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新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

 

本日、午後1時から2019年ヨゼフ会総会が、行われました。

約1時間にわたり、2018年の活動報告、2019年の役員などが発表されました。また、2019年に向けて昨年の反省点をあげ、それに対しても討議されました。

 

 

総会後、クリスマスの飾りつけの撤去作業に入りました。
これで、今年度の飾りつけも見納めです。
是非、来年のクリスマスには、松戸教会にお越しください。

 

撤去作業後、新年会が行われました。

2018年も様々な企画実行し、教会行事に積極的に参加していきます。

松戸教会所属の成人男性信徒は、みなさん、ヨゼフ会に入会出来ますので、是非、多くの方に入会して頂き、ご一緒に今年も様々な活動を行えたらと考えています。
たくさんの方々の入会・ご参加をお待ちしています。




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松戸教会では、毎月第1週の主日のミサのなかで、その月に誕生日を迎えられる方々の祝福を行っています。

 

今月は、本日・主の公現のミサのなかでフィリップ神父様にお祈りを唱えて頂き、灌水して、祝福して頂きました。

8時のミサ

 

10時半のミサ

 

ミサに与った方々からも祝福の拍手が送られました。
1月生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます!




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今日は、主の公現の祭日です。
本来、1月6日が主の公現の祭日ですが、日本は守るべき祭日でないので、1月2日から8日の間の日曜日に祝います。

 

「主の公現」とは…

神の栄光がキリストをとおして、すべての人に現れたことを祝う日です。
東方の三博士たちが幼子を礼拝した出来事を記念する。そこにすべての人を救う神の子の栄光の現れがある、という意味で「現れ」のお祝いです。

 

 

入堂の際には、教会学校の3人の子どもたちが一緒に入堂し、馬小屋にそれぞれ3人の東方の三博士像を安置しました。

 

 

 

子どもたちが扮した東方の三博士が、三博士像の安置を終えると、司祭が、祭壇・馬小屋に献香し、祝別します。

 

 

福音朗読……。

 

第1朗読 イザヤ書 60章1~6節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節
福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節

 

 

三博士を務めた子どもたちも無事役割を果たし、ほっとしています。

 

感謝の祭儀が始まり、祭壇の準備が整うと、司祭が、馬小屋と祭壇に献香します。

 

 

 

 

 

神の栄光がキリストにおいて現れ、すべての人におよぶ救いの光が輝きはじめていることを賛美しました。
闇の中に光がさしこむかのように馬小屋に太陽の光が注ぎ、まるでキリストの降誕によって主が私たちと共におられることが明らかにされているようでした。




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今日は、主の公現の祭日です。

教会学校の子どもたちには、大事な役目があります。
ミサ入堂とともに内陣の馬小屋に三博士を安置する大事な役目です。

 

 

始業式の後、その役目を務める3人の子どもは、担当のリーダーに呼ばれて幼稚園の別室へ!
まずは、3人に東方の博士の格好をしてもらいます。保護者の方々に手伝ってもらって、急いで、衣装に着替えます!

 

そして、急いで御聖堂へ!

そして、入堂の行列から練習します。
1年生は、まだ侍者も未体験……。
ミサ前に入堂での所作、そして、内陣での所作、三博士を安置する場所など、丁寧にカテキスタの方とリーダーから教わり、練習しました。

 

遠い東方から馬小屋でお生まれになったイエス様を「メシア」と信じ、礼拝した博士たちの来訪をしっかり再現できるように、本番でも頑張りましょうね!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは5人。
まだ、冬休みということもあり、久しぶりに教会に来たメンバーも参加して勉強会が行われました。

今月は、先月に引き続き、キリスト者としての生き方について、考えてみましょう。

 


 

今月のテーマ

● イエスとともに歩む ●

 

 

私たちは、先日、クリスマスを迎えました。
みんなは、どのように感じましたか?
街もクリスマス一色でしたね。友達や家族とクリスマスパーティをし、楽しむ日ですか?それとも、なにげないただの冬休みの1日ですか?
それとも、「クリスチャンとして」教会行事が多くて大変で……とか、時々は教会に来てみようかなという日でしたか?
どんな日でしたか?
喜ばしい日?楽しい日?切ない日……?
みんなそれぞれ思いがあるかもしれませんね。

 

さて、先月の話を覚えていますか?
ベツレヘムという町の外の馬小屋で生まれ、ナザレという小さな町に育ち、約30年後、神の国の到来を告げ、十字架上で亡くなったイエスという人は、約2000年前に本当に存在していました。みんなは、この事実をどう思いますか?

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネ福音書には、こう記されています。
この福音書の言葉は、私たちが、神様を信じていなければ、何の意味もない言葉です。
神様の存在、神様が全知全能であること、神様が憐み深い方だということ、すべてが信じられなければ意味がない言葉です。
それが信じることが出来ていれば、おのずとクリスマスの意味は、少し違うものになりますね。

もっと言えば、私たちがどのように生きられるかということは、結局、神様を信じられるかということになるのだと思います。
実際に生きたイエス様がそうだったようにです。
イエス様は、いつも「賛美と感謝」を捧げ、祈られていましたね。

箴言の1章7節にこのような言葉があります。

 

主を畏れることは知恵の初め

 

箴言は、神様が、夢枕に立ち「何でも願うものを与えよう」と仰った時に「知恵」を求めたソロモンが残した格言がまとめられた書です。(ソロモンは、ダビデとバド・シェバの息子ですね)この言葉は、「神の前で自分の不完全さを自覚し、謙虚な心で神の教えに耳を傾けることこそが知恵の初め」という意味でです。

イエス様は、そのことを、もちろん、ご存知でした。
神様を愛し、神様を信頼しているからこそ、ご自分を「最も低く最も小さなもの」とすることが出来ました。そして、だからこそ、心から「憐み」を求められました。いや、求めらざるをえなかったのですね。

逆に考えれば、ご自分が最も低く小さな者と知るからこそ、神様の愛を感じることが出来ました。

 

イエス様は、仰いました。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである

ルカによる福音書9章23-24節

わたしのために(の)命」「私に従う」ということは、キリストの道、つまり、神様への道、神様のみ旨に生きることです。聖霊に従って生きるということです。
自分の命」「自分」ということは、自分自身、世の中の価値観、物質的な価値観の中で生きるということです。

では、「救う」ということは、どういうことですか?
救う」とは、神様との関りに入るということです。創造主であり、全知全能の神との関りのに入ること。イエス様との関りにいること。
神様と関りを持てば、「神様の造ったありのままの自分」が調和し、「神様の造ったありのままの自分」たちが共に過ごす世界が広がります。
今までの勉強の中で、その話は何度もしましたよね。たとえば、イザヤの平和の王の箇所(イザヤ11:1-10)の「狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く(6節)」のような世界です。それこそがまさに「神の国」そのものの姿です。
イエス様は、「神の国」を、私たちがいるこの地上に実現するために来られました。

ミサの中で、奉献文の最後に唱えられる栄唱を思い出してみましょう。

キリストによってキリストとともにキリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々にいたるまで、アーメン

イエス様こそ、キリストであると信じる私たちには、この祈りは、「イエス様によって…イエス様とともに…イエス様のうちに」ということになりますね。
つまり……

  1. キリストによって
    イエス様によって…
  2. キリストとともに
    イエス様とともに…
  3. キリストのうちに
    イエス様が現わされた「神様の愛」のなかで
  4. 聖霊の交わりの中で
    聖霊と聖霊の関りの中、そして、聖霊の神殿である私たちキリスト者の関りの中で
  5. 父であるあなたに……
    神様に…
  6. すべての「誉れ」と「栄光」は
    私の住むこの世界、そして、私たち自身を想像された神様の偉大さは…
  7. 世々に至るまで
    「創造」の時(α)から「世の終わり」まで(Ω)のすべての場所(4次元的にすべての場所)に広がる。
    (神を知れば、神の国の民となるから)
  8. アーメン
    「はい。確かにその通りです」

 

こうしてみると、私たちの信仰を最も直接的に表していることが分かります。

みんなの目は、どこに向いていますか?
神様ですか?自分ですか?何か欲しい物ですか?

心の中で、それを問うてみましょう。
みんなにとって、かけがえのない大事なものはなんですか?

 

それでは、マルコ福音書の4章35-41節を読んでみましょう。

ありがとうございます。

何故怖がるのか?まだ信じないのか?

イエス様は、弟子たちにおっしゃいます。
みんなも困った時、苦しい時、神様に「助けて!」とお願いしますよね。弟子たちもイエス様に「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!?」と、言います。
でも、どうですか?
弟子たちはイエス様を心から信頼していると思いますか?
弟子たちは、イエス様と出会いました。そして、イエス様は、すでに弟子たちの前で、たくさん、神の国がどのようなものか示してくださっています。
しかし、弟子たちは、イエス様が共にいても、イエス様とすでに多くの時間を過ごしていても、イエス様を「先生」と呼び、イエス様との関りを信じていません。
イエス様は、全身全霊で弟子たちとの関りを持とうとしているのに、弟子たちは、まだ心を完全に開いていません。信頼がありません。

みんなは、どうですか?
イエス様を心から信頼していますか?

それは、みんなの見ている方向によると思います。

何故怖がるのか?まだ信じないのか?

イエス様は、私たちにいつも問うています。
私たちが、イエス様を心から信頼し、イエス様とともに、イエス様とのかかわりの中で生きていけることが出来るように、最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

次回の勉強会は、2月3日です。

今年度最後の勉強会です。筆記用具をもって、集まってください。