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マリア会主催・黙想会が下記のとおり、行われます。

 

テーマ

「神の子どもになる」~不安から解放へ~

講師

パウロ・ヤノチンスキー神父(ドミニコ会)

日時

2018年7月14日(土) 10:00 ~ 16:00

場所

松戸教会 聖堂

プログラム

10:00~11:00 オリエンテーション  聖歌  聖体顕示  ロザリオ  ゆるしの秘跡
11:00~12:00 講話  聖歌
12:00~13:00 昼食    *各自ご持参ください。(地下ホール)
13:10~14:10 聖歌  講話
14:30~15:30 ミサ(フィリップ神父 共同司式)
15:30~15:45 準秘跡(按手の祈り)
16:00 終了

 

お越しになる際は、公共機関をご利用ください。

お車でお越しの場合は周辺の有料駐車場をご利用いただくか、公共交通機関でお越しいただきますよう、ご協力をお願いします。

 

多くの方々のご参加をお待ちしています。




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先週と今日、教会学校の子どもたちが、
前主任司祭の宮下良平神父さまの銀祝のお祝いのための募金活動を行いました。

来週5月13日(日)のミサは、宮下神父さまが司式してくださいます。
10:30からのミサの後には、司祭叙階25周年のお祝いパーティーが行われます。

リーダーと一緒に力を合わせて、大きな声で呼びかけることができました!
皆様、ご協力ありがとうございました!




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松戸教会では、毎月第1週の主日のミサのなかで、その月に誕生日を迎えられる方々の祝福を行っています。

 

今月は、フィリップ神父様がエルサレム巡礼のため、お留守にされていたので、本日、復活節第6主日のミサのなかで高木健次神父様(CTIC所長 兼 目黒教会協力司祭)にお祈りを唱えて頂き、灌水して、祝福して頂きました。

8時からのミサ

 

10時半からのミサ

ミサに与った方々からも祝福の拍手が送られました。
5月生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます!




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カトリック教会では、5月は聖母月とされています。
5月は、新緑の美しい季節は、色とりどりの花々が咲き乱れる時期です。古くからこの美しい5月は、聖母にこそふさわしい月とされ、また、主の復活の喜びと希望に満ちた月です。

 

松戸教会では、主日のミサ前30分前よりロザリオを1環、捧げています。
5月は、少し早めにきて、ご一緒にロザリオを捧げましょう。

 

5月27日、三位一体の主日のミサ(10時半)には、ミサ15分前から、教会学校の子どもたちを中心に、教会入口の聖母子像前で、ロザリオを1連唱え、行列を行います。
是非、お越しください。




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは4人。

今月は、今年度最初ということで、神様、神の国について考えます。
私たちの信仰は、どこに向いているのか、そして、キリスト者はどのような世界を目指すのか、一緒に考えてみましょう。

 

 


 

今月のテーマ

● 神は愛 ●

 

さて、先日、教会学校の錬成会の下見に行ってきました。
これから、リーダー達で、企画を立てて準備していきます!
リーダーだけでは、目の届かない部分もあります。楽しんだり、自分自身の成長も大事ですが、後輩たちのフォロー等も含め、みんなの役目になります。
みんな、部活などもあると思いますが、是非参加してください。

 

では、始めましょう!
今日は、今年度の勉強会の最初ということで、神様の話をしたいと思います。
実は、今月の内容は、新しく入った中学1年生のために考えたのですが…今日は全員お休みですね。
でも、みんなにとっても当然これは大事な話です。知っている話もあるかもしれませんが、もう1度、いや、何度でも、私たちの信仰する神様について、思いを巡らせてみましょう。

まず、出エジプト記3章1~22節を朗読してみましょう。
有名なモーセの召命のシーンですね。
神様は、イスラエルの民を救うために、モーセを召命されました。

ここで重要な箇所が3つありますね。

  1. 神様は、柴(最もみすぼらしくて使いどころのない木)で象徴されるように、「最も低いところ」に降りてこられた
  2. 神様は、アブラハム・イサク・ヤコブとの無償の愛による契約を忘れることなく、イスラエルの民の苦しみを顧みられ、イスラエルの民を救うと宣言される。
  3. 神様は、私たちを信頼し、「わたしはある」という名を明かされた。

 

では、続いて、ヨハネの第一の手紙4章7-19節を読んでみましょう。
ありがとうございます。

この箇所も、とても有名な箇所ですね。
昨年の教会学校で行った錬成会で、山荘の聖堂に「神は愛」という言葉が書かれていたのをおぼえていますか?
ここからの引用だったんですね。

聖ヨハネは、その手紙の中で何度も「神は愛」と仰っています。
この愛というのは、アガペの事ですね。あきる野教会で行った教会学校の錬成会でTシャツづくりをしましたが、その時、胸にステンシルしたのが、「AGAPE」という文字でした。おぼえていますか?

高校になって哲学をとった子は、そろそろ習うかな?
愛には4つの種類があります。
男女の恋愛のエロス、家族愛などのストルゲー、友愛や師弟愛などのフィリア、そして、神の無限なる無償の愛を表すアガペです。

神様は、いつくしみ深く、無償の愛によるアブラハムとの契約をわすれることはありません。
イエス・キリストにより、その契約は、ユダヤ人だけではなく、私たち全ての人類との契約だということが示されました。

神様がどれ程私たちを愛してくださっているかは、先日までの四旬節の間に、十字架の道行などの受難の物語を通して、私たちは多くの事を感じることが出来ました。
それを一言で表すならば、この福音の御言葉が一番分かりやすいでしょう。

 

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。

ヨハネによる福音書3章16節

 

聖ヨハネも言っている通り、「神の愛がわたしたちの内に示され」ました。
イエス様は、ベツレヘムの城壁の外で、馬や羊たちのなか、飼い葉桶に生まれ、ご降誕されました。そして、最も貧しいものである羊飼いに祝われます。
また、エルサレムの外のゴルゴダの丘で、磔刑のよって、最も過酷で残酷な死を十字架上で迎えられました。
「わたし」ではなく、「わたしたちの内」にご降誕され、「わたしたちの内」で死を迎えられました。
神様は、罪びとである私たちのうちに、最も低い者たち、最も小さい者達のうちに、私たちの関わりの中にその「愛」を示されたのです
そして、イエス様の昇天後は、今度は聖霊が私たちのうちに住まわれます。
だから、私たちが、イエス様に従い、神様の愛のうちにいる時、私たちは、神様と共にいます。
神様から目を背け、神様に背中を向けている時、そして、関わりの中にいない時、神様は、99匹からはぐれてしまった1匹の羊のように、見つけ出してくださいます。そして、戻ってくれば、神様は放蕩息子の譬え話のように、遠くにいるうちから走って駆け寄ってきてくれて、本当に喜んでくれます。

今度の東京教区合同堅信式の際に、堅信を受けるメンバーは、5月20日に「ゆるしの秘跡」に与ってもらいますが、ゆるしの秘跡も「懺悔」というよりは、もう1度神様に心と体を向けて戻ってきたみんなを祝宴で祝ってくれる「喜びの秘跡」だと思ってください。
神様の愛のうちに、私たちの関わりの中に戻る大きな喜びがそこにはあります。この復活節に受けるゆるしの秘跡は、格別です。なぜなら、イエス様は、死に打ち勝ち、ご復活されたのですから。

 

神様は、その愛ゆえに、私たちを「神の国」へと招きます。
神の国とは、神様による支配が行われている国です。ポンティオ・ピラトとの問答で、イエス様はその国の王と仰っていますね。
私たちが人を支配する時、どうしますか?
「ルール?」
そうですね。ルールをまもってもらうためには、裏付けされたものが必要になります。ルールを破った人にペナルティを受けさせる「力」が必要です。
つまり、我々人間の支配は、力によるものです。
しかし、神様の支配は、そうではありません。
イザヤ書の11章1~10節を読んでみましょう。

ありがとうございます。
待降節に朗読される箇所ですね。この勉強会でも、何度も朗読しています。
だから、1~5節の説明は省きますね。要は、イエス様こそ救い主であり、神の子であることが示されています。今日注目するのは、6~10節です。
神様による、イエス様による支配とは、獅子が獅子のまま、子羊が子羊のまま、赤子が赤子のまま、毒蛇が毒蛇のまま、そこに存在しています。
アイディンティティを保ったまま存在し、すべてが調和しています。
この箇所は「平和の王」と呼ばれる箇所です。
私たちは、ミサのなかで平和の挨拶を行いますが、教会でいう平和とはまさにこういうことです。
私たちが「神から与えられた、ありのままの自分(最も小さな者)のまま、すべてが調和し、全ての人が幸せに暮らす」そういう世界です。
これらは、「力による支配」ではありえません。
無限の力を持った神が私たちを力によって押さえつけることは容易いでしょう。しかし、神様は、その愛によって、私たちを支配します

力による支配とはいう事は、誰かがそれによってアイディンティティを失う恐れがありますし、誰かが自由を失います。
しかし、愛による支配は、そうではありません。

私たちは、神の国を目指します。これは教会、つまり、呼び集められた私たちに与えられた一つの使命です。
それでは、ヨハネによる福音書15章9-17節を朗読してみましょう。ちょうど今日(復活節第6主日)の福音朗読の箇所です。

ありがとうございます。
これは、愛の掟と呼ばれるイエス様が私たちに最も重要な掟として伝えた2つのうちの1つ「隣人を自分のように愛しなさい」について、お話されている箇所ですね。
(もう1つをおぼえていますか?……………「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ですね)

私たちが神様から愛されたように、隣人を愛すこと。

そうすれば、神の国に近づくことが出来ます。
神の愛は、イエス様の受難・死によって示されましたよね。イエス様がそうされたように、「自分を捨て、友のために尽くす」ことこそ、神の愛の表れです。
自分を捨てるとは、「肉に従わず霊に従うこと」であって、つまり、神様のみ旨に従う事で、自分を大事にしない事ではないですよ。常に自分の中心に神様を置き、つまり、神の内ににあって、神様の愛を感じながら生き、神様のみ旨に従うことです。

ルカによる福音12章13~21節を開いてください。
イエス様はたくさんの譬え話をして、神の国についてお話されています。その中の1つですね。

ありがとうございます。
「愚かな金持ち」の譬え話ですね。

最後になんと仰っていますか?「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ
肉に従い、富をつみ、自分を誇っても意味がありません。神様が愛を注ぐのは、最も小さなものです。

運動が出来る!勉強ができる!美人だ!イケメンだ!お金持ちだ!
それを誇っても何の意味もありません。
それは、与えてくださった神様にお返しするものです。「皇帝のものは皇帝に。神のものは神に返しなさい」とイエス様も仰っていますね。
私たちは、キリスト者です。自分自身が罪びとであり、神様からの愛を受けた者である事を知っています。それ以上に何が必要でしょうか?

ちょっと余談ですが、「好き」という事も才能です。
私の知り合いに、ピアノがとても得意な女の子がしました。小学校の頃には、ピアノスクールの先生になる資格をとってしまうくらいで、有名なオーケストラのコンサートマスターの弟子入りもしていました。でも、その女の子は、高校生になる時にピアノを止めてしまいました。
「ピアノは上手く弾ける」でも「一生ずっとやっていく」程、好きではなかったんですね。
逆に、サッカーがすごく好きで、小学校の頃から地域や県、関東エリアの選抜選手に選ばれるくらいサッカーが得意な男の子がいました。
しかし、彼も高校になる時に、サッカーを止めてしまいました。
「好きだからこそ、自分に力がないことが分かった」からです。
好きでなければ、続けることは難しいです。好きだからこそ、誠意をもって、その事に向き合うことが出来ます。自分がその事に対して、ちゃんと向き合えば、自分の力というものも客観的に見ることが出来ます。主体が、その事になるからです。好きだからこそ、苦しみも乗り越えられます。続けることも出来ます。それは、大きな力であり、稀有なものです。
だから、自分が「好きなこと」に巡り合えたことも、神様に感謝してください。神様が与えてくださったものですから。
つまり、それも「神さまにお返しするもの」です。

 

さて……、では、今自分が持っているものを自分のものと勘違いし、自分を誇り、神様の愛の外にいる人はどうなるか…
マタイによる福音書25章1-13節を読んでみましょう。

ありがとうございます。
これも神の国についての譬え話のの1つです。「10人の乙女たちのたとえ話」ですね。

愚かな5人の乙女たちは、どうなりましかた?
主人(神様)に「わたしはお前たちを知らない」と言われてしまいました。
何故でしょうか?
神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる(マルコによる福音書8章38節)」とイエス様は仰っています。
自分の持っているものを誇り、自分の得たものを自分自身としてしまう。神様から与えられたものを、自分自身のものにしてしまう。
神様の愛のうちにおらず、神様や聖霊の関わりの外にいる状態です。神様に背を向けている状態ですね。

そういったものは、全て投げ捨て、神様だけを見る。体を神様に向ける。
常に「目を覚ましていなさい
そうでないと、その時がきた時、神様に「私たちを知らない」と言われてしまいます。
そこには、希望はありません。
キリスト者として生きるということは、常に目を覚まし、神様から目をそらさないことです。
もし、神様から離れてしまうような状態、つまり、自分の持っているものを誇り、自分の得たものを自分自身としていまい、神様の愛のうちにおらず、神様や聖霊の関わりの外にいるとするならば、そんなものは「ゴミ」に等しいです。捨ててしまってください。
イエス様も山上の説教のなかで、「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである(マタイによる福音書5章 28-30節)」 と仰ってますね。

今月は、聖母月ですね。
5月27日には、教会学校の子どもたちが、先頭に立ち、行列を行ってミサを開祭します。
マリア様は、いつも神様から目をそらすことはありませんでした。イエス様の受難の際ですら、自分の息子があんなひどい目にあっている時も神様から目をそらさなかったのです。
マリア様はいつも「一番ちいさなもの」でした。神様の婢として生き抜きました。
マリア様は、自らに与えられたものを、誇る事もありませんでした。自分のものとしたこともありませんでした。全てを捧げ、神様のみ旨に従いました。

私たちもマリア様のように、常に神様から目をそらさず、己を捨て、恐れず、神様をただ信じましょう。

最後にもう1度「神は愛」です。
イエス様の受難・死を通して示された神様の愛を、この復活節の間にもう1度思い起こしてみましょう。

では、マリア様の祈りを唱えて終わりにしましょう。。

 

 

 


 

来月の勉強会は、第1週に子どもの奉仕するミサが行われますので、5月20日、9時15分から行われます。

筆記用具をもって、集合して下さい。

次回は、堅信式を前に、堅信を受けるメンバーのための内容にします。
堅信を受けたメンバーもこれから受けるメンバーも堅信というものについて、考えるいい機会です。

是非集まってください!