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毎年、春とともにやって来るこのとき、自然界が冬の眠りから覚めて生き返るこのとき、世界中のキリスト信者は最大のお祭り、私たちの主イエス・キリストのご復活をともに祝います。復活祭の意味はことばではとても言い尽くせません。福音の心でもって父である神がイエス・キリストを通して私たちに話してくださる「良い知らせ」なのです。

聖パウロは、「復活の無いイエスの教えは意味を持たない、イエスによつて作られた教会は礎(いしずえ)がないからつぶれてしまう、そして、キリスト教信者は世界で最も愚かな人々となる」と言っています。私たちと同じ人間としてお生まれになったイエス・キリストは苦しみを受け人間の罪のために死んでくださいました。そして死者の中から復活して再び私たちとともに歩いてくださっていることを父である神に感謝しましょう。。

復活を信じることはキリスト教信仰のまさに土台であり、「教会」の礎(いしずえ)です。洗礼によってキリスト信者になったその瞬間から死を迎えるその日まで、私たちはキリストの苦しみ、死と復活という神秘の中に浸されているのです。またその神秘によって支えられているのです。この復活節の間、私たちは日々の生活の中に主の復活が生かされるよう求められています。この世のお金や富を信じるよりもむしろ神の摂理を信頼して生きるように、また、教会の福音宣教のために働くことができるよう求められています。その時はイエス・キリストにお願いしましょう。神様が私たちにくださった仕事を続けて行かれるように聖霊をいつも注いでくださいますように、そして、私たち人間を最終目的地である天の国に連れて行ってくださいますように!

アーメン。アレルヤ!!

Happy Easter to all, again!

 

At this time of the year with the Spring season around, the world of nature has returned to life after its winter sleep, Christians throughout the world join together to celebrate the greatest feast, the feast of the resurrection of our Lord Jesus Christ. The meaning of the feast of the resurrection goes beyond words and is at the heart of the gospel, the Good News which God the Father has communicated to us through Jesus Christ.

St.Paul tells us that without the resurrection, the teachings of Jesus would have no meaning and the Church established by Jesus would have collapsed because it has no foundation, and Christians would be the most foolish people in the world. But thanks be to God the Father, this Jesus born as a man like ourselves, who suffered and died for the sins of humanity, He had him risen from the dead and walks among us again.

Belief in the resurrection is the very foundation of our Christian faith and foundation of the Church. From the very moment we became a Christian through baptism until the day of our death, we are immersed and joined in the mystery of Christ’s suffering, death and resurrection, and we are supported by it.  In this Easter Season, we are challenge to live out the effect of this resurrection in our everyday life. We are also challenged to trust the providence of God rather than trusting our money, weath and influence in society. We are challenged also to engaged ourselves in the evangelization work of the Church. Let us then ask Jesus,to continue pouring out  into our hearts his Spirit that we might be able to continue the work he has began in us, so as to bring humanity to its final destination which heaven. 

Amen.   Alleluia!! 

Happy Easter to all again!

 

Fr. Philip  llio  Bonifacio, SSC     PARISH PRIEST

松戸教会主任司祭 フィリップ・ボニファチオ 神父




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この四旬節に私たちは信仰の旅の中で今どこにいるのでしょうか。復活祭に向けて私たちは何を準備したでしょうか。復活祭まであと半分ぐらいのところです。復活祭はおそらく私たちが一番待ち望んでいるときでしょう。復活祭の勝利には何が必要でしょうか。私たちの生活の中で何が復活してほしいですか。
なぜなら、復活祭は単なる彩られた卵たちや、太っちょのチョコレート、大御馳走の日ではありません。四旬節は毎金曜日の肉なしピザのような決められた犠牲の40日間だけではありません、もつともつとそれ以上のものなのです。

 

復活することの喜びと威力を経験するために私たちは嘆き悲しみ悔い改める経験を通して旅をしなければなりません。私たちは死という無力さを経験しなければなりません、すなわち、自己中心性の消滅、俗世間的な自分の消滅、キリスト的でない行動の消滅。
この四旬節に神様は私たちを招いておられます。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。」 断食は、罪を退け、聖なる中で成長できるように自分を律してよりよい生活にあらためるときだけ価値があります。イエス様は私たちが断食して内面的に変わることを私たちに求めておられます。
今年の四旬節も半ばとなりましたが、私たちの信仰の旅はいかがですか。毎日の練習で聖性が大きく成長しましたか。変えねばならない自己中心的な態度や習慣を選んでしまいましたか。断食と祈り、慈愛をしっかり身につけた決意を通して、私たちはそのよくない行動に打ち勝つことができるのです。こんなにもがいていることを神様に話しましたか。神様は手招きしているでしょう、「今こそ、わたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。」

預言者ヨエルと詩編51は、罪深さに気づいて変わらなければと悔い改める人々には神様は慈悲深いことを私たちに想い起こさせてくれます。変わらなければと思うことに良心の呵責を感じる人がいますか。神様の慈悲深さにずつと焦点を置いておきましょう、それを通して私たちは救われて、癒やされて、そして最後は復活させられたと感じることができるでしょう。

 

私たちの四旬節の課題であるようにただ一つの罪への傾きを認識して働きかけることにより、その罪をイエスに渡し、四旬節の終わりまでにイエスの十字架に釘で打ち付けると、イエスがそれを神にささげて叫ぶ声が聞こえるでしょう、「彼らをお許しください…!」。
その罪はイエスとともに死に、そして私たちは新しいいのちに生まれ、新しい聖性の段階にあげられ、キリストとの新たなつながりができるでしょう。
この前の「灰の水曜日」に私たちは額に悔い改めの印をいただきました。ゆるしなさい、変わりなさいと意識して、この四旬節の間、私たちは復活祭に向けて準備をして神様の助けを願います。

 

キリスト共同体としての信仰の旅に参加して、私たちはいろいろなタレントと人々というたまものをいただいています。この4月に6人の人たちが私たちの「聖体奉仕者」になります。ミサの中で奉仕して、ご病人の訪間の時ご聖体を渡してくださいます。
また、4月12日には大阪教区から助祭が派遣され、来年まで10ヶ月間、小教区の活動を手伝ってくださいます。我らが聖体奉仕者と助祭さんたちを祈りと協力でしっかり支えていきましょう。共に歩む旅が私たちのキリスト共同体に豊かな信仰をもたらし、主のぶどう畑で働く使命を果たすキリスト者に成長できますように。

 

松戸教会主任 フィリップ・ボニファチオ神父




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皆さん、新年おめでとうございます。
2014年が皆さまにとって神の祝福と喜びに満ちた実り多い意義ある一年となりますように心からお祈りいたします。私の生まれ育ったふるさとフィリピンや日本、そして全世界に大きな災害がもたらされないことを願っています。新しい年を始めるにあたり、自分や家族、友達、私が司牧するフィリピン人共同体と松戸教会の全信徒たちを守り助けてくださるよう、神の母であり、また私たちの母でもある聖母マリアの手にゆだねます。

私たちの心を開いて毎日の生活にイエス様をお迎えすれば、きっとこの一年がより良い、より明るい未来をもたらしてくれるでしょう。そして、私たちにとって大切な新年の抱負を立てるとすると、それはマリア様を模範とすることでしょう。いろいろなことがマリア様の一生に起こっていましたが、マリア様はすべての出来事を理解したわけではありませんでした。だから、マリア様はすべてのことを心の中にしまって思いをよせていたのです。

私たちはいつも気ぜわしく急いでいるように見えます。自分のタイムスケジュールをしっかり守ろうとしているのかも知れません。でも、いつも神様のことを忘れないでください。
祈ることをやめないでください。神様を私たちが毎日していることや場所に招いてください。
そうしないと私たちはどこかに連れ去られて迷子になり、ひとりぼっちになってしまうでしょう。マリア様のように、私たちの毎日の生活に起こったことをゆっくりと時間をかけて宝物にしましょう。そしてその宝物に思いをよせましょう。なぜなら、その宝物は三度とやって来ないからです。神様がともにいてくださることは生きることの本質を意味します。
皆さんのうえにもう一度、ハッピーニューイヤー Happy New Year!

 

主任司祭 フィリップ・ボニファチオ神父




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皆さん、クリスマスおめでとう!!

毎年私たちはクリスマスを祝いますが、クリスマスは毎年違います。

それは私たちがいつも違う祝福とお恵みを幼子になった神様からいただくからです。今年も喜びと新しい気持ちでクリスマスにイエス・キリストの誕生を祝います。
それは、私たちとともにおられる神様を賛美するからです。イエス様は私たちと同じ人間になりました、私たちが「定められた神の民」になるために。

そうです、私たちは定められた神の民なのです。私たちは使命を持ってこの世に生まれ、その使命がこの世で成し遂げられたとき、造り主の元に帰って行くことを意味しています。これが私たちの定めなのです。すべての人にとって真実であると私たちは信じています。

キリストを信じることは、私たちが生きていることに根ざしたすばらしい贈り物です。
私たちは幸いに、人間の道を歩むイエス・キリストを通して神様とつながっているのだと理解てきます。福音書が語っていることは、イエス様が神と共に生きることについて語つたこと、私たちに約束されたいろいろなこと、人々に与えられた新しい生き方、これらのことが私たちに幸せをもたらしてくれるだろうということです。それは神様が私たちのすぐそばにおられることを意味します。特に私たちが洗礼を受けるとき、洗礼の秘跡を通して神様の子どもになります。ミサを祝うことで私たちは神様により近づき、イエス・キリストの復活という驚くべき不思議なできごとによってそれを可能にしてくれます。
4週間が過ぎ、私たちはクリスマスを迎える準備をして過ごしました。そしてついに、お祝いするその日がやってきました。父なる神様は私たちの祈りに応えて御子を送ってくださり、私たちと同じ人間の世界にくだってこられ、私たちにもわかる言葉で知恵の教えを語り、私たちに愛することを教えられました。
クリスマスは人間への神様の愛というすばらしいお恵みを祝うお祭りです。
神様が、頼ることもできない、自分を守ることもできない無防備な人間の赤ちゃんにお生まれになったという御言葉があります。全宇宙も包むことができない、完全に人となられた神様は、限られたところに存在する、弱々しいこわれそうな子どもになります。命そのものである神様は死ぬべき運命の人間としてお生まれになりました。すべてこれらは、私たちへの神様の愛と私たちを救いたいという神様の思いが中心にあります。すべての祝日の中でもこの祝日に、皆で喜び合いましょう、また困難な状況の中で助けの手を必要としている兄弟姉妹たちとも神様の優しさを分かち合いましょう。

幼子イエス様が私たちの心にクリスマスの願いをかなえさせてくださいますように。
クリスマスの祝福が皆様のうえにありますように、そして私たちがいただいた神様の贈り物に心から感謝します。
すべての人にメリー・クリスマス!!

 

 

主任司祭 フィリップ・ボニファチオ 神父




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それは1983年のことでした。コロンバン会の召命指導者だったナイアル・オブライエン神父がわたしのいたラサール・バコロド高校を訪ねて来られました。当時、オブライエン神父は自宅軟禁中であり、召命の仕事でいろいろな学校に行くためには、フィデル・ラモス将軍か地元の警察署長の許可が必要でした。オブライエン神父がわたしたち高3クラスで話をされたとき、2人の警察官が一緒にいる理由がわかりました。オブライエン神父は「家を出なさい」というキリストの呼びかけについてわたしたちに話をしてくださいました。「わたしの弟子になって人々に教えに行きなさい。」その言葉に心引かれて、何人かの生徒たちが、コロンバン会の神父様たちとともに宣教師になる道を探し求めるサーチインセミナーに参加しようと決心したのですが、わたしもその中のひとりでした。

わたしは高校時代、長距離ランナーで、オブライエン神父のチームがわたしたちのところに訪ねて来られたとき、わたしの体は痩せて細かったのですが、そのときすでに、初めての宗教生活に入ってみようとわたしの心は決まっていました。オブライエン神父が指導司祭として居住していたバコロド地方刑務所で、わたしは心理テストと他の適性テストを受けました。ネグロス・オクシデンタル地方から13人がセブ市で行われた最初のコロンバン会設立プログラムに参加を許されたのは1984年の5月でした。わたしたちの送別会と送り出す記念ミサは聖霊降臨の祭日にバコロド地方刑務所の中で行われました。出席したのは囚人たちとネグロス・ナインと呼ばれる人たち、名前を挙げると、ナイアル・オブライエン(コロンバン会司祭)、ブライアン・ゴア(コロンバン会司祭)、ヴィンセント・ダンガン(教区司祭)、そして6人の在俗リーダーたち。皆、ネグロス。オクシデンタル出身のカバンカラン市長、パブロ・ソーラ氏殺害で告発されていました。それはバコロド教区フォルティチ司教とキリスト教徒共同体に対する前大統領フェルディナンド・マルコスとの闘争でした。キリスト教徒はネグロス。オクシデンタル地方の砂糖工場労働者の労働条件の改善を求めて闘っていました。

それから5年が経ち、わたしはセブのコロンバン会設立に関わり、サンカルロス大学で勉強しました。その後、マニラに行き、司祭見習いの霊的修練1年と、2年間の神学の勉強をしました。それから2年間の海外研修プログラム(OTP)で日本の和歌山県に派遣されました。1992年から1994年のことでした。この海外研修プログラムは、わたしのような若者が、新しい土地で、言葉や文化や人々とうまくやっていけるかどうか、また宣教司祭になれるかどうかの答えを見いだすための道であり、テストでありました。日本でのすばらしい2年間を終え、将来また日本に戻りたいと思いました。わたしは神学を修了するためにマニラに戻り、1995年6月24日にマニラ教区の補佐司教テオドロ・バカニ司教から助祭叙階を受けました。バカニ司教はその時病院から退院したばかりで、その日の午後、マラト・カトリック教会で助祭叙階式が行われましたが、司教は暑さで倒れそうになりました。バカニ司教が回復して助祭叙階式とミサを終えられるようにと皆で祈りました。本当に彼は元気を取り戻しました。そのあとの6ヶ月間、わたしはマラト教会で助祭として奉仕し、同時に平日は召命促進をはかるためにいろいろな学校を訪問しました。その後、1995年12月18日がやって来て、バコロド市のリデンプトリスト教会でカミロ・グレゴリオ司教から司祭叙階を受けることになりました。前バコロド教区司教のアントニオ・フォルティチ司教をはじめ、バコロドとカバンカラン教区の司祭たちと大勢の人々が出席してくださいました

振り返ってみると、ほんとうに長距離ランナーだったことがわたしを助け、長い道のりを走りきる力を与えてくれたと思います。もちろん、神様のお恵みがあったからこそ、また、家族や友人、知人、コロンバン会の家族、新しいカテキスタの仲間たち、地元教会の信徒の皆さん、海外研修プログラムで出会った日本のカトリック信者の皆さんの祈りと支え、励まし、鼓舞、助け、そして愛があったからこそ、わたしは宣教する司祭になることができたのだと思います。

しかし、第一にわたしに宣教司祭になろうと強く考えさせたのは、長年フィリピンの人々のために命を捧げてきたオブライエン神父様とコロンバン会の神父様たちの姿でした。神父様たちの刑務所での存在に私は疑問を抱き、教会の秘跡の適合性について、刑務所という場所での司祭の役割について尋ねました。わたしは神様の呼びかけに応えたいと思い、聖コロンバン宣教会に参加することで神父様たちの善行と犠牲に感謝の気持ちをお返ししたいと思いました。踏みつけられている人々に神の国を高らかに宣言したいと思いました。わたしが聖コロンバン宣教会に参加することで神様の呼びかけに応え、船出してから今年の6月で29年が経ちました。そして、このあとの29年でわたしは召命の旗を広げ、これからの世代の人たちに召命物語を読んでいってもらいたいと望んでいます。

主任司祭 フィリップ・イリオ・ボニファチオ神父