当記事は、教会誌『みかえる』2019年12月号より転載いたしました。

 


 

 

皆様、ごきげんよう。

このたび(どのたびだ!)、カトリック松戸教会の主任司祭として着任致しました、フランシスコ・アシジ伊藤淳(いとうあつし)と申します。どうぞ宜しくお願い致します。

生来の怠け者で、人の寛容さに甘えるたちで、おまけに遅筆なので、これまで原稿依頼をのらりくらりとかわして参りました。しかし、着任半年を過ぎた頃から若干ではありますが心が痛むようになり、反省の気持ちが少しだけ湧いてきましたので、今回はなんとか頑張って巻頭言を執筆させて頂くことに致しました。

さて、王であるキリストの祭日を祝い終え、教会はいよいよ新しい年度の待降節に入ります。私にとっては松戸教会に来て初めての待降節で、希望に胸が高鳴っています。信徒の皆様と一緒に良い待降節を過ごし、良い降誕祭を迎えたいと願っているからです。

ところで、良い待降節、良い降誕祭とはどういうことでしょうか。どうしたら良い待降節を過ごし、良い降誕祭を迎えられるのでしょうか。

まずは待降節や降誕祭の意味と意義を、しっかりと把握する必要があるでしょう。

降誕祭に関しては今更ここに記す必要はないと思われますが、問題なのは待降節です。

『新カトリック大事典』の「待降節」の項には、「キリストの第一の到来である主の降誕の祭日への準備期間であるとともに、終末における第二の到来(再臨)への待望にも心を向ける期間。典礼暦年の1年を開始する期間で、主の降誕の祭日の四つ前の主日にあたる待降節第1主日の前晩の祈りから始まり、主の降誕の祭日の前晩の祈りの前まで続く」とあります。

この概括の後半部分は、待降節の具体的な期間を説明していますが、これを正確に知っているかどうかはさほど重要なことではありません。記憶していれば便利ですが、知らなくても誰かが(少なくとも教会が)教えてくれるので、覚えていなくても大丈夫です。

重要なのは前半の部分に記されている内容、つまり、待降節が「いつ」なのかではなく「何」なのか、です。特に前半の後半(ややこしい表現で申し訳ありません)がポイントでしょう。前半の前半(ややこしい表現が続いて申し訳ありません)は信者であれば誰にでも予想がつく内容ですが、前半の後半(何度もややこしい表現で申し訳ありません)はいかがでしょうか。「終末における第二の到来(再臨)への待望にも心を向ける期間」であることを、ご存じだったでしょうか。ご存じであれば、「さすが!」です。

確かに、主の第一の到来はとても素晴らしいことではありますが、過去のことです。現代日本に生きる私たちには直接体験できない、二千年前のイスラエルでの出来事です。ところが第二の到来は、私たちが将来必ず直接体験するリアルな出来事なのです。

ですから待降節には、過去だけではなく、未来にもしっかりと目を向けたいと思います。そして、主が再臨し、世が終わり、神の国が完成し、最後の審判がなされる時に、神の国の宴に迎え入れられ、永遠のいのちを頂くことをはっきりと目指すべきです。その時が来るまでに、自分が何をなすべきかをじっくりと考え、考えるだけではなくきっちりと実践しなければなりません。キリスト者なら知識だけでは不十分です。よく考え、実践して初めて「さすが!」なのです。そうでなければ信仰とは言えないし、救いには繋がらないからです。

キリスト者にとって待降節は、未来に向けて考え、実践する季節なのです。

 

主任司祭 伊藤 淳 神父