本日、10時から、そして、13時半からの2回、共同回心式が行われ、多くの信徒が参加しました。
まず、寺西英夫神父様(教区本部協力司祭)から、講話を頂きました。
寺西神父様 13時半からの講話要旨
明日の日曜日(四旬節第4主日)は、「ヨハネによる福音書」から3章14節から21節が朗読されます。
その中で使徒ヨハネは、イエスさまに次のような発言が弟子の1人ニコデモへあったと記しています。これは、使徒ヨハネを中心とする教会への使徒ヨハネからのメッセージでもあります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
ヨハネによる福音書3章16節
出来れば、死ぬまで覚えておいてほしい御言葉です。
イエスはどういう御方なのか、神様とはどういう御方なのかという事を1行でまとめたすごい言葉です。
神様は、ご自分と一体である「一人息子」を世の中に、世界に与えられる程、そして、その一人息子が十字架に磔にされ殺されてしまうこともご存知のうえで私たちに与えられた、そこまで、神様は、この世界を愛して下さった。愛しています。
この(ヨハネ)福音書が書かれたであろう時期から70年くらい前、弟子たちは、「あの人とは関係ない」と自分たちもイエス様の巻き添えになり、殺されることを恐れ、逃げてしまった。しかし、この時期の教会は、このような深い信仰に到達していました。
この御言葉は2000年後の現在にも通用する言葉です。
今も世界中でひどい事が行われています。争い事が生まれ、復讐がされ、関係ない人々が巻き添えになり、さらに新たな争いが生まれています。しかし、そのような醜い世界も大切に思い、その世界と共に苦しみ、そのような罪深い世界を救おうとしてくださる、それ程、神は、世を愛して下さる。そのような神が表現されています。
そして、聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」の福音朗読の冒頭…
「過越し際の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
ヨハネによる福音書13章1節
このように記されています。
いよいよ自分が死ぬ時が来た、明日きっと殺される。それを前にして、イエス様は「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」そして、夕食を共にした。そして、この夕食のなかでご存知のようにパンと葡萄酒をとり、「これを食べなさい。これを飲みなさい。」と仰られました。人々のために死ぬ私の体・血を全て食べ、そして、この事を世の終わりまで記念しなさい。と仰れます。それがつまりミサのことですね。
つまり、ミサは、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたイエスさまの体・血を頂く、ミサというのはそういう奇跡です。
もし、ミサがなければ、私たちの信仰は2000年もの間、続かなかったのではないでしょうか。
つまり、ミサは、神様、イエス様が、どれほど私たちを愛して下さっているかという記念なのです。
この最後の晩餐の時、イスカリオテのユダの裏切りについて、イエス様はすでにご存じです。ご存知のうえで、食事を共にし、様々な事を教えてくださいました。そして、最後にユダが裏切ることを伝え、そそくさとユダが出ていくと…
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
ヨハネによる福音書15章12節
と、仰います。
「これだけ」やってればいいと仰るのです。「わたしがあなたがたを愛したように」互いに愛し合えば良いと仰っているのです。全てを与え、裏切り者の弟子まで愛した、そのような愛で、互いに愛し合いなさい。と仰っています。しかし、イエス様のように愛すことは、難しいかもしれません。ですから、「わたしがあなたがたを愛したがゆえに」と訳してみると良いかもしれません。
その前には、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。(ヨハネによる福音書15章9節)」とあります。私たちがなぜ人を愛せるのかと言えば、自分の記憶もないころから家族からたくさんの愛を受けてきたからでしょう。もし、家族の愛を受けていなければ多分誰も愛することは出来ないのではないでしょうか。その家族の愛の根本には、「神様の愛」があります。そのようにイエス様は仰っているのです。
裏切り者であろうが、どんなにひどいことをされた人であろうが、そういう人も含めて愛す。神様はそういう愛で私達を愛して下さっています。そのような愛で互いに愛し合うことを掟としました。
もし、裏切り者を愛さないならば、ひどいことをされた人を愛さないならば、それがどんどん憎しみが連鎖していってしまいます。イエスさまの教えはそういうことではありません。
ミサというのは、そのような「愛」の記念なのです。
そして、そのような「愛」で包まれるからこそ、私たちは素直に頭を下げ、赦しを乞うことが出来ます。赦しの秘跡とは、そのような秘跡です。私たちが、痛悔の念を頂き、歯を食いしばって赦しを乞うのではなく、愛に包まれ、その愛の中で赦しを乞うのです。
教会は、そのような愛で私たちを包んでくださるイエス様に変わり、イエス様の御言葉をお借りて、宣言し、赦しの秘跡を授けます。
今日は、最初に「神様の愛」がある。ということを、覚えて帰ってください。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」

講話の後、3人の神父様が赦しの秘跡を授けてくださいました。
(赦しの秘跡については下記参照)
ゆるしの秘跡とは…
ゆるしの秘跡は、司祭のもとで、自分の犯した罪を告白し、罪のゆるしを願うことにより、神からの罪のゆるしが与えられるというしるしです。
この秘跡は、回心、悔い改め、和解、いやしの秘跡とも呼ばれています。
ゆるしの秘跡に必要な行為は、
- 痛悔(犯した罪を悔やむこと)
- 司祭への罪の告白
- 償いをはたす決意、およびその実行
です。
ゆるしの秘跡には、個別のゆるしの式と共同回心式があります。
前者は、ゆるしの秘跡を求める個人と神との出会いを重視します。それにくらべて、共同回心式は、ゆるしの秘跡の教会的な面をあらわしています。この式は、共同体の祈りの中で行われます。
共同回心式は、個人の罪だけでなく、教会共同体の連帯性について考え、共同体の上に神のゆるしを求めるので す。また、ゆるしを神に求めるだけでなく、兄弟姉妹にもゆるしを求めることを意識させてくれるもので、通常、主の降誕祭や主の復活という大きな祭日に向け ての準備として、待降節や四旬節の間に行われます。
引用元:女子パウロ会 Laudate | キリスト教マメ知識 「ゆるしの秘跡」
赦しの秘蹟は個別にも受けられますので、四旬節の間に授かられてはどうでしょうか…