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本日、午後7時から「主の晩餐の夕べのミサ」が行われました。
聖木曜日の夕刻に行われるこのミサでは、キリストが聖体を制定し、自らの記念としてこれを行うように命じた「最後の晩餐」を直接記念します。

 

聖木曜日の夕刻にささげられるこのミサの直前で四旬節が終わり、「過越の聖なる3日間」が始まります。
イエス様の「受難・死・復活」を一年のうちで最も荘厳に記念する「過越の聖なる3日間」は、典礼暦年全体の頂点に位置づけられています。

 

開祭の際には、四旬節の間歌われなかった栄光の讃歌を歌われました。その間、カンパネラが響き渡ります。

 

そして、集会祈願が唱えられ、ミサが開祭されます。

 

 

 

そして、ことばの典礼が始まります。

第1朗読と第2朗読の箇所も「過越の食事」についての箇所が朗読されます。

第1朗読では…

エジプトの奴隷状態から脱出する夜の事を前もってモーセとアーロンが告げられる箇所が朗読されました。
神様は、過越の際、どのような食事をとるか、どのようにするべきか、細かく告げてくださり、ユダヤ人は、エジプトを脱出することが出来ます。
神様は、「傷のない1歳の雄の子羊」を屠り、その「血を子羊を食べる家の入口の2本の柱と鴨居に塗り」、肉を火で焼いて食べろと仰ります。また、「酵母を入れないパン」を苦菜を添えて食べろと伝えます。
この出来事を「過越」と呼び、ユダヤ人は、この出来事を記念して、毎年、過越祭を祝います。

 

第2朗読では…

使徒パウロが、コリントの教会の信徒に「主の晩餐」の意味を解き明かした箇所が朗読されました。
コリント教会では、主の晩餐を祝いながら、仲間割れがあり、貧しい人への配慮に欠けているという問題がありました。そこで、聖パウロは、もう1度「最後の晩餐」でイエス様が使徒たちに仰った言葉を引用され、ミサの意味を伝えます。

 

福音朗読では…

過越祭の前日に行われた「最後の晩餐」の箇所が朗読されます。(マタイ・マルコ・ルカ福音書では、最後の晩餐は過越の食事であったと伝えていますが、ヨハネ福音書では、過越祭の前日のことになっています)
この最後の晩餐の中、イエス様は、弟子たちの足を洗い、遜ること、そして、互いに愛し合う事の大事さを身をもって示されます。

 

そして、お説教が行われました。

説教要旨

4つのどの福音書にも最後の晩餐の事が記されています。
しかし、4人の福音記者は、キリストの生涯の出来事をそれぞれ違う観点から記していますから、強調されるテーマは異なっています。
最後の晩餐の記述も同じように4人それぞれです。

今晩、私たちは、ヨハネ福音書の最後の晩餐の場面を朗読しました。
それは次の言葉から始まっています。

 

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた

 

この言葉の後、他の福音書では、キリストの体が聖変化する話が描かれています。この話は、ミサのなかで実際に奉献文で唱えられ、私たちにも親しまれている箇所です。

 

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である 」

(マタイによる福音書26章26-28節)

 

これは、ご聖体の深い意味を表しています。
イエス様はすべての人の罪が赦され、神様と和解し、神の子となるために、ご自分の体と血を分かち合われたのです。私たちは、その御体と御血を頂くことによって、キリストとより深く一致し、キリストと同じ心を持ち、善い行いを通して、人を愛し、神と人に仕える命を捧げなければなりません。
私たちが、日頃、食べている食べ物が、体のエネルギーになるのに対して、ミサで頂くキリストのパンとぶどう酒は、キリストの心とからだに変化して、私たちの生きる糧となります。

聖ヨハネは、なぜ自らの福音書にこの箇所を描かなかったのでしょうか?
聖書学者たちによると、初代教会の時代のキリスト者は、ご聖体の本当の意味を理解していなかったそうです。パウロ書簡にも、初代教会では分裂があったことが記されています。
傲慢な人たちがいたり、貧しい人たちが虐げられていたり、キリストの福音書に従わない人もいたそうです。
福音書を記した聖ヨハネは、聖体拝領を通して、キリストの心をもって、キリストのように変えられるべきだということを強調したいと願い、生き生きとしたキリストの姿を伝える必要性を感じたのでしょう。

それで、この時代には僕(しもべ)が主人を迎える時にした(主人の)足を洗う行為を、キリストが行ったという事を書き記したのです。

 

主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 

ご聖体を頂く時には、いつもヨハネ福音書に描かれているキリストの生き方を思い起こしましょう。
弟子たちの足を洗っておられるイエス様は、身を低くして、人に仕える模範です。
神と等しいものであることに執着されようとはせず、かえって、自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じものになったのでした。
人間の姿で現れ、へり下り、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

イエス・キリストは、私たちのためにご自分の命を犠牲にされました。
私たちも、キリストにならって、たがいに命を捧げ合う生き方ができますように。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

 

 

 

 

第1朗読 出エジプト記 12章1~8節,11-14節
第2朗読 コリントの教会への手紙 11章23~26節
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節

 

 

 

 

お説教の後、今日、朗読された福音書のなかでもあったように、イエス・キリストが最後の晩餐の夜、自ら弟子たちの足を洗うことにより、ご自分が「仕えられるためではなく、仕えるために来た」ことをお示しになったことを記念し、洗足式が行われました。

(12使徒、イスラエル12部族からちなんで)松戸教会の8つの地区から各1名ずつ、MCCICから2名、青年から2名の12人の信徒が代表して、フィリップ神父様に足を洗っていただきました。

 

 

 

 

共同祈願が唱えられた後、感謝の祭儀が始まります。
まず、奉納行列が行われ、感謝の気持ちとともにホスチアとぶどう酒・水が奉納されます。

 

 

 

 

そして、奉献文が司祭によって唱えられ、聖変化が行われます。
最後の晩餐のなかで、最後の晩餐でキリスト自身が仰せになった言葉をもって供え物のパンとぶどう酒がキリストの御体と御血になったことを示します。

 

イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

マタイによる福音書 26章26-29節

 

会衆は深い信仰と尊敬をもってそれを仰ぎ見ます。
聖変化は、普段鳴り響くカンパネラもなく、静寂の中、行われます。イエス・キリストの受難が始まっていることが示唆されます。

 

 

その後、聖体拝領が行われました。
同じ1つのパンを分け合うことを通して、キリストとの一致を深く味わいます。こうして、ミサが一致の秘跡であり、キリスト者の生活の中心であることが明らかにされます。

拝領前の信仰告白「主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう」という言葉をキリスト者は改めて噛みしめ、ご聖体を頂きます。

 

 

 

 

聖体拝領後、祭壇上のご聖体に献香し、ご聖体を別の場所に移動します。

 

そして、ご聖体を仮祭壇に移します。

 

 

信徒たちは、左右に分かれ、詩編55と詩編27を唱和して祈ります。

 

 

そして、最後に、仮祭壇にご聖櫃をおさめ、タントゥム・エルゴ(Tantum ergo)を歌いました。

 

その後、その場で閉祭の歌を歌い、閉祭となりました。

 

 

 

 

ミサ後、仮祭壇の前でお祈りされている信徒の方が大勢いました。

 

 

 

祭壇上のすべてのものを取り除き、裸の状態にされます。聖体ランプも灯っていません。
キリストの受難と死が始まったのです。

 

明日は、聖金曜日「主の受難」の祭儀です。




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今日は、四旬節最後の主日である受難の主日(枝の主日)です。
松戸教会では、午前8時、そして、午前10時半からミサが行われました。

受難の主日(枝の主日)は、信者がそれぞれに枝を持ち、行列をして受難の道に入ったことを思い出す典礼です。(ユダヤ人の)過越祭に合わせ、主イエスがエルサレムに入ったことをを記念して行われます。
その際、多くの群集が、子ロバにまたがって入城するイエス様を群集が衣服や枝を持ち、歓呼を持って迎えます。(しかし、その数日後、その群衆は、イエス様を「十字架につけろ!」と叫びます。)
今日から、典礼暦の頂点である聖週間が始まります。

 

教会入口で、用意された枝を受け取り、聖堂へと向かいます。

 

 

 

 

午前10時半からのミサでは、まず、「枝の式」が行われます。
信徒は、外の駐車場で、フィリップ神父様を待ち、交唱を歌い、神父様をお迎えします。

 

 

 

 

そして、枝の式が始まり、枝を持った会衆を祝福する祈りが唱えられます。

 

 

 

祈りが唱えられた後、フィリップ神父様が枝(棕櫚の葉)を祝福をします。

 

 

 

 

 

そして、入城の福音朗読が行われます。

 

福音朗読 マルコによる福音書 11章1~10節

 

 

 

 

福音朗読後、枝の行列を行いました。
「ダビテの子」を歌いながら、下の広場からスローブを登り、入堂します。

 

行列が、聖堂に入ると、今度は「聖なる町に」を歌います。

 

そして、集会祈願を唱え、ミサが開祭します。

 

 

 

そして、ことばの典礼が行われます。

 

 

詠唱は、今日は少し長めのものが歌われ、受難朗読が始まります。
ご受難の朗読(福音朗読)は、神父様(イエス様)と朗読者2人(第1朗読者;語り手、第2朗読者:その他の登場人物)と会衆全員(群衆)で行います。

 

受難朗読のなかで、会衆全員で「十字架につけろ」と言います。
そして、私たちが、罪のないイエス・キリストを十字架へと導いたことを思い起こします。

 

イエス様が亡くなられる箇所では、頭を下げて、しばらく沈黙のうちに祈ります。

 

 

 

第1朗読 イザヤの預言 50章4-7節
第2朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙 2章6~11節
受難朗読 マルコによる主イエス・キリストの受難 15章1~39節

 

 

 

 

説教要旨

今日は受難の主日です。
百人隊長が「本当に、この人は神の子だった(マルコ15章39節)」と、言います。
今日の受難の主日のメッセージは、マルコ福音書から読まれました。
福音書には、イエス様が多くの人を癒された事が記されていますが、イエス様はいつも人々に「この事を誰にも話してはならない」と仰られます。
悪霊に取りつかれた人から悪霊を除き、苦しんでいる人たちを解放したイエス様は、なぜ秘密にされるのでしょうか?
そして、なぜ、聖マルコは、聖書学者たちが「キリストの秘密」としていることを、公にされたのでしょうか?
それは、誰もが受難を経験するまでは、癒しの事、救いの事を理解できないからです。
アダムは、御父を背きましたが、イエス・キリストに従って十字架につけられることを受け入れられます。
イエス様は、犠牲的愛をもって、憎しみと死に打ち勝つために十字架につけられました。
それまで十字架上のイエスを軽蔑していた百人隊長は、その姿を見て、あふれ出る愛を感じた時、本当に、この人は神の子だったと言いました。それは、十字架上のイエスの犠牲的愛を目の前で見て、神様の不思議な愛を理解したからです。
十字架上の出来事を考えると、イエス様がどのような方であるかを知り、最早何の疑いもなく、すべての御業を説明する事が出来ます。
また、私たちが、何者であるかという事を隠す必要もありません。私たちは、キリスト者です。私たちは、キリストと同じようにすべての人を愛するように、また、犠牲的愛を行うために産まれています。私たちは自分を無にして、溢れる程の神様の愛を体験する事が必要です。私たちは、十字架を首にかけたり耳につけたりしています。それは宝石に勝るものです。2000年前にゴルゴタで起こったことを思い起こすためにだけ、十字架をかけているものではありません。神様の愛は隠されたものではなく、すべての人に宣べ伝えるために十字架を身につけるのです。

この聖週間の間に、過越の聖なる三日間(聖木曜日、聖金曜日、復活の聖なる徹夜祭)の祈りに是非参加してください。
受難や死がなければ復活はありません。受難・死を迎える今週、主イエス様と一緒に旅をしましょう。私たちが正しい命、すなわち、復活を体験できるように祈りましょう。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

 

 

 

そして、聖変化…

 

 
最後に派遣の祝福が、行われます。
私たちが主イエス・キリストの受難・死・復活を共に過ごせるように祈り、ミサは閉祭します。

 

 

いよいよ聖週間が始まりました。
聖週間の祭儀に出来るだけ参加し、キリストの過越の神秘に感謝しましょう。




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本日、四旬節第5主日の10時半からのミサは、子どもの奉仕するミサでした。

教会学校で学んだ1年間の集大成を信徒の方に見ていただくべく、教会学校の子どもたちがミサの奉仕を行います。
普段は、大人の方々がされている奉仕を教会学校の子どもたちやリーダーがするのです。(松戸教会では、1学期は子どもたちの初聖体が行われるキリストの聖体のミサ。2学期はクリスマス。3学期は教会学校の卒業式・修了式後の3月に「子どもの奉仕するミサ」を行います)

 

今日のミサのなかで、3人の6年生の「教会学校 卒業証書授与式」が行われます。
6年生は、最後のこどもの奉仕するミサです。6年間での成長を教会の皆さんに見て頂きましょう。また、5年生から1年生までは、今日で卒業する3人の6年生が安心できるように、立派に奉仕しましょう。

 

先唱は、今回は高学年が1人で行います。

ミサ開祭前に、解説やマナー喚起も行います。

 

 

 

第1朗読は、卒業生が行いました。
実は、初めて朗読でした。旧約は、難しい言葉が続きますが、所作も含め、しっかりと行うことが出来ました。

 

また、侍者もしっかりと所作を行う事が出来ました。大きなミサも経験しているので、すっかりベテランの域ですね。

 

 

第2朗読もとても難しい内容でした。これで2回目の朗読ですね。
第1朗読も第2朗読も四旬節の朗読箇所は、大人でも難しい内容ですが、しっかりと「み言葉」を伝えることが出来たと思います。

10月に洗礼を受けた高学年の子が、初めて子どもの奉仕するミサで侍者を行いました。
普段から侍者を行っているおかげで、短い練習時間だけでもしっかりと行うことが出来ましたね。

 

そして、福音朗読。
福音朗読が行われている最中、また、朗読後の所作も含め、まだまだ頑張らないといけないですね。
初聖体を受けて初めてこどもの奉仕するミサで侍者をする子もいました。修了式でもリーダーからあったように早く赤いラインのついた侍者服を卒業できるようにかんばりましょう。

 

 

 

第1朗読 エレミヤの預言 31章31~34節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章7~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 12章20~33節

 

 

 

 

共同祈願は、在校生、そして、卒業生の5人が行いました。
所作も含め、しっかりと行うことが出来ました。

 

4番目の共同祈願は、「在校生代表による送辞」的なものでした。

教会学校の卒業生たちのために祈ります。今、共に過ごした日々を思い出します。神さまのこと・イエス様の事・ミサの奉仕など、たくさんのことを教えてくれました。教えてもらったことを今度は僕たちが下級生に伝えていきます。卒業生たちが、これからも、ぼくたち下級生の良いお手本として、過ごすことが出来るように、父である神様の豊かなお恵みを与え下さい。そして、私たちも卒業生のように、豊かな信仰を育てられますように。

在校生代表の共同祈願

 

 

5番目の共同祈願は、「卒業生代表による答辞」的なものでした。

教会学校で過ごした6年間のなかで、神さまの事、イエス様の事、たくさんのことを仲間達と一緒に学んできました。神さまのいつくしみのなかで過ごせた6年間だったと思います。そして、今、卒業を前に、様々の方々の支えがあったことを思い起こします。お父さん・お母さん・リーダー達、そして、教会ののみなさん、本当にありがとうございました。今はただ、神様にこの出会いを感謝しています。来年からは中高生会のメンバーとして、さらに信仰を育てることができますように。そして、教会学校みんながこれからも互いを愛し合い、神さまの慈しみのなかで豊かな信仰を育てられますように。

卒業生代表の共同祈願

 

 

 

 

そして、感謝の祭儀が始まります。

先唱の子は、普段から侍者をしてくれているおかげで、神父様の動き、全体の流れをしっかり把握して行うことが出来ました。しっかり役割を果たすことが出来ましたね。(卒業生も安心して卒業できますね!)

 

 

奉納行列の誘導は、子どもたち2人で行いました。
司祭が祭壇の前に出てくるまで、行列のスタートをしてはいけないという事をしっかり覚えていましたね。

 

奉納では、チボリウムを奉納する2人は、少し不安な感じが出てしまっていました。
普段からミサでの奉仕を頑張って、祭壇の前でどのように行動すべきか、しっかり勉強しましょう。

 

水と葡萄酒を奉納した子は、もうベテラン感が出ていますね。
しっかりと行うことが出来ました。

 

卒業生による奉納も行われました。
6年間、お世話になった教会学校での感謝のきもちを奉納しました。

 

 

侍者は、全体を通して、集中力に欠く子も見られました。
清めも司祭を待たしてしまっていましたね。侍者は、常に司祭の動きに目を配り、実際に動く場面だけではなく、会衆のお手本になるような所作が出来なければなりません。
祭壇、ご聖櫃の一番側でミサに与っている者であることを忘れないようにしましょう。

 

 

 

 

聖体拝領後、卒業証書授与式が行われました。
リーダーから名前を一人ひとり呼ばれ、祭壇の前に並びます。

 

そして、教会学校の校長先生であるフィリップ神父様から卒業証書が、卒業生3人に授与されました。

 

 

卒業証書授与後、卒業生3人から、会衆の皆さんに一言ずつ挨拶がありました。
リーダーから「教会学校6年間の1番の思い出」を言うように無茶ぶりされ、ちょっとビックリしていましたね。

 

 

 

 

ミサ後、改めて3人でフィリップ神父様と記念撮影。

 

そして、ご家族と…

 

 

卒業した6年生の3人は、今度は、中高生会のメンバーになります。
まず、侍者リーダーを務められるようになりましょう。そして、堅信を受け、教会学校のサブリーダーを目指しましょう。
忙しくて、中々教会に来ることが出来ないかもしれませんが、月に1度の勉強会、そして、教会学校で、今度はみんなをサポートする立場として、頑張ってください。
ご卒業、おめでとうございました!




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本日、松戸教会第7代主任司祭の宮下良平神父様の司祭叙階25周年感謝ミサが、小金井教会で行われました。
宮下神父様は、25年前の3月7日に、この小金井教会の聖堂で司祭叙階後初めてのミサをささげたそうです。そのことを記念して、この日に、この聖堂で銀祝のミサをあげたかったとおっしゃっていました。 松戸教会からも多くの信徒が参加したことをたいへん喜んでおられました。

 

 

答唱詩編を歌われる宮下神父様…

 

福音朗読

 

そして、お説教。

 

感謝の祭儀の始まり…

 

聖体拝領。

 

 

ミサ後には、茶話会が行われました。

 

宮下神父様は、中央協議会事務局長を退任したあとは、半年ほどサバティカルでメキシコのグアダルペ宣教会の経営する大学に、スペイン語の研修に行かれるとのこと。
グアダルペ宣教会には、松戸教会と関係の深い、エミリオ神父様、エンリケ神父様、イグナシオ神父様、当時はまだ神学生だったホセ神父様(目下、ローマで勉学中)など、たくさんの神父様がおられます。宮下神父様は、エミリオ神父様、イグナシオ神父様とは東京神学院で同期でした。

 

宮下神父様、司祭叙階25周年本当におめでとうございます!
これからも、どうぞよろしくお願い致します。

松戸教会にも5月13日・主の昇天の祭日のミサにお越しいただける予定です。(ミサ後に、銀祝のお祝いも行われます)
皆さん、是非、お越しください。




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本日、10時から、そして、13時半からの2回、共同回心式が行われ、多くの信徒が参加しました。

 

まず、、松田清四朗神父様(亀有教会)から、講話を頂きました。
松田神父様は、始めに主の祈りへと導かられ、祈りと共に共同回心式が始まりました。

 

<講話要旨(午前の部)>

詩編78:2に「わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう」と、ありますが、共同訳聖書では、「わたしは口を開いて、箴言を語り、いにしえからの言い伝えを語ろう」とあります。「なぞ」と「いいつたえ」は大分違いますね。ある聖書訳では、「ことわざ」となっています。

これから話すこと、「私たち」にとっては、「謎」です。
「私たち」というのは、「人間の思い」です。しかし、私たちがどんなに頑張っても「神様の思い」とは違います。人間的価値観、つまり、世俗的価値観と神の価値観との違いについてお話します。

私たちは、神様の思いとは違うから罪を犯してしまいます。
私たちの思いは止まりません。自分自身の思いに、四六時中、振り正われてしまう事もあります。常に自分自身の思いから解放されないのですね。
そういうものを手放す、そして、そこに留まる。こういうために黙想するのですね。
それは、「人の思い」から「神の思い」にジャンプする、あるいは、洗礼を受けた事によって回心した私たちが見えるようになるためです。自分自身が見えている自分、または、周りから見えている自分が「本当の自分」かと言えば、そうではありません。私たち自身の肉体は、私たち自身ではありません。私達自身のなかにある豊かなものも貧しいものも(物質的な物から精神的な物まで)、私達自身ではありません。私自身と思うから、人に誇ったり、人を妬んだりします。

「父と子と聖霊のみ名によって」と、私たちは十字のしるしをきりますが、英語だと、「In the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit」と言います。中に入るという意味ですね。これから、父と子と聖霊のなかにどっぷりと浸かって、自分の思いを手放して、神の無限の慈しみに心身を委ねることがゆるしの秘跡ですね。

ブドウ園の労働者の話をしましょう。(マタイ福音書20章1-16節)

このたとえ話は、神の国のたとえ話です。
今日は「報酬と恵み」というテーマでこの話をしたいと思います。

恵みとは、タダでもらえるものです。
例えば、みなさん、歩けますよね。これは、学校で学んだものではないですよね。気が付いていたら、与えられていた素晴らしい恵みです。与えられたものというものは恵みです。
神の恵みは、大事なものです。普段は中々気づかないものですね。

報酬とは、給料ですね。働いた対価とも言えます。
能力や働いた時間によって、違うものですね。
働いた分、自分が頑張った分、自分の能力に比例した分、大体自分で分かりますから、納得して受け取っているでしょう。
しかし、どうしても人間は損得勘定や、好き嫌い、そして、相対的に判断してしまいますね。この思いから私たちが出る事は出来ません。

ブドウ園の話は、それがとても分かりやすく譬えられています
ブラブラ広場でしていた人を主人が声をかけて、1デナリオン(1日分の給与くらい)で自分のブドウ園で雇います。
朝から、昼から、午後から、それぞれ働き出します。そして、仕事の時間が終わると、全員同じ1デナリオン、配られます。しかし、朝から働いていた人々は、午後から働いていた人と同じ給料である事に怒ります。朝から働いていた人々は、一番たくさん働いているのだから、約束は1デナリオンだけど、少しは色がつくのではないかと思ったからです。
これが、「人の思い」ですね。

この話の一番大事な事は、なぜ1日中ブラブラしている人がこんなにたくさんいるのかという事です。
それは「誰も雇ってくれない」からでしょう。彼らも働きたくないわけではありません。
人間が苦しみをおうのは、「誰からも期待されていない」「誰からも求められていない」と、受け取ってしまい、何でもない事が、長い間、苦しみを負ってしまいます。

「誰も雇ってくれない」「私たちが誰も必要とされていない」
しかし、雇い主は、1日に何度も広場に行き、人々を、1時間でいいから働いてくれと、雇います。雇い主は、どんな人でも必要とし、期待しています。

恵みは、私たちの努力やかけた時間によって与えられるものではなくて、初めから与えられています。
悪人にも善人にも、同じものを与えてくれます。

しかし、これらの事は、私たちに人間にはわかりません。正しい人にも正しくない人にも雨を降らせるという美しいみ言葉(マタイ5章45節)がわかりません。
正しくない人には拳骨を、正しい人には称賛を……と、なりますよ。

私たちの罪は、自分は正しいのにその報いを貰っていないと思う事にあります。自分が正しいと思えば思うほど、その思いを手放せなくなっていきます。そして、罪は重くなっていきます。
人間の力ではそれは手放せません。だから、神に赦しを乞います。

そして、赦されたならば、感謝と賛美の気持ちを込めて、祈りましょう。
アヴェマリア10回とか5回とか、回数によって、神が赦しを与えるのではありません。

無条件に、限りなく、誰にでも、神はいつくしみと恵みを与えてくださいます。
私たちは、神を本当に信じていますか?
もし、あなたが「誰も雇ってくれない」「私たちが誰も必要とされていない」と思っているならば、神様は、あなたに期待しています。

皆さんが、回心し、神の思いにジャンプ出来るように、お互いのために祈り合いましょう。
私たちにとって、「謎」が、洗礼を通して、神の恵みであることが分かっています。
この四旬節を通して、ご復活という大いなる神の恵みを感じましょう。そして、今日は、その為に、準備を整えましょう。

 

 

 

 

講話の後、松田神父様、レオ・シューマカ神父様(築地教会)、高木健次神父様(CTIC)、フィリップ神父様が赦しの秘跡を授けてくださいました。
(赦しの秘跡については下記参照)

 

ゆるしの秘跡とは…

ゆるしの秘跡は、司祭のもとで、自分の犯した罪を告白し、罪のゆるしを願うことにより、神からの罪のゆるしが与えられるというしるしです。
この秘跡は、回心、悔い改め、和解、いやしの秘跡とも呼ばれています。

ゆるしの秘跡に必要な行為は、
- 痛悔(犯した罪を悔やむこと)
- 司祭への罪の告白
- 償いをはたす決意、およびその実行
です。

ゆるしの秘跡には、個別のゆるしの式と共同回心式があります。
前者は、ゆるしの秘跡を求める個人と神との出会いを重視します。それにくらべて、共同回心式は、ゆるしの秘跡の教会的な面をあらわしています。この式は、共同体の祈りの中で行われます。

共同回心式は、個人の罪だけでなく、教会共同体の連帯性について考え、共同体の上に神のゆるしを求めるので す。また、ゆるしを神に求めるだけでなく、兄弟姉妹にもゆるしを求めることを意識させてくれるもので、通常、主の降誕祭や主の復活という大きな祭日に向けての準備として、待降節や四旬節の間に行われます。

引用元:女子パウロ会 Laudate | キリスト教マメ知識 「ゆるしの秘跡」

 

赦しの秘蹟は個別にも受けられますので、四旬節の間に授かられてはどうでしょうか…