本日、10時から、そして、13時半からの2回、共同回心式が行われ、多くの信徒が参加しました。

 

まず、柳田 敏洋神父様(イエズス会霊性センター「せせらぎ」所長)から、講話を頂きました。
柳田神父様は、始めに主の祈りへと導かられ、祈りと共に共同回心式が始まりました。

 

<講話要旨(午後の部)>

始めに中世のドイツの宗教詩人アンゲルス・シレジウス の詩を紹介します。
キリストが1000回ベツレヘムで産まれたとしてもあなたのなかでなければ永遠に無意味である
毎年、わたしたちがクリスマスを祝う神様が来られた事を祝っていても、私のなかに来られたという事を、私たちが気づくことがなければ、無意味である。という意味です。
そして、私達自身が神様に近づくことを阻んでいるとするなら、神様が私たちの心にすでに来てくださっているにもかかわらず、出会うことは出来ません。
内なる神様を一番阻んでいるのが、「私達自身が自分を裁いてしまう」ことです。
ここに実は大きな問題があります。
真面目な信者であればあるほど、自らを裁いてしまいます。

ルカ福音書には以下のように書かれています。

 

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
ルカによる福音書6章36-38節

 

この「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。(38節)」
私たちもついつい口に出さなくても、心のなかで人を裁いていることがあります。しかし、その裁いている尺度で実は自分も裁いていることがあります。私自身も毎日のミサで説教をしたり、神様の御言葉を伝えながら、同時にその尺度で自分自身を見てしまい、裁いてしまいます。その裁いてしまう心が、私たちの心のうちに来てくださっている神を遠ざけてしまいます。神様に近づけないようにしているのは、私自身なのです。

そして、その続きです。

イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

ルカによる福音書6章39-42節

 

私たちはついつい他人を裁いたりする。しかし、裁いている私たちのなかに「丸太」があることにどうしてきづかないのでしょうか?
私たちは、他人の抱えている問題に気づくにもかかわらず、自分の抱えている問題には中々気づかない。また、薄々気づいていたとしても中々目を向けようとしない。イエス様が仰られているのは、まず他人の事よりも自分を見つめなさい。そして、自分のなかにある「丸太」を取り除きなさい。と、いう事です。そのようにすれば、相手のなかにある小さな「おが屑」にも気づき、それをとるお手伝いが出来ます。私たちが神様のみ旨にそって生きるならば、まず自分の心を清くする。そうしてこそ、本当の意味で信者としてみ旨にそった生きて方をすることが出来ます。

自分の目から丸太を取り除く、心を清くするということがどのような事かと言えば、36章の「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな」ということです。この箇所を少し説明しますと、新約聖書は、そもそもギリシャ語で書かれています。そちらで読むと「人を裁くな」とは書いてありません。「人を」という文字はなく「裁くな」としか書いてありません。また、「人を罪人だと決めるな」という箇所も同様に「罪人と決めるな」としか書かれていません。これが、私にはとても大事な事に思えます。それは「『人をも』『自分をも』裁くな」ということだからです。人を裁く自分がいると同時に自分も裁く自分に陥ってしまいます。そうではなく、イエス様が言っているのは、「『人をも』『自分をも』裁くな」ということでした。裁くことが出来るのは、神のみだからです。そして、その神様は、罪人を裁く事よりも、お赦しになる方なのです。この事をイエス様は真理としてお伝えになりました。

そのような神様の深い愛を示す有名な言葉があります。

 

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。
命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。

知恵の書11章23-26節

 

全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる(23節)」

これが私たちの神です。
本当の回心とは、天国があるから、ご褒美として頂きたいから行うとか、あるいは、罰への恐れから行うとかではありません。
これほど、私たちの事を慈しみ、深く愛されている神だという事を、イエス様は、私たちに伝えてくださりました。だから、愛そのものが神なのです。

その愛そのものである神に、私たちがもっともっと心の深いところで触れていく時に、本当の回心があると思います。
私たちの回心というのは、常に限りなく愛し続けてくださる、その神様に気づいていくなかにあるということです。

命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる

これが私たちの神様です。

 

 

 

そこから、ルカ6章37節の「裁くな」という事をもう1度考えてみましょう。
私たちはついつい自分を裁いてしまいます。しかし、本当の回心に向けて、裁かずに「気づく」ことがとても大切になるわけです。

 

それでは、私たちが相応しい心で、今年も心のうちにイエス様の御降誕をお迎えするために「気づく」という事について考えてみましょう。

私たちが、完璧に悪い感情や悪い考えを捨て去って、生きるという事はありえません。
もし私たちが完璧に悪い感情や悪い考えを捨て去って生きるとしたら、恐ろしいことになります。なぜなら、自分を裁き続けるという人生から逃れられなくなるからです。
私たちが善い人でなければ、神は愛してくれない、恵みを与えてくれないということではなく、神様は、私たちのありのままを限りなく愛し続けて下さります。そこに私たちの本当の幸せの場所があるということです。
そこに近づくために、あるがままの自分に気付いていく…それがとても大切です。
例えば、今日、ここに来る時、電車が遅延してしまい、始めの方は、5分程度ということだったのですが、そのうち、20分近く遅延することになってしまいました。約束の時間も迫っているので、イライラしてしまい、ついなんで遅れてしまうんだ!と、責める気持ちが生まれてきてしまいました。しかし、神父がこんなことでイライラしてはいけないと、今度は自分を責める気持ちになってしまう…というようなことがありました。

こういうことは日常茶飯事ですよね。
真面目な信徒ほど、こういうところに陥ってしまいがちです。

では、どうすれば良いのか。
それは、「神様と同じ視線で自分を見る」ようにすれば良いのです。裁かずに、自分の心に気付く。それだけでいいのです。それ以上踏み込んでしまうと自分を裁いてしまいます。裁きもせず、責めたりもせず、自己正当化しようともしないことです。
「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)神の愛の心と同じ心をもって自分自身を見つめるということです。
つまり、イエス様の言葉を別の言葉でいいかえるならば、存在の無条件の肯定です。どんな醜い考えやひどい感情が自分の心に現れても、自分の心に現れた事実、そして、その存在を認め、受け止めていくことです。
私たちの心の奥には、愛の神様がいつも住まわってくださります。その愛の神様から、無条件の愛の恵みが私たちのなかに注がれ続けています。存在の無条件の肯定は、神様の愛の恵みに気付く事でもあるのです。そして、恵みを頂いているからこそ、私たちはあるがままの自分を愛することが出来るのです。

 

 

ポジティブな気持ち(自分の能力を相対的に見て、それを誇る)やネガティブな気持ち(怒りや妬み)などは本当に厄介です。それがいつの間にか自分と同一となり、ある日爆発して、とんでもない結果となって表れてしまう事もあります。ここで大事なことは、そういった感情を抱いた自分を裁かない、否定しないことです。そういった感情に気付くことで、最も相応しいかたちで最も厄介なエゴの心から、静かに離れることが全く簡単に出来ます。

私たちは、厄介なものを外においてしまいます。しかし、厄介なものが外にある限り、私たちは苦しみ続けます。それを環境のせいにしてしまいます。もちろん、そういうこともあるのでしょうが、神のいつくしみに気付けば、それを厄介な事と決めつけている自分の心が、自分を苦しめていることに気付きます。。それに気付けば、静かに離脱することが出来ます。そうすれば、自分自身の気付きの力で自分自身をもっと平和に保つことが出来るようになるという事がわかってきます。ここにこそ、神様が私たちの中に住まわって、無条件愛による赦しの恵みを与えてくださることなのです。

こう言った事を日常に行っていけば、イエスキリストの福音を伝える愛の人になることが無理なく出来るようになっていきます。

この後もゆるしの秘跡がありますが、自分の心のありのままを神様の前に置いてください。その後、私たちの心を整えるのは神様のお仕事です。自分で自分の心を整えることは出来ません。整えた瞬間、整えられる自分を誇るエゴという厄介な感情が生まれてしまいます。真に整える恵みを与えられるのは、神様のみです。私たちに出来るのは、偽りなく、自分のあるがままをかみさまの前に置く事だけです。それだけで本当に充分です。
それを伝えるために幼きイエス様は、私たちの中にご降誕されたのですから。
この恵みに私たちが預かっていくことができますように、最後に主の祈りをご一緒に唱えましょう。

 

 

 

 

講話の後、柳田神父様、立花神父様(豊四季教会)、松田神父様(亀有教会)、フィリップ神父様が赦しの秘跡を授けてくださいました。
(赦しの秘跡については下記参照)

ゆるしの秘跡とは…

ゆるしの秘跡は、司祭のもとで、自分の犯した罪を告白し、罪のゆるしを願うことにより、神からの罪のゆるしが与えられるというしるしです。
この秘跡は、回心、悔い改め、和解、いやしの秘跡とも呼ばれています。
ゆるしの秘跡に必要な行為は、
- 痛悔(犯した罪を悔やむこと)
- 司祭への罪の告白
- 償いをはたす決意、およびその実行
です。

ゆるしの秘跡には、個別のゆるしの式と共同回心式があります。
前者は、ゆるしの秘跡を求める個人と神との出会いを重視します。それにくらべて、共同回心式は、ゆるしの秘跡の教会的な面をあらわしています。この式は、共同体の祈りの中で行われます。

共同回心式は、個人の罪だけでなく、教会共同体の連帯性について考え、共同体の上に神のゆるしを求めるので す。また、ゆるしを神に求めるだけでなく、兄弟姉妹にもゆるしを求めることを意識させてくれるもので、通常、主の降誕祭や主の復活という大きな祭日に向け ての準備として、待降節や四旬節の間に行われます。

引用元:女子パウロ会 Laudate | キリスト教マメ知識 「ゆるしの秘跡」

 

赦しの秘蹟は個別にも受けられますので、待降節の間に授かられてはどうでしょうか…