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11月は、死者の月です。
カトリック松戸教会では、11月2日(死者の日)11月3日(墓参)が行い、亡くなった方に祈りを捧げました。

年間第32主日のミサで、記念唱の際に、故人のお名前が読み上げられ、会衆とともに祈ります。

 

 

土曜日のミサは、司式してくださった嘉松神父様(中央協議会)が読み上げてくださりました。

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日曜日のミサでは、エミリオ神父様(ドミニコ会)が、『11月2日(死者の日)11月3日(墓参)にいらっしゃることが出来なかった方々も一緒に故人の追悼を願うミサにしましょう』と仰り、ミサが開祭されました。

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下原助祭によって、故人のお名前が読み上げられ、心を合わせて祈りを捧げました。

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目にみえない世界に入ったすべての人との連帯を意識し、つながりの中にある自分を改めて想い、祈りを捧げました。




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中高生

 

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、なんと1人も来ない……堅信に与ったメンバーにはお話しましたが、秘跡と知識(カテキズム)は、信仰の両輪です。
秘跡に与ってもその意味を知ることがなければ、その価値を知ることが出来ないからです。
来月は、待降節に入っていますから、クリスマスのお話をしようと思っていますので、是非集まってくださいね。

 

 


 

 

今週のテーマ

● 人間とは ●

私達は、なぜ生まれ、何故生き続けているのでしょうか?
私達「人間」とは、どのような存在なのでしょうか?そして、私達自身は、どのような存在なのでしょうか?

では、まず創世記第1章を開いてみましょう。聖書の1番初め。『全ての始まり』です。
神の創造の業が、ダイナミックに描かれています。目を閉じ、静かに想像してみてください。
事端(じたん)』という言葉があります。「物事のきっかけ。事件の発端。」という意味ですが、「ことば」とも読めますよね。創造の出来事は、まさに事端でした。

まず、「初めに、神は天地を創造され」ました。
そして、神は「光あれ」と、言われ、光が生まれました。神は光を見て、良しとされた
昼と夜が生まれます。1日目の出来事でした
そして、次々と神は創造されていきます。
創世記1章26節から、いよいよ「人」が創造されます。6日目の出来事でした。

 

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

創世記 1章27-28節

 

何かを創造されるたびに「神はこれを見て、良しとされた。」とあります。「良しとされた」のです。
造られたもの全てをご覧になった神は、「極めて良かった(創世記1章31節)」と、されます。

 

知恵の書第11章24節を開いてみましょう。このように書かれています。

 

あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。

知恵の書第11章24-25節

 

創世記 1章27節にあるように私達は、神にかたどって創造され、私達は、霊(息吹)を授けられました。他の植物や動物、無機物と違う点です。
私達は、人格的存在です。なぜなら、人は知力や意志によって愛を受け入れるか否か、自分で判断することが出来るからです。そして、私達は、神の愛を感じることにより他者の人格を認め、尊厳ある者として認め、愛することを知っています。また、同じ被造物である植物や動物達を敬う事を知っています。

私達は、神に祝福されるために生まれました。
私達は、神の愛に気づき、神の愛に感謝し、生涯を通して、神と関わって生きることを望まれています。

ラテン語でPERSONA(ペルソナ)という言葉があります。
英語の「PERSON」の語源の言葉です。つまり、「人」という言葉の語源です。
(三位一体の神の話をした時にもペルソナという言葉を使いました。覚えていますか?)
per=~を通って」と「sonare=響く」が合わさってできた言葉です。
「十字架のしるし」のお話をした時にも話しましたが、)私達は、神、御子(イエス様)、聖霊を注がれた人々(信者)と、関わり、繋がって、生きています。
イザヤ書43章5節には、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と、書かれています。

だから、常に「個」であると思わないでください。
神と私が繋がっていればいい。神とイエス様が繋がっていればいい。というわけではありません。
祈りは、神・イエス・他者との関わり・つながりを感じるために行うものです。

私達は、確かに原罪によって、神とのつながりを拒むような誘惑にかられることがあります。
神の意思、つまり、他の交わりをさけたいと思う事もあるでしょう。しかし、私達が描く善悪は、神の善ではありません。「自分の善」ではなく、神の善を行う者になってください。
自由とは、悪の誘惑にかられ享楽に走ったり、他者や他の被造物とのつながりを壊すものでもなく、「まことの善」を行うためのものです。それを「選ぶことが出来る」ことです。

私達は、誰もが「神に望まれ」「神によって造られた者」なのです。誰もが「神から愛されている人」なのですから、誰もに「尊厳」があり、誰もに「自由」があります。
自分が神に愛されているということは、隣の人も神に愛されているのです。だから、神様を悲しませるようなことをしてはいけません。
誰もが「幸せ」になる、つまり、神の愛に満たされる権利があります。

「幸せの形」は、人によって違うでしょう。
真福八端を覚えていますか。イエス様が山上で教えてくださった「幸せ」になる方法です。

 

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

マタイによる福音書 5章3-12節

 

福音は、人によって違います。神の恵みは、川のように低いところに流れていき、全ての人々に行きわたります。そして、特に「低い者」とされた者のところに留まります。だから、常に「低い者」であってください。神とともに、イエス様とともにある人でいてください。

 

ところで、イエス様が私達に課した唯一の掟を覚えていますか?

神を愛し、そして、それと同じように隣人を愛する

これが、私達キリスト者の唯一の掟です。常にそれを忘れないようにしましょう。
聖パウロは、エフィソの信徒たちにこのような言葉をおくっています。

 

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

エフェソの信徒への手紙6章10-18節

 

どのような時にも、聖霊に助けられ、祈り、願い求め、全ての人々のために、絶えず、神様・イエス様の存在を信じ、根気よく祈り続けてください。
それでも、これをもし破ってしまったら、他人の事を傷つけてしまったら…回心し、赦しの秘跡に与りましょう。

宗教という英単語を知っていますか?
religion」と言います。
これは、ラテン語の「religious」から来ているのですが、この「religious」の意味は、「神と人との絆」です。
私達は、罪を犯しても(神様から離れるような行動をしても)、回心し、いつでも神様のもとに帰ることが出来ます。

もう1度、最後に、私達は「極めて良かった(創世記1章31節)」者なのですから、常に神の愛を感じ、自分自身、そして、隣人を、父である神が私達にしてくれた、ご自分の愛する御子を、あの残酷な受難・死に捧げる程、愛されたように、愛し、行動しましょう。

それが私たちの、唯一の掟です。

 


 

来月は、12月4日、午前9時15分から行います。
待降節ですから、ご降誕のお話をしようと思います。




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今日はたくさんの子どもたちが集まってくれました!

 

まずは「教会学校はじめの祈り」でスタート!

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そして歌の練習!
今日歌った歌は「ありがとう」です。

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結構音が高い歌ですね。意外と難しいですけど頑張って歌いました。

 

 
そしてお勉強に入ります。
今日は、下原助祭がみんなに宣教活動を始める前のイエス様について教えてくれました!

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お話の前に、まずはクイズです!
問題が書かれたプリントが配られました。

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1 イエス様の故郷は?
2 イエス様は何歳まで故郷にいた?
3 イエス様のお父さんの名前は?
4 イエス様のお父さんの職業は?

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みんな一生懸命考えて答えを書いていきました。

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ミサの中のお話で聞いたことやリーダーに教わったことを思い出せれば、全部答えられるかな?
最後の問題はちょっと難しいかもしれませんね。

 

 

そして答え合わせです!

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皆いっぱい答えてくれましたね。
正解は…
1 ガリラヤのナザレ
2 30歳
3 ヨセフ様
4 大工
です!

 

ヨセフ様は大工だったと言われていますが、お家を造ったりする大工さんではなかったそうです。
家を建てたりする大工さんが使う道具を作っていたと言われています。
イエス様もヨセフ様の職業をついで、大工さんが使う道具を作っていたと考えられているそうです。

 

そして、イエス様が30歳になって「公生活」を始めるまでのお話を、下原助祭がお話ししてくれました。

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イエス様が12歳のときのお話が、「ルカによる福音書」に書かれています。
エルサレムに行った帰り道、マリア様とヨセフ様がイエス様がいないことに気づき、探しまわって引き返しました。
イエス様はエルサレムの神殿にいて、学者さんたちとお話ししていました。
マリア様が「なぜこんなことをしてくれたのです。」とイエス様に聞くと、「私が自分の父の家にいるのは当たり前だ」とイエス様はお答えになりました。

当時のユダヤでは、12歳から大人でした。今の日本は20歳から大人ですよね。
12歳と言ったら小学6年生か中学1年生くらいですね。それでもう大人だったなんてすごいですね。
このお話から分かるのは、イエス様は12歳のころから神様の子どもとしての自覚があったということです。

では、イエス様の宣教の最初はいつでしょうか。
それは洗礼者ヨハネから洗礼を受けるところから始まります。

ヨハネが授けていたのは悔い改めの洗礼です。悪いことをした反省の意味の洗礼でした。
でもイエス様は神様だから何も悪いところはないですね。でもヨハネから洗礼を受けました。
イエス様の洗礼は、他の人たちの洗礼とは意味が違いました。
他の人が洗礼を受けたときには起こらなかったことが、イエス様が洗礼を受けたときには起こりましたね。
天が開け、聖霊が降り、「わたしの愛する子」という声が聞こえました。
この洗礼から、イエス様の公生活がはじまりました。

その後イエス様は、荒れ野で40日間悪魔の誘惑を受けます。
イエス様はなんとなく40日間荒野にいた訳ではなく、40日というのには意味があります。
イスラエルの民がエジプトから逃れてカナンにたどり着くまでに40年かかりました。
イエス様が荒れ野にいた40日は、この40年を意味しています。

子どもたちが「ノアの洪水」も40日間だったと言ってくれました。
40という数字は大事な意味がある数字ですね。

ここで話は変わりますが…イエス様が最初に行った奇跡はなんでしょうか??
「水をぶどう酒に変えた!」というところまでは知っている子がいました。
「どこで?」と下原助祭が聞くと…わからなかったようですね!
カナという場所で婚礼があり、そこで行われた奇跡です。
マリア様が「ワインがなくなりました」とイエス様に言うと、イエス様は「水を持って来て」と言います。
その水をワインにかえました。

ここで下原助祭のお話はおしまい!
イエス様が活動を始める前、始めた頃のお話がよくわかりましたね!

 

 

 

さて、ここでリーダーから…
この前、みんなは岡田大司教様にプレゼントするために、折り鶴でロザリオを作りましたよね?
大天使聖ミカエル祭で岡田大司教様が司式してくださったときにプレゼントしましたね。

 

岡田大司教さまから、そのときのお礼のお手紙が届きましたので、リーダーが読み上げました。

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教会学校の折り鶴ロザリオのプレゼントについてもお手紙に書いてくださっていました。
みんなよかったね!!

 

 

そして…クリスマスに披露する聖劇の台本が配られ、配役も発表されました。

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みんな台本を見ながら、自分がどこで出てくるか、どんな台詞を言うか、確認しました。
今回は朗読劇ではなく、劇をやりますので、台詞は覚えなくてはいけません!
今年の出来映えが、来年からの聖劇がどうなるかを左右します!
みんな頑張りましょうね!

 

最後に「アヴェ・マリアの祈り」を唱えました。

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来週も元気に集まってくださいね!




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松戸教会では、毎年、11月3日に(午前10時からの流山墓地に墓参後)流山にある豊四季霊園松戸教会共同墓地で、午前11時から墓前ミサが行われます。
今年は、(フィリップ神父様がサバティカル中でお留守のため)、豊四季教会の渡邊神父様が司式してくださいました。

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同時に、最近帰天された2名の信徒の納骨と合祀も行われました

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早朝まで続いた雨もやみ、ミサには、秋晴れの空のもと、80人ほどの人が参列され、永遠のいのちのうちに生きている方々を想いながら、祈願を捧げました。




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本日、11月2日は、死者の日とされ、亡くなったすべてのキリスト者を記念します。

わたしたちは生者と死者を問わず万人との連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としています。「聖徒の交わり」とは、「聖なるものの分かち合い」と「聖なる人々の交わり」という意味を持ち、聖徒たちの交わりが、まさに教会なのです。すべての罪はこの交わりを損なうものです。
教会はキリスト教の初期の時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることができるのです。

引用 死者の日 カトリック中央協議会

 

 

松戸教会では、午前10時半から、豊四季教会の渡邊 泰男神父様司式でミサが行われました。

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第1朗読…

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福音朗読

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そして、説教

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説教要旨

主の道、主を信じるということで、私たちにとって一番重要なのは、主は「復活」されたということです。
12使徒たちは、長きにわたり、主に仕えますが、ご受難・十字架上での死を知った時、復活を信じていませんでした。彼らが、復活した主に出会うことにより、「真実」が見えていき、やがて、キリストの道を歩むように、多くの殉教者を出していきます。私達も復活された主に出会うことにより、新たな一歩を踏み出すことが出来ます。
すべてにおいて、イエスは、福音そのものであり、イエスの生き方、御言葉に絶大なる信頼をおき、人間の知恵では考え付かないようなことが、主によってなされます。
そこに私達は招かれ、現実の生活の中で、キリストの存在を知る事ができると思います。
主は、貧しく抑圧された側につき、そして、その人達にしたことは、『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25章40節)』とあるように私達もキリストに出会う時、それは、私達が思い浮かべるようなキリストの姿ではないということを見定めておかないと、どこか違った生き方になるのではないでしょうか。
本当に私たちがどん底を味わっている時、主は私達を力づけ、私達を新しくしてくださいます。
そして、多くの亡くなられた方が、諸聖人の交わりの中に迎えいれられ、私たち一人ひとりが神から与えられたミッションを全うするよう祈り導かれていると思います。
私たちにとって、神は、父であり御子であり聖霊です。
聖パウロは明確にその事を私たちに告げています。
死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(使徒パウロのローマの信徒への手紙8章38~39節)」
私達もどのような境遇に置かれてもキリストの道を歩んでいるということを、しっかりと身に納め、聖パウロがおっしゃっているように、復活の命に希望をかけ、派遣されているこの現実のなかで、主との出会いを感じ、身をもって、永遠の命を悟る恵みを与えられるように、多くの亡くなれた方々、諸聖人の取り次ぎを願い、それぞれが与えられたタレントを十分に活かし、主イエスが、愛して下さったように、どのような人でも大切に出来ることができるように願い、永遠の命に招かれている喜びをもって、この地上の命全うできることができるように、一緒に願ってまいりましょう。

 

 

第1朗読 ローマの信徒への手紙 8章31b~35、37~39節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章37~40節

 

 

記念唱のなかでは、多くの亡くなられた方々への祈りが行われ、心を合わせて祈りを捧げました。

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