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主の平和

みみずの会です。
この会は月2回、第1第3火曜日の午後1時くらいから教会のお庭の手入れをしているグループです。

 

サムイ!寒いですね!

松戸でも…霙?的な雪が降りました。
子どもたちにとっては、残念ながら……大人にとっては、幸いにも…積もらないようですね。

 

霙に濡れる聖母子像をパシャリ…。マリア様もサムイですよね…

 

西日本の方々も大雪となり、大変だと聞きました。
折しも、先日(2月7日)のユスト高山右近の列福式で松戸教会からもフィリップ神父様やたくさんの信徒の方々が大阪に行かれていました。なかには、そのまま関西、中国地方の巡礼に出られた方もいらしゃっるようで…。心配です。

ところで、高山右近の列福式は、youtubeで生中継されていましたよね。こういう時って、知っている人探したくなりますよね。

船津神学生は、祭壇奉仕をされていたので、すぐ見つけることが出来ました。
フィリップ神父様は…ちょっと難易度が高いですが、2階の司祭席、中央の一番後段(3人しか座っていない段)の向かって右側に座っているのを発見!
松永神父様(多分2階席)や下原助祭(奉仕されていたはずですが…一番難しいかも)もいたはずなんですが……見つけることが出来ませんでした。
その他、色々な神父様もご参加されているのを発見しました。

松戸教会の方々は…アリーナ席にいたそうですが…もちろん、見つけることが出来ませんでした。(残念…)

みなさんも気づかれたら、是非みみずの会メンバーまで教えてください…(主旨が変わってる…)




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松戸教会では、毎月第1週の主日のミサのなかで、その月に誕生日を迎えられる方々の祝福を行っています。

 

今月は、本日・年間第5主日のミサのなかで、フィリップ神父様にお祈りを唱えて頂き、灌水して、祝福して頂きました。

午前8時からのミサ

 

午前10時半からのミサ

 

ミサに与った方々からも祝福の拍手が送られました。

2月生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます!

 




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中高生

 

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは1人だけ……堅信に与ったメンバーにはお話しましたが、秘跡と知識(カテキズム)は、信仰の両輪です。
秘跡に与ってもその意味を知ることがなければ、その価値を知ることが出来ないからです。
今月・来月と四旬節に向け、「イエス様の受難・死・復活」というもっとも大事な箇所になります。
既に堅信を受けたメンバーも、堅信にもう一歩足を踏み出せないメンバーも参加して、自分の信仰についてもう1度考える機会になればと思います。

 

 


 

 

今月のテーマ

● 受難への道 ●

 

今月・来月と、「イエス様の受難・死・復活」について、一緒に考えていきましょう。
既に受堅メンバーには伝えていますが、イエス様の受難・死・復活は、信仰の根幹です。

そもそもイエス様がご降誕されたのは、なぜでしょうか?
前にも何度か話をしました。覚えていますか?

 

それは、神の国の実現のためでしたよね。
神様が、私たちへの愛ゆえにご自分のひとり子イエス・キリストをお送りくださったのです。
ヨハネ福音書の3章16節を開いてみましょう。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書3章16-17節

 

私たち人間をお造りになった神様は、私たちの幸福を望まれています。
しかし、事あるごとに私たち人間は、神様の思いとは別の方向に道を歩んでしまいます。
少し整理してみましょう。

 

  1. アダムにエデンを与えた。
    しかし、アダムは女(エヴァ)から薦められ、禁じられた実を食べてしまい、エデンを追放される。
  2. 「過越」により、エジプトから解放する。そして、モーセと契約を結び、「私たち被造物である人間がいかに生きるべきか」というみ旨を表す。
    そして、様々な預言者・王(油注がれた者)を通し、人々を神の国へと導いた。
    しかし、人々はどうしても神から離れていってしまう。
  3. ひとり子イエス・キリストを私たちのためにご降誕させ、イエス様の「受難・死・復活」により新たな契約を結ぶ。
  4. イエス様は、昇天され、神の右の座につき、代わりに聖霊を送ってくださる。
  5. 現在
  6. イエス様の再臨(神の国の完成)

 

前も話したと思いますが、この「過越」は、ユダヤ人にとって最も大事なものです。
彼にとって、それは「神によって、自分たちが解放され真の自由をえて、そして、神と契約を結んだ」ことだからです。それは、私たちにとっても同じくらい大事なモノです。
なぜなら、イエス・キリストによって、それはユダヤ人だけのものではなく、全人類のものであることが示されたからです。

イエス様は、こう言っています。

 

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

マタイによる福音書5章17節

 

律法は、過越の後、モーセを通して、神様からイスラエルの民に示されました。その道徳的おきては、十戒に要約されています。
律法学者達は、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を、研究し(例えば、十戒は出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節)、更に細かい法を定めていました。それにより、少しずつ「本来の神様のみ旨」と離れてしまったものになっていってしまいました。イエス様は、それをもう1度神様のみ旨に沿ったものにし、それを完成されるために来られたのです。

 

簡単に、十戒について説明します。もう1度言いますが、十戒は、「神によって救われた民が神に対して、また人に対してどのように生きるべきか」という神の御旨です。

 

まず、一番大事なこと、この十戒の前提です。

わたしはあなたの主なる神である。

この前提が受け入れられなければ、十戒も何もありません。
これに関しては、みんな説明も何もいりませんよね?

  • 神に対して守るべき戒め

  1. わたしのほかに神があってはならない。

    神は完全なものです。2人いれば、お互いに制限を与えることになりますから、完全ではなくなってしまいます。
    神が私たちを愛して下さるように、私たちも神を愛さなければなりません。世俗的なモノ(お金や権力)ではなく、ただ神に仕えなければなりません。

  1. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

    信仰は、神への深い信頼があって初めて成り立ちます。神は私たちを愛し、私たちのために様々なことをしてくださいます。そして、神に対し常に畏敬の念を抱かねばなりません。神の名を語り、みだりにその名を唱えることは包ましなければなりません。

  1. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

    神の創造の業に崇敬の念を抱かなければならなりません。そして、この日は、主(イエス・キリスト)のご復活を祝う日でもあります。だから、この日は聖であり、喜びに満ちた日です。神が7日目に休息されたように私たちも心も体も癒し、ご復活を祝い、気持ちを新たに、新しい1週間を過ごさなければなりません。

 

  • 人との関係で守るべき戒め

  1. あなたの父母を敬え。

    「すべての人」に愛情と感謝と尊敬を向けなければなりません。その最初のスタートが、最も身近な存在である親(子)です。そして、家庭は「もっとも基礎的な教会」です。愛情・尊敬・感謝の心をもって交わりを深くし、他と交わる心、他の人々を招きいれる心を育てなければなりません。

  1. 殺してはならない。

    人の生死は、神のご計画のうちにある。私たちは、神の御旨を尊び、神の御旨に従い生きていかなければならない。そして、神によって創造された自分・他人・被造物を殺すことは、神を冒涜することに他ならない。

  1. 姦淫してはならない。

    命は、「愛」によって生まれ、「愛」によって育まれなければなりません。そして、あらゆる破壊から自らを守らなければいけません。豊かな「愛情」は、人を自由にし、より豊かにします。

  1. 盗んではならない。

    人の人から何かを奪い取ることだけではなく、世の中の富や自然の豊かさ等あらゆるものを公正な管理と分配をしなければなりません。なぜなら、相対的権利はあっても、絶対的な権利は創造された神が有すからです。私たちは神から与えられた使命を担っていることをわすれてはいけません。それは、被造物に対する責任でもあります。

  1. 隣人に関して偽証してはならない。

    全ての真理の源である神を冒涜することに他なりません。正直であることは、神に対して誠実であることです。私たちは神に対して誠実であらなければなりません。真理は、「道であり、真理であり、いのち」であるイエス様から直接見ることが出来ます。

  1. 隣人の妻を欲してはならない。

    私たちは自らの欲望の乱れを抑えなければなりません。強欲により、一時の衝動が人格を支配し、それによって罪を犯してしまうからです。私たちは、清い心で神と向き合い、祈らなければなりません。そうすれば、誠実に一心に愛することが出来ます。

  1. 隣人の財産を欲してはならない。

    他人の不幸を望むことは「罪」です。妬みではないも生まれません。自らに向けられた神のいつくしみ、そして、聖霊によってすでに与えられた神の命に気付けば、おのずと妬みはなくなります。私たちが求めるべきものは、神であるはずです。

 

以上が、十戒です。
できるだけ覚えるようにしてくださいね。何より、私たちの生活を見直し、私たち自身を見直す時、十戒を思い出してください。
なぜなら、これは、イエス様が「掟」として、言われたことと同じだからです。

マルコ12章28-34節を読んでみましょう。

 

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

29-31節にこう書かれていますね。

 

『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』

 

前半(心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい)の箇所は、十戒の1-3を、後半(隣人を自分のように愛しなさい)の箇所は、4-10を言っています。先ほども話したとおり、イエス様は、律法を否定するために来られたのではなく、完成するためにこられたのです。
そして、イエス様の受難・死・復活によって、十戒は、ユダヤ人だけのものではなく、私人類全てのものになったのです。

 

 

さて、いよいよ本題に入りましょう。

ガリラヤ地方を中心に活動されていたイエス様は、数多くの律法学者、フィリサイ派の人々を論破し、福音を述べ伝えていきます。
先ほど、話したように「神様のみ旨」である「律法」が、人間の知恵によって、違うものになっていたので、イエス様は、それらの矛盾をときました。そして、その間、イエスは、多くの「しるし(奇跡)」を見せてくださいました。人々は、神の存在、神のいつくしみの深さに気付いていきます。
しかし、権力者(律法学者やファリサイ派の人々)と争うごとに、人々の心は、徐々に頑なになっていきます。思うように福音宣教出来ないイエス様は、いよいよエルサレムに行くことを決意します。

よくこんな疑問を持っている人がいます。
「イエス様は、ご自分の未来がわかっていたのだろうか?わかっていたのならば、なぜそれを回避しなかったのだろうか?」
イエス様は、ご自分の未来を確かにわかっていました。
ルカによる福音書の9章22節には、こうあります。

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。

そこにご自分の「受難」があることをイエスは分かっていました。しかし、同時にそれが神のご計画であることも知っていました。福音書のなかでは、3度「受難・死・復活」についてお話されています。

  1. マタイ16章21節・マルコ8章31節・ルカ9章22節
  2. マタイ17章22-23節・マルコ30-32節・ルカ9章43b-45節
  3. マタイ20章18-19節・マルコ10章33-34節・ルカ18章31-33節

 

なぜでしょうか?なぜ、イエス様はご自分の未来を知り、なぜイエス様は、そのみ旨を実行できたのでしょうか?
それは、イエス様は、どんな時も、常に祈りと共にあったからです。
イエス様は、常に祈ることで、自らがするべきこと、つまり、神様のみ旨を知り、自らの感情を抑え、神様のみ旨を実行していました。
常に祈りと共にあり、常に神様のみ旨と共にあったのです。

 

 

そして、いよいよ私たちが「聖週間」と呼ぶ、キリスト者にとってもっと大事な1週間のお話です。
この1週間、つまり、聖週間の出来事を時系列に並べてみましょう。
まず、日曜日、いよいよエルサレムに入城します。

マタイによる福音書 21章1~11節を読んでみましょう。

 

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

 

ここは、受難の主日のなかで行われる枝の式で朗読される箇所です。(今年は、4月9日ですね)
枝の式は、イエス様のエルサレム入城を模し、駐車場で棕櫚の葉を持ち、神父様をお迎えしますよね。

 

少し風景を思い描いてみましょう。
エルサレムは、みんなのイメージする町と少し違って、町の周りに城壁があります。つまり、街に入るためには城門を通らないといけないわけです。ヨーロッパや中東、中国では、敵に襲われるかわかりませんから、そういう街づくりのところが多いです。だから、今でもヨーロッパや中東、中国に行くと町の周りには城壁、もしくは、城壁の跡がありますね。
城壁は、壁といっても、ほとんど建物です。城壁の上は歩けるようになっていて、そこから、敵が来た時に弓矢を放ったり、石を投げたりして戦います。だから、町の外は危険がいっぱいですし、逆に町の中はとても安全に暮らせるわけです。夜になると、城門を閉めて、町に入るには、次の日の朝を待たなければなりません。
ここにエルサレムの城壁の写真がありますので、ちょっと見てイメージを膨らませてみましょう。

 

さて、イエス様は、ロバにのって、城門をくぐり、エルサレムに「入城」します。
「過越祭(過越を記念し祝うイスラエルの人々が一番大事にしている祭)」のためにイスラエル中からエルサレムに集まった人たちによって、「イエス様が(モーセやエリシャやエリヤのような有名な)預言者」だという噂はすでにエルサレム中に伝わっていたのでしょう。多くの人が出迎えます。

 

ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。

マタイによる福音書21章9節

 

出迎えた人は、棕櫚の葉を持ち、自らの服を道に敷き、「ホサナ!(救いたまえ!)」と言って出迎えます。
服を道に敷くのは、みたいなものでしょう。
「ダビデの子」は、前(イエス・キリストクリスマスのお話)にもお話しましたが、メシアを指しています。
集まった人々は、神様の導きによりモーセがエジプトからイスラエルの民を解放したように「自分たちをローマ帝国から解放して、ダビデ王やソロモン王の時代のような隆盛がもう1度起こる」と信じ、「救いたまえ!」と、声をかけます。
そして、「油注がれた者・王様が通る」道に、レッドカーペットを布くように、自分の服を敷きます。
まるで成田空港に海外のスターが来た時のような感じです。

これらの事は、聖書に預言されたことでした。
ゼカリア書9章9節を開いてみましょう。

 

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。

 

イエス様は、ロバにのって、入城されましたね。
もちろん、これは、ザカリア書の預言の通りの事が起こっていますよね。
でも、イエス様を出迎えた人々は先程も言ったように「自分たちをローマ帝国から解放して、ダビデ王やソロモン王の時代のような隆盛がもう1度起こる」と思っているわけですから、少し違和感を感じた人たちもいるでしょう。集まった人々は、イエスの本当のアイディンティをみんな分かっていないのです。
集まった人々は、ダビデ王のような豊かな国を作る王を期待しているわけですから、力の象徴である馬にのって入城することをイメージしていたでしょう。しかし、イエス様は、ザカリア書のように柔和の象徴であるろばにのって入城されました。それは、真の意味での平和の王という意味であり、神の国の王であることを示しています。(ポンティオ・ピラトとの問答ではまさにその事が触れられます)

 

そして、日曜日にイエス様がエルサレムに入城されてから、イエス様の月曜日・火曜日の行動によって、長老・祭司長・律法学者が我慢の限界に達してしまいます。
まず、月曜日の出来事です。
マタイによる福音書21章12-16節を読んでみましょう。

 

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。
「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」
イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

 

イエス、神殿から商人を追い払うと言われる有名なお話です。
ヨールダンスやエル・グレコもこのシーンは描いています。見たことがあるかもしれませんね。
当時のエルサレムの神殿は、当時、騒々しい市場と化してしまっていました。
不正な取引もしばしば行われていました。。家畜の商人が店を広げ、巡礼者たちに、犠牲に捧げる動物、牛や羊、山羊、鳩を売っていました。
また、神殿は、街の端から端へと行くための通り道にもなっていたので、この広場になんでも構わず持ち込まれるようになった。
また、彼らの隣には両替所が開かれていました。様々な国からやってくる人々は、買い物や神殿の税金を払えるだけのユダヤのお金を持っていなかったからです。
祭司長たちは、このような状況を認めていました。彼らもここから利益を得ていたからです。
エレミヤ書には、こういう神殿の状況が、以下のように預言されています。

 

わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。

エレミヤ書 7章11節

イエス様は、憤ります。かつて、「自分の父の家(ルカ福音書2章49節)」と仰った神殿が、そう仰るに似つかわしくない状況になっていたからです。
イエス様は鞭をつくり、商人を追い出し、店を壊します。
もちろん、この事も聖書の中で預言されていました。

 

エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。

ゼカリヤ書14章21節

 

この預言でもある通り、イエス様は、商人たちを追い出しただけではありませんでした。
この当時、ユダヤ人以外は、神殿には立ち入ってはならないとされていました。
イエス様は、同時に世界中から来ている人々、「いけにえをささげようとする者皆」が、「神」のもとに集まる障壁を取り除いたのです。
そして、この事によって、「私の家は、全ての民の祈りの家と呼ばれるイザヤ書56章7節)」となりました。

こうして、律法を完成させるために来たイエス様によって、私たちにも開かれました。
これが、月曜日の出来事です。

 

翌日…つまり、火曜日のお話です。
神殿で説教されていたイエス様に、祭司長や民の長老たちが意地悪な質問をぶつけ、イエス様を貶めようとします。
今年朗読されるマタイ福音書では、以下のような問答が行われます。

  • 2人の息子のたとえ(マタイ21章28-32節)
  • ブドウ園と農夫のたとえ(マタイ21章33-46節)
  • 婚宴のたとえ(マタイ22章1-14節)
  • 皇帝への税金(マタイ22章15-22節)
  • 復活についての問答(マタイ22章23-33節)
  • 最も重要な掟(マタイ22章34-40節)
  • ダビデの子についての問答(マタイ22章41-46節)

イエス様は、次々と意地悪な質問を論破していきます。
そして、ダビデの子についての問答の最後には…ついに…

 

ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。

マタイによる福音書22章46節

その後、イエス様は、律法学者やファリサイ派の人たちを非難します。(マタイ23章1-36節)
そして、世の終わりについて、自らの再臨について、お話されます。
しかし、もちろん、弟子たちは、その話の意味をしっかりと理解しているわけではありませんでした。
ご受難を受ける覚悟を決められ、様々なお話をされるイエス様のお気持ちはどうだったのでしょうか?

 

 

そして、水曜日…

祭司長や長老たちは、イエス様を殺すことを決意します。イエス様は、彼らにとって、危険な存在になりすぎてしまったのです。
そこにすでにサタンが入ったイスカリオテのユダが、イエス様を引き渡すと約束しに来たので、銀貨30枚(奴隷1人分の値段)支払う事にしました。

 

 

 

この日曜日から水曜日までは、「律法を完成させるために来た」イエス様がそれをしっかりとイスラエルのために提示した時間でした。
西暦30年ごろのお話なので、今から1990年くらい前のエルサレムで現実に起こった話です。
日曜日にあれ程、歓声を上げ、王様を迎えるように、イエス様を出迎えた人々が、この数日間でどのようなことをするか…
そして、イエス様の思い、弟子たちの思い…マリア様の思い…
色々な視点で思いめぐらしてみてください。

来月は、木曜日からご復活までのお話をしようと思います。過越の聖なる3日間のお話です。

では、最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

 

来月は、3月5日に行います。
キリスト者として最も大事なお話です。是非、みんな集まってください!




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今日も元気に子どもたちが集まりました!
「教会学校・はじめの祈り」でスタート!

先週はビンゴをやりましたね。
クイズ付きという特別ルールでしたが…みんな結構正解できていましたね。
みんなちゃんと知っていてくれてよかったと思いました!
これからも勉強頑張りましょうね。

今日は、先週のミサで読まれた福音について勉強します。
覚えているかな?

みんなにとって、「幸せ」ってなんでしょうか。
子どもたちが「嬉しい」「楽しい」と答えてくれました。

では、「嬉しい」「楽しい」「幸せだな〜」って感じるときってどんな時でしょうか?

「わかんない」と言ってくれた子もいました。
「三億円当たったら嬉しい」「欲しいものを買ってもらった」「ゲーム買ってもらった」「マラソン大会でいい成績が残せた」等色々出ました。

でも…お金は使っちゃったらまた欲しくなるよね?
ゲームとか欲しいものを買ってもらっても、飽きちゃったらまた別のものが欲しくなるよね?
スポーツでいい成績残せても、次にまたいい成績が残せるとは限らないよね?
それに、もしかしたら、練習中怪我しちゃうかもしれないよね?そしたら幸せかな?

先週は、下原助祭がミサの中で、イエス様が「本当の幸せ」とは何かを語った場面を読んでくれました。
思い出したかな?
先週読まれたところは、カトリック信徒にとってとても大事だから、覚えてほしいと思います!

ここでプリントを配ります。プリントには先週の福音の大事なところが書かれています。

まずはひとりに先週の福音箇所を音読してもらいました。

この場面は「山上の説教」と言われる場面です。
イエス様と弟子と群衆がいて…
イエス様は山にいます。弟子たちもイエス様の近くにきて、イエス様のお話を聞きます。
群衆もイエス様のお話を聞いていました。

イエス様は「幸いである」と言っているけど、「幸い」=「幸せ」ってことです。

プリントの問題をみんな解いてみましょう!
プリントには「○○な人は幸いである」と書いてありますね。
高学年の皆はその下が空欄になっているから、そこをうめてね。
低学年の皆は下にその続きが書いてあるから、正しいものを線で結んでください。

できたら、自分が好きだな〜とか、面白いな〜と思ったことばに印を付けてくださいね!!

さて…みんな出来ましたか?
何人かに気になったことばを発表してもらいました。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」

リーダーがこの中から一部を詳しく解説しました。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」
まずは、「心の貧しい人々は、幸いである」。
心の貧しい人ってどういう人でしょうか?
「ひとりぼっちの人」と答えてくれた子がいました。
そうかもしれませんね。

聖書はいろんな「訳」があります。
ある訳では「自分の貧しさを知る人」と訳されています。
ギリシャ語の聖書では「霊において貧しい人」と言う意味で書かれています。
霊っていうのは、聖霊のことです。
みんな三位一体って聞いたことあるよね?神様と、イエス様と、聖霊…この聖霊のことです。

例えば…お金がないという意味で貧しい人は、お金が欲しいですね?
これとお同じように、聖霊において貧しい人は神様を求めます。

そして「天の国はその人たちのものである」
聖書が書かれた時代、国っていうのは王様が支配しているところのことを言いました。
つまり、天の王様である神様が支配している国が天の国です。
天の国にいるってことは、神様と一緒にいるってことです。それってすごく幸せなことですね。

まとめると、神様を求める人は、天の国で神様と一緒にいられるから幸せだよってことですね!

 

「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」
先週下原助祭がお説教で悲しみについてお話しされてましたね。
でも、悲しむ人は悲しいんだから、なんで幸せなんでしょうか?
悲しむ人のそばには、いつも神様がいてくれて、慰めてくれているってことを、イエス様は言っています。
神様が慰めてくれるんだから、それはとても幸せなことですね!

 

「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」
柔和っていうのは「優しい」という意味です。
この箇所は、旧約聖書の詩編(ダビデ王が書いた詩)から取られています。
詩編では「小さな人々は地を引き継ぎ」という箇所があります。この小さな人々っていうのが柔和な人ってことですね。
では小さな人々ってどんな人でしょう?
神様の前で自分を小さくできる人ということです。
神様にむかって「俺は偉いんだぜ!」と言ったりしたら、それは小さくないですね。
神様の前で自分を小さくできる人とは、神様に従う人ということです。

 

「平和を実現する人は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」
平和って何だろう?
「争いがない」って答えてくれましたね。それも平和ですね。
でもそれだけで本当に平和でしょうか?

戦争がなければ平和ですか?違いますよね。
平和の「平」は「たいら」っていう字ですね。
つまり、足りない人に分けてあげたり、みんなと仲良くする…
そういう風に出来たら平和なんじゃないでしょうか?

 

ここでタイムアップです!
全部説明できなくて残念でしたが、今日説明できたところはよく覚えていてほしいと思います!

終わる前に、歌を歌いました。

「Walk in the light (ウォーク・イン・ザ・ライト)」を歌いました。
今日の福音の「地の塩・世の光」のお話にぴったりの歌です。
英語のところもあって難しいけど頑張って歌いました!

そして「アヴェ・マリアの祈り」を唱えておしまいにしました。

今日は先週とは打って変わって、がっつりお勉強でしたが、みんな頑張りましたね。
来週も元気に集まってくださいね!




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2月23日(木)10:00より、聖堂で聖体礼拝のミサと聖体礼拝が行われます。

The Benediction is administered from 10:00 on February 23.

 

聖体礼拝の会は、以下のように行われます。

 

多くの方の参加をお待ちしています。