。福音書にはそれらの事がたくさん書かれていますよね。
「捕らわれている」とは、お金とか、名誉とか、もっと言えば、自分自身などに縛られてしまい、本当の自由を見失ってしまっている状態です。
例えば、(ユダヤ人でありながら、ローマ帝国のために税金を集める)徴税人レヴィの話があります。徴税人は当時イスラエルの軽蔑の対象でしたが、同時にたくさんのお金を得ることが出来ました。レヴィはお金持ちになる事で、自身に集まる軽蔑を補おうとしたのでしょうか?お金を貯めて、贅沢な暮らしをすることが目的だったのでしょうが、いつのまにか、お金を貯めることが目的になってしまったのかもしれません。そういう事ってありますよね。しかし、イエス様と出会う事により、富への執着から解き放たれました。そして、彼は、マタイという名で呼ばれるようになり、12使徒となり、福音書を記しました。
みんなもいつのまにか「何か」に捕らわれえてしまい、事の本質を見失ってしまう事ってあると思う。そういう時、イエス様との出会いがそれを解放してくれる、事の本質に気づかさせてくれるとしたら、それは、とても素晴らしい事だと思います。狭くなっていた視野が一気に広がると、自分が大事だと思っていたことが実は大したことがなかった、逆に、大したことがないと思っていたことがとても大事なものだったと気付くいうことが、あります。そういう時、とても晴れやかな気持ちになりますよね。経験ある?
イエス様との出会いが、それを味合わせてくれる、受難・死・復活というモノを信じた時、受けいれた時、そういう気づきがあります。イエス様は、そうおっしゃっています。
最後の箇所に「主の恵みの年」とありますが、これは、今でいう「聖年」のことです。そう、偶然ですが…今年は「聖年」です。みんなは、主の恵みの年に堅信を受けるのですね。

マタイ福音書5章には、キリスト者としてどうあるべきかというイエス様の教えが記されています。そのなかで、神の国とはどういうものかという箇所があります。

 

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 

マタイによる福音書5章3-11節

 

有名な山上の垂訓の箇所です。
幸いであると、何度もイエス様は仰っていますね。こうすれば神の国に入れると仰っているわけですが、逆に言えば、神の国とはこういうものと仰っているのがわかりますか?
私には、下に行くにつれて難易度が上がっているように思えます。
誤解がないように言っておくと、心の貧しい人とは、自分の無力さを知っている人、謙遜の心を持っている人ですね。後は大体わかると思います。
他にも、日本はキリスト者が少ないですから、キリスト者として生きていて、誤解されて、いじめにあったり、罵られる事もあるかもしれません。だけど、最後の箇所にはそういう人は「幸い」とイエス様は言っていますよね。「キリスト者」であることに胸を張って生きてください。このマタイ5章の箇所は、他にも「主の祈り」についてや「地の塩世の光」とか、キリスト者として大事なお話がたくさんありますから、いつかしっかり勉強しましょうね。
大事な事は、もしイエス様が言うように、そして、イエス様のように生きた時、私たちは「幸い」であるということです。ここには書いていませんが、この続きには、「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と書かれています。そこには、喜びがあるはずです。

 

その喜びの礎になるのが……イエス様の受難・死・復活です。
堅信の勉強会を通して、何度も言っていますが、このイエス様の受難・死・復活、この全てを信じる者、受け入れている者でなければ、堅信に与る事は止めておいたほうがいいです。
これは、ある意味でイエス様の「アイディンティティ」です。イエス様が「神の子」「クリストス・メシア」として、イエス様によって私たちが神様に赦され、神様と私たちを繋ぎ、神様の愛を受けることが出来るという事をもう1度考えてみてください。
そのために、イエス様の「十字架上での7つの言葉」を覚えてもらえたらと思います。この7つの言葉は、イエス様が神の子である事、そして、私たちの救いのために犠牲になられていることがよくわかる言葉です。

プリントに聖書の該当箇所が書いてありますので、聖書を引いて、書き出してみましょう。

 

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか

午後3時頃…イエス様が亡くなる前に大声で仰いました。詩篇22編と関連のある言葉を言う事で、聖書の言葉が実現されていることを表している。

 

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

私たちが何もしていない、神の子を十字架につけたという事を言っているだけではなく、私たちの原罪、私たちが神様から離れていくことを、赦してくださるように、自らを犠牲にして神様に頼んでくださっている。

 

はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

一緒に十字架につけられた(熱心党 ―イスラエルをローマ帝国から解放しようと運動している人達- のメンバーと言われている)罪人が、イエスさまに「神の国で、私の事を思い出して下さい」と言った事に対する返事。罪びとであろうと回心し、イエス様を「神の子」「クリストス・メシア」と信じた者には、天の国は開かれる。何故ならそれを知ったものは生き方が変わるから。

 

父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。

全てを神様に委ねる。神様を信頼している。イエス様は、死に至るまで父なる神様を信頼し続けていました。

 

母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」

使徒ヨハネにマリア様を託します。マリア様は、この言葉によって「やもめ」にならずにすみました。(女性は、夫か子供がいなくなれば社会から弾かれる)
また、この言葉により、マリア様は、イエス様の母と言うだけではなく、私たち「キリスト者の母」となりました。

 

渇く

これも詩編22編の言葉、これによって、聖書の言葉が実現されていく。

 

成し遂げられた

聖書の言葉を全て実現され、私たちはイエス様によって、贖罪され、神様との関係が修復されました。

 

どうですか?

使徒信条とおなじくらい大事な言葉です。場面を思い描きながらこの7つの言葉を思い出せるようになりましょう。
これらを見ていたローマの百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と言いました。みんなは「見ないで信じる者」になってください。

では、それらを踏まえて、ヨハネによる福音書21章 15-18節を読んでみてください。

ありがとうございます。

この箇所は、ついこの間、復活節第3主日で朗読された箇所ですね。復活されたイエス様が聖ペトロに「私を愛しているか」と3度問うシーンです。
3度(最もつらい状況にある)イエス様を「知らない」と言った聖ペトロにイエス様が3度「愛している」と言わせる事で赦してくださっているのです。そして、私たちの教会のリーダーとしての使命をイエス様から与えられます。
ただ、この期に及んでも、聖ペトロは「愛」の意味を取り違えています。イエス様は「アガペ(神の愛)」で尋ねたにもかかわらず、「フィリア(友愛)」の意味で答えてしまっています。(日本語の聖書だとわかりづらいですが外国語の聖書だと、はっきりと言葉の違いがあります。アガペとフィリアは…高校で哲学の時間に習うかなぁ…)
イエス様は、結局、最後、3度目の質問で「フィリア」でお尋ねになるのですが…こういう事も全てわかるようになるのは、さっきもお話したように聖霊降臨の時まで待たないといけません。
みんなはどうですか?
みんながイエス様の事をどういう存在としているのかは、これからキリスト者として生きる上でとても大事な事です。みんなにとって、イエス様は「神の子」ですか?それとも、ただの「大工の子」ですか?「私の救い主」と言えますか?そして、イエス様を愛していますか?神様が私たちを愛して下さっているように、無限で、なおかつ、無償の愛をイエスさまに誓えますか?
それによってみんなの行動は変わるはずです。さっきも言った通り、素晴らしい事、嬉しい事は人々に伝えたくなると思います。

良い事、素晴らしい事を1つだけみんなに伝えます。これは、私が一番好きなお祈りです。

 

こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 

マルコによる福音書 14章 36節

 

これは、イエス様が最後の晩餐を終え、受難前、3人の弟子(聖ペトロ、聖ヤコブ、聖ヨハネ)をつれ、お祈りしている時の言葉です。
イエス様もこれから起こることが分かっているので、とてもつらく、とても悲しいのです。出来る事なら逃げだしてしまいたい……それを隠すことなく神様にお祈りします。「この杯をわたしからとりのけてください」と…
でも、イエス様はこう付け加えます。「わたしが願う事ではなく、御心に叶う事が行われますように
すごくつらい、でも、それが本当は「善い事」なのかもしれない。神の意思にそった事なのかもしれない。それこそが自分の使命なのかもしれない。本当の喜びを得られることなのかもしれない。本当の事は私たちにはわかりません。未来も分からないし、人の本当の気持ちもわかりませんから。
だから、神様を信頼して、お祈りします。
みんなも辛いことがあった時、悲しい事があった時、このお祈りを思い出してください。キリスト者として、どうあるべきかは、イエス様が身をもって教えてくださっています。
1時間だけでは、イエス様のお話をしっかりするのは難しいですが、最後に、もう1度、イエス様の問いを思い出し下さい。

わたしを愛しているか。

みんなはどう答えますか?

 

では、イエス様が教えてくださったお祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

 

堅信を希望する中高生の皆さんは、しっかり今回の内容を確認して、次回(5月8日)の勉強会に来てくださいね。

堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

いよいよあと3週間、部活や学校の用事も大変だと思いますが、しっかり勉強して、堅信の準備を整えましょう。