今日は、8時からのミサを清川神父様(カトリック中央協議会)に司式して頂き、10時半からのミサを大山神父様(カトリック神学院)に司式して頂きました。

ミサのお知らせの中で、清川神父様から、カトリック新聞購読の薦めがありました。現在、こちらから(カトリック新聞オンライン)オンライン版が無料で読めます。オンライン版を読んで、興味の持たれた方は、ぜひ購読をよろしくお願い致します。
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ミサ後、地下ホールで大山神父様による2回目の「信仰年」勉強会を開かれました。今回は復活節という事もあり、「信仰と復活」をテーマに約1時間にわたって講話を頂きました。

大山神父様は、時にはユーモアを交えて、わかりやすく、お話しくださいました。
(以下、講話内容)
現代における「平和で豊かで自由がある」日本は、信仰を持ち続けるのが非常に難しく、言い換えれば、優しく迫害に合っているような状況にある。このような「平和で豊かで自由がある」状況では、神を必要としないからである。そのため、教会はゆっくりと廃れていっている。
だから、我々信者は「一人ひとりが教会」である意識を持ち、その使命を果たしていかなければならない。その使命とは、後世・我々の子孫にこの信仰を伝えることである。では、伝えるべき信仰とは、どのようなものなのだろうか?
「神を愛し、神を愛している自分を愛し、そして、自分と同じように隣人を愛す」
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。
ルカによる福音書 10章27節
例えば、周りの人に感謝の気持ちを伝える。そうすると初めは「変な人」と思われるかもしれないが、相手は悪い気持ちにはならない。そして、それを続けていれば相手の自分に対する行動も変わるだろう。そして、それは周りの環境すら変えていき、自分にとっても、まわりにとっても良い結果をもたらすことになるのではないか。そこには喜びが生まれる。
我々が伝えるべきモノとはその「喜びと感謝」である。カトリック教会は時としてさまざまな批判や中傷に合う。教会の長い歴史の中で様々な時代を乗り越えてきた。しかし、「普遍」である教会は変わらない。だから、信仰は自由である。
それによって、我々は、様々な人を許容することが出来る。お互いに感謝することによって、フレキシブルに他の個性を生かすことが出来る。
そのように教会の1番の教えとは「苦・死を乗り越える力」であり、「今を生きる力」である。
我々は、「誕生」「現在」「死」まで常に神と関わって、生きている。また、生きていく中で様々な「関わり」をもっていく。たとえ、あなたが死をむかえてもおそらく言動の記憶は周りの人々に残るのではないか?たとえ、あなたのご両親が亡くなっても、亡くなられていても、その記憶はあなたのなかに残っているのではないだろうか?また、あなたが今したことは何かに影響を及ぼさないことはない。その影響は、子孫にもつながるものである。つまり、命とは「関わり」であり、「関わりは永遠」である。
しかし、我々は、日々の生活のなかで様々な誘惑や困難に出会う。また、誕生から死まで常に持っている「神との関わり」から忘れてしまうこともある。
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
使徒パウロのコリントの信徒への手紙一
我々信仰をもっているものは、「ご復活」という事実をとおして、神との関わりを思い出すことが出来る。そして、日々の中で復活して神に戻ることができる。
つまり、信仰とは、神という「見えない存在と関わる力」である。
その力があれば、先ほど言った「喜びと感謝」が生まれるのではないだろうか?ゆえに信仰には意味がある。

次回の大山神父様の「信仰年」勉強会は、6月23日(日)に予定しています。