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青年有志たちで作っている同人誌「野ばら」の第14号が発刊されました。

「野ばら」は、2016年5月に創刊され、以来、1か月おき(奇数月)に発刊しています。
「野ばら」というタイトルは、この同人誌の発起人がつけたもので、マリア様をイメージしたものだそうです。

この同人誌の中で、青年達は、カトリック文学に挑戦しています。自分の信仰を内省し、祈りのように、書き上げています。

 

各号には、それぞれテーマを設け、執筆しています。
第14号は、「夏・夏休み・主の変容・聖母被昇天」をテーマに、詩や散文が収録されています。

 

PDF版も無料で配布しています。バックナンバーも取り揃えています。(リンク先よりダウンロードが出来ます)

 

 

毎号、巻頭作品は、前号の読者の方々から感想を頂いたなかで、一番評価が高かった同人の作品が掲載されます。
野ばらの巻末には、連絡用メールアドレスなどを載せていますので、感想等を、御寄せ頂けたら幸いです。




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今日も元気に集まりました!
「教会学校・はじめの祈り」を唱えてスタートです。

 

最初に歌の練習をしました。
「主は水辺にたった」
「大波のように」
の2曲を練習しました。

 

 

今日で、宮原助祭は1学期最後です。夏休みに入られます。
というわけで、今日は宮原助祭に授業をして頂きます!
よろしくお願い致します!

「恵みの風に帆をはって―ペトロ岐部と187殉教者物語」という本を紹介します。

イエス様の教えの大事なきまり、難しい言葉で言うと「掟」があります。
ひとつだけです!
何だったか覚えていますか?
「隣の人(隣人)を愛すること・神様を愛すること」です。

この教えが外国から日本にとどきました。
何百年も前に…。
日本の人たちはその教えをきいて「そうなんだー」と思って、広まって行きました

イエス様を信じるようになっていった人たちもいれば、そうじゃなかった人たちもいました。
イエス様の教えについて、「何を言ってるんだ!?」という人たちは、「神さま信じるんじゃない!捨てなさい!」と信じている人たちに言いました。
信じてる人たちは「それはできません」と言いました。
偉い人たちはその人たちを攻撃しました。

この本のタイトルにもある「ペトロ岐部と187殉教者」は、神様を信じていたから攻撃されてしまった人たちです。
本当は500人以上の人が殉教したと言われています。
神様を信じてたから処刑されてしまった人たちがたくさんいたのです…。

日本人は188人の人たちをどういう人だったかひとりひとり調べました。
そして、10年前、福者になりました!

福者とは…
正しく生きたのにいじめられ、黙って死んでいった人のことを、イエスさまは幸せな人と言いました。
神様がその人たちに本当の幸せをくださるからです。
そういう特別に神様から祝福された人に「福者」や「聖人」という名前をあたえて、みんなで尊敬します。
福者はキリスト信者の模範です。
福者になると、日本の中で記念の日が決められてお祝いされます。
聖人になると、世界中のカレンダーに載るようになります。

 

さて…殉教者が多かったのは日本のどこでしょう?
A米沢 B京都 C江戸

Bの京都に手を挙げた人が多かったですね!

正解は米沢で、53人です!

京都は52人、江戸は2人です。

 

 

今日は、江戸の2人の殉教者の名前を覚えましょう。
一人目は、ヨハネ原主水といいます。
どういう人でしょうか?
この絵のどの人が原主水でしょうか?

青い服の人物がいますね。この人です。

 

キリスト教を信じる前は…
「偉い人が通るからみんな頭を下げなさいー!」と言いながら、偉い人がくる時の列の先頭に立って歩く人でした。

将軍についている人として働いていたのでした。
普通の人と比べたらけっこう偉い人ですね。

原主水は あるとき熱心にイエスさまを信じている人と会いました。
その人はみんなが嫌がる仕事を引き受けて一生懸命働く人でした。
その人に出会って洗礼を受けたのです。

そして…どうなったでしょうか?

周りの偉い人たちは、原主水が裏切ると思いました。
だから、当時の将軍の家康は彼をクビにしました。
原主水は、将軍じゃなくてイエスさまに仕えるようになりました。
自分自身がへりくだって、病気で隔離されてた人たち(ハンセン病の人たち)と一緒に生活しました。
最期は通報されて、火あぶりになってしまいました…。

2人目は、ペトロカスイ岐部、本のタイトルにも出ているペトロ岐部です。
どんな人だったでしょう?
イエズス会の神学校に行った人です。
有馬にあった神学校に入りました。
神学校では外国人の宣教師が教えていました。
宣教師と一緒にすごして勉強してたけど、迫害を受けて勉強できなくなってしまいました。
イエス様を信じている人たちが追放されてしまったからです…

ペトロ岐部は日本を出ることになりました。
そして、ローマを目指しました!
インドからローマまで歩いて行きました!
ローマで神父さまになって、日本に戻りました。
日本には、隠れながら熱心に祈る信徒たちがいました。
ペトロ岐部はその人たちに教えました。

でも最期には偉い人たちに捕まって、殺されてしまいました…

このように、昔の日本には命をかけて神さまを愛した人たちがいました。
神父や修道士、シスターだけじゃなく、普通の人も福者になっています。

福者になった人たちは、何がすごかったでしょうか。
部屋の隅っこでお祈りするだけじゃなかったのです。
お祈りすることで、自分がやりたいことやできることをするのではなく、神様が働くようにしたのです。
心に神様が働くスペースをいっぱい作って、自分のやりたいことより神様の望むことをしました。
これは、みんなもできることです!

今週の水曜日(7月11日)、「ペトロ岐部と187殉教者」が聖人になるようにとお祈りします!
みんなもお祈りしましょう!

 

最後に、心の中に神様が働くスペースをいっぱいつくった方、マリアさまのお祈りをして終わりました。

 

今日の宮原助祭のお話は、高学年の皆は小学校の社会の勉強でもすこしきいたことがあるお話だったようです。
小学校で勉強したことをもっと詳しく知れてよかったですね!

 

宮原助祭、一学期はありがとうございました。
また夏休み明けからよろしくお願い致します!




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各講座・勉強会のお知らせです。

 

キリスト教(入門)講座

講師:松戸教会 カテキスタ グループ

1年をかけて、キリスト教の基礎を学んでいきます。
洗礼を希望れる方、教会の教えについて知りたい方、聖書について興味ある方、キリスト教を基礎から学びたい信徒の方などを対象としています。
(注)日曜コースと金曜コースと内容は違いますが、どちらを受講しても洗礼を受けることが出来ます。

● 日曜コース

7月15日(日)まで。
9月2日(日)より、再開。

● 金曜コース

7月20日(金)まで。
9月7日(金)より、再開。

 

 

「愛のよろこびを味わう」(水曜日 午前10時より)

講師:フィリップ神父

教皇フランシスコの著書「愛のよろこび」をフィリップ神父の解説を交えながら、通読し、分かち合います。

7月18日(水)まで。
9月12日(水)より、再開。

 

主日のミサの朗読箇所の勉強会(木曜日 午後6時半より)

講師:フィリップ神父

次の週の主日のミサの朗読箇所を朗読し、フィリップ神父の解説を伺い、分かち合います。

7月19日(木)まで。
9月13日(木)より、再開。

 

宮原大地助祭の勉強会(土曜日 午後5時より)

講師:宮原 大地 助祭

聖ヨハネ・パウロ2世教皇の使徒的書簡「主の日ー日曜日の重要性」を教材に、その内容を宮原助祭が解説してくださり、日曜日の多様な側面を考察しつつ、その変わることのない価値と重要性を参加者で分かち合います。

7月7日(土)まで。
9月29日(木)より、再開。




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松戸教会では、毎月第1週の主日のミサのなかで、その月に誕生日を迎えられる方々の祝福を行っています。

 

今月は、フィリップ神父様がコロンバン会100周年記念行事のため、お留守にされていたので、本日、年間第13主日のミサのなかで油谷 弘幸神父様にお祈りを唱えて頂き、灌水して、祝福して頂きました。

ミサに与った方々からも祝福の拍手が送られました。
7月生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは2人。
高校生は、テストの時期と重なってしまい、みんなテスト勉強で教会はお休みでした…

 

今月は、6月29日が使徒聖ペトロの祭日でしたから、聖ペトロの召命を通して、キリスト者の生き方について、一緒に考えてみようと思います。

 

 


 

今月のテーマ

● 聖ペトロの召命 ●

 

さて、今日は、聖ペトロについて考えたいと思います。
なぜ、聖ペトロを今日を注目するかわかりますか?

それでは、その質問の答えを考えるために、少し視点を変えましょう。
教会のなかで最も大事な日とされているは、大祭日といいます。大祭日は、分かりますよね…そう、イースター。復活祭ですね。

なぜですか?
イエス様が復活されたから?
そうですね。
イエス様が受難・死に打ち勝ち、復活し、神様の愛が示されたからですね。
神様は、自らの独り子を私たちにお与えになった程に私たちを愛して下さり、私たちも同じように、絶望があろうと、その奥には必ず希望があり、全ての人々が神の国に招かれていることを示してくださいました。それを私たちは1年ごとに思い起こし(新たに体験する事・記憶の最も新しい箇所にその出来事をもってくること)神様・イエス様の愛を感じ、洗礼を更新するのですよね。それは、カトリック教会にとって、最も大事な出来事です。

と、いうように教会には、大事な出来事を私たちが思い起こし、神様・イエス様の愛を感じられるように、祝日を作っています。
祝日には、大祭日、祭日、祝日、記念日とあります。

大祭日は、復活祭。
祭日は、イエス様や、マリア様、洗礼者ヨハネなど、神様の直接的な働きを感じられるとき。
祝日は、主に、イエス様やマリア様、洗礼者ヨハネなどの出来事や、使徒たちなどの日。
そして、記念日は、主に聖人を思い起こす日です。。

2人も霊名を頂いた聖人の日をおぼえていますか?
旧約の時代からイエス様が生きていた時代、名前は、神様の意図、ミッションを表すものでした。
2人も霊名も神様から与えられたものですから、それぞれの聖人の働きをしっかり把握して、自らの霊名に相応しい生き方をしましょう。霊名の祝日は、それを思い起こすのにとても良い機会ですから、自分の霊名の聖人の日には、記念してお祝いして、自らの生き方について考えてみましょう。

話を戻します。先日の6月29日は、聖ペトロ・聖パウロの祭日でした。
だから、今日は聖ペトロに注目し、聖ペトロを通して、キリスト者の道を一緒に考えていければと思います。
ところで…これでいうと、聖ペトロも聖パウロも使徒ですから、普通、祝日ですよね。でも、教会は、この日を祭日、つまり、神様の直接的な働きを感じれる日としています。

何故でしょうか?
2人は、教会の大きな2つの柱ですね。
聖ペトロも聖パウロもイエス様から直接教会を導くように命じられました。
2人には大きな聖霊の働きがあり、聖霊に導かれ、私たちの礎になりました。それはまさに「神さまの直接的な働き」ですね。今、私たちの教会があるのは、2人の働きによるものと言っていいのかもしれません。
だから、私達は、この2人から多くの事を学ぶ事が出来ます。
特に聖ペトロは、私たちに与えられた最初の教皇です(今、教皇は知っているよね…ニュースにも結構出てくるし、ミサの奉献文のなかでもお名前を言っているよね…………)イエス様に直接教会のリーダーとなることを求められ、全てを捧げ、そのみ旨を果たしました。
イエス様から「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われ、教会の礎となった聖ペトロの働きは、まさに神様の愛の表れに他ならないと思います。

さて…今日は、その聖ペトロの召命の場面を味わい、キリスト者の道を考えてみましょう。
それでは、ルカ福音書の5章1節から11節までを早速朗読してみましょう。

ありがとうございます。
ペトロの召命のシーンは4つの福音書全てに載っています。

ヨハネ福音書(ヨハネによる福音書1章35-42節)では、聖アンデレが、兄弟の聖ペトロに「メシアに出会った」と伝え、2人で弟子になります。ペトロに出会った時、イエス様は、聖ペトロに「ケファ(アラム語で岩という意味)=ペトロ(ギリシア語で岩という意味)」と名付けます。この時にイエス様は、最初の弟子となった聖ペトロを私達弟子のリーダーとして最も低い所に置くことを定められていたのですね。前も離しましたが、教会では高い所にある人ほど仕える者になります。それは、イエス様が、最後の晩餐の時に弟子の足を洗って示してくださっていますね(ヨハネによる福音書13章1-20節)

マタイ(マタイによる福音書4章18-22節)とマルコ(マルコによる福音書1章16-20節)は、イエス様が洗礼を受け、悪霊からの誘惑に打ち勝った後すぐ弟子にしています。
イエス様が「人間を漁る漁師にしよう。わたしについてきなさい」と、聖ペトロに言い、聖ペトロは網を捨て、すぐに従います。
網を捨てるという事は、「仕事」も「家族」も「今までの人生をすべてをなげうって」イエス様に従うということです。迷いも「~~してから」ということもなく、すぐに従います。
別の箇所(マタイによる福音書8章18-22節・ルカによる福音書9章57-62節)で父親の葬式をしてから従うという人や家族にいとまごいをしてからという人に対し、イエス様は「神の国にふさわしくない」と言っています。イエス様は「すぐに」従うことを望まれています。
なぜなら、それは、考えてわかるものではないからです。
イエス様との出会いは、神様との出会いです。神様と出会った人には、大きな変化が起こるはずです。イエス様に従うという事は、まさに聖ペトロがすぐ従ったように衝動によって起こるものです。考えて行動するものではありません。衝動が起こらない時は、神様に出会っていない、イエス様に出会っていないことなのかもしれません。つまり、それは、イエス様を受けれいるという事が出来ていない、それを妨げるものが自分にあるという事ですね。

 

それが、今読んでもらったルカ福音書では、非常に分かりやすく描かれています。
「プロの漁師である」聖ペトロには、「大工の子である」イエス様に「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言われても、「漁れるわけないだろ」とその言葉を受け入れることが出来ません。確かに漁は深夜(午前2時頃から)するものです。その時間でなければ魚は(売るほど)漁れないからです。(今もそうですね)現に聖ペトロ達はすでに漁を終え、片づけをしている最中でした。
人間としての、もっと言えば世の中の常識としては、聖ペトロの方がもちろん正しいわけです。ましてや、その日は、魚は全く漁れなかったのです。
それなのに「大工の子である」イエス様に「もう1度」と、言われれば、当然イラつきすら(なんなら怒りすら)あったと思います。1日の仕事を終え片付けをしている最中に、素人のイエス様に「(漁れるはずもないのに)もう1度漁に出ろ」と言われているわけですから。
この時代、「先生」と呼ばれるような神の道に生きている人のいう事を聞かないわけにはいきません。しょうがなく「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答え、漁に出ます。

しかし、聖ペトロの考えとは、真逆の結果が出ます。
網が破れる程の魚がかかり、聖ペトロの舟だけでは足りず、もう1艘舟を呼んでようやく引き上げられるほどの大量でした。
あまりに大漁で、魚の重みで2艘の船は沈みになりながら、ようやく岸に戻りました。

聖ペトロは、イエス様の足元にひれ伏し「主よ、私から離れてください。私は罪深いものですと、イエス様に回心します。
聖ペトロは何か悪いことをしましたか?
イエス様に怒ったから?

回心というのはどういうことだったっけ?
回心とは、「自分や社会の常識、物質的なものに目を向けていた心を、神様に向ける事」ですよね。
人間は、自分では正しい事をしているつもりでも、それは本当にみ旨なのか……。
自分の中の常識、自分の好き嫌い、自分の能力、世の中の常識、……そういった事だけで考えてしまう時がほとんどです。しかし、祈ることで、神のみ旨を感じ、神のみ旨にそって生きるようになります。そのためには、まず「ありのままの自分」、つまり、自分が神様に造られた小さな被造物である事を思い起こさないといけません。神様を信頼し、神様のみ旨のなかで生きている人が「山に動けと言えば山も動く」のです。信仰を持っている者ならば、出来ない事は何1つありません。(マタイによる福音書17章20節)

聖ペトロは、それに気づいたのです。
自分自身が常識の中にいた。自分自身が自分の考え、自分の能力のなかにいた、自分を中心に置いていた、神のみ旨に生きていなかった事に気付きます。そして、イエス様が特別な方である事に気付きます。

そして、イエス様は、回心した聖ペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間を漁る漁師になる」と、言います。

自らにないものを信頼しなくてはいけないことは、確かに怖い事です。
自分自身の外に出ることは本当に怖くて怖くてたまらない事だと思います。誰だって、自分の知識や自分の知恵、自分の常識のなかで生きている事の方が安心です。
でも、『恐れることはない。』イエス様は、なんどもこの言葉を弟子たちに向かって伝えます。もちろん、この言葉は、私達にも仰っている言葉です。
自らを着飾らなくても良いのです。(ルカ12章22-34節)神様は、私たちに必要なものはご存知です。自らを誇っても、自らに富を詰んでもしょうがありません。大事なことは、誰より優れているか、優れていないかという事ではなく、神様のみ旨にそってどれだけ生きれたかということです。だから、自分が常に小さな者、貧しい者である事を知り、自分が神様に作られた被造物であること、自分が神の道具になる事を知らなくてはいけません。

聖ペトロは、それに気付きました。
それは、まさにイエス様の存在という神秘によるものでした。

イエス様は、聖ペトロに「人間を取る漁師になる」と言います。「なりなさい」ではなく、「なる」といいます。マタイやマルコでは「しよう」と仰います。つまり、神のみ旨によって、聖ペトロは人間を取る漁師になる(してくださる)のです。
全てを捨て、イエス様に従った、弱く貧しい者である聖ペトロが、2000年の歴史をその後紡ぐことになったカトリック教会の礎をつくったことが、それを証明してくれています。

私達も、イエス様に招かれて、洗礼を受けました。
神様やイエス様は、時々私たちに難題をぶつけることがあります。
例えば、リーダーに、自分では無理だと思うようなことを頼まれたりすることがありますよね。
リーダーは、みんなを信頼して、出来ると思って頼んでいます。もちろん、その為の準備や練習の時間が必要かもしれません。でも、出来ます。出来るから頼んでいます。

「出来ない」と思う時、よく考えてみると「したくない」という感情が混ざっていることがありませんか?
「出来ない」と思う時、たとえば、自分の常識とか能力とか、そんな自分の範疇でしかものを考えていない時はありませんか?
「出来ない」と思う時、ものの本質的な目的を見失っている時はありませんか?

頼まれた相手を信頼し、神を信頼し、聖霊の働きを願えば、出来ない事は何1つありません。
あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ」(ヨハネによる福音書15:16)と、イエス様は仰っています。
からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない(マタイによる福音書 17章 20節)」のです。

私たちが信じる神様は、いつくしみ深く、死者を復活させる方です。私たちはその証人です。
そして、聖ペトロの信仰のあゆみを知っています。
私たちがキリスト者として生きることは、神のみ旨に従い生きる事です。
聖ペトロを模範として、私達も神様を心から信頼して、それぞれの賜物を活かし、周りの人に仕えましょう。

 

それでは、最後に神様への信頼を示し、主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

次回の勉強会は、9月の第1週です。
夏休みには、錬成会や中高生の集まりもあります。
中高生の集まりでは、それぞれの賜物を活かして、みんなに活躍してもらいます。

教会は、みんなで楽しくするものです。それを実践してみましょう!!