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本日、午後、「東北支援クリスマス チャリティーコンサート」がカトリック亀有教会で行われました。

この企画は、東葛飾宣教協力体が行っている3教会合の東北支援ボランティア活動(【注】東葛飾宣教協力体 第1回第2回第3回 東北ボランティア活動)がきっかけとなり、参加した若い人たちが、もっと何か違う形の支援が出来ないか考え、亀有教会の聖フランシスコ幼稚園のお母さん方が中心となって毎年行っていたチャリティーコンサートが、諸般の事情で継続が難しくなって来たことを受けて、3教会の有志で慈善演奏会をしてみようと企画されました。

 

オリジナルTシャツも販売しました。

 

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まず、来場者全員で「東日本大震災被災者のための祈りⅡ」を唱えました。

 

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そして、いよいよチャリティコンサートが始まります。

 

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藤澤神父様のラテン語による「レソネット」

 

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今回、実行委員を務められた方々による出し物。

 

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松戸教会のマイケル・クワイアによるグレゴリオ聖歌。

 

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プロのオペラ歌手の方も歌ってくださいました。

 

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収益金は、すべてNPO法人「福島やさい畑(毎月第2週日曜日に即売会を松戸教会で行っています)に寄付されます。

 

NPO法人「福島やさい畑」さんから御礼状を頂きました

 

いつもお世話になっております。
そして、この度は3教会とフランシスコ幼稚園の皆さまが、私たちのためにチャリティーコンサートを行って下さって、ありがとうございます。
皆さまが福島を忘れずにこうして応援して下さって、本当に嬉しいです。年月はたてどもまだまだ先の見えない福島です。力のある方は自力で新しい道を切り開いていますが、弱者は次第に弱ってきています。(ある農産物直売所を経営していた方は、結局継続が難しく今月で辞めることにしたと、私どもに伝えてきました。52歳にして失業者となります。私もそこから仕入れるようにしておりましたが、私の力も及ばず、とても残念です。)
頂いたご寄付は大事に、有効に使わせて頂きます。皆さまにもくれぐれも私たちからの感謝の気持ちを伝えて下さい。
つい先ごろ、日本全国の司教様方が被災地の視察に来られました。被災地の現状をご自分の教区にお戻りになって伝えて頂きたいと思います。復興のためにはまだまだ皆さまのお力をお借りしなければなりません。
来年も、ご無理でなかったら、どうぞ引き続き応援をお願いいたします。
皆さまの上に、神様の祝福とお恵みがたくさん、たくさんありますようにお祈り申し上げます。
心からの感謝を込めて

 

 

 

来年は、豊四季教会に移して、行う予定です。
引き続き、皆様のご支援・ご協力をお願い致します。




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本日、10時から、そして、13時半からの2回、共同回心式が行われ、多くの信徒が参加しました。

 

まず、大山悟神父様(日本カトリック神学院)から、講話を頂きました。

 

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大山神父様 講話

イエス様は永遠に存在します。しかし、21世紀の時代、イエス様は具体的には存在しません。
私たちキリスト者が、イエス様を宿して、イエス様から力を頂き、具体的に生きる時にこの世界にイエス様が現れてきます。そうしなければ、イエス様は存在することが出来ません。

私たちキリスト者の大きな使命は、「行って福音を述べ伝える」ことです。これは、私たち一人ひとりに与えられた使命です。
「行って福音を述べ伝えなさい」というのは、何も街に行って福音を述べ伝えるということではなく、あなたの隣の人に、あなたの家族に、友人にいろんなところで「福音を述べ伝えなさい」ということです。
そして、「福音を述べ伝える」ということは、どういうことかといえば、「あなたの隣の人を大切にしなさい」ということです。「神の愛」を示しなさいということです。
私たちは、生きている限り、隣の人を大切にして生きていくということです。

何故わたしたちは、神の愛を今の時代で伝える必要があるのでしょうか?
通常、私たちが考えるのは、「キリストは何のためにこの世界に来られたか」ということです。
キリストは、我々人類の「救いのため」にお生まれになったということです。そして、「救い」とは、「わたしたちが神の姿に生きる」ということです。

「神の姿」とはどのような姿でしょうか?我々は、神の御姿に似せて作られました。しかし、今現在我々は神の姿とは言えません。なぜ失ってしまったかと言えば、アダムとエヴァが罪を犯してしまったからです。(創世記3章)神のようになり、「善と悪」を決めていくことを望んだからです。
わたしたちは、「善と悪」を自分で決めていませんか?しばしば私たちは「善と悪」を自分で決めるものになっていませんか?自分は悪くない、他人が悪い。そのようなことがありませんか?
私たちは、この創世記の言葉のようなモノに変わっていってしまっているのです。
そして、現代社会の中には、「神などいない」という人たちもたくさんいます。(創世記の蛇のような)賢いものたちが「神などいない」と言い、科学と宗教の対立を煽ります。この世の知識・価値観のなかで、神を忘れてしまい、自分が神になってしまっていないのでしょうか?なぜ、わたしたちは、神様になってしまおうとしているのでしょうか?
自分が神になった時になったどうなるかと言えば、「 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした(創世記3章7節)」とある通り、自分の醜さも見えてきてしまいます。そして、自分のことを隠したいと思ってしまいます。
また、創世記3章のなかでアダムはエヴァにエヴァは蛇に責任転嫁していきます。アダムとエヴァの間に分裂が生じていきます。
神と離れれば離れるほど、自分をさらけ出すことが出来なくなり、分裂していくのです。

私たちは、日常生活のなかでどうでしょうか?
自分を隠したり、物事の悪を他人のせいにして、どんどん神の姿から離れていっていませんか?
神様から離れるということは、創世記3章にあるように、「苦しみを味わう」ことになります。

だから、私たちには回心、神のもとに帰ることが必要です。
回心は自分だけでは出来ません。神の恵みが絶対に必要です。
神様は、罪を犯したアダムとエヴァに何をしたのでしょうか?神様は「アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3章21節)」とあります。神様は罪を犯したアダムとエヴァも大切にしてくださいます。
神様の愛はずっと私たちに注がれているのです。

確かに、私たちは神様が分かりません。苦しい時、悲しい時、(実質的に)助けてくれない感じがするでしょう。でも、私たちの信仰のなかでは常に神様が私たちを支えてくださっています。
神様へのアプローチの仕方として、「命の三原理」というものを皆様に覚えて頂ければと思います。
それは、「生きている。活かされる。つながる」です。
皆様は、自分1人で生きていますか?私たちは周りに活かされています。隣の人がいるから私たちは生きているのです。同時に、自分がいるから隣の人が生きているのです。そして、両親のもとで私たちは生まれ、愛に育まれ生きてきました。
愛のなかで生まれ、愛のなかで育ち、愛の中に生きていました。私たちは、生かされているのです。
そして、その「愛の大もと」こそ、神様なのです。「神の愛」なのです。そして、生かされている、活かされていることへの感謝が神に戻る道なのです。

私たちには、様々な苦しみがあります。そして、様々な死があります。
キリストがなぜ来られたか、それは、私たちが、その「苦しみ」「死」を克服できるようにです。そして、それらから解放されるためです。
人となり、我々と同じ苦しみを味わい、死を味わうためにキリストはお生まれになります。それは我々と「同伴」されるためです。イエス様は、私たちと常に共に歩んでくださっているのです。キリスト教の救いは、「苦しんでいる人と一緒に歩む」ことです。我々は「死」から逃れることは出来ません。しかし、共に歩まれ、ご復活され、それを克服されました。神は我々と同じ精神と肉になられました。それによって、肉と精神は、「聖なるもの」になりました。

神様から離れた者の生きるエネルギーは「欲」です。欲によって「所有」が生まれ、「優劣」が生まれ、「抗争」が生まれ、「分裂」が生まれ、「死」が生まれます。それに対し、我々キリスト者はモノを捧げ、共有し、活かされ、頂いたものを使って奉仕していきます。そうすれば、私も生き、他も生きることが出来ます。今の現実から解放され、このようなキリスト的価値観のなかで生きるためには、キリストを心に宿すものにならなければなりません。日常のなかでキリストを受けれいるものにならなければなりません。

どうでしょうか?
今、キリストを受けれいられますか?
今日、イエス様があなたのうちに泊まりに来るといわれて、すぐ承知できますか?部屋を掃除したい、食事の準備をしたいと思いませんか?
だから、今日、赦しの秘跡を与りましょう。イエス様がいらっしゃる前に道を整えましょう。

赦しの秘跡を与るためには、自分をさらけ出す必要があります。それは難しいかもしれません。自分の心をさらす事ほど苦しい事はないかもしれません。
だから、「頂いている」というふうに考えてみてください。「頂いている」ということを意識することで、自分がそれに対して何もしていないと思えるかもしれません。例えば、相性が悪くて、その人が嫌いと思っても、その人からも何かを頂いているかもしれない。その時に私たちには何をしているでしょうか。そのように自分の心を素直に見つめてみてください。

赦しの秘跡は心のバロメータです。それは、キリスト者としての成熟度を現すものでもあります。
赦しの秘跡を与れなくなるということは、愛することが出来なくなるということです。愛と赦しは、リンクしています。赦しを願う、赦すということは、愛が無ければ出来ません。
キリスト者として成熟すれば、そして、自己を肯定し、他者を肯定し、他者と他者の和を取り持つことが出来ます。

どうか、心の底から赦しを乞う力が与えられますように、また、自分をさらけ出し、赦しの秘跡の恵みを与ることが出来ますように、ご一緒に主の祈りを唱えましょう。

 

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講話の後、4人の神父様(フィリップ神父様・ティエン神父様、山浦神父様(亀有教会主任)、大山神父様)が赦しの秘跡を授けてくださいました。(赦しの秘跡については下記参照)

 

 

ゆるしの秘跡とは…

ゆるしの秘跡は、司祭のもとで、自分の犯した罪を告白し、罪のゆるしを願うことにより、神からの罪のゆるしが与えられるというしるしです。
この秘跡は、回心、悔い改め、和解、いやしの秘跡とも呼ばれています。
ゆるしの秘跡に必要な行為は、
- 痛悔(犯した罪を悔やむこと)
- 司祭への罪の告白
- 償いをはたす決意、およびその実行
です。

ゆるしの秘跡には、個別のゆるしの式と共同回心式があります。
前者は、ゆるしの秘跡を求める個人と神との出会いを重視します。それにくらべて、共同回心式は、ゆるしの秘跡の教会的な面をあらわしています。この式は、共同体の祈りの中で行われます。

共同回心式は、個人の罪だけでなく、教会共同体の連帯性について考え、共同体の上に神のゆるしを求めるので す。また、ゆるしを神に求めるだけでなく、兄弟姉妹にもゆるしを求めることを意識させてくれるもので、通常、主の降誕祭や主の復活という大きな祭日に向け ての準備として、待降節や四旬節の間に行われます。

引用元:女子パウロ会 Laudate | キリスト教マメ知識 「ゆるしの秘跡」

 

 

赦しの秘蹟は個別にも受けられますので、待降節の間に授かられてはどうでしょうか…