本日、年間第25主日、翌日の松戸教会の守護者である「大天使聖ミカエル」の祝日を祝い、国際ミサが、教皇大使 ジョゼフ・チェノットゥ大司教様司式で行われました。
ミサのなかでは、堅信式も行われ、2名(松戸教会から1名・豊四季教会から1名)の方が受堅されました。

 

松戸教会では、9月15日(土)からから9日間に渡って、信徒たちでノヴェナを行い、この日を迎えました。
国際ミサということで、多くの外国人信徒もミサに与ります。

 

 

ミサ開祭前には、聖母子像から教会学校の子どもたちによる行列が行われました。

 

そして、「聖霊の続唱」を歌い、大司教をお迎えします。

 

そして、入堂とともに聖ミカエル像、祭壇への献香が行われました。

 

 

 

そして、松戸教会の守護聖人大天使聖ミカエルの祝日を迎えた松戸教会共同体にお祝いの言葉とご挨拶を頂きました。

 

 

 

ことばの典礼では、第1朗読は日本語、第2朗読は英語で朗読されました。

 

福音朗読は、チェノットゥ大司教様が英語、李助祭が日本語で、それぞれ行われました。

 

 

第1朗読 イザヤ書 55章6~9節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 1章20c~24、27a節
福音朗読
マタイによる福音書 20章1~16節

 

 

そして、チェノットゥ大司教様のお説教が行われました。

 

My Dear brothers and sisters in Christ,

To entrust ourselves completely to the Lord who is full of mercy is the pressing and loving invitation addressed to us by the first reading of todays’ liturgy. It says: “Seek the Lord while he i is still to be found, call to him to be found, call to him while he is still near. Let the wicked man abandon his way, the evil man his thoughts. Let him turn back to the Lord who will take pity on him, to our God who is rich in forgiving”.

This invitation of the Lord is accompanied by a reflection: “For my thoughts are not your thoughts, my ways not your ways”.  God wants that we trust in him and abandon ourselves to him, especially in the more mysterious and difficult circumstances of our lives, being sure of his power and goodness.

The second lesson is from St. Paul who, living and working only for the glory of God and the love of neighbour, is indifferent to the problem of death because he knows that Christ will be glorified in him whether he lives or he dies. In fact for him to live is Christ and to die is a gain.

The gospel recounts the episode of the landowner going out at daybreak to hire workers for his vineyard and he made an agreement with the workers for one denarius a day. Bu he goes out again at  different hours of the day and hires more workers and in the evening pays the same amount to all. The workers who came early morning were unhappy that the last ones were paid equally.

We know that the Lord is infinitely just and we are certain that he will reward each one according to his works. We also know that he is generous and free to distribute his graces and his favours as he considers best without doing any injustice to anyone. Another explanation for this behaviour of the Lord can be found in the manner in which the work is carried out. As the Imitation of Christ says: He who loves much does much. A man who does his work in an ordinary and mediocre way, does less than the person who dedicates himself to the work with enthusiasm and good will. Before God what counts is the love and the interior dispositions. To the Magdalene was forgiven much because she loved much. It is up to us to have a spirit of sacrifice, a fervour, a generosity such as to draw to us divine predilections and particular abundance of his gifts. With God we will never be creditors, but we will always be great debtors towards his infinite generosity.

The gospel ends with a paradox: “Thus the last will be first, and the first, last”. Those words are in harmony with the Beatitudes proclaimed by the Saviour: “Blessed are the poor, the afflicted, the persecuted; Blessed are the mild, the merciful, pure of heart, operators of peace”. In this way, the poor and the humble are easily set aside and neglected; to them are assigned generally the last places. But they are precious and rich in the eyes of God who in his kingdom will assign them the first places; Thus the last will be the first.

One other phrase of todays’ liturgy is worthy of particular consideration: that of St. Paul: “For me to live in Christ”. If we could think and act as Christ Jesus has thought and acted; if He especially in the Eucharist would become our life, we could exclaim in truth:  “It is not I who live but Christ who lives in me”. If the Gospel were to be always the guide of our path, we would be happy and rich! For then everything, also the mystery of death, will be transformed into gain.

Amen.

 

<日本語訳>

わたしの愛するキリストの兄弟姉妹の皆さん、

いつくしみ深い主に自分のすべてを委ねなさいと、何度もわたしたちに呼びかけているのは、神の強い愛でわたしたちを招いているからです。今日の第1朗読にあるように、『主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らうものはその道を離れ、悪を行うものはそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。』

主の呼びかけには必ず深い思いが伴います。『わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる。』わたしたちが神を信頼して、自分を捨てて従うことを望んでおられるのです。不可解なできごとや困難な状況にあるときは特に、神の力と神の愛に確信を持つのです。

第2朗読は聖パウロの手紙です。神の栄光と隣人愛のためにだけ生きて働いた聖パウロは、死ぬという問題についは無関心でした。それは、生きるにも死ぬにもキリストが神の栄光を受けることを知っていたからです。実際に聖パウロにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

福音書に語られている話は、ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行き、 1日につき1デナリオンの約束で労働者をぶどう園に送ったとあります。しかし、また別の時間に何回か出かけて行き、さらに多くの人たちを雇って、夕方になると全員に同じ賃金を支払ったのです。朝早くに来た労働者は、最後に来た人たちも同じ賃金をもらっていることに不平を言いました。

わたしたちは、主が限りなく正しいことを知っています。そして、一人ひとりの働きに応じて報酬をくださると確信しています。主は寛大で、だれに対しても不正を働かないことを最良と考えるように、いつくしみと、やさしさを自由に分け与えてくださることも、わたしたちは知っています。主がこのようになさる理由は、実際に行われた仕事のやり方で説明をすることができます。(トマス・ア・ケンピスの著書)『キリストに倣いて』に書かれています。たくさんのことを成し遂げるのはたくさん愛する人です。
ごく普通に平均的な仕事しかしない人は、情熱と善意をもつて自分自身を仕事にささげる人よりも、少ししか成し遂げられません。神の前で大切なのは、愛する気持ちと心の内面の気持ちです。マグダラのマリアは多くを愛したので多くを赦されました。神さまに好かれて特別たくさんのたまものを自分たちに引き寄せようとするか、犠牲的精神や、真剣さ、寛容な心を持つかどうかは、わたしたちにまかせられています。わたしたちは神に対して決して貸しを作るほうではなく、神の限りなく広い心を求めて、大きな借り手となるでしょう。

福音書は矛盾しているようで実は正しい説、パラドックスで終わります。つまり、『こうして、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。』次の言葉は救い主キリストによって宣言された山上の説教に出てくる真福八端(しんぷくはったん)と一致します。『心の貧しい人、悩み苦しむ人、迫害される人は祝福される。温和な人、あわれみ深く、心の清い人、平和を実現する人は祝福される。』このようにして、心の貧しい人、高ぶらない人は簡単に脇に追いやられ、顧みられない。彼らには、たいてい末席があてがわれます。しかし、彼らは神さまの目には大切な、心豊かな人たちです。神の国では一番の上席を与えられるからです。こうして、後の者が先になるのです。

もう一つ、今日の典礼で特にじっくり考えたい言葉があります。聖パウロが言った、『わたしにとって、生きるとはキリストである。』もしも、キリスト・イエスが考え、行ったように、わたしたちも考え、行うことができたならよいのに。とりわけご聖体の中におられるキリスト・イエスがわたしたちの命になったなら、わたしたちは大声を上げて言うことができたでしょう、『生きるのはわたしではなくて、わたしの中にいて生きてくださるキリストなのだ』と。もしも福音書がわたしたちの進む道をいつも案内してくれるガイドであったら、わたしたちは幸せで豊かな気持ちでいられるでしょう。なぜなら、そのとき、すべてのことが、死ぬことの神秘もまた、利益に変えられることでしょう。

アーメン。

 

 

 

 

 

説教後、いよいよ堅信式が行われます。
フィリップ神父様が2人の堅信志願者の名前をそれぞれ呼ばれ、代父母とともに祭壇の前に並びます。

 

そして、悪霊の拒否を宣言し、会衆とともに信仰を宣言します。

 

1人ずつ大司教様の前に出て額に塗油をいただき、秘跡を授けられました。
1人1人に聖香油を塗油されるのを会衆も見守ります。

 

そして、無事、堅信の秘跡に与り、厳かで温かい式は、つつがなく終了しました。

 

 

 

 

 

共同祈願は、参列された各国の方々が意向を唱えました。

 

そして、受堅者から「堅信によって聖霊の力に強められた私たちが、言葉と行いによってキリストのまことの証人(あかしびと)になれますように」と、祈願が唱えられました。

 

最後に、全員で「大天使聖ミカエルの祈り」を、日本語・英語で同時に唱え、共に祈りました。

 

 

 

 

奉納は、受堅者と代父がホスチア、水と葡萄酒を捧げます。
そして、国際ミサならではの、色とりどりの奉納品が捧げられます。

 

奉納の歌、拝領の歌は、MCCICの聖歌隊が、歌います。
松戸教会の国際ミサの名物ですね。日本語のミサとは、違う雰囲気になります。

 

大司教様が、捧げ物と祭壇に献香された後、李助祭が大司教様、そして、会衆に献香されました。

 

 

 

 

 

 

聖体拝領では、まず受堅者がご聖体を拝領し、信徒が続きます。

 

聖体奉仕者、侍者、青年達が、聖体拝領した方々に記念品の(祝別された)ロザリオを配ります。

 

多くの方々がミサに与り、御聖堂の外にもたくさんの方々が溢れていました。

 

 

 

 

閉祭の前にフィリップ神父様よりチェノットゥ大司教様に本日のお礼がありました。

 

そして、改めて、チェノットゥ大司教様からご挨拶を頂きました。

 

 

ミサの終わりに、派遣の祝福を受けます。

 

 

 

ミサ後、チェノットゥ大司教様、フィリップ神父様、李助祭とともに、受堅者と代父、ご家族、堅信に向けての勉強会で講師を務めたカテキスタの方と記念撮影が行われました。

 

ミサ後は、チェノットゥ大司教様とともに、守護者大天使聖ミカエルの祝日を祝うパーティが行われました。もちろん、パーティのなかで受堅者のお祝いも行われます!

 

受堅者、ならびにご家族の皆さま、ご堅信おめでとうございます!!