毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

先月・今月は、「イエス様の受難・死・復活」というもっとも大事な箇所です。
既に堅信を受けたメンバーも、堅信にもう一歩足を踏み出せないメンバーも参加して、自分の信仰についてもう1度考える機会になればと思います。

 

 


 

 

今月のテーマ

● 過越の聖なる3日間の出来事 1 ●

 

今月も先月に引き続き、「イエス様の受難・死・復活」について、一緒に考えていきましょう。
既に受堅メンバーには伝えていますが、イエス様の受難・死・復活は、信仰の根幹です。
まず、先月のおさらいをしましょう。

 

イエス様は、「律法を完成させるために」ご降誕されました。
律法は、本来、私たち人間のために神様が私たちを幸せにするため、つまり、神の国の実現のためにあるものでした。

マルコ2章23節を開いてください。

 

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」

マルコによる福音書2章23-28節

 

神様が、私たちへの愛ゆえにご自分のひとり子イエス・キリストをお送りくださったのです。
ヨハネ福音書の3章16節を開いてみましょう。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書3章16-17節

 

モーセがシナイ山で神様から与えられた与えられた十戒は、イエス様によって、私たちにシンプルに本質をついた言葉で掟として残されています。それが、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(十戒1-3の部分) 『隣人を自分のように愛しなさい。』(十戒4~10の部分)でした。

 

そして、聖週間の日曜日から水曜日までのお話をしました。

日曜日

イエス様は、ご受難にあうのを神の御旨として受け入れ、エルサレムに入城されます。
過越祭で世界中からエルサレムに集まった人たちは、まるでスーパースターが来たかのように、イエス様に「ホサナ(救ってください)」「ダビデの子(メシア)」と、迎い入れます。この迎い入れた人たちの思いは「ローマ帝国から解放して、ダビデ王やソロモン王の頃のようなユダヤ人の栄光の時代を取り戻してくれる人」という意味でのメシアでした。しかし、イエス様はそうではありませんでしたよね。イエス様は、力の象徴の馬ではなく、平和の象徴であるロバによってエルサレムに入城されました。イエス様は、「神の国の王」として来られたからです。まだ、誰も真の意味でのイエス様のアイディンティティを理解していないのです。

月曜日

イエス様は、市場になってしまっていた祈りの場である神殿から商人たちをムチで追い出しました。これによって、祈りの場である神殿が戻ってきました。それと同時に神殿がユダヤ人だけのものではなく、私たち人間に解放されました。しかし、商人たちから利益の一部を上納させていた祭司長や長老たちの怒りをかいます。

火曜日

祭司長たちや長老、律法学者から意地悪な質問を受けますが、悉く論破し、さらに、彼らが間違った律法の理解をし、神様の意志とは別のところにあることを指摘します。これによって、祭司長や長老たちは、イエス様を殺すことを決意します。

水曜日

サタンの入ったイスカリオテのユダが、祭司長たちにイエス様を引き渡すことを約束します。彼らは、イスカリオテのユダに銀貨30枚、当時の奴隷1人分の値段を報酬として支払いました。

 

 

 

さて、今日は、木曜日から日曜日までの「過越の聖なる3日間」のお話です。
その話に入る前にまず、過越の聖なる3日間の「過越」のお話をしなくてはいけません。この「過越」は、当時のイスラエルの人々にとって、もちろん、今のイスラエルの人々にとっても、最も大事なことだからです。

過越は、この最後の晩餐が行われていた時のちょうど、1310年ごろ前にあったお話です。

 

ヤコブ(イスラエル)の12人の子(12使徒はここからきています)のなかで、父ヤコブに最も可愛がられていた末っ子のヨセフが、兄たちの妬みをかい、色々あって、エジプトに奴隷として売られてしまいました。でも、ヨセフは賢い人だったので、エジプトで王様や多くの人々の信頼を得て、エジプトの宰相(総理大臣)となります。
その後、大飢饉が中東を襲います。エジプトは、宰相であったヨセフによって食料などを貯蓄してあったこともあり無事でしたが、ヨセフの父ヤコブや兄弟たちは食料が尽きてしまいました。ヤコブたちは、ヨセフが宰相であることを知らず、助けを求めます。そして、ヨセフは、兄弟たちを赦し、ヤコブや兄弟たちをエジプトに招きます。
こうして、イスラエルの民は、エジプトで幸せに暮らすようになりました。
しかし、やがて、エジプトの人々は、ヨセフの事を忘れ、豊かになっていくイスラエルの民に対し、妬み、恐怖を抱くようになりました。そして、イスラエルの民に、重労働を課すようになりました。300年間に渡り、それは続いていきます。しかし、イスラエルの民は、重労働をさせてもさせても、子孫を増やし、繁栄していきます。ついに、エジプトの王様は、「産まれた男の子は、全員殺せ」という命令を下します。イスラエルの民の産まれた子は、産まれた瞬間に男の子と分かると、また、ナイル川に流され、殺されてしまいました。

モーセは、ちょうどその命令が出された時に産まれました。
しかし、モーセの両親は、我が子を殺すことが出来ず、3か月の間隠していました。いよいよ隠すことが出来なくなり、ナイル河畔の葦の茂みに籠にいれて様子を見ていました。
そうすると、そこに王様の娘が水浴びに来ました。王様の娘はモーセがユダヤ人と分かりながらも、殺すことが出来ず、自分の子どもとして育てる事にしました。
こうして、モーセは、ユダヤ人でありながら、王子として、育ちました。

さて、モーセは王子として育っていくなか、イスラエルの民は、そのなかも重労働を課せられていました。
その間イスラエルの人々は重労働の苦しみにうめき、叫んでしました。その助けを求める彼らの叫び声は神に届いていました。神様は、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ」、「イスラエルの人々を顧み、御心に留められ」ていました。

そして、モーセが80歳になる頃、神様はモーセを通して、イスラエルの民を救われます。
神様は、イスラエルの民を解放するために、エジプトの民に「10の災い」のうち、9つの災いを起します。しかし、エジプトの王様は、それでもイスラエルの民を解放しませんでした。そして、最後の10個目の災いの日、いよいよイスラエルの民は、エジプトを脱出します。
脱出の夜、神様は、人間から家畜に至るまで、エジプトの初子(長子)をすべて撃たれました。しかし、モーセを通して、「傷のない雄の子羊の血が家の柱と鴨居に塗っておいた」イスラエル人の家は過越して初子を撃たれませんでした。(だから、この出来事を過越と言います)
エジプトの王の長子も、過越によって危篤となり、エジプトの王は、モーセにイスラエルの民を連れて出ていく許可を与えます。

イスラエルの民は、急いで準備して、酵母を入れない小麦粉のパン(種無しパン)を持ち、エジプトを脱出します。

その後、エジプトの王様は、イスラエルの民を追撃して来て、紅海に追い詰められます。しかし、もうこのシーンは有名ですよね。
海が2つに割け、その間をイスラエルの民は通り、パレスチナの地に戻ります。そして、イスラエルの民が渡りきったところで海は戻り、エジプト兵は、海に流されてしまいます。

この後、モーセは、シナイ山に登り、神様は新たにイスラエルの民と契約を結び、十戒をモーセを通してイスラエルの民に与えます。

 

簡単にですが、これが、過越のお話です。
いつかがっつりやりたいですね。

一番大事な言葉は、「傷のない雄の子羊」です。
神様は、イスラエルの民が「傷のない雄の子羊」を捧げる事でイスラエルの民を過越されました。

この事を覚えておいてください。

 

 

さて、本題に入りましょう。まずは、木曜日のお話です。

● 木曜日の夜の出来事… 最後の晩餐 (聖木曜日 主の晩餐の夕べのミサ)

 

 

「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」

ルカによる福音書22章15節

 

最後の晩餐は、イエス様の、この言葉で始まります。
「最後の晩餐」は、レオナルド・ダ・ヴィンチを始め、様々な画家がモチーフにしているから、みんなもイメージしやすいですよね。
想像してみてください。
自分は、これから何が起こるかわかっています。今まで命を懸け一生懸命伝えてきたことはまるで理解されてない。そして、3年間一緒に宣教の旅をしていた仲間の1人に裏切られ、日曜日にまるでスーパースターのように迎い入れたくれた群衆から、罵られ、何1つ罪は犯していないのに、最も残酷な十字架の刑、死刑にあう…みんなが知っているイエス様の受難・死が今起ころうとしています。

この「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」という言葉の重み、切なさ、悲しさは想像に余りあるものがありますよね。受難・死を迎える前に、ご自分を裏切ることになるイスカリオテのユダも含めて、食事をとろうとされるイエス様の真意を考えてみてください。
神のご計画とはいえ、イスカリオテのユダがどうなるか、ご存じで慈しみによって、一緒に食事をとろうと考えれたのかもしれませんし、もしかしたら、考えを改めてくれると思ってかもしれません。個人的には、「そんなイスカリオテのユダも含めて」一緒に旅をした仲間達全員で食事をとりたかったのではないかと思います。逆に言えば、それだけ、これから起こることにイエス様ご自身も恐怖し、悲嘆にくれ、少しでも分かち合いたかったのではないでしょうか。

 

さて、最後の晩餐は、私たちキリスト者にとって、最も大事な出来事の1つです。
なので、聖木曜日には、この最後の晩餐を直接記念した「主の晩餐の夕べのミサ」があげられます。今年は、4月13日ですね。
それだけ、大事な事がこの最後の晩餐のなかで行われました。

この「最後の晩餐」のなかで、イエス様が「このように行いなさい」と命じられた通り、行っています。つまり、この最後の晩餐に、私たちが毎日(正確にいうと363日)行っているミサが制定されました。それがどれ程、私たちにとって、素晴らしい事か…、みんなにはもうわかりますよね。

 

 

ルカによる福音書 22章19-20節を読んでみましょう。

 

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

ルカによる福音書 22章19-20節

 

はい。ありがとうございます。
もちろん、みんなには、この箇所が何を意味しているか分かりますよね。
感謝の典礼のなかで、聖変化の際に唱えられている言葉です。
イエス様が仰った言葉、聖書の御言葉をほぼそのままミサの中で唱えているわけです。

前にも時もしましたが、この時から約2000年間、このイエス様の言葉を守り、ミサを祝ってきました。
もちろん、この時、弟子たちは、この言葉の真の意味を分かっていません。
受難・死・復活の本当の意味を知るのは、まだまだ先です。
でも、みんなはその意味を知っています。

ミサの中で、平和の賛歌を歌います。
歌詞を覚えていますか?
神の子羊 世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。神の子羊 世の罪を除きたもう主よ、われらに平安を与えたまえ。

そして、その後、ご聖体を拝領する前に信仰告白をしますよね。
主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう

 

平和の賛歌で歌う「神の子羊」、これは、イエス様の事ですね。
過越のことを覚えていますか?
傷のない子羊を捧げ、過越されたのでしたよね。私たちは、全く罪のないイエス様を捧げ過越します。
罪人である私たちが、全く罪のないイエス様を犠牲にし、死から解放され、永遠の命を得る。

この重みを感じ取ってください。
だから、次の信仰告白に意味が生まれます。

 

主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。

ヨハネによる福音書6章 68-69節

聖ペトロの言葉です。みんなはどうですか?
自らを捧げ、神様に私たちを救ってくださるイエス様に心から伝えてみましょう。

 

では、次にヨハネによる福音書13章1~15節を読んでみましょう。

 

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 

まず、最初の箇所、 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」この言葉の意味を味わいましょう。普通に愛したではなく、「この上なく」「愛し抜かれた」のです。初めの説明を少し思い出してみましょう。
これは、神様のみ旨「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3章 16節)」にも通じるものがありますね。

そして、弟子たちの足を洗います。
当時、足を洗うという行為は、その家の召使が主人に対して行う仕事でした。
当時の靴は、サンダルのようなものでしたし、中東は、砂埃が多いですから、家に帰るとまず足を洗うのです。
つまり、召使がする仕事をイエス様が弟子たちに行いました。イエス様は、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(マタイによる福音書23章11-12節)」というみ言葉をそのまま自ら実行されたのです。
そして、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したので」す。

主の晩餐の夕べのミサのなかでは、このことに倣い、洗足式が行われます。
数年前、教皇フランシスコは、刑務所に出向き、受刑者の皆さんの足を洗われました。また、違う年には、難民キャンプに行き、難民の足を洗われました。
松戸教会でも、12人(ヤコブの息子の数、使徒の数)の信徒の足を神父様が洗います。
もし、聖木曜日にミサに与るときは、ぜひ足を洗って頂いてください。そして、イエス様がおっしゃったように、謙遜の心をもって、自ら低くなり、お互いに仕いあいましょう。

そして、イエス様は、足を洗った後、仰りました。
ヨハネによる福音書 13章 26-27節をよんでみてください。

 

イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。

ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

 

あくまで、ご自分のことではなく、神様のみ旨にそい、行動されます。

そして、その際に、ペトロは言います。
ヨハネによる福音書 13章37-38節を読んでみましょう。

 

ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

実際、ペトロは、イエス様のことを知らないと3度言ってしまいます。
ペトロは、神様のみ旨ではなく、自分のことを考えてしまいます。もし、イエス様を知っていると言ってしまえば、自分も刑に処されてしまうと考え、恐怖したのでしょう。

みんなならどういう行動をとりますか?
日本には多くの殉教者がいます。26聖人殉教者たちは、キリスト者であるとして、捕まった時にどう答えたでしょうか?
「キリスト者ではない」と答えましたか?
つい、先日遠藤周作さんの原作「沈黙」という映画が、上映されていました。
みんなが、もしキリスト者であるとして捕まり刑に処されるとしたら、どのように答えますか?

 

そして、この最後の晩餐の中で、まるで遺言のようにイエス様は、わたし達に新しい掟をお話になりました。
先月話をしたようにこれは、十戒をさらに深めるものです。イエス様は、律法を完成させるためにこられたのです。(先月の勉強会
ヨハネによる福音書 13章34-35節を開いてみましょう。

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 

 

これが、私たち信徒にとって最も大事な掟です。
イエス様がおっしゃるように、互いに愛し合えば、おのずとキリスト者であることがわかります。

 

 

● 木曜日の夜の出来事 ゲッセマネ

そして、最後の晩餐が終わると、いつものように、祈りに出かけられます。
聖書には、何か重大な決断をする時、また、岐路に立たされた時、イエス様は一人で祈られたことが記されています。
しかし、今回は1人ではなく、3人の弟子を連れていかれました。3人の弟子といわれたら、ペトロ、ヤコブ(ゼベタイの子)、ヨハネ(ゼベタイの子)ですね。
では、マタイによる福音書26章36-56節を読んでみましょう。

 

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。
「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。
このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 

どうですか?
人間「イエス」の孤独感、そして、恐怖を感じられませんか?
神の子でありながら、人として産まれたイエスが、神の御旨と自分の中にある感情のなかで、悲しみもだえているのです。
もし自分がイエス様だったら……イエス様の気持ちは、想像できますよね。「絶望」という言葉がまさにそのまま当てはまる状況です。しかし、イエス様は最後の最後まで父である神様に祈られ、共にいました。

でも、3人の弟子たちはイエス様のそんな思い、そして、イエス様のアイディンティティ、イエス様の言葉の意味をちゃんと分かっていなかったがために、そんな場でも寝てしまいます。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い
イエス様は、最後まで弟子(私たち)に真理を教えてくださり、そして、赦し、回心へと導いてくださいます。
私達は、人として、キリスト者として、「こうありたい」「こうすべき」と分かっていても、実際出来ないことが多いですよね。
実際は「出来ない」のはなく、「しないだけ」だったりします。聖パウロも常に肉にではなく、霊に従うように私たちを諭していますよね。
たとえば、ガラテヤの信徒への手紙5章 17節にはこうあります。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
だから、イエス様が仰るように常に目を覚まして祈りましょう。

そして、自分の弱さと向き合う時の祈りも、この時、イエス様は、模範を示してくださいました。

 

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

マタイによる福音書 26章 39節

 

 

私達も、洗礼を受け、聖パウロが「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ローマの信徒への手紙8章 15節)」と伝えるように、神の子となったのですから、神様を父と呼び、イエス様のように祈りましょう。

そして、イエス様は、人間としての苦しみ、恐怖、悲しみ、孤独感…様々な物を乗り越え、いよいよご受難へと向かわれます。

 

 


 

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