毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは5人。

今月も、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● 聖霊降臨 ●

 

今月も、求道者の高校生が参加するということで、入門講座の内容に合わせて行おうと思います。
今日のテーマは、聖霊降臨です。
この内容は、堅信を受ける際にも勉強しましたね。求道者の高校生も堅信に与る際にもう1度しっかり勉強することになると思います。

 

 

まず、はじめに典礼聖歌集の352番を開いてみてください。
毎年、聖霊降臨の主日にこの曲を歌います。ミサのどの場面で歌うか、覚えていますか?堅信を受けたメンバーは、もちろん覚えていると思います。(お・覚えているよね?)
…………この曲は、アレルヤ唱の前に、助祭が先唱をして歌います。

では、聖霊降臨の主日以外で、続唱を歌う日はいつですか…?(ヒント…カトリック教会にとって1年で一番大事な日です)
はい。そうですね。復活祭の日(復活の主日-日中-)ですね。
つまり、この「聖霊降臨の主日」というのは、復活祭に匹敵するくらい教会にとって大事な日だということです。続唱を歌うのは、教会にとって、つまり、私たちにとって、本当に大事な日だけです。

 

さて、イエス様は、ご復活後、何日間、弟子たちと共に過ごしたか覚えていますか?
………40日間ですよね。
この『40』という数字…もちろん、意味があります。
例えば、ノアの洪水は40日40夜続きました。出エジプト記 34章28節 や申命記9章18節によれば、モーセもシナイで、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏しました。そして、ユダヤ人たちは約束の地に入るまで、40年間荒れ野を彷徨いつづけました。またエリヤが、まことの神を信じない女王イゼベルの手をのがれようとシナイ山に向かって歩んだ日数も、同じく40日40夜でした(列王記上 19.8)。そして、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で過ごしたのも40日間でしたね。
求道者の高校生が洗礼に受ける復活徹夜祭の前には、四旬節という「洗礼を受ける準備をする」暦があります。私たちは、逆に「洗礼を受ける方々を迎い入れる準備をする」暦ですね。四旬節という名前の通り「40日間」(実際の日にちは、主日があったりして変わってきますが…)です。
これらの事に共通していることは分かりますか?
そう、これらの時間は「試練」だったり「修練」だったり…「何かを準備する時間」です。つまり、40という数字はそういう意味が含まれているわけです。

では、このイエス様がご復活されてから、弟子たちのもとに現れたこの40日間は、何を準備する時間だったのでしょうか?
そうですね。昇天されたイエス様に代わり、キリストの体となる教会を作り、全世界の人々に福音宣教する役割を担うための準備ですね。
この期間に、イエス様は、聖ペトロに3度自分を愛しているか問い天国の鍵を受け取り教会の頭になることを命じられたり、これから「迫害にあう」弟子たちが、福音宣教をするための準備をされました。

それでは、聖書を開いてみましょう。
ヨハネによる福音書 14章16-17節を開いてください。

 

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 

 

 

イエス様が昇天された後、今度は「聖霊」を遣わし、永遠に私たちと一緒にいてくださるようにして下さる。と約束して下さいました。弁護者というのは、聖書が書かれているギリシャ語を直訳すると「そばにいて助けてくださる方」と意味になります。弁護者というと弁護士みたいなイメージになってしまいますが、この「そばにいて助けてくださる方」という方が分かりやすいよね。しかし、イエス様が仰っている通り、「見ようとも知ろうともしない」人たちは、聖霊を受け入れることは出来ません。でも、私たちは聖霊がどのような方か知っています。そう、私たちはイエス・キリストという存在を知っているからです。

そして、その続きの26節にはこうあります。

弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 

共にイエス様の受難・死・復活を経験したにも拘らず、全てをまだ理解していない弟子たちが、全てを理解することができる。そして、聖霊によって、イエス様と同じような権能を得ることが出来る、そうおっしゃっています。しかし、もちろん、この時、弟子たちは何を言われているのか、何も理解していません。

 

ご復活してから40日後、イエス様は体ごと天にあげられました。それを見送っても弟子たちはまだ何も理解できていません。
「目の前にある事実」を見る事とその奥にある「真実」を見る事は全く意味が違うのです。私達人間には、それはとても難しいですよね。

 

そして、その10日後(つまり、ご復活から50日後)……イエス様が約束されたことが起こります。
その日、イスラエルでは、イスラエルの民がシナイ山でモーセを通して神様から『十戒』を与えられ、神様と契約としてことを記念した(出エジプト記 19章1~16節)五旬祭という祭日でした。世界中にいるイスラエルの民が集まり、お祝いしていました。(五旬祭は、過越祭から50日後に行われる)
一方、弟子たち、使徒達やマリア様は、迫害を恐れ、隠れて暮らしていました。イエス様を磔刑に追い込んだサドカイ派やファリサイ派、そして、長老たちは、イエスの弟子たちも当然捕まえ、罪に問おうとしていたからです。まだ、今に固執し、本当に価値あるもの、永遠の命に与る事を信じれないでいたんですね。喜びよりも恐怖に支配されていたといってもいいかもしれません。

では、使徒言行録2章1~4節を読んでみましょう。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

 

使徒たち、そして、マリア様は、おびえて1つの部屋に籠っていた。誰かに見つからないように…人目を避けながら、どうすればいいのか?彼らは恐怖のなかにいたことでしょう。
その時、イエス様が約束して下さったことがこの時起こったのです。
その瞬間、「聖霊」によって、使徒たちはすべてを理解しました。そして、世界から集まった人たちに、その人たちの言葉を使い、「喜び」を伝え始めます。
ただの(もちろん、聖書の学識もなく、ヘブライ語も、ギリシャ語も話せない)漁師であった人が、常に共いてくださる聖霊により、イエス様と同じ権能を得て、人間を漁る漁師になった瞬間です。
彼らは、部屋を出て、福音宣教を開始します。もう恐怖はありません。喜びと力に満ち溢れています。

 

 

この日から、弟子たち、つまり、わたしたちによる「福音宣教」が始まりました。
堅信のための勉強をした時にも言いましたよね。「堅信を受けたその日から、私たちは福音宣教の使命」を負います。前も話しましたが、「キリスト教を信じてください」と大勢の人たちに伝えるのが「宣教」ではありません。福音とは、「よい知らせ」という意味でしたね。神の国が始まったという「よい知らせ」を知り、感じ、そこに喜びを感じる。喜びを感じた人は、いてもたってもいられず、みんなに知らせたくなる。神様、イエス様に出会える喜び、神の国が始まっている事の喜びを伝えるのが福音宣教です。使徒たちと同じように、私たちも、喜びを伝え、イエス様からキリスト者の掟を守り、周りに喜びを伝える者になります。
そして、同時に私達信者は、聖霊によって、キリストの体として、1つになりました。つまり、この日は、教会がうまれた日です。
そう、だから、神様・イエス様・聖霊という三位一体の神を信仰し、一人のキリスト者として、福音宣教する…そのために神様の慈しみのあらわれである聖霊の慈しみを願いながら、聖霊降臨の主日には「聖霊の続唱」を歌います。
この歌は、聖霊への祈りというお祈りでもあります。
みんなでいっしょにお祈りしてみましょう。

 

聖霊の続唱

聖霊来てください。
あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。

貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。
やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。
苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。
恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない。

汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。
固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。

 

 

 

さて、みんなは、聖霊をどんな時に感じますか?
1人ひとり聞いてみましょう…(正解不正解なんてないから…)

 

 

そうですね。
色々な時に聖霊を感じれると思います。
イエス様が言っているように、みんなはもう聖霊がどんな方だか知っているはずです。
「神様・イエス様を感じれた時」「神様・イエス様の慈しみを感じれた時」それは、聖霊が働いているのです。
みんなが答えてくれたように、聖変化やご聖体を頂く時も、そうでしょう。他にも、人のやさしさを感じた時、思わぬ助けを受けた時…みんなそうですよね。

 

そして、私たちが、堅信を受け、聖霊を受けた時、7つの賜物を受けます。
イエス様のようになるために必要な7つの要素と言ってもいいかもしれません。人によって、神様から与えられたミッションによってそれらがどう働くか…私たちには分かりません。
しかし、祈りによって、私たちはその賜物を強めることが出来ます。
みんなのなかにある賜物を、強めるために神様に聖霊に祈ってください。

それでは、7つの賜物の説明を1つ1つしていきます。

 

  1. 上智

    • すべてのことを神の眼差しで見る恵み。
      わたしたちは物事を自分の好みや、その時の気分で、愛や憎しみや妬みをもって眺めてしまうことがあります。しかし、これは神の眼差しではありません。上智は、わたしたちがすべてのことを神の目で見るようにとの、聖霊の働きかけです。
  2. 聡明

    • 物事の深みを神が理解するように理解できるようになる恵み
      この賜物により、物事を神の聡明によって、神が理解するように理解させてくれます。
      『人の目が見たことも、耳が聞いたことも、心に思い浮かんだこともなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために用意された』神はわたしたちにそのことを聖霊を通して啓示してくださいました。(1コリント 2,9-10)。
  3. 賢慮

    • 神との交わりのうちにイエスやその福音の論理に従ってどのように行動すべきかという具体的な選択を可能にする賜物。
      わたしたちが心の中に聖霊を迎え入れたとたん、聖霊はすぐにわたしたちの考えや感情、意向を神のみ心に沿って方向づけ始めます。そして同時に、心の目をわたしたちの行動、そして父なる神や兄弟たちと関わりの模範としての、イエスの方に常に向けさせます。
  4. 勇気

    • 神のみ言葉の成長を妨げるわたしたちの心の土地を、主のみ言葉を喜びの中に実行できるよう、無気力や不安やすべての怖れから解放してくれる恵み。
      自分自身や愛する人々の生活を揺さぶる非常に苦しく困難な体験に直面している人々が置かれた状態にある時、神の御旨を実行できる力。
      「勇気」の賜物を得るためは、わたしたちの心の謙遜が必要です。そうすれば「わたしに力を与えてくれるお方において、わたしは何でもできる」と聖パウロと共に言うことができるのです (フィリピ 4,13)。
  5. 知識

    • 被造物を通して神の偉大さやその愛、すべての被造物と神との深い関係をわたしたちに理解させてくれる恵み。
      大自然の美と宇宙の壮大さにおいて、わたしたちはすべてが神とその愛を語っていることに気づくのです。これらはわたしたちの中に大きな驚きと深い感謝の念を引き起こします。それは、わたしたちが芸術作品や、天才や創造性のすばらしい実りを目にして感じるのと同じ感覚です。これらを前に、聖霊は、わたしたちに心の底から神を賛美させ、それらの中に神の計り知れない恵みと、わたしたちへの神の無限の愛のしるしを認めさせてくれるのです。
      「知識」の賜物は、このように、美をわたしたちに見せてくれます。神を賛美し、これほどたくさんの美を与えくれた神に感謝しましょう。
  6. 孝愛

    • わたしたちの神へも帰属、神との深い絆を示す恵み。
      「孝愛」は真の宗教心、神に対する子としての信頼、そして心の謙遜な人々の特徴である、愛と単純さをもって祈る能力。
      その絆は、たとえ大きな困難や苦悩の中にあっても、わたしたちの生活全体に意義を与え、神との交わりの中にわたしたちをしっかりと支えてくれるものなのです。
  7. 主への畏敬

    • わたしたちが神とその愛を前にいかに小さい者であるか、そして謙遜と尊敬、信頼をもって神の御手に自らを委ねることが大切であるということを思い出させてくれる、聖霊の贈物。
      主への畏敬は、すべては神の恵みによるものであり、わたしたちの真の力は、主キリストに従い、御父からその優しさと憐れみを注がれることにあると悟らせます。神の優しさと憐れみがわたしたちに注がれるように心を開くことが出来るようになります。

 

 

聖霊によって、私たちと神様、そして、わたし達キリスト者同士が繋がっていくのが分かりますか?
前も話しましたが…十字架のしるしでもわかる通り、私たちは、神様とイエス様、そして、聖霊、キリスト者の繋がりの中にいます。
賜物を頂き、私たちは、その繋がりをより強くするのです。
そして、私たちは、賜物を頂き、より強く神様の心に適う者として生きれるようになれます。私たちは、イエス様のように、悪魔の誘惑に勝ち、神様を求めます。それによって聖霊の実を得られるのです。聖霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、親切、善意、寛容、柔和、誠実、謙遜、節制、貞潔です。聖霊の実は、神様の存在、聖霊の働きがあることを示してくれます。イエス様の存在を感じさせてくれます。

 

よく人生を自分1人で生きていると思っている人がいます。
よく「私は負けない」と言いながら、歯を食いしばって、何かと戦っている人がいます。
でも、その人たちは一体何と戦っているのでしょうか?
人の悪意を感じたり、自分以外の価値観を持つ人とでしょうか?挫けそうになる自分とでしょうか?

これから、みんなも高校受験や大学受験、就職活動や社会に出て様々な困難に当たると思います。でも、それは「戦い」ではありません。
人の悪意も自分以外の価値観とも争う事はありません。だって、たとえ、それに勝ったとして、勝利の先に何がありますか?

そう思う時、聖霊への祈りを唱えてみてください。
「人の悪意と感じるもの」「違う価値観」と決めたのは、自分というエゴの塊です。裁くのは、神様であって、自分ではありません。私たちは、弱い生き物ですし、原罪をおっていますから、つい「正義を自分に置いてしまう」ことがあります。
たとえば、戦いは、相手がいないと出来ません。むしろ、より強い結びつきを持った友人なんです。それなのに、それを「敵」と感じてしまうとしたら、それはまさに悪霊の誘惑に負けているようなものではないですか?
私たちがもし戦うとしたら、自分以外の人間を敵と思ってしまう自分の弱く貧しい心とです。

 

人生は、個人戦ではありません。人生は、チーム戦です。
私の出来ないことは、みんなが出来ます。みんなが出来ない事は私が出来ます。そうやって、お互いが助け合って、生きていくのです。これは、頑張らなくていいということではないですよ。むしろ人の分まで頑張らないといけないということです。自分の役割を果たせなければ、人に迷惑が掛かります。ただ、その時、決して1人ではないという事です。みんなが悲しい時、一緒に歩むみんなも悲しみます。みんなが嬉しい時、一緒に歩むみんなも喜びます。
みんなそれぞれの人生は、自分だけのものではなく、みんなのものです。そして、神様のものです。

そんな事言っても、結局、自分を救うのは自分と思う人がいるかもしれません。

でも、ありませんか?
なんでこんなにうまくいくんだって時。
ありませんか?
その時、願いが叶わくても、違う時、違う機会に、思わぬところで、誰かがそれを覚えていてくれて、それが違う形で叶ったこと?
みんなも誰かが頑張っていたら応援したくなるし、頑張っていることを覚えていたりしませんか?

だから、もし困難にあったら、もし「結局、自分を救うのは自分」という風に思ったら、聖霊に祈りをささげてください。そして、人生はチーム戦だという事を思い起こしてください。
みんなが誰かを支え、そして、誰かに支えられている。みんなが誰かのために祈り、誰かに祈られているということを忘れないでください。
常に側にいてくださる「聖霊」を忘れないでください。

 

それでは、最後に主の祈りを唱え、終わりにしましょう。

 

 


 

来月の勉強会は11月5日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。
来月も、求道者のための内容にします。みんなももう1度自分の信仰について基礎から考えてみる良い機会です。
是非集まってください!