松戸教会では、毎月第1週の主日のミサのなかで、その月に誕生日を迎えられる方々の祝福を行っています。
今月は、本日・年間第27主日のミサのなかでフィリップ神父様にお祈りを唱えて頂き、灌水して、祝福して頂きました。


8時からのミサ


10時半からのミサ
ミサに与った方々からも祝福の拍手が送られました。
10月生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます!
松戸教会では、毎月第1週の主日のミサのなかで、その月に誕生日を迎えられる方々の祝福を行っています。
今月は、本日・年間第27主日のミサのなかでフィリップ神父様にお祈りを唱えて頂き、灌水して、祝福して頂きました。
ミサに与った方々からも祝福の拍手が送られました。
10月生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます!
毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、ロザリオの月ですね。
ロザリオは、プロテスタントの教会にはない、ある意味、カトリック教会に神様から贈られた大事な信心業です。それは、私達の信仰の大きな助けになります。
今月は、ロザリオを通し、祈り、そして、聖母マリアの存在の意味をもう1度考えてみましょう。
さて、今日は、教会では何の日か知っていますか?
今日は、ロザリオの聖母の記念日です。
だから、今月は、ロザリオについて勉強したいと思います。
みんなは家で祈っていますか?
堅信を受けたメンバーには、必ず1日に10分で良いので祈りの時間を取りましょうという話をしていますね。祈りは私たちにとって非常に大事なものです。
福音書の中でもイエス様も弟子たちから離れいつもお1人で祈られています。
しっかりとした祈りを行えば、私たちは、キリスト者として、神様から離れることなく、常にキリストの道を歩む事が出来るはずです。
みんなのお祖父さんやおばあちゃん、お父さんやお母さんも祈り続けています。教会の方々も祈り続けています。2000年間、私たちキリスト者は、祈りというもののプライオリティを下げた事は1度もありません。今月は、ロザリオの月ですから、松戸教会でも、ミサの前にロザリオを唱えています。この中には、その時に、ロザリオの先唱(誰が呼んだか…ロザリオ隊長と呼ばれる)方々のおばあさんを持つ人たちもいますね。将来は、みんながその役割を行えるように、しなくてはいけません。そういうことを受け継ぎ、こうやって2000年の歴史を私たちは紡いで来たからです。みんなもその伝統を担う「キリストの体」なのですから。
さて…ところでみんなは、ロザリオの唱え方をしっかり覚えていますか?
おさらい(ですよね…)してみましょう…
まぁ…1連が主の祈り・アヴェ・マリアが10回、栄唱というのは、ここにいるメンバーには分かっていますよね。そして、1連を5回唱えれば、1環というのも知っている事だと思います。
今もそうですが、世界には文字の読み書きができない人がたくさんいます。日本のように学校にしっかり通えるような国はそれほど多くありませんし、たとえば、小さいな子は、読み書きをするのは難しいですしね。でも、3つの祈り(主の祈り、アヴェマリアの祈り、栄唱)を覚えておけば、誰でもロザリオを唱えることが出来ます。こうして、本当に昔からロザリオは私たちキリスト者に親しまれてきました。
中高生のみんなは、もちろん「使徒信条」を覚えているでしょうから、「ファティマの祈り」か「サルヴェ・レジーナ」も覚えて完全にロザリオを唱えられるようにしましょう。サルヴェ・レジーナは聖歌としてもよく歌いますね。
そして、もちろんみんなは、3つの祈りを暗唱出来ますから、特に頭の中でいちいち言葉を思い出さなくても唱えることが出来ると思います。
だから、祈りを唱えながら、心を神様に向け、たとえば、病気の方のために……たとえば、苦難に合っている友達のために……祈ることが出来ると思います。
ただ、この時注意しなくてはいけないのは、1つの1つの言葉を大事にする事です。
「天におられる私たちの父よ…」「アヴェマリア…恵みにみちたかた…」「栄光は父と子と聖霊に…」
1つ1つの言葉に意味があり、そこには、キリスト者として唱えるべき理由があります。1つ1つの言葉を丁寧に扱いながら、祈りを「紡いで」いきます。私たちは、決して意味の分からない呪文を唱えているのではないのですから。スピードも大事ですね。ゆっくり丁寧に1つ1つの言葉をかみしめながら、祈りを唱えましょう。ロザリオの珠を1つ1つ操ると、自然と言葉を大事にしようという心の動きが生まれると思います。ロザリオは、そういう意味でも素晴らしい祈りの道具です。
ロザリオの祈りは、聖ドミニコが始めたと言われています。正確に言うと、昔からマリア様への祈りを唱える習慣はあったのですが、聖ドミニコによってロザリオの祈りへと昇華されました。
元々ブラザー達は、1日に150の詩篇すべてを唱えていました。でも、聖書を読めない(字が読めない)信者は、詩篇なんて無理です。なので、一般の信者も出来るように、主の祈りを150回唱えようという事になり、更に主の祈りからマリア様への祈りへと唱えようという事になりました。それが、逆にブラザーやシスター達にも浸透していき、ロザリオの祈りへとなっていきます。ロザリオ自体は、シトー会(トラピスト会)のブラザーがマリア様の祈りを50回ずつ唱えていると、その祈りがバラの花となり、マリア像の頭上を飾ったという13世紀の伝説に由来しています。そんなわけで…ロザリオを1環おこなうと50回のアヴェマリアの祈りを唱えたことになり、それを3回(たとえば、朝・昼・夕)行えばと150回アヴェマリアの祈りを唱えるというわけですね。(今でも15連、つまり、3環行うのが一般的です)
さて、さっきロザリオを唱えながら、頭の中では別の事をお祈りするという話をしましたよね。
教会は、イエス様の救いのわざにおいて、マリア様に関連するいくつかの場面を結びつけ、黙想できるようにしています。それを玄義と呼んでいます。玄義は4つあります。
毎日できるように、4つの玄義をそれぞれ振り分けています。
マリア様に対する大天使聖ガブリエルの「喜びなさい、マリア」というあいさつは、救い主がお生れになる喜びへの招きです。
マリア様の喜びの源にあるキリスト(救い主=イエス様)を共に黙想する事で、私達もキリストの存在を感じ、「喜び」に招かれます。
十字架の下でマリア様はその最後のときまで、イエス様と一緒にいました。
苦しみの神秘を黙想する事で、私達もマリア様とともに十字架の下に並んで立ちます。イエス様のご受難は私たちにとって、回心への導きであり、神様の愛、そのものです。マリア様とともに、私達に示された神様の愛の深さを知ることが出来ます。
復活節の出来事は、私達の教会の最も重要な出来事です。イエス様は、受難・死に打ち勝ち、復活と昇天という栄光を私達に示してくださいました。
私達がイエス・キリストによって神様ともう1度関わるが出来るようになり、私達が神の民の一員として、絶望の奥に必ず希望がある事を知ることが出来ます。
イエス様は私たちにとって「世の光」そのものです。そして、キリスト者である私達も「世の光」であるとイエス様は仰いました。世の光になりなさい。ではなく、世の光であるとイエス様は仰ったのです。イエス様の公生活の主な出来事を黙想するこの光の神秘には、イエス様と常に行動を共にしていたマリア様の存在があります。私達とイエス様の取次をしてくださるマリア様の存在は、私達の信仰の大きな助けとなります。マリア様の存在を通し、私達もキリストへと導かれます。
以上、4つが玄義になります。
1連ごとにマリア様とともにキリストの道を歩み、マリア様の取次を願います。
これは、全てのお祈りに言えることですが、「ただ言葉を唱えるだけならば」やめてしまった方がいいです。時間の無駄です。
また、同じように、玄義にこだわり、いちいち思い出し、本や聖書を見ながら、というのも、文字をおうだけのものとなり、意味がありません。
大事なのは、「祈る」という事です。
祈りは、神様やイエス様との会話とよく話しますよね。マリア様に、マリア様やイエス様の一生の事を思い起しながら、自分がキリスト者として、マリア様のようにしっかり歩めるようにとか、神様へのお願いを聞いてもらう…それが大事です。言葉をおうだけでは、ただそれを読んでいるだけでは、また、祈りを思い出すだけに集中してしまっては、それは会話とは言えませんね。確かに、ロザリオは、触る事で、まるで天国と私たちを繋ぐ橋のように「さぁ祈ろう」という気になり、祈りのスイッチが入りますよね。大事なのは、「橋」そのものではなくて、「それを渡る人」ということです。橋があっても渡る意思がなければ意味がありません。また、実際に渡らなければ意味がありません。そして、その「橋」がしっかり神様のもと(天国)に繋がっていなければ意味がありません。そういう意味でも「玄義」は、それを確かなものにしてくれます。
そもそも、なぜ私たちカトリック教会は、マリア様を重視するのでしょうか?なぜ、マリア様に崇敬の心を向けるのでしょうか?
それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。(ヨハネによる福音書19章27節)
この言葉を受け、マリア様は私達の母となられました。
また、使徒言行録1章13-14節では、イエス様の昇天の後、「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。
弟子たちは、せっかく、ご復活されたイエス様が40日しか私達の側にいなくて、天に帰られてしまい、どんなに心細かったでしょうか?
そんな時もマリア様は、私達と共に祈ってくださっていました。そして、カナの婚礼の時のように、私たちの母として、てたえず気遣ってくださっていました。イエス様の母であるマリア様が一緒にいて、共に祈ってくださることがどんなに心強かったでしょうか?
また、マリア様は、第2のエヴァと言われていますね。
エヴァは、アダムのあばら骨を抜いて造られました。(創世記2章21-22節)
思い出してみてください。
十字架でイエス様が死に、あばら骨のところ(ヨハネ19章34節)を刺して、心臓を刺しましたした。この時、流れ出た水と血は、イエス様のあがないをもたらす奉献の完全なしるしであり、洗礼と聖体を通して、教会に秘跡的にいのちを与え続けています。マリア様も「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」とシメオンから言われている(ルカによる福音書2章35節)通り、まさにマリア様もこの時、イエス様が奉献されたように自らも捧げられたのです。
これらの事は、私達が、ご聖体、十字架(上の神秘)、そして、マリア様に固く繋がっていないといけないことをあらわしています。
だから、マリア様は、神(イエス様)の母であり、教会(キリストの体)の母であり、私達の母です。
10月は、ロザリオを通し、マリア様を特に思い起こす月です。ロザリオを通し、マリア様の歩んだ道を一緒に歩みましょう。
それでは、最後にゆっくり丁寧にアヴェマリアの祈りを唱えて終わりにしましょう。
次回の勉強会は、11月4日です。
今年は、教会暦最後の月になりますね。来月は、神の国ついて勉強しましょう!
今日も元気にみんな集まりました!
「教会学校・はじめの祈り」でスタートです。
今日は宮原助祭の授業です!
どうぞ、よろしくお願いします。
みんなに質問!
みんなじぶんの心はどんな形していますか!?
考えてみてください。
ハート形?星?まる?
じゃあリーダーの心の形はどんな形でしょうか?
心の形はみえないですね。
私達は目に見えないものを大切にするように神様に教えられています。
最近泣いているお友達みた人はいますか?
自分が泣いちゃったって人もいるかな?
泣いてる人をみたら、何故泣いているのかなって考えさせられますね。
助祭も泣いている人をみました。
テレビで見たのですが、野球の試合で負けたチームも勝ったチームも泣いてました。
次の質問です。助祭の心は何色でしょうか!?
周りのお友達の心は何色かな??
服の色はわかりますけど…心は??
想像してみてください。
お友達の色はいいなーって思う色でしたか?
それとも…?
さて、透明色っていう色はありますか?
あると思う人!…ないと思う人のほうが多いですね。
じゃあ…鏡の色って何色だろうね??
毎週日曜日、神様のことをいつもより考えますね。
では、神様の色って何色かな?
神様って色があるかな?
神様色っていう色がもしあったら、
きっとそれが神様の色ですね。
神様に色がもしあったら、神様のことよくわかるかもね。
でも目に見える形での色がないから見ることができないですね…。
さて、イエス様もときどき泣いていますね。
何回か涙を流したということが聖書にも書いてあります。
そして、周りの人が泣いていたらその人のそばに行っていますね。
イエス様の涙の色は何色でしょう…。
みんなの涙の色は何色??
みんな「透明」と答えてくれました。
しかし、イエス様は見た目は透明に見える涙をただの水とは考えません。
スポーツで負けても勝っても涙を流すけれど、その涙は違いますね。
悲しい涙は悲しい色してるかもしれませんね。
嬉しい涙は嬉しい色かもしれません。
イエス様は人が泣いている時その涙の色をよく見つめてそばにいきます。
涙を流していなくても、その人が苦しかったり悲しかったりしたら、そばにいきます。
そして、優しさを与えます。
イエス様は、私たちには真似できない方法で優しくします。
「私を食べなさい」
イエス様は自分を食べ物として与えて優しくしました。
そこらへんにあるものを与えるのではなく、自分自身を悲しい人苦しい人に与えたのです。
そのへんの食べ物とは比べ物にならないくらいいいものです。
泣いてる人のそばに行って「私を食べなさい」と私たちが言っても、イエス様の言葉を真似しているだけですね。
イエス様は本当に食べさせてくれました。
私達は、ミサで毎週イエス様を食べますね。
そうして、私たちを通してイエス様がはたらいてくれるように、祈らないといけないですね。
悲しくて泣いてしまう時があっても、自分の涙の色わからないね。
でも、イエス様が涙の色をみてくださって、一緒にいてくださいます。
涙の色を感じ取ってやさしくするイエス様…
私たちも同じようにできるように祈っていかなくてはいけないです。
私たちがイエスさまの心の色、涙の色を決めつけてはいけません!
でもイエス様の色は一番いい色だなーと思う色です。
イエス様が与える優しさ「私を食べなさい」は、真似できないけど、2つ目の方法があります!
イエス様は祈りを教えてくれました。
なんの祈り??「主の祈り」ですね!
イエス様が、弟子たちに教えてくれたお祈りです。
覚えていますか?
そして、お祈りは主の祈りだけではないですね。
教会は10月を何の月とよんでいますか?
「ロザリオの月」と呼びます。
日本だけではなく世界中の人が10月を「ロザリオの月」として、ロザリオの祈りをしています。
ロザリオの祈りは、「主の祈り」「詠唱」「アヴェ・マリアの祈り」ですね。
世界中の人と心をひとつにして祈れるといいですね。
イエス様は泣いている人悲しんでいる人のところにいきます。
でも大人気だったからいろんな人がイエス様のところにきました。
イエス様はまた、別の方法でも優しさを与えてくれました。
今日の福音「マルコによる福音」10章13〜16節を読んでみましょう。
イエス様の元にはいろんな人が集まってきました。
奇跡を起こす人だと有名だったから見てみたいと思い集まってきたのです。
集まりすぎてイエス様はなにも出来なくなってしまったりもしました。
満員電車みたいに人が押し寄せてきたかもしれません。
お母さん・お父さんたちは、自分の子供たちをイエス様の近くにいかせたいと思いました。
弟子たちは「ちょっと集まりすぎだよ。」と叱ってしまいました。もしかしたら「子供はまだ早い!」と言ったかもしれないですね。
でもイエス様は、子供達を抱き上げて、手を置いて祝福しました。
抱き上げるというのは神様からの優しさのしるしですね。
こどもたちだからこそだね。
手を置いた…というのを教会では「按手」と言います。
ミサの中でも行われるね。
洗礼や堅信の時もそうだけど、祝福を与えるときに按手します。
按手は神様の祝福のしるしです!
助祭が按手するときも、助祭からの祝福のしるしじゃないです。
神様からの祝福のしるしです。
神父様、大司教様…誰がやっても神様からの祝福ということには変わりがないのです!
「私を食べなさい」
お祈り
按手
どれもイエス様の優しさです。
聖体拝領のときはみんなはイエス様を食べるから祝福(按手)はないけど、
ミサの最後にみんな祝福されますね。(派遣の祝福)
では、最後に、ロザリオの月なので、マリアさまの御像のところに行って
「主の祈り」「アヴェ・マリアの祈り」「詠唱」を唱えて教会学校を終わりましょう!
宮原助祭、ありがとうございました!
来週も元気に集まってね!!
今月10月はロザリオの月です。
松戸教会では、ミサ開始前にロザリオの祈りを唱えます。 今日のミサの前にも多くの方が集まり、ロザリオの祈りを唱えました。
土曜ミサの前には午後6時40分から、日曜8時のミサの前は7時40分から、10時半ミサの前には10時から行います。
キリストの救いのわざに協力した第一人者・聖母マリアへの崇敬は、初代教会からすでに始まっていました。マリアは人間でありながらも、神の特別な恵みを受けて救い主・キリストの母となるために選ばれたこの女性の姿は、神に対する心からの従順を示すものとして、またキリスト信者の生き方の模範として、さらには父なる神に取り次いでくれる助け主として特別に崇められてきました。
マリアに対する祈りの中でも、幾世紀にもわたって大切にされてきた信心として、ロザリオがあります。この祈りを歴代の教皇はたびたび言及し賛えています。ピオ11世教皇は「われわれが神の御母に向かって唱えるいろいろな、そして有益な祈りのうちで、聖なるロザリオは特別な、きわめて主要な地位を占めていることを知らない信者はない」(回勅『イングラヴェシェンティブス・マーリス』)といっています。また2002年10月16日に教皇ヨハネ・パウロ二世は、使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」を発表されました。「喜び、苦しみ、栄えの神秘(玄義)」に「光の神秘」を加え、この祈りを通してより豊かにイエスの生涯の神秘に触れることができるようになりました。
教皇フランシスコもロザリオの祈りを毎日行うように勧められています。
また、教皇フランシスコは、「ロザリオの祈り」の最後に、古来の聖母への祈り「Sub tuum praesidium」(スブ・トゥウム・プレシディウム)と、悪との闘いでの保護と助けを願って「大天使聖ミカエルに向う祈り」を唱えるよう勧めています。
多くの方のご参加をお待ちしています。