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本日、「復活の聖なる徹夜祭」が行われました。

 

「復活の聖なる徹夜祭」は、キリストの過越を記念します。1年の典礼の中で最も盛大で、中心的な祭儀が今日行われる復活の聖なる徹夜祭です。

今日の典礼は、「光の祭儀」「ことばの典礼」「洗礼式」「感謝の典礼」の4つの部分で構成されています。この典礼では、復活ろうそくなどキリストの復活と新しい命を象徴するシンボルが多く用いられます。

 

復活の聖なる徹夜祭では、洗礼式が行われます。

これは、初代教会からの伝統です。洗礼は、受難と死を通して復活したキリストの復活に与り、一人ひとりが古い自分に死んで新しい自分に生まれ変わる「過越」です。したがって、復活の聖なる徹夜祭がそれにもっともふさわしいとされてきました。

松戸教会でも、本日、11人の方が受洗されます。典礼が始まる前には、シスターやカテキスタと予行練習を行い、洗礼式に備えます。

 

 

 

 

 

 

 

午後7時……。
いよいよ復活の聖なる徹夜祭が始まります。

 

復活徹夜祭は、「光の祭儀」によって盛大に、ルルドから始まります。
ミサの始まりに、フィリップ神父様が、「」について説明され、火を祝福されます。

 

そして、復活ろうそくに描かれた十字架に、祈りの言葉とともに5つの印がつけられます。この印はキリストが受けた5箇所の聖なる傷を表します。

そして、アルファ(Α)とオメガ(Ω)が刻み込まれ、祝福されます。アルファ(Α)・はじめと、オメガ(Ω)・終わりというのは、時間と空間を示します。聖書では、アルファ(Α)とオメガ(Ω)は、万物の最初と最後を意味し、永遠の存在である神とイエス・キリストを指します。

 

イスラエルの王である主 イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。(イザヤ書44章6節)

 

時間と空間があるために、ものには限界があります。しかし、時間と空間がなくなるとその限りがなくなって、すべてのものは完成します。

 

 

そして、祝福された新しい復活ろうそくに灯しました。

 

 

復活ろうそくを先頭に行列し、会衆は、聖堂へと移動します。

 

 

 

 

御聖堂入口でフィリップ神父様が、復活ろうそくを高くかかげて、「キリストの光」と歌い、会衆は「神に感謝」と答えます。

 

御聖堂中央付近で2度目の「キリストの光」が歌われると、復活ろうそくが、侍者たちによって会衆のろうそくに灯されます。

 

祭壇の前で3度目の「キリストの光」が歌われます。
そして、復活ろうそくがろうそく台に立てられ、献香されます。

 

 

そして、聖歌奉仕グループから先唱が「神の御使いよ、天に集い、声高らかに喜び歌え」と復活讃歌を高らかに歌い始めます。

 

 

 

 

復活讃歌が終わると、会衆は蝋燭の火を消し、1年の教会の暦の中で最も豊かな「ことばの典礼」が始まります。
復活徹夜祭の朗読は、「神が人間の歴史を通してどのように働きかけてくださったかを深く味わうことが出来る」ようになっています。

 

第1朗読では…

神が6日間で、天と地とそこにある全てのものを造られたことを語ります。人間の創造は、神の創造のわざを締めくくる最後のものです。この朗読箇所で描かれているのは、「人間とはそもそもどのようなものとして造られたか」ということであり、ここに神に「良し」とされた人間本来の姿を見ることが出来ます。

 

復活徹夜祭の朗読では、1つ1つ朗読が読まれ、答唱詩編が歌われた後に、司祭が祈願を唱えます。

 

 

第2朗読では…

「エジプトからの過越の出来事」は「主の過越」のかたどりとして最も重要です。
紀元前13世紀、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を神様は救い出されました。このエジプト脱出の出来事は、イスラエルの民にとって根本的な救いの体験でしたが、キリスト者はこの出来事を、キリストが死から復活のいのちに移ったことと結び付けて考えます。また、紅海を渡ったこの救いの出来事は、キリスト者の洗礼を前もって表すものと考えられています。

 

 

第3朗読では…

神に背いて荒れ果てたイスラエルの地と捕囚の地にあったイスラエルの民に向かって、回復の預言をエゼキエル(捕囚時代の預言者)は語ります。それは、人間の功績によるものではなく、まったく神ご自身による新しい創造の業とも言えるものです。特に、洗礼式を意識して朗読されます。

 

 

旧約聖書の最後の朗読に続く答唱と祈願が終わると、復活ろうそくから祭壇のろうそくにが灯され聖堂を明るくします。旧約の暗闇の中から新約のが訪れたことを意味します。
そして、カンパネラが響き渡る中、栄光の讃歌が歌われます。

 

 

第4朗読では…

使徒パウロが、人が神の恵みにより、信仰によって神との正しい関係に入ると述べたあと、キリスト者が洗礼によって招かれた新しい生き方について語っています。

 

 

福音朗読では…

イエス様がご復活された朝の箇所が朗読されます。
イエスに従ってきた女性たちが、墓に向かうと、入り口の大きな石がすでに脇へわきへ転がしてありました。墓の中にはいると、白い長い衣を着た若者が婦人たちに「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」と告げます。

 

 

 

第1朗読 創世記 1章1節・26節~31a節
第2朗読 出エジプト記 14章15節~第15章1a節
第3朗読 エゼキエルの預言 36章16~17a・18~28節
第4朗読 使徒パウロのローマの信徒への手紙 6章3~11節
福音朗読 マルコによる福音書 16章1~7節

 

 

そして、フィリップ神父様のお説教が行われました。

説教要旨

復活祭は、教会の暦の中でも最も大事な祝日です。
この喜びの御ミサに共に与ってたくさんの恵みを頂いています。

第1朗読の創世記では、神様が何もないところから全てを創造されたこと、つまり、生きるものすべての特赦が描かれています。
命をいつくしむところから天と地を想像されました。生きるものすべて、男と女を自分にかたどって創造されました。すべてのものが、神様のご計画を果たすために存在すると思い起こさせます。創世記をさらに読み進めていくと、神さまから受けた尊厳と栄光を人間は、罪により、どのように失ったかが分かるでしょう。

罪は、霊的な奴隷状態と考えることが出来ます。
罪に生きることは、エジプトに行ったユダヤ人たちの奴隷状態と同じです。
第2朗読の出エジプト記では、神様が、エジプトでの奴隷状態からどのようにして、紅海をわたって、ユダヤ人を救ったかが、わかります。
教会は、これをキリストが、人類のためになさった事として見ています。そして、罪の奴隷から新しい国へ、罪のない神の子として導きます。
だから、教会は、ユダヤ人をエジプトから解放したことを洗礼のしるしと考えます。ちょうどユダヤ人が紅海を渡り、約束の地に向かう途中であるのと同じように、キリスト者は、洗礼の水をとって、復活の命へと向かっていくのです。

第3朗読では、神の国で生きる姿が描かれています。
天の国の民のお祝いとは、神様が私たち1人ひとりと、とこしえの契約を結び、喜び、祝います。天の国の民の私たちの願いはすべて満たされるでしょう。
天の国の民になるのにお金はかかりません。ただ1つ必要なのは、神様にすべてを委ねることです。自分の考えや言葉ではなく、神様に従順である事です。神様は、その代わりに、聖霊を送ってくださり、心の大きな石を取り除き、従順な心にしてくださいます。

第4朗読では、聖パウロが、キリスト・イエスに永遠の結ばれる為の筋道を私たちに教えてくれます。
ちょうどイエス様が死んで、死者のなかから復活されたように、多くの罪を抱く私たちも、死んで、イエス様と一緒に復活し、新たな命に与ります。

洗礼とは、キリストの死に与り、自分の罪と自分勝手な心に死んで、新しい命に生まれ変わるための儀式です。
洗礼を通して、神の子として、再び生まれ、神の国の食卓に座る権利を与えられるのです。

最後に福音書では、神の救いの業の完成をイエス様の復活に記念する神秘です。
復活が私たちの信仰の土台「罪のゆるし」です。キリスト者としての信仰のしるしです。キリスト者としての力とエネルギーを湧き起させる出来事です。
その記述は、マグダラのマリアと2人の婦人の話で始まります。
初代教父となる最初の弟子聖ペトロやエルサレムの初代司教のヤコブでも、最も愛された弟子であり、聖母マリアを世話を託された聖ヨハネの話ではないのは少し驚きます。
むしろ、『マタイによる福音書』にあるように、名高い罪深き女であるマグダラのマリアからこの話は始まっているのです。イエス様に7つの悪霊を追い出してもらったその娼婦です。
福音書によれば、イエスへの真実の愛の深さは、その人の知恵で決まるのではなく、どれだけ自分の罪を知り、どれだけ主なる神に赦して頂いたかによるのです。

イエス様を心から愛した婦人たちは、その時代の慣習に従い、遺体を香油で清めるためにイエス様の墓に向かいました。イエス様をとても愛したガリラヤの3人の婦人たちは、その時、白い長い衣を着た若者から、良い知らせを聞き、驚きました。神様のメッセージは、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」と、いうものでした。

先程、私たちは、「この夜、死の枷を打ち砕き、勝利の王として死の国から立ち上がられた」と、そして、「この聖なる夜、悪は打ちはらわれ、罪は清められ、恵みが注がれて、喜びが満ちあふれる」と、高らかに歌いました。
この聖なる夜に、私たちは、再び信仰の土台「隅の親石」を思い起こします。

イエス様は、私たちのために死んで、死者のなかから復活されました。
そして、死から甦り、永遠の命を分かち合うことを、信仰ある全ての人々にくださいました。

私たちが、この信仰を持っている事が、洗礼をもっているしるしなのです。そして、この夜、11人の兄弟姉妹がキリスト者になるために洗礼を受けます。神の国に向かう信仰の旅路のなかで、ともに助け合いながら成長していきましょう。
そして、この夜、イエス・キリストの弟子たちのしるしを受けた私たちも洗礼のしるしを新たにしましょう。
もう1度、自分の十字架を背負い、キリストに従う事を約束して、十字架の道を歩み、これから復活しましょう。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

 

 

 

 

 

そして、いよいよ洗礼の儀が行われます。

この1年間、シスターやカテキスタの方々から様々なことを学び、洗礼を受ける決心をされ、今日を迎えます。
フィリップ神父様に促され、11人の洗礼志願者が代父母の方々と一緒に祭壇の前に並びます。

 

 

そして、諸聖人の取次ぎを願い、連願が会衆によって歌われます。
まず、聖歌奉仕グループのメンバーが先唱し、会衆が続きます。

主よ哀れみたまえ、主よ哀れみたまえ。
神の母聖マリア、我らのために祈りたまえ。
聖ミカエル、我らのために祈りたまえ。
聖なる神の使い、我らのために祈りたまえ。
洗礼者聖ヨハネ、我らのために祈りたまえ・・・

 

荘厳に諸聖人への連願が続きます。

 

 

連願が終わると、次にフィリップ神父様が、聖霊の働きを祈りながら、復活ろうそくを3度浸し、「水の祝福」します。
この祝福され聖化されたは、これから次の復活祭まで聖水として、様々な場面で使われます。

 

 

そして、洗礼志願者たちにフィリップ神父様が、「悪霊の拒否」を問い、悪を捨てる覚悟を表します。次に、洗礼志願者たちは、同じくフィリップ神父様の3つの問いに答え、「三位一体の神への信仰」を宣言します。

 

 

信仰宣言の後、いよいよ、1人ひとり、祝福された聖水を3度注がれ、父と子と聖霊の御名により洗礼が授けられます。

 

 

 

そして、聖香油が受洗者の額に塗られ、聖霊を受けます。

 

 

続いて、キリストに結ばれた新しい人になったことを表す「しるし」として、代父母は受洗者に白衣を着せ、フィリップ神父様が「あなたがたは、新しい人となり、キリストを着るものとなりました」と宣言します。

 

 

代父母は、フィリップ神父様から、復活ろうそくからを点けた蝋燭を渡されます。

 

そして、フィリップ神父様は「光の子として歩みなさい(エフェソの信徒への手紙5章8節)」と、仰れ、代父母から、受洗者へ蝋燭が手渡されます。
は、キリストを表し、キリストに照らされたキリスト者の生き方をも表します。

 

 

蝋燭が受け渡されると、受洗者に「洗礼名」が与えれます。
聖人から頂いた洗礼名は、受洗者の方々の新たな誕生と使命を表すものです。
一人ひとり、洗礼名の書いたカードをフィリップ神父様から頂きます。

 

 

洗礼式の最後に、洗礼の約束の更新が行われます。
受洗者から復活ろうそくが会衆のろうそくにも灯されます。

 

 

そして、信徒全員で、自分が洗礼を受けた日のことを思い起こしつつ、信仰宣言を唱えます。

 

使徒信条を唱えられた後、祝福された水を会衆に、フィリップ神父様が散水します。これにより、洗礼の約束が、更新されます。

 

 

 

 

そして、共同祈願が唱えられます。
松戸教会の信者が心を合わせ、共同体として、1つのキリストの体として、心を一つに祈願します。

共同祈願では、信徒から受洗者の方への祈願が唱えられました。

 

そして、受洗者の代表が、洗礼を受けた喜びと今日のこの日の誓いを祈願します。

 

 

 

 

共同祈願が唱えられると、感謝の典礼が始まります。

奉納は、受洗者の方々によって行われました。

 

 

奉納の清めの際には、祭壇、そして、復活ろうそくに献香が行われます。

 

 

 

 

そして、聖変化……
パンとぶどう酒は聖別され、パンがキリストの御体、そして、葡萄酒がキリストの血へとなります。
キリスト者は、それを受け、キリストと同じものになっていくのです。

 

 

 

 

平和の挨拶の際には、フィリップ神父様が内陣から降りてこられて、受洗者の方々とひとりひとり、平和の挨拶を交わされました。

 

 

 

拝領前に、信仰を今一度告白します。
主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう
私たちキリスト者は、ご復活したキリストにもう1度、自分の十字架を背負い、従う事を誓います。

 

 

 

 

そして、聖体拝領は、今日、受洗された7人の方々が最初に受けます。(4名は小学生以下のため、初聖体は別の機会となりました)
受洗された7人の方々は、両形態の聖体拝領となりました。初めてのご聖体は、どのようなものだったでしょうか…

 

 

 

 

聖体拝領後、入門講座を指導して下さった愛徳カルメル会のシスターから受洗者の方々の紹介があり、1人ひとり、会衆に向かい、自己紹介と挨拶がされ、新たな兄弟姉妹に会衆から歓迎の拍手が贈られました。

 

そして、教会から記念品が贈られました。

 

 

 

 

そして、受洗者された方々の笑顔と新たな兄弟姉妹を迎えた信徒一同の喜びのうちに復活の聖なる徹夜祭のミサを終えました。

 

 

 

 

ミサ後、受洗者の方々、フィリップ神父様と記念撮影。

 

そして、代父母の方々も一緒に!

 

受洗者の皆様、ご受洗おめでとうございます。
そして、主の御復活おめでとうございます!




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聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」、聖金曜日「主の受難の祭儀」、そして、復活の聖なる徹夜祭が行われるこの過越の聖なる三日間のために、当日の午後5時半から、侍者を担当する方々に集まって頂き、フィリップ神父様のご指導のもと、典礼の式次第の確認をし、本番に備えました。

 

主の晩餐の夕べのミサでは、洗足式、ご聖体を仮祭壇へ移動することについて、確認が行われました。
その際の侍者の動き等に関し、司祭より指示がありました。

 

主の受難の祭儀では、十字架礼拝、仮祭壇からのご聖体の移動について、司祭から指示がありました。
1年で唯一ミサの行われない聖金曜日の祭儀は、普段のミサとは全く違うものとなります。始めて聖週間の侍者を行う青年や高校生とも役割などを詳細に確認しました。

 

復活の聖なる徹夜祭は、光の祭儀、洗礼式などについて細かに司祭から指示を頂きました。
先唱者も参加し、典礼の頂点である復活の聖なる徹夜祭のために詳細な箇所まで確認し、滞りなく行えるようにしました。

 

このようにヨゼフ会は、2018年の過越の聖なる三日間のミサ・祭儀が、聖週間のための侍者会を行い、滞りなく行われるように、奉仕しています。




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復活祭前日の3/31(土)、復活祭の卵作りを行いました。毎年、年当番の地区が作ります。今年は、柏・我孫子・茨城地区、馬橋・小金原地区、北小金地区の合同チームが担当しました。

これがなかなか難しいんです。

今年の卵は700個!
(more…)




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本日、午後7時から「主の受難」の祭儀が行われました。
「主の受難」の祭儀では、パンとぶどう酒は聖別されません。古来の伝統に従い、この日はミサがささげられない日と定められているからです。祭儀は「言葉の典礼」「十字架の崇敬」「交わりの儀」の3つの部分で構成されています。

聖金曜日に行われるこの祭儀のなかで、救いの歴史におけるキリストの受難と死の意義を思い起こし、復活への希望のうちに十字架の勝利を賛美します。

 

 

祭壇は、昨晩の「主の晩餐の夕べのミサ」の時に裸にしたまま、十字架も蝋燭も置かず、祭壇にも布をかけません。
キリストが死んだことの「かたどり」です。

 

祭儀は、入際の歌は歌わず沈黙のうちに始まります。
フィリップ神父様は、祭壇につくと、しばらく跪かれ、沈黙のうちに祈られます。

 

 

 

祈りの後、祈願が唱えられ、祭儀が始まります。

 

 

第1朗読と第2朗読の箇所は、「主のご受難・死」についての箇所が朗読されます。

 

第1朗読は、「第2イザヤ」と呼ばれる新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられていた捕囚期(紀元前6世紀)の預言のなかで主の僕について歌われる第4の箇所が朗読されます。
苦しみを通して多くの人の救いをもたらす僕の姿は、イエス様の姿を思い起こさせます。

 

 

第2朗読では、キリストがただ1度ご自身を捧げたことによって、救いが成就したと語るヘブライ書が、主・イエスのご受難について語る箇所が朗読されます。

真の「祭司」であるイエス様は、神との完全なつながり、人々との完全なつながりによって、神と人とを結び合わせることが出来ます。私たちが、信仰を保ち、恵み深い神様に近づくことを求められています。

 

 

そして、受難朗読

最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに遺言のような説教をし、弟子たちと後に続く人々のために祈られた直後の場面から朗読されます。
(ご受難・死の箇所を、受難の主日の朗読とは違い、すべてを朗読します)

ゲツセマネの園での出来事、イエス様が予告していた聖ペトロの3度の否認、ポンティオ・ピラトとの問答、ゴルゴタの丘での出来事…そして、死、そして、その後のことを、神父様(イエス様)と朗読者2人(第1朗読者;語り手、第2朗読者:その他の登場人物)と会衆全員(群衆)で行います。

 

受難朗読のなかで、会衆全員で「殺せ!十字架につけろ」と言います。
そして、私たちが、罪のないイエス・キリストを十字架へと導いたことを思い起こします。

 

イエス様が亡くなられた箇所では、頭を下げ、沈黙のうちに祈ります。

 

 

 

第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節
受難の朗読 ヨハネによる主イエス・キリストの受難 18章1節~19章42節

 

 

 

そして、フィリップ神父様のお説教が行われました。

説教要旨

今日は、イエス様のご受難を思い出すため、その神秘を祝うために集まりました。
暴力に反対した愛、暴力を忍耐した愛、十字架に達した愛を聖なるものにするために集まりました。
その愛に感謝するため、そして、勇敢な愛のうえで暴力の被害者になる人と団結するために集まりました。
イエス様の十字架は解体されていませんし、その苦しみは終わっていません。十字架は、私たちの人生の中心に立ち、福音の価値によって生きる人々は、世界でどんな扱いをされるのか、ということを私たちに思い出させます。
イエス様は、ご自身から十字架を選んだわけではなく、イスラエルの祭司・長老・ファリサイ派の人々、普通の民、そして、世界が彼に反抗するため、十字架という手段を選びました。
十字架は、父である神様の発想ではなく、イエス様と争っていた世界が考えた最終的な解決でした。
父である神様は、自分のひとり子の破壊を目論んだサディストではありません。
父である神様は、危ない事にも関わらず、脆弱なひとり子を人間の手にゆだねました。全ての親がその危険を分かつ必要があります。愛は、十字架を必要としていませんが、イエス様の人生においては、愛は十字架に及びました。愛は、それによって現れる苦しみから逃げません。
イエス様は、公にエルサレムに入り、彼に対抗する圧迫的な権力に立ち向かいました。この行動によって、イエス様が苦しみを公に成し、目立つものとしました。
イエス様は、人々の現実的な苦しみを無視することを選びませんでした。人々の苦しみや争いに触れ、神様の愛を見せ、ご自身が人々と同じ痛みやすい体に表れた「神様の愛」であることを示したかったのです。
イエス様は、神様の深い愛、そのものでした。イエス様は、神様の危険な行動でした。
2004年に上映された「パッション」は、イエス様がその時代の支配者から受けた暴力と憎しみを描いています。
しかし、なぜ私たちはイエス様のご受難を心にとどめておくべきなのでしょうか?なぜこのような苦しみの記憶を活かすべきですか?
それは、キリスト者として、イエス様のご受難を記憶することに関わるためです。
最後の晩餐で、イエス様は「これは、あなた方のためのわたしのからである。私の記念としてこのように行いなさい」と仰いました。
ある共同体が苦しみを覚えようとすると、その記憶は「訴え」となります。「苦しみの記憶」が過去の繰り返しではなく、解決の未来を要求します。イエス様のご受難を記憶することは、このようなことが再び起こらないようにするための訴えです。そうすれば「無罪の人が冤罪」で苦しむことはないはずです。
そして、この記憶は、私たちの間にある十字架を意識させます。十字架は、イエス様のご受難は、人々の苦しみに注目するように私たちに伝えます。
十字架は、その注目を求めています。
今晩は、イエス様の苦しみ、誇り、人々の憎しみ、暴力、そして、権力者たちの被害者の苦しみと悲しみに注目しましょう。
この聖金曜日に、神様は、御子イエス・キリストの十字架によって私達1人ひとりに限りない愛を示したことに感謝しながら、私たちも死に至るまでイエス・キリストに従う事が出来るように祈りましょう。
父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

 

 

 

説教の後、盛式共同祈願が行われます。
1年の典礼のなかで、もっとも豊かな共同祈願が唱えられました。
イエス様がすべての人のために命を捧げてくださったことを思いながら、すべての人のために「教会」「教皇様」「教会に仕える全ての人」「洗礼志願者」「キリスト者の一致」「キリストを信じない人々」「神を信じない人々」「国を治める人々」「困難に直面する人々」のためにそれぞれ祈ります。

普段の共同祈願とは違い、一つ一つの意向に従って信徒の代表が先唱し、しばらく、沈黙のうちに祈ります。そして、神父様が祈願を唱え、会衆は「アーメン」と続きます。

 

 

 

 

「盛式共同祈願」が終わると、フィリップ神父様は、いったん退堂されます。

 

 

そして、「十字架の礼拝」が始まります。
フィリップ神父様が、再度、紫の布に覆われた十字架を捧げて入堂してきます。
途中、三度、「見よ、キリストの十字架、世の救い」とフィリップ神父様が歌われ、会衆は、「ともにあがめたたえよう」と答え、十字架のおおわれた布を徐々にはずしていきます。

 

 

 

 

 

 

 

顕示が終わると、十字架が祭壇の前を置かれ、司祭・奉仕者・会衆の順に行列して十字架の前に進み、深い礼をして崇敬を表します。

 

その間、聖歌奉仕グループの方々を中心に「十字架賛歌 クルーチェム・トゥアム」「とがめの交唱(インプロペリウム)」「ハギオス・ホ・テオス」「十字架讃歌 クルクス・フィデーリス」を歌います。

 

 

 

 

十字架の礼拝を終えると、「交わりの儀」が始まります。
祭壇が用意され、フィリップ神父様が再度退堂します。

 

そして、ご聖体が入堂し、祭壇に置かれます。

 

 

 

 

ミサとは違い、司祭が主の祈りに招くと、主の祈りの副文と応唱を唱えた後、すぐに拝領前の信仰告白を唱え、拝領が始まります。

 

 

拝領祈願が唱えられた後、フィリップ神父様は、派遣の祝福と閉祭の挨拶の代わりに、会衆のために祈願を唱えられました。

 

 

そして、閉祭の歌もなく、沈黙のうちに退堂します。
ご聖体は、今一度、聖体安置室に移され、祭壇も裸の状態にされます。

 

 

 

 

そして……信者は、ご復活をお待ちし、静かに祈りの夜を過ごします。

 

 

いよいよ明日は「復活の聖なる徹夜祭」です。
キリスト教の最大の祭りは、クリスマスではなく、復活祭です。
そして、明日の「復活の聖なる徹夜祭(Easter Vigil)」は、一年の典礼のうち、最も盛大で、中心的な祭儀です。教会は十字架上で死に、葬られたキリストが復活するのを祝うのです。




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イエス・キリストが亡くなられた午後3時から松戸教会では、十字架の道行を行いました。
多くの方々が集まり、主のご受難・死を黙想し、ご受難の先にある十字架の勝利に思いをはせました。

 

「十字架の道行」の祈りは、

イエスの受難の各場面を黙想し、回心しキリストの愛にならうための祈りです。各留にとどまり、しばらく黙想し、順次回っていきます。聖堂内にイエス・キリストの裁判から十字架の死に至るご受難の歩みを描いたレリーフが並べて掛けてあります。14場面あり、これは ” 留(りゅう)”と呼ばれています。

 

 

フィリップ神父様のお導きで「初めの祈り」が行われました。

 

フィリップ神父様が祈りへと導かれ、信徒が1留ずつ先唱を行いました。
そして、あらゆる困難、試練があろうともただただ父である神様の御心に適う行いをするイエス様に倣う者になろうと、祈りに心を合わせます。

 

イエス様が亡くなられる第12留…

 

 

最後に15留目となる十字架に向かい十字架讃歌を唱え、主の復活を黙想し、主の祈りを唱えました。

 

 

 

松戸教会公式twitterアカウントでは、1留から14留までレリーフを順にのせました。
同時刻にご覧になり、祈られていた方もいたのではないでしょうか…

 

 

 

4世紀末のエルサレムでは、木曜日の夜から続く徹夜の祈りの後、人々は夜が明けると町に戻り、ゴルゴダの丘に建てられた教会堂でキリストの受難の出来事のなかから、ピラトの尋問の箇所の朗読を聞きました。また、昼頃まで、そこには十字架の遺物が展示され、人々はそれに礼拝しました。そして、正午から午後3時までは、旧約聖書と新約聖書からキリストの受難と死を思い起こすのにふさわしい箇所が朗読され、午後3時からは、ヨハネ福音書からキリストの死の箇所が朗読されました。

松戸教会では、こうして、十字架の道行を通して、主の受難・死を思い起こし、午後7時から始まる主の受難の祭儀に与る準備をします。