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本日、「主の受難」の祭儀が行われました。
「主の受難」の祭儀では、パンとぶどう酒は聖別されません。古来の伝統に従い、この日はミサがささげられない日と定められているからです。祭儀は「言葉の典礼」「十字架の崇敬」「交わりの儀」の3つの部分で構成されています。

聖金曜日に行われるこの祭儀のなかで、救いの歴史におけるキリストの受難と死の意義を思い起こし、復活への希望のうちに十字架の勝利を賛美します。

 

 

祭壇は、昨晩の「主の晩餐の夕べのミサ」の時に裸にしたまま、十字架も蝋燭も置かず、祭壇にも布をかけません。
キリストが死んだことの「かたどり」です。

 

 

祭儀は、入際の歌は歌わず沈黙のうちに始まります。
フィリップ神父様は、祭壇につくと、しばらく跪かれ、沈黙のうちに祈られます。

 

祈りの後、祈願が唱えられます。

 

 

 

第1朗読と第2朗読の箇所も「主のご受難・死」についての箇所が朗読されます。

 

第1朗読は、「第2イザヤ」と呼ばれる新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられていた捕囚期(紀元前6世紀)の預言のなかで主の僕について歌われる第4の箇所が朗読されます。
苦しみを通して多くの人の救いをもたらす僕の姿は、イエス様の姿を思い起こさせます。

 

 

第2朗読では、キリストがただ1度ご自身を捧げたことによって、救いが成就したと語るヘブライ書が、主・イエスのご受難について語る箇所が朗読されます。

真の「祭司」であるイエス様は、神との完全なつながり、人々との完全なつながりによって、神と人とを結び合わせることが出来ます。私たちが、信仰を保ち、恵み深い神様に近づくことを求められています。

 

詠唱は、受難の主日にも歌われた受難と復活を讃えるものが歌われます。

 

 

そして、受難朗読

最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに遺言のような説教をし、弟子たちと後に続く人々のために祈られた直後の場面から朗読されます。
(ご受難・死の箇所を、受難の主日の朗読とは違い、すべてを朗読します)

ゲツセマネの園での出来事、イエス様が予告していた聖ペトロの3度の否認、ポンティオ・ピラトとの問答、ゴルゴタの丘での出来事…そして、死、そして、その後のことを、神父様(イエス様)と朗読者2人(第1朗読者;語り手、第2朗読者:その他の登場人物)と会衆全員(群衆)で行います。

 

イエス様が亡くなられた箇所では、頭を下げ、沈黙のうちに祈ります。

 

 

 

第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節
受難の朗読 ヨハネによる主イエス・キリストの受難 18章1節~19章42節

 

 

 

そして、フィリップ神父様のお説教が行われました。

 

説教要旨

今日は、イエス様のご受難を思い出すため、その神秘を祝うために集まりました。
暴力に反対した愛、暴力を忍耐した愛、十字架に達した愛を聖なるものにするために集まりました。
その愛に感謝するため、そして、勇敢な愛のうえで暴力の被害者になる人と団結するために集まりました。
イエス様の十字架は解体されていませんし、その苦しみは終わっていません。十字架は、私たちの人生の中心に立ち、福音の価値によって生きる人々は、世界でどんな扱いをされるのか、ということを私たちに思い出させます。
イエス様は、ご自身から十字架を選んだわけではなく、イスラエルの祭司・長老・ファリサイ派の人々、普通の民、そして、世界が彼に反抗するため、十字架という手段を選びました。
十字架は、父である神様の発想ではなく、イエス様と争っていた世界が考えた最終的な解決でした。
父である神様は、自分のひとり子の破壊を目論んだサディストではありません。
父である神様は、危ない事にも関わらず、脆弱なひとり子を人間の手にゆだねました。全ての親がその危険を分かつ必要があります。愛は、十字架を必要としていませんが、イエス様の人生においては、愛は十字架に及びました。愛は、それによって現れる苦しみから逃げません。
イエス様は、公にエルサレムに入り、彼に対抗する圧迫的な権力に立ち向かいました。この行動によって、イエス様が苦しみを公に成し、目立つものとしました。
イエス様は、人々の現実的な苦しみを無視することを選びませんでした。人々の苦しみや争いに触れ、神様の愛を見せ、ご自身が人々と同じ痛みやすい体に表れた「神様の愛」であることを示したかったのです。
イエス様は、神様の深い愛、そのものでした。イエス様は、神様の危険な行動でした。
2004年に上映された「パッション」は、イエス様がその時代の支配者から受けた暴力と憎しみを描いています。
しかし、なぜ私たちはイエス様のご受難を心にとどめておくべきなのでしょうか?なぜこのような苦しみの記憶を活かすべきですか?
それは、キリスト者として、イエス様のご受難を記憶することに関わるためです。
最後の晩餐で、イエス様は「これは、あなた方のためのわたしのからである。私の記念としてこのように行いなさい」と仰いました。
ある共同体が苦しみを覚えようとすると、その記憶は「訴え」となります。「苦しみの記憶」が過去の繰り返しではなく、解決の未来を要求します。イエス様のご受難を記憶することは、このようなことが再び起こらないようにするための訴えです。そうすれば「無罪の人が冤罪」で苦しむことはないはずです。
そして、この記憶は、私たちの間にある十字架を意識させます。十字架は、イエス様のご受難は、人々の苦しみに注目するように私たちに伝えます。
十字架は、その注目を求めています。
今晩は、イエス様の苦しみ、誇り、人々の憎しみ、暴力、そして、権力者たちの被害者の苦しみと悲しみに注目しましょう。
この聖金曜日に、神様は、御子イエス・キリストの十字架によって私達1人ひとりに限りない愛を示したことに感謝しながら、私たちも死に至るまでイエス・キリストに従う事が出来るように祈りましょう。
父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

 

 

説教の後、盛式共同祈願が行われます。
1年の典礼のなかで、もっとも豊かな共同祈願が唱えられました。
イエス様がすべての人のために命を捧げてくださったことを思いながら、すべての人のために「教会」「教皇様」「教会に仕える全ての人」「洗礼志願者」「キリスト者の一致」「キリストを信じない人々」「神を信じない人々」「国を治める人々」「困難に直面する人々」のためにそれぞれ祈ります。

普段の共同祈願とは違い、一つ一つの意向に従って李助祭が先唱し、しばらく、沈黙のうちに祈ります。そして、神父様が祈願を唱え、会衆は「アーメン」と続きます。

 

 

 

「盛式共同祈願」が終わると、李助祭はいったん退堂され、「十字架の礼拝」が始まります。

 

 

そして、再度、紫の布に覆われた十字架を捧げて入堂してきます。
途中、三度、「見よ、キリストの十字架、世の救い」とフィリップ神父様が歌われ、会衆は、「ともにあがめたたえよう」と答え、十字架のおおわれた布を徐々にはずしていきます。

 

 

顕示が終わると、李助祭が、十字架が祭壇の前を置き、司祭・奉仕者・会衆の順に行列して十字架の前に進み、深い礼をして崇敬を表します。

 

その間、聖歌奉仕グループの方々を中心に「十字架賛歌 クルーチェム・トゥアム」「とがめの交唱(インプロペリウム)」「ハギオス・ホ・テオス」「十字架讃歌 クルクス・フィデーリス」を歌います。

 

 

 

 

十字架の礼拝を終えると、「交わりの儀」が始まります。
祭壇が用意され、李助祭は再度一度退堂します。

 

そして、ご聖体が入堂し、祭壇に置かれます。

 

 

 

 

ミサとは違い、司祭が主の祈りに招くと、主の祈りの副文と応唱を唱えた後、すぐに拝領前の信仰告白を唱え、拝領が始まります。

 

 

拝領祈願が唱えられた後、フィリップ神父様は、派遣の祝福と閉祭の挨拶の代わりに、会衆のために祈願を唱えられました。

 

 

そして、閉祭の歌もなく、沈黙のうちに退堂します。
ご聖体は、今一度、聖体安置室に移され、祭壇も裸の状態にされます。

 

 

 

 

そして……信者は、ご復活をお待ちし、静かに祈りの夜を過ごします。

 

 

いよいよ明日は「復活の聖なる徹夜祭」です。
キリスト教の最大の祭りは、クリスマスではなく、復活祭です。
そして、明日の「復活の聖なる徹夜祭(Easter Vigil」は、一年の典礼のうち、最も盛大で、中心的な祭儀です。教会は十字架上で死に、葬られたキリストが復活するのを祝うのです。




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今日の午後5時半から、主の受難の祭儀で祭壇奉仕を行うメンバーが、フィリップ神父様、李助祭、そして、典礼委員会の方々と打ち合わせを行いました。

 

 

フィリップ神父様から直接細かく指示を頂き、祭儀が滞りなく進められるよう、様々な確認を行いました。
普段行われるミサとは違いますので、(聖金曜日にミサは行われません)より綿密な打ち合わせが必要になります。

 

特に十字架の顕示、十字架への礼拝に関しては、丁寧に行われます。

 

ヨゼフ会のメンバーは、このように教会の行事に積極的に参加しています。
新しく受洗・転籍された方々も、是非ご入会ください。




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イエス・キリストが亡くなられた午後3時から松戸教会では、十字架の道行を行いました。
多くの方々が集まり、主のご受難・死を黙想し、ご受難の先にある十字架の勝利に思いをはせました。

 

「十字架の道行」の祈りは、

イエスの受難の各場面を黙想し、回心しキリストの愛にならうための祈りです。各留にとどまり、しばらく黙想し、順次回っていきます。聖堂内にイエス・キリストの裁判から十字架の死に至るご受難の歩みを描いたレリーフが並べて掛けてあります。14場面あり、これは ” 留(りゅう)”と呼ばれています。

 

 

フィリップ神父様のお導きで「初めの祈り」が行われました。

 

フィリップ神父様が祈りへと導かれ、信徒が1留ずつ先唱を行いました。
そして、あらゆる困難、試練があろうともただただ父である神様の御心に適う行いをするイエス様に倣う者になろうと、祈りに心を合わせます。

 

イエス様が亡くなられる第12留…

 

 

最後に15留目となる十字架に向かい十字架讃歌を唱え、主の復活を黙想し、主の祈りを唱えました。

 

 

4世紀末のエルサレムでは、木曜日の夜から続く徹夜の祈りの後、人々は夜が明けると町に戻り、ゴルゴダの丘に建てられた教会堂でキリストの受難の出来事のなかから、ピラトの尋問の箇所の朗読を聞きました。また、昼頃まで、そこには十字架の遺物が展示され、人々はそれに礼拝しました。そして、正午から午後3時までは、旧約聖書と新約聖書からキリストの受難と死を思い起こすのにふさわしい箇所が朗読され、午後3時からは、ヨハネ福音書からキリストの死の箇所が朗読されました。

松戸教会では、こうして、十字架の道行を通して、主の受難・死を思い起こし、午後7時から始まる主の受難の祭儀に与る準備をします。