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マリア会主催黙想会

 

マリア会主催・黙想会が下記のとおり、行われます。

 

テーマ

御手のなかで生きる

日時

2016年7月28日(木) 9:30AM~12:00PM
* 受付開始 9:10~

場所

松戸教会 聖堂

プログラム

9:30~ 開始、講師紹介(聖堂)
9:35~ 講話
10:25~ 黙想
10:45~ 講話
11:30~ 分かち合い
11:50~ まとめ
12:00 終了

 

*終了後、地下ホールに茶菓の用意があります。(ご自由にどうぞ)

 

 

多くの方々のご参加をお待ちしています。




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勉強会

 

各講座・勉強会の夏休みのお知らせです。

 

キリスト教入門講座(日曜日) 講師:松戸教会 カテキスタ グループ

  • 7月10日(日)まで。
  • 9月4日(日)から再開。

 

「福音の喜びを味わう」(水曜日) 講師:愛徳カルメル修道会  Sr.萩原、Sr.和田

  • 7月13日(水)まで。
  • 9月14日(水)から再開。

 

主日のミサの朗読箇所の勉強会(木曜日)

  • 8月18日のみお休みになります

 

下原助祭による勉強会(土曜日) 講師:下原 和希 助祭

  • 7月9日(土)まで。
  • 10月1日(土)から再開。

 

お間違えのないようにご注意ください。
よろしくお願い致します。




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私は日本に赴任して20年間ノンストップで働いたので、サバティカルをとるようにと強く押されたのは、聖コロンバン宣教会の総長と日本管区長レオ・シューマカ神父でした。
そこでこの『いつくしみの特別聖年』の間に、6月20日から11月30日までサバティカルをとることを決心しました。このサバティカルから何か良い結果が得られることを望みます。

もしあなたが主任司祭であり、同時に近隣のフィリピン共同体3カ所を司牧する立場にあるなら、この決断をするのはやさしいことではないでしょう。

私はサバティカルに向かって出かけます。皆さんはこのサバティカルという言葉の意味は何だろうと思われるかもしれません。一例を挙げてみましょう。自分の仕事がきらいだから、さっさと辞めて、世界旅行をするために休みをとりたいと思っている人たちを見つけるのは確かに簡単でしょう。しかしながら、あなたが実は仕事がとても好きだったらどうしますか? でも、あなたは疲れ果ててどこにも行く気にならないし、毎日の仕事から離れられない、でも新しい見方と可能な限りの新しい知識技能でもって充電し直す必要があると感じてます。これがサバティカルですか?

よくあることですが、私たちの仕事の責任はただ増え続けていき、やがては、やりたいと思っていることも本当にしなくなります。その場から逃避したいと思うのは自然なことでしょう、たとえ、あなたが自分の教会を好きで、教会の信徒たちもあなたのことを好きだったとしても。いわゆる(VACATION)ではその問題は解決しないでしょう、本当の意味の(BREAK)が必要なのです。

サバティカルという言葉は、実は聖書にある言葉、『安息日(SABBATH)』から来ています。それは昔の人が生涯を生きるために休みと若返りの期間を設ける必要があったのです。伝統的に、宗教団体の人たちや教区聖職者とか教職についている人の中でサバティカルが見られますが、司祭たち、シスターたち、先生たちのためだけでは、もはやありません。だれでもサバティカルをとって旅に出ることができます。サバティカルは、変わり目を追い求めるために仕事から少し長く離れることです。私の教会信徒たちが公式のサバティカル・プログラムを持たなかったとしても、そのとき私はサバティカルをリクエストできます。あるいは、宣教国で何年も働いた後に私の上司たちが私にサバティカルをとるようにと、直接指示することができます。人々は伝統的に目的到達、技能熟達、真理探究のためにサバティカルをとります。これらのことをするために自分の家にいる必要はありません。たやすく世界を旅して、決めたゴールに到達することができます。大事なのは、遠くに離れて、古いものを新しくし、新たに元気を取り戻すことです。サバティカルは宗教上の誓い、教育、修練など、精神的に新しくすることが目的だと言えます。自分の限界への挑戦、あるいは自分の創造性に触れることが目的ともいえます。
時には職業と関係があるときもあれば、あまり直接的な方法ではないが、ただ知識技能の成長を助けるだけの場合もあります。

サバティカルは松戸教会の主任司祭と信徒の両方に利益をもたらすことができます。
遠くに離れることは精神を一新するのに欠かせません。創造力あふれる新しい考え方は技術技能を生み出すのに役立ちます。心を新たにし、頭の中のもやもやした古いゴミや日常を掃き出すのに遠く離れることは必要不可欠なのです。サバティカルから戻った時には、心も新たに、元気を取り戻し、信徒たちと共に新しい旅に出発することができます。サバティカルをとることはまた、松戸教会の信徒にとって、主任司祭不在の教会運営における最大の試練でもあります。私の不在の間、司牧評議会が教会運営に支障が出ないように、また集会奉仕も諸サービスも行われるように取りはからってくれます。

以上の説明で、松戸教会の信徒の皆さんが、主任司祭がサバティカルに行く理由を理解してくださることを望みます。

良い実りがこのサバティカルから生まれますようにと希望し、祈ります。
神さまを信じて。

 

 


 

 

Hoping For A Fruitful Sabbatical

 

After putting pressure on me to take a sabbatical from my Columban Society Superior General and from my Regional Superior Leo Schumacher after 20 years of working non – stop here in Japan, I have decided to take my sabbatical on the Jubilee Year of Mercy, starting from June 20 to November 30, 2016. Hoping something good will come out of this Sabbatical.

It is not easy to decide if you are the Parish Priest and at the same time Pastoring to 3 Filipino Communities in the neighboring areas.

I am going for my Sabbatical. People may be wondering what is this word Sabbatical means? Let me illustrate here. Sure, it is easy to find people who dislike their work and want to quit and take a break to travel around the world.

However, what if you actually like your work, but you are exhausted, feeling like you are going nowhere, stuck in a routine, and need to re-energize with a new view and possible new skillsets, is this sabbatical? Often times our work responsibilities just keep growing and growing and soon we are not really doing the things we want to be doing any longer. It is natural to want to get
away – even if you do like your Church and your Parishioners likes you.
A vacation will not solve the problem, you need a real break.

The term sabbatical actually is derived from the biblical Sabbath which serves an ancient human need to build periods of rest and rejuvenation into a lifetime. Traditionally you will find sabbaticals in the Religious Congregations or Diocesan Clergy or academic careers, but they are not just for priests, Sisters and teachers anymore. Anyone can take a sabbatical and travel. A sabbatical is simply getting an extended leave from work to pursue a break. Granted, my Congregation does not have a formal sabbatical program, then I can request for a sabbatical. Or my Superiors can direct me to take a Sabbatical after serving for a long time in a Mission Country for years.
People traditionally take a sabbaticals to fulfill a goal, build a skill, or do research. A person need not stay near his/her home to do these things.
He/She can easily travel the world and accomplish the set goals; the key is to get away, renew, refresh. Sabbatical can be about spiritual renewal of religious vows, education or training or just to refresh. It can be about pushing your limits or getting in touch with your creative side. Sometimes it has to do with careers, or just simply to help for the growth in ones skill sets in less direct ways.

Sabbatical can be beneficial to both, the Parish Priest and the Parishioners of Catholic Matsudo Church. Getting away is essential for spiritual renewal, creative and new thinking, can help build skills, is essential for spiritual renewal or simply dust off cobwebs and routines in one’s brain. Coming back from a sabbatical one is refreshed, energized, renewed and can start a new journey with the Parishioners. Taking a sabbatical is also the ultimate test to the Parishioners of Catholic Matsudo church on running the Church without the Parish Priest present. In my absence, the Parish Pastoral Council of the Church will see to it that operation in the church is not hampered and services are rendered to the people.

Hoping after the explanation above our Parishioners of Matsudo will understand why their Parish Priest has to go for a sabbatical.
Hoping and praying that something good will come out of this Sabbatical.

In God I trust.

 

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC




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松戸教会では、毎月第1週の主日のミサのなかで、その月に誕生日を迎えられる方々の祝福を行っています。

 

今月は、本日・年間第14主日のミサのなかで、ミサを司式して頂いたエミリオ神父様(ドミニコ会)よりお祈りを唱えて頂き、灌水して、祝福して頂きました。

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ミサに与った方々からも祝福の拍手が送られました。
7月生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます!




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中高生

 

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月もなんだかんだで3名の参加者が…!
ちょっとずつでいいので、数が増えて来るといいですね。

 

さて、今月は「教会について」です。
かなり広い括りですが、いくつかのポイントに集約して、勉強します。
今日の勉強会を通して、私達キリスト者にとって、「教会」がどういうものなのか、一緒に考えていければ良いなぁと思います。

今回も、主の祈りを唱えてスタートです。

 

 


 

 

今月のテーマ

● 教会って何? ●

今日は、「教会」について勉強しましょう。
まず、最初に知っておいてほしい事は、堅信の勉強会にも参加したメンバーは、覚えていると思いますが、教会とは建物のことではありません。この建物は聖堂といいますよね。もし、建物の事ならば、聖堂のない時代、迫害に会っていた時代、たとえば、イエス様が死んで(32年頃)から、313年のローマ皇帝コンスタンティヌスのキリスト教公認までの約300年間の間、教会は存在しないことになります。日本でも、江戸時代初期、キリスト者は迫害されていましたが、その間も教会は存在しないことになります。
でも、確かに「教会」は存在していました。
では、「教会」が、建物ではないとしたら、教会とはなんなのでしょうか?
私たち自身、私たちの共同体、世界中のキリスト者の集まりの事を、「教会」と言います。ギリシア語だと「エクレジア」と言います。つまり、「呼び集められた者達」という事です。
イエス様のたとえ話のなかで、種を蒔く人(マルコ福音書第4章3-20節)がありますよね。どういう話だったか覚えていますか?
神様は、平等に私たちに種を蒔きます。
撒いている間に、ある種は鳥(サタン)に食べられてしまします。ある種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が少ないのですぐ芽を出すのですが、根がないのですぐ枯れてしまいます。御言葉を聞き、すぐ受け入れるのですが、艱難や迫害にあうとすぐに躓いてしまいます。ある種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、30倍、60倍、100倍の実を結ぶというお話です。
みんなにも当然神様から種が蒔かれています。私達が教会に来よう、今日の勉強会に出よう、ミサに与ろうという心の動きは、きっとその種が芽吹き、信仰を育てていってるからでしょう。
私たちは、神様に呼び集められて、ここに集い、秘跡を受けます。
イエス様はおっしゃいましたね。

 

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

マタイ福音書 18章20節

 

洗礼を受け、ご聖体に与る私たちが、イエス様と、そして、父である神様と交わり、1つのパンをみんなで分かちあう、それが「教会」です。
父である神様が、私たちを呼び集め、(神様にイニシアティブがある)、神様と交わり、イエス様と交わり、同じ信仰を持つ人たちと交わる、そういう親密な「空間」こそが教会なのです。

ところで、教会は、「キリストの花嫁」とか「キリストの体」などと表現されています。
イエス様が、神様が、まるで「花嫁」を愛するように「私たちを愛して」くれます。
旧約聖書のなかには、「エルサレム」を神様の花嫁と語られている箇所があります。ユダヤ人にとって、約束の地「エルサレム」が神様の愛を受けているように、私たちにとって、「教会」こそがまさにその場所なのです。
そして、まさに、私たちは1つの体です。みんな個人個人の喜びを怒りを哀しみを楽しさを痛みを…イエス様が私たちに対して「深い憐れみ」を感じてくださったように…「共有する」「分かち合う」、こと…そして、誰もが感じるその「喜び」を他者に与えること、行動すること、イエス様が憐れみのあと、貧しい人々、病気の人々に手を差し伸べたように、行動すること、それが「キリストを頭とする私たち体」の役目です。
聖パウロが教会を「キリストの体」と伝えたのは、そういう2つの意味が込められています。

さて、私たちは、なぜ教会に来なくてはいけないのでしょうか?
父なる神様、イエス様、そして、聖霊は、常に私たちとあるのに、なぜ教会に来なくてはいけないのでしょうか?
また、イエス様は、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と仰っています。なぜ、教会にきて、祈らないといけないのでしょうか?
それには、2つの理由があります。
1つは、秘跡に与ることです。秘跡は、堅信の時にも勉強しましたが、秘跡は、神様・キリストとの出会いそのものです。神様、イエス様に出会う奇跡、その時感じる喜びは、私たちキリスト者にとって、生きる糧であり、キリストと一致した者になるために大事なことです。

たとえば、ミサのなかで、ご聖体に与ること、赦しの秘跡に与ること…教会に来る意味がありますよね。そこには、喜びがあります。

1つは、先ほども話したとおり、私たちがキリストの体として、1つの「共同体」だからです。キリスト者である私たちが、共に祈り、共にみ言葉に与り、共に秘跡を経験すること、そして、お互いがお互いを知り、自分を豊かにしていくこと…。

みんな一人ひとりに力、カリスマを、神様は与えてくださっています。それは、自分ではわからないかもしれません。しかし、教会の中の誰かが確実にみんな1人1人を必要としています。その力を、隣人のために、使ってください。その誰かのために使ってください。そして、同時にみんなの隣の誰かが、みんなの必要なものを持っています。

私たちは、イエス様から「慈しみの心」を受けています。そして、「分かち合いの心」を学んでいます。イエス様に倣い、私たちも「油を受けたもの」として、みんな生きています。みんなも、教会に来ることで、それらを証左してください。みんなもきっと助けられると思います。

教会は、決して聖人の集まりではありません。

私も色々なことで教会の方々にご迷惑をかけてしまっています。イエス様には、ほど遠く、何でもないことで怒ったり、時には、傲慢になり色々なミスをします。

物もすぐなくしてしまいます。

共同体は、そういう不完全な人々の集まり、「1つの社会」、もっといえば、「一つの世界」です。

聖パウロが仰っているように、私たちは「キリストの体」として、みんながそれぞれの神様から与えられたカリスマ(才能)でお互いの役割を果たしていけば、自然と補いあわれ、(それは、まさに私たちの体が示すように…足が出来ない事は手が、手が出来ない事は足が行ってくれています)神の国の実現へと向かう事が出来るでしょう。
イエス様は、「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書 22章 39節)と仰られました。人は、神様がお造りになったのですから、私達1人ひとりが神様の意思です。だから、私たちは、神を崇敬する事と同じように人々を尊敬し、その存在を認めます。だから、誰が1人かけても、完全な世界、神の国には到達しません。私たちが、隣人を自分のように愛すのは、自分自身のためであり、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛」しているからです。(マタイによる福音書 22章 37節)

 

さて…
では、「聖堂」って何なのでしょうね。私も旅行に行くと、近くの聖堂を探して、行ってみます。聖堂は、各小教区ごと本当に雰囲気が違って、不思議な気持ちになります。
聖堂は、聖霊が働く場所です。わたしたちと共にいてくださる聖霊が、聖堂に集い、わたしたちを神様の意志に背くことがないように導いて下さいます。
だから、私達が、そこの所属の信徒の方々がどのように聖堂で祈り、どのように過ごしているかで少しずつ雰囲気が違うのでしょう。
さっきも言いましたが、私達は 「秘跡」に与りに、つまり、神様、イエス様に出会いに、聖堂に来ます。
どこの聖堂にもそこにはご聖体があり、そのしるしとして、聖体ランプが灯っています。その出会いは、私達の心のより所です。そこに集い、聖霊の助けを借り、キリストの体として、福音宣教の使命を全うする・・・その支えがそこにあります。
何か迷ったら、聖堂に来て、ご聖体の前で神様と少しお話しするように祈ってみて下さい。祈りは私達を成長させます。
イエス様も、いつも何かあれば祈られていました。福音書にはその様子が多く記されています。
たとえば、受難に向かわれる前にイエス様は、祈られました。

 

アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。

マルコによる福音書 14章 36節

 

みんなも神様に祈ってみてください。

 

最後に、みんなに覚えておいてほしいことを言います。
教会には、守るべき5つの掟があります。これは義務です。これを守ることで、私たちは教会との連帯した結びつきを思い起こすことが出来ます。

 

  1. 主日と守るべき祭日のミサに参加し、その日の特徴を傷つける仕事や活動を休むこと
  2. 少なくても、1年に1回赦しの秘跡に与ること
  3. 少なくても、復活節の間にご聖体に与ること
  4. 教会が定めた断食の期間と大斎・小斎を守ること
  5. 教会が必要とする物質的支援をすること

 

1は、主日がどういう日なのか考えればわかると思います。
主日は、「主の日」、つまり、イエス様の日です。なぜ、イエス様の日なのでしょうか?ミサを思い起こせばわかると思いますが、ミサのなかで私たちはいつもイエス様のご復活をお祝いします。だから、日曜日が主日なのですね。日曜日は、教会でミサに与り、イエス様のご復活を祝い、み言葉を味わい、神様、イエス様にお会いする、だから、私たちにとって、とても大事な日なのです。
2は、赦しの秘跡という秘跡の意味を考えてみましょう。私たちは罪びとですから、どうしても神様から離れようとしてしまいます。軌道修正をするのは大変です。1年に1度与ることでそれを小さいうちに直すことができます。
3は復活節の意味を考えればわかると思います。
年間でも四旬節でもなく、復活節に味わうということ…そして、先に話したミサに与る理由、赦しの秘跡を与る理由を考えればわかると思います。
神様から離れないようにするために、私たちはご聖体が必要です。ご復活を祝い、ご復活の意味を考える期間である復活節には、必ずご聖体に与りましょう。
そして、もし1年ぶり!なんていう時には、まず「赦しの秘跡」に与って、イエス様を迎える準備を整えてから、ご聖体を与りましょう。
4、5は、信徒として、「分かち合い」がとても大事だからです。
自分が今何をできるのか?神様から与えられた能力、環境をどのように使うべきなのか…よく考えれば、その理由は、よくわかるはずです。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書 22章 39節)という教えを守る私たちには、それらのことはとても大事なことです。

どうですか?
みんな守っていますか?その意味を理解すれば決して難しいことではないと思います。

では、最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

 

中高生の勉強会は、毎月、第1週に行いますが、来月は、夏休みでお休みです。
次回は、9月4日、午前9時15分からですね。
ぜひ、みんなで集まりましょう!