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松戸教会では、毎月第1週の主日のミサのなかで、その月に誕生日を迎えられる方々の祝福を行っています。

 

今月は、本日・四旬節第3主日のミサのなかでフィリップ神父様にお祈りを唱えて頂き、灌水して、祝福して頂きました。

 

ミサに与った方々からも祝福の拍手が送られました。
3月生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは4人。

今月は、ご復活を迎える前にもう1度、受難・死・復活という私たちの信仰の根幹について学びます。
受難・死・復活を通して、神様のいつくしみをもう1度感じて、自らの洗礼について、考えてみま

しょう。

 

 


 

今月のテーマ

● 神の小羊 ●

 

最近、本当に聖書を開くのが早くなって来たなぁと思います。
前は、すごい時間がかかっていたのに…。
普段の生活の中でも、ちょっとした時に聖書を開いて、御言葉に触れる習慣があるといいですね。ふとした時のふとした御言葉のなかに、大きな気づきがあったりします。聖書はどこをとっても神の言葉ですから、全てが神様の恵みです。

 

さて、今、私たちは四旬節のど真ん中を過ごしています。
今度の4月1日の復活祭に向け、イエス様のご復活をお迎えする前に、もう1度、神様の愛、いつくしみを感じて、私達自身が、洗礼を受けた者として、ご復活の準備を整えましょう。

まず、ヨハネ福音書の3章16節を開いてください。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

神様は、磔刑というもっとも残酷な死を通してたった一人の子供を、私たちのためにその「しるし」として、お与えになってくださいました。
こうして、この十字架は、私たちにとって、神様との繋がりを示す、神様の愛を示す、ものとなりました。

 

では、今日のテーマを思い出してみましょう。
今日のテーマは、神の小羊です。

ヨハネによる福音書1章 29-31節を開いてみましょう。

 

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

 

ありがとうございます。

イエス様が、洗礼者ヨハネのもとに行き、洗礼を受ける時の話ですね。
洗礼者ヨハネは、イエス様を見て、洗礼者ヨハネの弟子たちに「神の小羊」と言っていますね。

それでは、何故、洗礼者ヨハネは、イエス様のことを「神の小羊」と呼んだのでしょうか?「小羊」という言葉の意味にポイントがあります。
過越の話を思い出してみましょう。
出エジプト記12章1-27節を開いてみましょう。

ありがとうございます。
モーセとアーロンに神様は、命じられます。

  • イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない(3節)
  • その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。(5節)
  • イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、 その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。(6-7節)
  • 『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』(27節)

小羊の血を、家の入口に塗ったことにより、神様は、イスラエルの民を過ぎ越しました。小羊を捧げ、そのしるしが、神様とのつながりをもう1度修復したのです。
こうして、イスラエルの民は、主の過越により、エジプトから解放され、十戒を受け、約束の地であるカナンの地(エルサレム)に向かいました。
傷のない小羊をを神様のいつくしみを受け、自由を与えられ、十戒を通して、また強く結ばれた。つまり、ユダヤ人にとって、「傷のない小羊」は、「神との和解の象徴」「神による救いの象徴なのです。
もちろん、イエス様たちも羊を屠り、このユダヤ教の儀式を行います。マルコによる福音書14章12節に「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った」と書かれていますよね。そして、この「過越の食事」が「最後の晩餐」となります。

そう、もうみんな分かりましたか?
「過越の小羊」として、屠られたのは、イエス様ご本人だったのです。

この後、私たち人間は、何の罪もない、そして、神様から全く離れることなく常に神の慈しみを表してくださっていたイエス様を「十字架につけろ!」と言って、ゴルゴダで磔刑にあわせます。
十字架は、まさに「私たちと神様とのつながりを修復し、神の慈しみを受け、自由を与えられ、新たな契約を結ぶしるし」です。
神様は、数々の預言者を送ってくださりましたが、人間は、聞く耳を持たず、神様から離れ神のみ旨ではなく、自分自身の思いの中で生きました。預言者たちを殺す事すら何度もありました。
しかし、神様は、イエス様という、独り子をお与えになったほどに、世を愛されてしました。それがどれ程の愛だったのか、みんなにも想像出来ると思います。

イサクの燔祭をおぼえていますか?
創世記22章1節-18節を開いてみましょう。

アブラハムは、神様が命じるまま、不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを捧げます。
アブラハムの信仰の強さを、感じることが出来ると思います。神様は、それを見て、アブラハムをとめ、私たちと契約を結びます。
しかし、神様がイエス様を私たちのために屠った時は、誰も止めるはありませんでした。公生活を共に過ごした弟子たちも逃げ、イエス様はたった1人で、受難の道を歩みます。

アブラハムだけではないですよね。
イサクも、「自分が生贄なのだ」と、気づいたと思います。しかし、イサクも、抵抗する事無く、自らを神様に捧げる覚悟をしていたと思います。
その苦しみは、想像するに容易いですよね。

人として、御降誕されたイエス様も同じように苦しみます。
マルコによる福音書14章32-39節を開いてみましょう。「ゲッセマネの園」の話です。
弟子たち3人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れ、イエス様は、ゲッセマネで祈られます。

少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」 (35-36節)

 

イエス様が、この後来る受難に対し、怯え、恐れ、出来る事なら、逃げ出したい気持ちでいるのが分かりますよね。私たちと同じように、イエス様も苦しまれます。ルカによる福音書22章44節には、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」とも、この様子が描かれています。
イエス様は、神様に祈られます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」出来る事なら、逃げ出したい。せつに祈ります。しかし、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、神様のみ旨から離れる事はありません。

これは、本当に、私たちにとって、最もお手本になる祈りではないでしょうか。
そして、イエス様が苦しみ、祈られている時、寝てしまっていた3人の弟子たちにイエス様は、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。(38節)」と、仰います。

目を覚ましている。とは、どういう事でしょうか?
実際、寝てしまった弟子たちに言っているわけですから、起きていなさい。という意味にそのまま取れます。しかし、その後に、「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉が続きます。イエス様は、度々、「目を覚ましていなさい」という言葉を使われますね。待降節には、必ず朗読されます。

心は燃えている。これは、聖霊を表しています。
肉体は弱い。 これは、私たち人間の心を表しています。

聖パウロも、その手紙で、「霊(聖霊)」「肉(人間の心)」という表現をよくしています。
つまり、イエス様は、目を覚ましていて、弱い自分の心ではなく、神のみ旨に従う聖霊に従いなさい。常に、聖霊を意識しなさい。と仰っています。
眠くなった彼ら3人の弟子は、まさに「肉」に従ってしまったのです。だから、この後、彼らは、逃げ出し、イエスに躓きます。

イエス様は、み旨に従いました。
まさに、イエス様は、私たちに「霊に従うとはどういうことか」「み旨に生きるとはどういうことか」という見本を見せてくださったのです。
そして、十字架上でイエス様は、「成し遂げられた」(ヨハネによる福音書19章30節)と言って、息を引き取られました。神のみ旨のままを成し遂げられました。

 

 

ミサの時、「神の小羊 世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」(平和の賛歌を)私たちは、こう歌います。
わたしたちの救いのために、神のみ旨に従い、過越の羊となってくださり、十字架上で死を迎えたイエス様に、憐れみと救いを求めます。まさに、イエス様を捧げ、私たちは神様と新たなな救いの契約を結んでいることを表しています。

だから、拝領前の信仰告白…(なんと言いますか?)
……………
主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう。」(ですね)
信仰告白をミサのなかで2回する意味を考えましょう。
なぜ、聖変化、主の祈りの後に、私たちはもう1度信仰を告白するのか?
「あなたをおいてだれのところにいきましょう」と、心の奥底から言えているのか?
イエス様という傷のない子羊、そして、独り子を私たちにお与えになった神様…
いつくしみの深さを知り、もう1度、イエス様のご復活について考え、準備を整えましょう。
では、最後に主の祈りを唱え、終わりにしましょう。

 

2017年度の勉強会は、今月で終わります。1年間、どうでしたか?

来年度は5月6日から行います。
来年度もがんばりましょう!




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今日はいつもより10分早く集まってもらいました。
「ゆるしの秘跡」をうけるからです!

最初は幼稚園の教室に集まって「教会学校・はじめの祈り」を唱えました。

先週配った「宿題」はやってきましたか?
「ゆるしの秘跡」を受ける前に「神様から離れてしまった」こと、「悪魔の言うことをきいてしまった」ことを思い出して、「ゆるしの秘跡」でお話しすることをまとめてくるのが宿題でした。
先週教会学校に来れなかったひとは、幼稚園の教室に残ってこの時間に考えましょう!
洗礼を受けていない子も、「ゆるしの秘跡」は受けられないけれど、神様からはなれてしまったことを考えてみました。

宿題をやってきたみんなは、御聖堂に移動します。
フィリップ神父様も来てくださり、いよいよ「ゆるしの秘跡」を始めます。
ちゃんと心の準備をしてください!!

御聖堂内にある「告解室」に一人ずつ入って、「ゆるしの秘跡」にあずかります。
神父様に「神様にゆるしてほしいこと」をお話しして、神父様からの「償いの指示」をしっかりきいて来てください。
「償いの指示」は、例えば「主の祈りを3回唱えて下さい」などです。

待っている間は静かに心の準備をしていましょう。

 

「告解室」から出て来たひとは、リーダーと一緒に「償いの指示」で指示されたお祈りを唱えました。

 

 

償いのお祈りまで全て終わったひとは、幼稚園のホールに行って、ハンカチ落としゲームをしました!

最後に鬼になってしまった人が、終わりのお祈りの先唱をすることにしました…!
ここでタイムアップ…!

教室に場所を移動しました。
「ゆるしの秘跡」を受けても、まだ悪魔の誘惑は続きます。
清い心のままでいられるよう、マリアさまのおとりつぎを願って、
「アヴェ・マリアの祈り」を唱えて教会学校を終わりました。

今日、たくさんの子どもたちが「ゆるしの秘跡」を受けることが出来ました。
時間の関係で、教会学校の時間に受けられなかった子もいましたが、
10:30のミサ後にも神父様にお時間を頂き、「ゆるしの秘跡」を授けて頂きました。
神父様、本当にありがとうございました!

また来週元気に集まってくださいね!




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MCCIC Holds Lenten Recollection on March 3rd 2018 with Fr. Edwin Corros of CTIC

 

The recollection started at 10:30 am with the song, “ Come Holy Spirit “ with the recollection theme of “ Jesus as a teacher, leader and a servant which was divided into three talks.

 

Sharing in small groups also took place after each every talk to deepen their understanding on the topics presented.

 

 

The participants enjoyed their potluck lunch around 11:30-12:30 noon.

 

There were 18 people who joined the said recollection. There were two from Narashino community and one from Toyoshiki community.

Confessions were also heard by Fr. Edwin before the concluding mass which begun at 3:35 pm.The mass finished at 4:15pm.

 

Everyone went home feeling blessed and with grateful hearts.




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本日、10時から、そして、13時半からの2回、共同回心式が行われ、多くの信徒が参加しました。

 

まず、、松田清四朗神父様(亀有教会)から、講話を頂きました。
松田神父様は、始めに主の祈りへと導かられ、祈りと共に共同回心式が始まりました。

 

<講話要旨(午前の部)>

詩編78:2に「わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう」と、ありますが、共同訳聖書では、「わたしは口を開いて、箴言を語り、いにしえからの言い伝えを語ろう」とあります。「なぞ」と「いいつたえ」は大分違いますね。ある聖書訳では、「ことわざ」となっています。

これから話すこと、「私たち」にとっては、「謎」です。
「私たち」というのは、「人間の思い」です。しかし、私たちがどんなに頑張っても「神様の思い」とは違います。人間的価値観、つまり、世俗的価値観と神の価値観との違いについてお話します。

私たちは、神様の思いとは違うから罪を犯してしまいます。
私たちの思いは止まりません。自分自身の思いに、四六時中、振り正われてしまう事もあります。常に自分自身の思いから解放されないのですね。
そういうものを手放す、そして、そこに留まる。こういうために黙想するのですね。
それは、「人の思い」から「神の思い」にジャンプする、あるいは、洗礼を受けた事によって回心した私たちが見えるようになるためです。自分自身が見えている自分、または、周りから見えている自分が「本当の自分」かと言えば、そうではありません。私たち自身の肉体は、私たち自身ではありません。私達自身のなかにある豊かなものも貧しいものも(物質的な物から精神的な物まで)、私達自身ではありません。私自身と思うから、人に誇ったり、人を妬んだりします。

「父と子と聖霊のみ名によって」と、私たちは十字のしるしをきりますが、英語だと、「In the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit」と言います。中に入るという意味ですね。これから、父と子と聖霊のなかにどっぷりと浸かって、自分の思いを手放して、神の無限の慈しみに心身を委ねることがゆるしの秘跡ですね。

ブドウ園の労働者の話をしましょう。(マタイ福音書20章1-16節)

このたとえ話は、神の国のたとえ話です。
今日は「報酬と恵み」というテーマでこの話をしたいと思います。

恵みとは、タダでもらえるものです。
例えば、みなさん、歩けますよね。これは、学校で学んだものではないですよね。気が付いていたら、与えられていた素晴らしい恵みです。与えられたものというものは恵みです。
神の恵みは、大事なものです。普段は中々気づかないものですね。

報酬とは、給料ですね。働いた対価とも言えます。
能力や働いた時間によって、違うものですね。
働いた分、自分が頑張った分、自分の能力に比例した分、大体自分で分かりますから、納得して受け取っているでしょう。
しかし、どうしても人間は損得勘定や、好き嫌い、そして、相対的に判断してしまいますね。この思いから私たちが出る事は出来ません。

ブドウ園の話は、それがとても分かりやすく譬えられています
ブラブラ広場でしていた人を主人が声をかけて、1デナリオン(1日分の給与くらい)で自分のブドウ園で雇います。
朝から、昼から、午後から、それぞれ働き出します。そして、仕事の時間が終わると、全員同じ1デナリオン、配られます。しかし、朝から働いていた人々は、午後から働いていた人と同じ給料である事に怒ります。朝から働いていた人々は、一番たくさん働いているのだから、約束は1デナリオンだけど、少しは色がつくのではないかと思ったからです。
これが、「人の思い」ですね。

この話の一番大事な事は、なぜ1日中ブラブラしている人がこんなにたくさんいるのかという事です。
それは「誰も雇ってくれない」からでしょう。彼らも働きたくないわけではありません。
人間が苦しみをおうのは、「誰からも期待されていない」「誰からも求められていない」と、受け取ってしまい、何でもない事が、長い間、苦しみを負ってしまいます。

「誰も雇ってくれない」「私たちが誰も必要とされていない」
しかし、雇い主は、1日に何度も広場に行き、人々を、1時間でいいから働いてくれと、雇います。雇い主は、どんな人でも必要とし、期待しています。

恵みは、私たちの努力やかけた時間によって与えられるものではなくて、初めから与えられています。
悪人にも善人にも、同じものを与えてくれます。

しかし、これらの事は、私たちに人間にはわかりません。正しい人にも正しくない人にも雨を降らせるという美しいみ言葉(マタイ5章45節)がわかりません。
正しくない人には拳骨を、正しい人には称賛を……と、なりますよ。

私たちの罪は、自分は正しいのにその報いを貰っていないと思う事にあります。自分が正しいと思えば思うほど、その思いを手放せなくなっていきます。そして、罪は重くなっていきます。
人間の力ではそれは手放せません。だから、神に赦しを乞います。

そして、赦されたならば、感謝と賛美の気持ちを込めて、祈りましょう。
アヴェマリア10回とか5回とか、回数によって、神が赦しを与えるのではありません。

無条件に、限りなく、誰にでも、神はいつくしみと恵みを与えてくださいます。
私たちは、神を本当に信じていますか?
もし、あなたが「誰も雇ってくれない」「私たちが誰も必要とされていない」と思っているならば、神様は、あなたに期待しています。

皆さんが、回心し、神の思いにジャンプ出来るように、お互いのために祈り合いましょう。
私たちにとって、「謎」が、洗礼を通して、神の恵みであることが分かっています。
この四旬節を通して、ご復活という大いなる神の恵みを感じましょう。そして、今日は、その為に、準備を整えましょう。

 

 

 

 

講話の後、松田神父様、レオ・シューマカ神父様(築地教会)、高木健次神父様(CTIC)、フィリップ神父様が赦しの秘跡を授けてくださいました。
(赦しの秘跡については下記参照)

 

ゆるしの秘跡とは…

ゆるしの秘跡は、司祭のもとで、自分の犯した罪を告白し、罪のゆるしを願うことにより、神からの罪のゆるしが与えられるというしるしです。
この秘跡は、回心、悔い改め、和解、いやしの秘跡とも呼ばれています。

ゆるしの秘跡に必要な行為は、
- 痛悔(犯した罪を悔やむこと)
- 司祭への罪の告白
- 償いをはたす決意、およびその実行
です。

ゆるしの秘跡には、個別のゆるしの式と共同回心式があります。
前者は、ゆるしの秘跡を求める個人と神との出会いを重視します。それにくらべて、共同回心式は、ゆるしの秘跡の教会的な面をあらわしています。この式は、共同体の祈りの中で行われます。

共同回心式は、個人の罪だけでなく、教会共同体の連帯性について考え、共同体の上に神のゆるしを求めるので す。また、ゆるしを神に求めるだけでなく、兄弟姉妹にもゆるしを求めることを意識させてくれるもので、通常、主の降誕祭や主の復活という大きな祭日に向けての準備として、待降節や四旬節の間に行われます。

引用元:女子パウロ会 Laudate | キリスト教マメ知識 「ゆるしの秘跡」

 

赦しの秘蹟は個別にも受けられますので、四旬節の間に授かられてはどうでしょうか…