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松戸教会では、毎月第1週の主日のミサのなかで、その月に誕生日を迎えられる方々の祝福を行っています。

 

今月は、本日・主の公現のミサのなかでフィリップ神父様、そして、10時半のミサでは、岡田大司教様にお祈りを唱えて頂き、灌水して、祝福して頂きました。

8時からのミサ

10時半からのミサ

ミサに与った方々からも祝福の拍手が送られました。
1月生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます!




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主の公現の祝日に行われた10時半からのミサのなかで3人の新成人の祝福が行われました。

 

 

 

お説教後、フィリップ神父様が、新成人を招かれ、新成人の祝福が行われました。
司式してくださった岡田大司教様からお祝いの言葉を頂き、まず、岡田大司教様が、新成人への祝福の祈りが唱えられました。

 

そして、新成人全員で「成人の誓い」を述べました。

 

最後に岡田大司教様が按手され、灌水されました。

 

そして、会衆より祝福の拍手が贈られました!

 

 

奉納は、新成人3名で行いました。

 

ミサ後、岡田大司教様、フィリップ神父様と記念撮影。

その後も、ご家族で記念撮影会が行われてしましたね。家族の方の喜びも一入だと思います。

ご成人おめでとうございます!




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今日は、主の公現の祭日です。
本来、1月6日が主の公現の祭日ですが、日本は守るべき祭日でないので、1月2日から8日の間の日曜日に祝います。

 

「主の公現」とは…

神の栄光がキリストをとおして、すべての人に現れたことを祝う日です。
東方の三博士たちが幼子を礼拝した出来事を記念する。そこにすべての人を救う神の子の栄光の現れがある、という意味で「現れ」のお祝いです。

 

 

本日の10時半からのミサは、岡田大司教様が主司式で行われます。

入祭の際には、教会学校の3人の子どもたちが一緒に入堂し、馬小屋にそれぞれ3人の東方の三博士像を安置しました。

 

 

子どもたちが扮した東方の三博士は三博士像の安置を終えると、岡田大司教様が、祭壇・馬小屋に献香し、祝別します。

 

そして、ミサが開祭されます。

 

 

 

ことばの典礼が、始まります。

 

そして、岡田大司教様が聖書に献香し、福音朗読が行われます。

 

 

第1朗読 イザヤ書 60章1~6節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節
福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節

 

そして、お説教…

説教要旨

今日は、主の公現の祭日ですね。
三賢人とか、占星術の研究をしていた三博士とか言われていますが、三人の博士が、星の導きに従って幼子イエスのところまで旅をしてきました。
彼らは、黄金、乳香、没薬という贈り物をイエスに捧げました。
これは、毎年のお話になりますが、黄金、乳香、没薬とは、どのような意味をもっているのか、そして、それはどうなったのかという事に興味が注がれますね。3人の博士は、東方からやってきました。3人の博士の名前も伝説で伝えらえています。
この3人の博士たちの長い巡礼の旅を私たちはどういう意味であるのか、今日、考えてみる価値があると思います。

集会祈願は、その日のミサの大切な意味を簡潔に伝えるものです。

すべての民の光である父よ、あなたはこの日、星の導きによって御ひとり子を諸国の民に示されました。
信仰の光によって歩むわたしたちを、あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください。

こういう祈りを捧げました。
イエス・キリストの福音は、全世界に告げ知らされ、私たちの国日本、この東の千葉にまで伝えられて、およそ470年の時が経っています。今の日本の状況は、どうでしょうか?これから日本の教会は、どのようにして、イエス・キリストの福音を述べ伝えたらよいでしょうか?そういうことを1年の年の初めに一緒に考えてみましょう。
先程、松戸教会に来てから、ミサが始まるまでの少しの時間、フィリップ神父様と少しお話をしました。
日本の教会の現状は、日本には大変立派な良く養成された宣教者が送られてきましたし、今もそうだと思います。一生懸命努めてくださっています。
しかし、世界の教会の7不思議の1つかもしれませんが、日本の信徒はあまり増えない…増えないどころか、減少傾向にあります。どうしてなのだろうと、つくづく考えさせられる事実です。
もしかして、私たちの教えが、人々の心に響かないものになっているのかもしれない。あるいは、私たちの伝え方、プレゼンテーションが下手なのかもしれない。
もっとわかりやすく、人々の心に伝わるような表現や方法をみんなで考え、みんなで実行していなければいけないと思います。司祭はもちろんですが、信者全員が、自分の信仰を自分の言葉と生活で表し、伝えていくことを考えないといけないのかなと思います。
どのような事から出発すればよいのかと言えば、「私たちが何を信じているのか」「私たちの信仰のエッセンスは何なのか」というところです。
「信じる」という事は、決してやさしいことではありません。
「信じる」事を妨げるものが、現実にはたくさんあります。困難な事、たとえば、災害、戦争、犯罪、病気…神様がお造りになったこの世界にどうしてそのような、望ましくない事があるのだろうか…。しかし、それでも、私たちは、信じていきます。元気に生きていきます、と、人々に伝えていかなければなりません。

フィリップ神父様の母国、フィリピンの方々は、日本にたくさん来ていますね。ご苦労も大変多いと思います。しかし、明るいですよね。本当に明るい。自分達の国に住む私たち日本人よりも明るいですよね。本当に困難ななかで、朗らかに、助け合って生きています。他方、日本は、経済的に発展し先進国となり、夜一人で安心して歩けるような治安のよい国ですね。これは、世界中がそういうわけではなく、日本が例外的なのではないかと思います。それなのに、私たち日本人は、お互いが励まし合い、明るく元気に楽しく生きているかと言えば、そうではないと言わざるをえません。私たちが間違っているのかもしれませんね。

信仰の光とは、そんなに明るいものではありません。
暗闇の中にかすかに輝いているものかもしれません。そういうなかで、本当に私たちが信仰の喜びを生きているならば、それを見て人々は私たちの仲間になりたいと思ってくれるのかもしれません。私たちが今日も教会に集まってきたのは、信仰の光に導かれたからだと思います。私たちも信仰をと強くし、深くし、回りの多くの人々にも信仰の光を伝え、もっともっと何を信じているのか、イエス・キリストを信じるというのはどういうことなのか、神様がいらっしゃるという事をどうやって人々に伝えていくのか、「信じる」事に妨げを感じている方々に、どのように自分の信仰を伝えることが出来るでしょうか?

「信仰の光によって歩むわたしたちを、あなたの顔を仰ぎ見る日まで導いてください」
このために、私たちは信仰の分かち合いをし、励まし合っていかなければならないと思います。

 

 

 

そして、感謝の祭儀が行われます。
奉納の際に、岡田大司教様が清めの献香をされました。

 

そして、聖変化…

 

岡田大司教様、松戸教会に来て頂き、本当にありがとうございました!またのお越しをお待ちしています。

 

神の栄光がキリストにおいて現れ、すべての人におよぶ救いの光が輝きはじめていることを賛美しました。
闇の中に光がさしこむかのように馬小屋に太陽の光が注ぎ、まるでキリストの降誕によって主が私たちと共におられることが明らかにされているようでした。

主の公現、おめでとうございます!

 




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今日は、主の公現の祭日です。

教会学校の子どもたちには、大事な役目があります。
ミサ入堂とともに内陣の馬小屋に三博士を安置する大事な役目です。

 

 

始業式の後、その役目を務める、1年生3人のは、担当のリーダーに呼ばれて地下ホールへ!
まずは、3人に東方の博士の格好をしてもらいます。勉強会を終えた中高生にも手伝ってもらって、急いで、衣装に着替えます!

担当のリーダーから「センスで!」と言われた中高生たちが完成させた3博士たち!

 

 

そして、急いで御聖堂へ!

そして、入堂の行列から練習します。
1年生は、まだ侍者も未体験……。
ミサ前に入堂での所作、そして、内陣での所作、三博士を安置する場所など、丁寧にカテキスタの方とリーダーから教わり、練習しました。

 

 

今日の司式は、岡田大司教様…
リーダーの緊張が、うつっちゃったのか…緊張しています…
奉仕は、ほとんど初めてだもんね…

遠い東方から馬小屋でお生まれになったイエス様を「メシア」と信じ、礼拝した博士たちの来訪をしっかり再現できるように、本番でも頑張りましょうね!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは4人。(写真を撮った時には遅刻していていませんでした…)

今月も、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 

 


 

今月のテーマ

● キリスト者の掟 ●

 

今月も、求道者の高校生が参加するということで、これから洗礼を意識したものにしたいと思います。
ところが、主の公現のミサの準備があっていつもよりも時間がありません。30分くらいで終わる感じにしたいと思います。

 

さて、今日から教会学校は、3学期が始まります。
教会学校では、「教会学校の掟」というものをリーダー達で作りました。「教会学校のメンバーとして、そして、キリスト者としてこうしてもらいたい」というリーダーの思いを、12のルールに込めました。(すごく当たり前のこと過ぎて、みんなが聞いたら笑っちゃうようなことです)今、リーダーが始業式のなかで、1つ1つ説明してくれています

さて、イエス様の時代にも、同じようにルールがありました。
サドカイ派やファリサイ派らの律法学者が聖書の「トーラ(モーセ五書)」を研究し、作った613もの「律法」という厳しいルールです。
ルールのそもそもの目的は、なんでしたでしょうか?

神様が、アブラハムと契約を結んだ時、神様はまず「私たちを幸せにする」と宣言し、その後に「神様を信じること」と言います。決して、「信じる代わりに幸せにする」と言ったわけではありません。(アブラハムの話はいつかしっかり勉強したいですね)神様は、何か条件があって、その代償に「幸せにしてくれる」わけではないのです。神様は、無条件に「私たちを幸せにする」方です。

 

プリントの1番上に書いてある言葉は、イエス様が私たちに残したたった2つの掟です。
律法学者との論争のなかでも、イエス様は、この2つを最も重要な掟として仰っていますね。

  • 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい
  • 隣人を自分のように愛しなさい

 

最初の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は、申命記6章 4-5節に書かれています。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」は、レビ記18節に書かれています。どちらも律法のもとになっている「トーラ(モーセ五書)」に書かれている言葉です。
イエス様の時代、イエス様も律法学者も同じ所を読み、同じ箇所を大事としているにもかかわらず、いつのまにかそもそもの目的を忘れてしまい、「律法を守ることが善い事」としまいました。「律法を守るから、神様が私たちを救ってくれる」と考える律法学者と、無条件に私たちを幸せにしてくれる神様(イエス様)、そこに大きな違いがありますね。

大事な事は、私たちが神様を愛したから、私たちが善い行いをするから、神様が愛してくれるのではなく、神様がまず私たちを愛して下さったということです。
イエス様も「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない (マルコによる福音書2章27節)」と、言っていますよね。
神様が下さった掟は、私たちを縛るためのものではなく、私たちをより自由にするため、そして、幸せにするためにあるのです。

 

では、この2つを大きな1番の掟として、モーセを通して、神様が下さった「十戒」を見てましょう。
十戒に関しては、前にやったことがあります。おぼえていますか?

プリントには、十戒が書いてあります。が、3と4の間に線を引いてください。
1から3が、「あなたの神である主を愛しなさい」について、4-10が「隣人を自分のように愛しなさい」についての決まりです。
十戒は、神様が、どうしても神様から離れてしまう私たち人間のために、具体的にどのようにすれば神様から離れずにすむかを、教えてくださったものです。

これも、「十戒」を守る人間を愛すると言っているのではありません。
まず、神様が私たちを愛しているがゆえに、教えてくださったのです。

それでは、1つ1つ簡単に解説していきましょう。

 

あなたの神である主を愛しなさい

  1. わたしはあなたの主なる神。
    わたしのほかに神があってはならない。

    私たちは、あらゆるすべての事よりも「神様を第1」と、しなければなりません。それは、「自分を含めて」です。自分の主観、欲望、自分自身の(神様から見ればはるかに)浅はかな知恵に頼らず、自分の中の正義ではなく、まず、神様に主を置き、物事を進めなければなりません。聖パウロも、「肉(自分)に従うのではなく、(聖)霊に従いなさい」と言っていますね。私たちは、神様と繋がる事で初めて生きられる小さな存在です。自分自身のプライド、知識、常識、正義にこだわり、神様のみ旨から離れてしまうならばそれを捨てるべきです。(マタイ18章6-10節)また、お金や物、権威に支配されてしまわないようにしなければなりません。「~~がなければ生きていけない」というものは、神様以外には存在しません。

  2. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

    神様は、私たちにモーセを通して、「わたしはある」という名前を教えてくださいました。(出エジプト記3章14節)
    私たちに名前を教えてくださったのは、私たちへの信頼があるからです。だから、「神様」の名のもとに、自分の正義を押し通そうとしてはいけません。「神様」の名のもとに、相手を非難してはいけません。それは、神様の信頼を裏切るものです。神様の慈しみや知恵が私たち人間には及びもつかないものにもかかわらず、私たちはその名を使い、人を裁いてはいけません。また、何より神様の存在を忘れかけた私たちに名前を教えてくださる事で、その存在を教えてくださいました。ユダヤ人社会では、名前はアイディンティティを示すものでしたよね。「出来ない事は何一つない」「慈しみ深い」「存在する」という意味の名をもつ神様がいるという事の喜びを味わいましょう。そして、賛美し、感謝しましょう。

  3. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

    イエス様の時代、主の日とは安息日と言われていました。安息日は、創造の時に「7日目に休まれた」ことを記念します。イエス様が「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない(マルコによる福音書2章27節)」言っているとおり、安息日は、神様が私たちのために用意したものです。私たちは、普段の生活の中で一生懸命働いたり、勉強したりして、生きています。時には、休息も必要です。私たちが、心も体も健康な状態だからこそ、働けることをご存知だからです。イエス様がご復活された後、安息日は「主の日(主日・日曜日)」となりました。日曜日は、ミサに与りますね。1週間生活してきた全てを捧げて、また、神様のみ旨のもとに生きるようになるためです。だから、例えば、体調が悪いのにミサに与るのは違いますよね。ミサに与ったことで、死んでしまった。それでは、本末転倒です。この日は、神様に感謝し神様を賛美する日です。

 

隣人を自分のように愛しなさい

  1. あなたの父母を敬え

    お父さんやお母さん、お祖父さんやお祖母さんを敬いなさい。そして、親は子どもの人権をしっかり守りなさい。つまり、家族を大事にしなさい。という意味そのままですね。
    「家族は、最も小さな共同体」です。家族の中で「隣人を愛する」ことが出来なければ、家族以外の人たちを愛する事が出来るでしょうか。家族の中で、学べるものは多いです。年長者への尊敬、年少者へのいたわり、愛情、尊敬、感謝、様々な事が学べるはずです。そして、私たちが成長する、そして、存在するには、他者の存在が不可欠です。食事を作ってくれたお母さん、その食事の材料をスーパーマーケットまで運んだ人、材料を作ってくれた人…そう考えていくとすべての人と私たちが繋がっていることに気付きます。そういう人たち、すべてのおかげで私たちは生きているのですから、他者に感謝の気持ちを持たなければなりません。

  2. 殺してはならない。

    これも「殺してはならない」という意味そのままです。
    私たちは、神様によって造られました。そして、私たちだけではなく、この世のすべては、神様によって、造られました。それらを「殺す」ことは、神様を冒涜する事です。それらは、自然を壊す事、地球の環境を破壊する事も一緒ですよね。神様が造ってくださったものを大事にし、神様への感謝を忘れることがあってはいけません。そして、直接的に殺すという意味だけではなく、「わたしは在る」という名の神を信じる私たちは、聖ペトロがイエス様を「知らない」と言って、「関わり合いをなかったこと」をしてしまった事が罪である事も知っています。私たちは「関わり合い」のなかで生きています。その人を知らない、なかったことにする、無視する、これらの行為も「殺す」事と一緒です。

  3. 姦淫してはならない。

    この世の中には、男と女がいます。どちらが上とか下とかいうことはありません。神様がアダムにエヴァを与えたように、お互いがお互いのために存在しているのです。出会いがあり、お互いへの愛が生まれ、私たちは、恋愛をしたり、結婚したりします。やがて、子どもが出来ることもあるでしょう。そういうプロセスのなかで、男にないものを女が与え、女にないものを男が与え、私たちを成長させます。だから、誠意をもって、しっかりとした恋愛をしてください。お父さんやお母さん、周りの人が、悲しむようなことはしないでください。

  4. 盗んではならない。

    人の努力してえたものや大事にしているものを、盗むことはいけません。これは、例えば、アイディアなんかも含みます。もしみんなが社長になって、その人の働きに相応しい対価を与えないならば、それも「盗み」です。他にも神様が造った自然を壊す行為も「盗み」ですね。自然環境を壊すことは、他の動物たちが生きていけないようにすること、そして、未来の人たちから、美しい自然や豊かな環境、自然の恵みを奪うことに他なりません。創造の時、神様は私たち人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。(創世記1章28節)」と仰いました。 この「支配」という言葉、英語では「govern」という言葉が使われています。日本語訳では「支配」ですが、governには「管理する」という意味もあります。私たちは、自然を思うがままにしてよいのではありません。あくまでお預かりしたものですから、恵みを頂きながら、次の世代に受け渡すことが大事です。また、私たち日本人は、世界でGDP(国民総生産)が3番目の、非常に豊かな先進国の国民です。私たち先進国の人間がどれ程恵まれているか…私たちは覚えていないといけません。みんなの年くらいまで生きれることや、みんなみたいに電気や水道やインターネットががスイッチ一つで手に入る国は世界にはそれほどありません。前に1%(豊かな人々)と99%(搾取される人々)という話が話題になっていましたが、私たちは「1%」の人間だという事を認識しておくべきです。だからこそ、私たちは今「苦しんでいる人々がいる」という想像を途切れさせてはいけません。その事を忘れてしまったら、それは「盗んでいる」事と一緒だと思ってください。

  5. 隣人に関して偽証してはならない。

    ウソにもよいウソがありますよね。たとえば、本当のことを言ったら、悲しむ人がいる場合、自分の胸に納めておいて、ウソをつくことは、悪い事ではないと思います。ただ、人を傷つけたり、自分がした悪い行為を隠すためのウソはダメですよね。みんなそれは分かっていると思います。他にも、故意に間違った情報を流したりしまう事は、どうでしょうか?自らが発信者になれる時代だからこそ、私たちはこの事について、しっかり考えなければなりません。また、「物事の本質から目をそらしてしまうこと」はどうでしょうか?神様と真に向き合う事が出来ないようなことはしてはいけません。ましてや、自分を守るためにするなら、余計に悪いです。自分自身に対するウソも一緒です。たとえば、「いじめられている子がいる。でも、見なかった事にしよう」「ゴミが落ちている。でも、みなかったことにしよう」自分自身に嘘をついたことは、他の人は分からなくても自分は分かると思います。「怠り」も罪です。

  6. 隣人の妻を欲してはならない。

    もし、Aちゃんの彼氏をBちゃんが奪ったら、2人の関係はもうメチャクチャですよね。2人だけではなく、周りの人間も巻き込んで、全てが壊れていってしまいます。私たちは関りの中で生きています。そういうものを破壊することがあってはいけません。私たちは、時に欲望が暴走してしまうことがあります。欲望が暴走している時、私たちは本当の自分から離れ、別の生き物になってしまったかのようになってしまいます。神様が与えてくださった自分自身を信じてください。自分のポケットのなかに、必ず本当に自分に必要なものが入っています。自らの分を知り、恥を知れば、自ずとそれがわかるはずです。(恥ずかしいからいろんなことをしないという意味ではないですよ…中高生の出し物、期待しています…)

  7. 隣人の財産を欲してはならない。

    私たちが求めるべきなのは、神様の愛であって、それ以外はありません。相手の持っている物は相手が持っているから素晴らしいのであって、自分が持っていたら、そんなに大したものではないのです。神様は本当に必要なものは与えてくださいます。だから、お祈りして下さい。神様の愛を求めてください。物やお金だけじゃないですよ。
    Aちゃんは目が大きくて可愛い…Bちゃんはなんであんなに頭がいいんだろう?…なんで、神様は私にC君みたいにピアノを上手に弾く力を与えてくれなかったのだろう…?そういったものもいけません。神様は、もう充分にみんなに与えています。イエス様は「貧しい者は幸いである」とおっしゃいました。力がないと自分で気づくことで、もっていないものほど、神様は愛してくださいます。むしろ、持たない自分を誇ってください。

 

 

どうですか?
実はそんなに厳しい掟じゃないですよね。でも、簡単ではありませんよね。でも、逆にこの十戒を破っていたら、神様から離れているのだなって感じれることが出来ると思います。その場合は、ゆるしの秘跡を受けましょう。「神様を信頼して、お祈りして、神様のみ旨を尊び、感謝の気持ちをもつ」ことが出来れば、破らないでいいのかなっておもいます。

 

さて、この十戒を踏まえたうえで、教会には5つの守るべき掟があります。十戒が理解出来れば、この掟も「当たり前」じゃないと思うと思います。
十戒が理解できたみんなには分かるはずです。
この5つの掟も『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』そして、『隣人を自分のように愛しなさい。』という掟、十戒にそったものです。信者としてこの5つの掟はまもりましょう。

 

  1. 主日と守るべき祭日(主の降誕神の母聖マリア復活の主日)にミサに参加し、その日の特徴を傷つけるような仕事や活動を休む事

    十戒の1~3が理解出来れば、この理由は、簡単ですよね。
    日曜日は、神様に感謝をささげる日ですから、神様に全てを捧げる日です。ミサに与り、み言葉を味わい、ご聖体を頂くことによって、共同体との関りをより強いものとしていきます。ミサに参加出来なくても、「神様を第1にする日」にすればよいです。逆に言えば、神様を第1にすれば、自ずとミサへ参加する事になると思います。

  2. 少なくても、1年に1度ゆるしの秘跡を受ける事

    どうしても神様から離れてしまう私たちは、1年に1度はゆるしの秘跡に与らなければなりません。1年に1度も罪をおっていない人間はいないと思います。イエス様が教えてくださった2つの掟を守るために、神様や隣人との関係のなかに戻っていくことはとても大事なことです。放蕩息子(ルカによる福音書15章11-32節)のように、恐れることなく、心待ちして、大喜びで出迎えてくださる神様の所に戻りましょう。

  3. 少なくても復活節の間に、ご聖体を受ける事

    ご聖体を頂くことは、神様を感じることのできる大きな「しるし」を体験する事です。
    復活節は「イエス様のご復活」を記念する期間に、その「しるし」を体験する事は、私たちがイエス様のご復活、そして、私達自身が永遠の命をえるという大きな希望を信じるうえでの大きな助けになるはずです。
    もし、久しぶりにミサに参加してご聖体を頂く時は、ゆるしの秘跡を受けて、ミサに与りましょう。大事なお客様をお迎えするときに家を綺麗にするように、イエス様をお迎えするのですから、私たちもそれにふさわしい状況になっていなければなりません。(おじいさんやおばあさんの時代は、これは厳格に守られていました)
  4. 教会が定めた断食の期間と大斎・小斎の日を守る事

    大斎 日に1回だけの十分な食事とそのほかに朝ともう1回わずかな食事をとることができ、満60歳に達するまでのすべての成人が守ります。
    小斎 肉類を食べないことですが、各自の判断で償いの他の形式、とくに愛徳のわざ、信心業、節制のわざの実行をもって替えることができ、満14歳以上の人が守ります。

    教会が定めた断食の期間で、パッと思いつくのが、四旬節ですね。今年は2月14日から始まります。
    四旬節では、毎年、節制(祈り、断食、慈善)し、イエス様のご復活をお迎えする準備を整えます。この3つが1つになる意味がわかりますか?私たちは、普段、本当に必要でないものまで、自分のものにしていませんか?私たちが、断食する事で、貧しい人たちに本当に必要なものが渡る事もあると思います。そして、満足することで、神様への感謝を忘れている時もあります。この期間を通し、十戒の「盗んではならない」や「隣人の財産を欲してはならない」という事をもう1度考えてみましょう。
    人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」のですから、神様の御言葉を思い起こし、隣人を愛せと命じられた神様・イエス様のいつくしみを、他の人々にも伝えましょう。

  5. 教会が必要とする物質的な支援をすること

    物質的とは、お金やモノだけではなく、奉仕なども含みます。キリスト者は、常に祈り(霊的)と行動(物質的)が、求められています。どちらが欠けてもダメですよね。
    世界中の人々のため、身近な、目の前にいる、貧しい人々のため、可哀想な人々のため、みんなが出来ることをしてください。「隣にいる事」を感じさせてあげてください。
    たとえば、教会学校は、毎月信者の方々が払ってくださる月定献金からお金を頂き、みんなは錬成会に行ったり、パーティをしたり、プリントやテキストを作ったり、出来ています。教会の皆さん、全員に支えらています。そして、教会学校の子どもたちのために、お祈りもしてもらっています。クリスマスに聖劇をすれば、たくさんの方々が見に来てくださいます。
    それは、なぜでしょうか?隣人、つまり、教会学校の子どもたちであるみんなを自分のように愛して下さっているからですね。
    教会の皆さんが、私たちを隣人にして下さっている時、みんなは、どうしますか?他人のままですか?
    教会は、教会自体、つまり、私たち1人1人が「秘跡」です。
    私たちに出会った人が、教会に来た人が、神様を感じれるような行動を行いましょう。

 

 

さて、少し早いですが、今日はこれで終わりです。
今日は、教会学校の1年生が、東方の3博士になって神父様と一緒に入堂します。着替えのお手伝いをお願いします。

では、最後に「主の祈り」を唱えて終わりにします。

 

 

 


 

来月の勉強会は2月4日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。
来月も、求道者のための内容にします。みんなももう1度自分の信仰について基礎から考えてみる良い機会です。
是非集まってください!