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本日、四旬節第1主日、10時半からのミサのなかで、復活の聖なる徹夜祭に受洗される10名の方の洗礼志願式が行われました。

 

 

洗礼志願式が始まると、まず、フィリップ神父様が、代父・代母の方々に「志願者がこれから教会共同体のメンバーとして過ごせると思いますか?」と尋ねられ、代父・代母の方々は「はい。そう思います」と答えられました。
また、入門講座で講師をつとめてくださっている愛徳カルメル修道会のシスター、そして、カテキスタの方々に「志願者に洗礼の準備ができていると思いますか?」と同じく尋ねられ、シスター、カテキスタの方々も「はい。そう思います」と答えられました。

 

続いて、志願者の方に「みなさんは本当に洗礼を望みますか?」と尋ねられ、志願者の方々は「はい、望みます」と答えました。
神父様はその答えを聞いたのち、志願者として教会に受け入れられることを宣言されました。

 

そして、ミサに参加した全員とともに使徒信条を唱えました。

 

 

その後、洗礼志願者の方々1人ひとりに、フィリップ神父様が、聖香油で額に十字架のしるしをされました。

 

約1年間にかけて学び、洗礼の決心をされ、これから、復活の聖なる徹夜祭までの間、様々なことを考え、受洗される準備を整えられると思います。
洗礼志願者10人への皆様のお祈りをお願い致します。




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

先月・今月は、「イエス様の受難・死・復活」というもっとも大事な箇所です。
既に堅信を受けたメンバーも、堅信にもう一歩足を踏み出せないメンバーも参加して、自分の信仰についてもう1度考える機会になればと思います。

 

 

過越の聖なる3日間の出来事 1 -2016年度 第11回 勉強会- の続きです。

 


 

 

今月のテーマ

● 過越の聖なる3日間の出来事 2  ●

 

 

● 木曜日の夜から金曜の明け方までの出来事 (聖金曜日 主の受難)

 

イエス様は、聖書で預言されていた通り、捕らえられ、受難にあわれます。
今日は、過越の聖なる3日間の典礼の本を持ってきました。
せっかくなので、聖金曜日「主の受難」で朗読される受難朗読をみんなで役割をもうけて朗読してみましょう。(イエス様・ピラト、ペトロ・群衆・語り部)
1つだけ、イエス様がなくなるシーンを朗読した際には、少しの時間、今まで朗読した箇所、そして、今まで学んできた思い、イエス様が亡くなったことに関して、黙想してみましょう。イエス様が亡くなった意味を、1つの言葉で表せることが出来ると思います。
それでは、やってみましょう。

 

ありがとうございます。
イエス様のご受難のお話…どうでしたか?
クリスマスと同じくらい私たちは、この話を知っています。毎年、毎年、私たちはこの「受難・死」というものを共に経験し、共に「ご復活」の栄光を味わいます。

堅信の勉強会でも話しましたが、この話こそ、私たちの信仰の根幹です。
あまり時間もありませんから、特に重要なシーンだけ、お話ししましょう。

 

1.ペトロ三度知らないという…

まずは、最後の晩餐のなかで、イエス様は、ペトロに「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。と仰るシーンがありましたね。ペトロは、もちろん否定しますが、現実にそれが起こってしまいます。

1回目

門番の女中はペトロに言った。
「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」
ペトロは、「違う」と言った。

2回目

シモン・ペトロは立って火にあたっていた。
人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。

3回目

大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。
「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
ペトロは、再び打ち消した。

 

そして…

するとすぐ、鶏が鳴いた。

 

ペトロは、鶏が鳴いた時、イエス様の言葉を思い出し、大事な人を裏切ってしまった口惜しさ、自分の情けなさ、悲しさ…そういうものに押しつぶされそうになったでしょう。
ペトロは、号泣します。あまりに泣きすぎて、涙袋が腫れてしまい、大きく腫れぼったい涙袋になってしまいました。御像や絵画のペトロにはそれが描かれていますね。(つまり、涙袋の大きいペトロが描かれている場合は、ご受難後ということ)

この話は、よく覚えておいてください。ご復活後の話につながる話です。

 

 

● 金曜日の出来事 (聖金曜日 主の受難)

 

1.ポンティオ・ピラトとの問答

大祭司カイアファに、イエス様を死刑にするために自分の所に連れてこられたローマ総督ポンティオ・ピラトは、非常に困ります。
面倒な「自分とは関係ない宗教的な事」「ユダヤ人同士の事」に、クビを突っ込みたくないという気持ちです。まして、罪のないイエス様に、刑を与えることなど出来ません。しかし、ユダヤ人社会とうまく付き合う事も彼には必要でした。祭司や長老たちのユダヤ人社会に対する影響力は、ヘロデ(当時のユダヤの王>実質的にはガリラヤなどを含む一地域の領主)よりありました。彼らの要求を無碍にすることも出来ません。そうじゃないと、ローマ皇帝から、「イスラエルの統治が上手く行えていない」とされ、ローマ総督の地位を失う事、つまり、出世に影響が出てしまいます。

ピラトの気持ちは、みんなも想像しやすいかもしれません。
みんなならどうしますか?

ピラトは、まず逃げようとします。
「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言って、大祭司カイアファたちのもとに戻そうとします。
しかし、イエスを亡き者にしようとするカイアファや元大祭司のアンナス(アンナスはカイアファの舅 ―当時の大祭司は終生なのですが、ピラトにより無理矢理退任させられ、婿のカイアファが大祭司になっていた。そのためユダヤ人社会では、アンナスは大祭司と呼ばれ、権力も当時のまま残っていた。―)たち祭司や長老たちは、死刑にするために、あくまでピラトに裁くように求めます。(死刑にはローマ総督しか出来ない)

そして、今度は、イエス様をイエス様の出身地であるガリラヤの領主であったヘロデのもとに送ります。つまり、面倒を避け、ヘロデに押し付けたのです。
ヘロデは、イエス様がたくさんの奇跡を起し、しるし(神様がいるという証)を見せていたのを知っていたので、始めは喜びます。しかし、ヘロデの問いに、イエス様は沈黙を守られます。
ヘロデは、最終的に祭司長や長老たちと一緒にイエス様を罵り、イエス様に派手な服を着せて、ピラトのもとに送り返しました。

彼は、しょうがなくイエス様を尋問します。

お前がユダヤ人の王なのか」と、問います。
ユダヤ人の王と名乗り(王はローマ帝国から任命されたヘロデなので、もし王を名乗るならば、ローマへの反逆の意志があることが推察できる)ローマへの反逆を計画していれば、イエス様を死刑に出来ます。そうすれば、何の問題もありません。
しかし、もちろんイエス様にその意志はありません。イエス様はこう答えます。
「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

そして、重ねて尋ねるピラトに、イエス様はさらにこのようにお答えになります。
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

イエス様が王となる国は、物理的な、私たちの現実に住む世界ではありません。
神の国」の王です。神の国については、前お話しましたよね。今年の勉強会の中でもたくさん話してきました。覚えてますか?
イエス様の治める国とは、イザヤ書11章4-9節のような世界ですよね。私たちが現在住む世界とは違います。
永遠の命のなか、神様のみ旨が隅々までいきわたっている世界、全ての人々が神の御旨を尊び、神の御旨のもと、生きている世界ですよね。イエス様は律法を完成させるため、つまり、神様のみ旨を行い、神の国が行われるためにいらっしゃいました。
ピラトが言っている王とは根本的に違います。

ピラトは結局、罪が見いだせず、死刑を回避しようと試みますが、最終的な決断をすることが出来ません。彼は、神の御旨でも正義でも真理でもなく、自分の事しか考えていません。
そして、集まった群衆に尋ねます。
自らが正しい事をするではなく、責任を回避し「誰々が言っているから」とか人のせいにし、責任を回避し、流されていく。

みんなが、ピラトの立ち場ならどうしましたか?
イエス様を救う事が出来ますか?
クラスメイトがいじめられていた…友人が誤解を受けみんなからあらぬ非難を受けていた…みんなならどうしますか?

 

 

2.人々はイエス様を…

つい数日前イエス様をスーパースターのように待ち構えた群衆は、この時どうしたでしょう?

人々は、祭司長や長老たちのような権力者が「イエス様を死刑にする」という強い意志を持っていることを知り、今度は、イエス様を一斉に罵ります。
そして、イエス様を「死刑に」と、言います。
その中には、実際にイエス様によって「しるし(神様がいるということがわかるようなこと)」を受けた人もいるでしょう。
でも、彼らは、イエス様を「罵り、十字架の刑に処す」ことを望みます。
多分、そこに「意志」は無かったのかもしれません。
イエス様を十字架の刑にしたいと誰も心から思っていなかったし、誰もイエス様を救おうとも思わなかった。
ある意味、祭司長や長老、ピラトより罪深いのではないでしょうか?
誰も「おかしい」「間違っている」という人はいなかったのでしょうか?
多くの人はそうする事が出来ません。人は弱い生き物です。
だからこそ、祈りを捧げ、神の御旨に心を向けてください。ミサの開祭の時に行う回心を思い出してみてください。「怠り」も罪です。
あの時「おかしい」「間違っている」という声はもしかしたら、届かず、イエス様は同じように十字架で処されていたかもしれません。もしくは、そういう事によって、自分も十字架の刑に処されることになったかもしれません。でも、神様もイエス様も見ています。聞いています。勇気をもって、神様のみ旨にそった行動をしてください。

 

 

3.イエス様の死

この話自体は、今年の勉強会を通して何度もする機会がありましたね。
預言がその通り行われていくこと…つまり、神の御旨通り、ご計画どおりの事が行われていくこと、みんなも理解していると思います。
十字架上の7つの言葉、覚えていますか?

 

この受難朗読のなかでは、私たちが聖堂で見る磔刑の十字架に書かれている「I.N.R.I.(ユダヤ人の王 ナザレのイエス)」という罪状を貼る話も出てきましたね。
イエス様が死刑判決を受けてからの話は、錬成会の時や教会学校でも行った「十字架の道行」で、みんな知っていますし、今までもたくさん話してきました。だから、今日はその話は(時間がないので)省略します。

人々は、過越祭を祝うために、イエス様を急いで殺そうとします。
そして、(汚れない状態でいるため)それに触れることはないようにします。したがって、ほとんどの行為は、ローマ兵によって行われます。
ここでも、本当の意味での律法を分かっていない人々がいます。

ところで、過越の話を思い出してください。
ユダヤ人たちは、どうやって神様から救われたのでしょうか。
そう「傷のない子羊を屠り、血を家の壁に塗り…」ユダヤ人たちは過越す事が出来たのでしたよね。
傷のない子羊…そう、全く罪のないイエス様を死に追いやることにより、私たちは救われました。ミサのなかで平和の讃歌を歌う時、「神の子羊」と歌いますが、まさにイエス様をさしているのですね。
成し遂げられた」(十字架上の7つの言葉)、死の直前、イエス様はこう仰いました。
まさに自らを神にささげることにより、私たちを救いを成し遂げてくださったのです。

聖金曜日の事を英語で「Good Friday」と言います。なぜイエス様が亡くなったこの金曜日を「Good」なのか、気になりませんか?
それは、創世の時、神様が何かを造られた時に「良しとされた」とされたように、イエス様の十字架上で亡くなる事により、神の救いが完成した瞬間を、神様は「良しとされた」のです。だから、「Good」なのです。

亡くなる時、神殿の垂れ幕は上から下まで裂かれました。
まさにこの瞬間、神様は私たちを赦し、私達と神様は新たな契約、新約を結びました。

こうして、私たちにとって、大いなる失敗のしるしである「十字架」は、神の愛のしるしとなりました。

 

 

さて…今日はここで終わりにします。
もちろん、この話に続きがある事はみんな知っていますよね。
受難・死・復活…この3つは、3つで1つです。そうでなければ、本当の意味での「救い」はないですよね。

 

堅信の勉強の時もお話しましたが、この出来事、そして、この出来事の続き、「ご復活」を信じる事こそ、信仰の根幹です。
じゃないと、この話は、ただの悲しい、私たちが罪深いだけの話になります。
イエス様は、人として産まれ、最後の最後まで苦しまれました。その苦しみは想像を絶するものがあります。
共に過ごした弟子たち、仲間に裏切られ、肉体的にも精神的にも本当に地獄のような苦しみを味わったと思います。出来る事なら逃げ出してしまいたい、そんな誘惑もあったと思います。

でも、それに打ち勝ち、苦しみを受け、そして、100%完全に死にました。
「ポンティオピラトの下で苦しみを受け、死に、葬られ、黄泉にくだり…」と、使徒信条にもありますよね。

私達にも確かに絶望はあります。
信仰があれば、絶望しないなんてことはありません。
絶望はします。死ぬほど苦しい思いはします。

 

前にしたかもしれませんが、フィリップ神父様のイースターのお説教で「厚い雲の奥、太陽は見えない事もありますが、そこに太陽がある事を私たちは知っています」と仰っていました。
そうです。その奥には希望があります!イエス様は、それを示してくださいました。

 

4月13日からの過越の聖なる3日間には、是非与ってみてください。
そして、4月15日の復活の聖なる徹夜祭に心の奥底からご復活を祝いましょう!
私たちに希望があることがしめされたのですから。神様の愛が私たちに常にあることを示してくださったのですから。

 

 

 


 

今年度の中高生の勉強会は今月で終わります。
3月28日からは、堅信のための春季集中講座が行われます。

 

是非、多くの中高生に集まってもらえたらと思います。

 

 

来年度は、5月2日から始まります。
教会学校を卒業したメンバーも新たに加わります。中高生の皆さん、是非、集まってください!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

先月・今月は、「イエス様の受難・死・復活」というもっとも大事な箇所です。
既に堅信を受けたメンバーも、堅信にもう一歩足を踏み出せないメンバーも参加して、自分の信仰についてもう1度考える機会になればと思います。

 

 


 

 

今月のテーマ

● 過越の聖なる3日間の出来事 1 ●

 

今月も先月に引き続き、「イエス様の受難・死・復活」について、一緒に考えていきましょう。
既に受堅メンバーには伝えていますが、イエス様の受難・死・復活は、信仰の根幹です。
まず、先月のおさらいをしましょう。

 

イエス様は、「律法を完成させるために」ご降誕されました。
律法は、本来、私たち人間のために神様が私たちを幸せにするため、つまり、神の国の実現のためにあるものでした。

マルコ2章23節を開いてください。

 

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」

マルコによる福音書2章23-28節

 

神様が、私たちへの愛ゆえにご自分のひとり子イエス・キリストをお送りくださったのです。
ヨハネ福音書の3章16節を開いてみましょう。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書3章16-17節

 

モーセがシナイ山で神様から与えられた与えられた十戒は、イエス様によって、私たちにシンプルに本質をついた言葉で掟として残されています。それが、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(十戒1-3の部分) 『隣人を自分のように愛しなさい。』(十戒4~10の部分)でした。

 

そして、聖週間の日曜日から水曜日までのお話をしました。

日曜日

イエス様は、ご受難にあうのを神の御旨として受け入れ、エルサレムに入城されます。
過越祭で世界中からエルサレムに集まった人たちは、まるでスーパースターが来たかのように、イエス様に「ホサナ(救ってください)」「ダビデの子(メシア)」と、迎い入れます。この迎い入れた人たちの思いは「ローマ帝国から解放して、ダビデ王やソロモン王の頃のようなユダヤ人の栄光の時代を取り戻してくれる人」という意味でのメシアでした。しかし、イエス様はそうではありませんでしたよね。イエス様は、力の象徴の馬ではなく、平和の象徴であるロバによってエルサレムに入城されました。イエス様は、「神の国の王」として来られたからです。まだ、誰も真の意味でのイエス様のアイディンティティを理解していないのです。

月曜日

イエス様は、市場になってしまっていた祈りの場である神殿から商人たちをムチで追い出しました。これによって、祈りの場である神殿が戻ってきました。それと同時に神殿がユダヤ人だけのものではなく、私たち人間に解放されました。しかし、商人たちから利益の一部を上納させていた祭司長や長老たちの怒りをかいます。

火曜日

祭司長たちや長老、律法学者から意地悪な質問を受けますが、悉く論破し、さらに、彼らが間違った律法の理解をし、神様の意志とは別のところにあることを指摘します。これによって、祭司長や長老たちは、イエス様を殺すことを決意します。

水曜日

サタンの入ったイスカリオテのユダが、祭司長たちにイエス様を引き渡すことを約束します。彼らは、イスカリオテのユダに銀貨30枚、当時の奴隷1人分の値段を報酬として支払いました。

 

 

 

さて、今日は、木曜日から日曜日までの「過越の聖なる3日間」のお話です。
その話に入る前にまず、過越の聖なる3日間の「過越」のお話をしなくてはいけません。この「過越」は、当時のイスラエルの人々にとって、もちろん、今のイスラエルの人々にとっても、最も大事なことだからです。

過越は、この最後の晩餐が行われていた時のちょうど、1310年ごろ前にあったお話です。

 

ヤコブ(イスラエル)の12人の子(12使徒はここからきています)のなかで、父ヤコブに最も可愛がられていた末っ子のヨセフが、兄たちの妬みをかい、色々あって、エジプトに奴隷として売られてしまいました。でも、ヨセフは賢い人だったので、エジプトで王様や多くの人々の信頼を得て、エジプトの宰相(総理大臣)となります。
その後、大飢饉が中東を襲います。エジプトは、宰相であったヨセフによって食料などを貯蓄してあったこともあり無事でしたが、ヨセフの父ヤコブや兄弟たちは食料が尽きてしまいました。ヤコブたちは、ヨセフが宰相であることを知らず、助けを求めます。そして、ヨセフは、兄弟たちを赦し、ヤコブや兄弟たちをエジプトに招きます。
こうして、イスラエルの民は、エジプトで幸せに暮らすようになりました。
しかし、やがて、エジプトの人々は、ヨセフの事を忘れ、豊かになっていくイスラエルの民に対し、妬み、恐怖を抱くようになりました。そして、イスラエルの民に、重労働を課すようになりました。300年間に渡り、それは続いていきます。しかし、イスラエルの民は、重労働をさせてもさせても、子孫を増やし、繁栄していきます。ついに、エジプトの王様は、「産まれた男の子は、全員殺せ」という命令を下します。イスラエルの民の産まれた子は、産まれた瞬間に男の子と分かると、また、ナイル川に流され、殺されてしまいました。

モーセは、ちょうどその命令が出された時に産まれました。
しかし、モーセの両親は、我が子を殺すことが出来ず、3か月の間隠していました。いよいよ隠すことが出来なくなり、ナイル河畔の葦の茂みに籠にいれて様子を見ていました。
そうすると、そこに王様の娘が水浴びに来ました。王様の娘はモーセがユダヤ人と分かりながらも、殺すことが出来ず、自分の子どもとして育てる事にしました。
こうして、モーセは、ユダヤ人でありながら、王子として、育ちました。

さて、モーセは王子として育っていくなか、イスラエルの民は、そのなかも重労働を課せられていました。
その間イスラエルの人々は重労働の苦しみにうめき、叫んでしました。その助けを求める彼らの叫び声は神に届いていました。神様は、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ」、「イスラエルの人々を顧み、御心に留められ」ていました。

そして、モーセが80歳になる頃、神様はモーセを通して、イスラエルの民を救われます。
神様は、イスラエルの民を解放するために、エジプトの民に「10の災い」のうち、9つの災いを起します。しかし、エジプトの王様は、それでもイスラエルの民を解放しませんでした。そして、最後の10個目の災いの日、いよいよイスラエルの民は、エジプトを脱出します。
脱出の夜、神様は、人間から家畜に至るまで、エジプトの初子(長子)をすべて撃たれました。しかし、モーセを通して、「傷のない雄の子羊の血が家の柱と鴨居に塗っておいた」イスラエル人の家は過越して初子を撃たれませんでした。(だから、この出来事を過越と言います)
エジプトの王の長子も、過越によって危篤となり、エジプトの王は、モーセにイスラエルの民を連れて出ていく許可を与えます。

イスラエルの民は、急いで準備して、酵母を入れない小麦粉のパン(種無しパン)を持ち、エジプトを脱出します。

その後、エジプトの王様は、イスラエルの民を追撃して来て、紅海に追い詰められます。しかし、もうこのシーンは有名ですよね。
海が2つに割け、その間をイスラエルの民は通り、パレスチナの地に戻ります。そして、イスラエルの民が渡りきったところで海は戻り、エジプト兵は、海に流されてしまいます。

この後、モーセは、シナイ山に登り、神様は新たにイスラエルの民と契約を結び、十戒をモーセを通してイスラエルの民に与えます。

 

簡単にですが、これが、過越のお話です。
いつかがっつりやりたいですね。

一番大事な言葉は、「傷のない雄の子羊」です。
神様は、イスラエルの民が「傷のない雄の子羊」を捧げる事でイスラエルの民を過越されました。

この事を覚えておいてください。

 

 

さて、本題に入りましょう。まずは、木曜日のお話です。

● 木曜日の夜の出来事… 最後の晩餐 (聖木曜日 主の晩餐の夕べのミサ)

 

 

「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」

ルカによる福音書22章15節

 

最後の晩餐は、イエス様の、この言葉で始まります。
「最後の晩餐」は、レオナルド・ダ・ヴィンチを始め、様々な画家がモチーフにしているから、みんなもイメージしやすいですよね。
想像してみてください。
自分は、これから何が起こるかわかっています。今まで命を懸け一生懸命伝えてきたことはまるで理解されてない。そして、3年間一緒に宣教の旅をしていた仲間の1人に裏切られ、日曜日にまるでスーパースターのように迎い入れたくれた群衆から、罵られ、何1つ罪は犯していないのに、最も残酷な十字架の刑、死刑にあう…みんなが知っているイエス様の受難・死が今起ころうとしています。

この「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」という言葉の重み、切なさ、悲しさは想像に余りあるものがありますよね。受難・死を迎える前に、ご自分を裏切ることになるイスカリオテのユダも含めて、食事をとろうとされるイエス様の真意を考えてみてください。
神のご計画とはいえ、イスカリオテのユダがどうなるか、ご存じで慈しみによって、一緒に食事をとろうと考えれたのかもしれませんし、もしかしたら、考えを改めてくれると思ってかもしれません。個人的には、「そんなイスカリオテのユダも含めて」一緒に旅をした仲間達全員で食事をとりたかったのではないかと思います。逆に言えば、それだけ、これから起こることにイエス様ご自身も恐怖し、悲嘆にくれ、少しでも分かち合いたかったのではないでしょうか。

 

さて、最後の晩餐は、私たちキリスト者にとって、最も大事な出来事の1つです。
なので、聖木曜日には、この最後の晩餐を直接記念した「主の晩餐の夕べのミサ」があげられます。今年は、4月13日ですね。
それだけ、大事な事がこの最後の晩餐のなかで行われました。

この「最後の晩餐」のなかで、イエス様が「このように行いなさい」と命じられた通り、行っています。つまり、この最後の晩餐に、私たちが毎日(正確にいうと363日)行っているミサが制定されました。それがどれ程、私たちにとって、素晴らしい事か…、みんなにはもうわかりますよね。

 

 

ルカによる福音書 22章19-20節を読んでみましょう。

 

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

ルカによる福音書 22章19-20節

 

はい。ありがとうございます。
もちろん、みんなには、この箇所が何を意味しているか分かりますよね。
感謝の典礼のなかで、聖変化の際に唱えられている言葉です。
イエス様が仰った言葉、聖書の御言葉をほぼそのままミサの中で唱えているわけです。

前にも時もしましたが、この時から約2000年間、このイエス様の言葉を守り、ミサを祝ってきました。
もちろん、この時、弟子たちは、この言葉の真の意味を分かっていません。
受難・死・復活の本当の意味を知るのは、まだまだ先です。
でも、みんなはその意味を知っています。

ミサの中で、平和の賛歌を歌います。
歌詞を覚えていますか?
神の子羊 世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。神の子羊 世の罪を除きたもう主よ、われらに平安を与えたまえ。

そして、その後、ご聖体を拝領する前に信仰告白をしますよね。
主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう

 

平和の賛歌で歌う「神の子羊」、これは、イエス様の事ですね。
過越のことを覚えていますか?
傷のない子羊を捧げ、過越されたのでしたよね。私たちは、全く罪のないイエス様を捧げ過越します。
罪人である私たちが、全く罪のないイエス様を犠牲にし、死から解放され、永遠の命を得る。

この重みを感じ取ってください。
だから、次の信仰告白に意味が生まれます。

 

主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。

ヨハネによる福音書6章 68-69節

聖ペトロの言葉です。みんなはどうですか?
自らを捧げ、神様に私たちを救ってくださるイエス様に心から伝えてみましょう。

 

では、次にヨハネによる福音書13章1~15節を読んでみましょう。

 

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 

まず、最初の箇所、 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」この言葉の意味を味わいましょう。普通に愛したではなく、「この上なく」「愛し抜かれた」のです。初めの説明を少し思い出してみましょう。
これは、神様のみ旨「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3章 16節)」にも通じるものがありますね。

そして、弟子たちの足を洗います。
当時、足を洗うという行為は、その家の召使が主人に対して行う仕事でした。
当時の靴は、サンダルのようなものでしたし、中東は、砂埃が多いですから、家に帰るとまず足を洗うのです。
つまり、召使がする仕事をイエス様が弟子たちに行いました。イエス様は、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(マタイによる福音書23章11-12節)」というみ言葉をそのまま自ら実行されたのです。
そして、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したので」す。

主の晩餐の夕べのミサのなかでは、このことに倣い、洗足式が行われます。
数年前、教皇フランシスコは、刑務所に出向き、受刑者の皆さんの足を洗われました。また、違う年には、難民キャンプに行き、難民の足を洗われました。
松戸教会でも、12人(ヤコブの息子の数、使徒の数)の信徒の足を神父様が洗います。
もし、聖木曜日にミサに与るときは、ぜひ足を洗って頂いてください。そして、イエス様がおっしゃったように、謙遜の心をもって、自ら低くなり、お互いに仕いあいましょう。

そして、イエス様は、足を洗った後、仰りました。
ヨハネによる福音書 13章 26-27節をよんでみてください。

 

イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。

ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

 

あくまで、ご自分のことではなく、神様のみ旨にそい、行動されます。

そして、その際に、ペトロは言います。
ヨハネによる福音書 13章37-38節を読んでみましょう。

 

ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

実際、ペトロは、イエス様のことを知らないと3度言ってしまいます。
ペトロは、神様のみ旨ではなく、自分のことを考えてしまいます。もし、イエス様を知っていると言ってしまえば、自分も刑に処されてしまうと考え、恐怖したのでしょう。

みんなならどういう行動をとりますか?
日本には多くの殉教者がいます。26聖人殉教者たちは、キリスト者であるとして、捕まった時にどう答えたでしょうか?
「キリスト者ではない」と答えましたか?
つい、先日遠藤周作さんの原作「沈黙」という映画が、上映されていました。
みんなが、もしキリスト者であるとして捕まり刑に処されるとしたら、どのように答えますか?

 

そして、この最後の晩餐の中で、まるで遺言のようにイエス様は、わたし達に新しい掟をお話になりました。
先月話をしたようにこれは、十戒をさらに深めるものです。イエス様は、律法を完成させるためにこられたのです。(先月の勉強会
ヨハネによる福音書 13章34-35節を開いてみましょう。

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 

 

これが、私たち信徒にとって最も大事な掟です。
イエス様がおっしゃるように、互いに愛し合えば、おのずとキリスト者であることがわかります。

 

 

● 木曜日の夜の出来事 ゲッセマネ

そして、最後の晩餐が終わると、いつものように、祈りに出かけられます。
聖書には、何か重大な決断をする時、また、岐路に立たされた時、イエス様は一人で祈られたことが記されています。
しかし、今回は1人ではなく、3人の弟子を連れていかれました。3人の弟子といわれたら、ペトロ、ヤコブ(ゼベタイの子)、ヨハネ(ゼベタイの子)ですね。
では、マタイによる福音書26章36-56節を読んでみましょう。

 

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。
「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。
このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 

どうですか?
人間「イエス」の孤独感、そして、恐怖を感じられませんか?
神の子でありながら、人として産まれたイエスが、神の御旨と自分の中にある感情のなかで、悲しみもだえているのです。
もし自分がイエス様だったら……イエス様の気持ちは、想像できますよね。「絶望」という言葉がまさにそのまま当てはまる状況です。しかし、イエス様は最後の最後まで父である神様に祈られ、共にいました。

でも、3人の弟子たちはイエス様のそんな思い、そして、イエス様のアイディンティティ、イエス様の言葉の意味をちゃんと分かっていなかったがために、そんな場でも寝てしまいます。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い
イエス様は、最後まで弟子(私たち)に真理を教えてくださり、そして、赦し、回心へと導いてくださいます。
私達は、人として、キリスト者として、「こうありたい」「こうすべき」と分かっていても、実際出来ないことが多いですよね。
実際は「出来ない」のはなく、「しないだけ」だったりします。聖パウロも常に肉にではなく、霊に従うように私たちを諭していますよね。
たとえば、ガラテヤの信徒への手紙5章 17節にはこうあります。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
だから、イエス様が仰るように常に目を覚まして祈りましょう。

そして、自分の弱さと向き合う時の祈りも、この時、イエス様は、模範を示してくださいました。

 

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

マタイによる福音書 26章 39節

 

 

私達も、洗礼を受け、聖パウロが「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ローマの信徒への手紙8章 15節)」と伝えるように、神の子となったのですから、神様を父と呼び、イエス様のように祈りましょう。

そして、イエス様は、人間としての苦しみ、恐怖、悲しみ、孤独感…様々な物を乗り越え、いよいよご受難へと向かわれます。

 

 


 

続きは以下に掲載されています。




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今日も皆元気に集まりました!
「教会学校・はじめの祈り」でスタートです。

今日はリーダーが授業をします!

と、その前にお願いがあります。
侍者服についてのお願いです。

侍者をやった子は気づいたと思いますが、新しい侍者服がきました。
今まで2種類の侍者服を使っていましたね。
小さい子用の赤いラインが入った侍者服と、大きい人用のチングルム(紐)や襟がついている侍者服です。
そのチングルムと襟付きの侍者服に、小さいサイズが新しく増えました。
これからは小さい子にもそっちを着てもらおうと思います。
だから、こんどチングルムの結び方とか練習しましょうね。
結び方を知っている子は教えてあげてください!

赤いラインが入っている方の侍者服は、侍者に慣れていない子用にします。
初心者マークみたいなものです!

あと、もう1つお願いです。
侍者服を片付ける時、ちゃんと綺麗にハンガーにかけてください。
しわになりやすくて、ぐちゃぐちゃに片付けると変な跡がついちゃうからです。

ちゃんと出来ていなかったらリーダーが注意します!

さて、それでは授業に入ります。
この間の灰の水曜日から、新しい季節になりました。
何でしょうか…四旬節です!

四旬節は漢字でかくと…リーダーが黒板に書いてみます。

四の意味は…数字の「4」ですね。
節は季節の節ですね。
じゃあ、旬はなんでしたっけ?

旬は上旬、中旬、下旬の旬で、「10」と言う意味です。

つまり四旬は40という意味です!

40という数字は重要な数字です。
例えば、
イエス様が荒れ地で悪魔と戦ったのは40日間
モーセが、イスラエルの人たちとともに、エジプトからカナンの地を目指して荒れ地をさまよったのは40年
この40という数字には大切な意味があります。

「神様の方へ向かう」という意味があります。
神様の方へ向かうということを、回心と言います。
漢字も「改」心じゃなくて「回」心です。回すという漢字、心を回すということです。
神様の方向を向いていない心を回して、神様の方へ向かうのです。
みんなこの前、ゆるしの秘跡をあずかったよね?
それは神様の方に心を回すためでした。

さて、お話は変わりますが…

四旬節は復活祭の前の季節ですが、復活するということは、死んじゃうということですね。
イエス様はどこで死んじゃったでしょうか?
「十字架」と答えてくれました。その通りです!

十字架は当時最も残酷な死に方でした。
ここでリーダーが皆に絵をみせてくれました。

イエス様の手と足と見てください、杭が打たれていてとっても痛そうです。

それに十字架ってとても目立ちますね。
十字架の上のところには、罪状(どんな悪いことをしたか)が書かれます。
だからとっても恥ずかしいことでもありました。

イエス様は悪いことをしたでしょうか?
してないですね。
でも何故捕まってしまったかというと…
当時のユダヤの人たちは、イエス様が「神様は本当はこういう人だよ」とみんなに教えていたことを信じませんでした。
だから、ユダヤの人たちは、イエス様は神様のことを悪く言ってるんだと思ったのです。

イエス様は自分が十字架につけられちゃうということをご存知でした。
神様はどうして、イエス様を十字架に付けたのでしょうか?

イエス様が十字架上で言った言葉から考えてみましょう。

プリントに7つの言葉が書かれています。

1、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」
これはローマの人たちがイエス様を十字架につけているときに、イエス様が言った言葉です。
「彼ら」はローマ人の人たちのことではなく、人間全部のことです。
イエス様が十字架につけられたのは、人間全部と、神様が仲直りするためなのです。

2、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
これは、イエス様と一緒に十字架にかけられた罪人2人がいて、その1人にイエス様が言った言葉です。
1人はイエス様を信じないでイエス様をののしりましたが、
もう1人はそれをたしなめてイエス様を信じました。
そのイエス様を信じた方の罪人にイエス様が言った言葉です。
イエス様を信じていれば、イエス様がそばにいてくれるから、十字架上の苦しいところでも楽園だよ!
という意味です。

3、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です。」
イエス様が十字架に書けられた時、弟子たちはどうしたでしょうか?そう、逃げてしまいました。
でも1人だけ逃げなかった弟子がいました。ヨハネです。
イエス様はマリア様にヨハネのことを「あなたの子です」と言って、
ヨハネにマリア様のことを「あなたの母です」と言いました。
ヨハネは「イエス様を信じる人」…このイエス様の言葉によってマリア様は「イエス様を信じる人」全ての母になりました。

4、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
この言葉は、「我が神我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味です。
旧約聖書の詩篇22章の言葉が実現するためにイエス様はこういいました。
22章を全部読むと、絶望ではなく希望の詩だということがわかります。

5、「渇く」
渇くというのは、「喉が渇いた」ってことです。
ヘブライ語の生きるという言葉は、喉という言葉が語源だそうです。
渇き求めることは生きるということです。

6、「成し遂げられた」
救いが実現した、完成した、という意味です。

7、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
たとえ神様を信じていても、痛いし、苦しいときもありますね。
でも、どんなに苦しくても、イエス様は神様にすべてをまかせました。

こうして、十字架によって神様と人間は仲直りできました。
でも、もしかしたら皆の中に、「こんなことしなくても、神様が直接人間に「許す!」て言えば良かったんじゃないかな?」って思う人がいるかもしれませんね。
でも言葉で約束しても、どんどん忘れられてしまったりしますよね。
イエス様が十字架にかけられたことで、神様は目に見える印として仲直りの証を残しました。

神様はご自分の子どもを十字架につけるために人間のところにおくりました。
どうして自分の子どもをそこまでしたのでしょうか?
それは、人間を愛していたからです!
ヨハネによる福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と書いてあります!

ここでタイムアップです。
小さい子にはちょっと難しかったかもしれませんね。
でも神様がみんなを許して愛しているということが伝わっていれば良いなと思います!

最後に「アヴェ・マリアの祈り」を唱えて終わりました。
来週は子どもの奉仕するミサもあります。
元気に集まってくださいね!!




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私たちはみな幸福を探し求めて生きていますが、周りの社会ではいろいろちがった答えが返ってきます。ハーバード大学で何世代にもわたって長い問続けられた研究によると、若者の80%が豊かな富と持ち物に幸福を見出し、50%の人が人気や名声に幸福を見出そうとしています。たいていの人は生涯での目標達成に力を注ぎます。でもこれまでの経験から、目標に到達しても私たちが探し求めている幸福はもたらされません。まだなおむなしいと感じるでしょう。もしもあれを持っていたら、これを持っていたら、きっと幸福を感じるかもしれません。あるいは、行きたい学校に入れたら自分は幸福だ、あの会社に就職できたら幸福になれるだろう。宝くじが当たったら幸福だろうな。 あのチャーミングな女の子(または、あの金持ち男!)と結婚したらしあわせだろうな。世の中では幸福になるためにたくさんの方法を教えてくれるけれども、結局は、ほんとうに幸福とは言えません。私たちは満足しません。ほしいと思っていたものを一度手に入れても、まだ空っぽな自分がいることに気づきます。私たちが探し求めている幸福を見つけていないのです。

マタイ福音書の山上の説教(真福八端)で、イエス様はしあわせな生き方を私たちに教えています。イエス様は、自分の信仰を最大限に生き、ほんとうに良い生涯を生きるために必要なことを具体的にはっきりと教えています。私たちを愛し、召命を呼びかける神は驚きの神です。神は私たちが期待するようなやり方ではなさいません。神は貧しい人たちや柔和な人たち、平和を実現する人たち、悲しむ人たちや力のない弱い人たちを選んで働きかけます。旧約聖書の中で預言者ゼファニアは神の驚くべきなさり方をはっきりと伝えています。預言者ゼファニアは、富と力を持っ人たちの不道徳と不正な行いを非難しています。アナウィム(ヘブライ語で貧しい人という意味)、つまり、神の掟に従った地に住む貧しくへりくだつた人たちだけが、ひどく恐ろしい審判を受けずに済んだのかもしれません。

幸福はありのままのあなた自身にあって、あなたの持ち物にあるのではありません。
あなたが病気か健康か、また金持ちか貧乏か、強いか弱いか、フットボールのスター選手であるか、コンピューターの天才であるか、歯並びが悪いか絶世の美人かは問題ではないのです。キリストに従う人になれば今すぐ幸福になるチャンスと神のめぐみが得られます。8つの至福は私たちに神とお互いを心から受け入れるよう求めています。8つの至福が私たちに教えてくれるのは、はっきりとした行動と態度です。普段の状況の中で福音を生きていく具体的な方法と、人生への挑戦です。人つの至福は神聖な道を指し示し、真の幸福へ導く理想であり目標です。

先ごろ福者の列に迎え入れられた日本のユスト高山右近はその生涯でこの人つの至福を実証しました。福者ユスト高山右近は神につながる道、正しい決断に導かれる道を選んで、これらの教えを守りました。彼にとって妥協の余地はありませんでした。高山右近を動かしたものは、神の愛にとどまることが人間の幸福に続く道であり、永遠のいのちをいただく道であると信じる信仰でした。イエスの弟子として右近は、富や権力を手に入れる代わりに、自分を低くしてじっと耐える道を選んだのです。福者右近は身分を下げ、へりくだる道を選びました。それは十字架の道でした。このように自分を低くして生きる道で福者右近は神に出会いました。神はそこで彼を待っていたのです。福者右近はイエス様とともに天に上げられ、父である神のみ前に受け入れられました。福者右近は現代に生きる私たちにとって、お手本であり神からの贈り物です。幸福を期待させるさまざまな価値基準の中からせき立てられるように選択しなければならないとき、しっかりとイエス・キリストに付き従っている人なら、妥協もなく、イエス様の福音から外れることもなく、まっすぐにイエス・キリストについて行こうとする福者ユスト高山右近の生涯と生き様から、学びとることができるでしょう。

福者ユスト高山右近よ、私たちのためにお祈りください。また日本の教会のために執りなしてください。
アーメン。

 

 


 

 

REFLECTION
In search for Happiness Blessed Justo TAKAYAMA Ukon
is our model in this Present Age

 

 

 

All of us are in search of happiness and the society around us offers different formulae.  A long-term research at Harvard University across generations revealed that 80% of young people seek happiness in wealth and possessions; 50% seek to find happiness in popularity or fame. A great majority strive for achievements in life. But experience has shown us that the attainment of these goals does not bring us the happiness we seek. They still leave us feeling empty. We feel that, if we have this or that, we would be happy. If I get accepted to my favorite school, I will be happy. If I get that job, I will be happy. If I win the lotto, I’d be happy. If I marry that charming girl (or that rich guy!), I’d be happy. Though our society offers us many formulae for happiness, in the end, we are not really happy. We are not satisfied. We find that, once we achieved what we have desired, we still find ourselves empty. We do not find the happiness we are looking for.

In the Beatitudes in the Gospel of Matthew, Jesus gives us his instructions for a happy life. Jesus gives us the specific things we need to do to get the most of living our faith and live a really good life. The God who loves us and calls us to discipleship is a God of surprises. God does not act in the way we would expect. God chooses to work through the poor and the meek, the peacemakers, the sorrowing and those who are powerless. In the Old Testament Bible, Prophet Zephaniah, affirms the surprising ways in which God works.
Zephaniah condemns the wealthy and powerful of his day for their immorality and corruption. Only the anawim, the poor and humble of the land who follow God’s command, may be spared from the terrible judgment.

Happiness is in what you are, not in what you have. It does not matter if you are sickly or healthy, rich or poor, strong or weak, a star football player or a computer wizard, have crooked teeth or stunning beauty. Being a follower of Christ gives you the grace and the opportunity to be happy now. The Beatitudes challenge us to take God and each other seriouslyo What they give us are
specific actions and attitudes, concrete ways of living the Gospel in the ordinary situations and challenges of our lives. They are ideals and goals that point to the path of holiness and true happiness.

Our recently proclaimed Japanese Blessed Justo TAKAYAMA Ukon exemplified these beatitudes in his life. Blessed Justo TAKAYAMA Ukon held these principles for choosing the path that would lead to God and would lead to correct decisions.
For him there was no room for compromise. What moved Blessed Ukon was the belief that remaining in the love of God was the road to human happiness and later to attain eternal life. As a disciple of Jesus, he chose the road of downward mobility, instead of advancing materially and powerfully. Blessed Ukon chose the path Of abasement, which is the way of the cross. On this downward path Blessed Ukon met God, who was waiting there for him. Blessed Ukon ascended with Jesus and was received into the presence of God, the Father.

Blessed Ukon is a model and gift Of God to us in this present generation. When we are urged to make choices from among the various values that promise happiness, people who adhere to Jesus Christ can learn from the life and example of Blessed Justo TAKAYAMA Ukon to follow Jesus Christ directly without compromise or deviation from the Gospel of Jesus.

Blessed Justo TAKAYAMA Ukon, pray for us and intercede for the Church of Japan.
Amen.

 

 

主任司祭
PARISH PRIEST

フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC