毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは3人。

今月から、求道者の高校生も正式参加ということで、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● バルティマイのお話 ●

 

今月から、求道者の高校生が参加するということで、求道者のメンバーが、入門講座を休んでも大丈夫な内容にしたいなぁと思います。(出来るだけ同じ内容のものに出来たらと思います。)既に堅信を受けたメンバーも、良い機会ですから、もう1度「キリスト者になる」とはどういうことか、考えてもらえたらなぁと思います。

(今日は、先日、帰天された小川神父様のために子どもたちと一緒にお祈りするために、途中で教会学校の始業式に参加します。9時半になったら1度御聖堂に行きましょう)

 

さて、今日は、「バルティマイの話」をしたいなぁと思います。この話は、何度か話したことがあります。覚えていますか?
バルティマイの、「バル」というのはアラム語で、息子って意味です。つまり、バルティマイは、「ティマイの子」という意味ですね。他にも、使徒にはバルトロマイという方がいらっしゃいますね。「トロマイの子」という意味です。

実は、この話、マルコ福音書にしか載っていない話です。
前にも、お話しましたが、福音書はそれぞれ書かれている時代や誰に向かって書かれたかが違います。

  • マタイ福音書

    使徒聖マタイによって記された福音書。A年の年の福音朗読となる。70年代に成立したとされている。
    イエス様とともに行動した使徒である聖マタイが、主にユダヤ人のために記されたとされる。

  • マルコ福音書

    聖マルコによって記された福音書。B年の年の福音朗読となる。60年代に成立したとされている。
    聖ペトロや聖パウロと共に行動した聖マルコが、ユダヤ教の理解のあまりない異邦人のために記されたとされる。

  • ルカ福音書

    聖ルカによって記された福音書。C年の年の福音朗読となる。70年代に成立とされている。
    聖パウロと行動を共にした聖ルカが、ローマやギリシャの身分の高い人々、高い知識を持った人々のために記されたとされる。

  • ヨハネ福音書

    使徒聖ヨハネによって記された福音書。待降節や四旬節や復活節などに朗読される。100年頃に成立とされている。
    イエス様とともに行動した使徒である聖ヨハネが、4つの福音書の一番最後に記したとされる。

 

マタイやマルコ、ルカ、ヨハネは、自分の共同体やその時代に必要なメッセージを込めたからでしたからですよね。
だから、時代背景やその共同体の現状によって、内容が少しずつ変わります。同じ出来事でも違うように書いてあったり、このバルティマイの話のように、ある福音書には載っているけど、他の福音書には載っていない話というものもあります。
福音書は、聖霊が福音記者を導き、福音記者によって記されたものです。私たちが、福音をより深く理解出来るように、そして、救いの源となるみ言葉を深く味わえるように、4つの福音書を用意して、4つの視点から私を導いています。

 

さて、では、まず、マルコ福音書10章46節を開いてみましょう。

 

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。
ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 

 

はい。
ありがとうございます。

この話には、いくつかのポイントがあります。
では、順に追って話をしていきましょう。

  1. エリコという町

    このエリコという町は、有名な街ですね。
    旧約聖書のなかでも、モーセの後継者ヨシュアが、約束の地であるカナンに入る時に、始めに戦闘を行った話が記されています。
    その時に、エリコの人々は城門を堅く閉ざし、誰も出入りすることができませんでした。しかし、神様の言葉に従い、イスラエルの民が契約の箱を担いで7日間城壁の周りを廻り、角笛を吹くと、その巨大なエリコの城壁が崩れ、エリコを占領できたというお話です。(ヨシュア記6・20参照)
    ヨシュアはヘブライ語の呼び方で、アラム語で読むと「イエス」になります。そう、イエス様と同じ名前の預言者です。ヨシュアは、このエリコを足掛かりに「カナンの地」に王国を築きます。そして、イエス様は、この後、エルサレムに入城し、受難・死、そして、復活し、私たちに神の栄光と神の愛を示してくださいます。

    ヨシュア、イエスという名は、「神は救う」という意味です。まさに2人とも、受けた名前にふさわしいことをなさったわけです。

  2. バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた

    もう1度、当時のユダヤ人社会について、思い出してみましょう。
    当時、ユダヤ人といわれる人は、「ヤコブ(イスラエル)の12人の子の子孫である12部族の民であること」、そして、「ユダヤ教に信仰をおいている人」という2つの条件がありました。そのどちらかが欠けても、ユダヤ人とは呼ばれません。
    例えば、異邦人と呼ばれる人も聖書には出てきますよね。他にも、サマリア人も出てきます。彼らは、ユダヤ教を棄教してしまっていたり、または、(ユダヤ教を信仰していても)混血してしまったりした人々ですので、条件にあてはまりませんよね。彼らは、ユダヤ人社会の外の人として認識されます。
    そして、バルティマイのような盲人はもっと悲惨でした。
    当時ユダヤ人社会では、盲人や皮膚病、足の不自由な人などは、「神さまから罰を受けている人」とされ、人々はその人たちとの関係を断ちます。自分も罪を負うことになってしまうからです。ですから、当然のように「仕事にもつけず、友達もいない」という状況になってしまいます。つまり、バルティマイは、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人社会の外にいる人ということになります。だから、彼は「物乞い」をするしかない状況になってしまうわけです。
    想像してみてください。
    目も見えず、友達もいない。誰も助けてくれない。働けない。生きている意味すら感じられないかもしれません。
    まさに真っ暗闇の中にいる状況ですよね…

  3. ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください

    前にもお話ししましたが、「ダビデの子」というのは、「キリスト」という意味ですね。
    そして、聖書の中で、「憐れむ」という動詞は、「神様やイエス様」にしか使われない言葉です。だから、この「憐れむ」という言葉を使うこと自体、すでに「神様」や「メシア」に向かって言っているのと同じ意味になります。
    ちょうど先週(年間第21主日)、聖ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と、答える箇所が福音朗読でした。
    バルティマイは、聖ペトロのように弟子としてずっとイエス様の側にいたわけでもなく、数多くの奇跡を実際に目の前で見たわけでもありません。きっと、どこで誰を救ったとか、どのような話をし、ファリサイ派や長老たちと言い争ったか(論破したとか)等の噂話をしているのが聞こえてきたのでしょう。いつしか興味を持ち、自分でイエス様の話を聞いて回ったかもしれません。そして、「自分を救えるのはイエス様しかいない」と思うようになったのでしょう。
    バルティマイにとって、イエス様が自分の住むところに現れたことが人生において、最大の、そして、最後のチャンスだったのかもしれません。
    だから、(もちろん、そういう人物-神様から罰を受けている人-が来ればイエス様を守るために、そして、自分達が関わらないために、止めようとするでしょうが、)誰が止めても、イエス様のいるだろう方角に向かって大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、叫び続けたのでしょうね。
    もうイエス様しか、神様しか頼るものがない!助けてほしい!まさに、必死に、心の奥底から、イエス様を、神様を求める光景が浮かびますよね。
    バルティマイの気持ちになって考えれば、みんなにもわかると思います。

    教会に集う人たちの気持ちをここで当てはめてみてください。

     

  4. 行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。

    イエス様は、必死で自分を呼び続けるバルティマイを呼ばれます。
    バルティマイは「上着を脱ぎ棄てて」と、ありますね。当時は一枚布のチュニックのような「下着」をまず来て、マントルのような「上着」を着ます。
    バルティマイにとって、「上着」は「彼の持っている全て」だったに違いありません。
    全てを捨てて、呼んでくださったイエス様のところにバルティマイは駆け付けます。
    そして、イエス様に目が見えるようになりたいと訴えます。
    そのバルティマイにイエス様は、何をなさるわけでもなく、ただただ「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と、言います。
    旧約の預言者達も数々の数々の奇跡を起こします。死んだ人を生き返らせたエリヤやエリシャもいます。
    しかし、イエス様のように何もせず「ただ言葉をかけるだけで癒した」という事はありません。これは、神そのものであるイエス様と、「神様の言葉を預かる」預言者の違いなのでしょう。

    この言葉「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、他の箇所でも見ることが出来ます。

    1. マルコによる福音書 5章34節
      ヤイロのもとへ行こうとされる時に、「十二年間も出血の止まらない女」がイエス様に触れ、病気が治った時…
    2. ルカによる福音書 7章 50節
      ファリサイ派のシモンの家で食事をしている時に、罪深い女が後ろからイエス様の足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して香油を塗った時…
    3. ルカによる福音書 17章 19節
      重い皮膚病を患っている十人を癒された後、唯一サマリア人が大声で神を賛美しながら戻って来て、イエス様の足元にひれ伏して、イエス様にお礼を言った時…。

    私(イエス様)が救ったのではなく、「あなたの信仰が、あなたを救った」と、イエス様は仰います。こんなうれしい言葉ないですよね。
    私たちが何かをイエス様のために何かしたからでもなく、ただただ「イエス様を神の子、メシアと尊び、神のいつくしみを深く求める信仰」が、私たちを救うということですよね。
    神様が、アブラハムやイサク、ヤコブと契約された時、そして、罪のないイエス様を十字架上での死、復活を通して、新たに契約を結ばれた際に、まったく私たちに条件が与えられなかったように、イエス様は癒すために、私たちに「何かの条件」を、与えたわけではありません。

    ただただ「全てを捨て、神様を信頼し、そのいつくしみを求める」こと、そんなシンプルなことが私たちを救う。こんなうれしいことがありますか?

  5. 盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

    始めに、この話を始める時、マルコ福音書にしか載っていない話と言いましたよね。
    数多くある「盲人を癒す(目を見えるようにする)話」のなかで、この話は、盲人の名前「バルティマイ」という名前をわざわざ残しています。
    当時のマルコの共同体(ユダヤ教の理解がない異邦人たち・ローマの人たち)の間でも「バルティマイ」は知られた存在だったのではないかと言われています。
    つまり…「なお道を進まれるイエスに従った。」とあるように、大変な迫害にあっていた当時の初代教会の1人として、彼は信仰を守っていたのでしょう。

    さて、そのバルティマイは「元・盲人」として有名だったのでしょうか?それとも、「元・物乞い」として有名だったのでしょうか?「元・可哀想な人」としてでしょうか?
    きっと、違いますよね。
    彼がその後どのような人生を歩んだのか、聖書には残されていませんし、分かりません。
    でも、きっと「イエス様によって目が見えるようになって、初めてバルティマイは、何の色もつかない、バルティマイというひとりの人として、アイデンティティを取り戻し、他の人との関わりを持つことが出来た」のだと思います。それは、彼にとって、目が見える事より、はるかに嬉しかったことではないでしょうか?

    だから、彼はずっと残り続け、「イエス様に従いつづけた」のだと思います。
    バルティマイが有名だったのは、まさにバルティマイこそが「福音の見える現れ」であり、「神の国の欠片」だったからではないでしょうか。
    そして、バルティマイの喜びが、迫害にあう人々を支えていたのではないでしょうか。きっとですけど…

    みんなは、どうでしょうか?
    それぞれみんな「イエス様に呼ばれ」集まった者たちですから、一人ひとりの喜びに満ちた共同体になるはずです。
    アイデンティティを取り戻した本当の自分は、「極めて良い(創世記1章31節)」ものです。
    そして、マタイによる福音書6章33節には、こう記されています。

    神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、他のものはそれに添えて与えられます

    共同体に受け入れる側も、これから洗礼を受ける側も、バルティマイが上着を脱ぎ棄てて、イエス様のところにいつくしみを求めてきたように、まず全てを捨て、イエス様のところに集い、他の人と関わりあう事によって、喜びに満たされます。そうすれば、他のものは自ずとそれに添えられて与えられます。だから、神様を信頼して、全てを捨てて、飛び込んでみてください。

 

 

さて、時間も押し迫ってきたので…そろそろまとめます。
私たちもバルティマイのように、強い信仰を持つことが出来れば、どれだけ幸せでしょうか?
こんなシンプルな事が私たちには、なかなかできないでいます。
福音書のなかには、神様を求めて、神様のいつくしみに触れたくてもがいている人たちがたくさん出てきます。
私たちは、そういう方達の信仰から、多くのことを学べるはずです。

前も言いましたが、このバルティマイの「ダビデの子イエスよ、あわれみたまえ!」は、立派なお祈りです。

「主よ、憐れみたまえ」

これから、ミサのなかで私たちは歌いますよね。歌は祈りです。
私たちが、バルティマイのように「全てを捨てて、あなたのもとに歩めますように!」という強い思いで歌ってみてください。

それでは、最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

 

来月の勉強会は10月1日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。
来月は「聖霊降臨について」勉強します!