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本日、午後7時から「主の晩餐の夕べのミサ」が行われました。
聖木曜日の夕刻に行われるこのミサでは、キリストが聖体を制定し、自らの記念としてこれを行うように命じた「最後の晩餐」を直接記念します。

 

聖木曜日の夕刻にささげられるこのミサの直前で四旬節が終わり、「過越の聖なる3日間」が始まります。
イエス様の「受難・死・復活」を一年のうちで最も荘厳に記念する「過越の聖なる3日間」は、典礼暦年全体の頂点に位置づけられています。

 

開祭の際には、四旬節の間歌われなかった栄光の讃歌を歌われました。その間、カンパネラが響き渡ります。

 

そして、集会祈願が唱えられ、ミサが開祭されます。

 

 

 

そして、ことばの典礼が始まります。

第1朗読と第2朗読の箇所も「過越の食事」についての箇所が朗読されます。

第1朗読では…

エジプトの奴隷状態から脱出する夜の事を前もってモーセとアーロンが告げられる箇所が朗読されました。
神様は、過越の際、どのような食事をとるか、どのようにするべきか、細かく告げてくださり、ユダヤ人は、エジプトを脱出することが出来ます。
神様は、「傷のない1歳の雄の子羊」を屠り、その「血を子羊を食べる家の入口の2本の柱と鴨居に塗り」、肉を火で焼いて食べろと仰ります。また、「酵母を入れないパン」を苦菜を添えて食べろと伝えます。
この出来事を「過越」と呼び、ユダヤ人は、この出来事を記念して、毎年、過越祭を祝います。

 

第2朗読では…

使徒パウロが、コリントの教会の信徒に「主の晩餐」の意味を解き明かした箇所が朗読されました。
コリント教会では、主の晩餐を祝いながら、仲間割れがあり、貧しい人への配慮に欠けているという問題がありました。そこで、聖パウロは、もう1度「最後の晩餐」でイエス様が使徒たちに仰った言葉を引用され、ミサの意味を伝えます。

 

福音朗読では…

過越祭の前日に行われた「最後の晩餐」の箇所が朗読されます。(マタイ・マルコ・ルカ福音書では、最後の晩餐は過越の食事であったと伝えていますが、ヨハネ福音書では、過越祭の前日のことになっています)
この最後の晩餐の中、イエス様は、弟子たちの足を洗い、遜ること、そして、互いに愛し合う事の大事さを身をもって示されます。

 

そして、お説教が行われました。

説教要旨

4つのどの福音書にも最後の晩餐の事が記されています。
しかし、4人の福音記者は、キリストの生涯の出来事をそれぞれ違う観点から記していますから、強調されるテーマは異なっています。
最後の晩餐の記述も同じように4人それぞれです。

今晩、私たちは、ヨハネ福音書の最後の晩餐の場面を朗読しました。
それは次の言葉から始まっています。

 

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた

 

この言葉の後、他の福音書では、キリストの体が聖変化する話が描かれています。この話は、ミサのなかで実際に奉献文で唱えられ、私たちにも親しまれている箇所です。

 

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である 」

(マタイによる福音書26章26-28節)

 

これは、ご聖体の深い意味を表しています。
イエス様はすべての人の罪が赦され、神様と和解し、神の子となるために、ご自分の体と血を分かち合われたのです。私たちは、その御体と御血を頂くことによって、キリストとより深く一致し、キリストと同じ心を持ち、善い行いを通して、人を愛し、神と人に仕える命を捧げなければなりません。
私たちが、日頃、食べている食べ物が、体のエネルギーになるのに対して、ミサで頂くキリストのパンとぶどう酒は、キリストの心とからだに変化して、私たちの生きる糧となります。

聖ヨハネは、なぜ自らの福音書にこの箇所を描かなかったのでしょうか?
聖書学者たちによると、初代教会の時代のキリスト者は、ご聖体の本当の意味を理解していなかったそうです。パウロ書簡にも、初代教会では分裂があったことが記されています。
傲慢な人たちがいたり、貧しい人たちが虐げられていたり、キリストの福音書に従わない人もいたそうです。
福音書を記した聖ヨハネは、聖体拝領を通して、キリストの心をもって、キリストのように変えられるべきだということを強調したいと願い、生き生きとしたキリストの姿を伝える必要性を感じたのでしょう。

それで、この時代には僕(しもべ)が主人を迎える時にした(主人の)足を洗う行為を、キリストが行ったという事を書き記したのです。

 

主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 

ご聖体を頂く時には、いつもヨハネ福音書に描かれているキリストの生き方を思い起こしましょう。
弟子たちの足を洗っておられるイエス様は、身を低くして、人に仕える模範です。
神と等しいものであることに執着されようとはせず、かえって、自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じものになったのでした。
人間の姿で現れ、へり下り、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

イエス・キリストは、私たちのためにご自分の命を犠牲にされました。
私たちも、キリストにならって、たがいに命を捧げ合う生き方ができますように。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

 

 

 

 

第1朗読 出エジプト記 12章1~8節,11-14節
第2朗読 コリントの教会への手紙 11章23~26節
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節

 

 

 

 

お説教の後、今日、朗読された福音書のなかでもあったように、イエス・キリストが最後の晩餐の夜、自ら弟子たちの足を洗うことにより、ご自分が「仕えられるためではなく、仕えるために来た」ことをお示しになったことを記念し、洗足式が行われました。

(12使徒、イスラエル12部族からちなんで)松戸教会の8つの地区から各1名ずつ、MCCICから2名、青年から2名の12人の信徒が代表して、フィリップ神父様に足を洗っていただきました。

 

 

 

 

共同祈願が唱えられた後、感謝の祭儀が始まります。
まず、奉納行列が行われ、感謝の気持ちとともにホスチアとぶどう酒・水が奉納されます。

 

 

 

 

そして、奉献文が司祭によって唱えられ、聖変化が行われます。
最後の晩餐のなかで、最後の晩餐でキリスト自身が仰せになった言葉をもって供え物のパンとぶどう酒がキリストの御体と御血になったことを示します。

 

イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

マタイによる福音書 26章26-29節

 

会衆は深い信仰と尊敬をもってそれを仰ぎ見ます。
聖変化は、普段鳴り響くカンパネラもなく、静寂の中、行われます。イエス・キリストの受難が始まっていることが示唆されます。

 

 

その後、聖体拝領が行われました。
同じ1つのパンを分け合うことを通して、キリストとの一致を深く味わいます。こうして、ミサが一致の秘跡であり、キリスト者の生活の中心であることが明らかにされます。

拝領前の信仰告白「主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう」という言葉をキリスト者は改めて噛みしめ、ご聖体を頂きます。

 

 

 

 

聖体拝領後、祭壇上のご聖体に献香し、ご聖体を別の場所に移動します。

 

そして、ご聖体を仮祭壇に移します。

 

 

信徒たちは、左右に分かれ、詩編55と詩編27を唱和して祈ります。

 

 

そして、最後に、仮祭壇にご聖櫃をおさめ、タントゥム・エルゴ(Tantum ergo)を歌いました。

 

その後、その場で閉祭の歌を歌い、閉祭となりました。

 

 

 

 

ミサ後、仮祭壇の前でお祈りされている信徒の方が大勢いました。

 

 

 

祭壇上のすべてのものを取り除き、裸の状態にされます。聖体ランプも灯っていません。
キリストの受難と死が始まったのです。

 

明日は、聖金曜日「主の受難」の祭儀です。




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イエス・キリストが亡くなられた午後3時から松戸教会では、十字架の道行を行いました。
多くの方々が集まり、主のご受難・死を黙想し、ご受難の先にある十字架の勝利に思いをはせました。

 

「十字架の道行」の祈りは、

イエスの受難の各場面を黙想し、回心しキリストの愛にならうための祈りです。各留にとどまり、しばらく黙想し、順次回っていきます。聖堂内にイエス・キリストの裁判から十字架の死に至るご受難の歩みを描いたレリーフが並べて掛けてあります。14場面あり、これは ” 留(りゅう)”と呼ばれています。

 

 

フィリップ神父様のお導きで「初めの祈り」が行われました。

 

フィリップ神父様が祈りへと導かれ、信徒が1留ずつ先唱を行いました。
そして、あらゆる困難、試練があろうともただただ父である神様の御心に適う行いをするイエス様に倣う者になろうと、祈りに心を合わせます。

 

イエス様が亡くなられる第12留…

 

 

最後に15留目となる十字架に向かい十字架讃歌を唱え、主の復活を黙想し、主の祈りを唱えました。

 

 

 

松戸教会公式twitterアカウントでは、1留から14留までレリーフを順にのせました。
同時刻にご覧になり、祈られていた方もいたのではないでしょうか…

 

 

 

4世紀末のエルサレムでは、木曜日の夜から続く徹夜の祈りの後、人々は夜が明けると町に戻り、ゴルゴダの丘に建てられた教会堂でキリストの受難の出来事のなかから、ピラトの尋問の箇所の朗読を聞きました。また、昼頃まで、そこには十字架の遺物が展示され、人々はそれに礼拝しました。そして、正午から午後3時までは、旧約聖書と新約聖書からキリストの受難と死を思い起こすのにふさわしい箇所が朗読され、午後3時からは、ヨハネ福音書からキリストの死の箇所が朗読されました。

松戸教会では、こうして、十字架の道行を通して、主の受難・死を思い起こし、午後7時から始まる主の受難の祭儀に与る準備をします。




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本日、午後7時から「主の受難」の祭儀が行われました。
「主の受難」の祭儀では、パンとぶどう酒は聖別されません。古来の伝統に従い、この日はミサがささげられない日と定められているからです。祭儀は「言葉の典礼」「十字架の崇敬」「交わりの儀」の3つの部分で構成されています。

聖金曜日に行われるこの祭儀のなかで、救いの歴史におけるキリストの受難と死の意義を思い起こし、復活への希望のうちに十字架の勝利を賛美します。

 

 

祭壇は、昨晩の「主の晩餐の夕べのミサ」の時に裸にしたまま、十字架も蝋燭も置かず、祭壇にも布をかけません。
キリストが死んだことの「かたどり」です。

 

祭儀は、入際の歌は歌わず沈黙のうちに始まります。
フィリップ神父様は、祭壇につくと、しばらく跪かれ、沈黙のうちに祈られます。

 

 

 

祈りの後、祈願が唱えられ、祭儀が始まります。

 

 

第1朗読と第2朗読の箇所は、「主のご受難・死」についての箇所が朗読されます。

 

第1朗読は、「第2イザヤ」と呼ばれる新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられていた捕囚期(紀元前6世紀)の預言のなかで主の僕について歌われる第4の箇所が朗読されます。
苦しみを通して多くの人の救いをもたらす僕の姿は、イエス様の姿を思い起こさせます。

 

 

第2朗読では、キリストがただ1度ご自身を捧げたことによって、救いが成就したと語るヘブライ書が、主・イエスのご受難について語る箇所が朗読されます。

真の「祭司」であるイエス様は、神との完全なつながり、人々との完全なつながりによって、神と人とを結び合わせることが出来ます。私たちが、信仰を保ち、恵み深い神様に近づくことを求められています。

 

 

そして、受難朗読

最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに遺言のような説教をし、弟子たちと後に続く人々のために祈られた直後の場面から朗読されます。
(ご受難・死の箇所を、受難の主日の朗読とは違い、すべてを朗読します)

ゲツセマネの園での出来事、イエス様が予告していた聖ペトロの3度の否認、ポンティオ・ピラトとの問答、ゴルゴタの丘での出来事…そして、死、そして、その後のことを、神父様(イエス様)と朗読者2人(第1朗読者;語り手、第2朗読者:その他の登場人物)と会衆全員(群衆)で行います。

 

受難朗読のなかで、会衆全員で「殺せ!十字架につけろ」と言います。
そして、私たちが、罪のないイエス・キリストを十字架へと導いたことを思い起こします。

 

イエス様が亡くなられた箇所では、頭を下げ、沈黙のうちに祈ります。

 

 

 

第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節
受難の朗読 ヨハネによる主イエス・キリストの受難 18章1節~19章42節

 

 

 

そして、フィリップ神父様のお説教が行われました。

説教要旨

今日は、イエス様のご受難を思い出すため、その神秘を祝うために集まりました。
暴力に反対した愛、暴力を忍耐した愛、十字架に達した愛を聖なるものにするために集まりました。
その愛に感謝するため、そして、勇敢な愛のうえで暴力の被害者になる人と団結するために集まりました。
イエス様の十字架は解体されていませんし、その苦しみは終わっていません。十字架は、私たちの人生の中心に立ち、福音の価値によって生きる人々は、世界でどんな扱いをされるのか、ということを私たちに思い出させます。
イエス様は、ご自身から十字架を選んだわけではなく、イスラエルの祭司・長老・ファリサイ派の人々、普通の民、そして、世界が彼に反抗するため、十字架という手段を選びました。
十字架は、父である神様の発想ではなく、イエス様と争っていた世界が考えた最終的な解決でした。
父である神様は、自分のひとり子の破壊を目論んだサディストではありません。
父である神様は、危ない事にも関わらず、脆弱なひとり子を人間の手にゆだねました。全ての親がその危険を分かつ必要があります。愛は、十字架を必要としていませんが、イエス様の人生においては、愛は十字架に及びました。愛は、それによって現れる苦しみから逃げません。
イエス様は、公にエルサレムに入り、彼に対抗する圧迫的な権力に立ち向かいました。この行動によって、イエス様が苦しみを公に成し、目立つものとしました。
イエス様は、人々の現実的な苦しみを無視することを選びませんでした。人々の苦しみや争いに触れ、神様の愛を見せ、ご自身が人々と同じ痛みやすい体に表れた「神様の愛」であることを示したかったのです。
イエス様は、神様の深い愛、そのものでした。イエス様は、神様の危険な行動でした。
2004年に上映された「パッション」は、イエス様がその時代の支配者から受けた暴力と憎しみを描いています。
しかし、なぜ私たちはイエス様のご受難を心にとどめておくべきなのでしょうか?なぜこのような苦しみの記憶を活かすべきですか?
それは、キリスト者として、イエス様のご受難を記憶することに関わるためです。
最後の晩餐で、イエス様は「これは、あなた方のためのわたしのからである。私の記念としてこのように行いなさい」と仰いました。
ある共同体が苦しみを覚えようとすると、その記憶は「訴え」となります。「苦しみの記憶」が過去の繰り返しではなく、解決の未来を要求します。イエス様のご受難を記憶することは、このようなことが再び起こらないようにするための訴えです。そうすれば「無罪の人が冤罪」で苦しむことはないはずです。
そして、この記憶は、私たちの間にある十字架を意識させます。十字架は、イエス様のご受難は、人々の苦しみに注目するように私たちに伝えます。
十字架は、その注目を求めています。
今晩は、イエス様の苦しみ、誇り、人々の憎しみ、暴力、そして、権力者たちの被害者の苦しみと悲しみに注目しましょう。
この聖金曜日に、神様は、御子イエス・キリストの十字架によって私達1人ひとりに限りない愛を示したことに感謝しながら、私たちも死に至るまでイエス・キリストに従う事が出来るように祈りましょう。
父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

 

 

 

説教の後、盛式共同祈願が行われます。
1年の典礼のなかで、もっとも豊かな共同祈願が唱えられました。
イエス様がすべての人のために命を捧げてくださったことを思いながら、すべての人のために「教会」「教皇様」「教会に仕える全ての人」「洗礼志願者」「キリスト者の一致」「キリストを信じない人々」「神を信じない人々」「国を治める人々」「困難に直面する人々」のためにそれぞれ祈ります。

普段の共同祈願とは違い、一つ一つの意向に従って信徒の代表が先唱し、しばらく、沈黙のうちに祈ります。そして、神父様が祈願を唱え、会衆は「アーメン」と続きます。

 

 

 

 

「盛式共同祈願」が終わると、フィリップ神父様は、いったん退堂されます。

 

 

そして、「十字架の礼拝」が始まります。
フィリップ神父様が、再度、紫の布に覆われた十字架を捧げて入堂してきます。
途中、三度、「見よ、キリストの十字架、世の救い」とフィリップ神父様が歌われ、会衆は、「ともにあがめたたえよう」と答え、十字架のおおわれた布を徐々にはずしていきます。

 

 

 

 

 

 

 

顕示が終わると、十字架が祭壇の前を置かれ、司祭・奉仕者・会衆の順に行列して十字架の前に進み、深い礼をして崇敬を表します。

 

その間、聖歌奉仕グループの方々を中心に「十字架賛歌 クルーチェム・トゥアム」「とがめの交唱(インプロペリウム)」「ハギオス・ホ・テオス」「十字架讃歌 クルクス・フィデーリス」を歌います。

 

 

 

 

十字架の礼拝を終えると、「交わりの儀」が始まります。
祭壇が用意され、フィリップ神父様が再度退堂します。

 

そして、ご聖体が入堂し、祭壇に置かれます。

 

 

 

 

ミサとは違い、司祭が主の祈りに招くと、主の祈りの副文と応唱を唱えた後、すぐに拝領前の信仰告白を唱え、拝領が始まります。

 

 

拝領祈願が唱えられた後、フィリップ神父様は、派遣の祝福と閉祭の挨拶の代わりに、会衆のために祈願を唱えられました。

 

 

そして、閉祭の歌もなく、沈黙のうちに退堂します。
ご聖体は、今一度、聖体安置室に移され、祭壇も裸の状態にされます。

 

 

 

 

そして……信者は、ご復活をお待ちし、静かに祈りの夜を過ごします。

 

 

いよいよ明日は「復活の聖なる徹夜祭」です。
キリスト教の最大の祭りは、クリスマスではなく、復活祭です。
そして、明日の「復活の聖なる徹夜祭(Easter Vigil)」は、一年の典礼のうち、最も盛大で、中心的な祭儀です。教会は十字架上で死に、葬られたキリストが復活するのを祝うのです。




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復活祭前日の3/31(土)、復活祭の卵作りを行いました。毎年、年当番の地区が作ります。今年は、柏・我孫子・茨城地区、馬橋・小金原地区、北小金地区の合同チームが担当しました。

これがなかなか難しいんです。

今年の卵は700個!
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聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」、聖金曜日「主の受難の祭儀」、そして、復活の聖なる徹夜祭が行われるこの過越の聖なる三日間のために、当日の午後5時半から、侍者を担当する方々に集まって頂き、フィリップ神父様のご指導のもと、典礼の式次第の確認をし、本番に備えました。

 

主の晩餐の夕べのミサでは、洗足式、ご聖体を仮祭壇へ移動することについて、確認が行われました。
その際の侍者の動き等に関し、司祭より指示がありました。

 

主の受難の祭儀では、十字架礼拝、仮祭壇からのご聖体の移動について、司祭から指示がありました。
1年で唯一ミサの行われない聖金曜日の祭儀は、普段のミサとは全く違うものとなります。始めて聖週間の侍者を行う青年や高校生とも役割などを詳細に確認しました。

 

復活の聖なる徹夜祭は、光の祭儀、洗礼式などについて細かに司祭から指示を頂きました。
先唱者も参加し、典礼の頂点である復活の聖なる徹夜祭のために詳細な箇所まで確認し、滞りなく行えるようにしました。

 

このようにヨゼフ会は、2018年の過越の聖なる三日間のミサ・祭儀が、聖週間のための侍者会を行い、滞りなく行われるように、奉仕しています。