毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは6人。

今月も、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● 主を待ち望む姿とは? ●

 

今月も、求道者の高校生が参加するということで、入門講座の内容に合わせて行おうと思います。
今日配ったプリントは、金曜日の入門講座で使われたレジュメです。今、洗礼を希望されている信徒の方が一生懸命勉強しています。
みんなは、赤ちゃんの頃に洗礼を受けているメンバーがほとんどですが、日曜日と金曜日の勉強会に出ている人は一生懸命勉強して、洗礼を受けます。入門講座を受講して、洗礼を受ける人たちは、このくらいの知識を得て、洗礼を受けます。みんなも負けないように頑張りましょう。

 

さて、もうすぐクリスマスですね。
先月の勉強会の内容をおぼえていますか?

昨日の日没から待降節が始まりました。今日から教会の新しい1年が始まります。
聖書の朗読は今年度はB年で、今日の主日から福音書はマルコ福音書が朗読されます。

さて、待降節は、イエス様をお迎えする準備をする期間です。
だから、司祭の祭服も回心を意味をする紫色となるのでしたね。
来週の主日(待降節第2主日)のミサでも「主の道を整える」をテーマに朗読の箇所が選ばれています。今日は、私たちがどのように主の道を整えればよいか一緒に考えてみましょう。

 

その前に「主がご降誕される」事の意味、私たちが「イエス様を待ち望む」とは、どのようなことかもう1度おさらいしてみましょう。
待降節のイエス様を待ち望むという事は、実は2つの意味があるのでしたね。
1つは、「イエス様のご降誕」、そして、もう1つは「イエス様の再臨」です。

 

  • イエス様のご降誕

その言葉が示す通り、「神が人となられた」という事につきます。
神様は、たった一人の御子を私たちのために、人として産まれさせました。(神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネによる福音書3章16節))
ヨハネ福音書の1章14節には、このように記されています。
言葉は肉となって、私たちの間に宿られた
「言葉」は、イエス様、そして、「肉」とは私たち人間を表します(聖パウロの手紙にもよく肉という表現がされていますね。)「私たちの間」とは、人と人との間、神様と私たちの間という意味です。神様、そして、私たち人間同士の間にイエス様が存在するにより、私たちの関係は修復されます。

これらのことを難しい言葉で「受肉の神秘」と言います。
受肉の神秘は、以下のことを私たちに与えるために行われたものです。

  • 原罪をおった(神からどうしても離れてしまう)私たち人類と神様を和解させるため
  • 神様の愛を人間に示すため
  • 人間の聖性の模範を示すために
  • イエス様を通して、私たちが、神の子となり、神の国の住人となるため

ところで、この4つを聞いた時、何か気づくことはありませんか?
イエス様の御降誕は、「イエス様の十字架の上での死」と同じような意味を持っていると思いませんか?受難・死・復活を勉強した時にも同じことを話しましたよね。おぼえていますか?イエス様の御降誕は、私たちの救いの始まりであり、神の国の始まりです。ご降誕と十字架上での死、つまり、わたしたちの救いをイメージすることが出来ます。
と、考えると少し切ないですね。そう考えることでより神様の慈しみを感じることが出来ますよね。

  • イエス様の再臨

イエス様が昇天された時、天使たちが使徒たちに「あなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります(使徒行伝1:11)」と伝えています。世の終わりにイエス様は、また私たちの所にきます。その時、私たちは、最後の審判にあい、神の国に入る者、入れない者に分けられます。
再臨、最後の審判に関しては、また今度ちゃんと勉強したいですね。
覚えておいて欲しい事は、最後の審判は「私たちを不幸にするために行うものではない」という事です。神様は、私たちを神の国の住人したいのです。だから、むしろ「神の国」の住人になるか、ならないかは、私たちに委ねられています。神様は、アブラハムを通して私たち人間を幸せにするために何の見返りもない契約を結ばれました。ただただ私たちの幸せを願っています。そのいつくしみに感謝し生きれば自ずと神の国の住人になるのではないでしょうか?
そして、1番重要な事は、神の国がイエス様の再臨によって完成するということです。

 

さて、では、神の国がどんな世界かもう1度思い起こしてみましょう。
もう何度も朗読している箇所ですね、イザヤ書の11章1節から10節までを朗読してみましょう。

ありがとうございます。
この箇所では、3つのことをみんなに考えてもらいたいと思います。

  • イエス様がキリストであること

エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊。
イザヤ書の11章1-2節
(この話も何度もしていますね)
エッサイというのは、ダビデのお父さんの名前ですね。つまり、キリストはダビデの子孫から現れるという預言です。
マタイ福音書の1章1節から17節でも分かる通り、聖ヨセフはダビデの子孫です。つまり、ヨセフの子として育てられるイエス様を指しています。
イエス様こそ預言されたキリストである。という事です。
  • キリストが来ることでどのような世界が起こるか

3節から10節までは、神の国が完成した時どのような状態になるかを予言しています。
この事を一言で表すと「平和」と表現できます。
この平和という言葉は、多分みんながイメージする平和とは少し違います。ここで表される平和は「主の平和」つまり、神様による平和です。
「その者の(たとえば、獅子が獅子として、毒蛇が毒蛇として)アイディンティティを保ちながらも、完全な調和がなされている状態です。教会が言う平和とは、そういう事です。
神の国が完成すれば、私たちは、各々が自由でありのままの自分でありながら、完全な調和がなされた世界に住むことが出来ます。

  • イエス様を待ち望む姿

エッサイのからひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち…

株ってどういう状態ですか?「切り株」というとわかりやすいですかね。
この預言が書かれた時代は、イスラエルの北王国がバビロニアに滅ぼされ、南のユダ王国も属国状態になっている状態でした。つまり、ユダヤ人たちは「切り株」のように何もかも失っていた状態といっても過言ではありません。しかし、その切り株から「芽が萌いで」ます。イエス様が来られるのです。
逆に言えば、「真にキリストを迎い入れるには切り株にならなければならない」とも言えます。
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい(マタイによる福音書 19章 24節)」とありますよね。
神様やイエス様を待ち望む心というのは、切り株になった時初めて生まれるものなのかもしれません。
財産だけではなく、才能、そして、ある意味において家族すらも、自らの全てを捧げて、イエス様に従うこと。それが私たち信者に求められていることです。(ルカによる福音書9章57-62節)家族にしても、自分の才能に関しても誰が与えてくださったのでしょうか?今、ここにいる自分は本当のありのままの、切り株になった自分でしょうか?囚われている自分を解放して、初めて神様を受けれいることが出来ます。それは、とても怖い事でしょう。でも、「恐れることはない。ただ信じなさい(マルコ5章 36節)」とありますね。
自分を主に置かず、神様に主を置くことが、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』という事です。神様のいつくしみを心から信じることが出来れば、それが可能になるのではないかなぁと思います。

 

 

それでは、イエス様の御降誕のお話を朗読してみましょう。
ルカ福音書の2章1節から14節を読んでみましょう。

ありがとうございます。
もう何度も経験したクリスマスの朗読箇所です。
まず、何か気づいたことがありませんか?

………

そうですね。
この天使たちが言うセリフは、「栄光の賛歌」の冒頭の部分ですね。
毎週歌っている(待降節や四旬節では歌いませんが)栄光の賛歌はここから引用されています。つまり、イエス様がご降誕された事を喜び味わう歌なんですね。

さて、この天使たちは、だれに伝えていますか?
「羊飼い」ですね。羊飼いは当時ユダヤ人社会の外にいる、つまり、普通には生きていけない人達でした。
つまり、「誇るモノもお金も社会的地位も生活の基盤も何も持っていない人々」でした。まさに「切り株」に近い状態ですね。そして、聖ヨセフやマリア様も決して裕福とは言えない普通の家でした。
そして、みんなも知っている通り、何軒もの宿屋に断られて、ようやくベツレヘムの町の外にある馬小屋でご降誕され、飼葉桶に寝かされました。

なぜでしょうか?
出来ない事は何1つ無い神様は、なぜお金持ちや王様、祭司の家の子としてイエス様をご降誕させなかったのでしょうか?なぜお城のふかふかのベッドの上で寝かされなかったのでしょうか?なぜ天使達は王様や祭司たちにそれらを告げなかったのでしょうか?

そして、イエス様は、エルサレムの外の丘で、磔刑という当時もっとも残酷な処刑方法で死にました。
ベツレヘムの外で生まれ、エルサレムの外で死にました。

何故でしょうか?
それは、神の愛(神様のいつくしみ、そして、恵み)は、その始まりから最後まで、持たない者(切り株)達が、最初に手にいれられるものだったからです。

 

 

「切り株になる」事の意味が分かりますか?なぜ切り株にならないといけないか、が分かりますか?
それがどのようなことか、マリア様がそれを示してくれています。

では、ルカ福音書1章26ー56節を朗読してみましょう。

ありがとうございます。
受胎告知のシーンと、マリア様が洗礼者ヨハネの母エリザベトを訪問するシーンですね。

このシーンを読んで気づくことはありませんでしたか?

……

そうですね。
大天使聖ガブリエル、そして、エリザベトが言ったセリフは、「アヴェマリアの祈り」に使われている部分ですね。

マリア様は、受胎告知を受けました。
この時のマリア様の年齢は、ちょうどみんなと同じくらいです。
想像してみてください。
ある夜、自分のもとに大天使聖ガブリエルが訪れて、イエス様の母となることを告知されることを…

マリア様は、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と聖ガブリエルに答え、自らの人生すべてを捧げました。
家族もこれから勝ち得るモノも、これからの人生で起こる様々なことを全て捧げ、神様のみ旨に従うことを選びました。
そして、身重だったにもかかわらず、エリザベトを訪問し、エリザベトの世話をします。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさいまた、隣人を自分のように愛しなさい」というイエス様が仰った掟を「自分を捨てて」守っていますね。
きっと、マリア様に「守る」という意識はなかったでしょう。
なぜなら、マリア様は生まれながらに罪なき方(無原罪)だからです。言いかえれば、マリア様は、「神様のみ旨から決して離れることのない」方だからです。
切り株になるとは、まさにこういうことです。

 

待降節の間に是非ゆるしの秘跡に与ってください。
12月9日には、共同回心式が行われますし、自分のタイミングで神父様に告解をしてもいいです。
切り株となって、神様のみ旨に従い、イエス様の御降誕を一緒にお祝いしましょう!

12月24日は、みんなミサに与ってください。
聖劇やミサの練習も手伝ってくださいね!

 

では、最後に、折角ですから、「ガブリエル」の霊名をもつ高校生にアヴェマリアの祈りを先唱してもらって、終わりにしましょう。

 

 

 


 

来月の勉強会は1月7日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。
来月も、求道者のための内容にします。みんなももう1度自分の信仰について基礎から考えてみる良い機会です。
是非集まってください!