|  |  |  |

011300e4321a2812477d4d54e132c221e09ea41375

 

私は日本に赴任して20年間ノンストップで働いたので、サバティカルをとるようにと強く押されたのは、聖コロンバン宣教会の総長と日本管区長レオ・シューマカ神父でした。
そこでこの『いつくしみの特別聖年』の間に、6月20日から11月30日までサバティカルをとることを決心しました。このサバティカルから何か良い結果が得られることを望みます。

もしあなたが主任司祭であり、同時に近隣のフィリピン共同体3カ所を司牧する立場にあるなら、この決断をするのはやさしいことではないでしょう。

私はサバティカルに向かって出かけます。皆さんはこのサバティカルという言葉の意味は何だろうと思われるかもしれません。一例を挙げてみましょう。自分の仕事がきらいだから、さっさと辞めて、世界旅行をするために休みをとりたいと思っている人たちを見つけるのは確かに簡単でしょう。しかしながら、あなたが実は仕事がとても好きだったらどうしますか? でも、あなたは疲れ果ててどこにも行く気にならないし、毎日の仕事から離れられない、でも新しい見方と可能な限りの新しい知識技能でもって充電し直す必要があると感じてます。これがサバティカルですか?

よくあることですが、私たちの仕事の責任はただ増え続けていき、やがては、やりたいと思っていることも本当にしなくなります。その場から逃避したいと思うのは自然なことでしょう、たとえ、あなたが自分の教会を好きで、教会の信徒たちもあなたのことを好きだったとしても。いわゆる(VACATION)ではその問題は解決しないでしょう、本当の意味の(BREAK)が必要なのです。

サバティカルという言葉は、実は聖書にある言葉、『安息日(SABBATH)』から来ています。それは昔の人が生涯を生きるために休みと若返りの期間を設ける必要があったのです。伝統的に、宗教団体の人たちや教区聖職者とか教職についている人の中でサバティカルが見られますが、司祭たち、シスターたち、先生たちのためだけでは、もはやありません。だれでもサバティカルをとって旅に出ることができます。サバティカルは、変わり目を追い求めるために仕事から少し長く離れることです。私の教会信徒たちが公式のサバティカル・プログラムを持たなかったとしても、そのとき私はサバティカルをリクエストできます。あるいは、宣教国で何年も働いた後に私の上司たちが私にサバティカルをとるようにと、直接指示することができます。人々は伝統的に目的到達、技能熟達、真理探究のためにサバティカルをとります。これらのことをするために自分の家にいる必要はありません。たやすく世界を旅して、決めたゴールに到達することができます。大事なのは、遠くに離れて、古いものを新しくし、新たに元気を取り戻すことです。サバティカルは宗教上の誓い、教育、修練など、精神的に新しくすることが目的だと言えます。自分の限界への挑戦、あるいは自分の創造性に触れることが目的ともいえます。
時には職業と関係があるときもあれば、あまり直接的な方法ではないが、ただ知識技能の成長を助けるだけの場合もあります。

サバティカルは松戸教会の主任司祭と信徒の両方に利益をもたらすことができます。
遠くに離れることは精神を一新するのに欠かせません。創造力あふれる新しい考え方は技術技能を生み出すのに役立ちます。心を新たにし、頭の中のもやもやした古いゴミや日常を掃き出すのに遠く離れることは必要不可欠なのです。サバティカルから戻った時には、心も新たに、元気を取り戻し、信徒たちと共に新しい旅に出発することができます。サバティカルをとることはまた、松戸教会の信徒にとって、主任司祭不在の教会運営における最大の試練でもあります。私の不在の間、司牧評議会が教会運営に支障が出ないように、また集会奉仕も諸サービスも行われるように取りはからってくれます。

以上の説明で、松戸教会の信徒の皆さんが、主任司祭がサバティカルに行く理由を理解してくださることを望みます。

良い実りがこのサバティカルから生まれますようにと希望し、祈ります。
神さまを信じて。

 

 


 

 

Hoping For A Fruitful Sabbatical

 

After putting pressure on me to take a sabbatical from my Columban Society Superior General and from my Regional Superior Leo Schumacher after 20 years of working non – stop here in Japan, I have decided to take my sabbatical on the Jubilee Year of Mercy, starting from June 20 to November 30, 2016. Hoping something good will come out of this Sabbatical.

It is not easy to decide if you are the Parish Priest and at the same time Pastoring to 3 Filipino Communities in the neighboring areas.

I am going for my Sabbatical. People may be wondering what is this word Sabbatical means? Let me illustrate here. Sure, it is easy to find people who dislike their work and want to quit and take a break to travel around the world.

However, what if you actually like your work, but you are exhausted, feeling like you are going nowhere, stuck in a routine, and need to re-energize with a new view and possible new skillsets, is this sabbatical? Often times our work responsibilities just keep growing and growing and soon we are not really doing the things we want to be doing any longer. It is natural to want to get
away – even if you do like your Church and your Parishioners likes you.
A vacation will not solve the problem, you need a real break.

The term sabbatical actually is derived from the biblical Sabbath which serves an ancient human need to build periods of rest and rejuvenation into a lifetime. Traditionally you will find sabbaticals in the Religious Congregations or Diocesan Clergy or academic careers, but they are not just for priests, Sisters and teachers anymore. Anyone can take a sabbatical and travel. A sabbatical is simply getting an extended leave from work to pursue a break. Granted, my Congregation does not have a formal sabbatical program, then I can request for a sabbatical. Or my Superiors can direct me to take a Sabbatical after serving for a long time in a Mission Country for years.
People traditionally take a sabbaticals to fulfill a goal, build a skill, or do research. A person need not stay near his/her home to do these things.
He/She can easily travel the world and accomplish the set goals; the key is to get away, renew, refresh. Sabbatical can be about spiritual renewal of religious vows, education or training or just to refresh. It can be about pushing your limits or getting in touch with your creative side. Sometimes it has to do with careers, or just simply to help for the growth in ones skill sets in less direct ways.

Sabbatical can be beneficial to both, the Parish Priest and the Parishioners of Catholic Matsudo Church. Getting away is essential for spiritual renewal, creative and new thinking, can help build skills, is essential for spiritual renewal or simply dust off cobwebs and routines in one’s brain. Coming back from a sabbatical one is refreshed, energized, renewed and can start a new journey with the Parishioners. Taking a sabbatical is also the ultimate test to the Parishioners of Catholic Matsudo church on running the Church without the Parish Priest present. In my absence, the Parish Pastoral Council of the Church will see to it that operation in the church is not hampered and services are rendered to the people.

Hoping after the explanation above our Parishioners of Matsudo will understand why their Parish Priest has to go for a sabbatical.
Hoping and praying that something good will come out of this Sabbatical.

In God I trust.

 

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC




 |  |  |  |

063

 

さあ、行動を開始しましょう。
昨年(2015年)12月8日に「いつくしみの特別聖年」が始まり、2016年11月20日「王であるキリスト」の祭日に閉年します。
私たちは教会生活の中でこの特別な行事を十分に祝うのにはどうしたらよいか、知るべきことの手引き書を与えられています。
教皇フランシスコは昨年、典礼年を「いつくしみ」をテーマに焦点を置く一年とするよう公言されました。でも、この『いつくしみの年』は何か特別な感じです、そうです、この年を『聖年』とすると宣言されたのです! 聖年の基本概念は旧約聖書のモーゼが50年ごとに喜びの年を宣言したときに戻ります。つまり、全イスラエルの民にまもられていた聖なる一年で、負債の免除や奴隷の解放、土地の休息まで含まれます。カトリック教会として25年ごとに来るのは「ふつうの」聖年ですが、なにか目立ったことを記念するために通常のとき以外に公言されると、「特別聖年」となります。

聖年の年は教会全体のために特別なお祝いが伴います。最も特筆すべきことは「聖なる扉」を開くことです。聖なる扉、いつくしみの扉を通り抜ける巡礼者は神から慰めを受け、罪から清めてくださる特別免償が与えられます。いつくしみの思い、いつくしみに満ちた愛をもつて見つめ、そして選ばれた、これが教皇フランシスコのモットーです。
教会がいつくしみに重きを置くのは預言者的です。救いの歴史の部分として現在、私たちはいつくしみと恵みの時代に生きています。いつくしみと恵みは誰もが直面する「最後の審判の日」の前にやってきます。一人ひとりの魂は死の時に恵みといつくしみを経験します。そしてイエスが世の終わりに地上に戻られるときには皆まとまうて。「審判の日より前に私はいつくしみの日を送る」と、主は聖ファウスティナ・コヴァルスカに仰せになりました。彼女の日記に記されているように、「正しい審判者として来る前に、まず、いつくしみの王として来る。」

神のいつくしみは限りなく、生きているものへの愛は熱く燃えています。必要なときに助け、苦難を乗り越えるのを助けてくださる。イエス様を私たちの罪のために十字架上の死へと送ったことは神のいつくしみの究極の最高の行為でした。この聖年に参加することは神のいつくしみの恵みにあずかる人になることです。教皇フランシスコは宣言します。

私の心からの願いは、この聖年の間、キリスト者が身体的な慈善のわざと精神的な慈善のわざについてじつくりと考えてくださることです。

 

それでは、特別聖年の免償を得られるように次のことにチャレンジしましょう。

  1. 指定された教会を巡礼し、聖なる扉、いつくしみの扉を通り抜けましょう。
    巡礼は回心の道具となります。聖なる扉の敷居をまたぐことにより、力強く神のいつくしみに包まれ、父が私たちと共にいてくださるので、他の人にもいつくしみをもつて自分をささげることができるのです。
  2. ゆるしの秘跡を受けること
  3. ミサでキリストの聖体を受けること
  4. いつくしみをテーマに黙想すること
  5. 信仰宣言を唱えること
  6. 病者訪問
    病んでいる人、高齢の人、そして病気で外出できない人のために:
    「あなたの病気と苦しみを受け入れ、受難の神秘にある主にささげます、死と復活が痛みと苦しみを意義あるものとしてくださるように。」
  7. 死者のために祈ること:
    「この世を去った人たちのために免償を。私たちはミサの中で死者を追悼し、祈ります。父のいつくしみ深いみ顔がすべての罪から解き放ち、力強く彼らを包み込んでくださるように。」
  8. 聖なる父が、この特別ないつくしみの年に特別なやり方で私たちに望んでおられるように、昔から行われているいつくしみのわざを身体的にも精神的にも実行すること
  1. 身体的な慈善のわざ:
    • 飢えている人に食べさせること
    • 渇いている人に飲み物を与えること
    • 着るものを持たない人に衣服を与えること
    • 宿のない人に宿を提供すること
    • 病者を訪問すること
    • 受刑者を訪問すること
    • 死者のために祈ること
  2. 精神的な慈善のわざ:
    • 無知な人を教えること
    • 疑いを抱いている人に助言すること
    • 罪人を戒めること
    • 煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと
    • もろもろの侮辱をゆるすこと
    • 悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること
    • 生者と死者のために神に祈ること

 

さあ、今からスタートしましょう。
もし、まだ「祈りと計画」していることを何もしていないなら、どのようにして特別聖年の残りの数ヶ月をお祝いしますか。神のいつくしみという宝物からあなたに与えられる途方もないたくさんの恵みを利用せずに、このときを過ぎ去らせることのないようにしましょう。あなたのいつくしみを最も必要としている人たちのことを思うことで始めましょう。さあ、行動開始です!

 

 


 

Where Are We Now In Our Celebration Of the Jubilee Year Of Mercy?

 

Let us start acting now
The Year of Mercy began last December 8, 2015, and will end on the Feast of Christ the King on November 20, 2016, and we were given primers on everything we should know on how to fully celebrate this special event in the life of the Church. Pope Francis announced last year’s liturgical year to focus on the theme of Mercy. But the Year of Mercy is something exceptional; this One he
declared to be a Jubilee!
The jubilee concept goes back to the Old Testament when Moses declared every 50th year a jubilee, that is, a holy year to be observed by all of Israel which included the remission of debts, the liberation of slaves, and a rest from the cultivation of the land.
For the Catholic Church, a Jubilee is “ordinary” if it falls every 25 years, and ″extraordinary” when it is proclaimed outside the usual time to commemorate some outstanding event.

A Jubilee Year is accompanied by special celebrations for the entire Church. The most notable of these includes the opening of the Holy Doors. Pilgrims who walk through the Holy Doors or Doors of Mercy, are granted special indulgences, consolation from God, and purification from their sins. The theme of Mercy, ‘by showing compassion and by choosing,’  is the motto of Pope Francis. The
Church’s emphasis on mercy is prophetic. As part of the salvation history we are currently living in the age of mercy and of grace. Mercy and grace comes before the Day of Judgment where all will face God’s justice. Each soul will experience grace and mercy at the time of death, and collectively When Jesus returns to Earth at the end of time.  “Before the Day of Justice I am sending the Day of Mercy”, Our Lord said to St. Faustina Kowalska as she recorded in her Diary, “Before I come as the just Judge, I am coming first as the King of Mercy.”

The mercy of God is infinite and is a burning love for his creatures. It helps us in our needs and helps us overcome our miseries. Sending Jesus to die on the cross for our sins is the most supreme act of God’s mercy. Participating in this Jubilee Year we can be vessels of God?fs mercy. Pope Francis declares, “It is my burning desire that, during this Jubilee, the Christian people may reflect and act on the corporal and spiritual works of mercy.”
We are challenged then to do the following to obtain Jubilee indulgences:

  1. pilgrimages to designated churches and pass through the Holy Doors or Doors of Mercy.
    Pilgrimage is an instrument to conversion. By crossing the threshold of the Holy Door, we will find the strength to embrace God?fs mercy and dedicate ourselves to being merciful to others as the Father has been with us.
  2. Receive the Sacrament of Reconciliation
  3. Receive the Body of Christ in the Mass
  4. Do reflection on the theme of Mercy
  5. Do the profession of faith (Shinko Sengen)
  6. Visiting the Sick
    E.1.   To those who are sick, elderly, and home-bound:
    “Accept and offer your sickness and suffering to the Lord who in the mystery of his Passion, death and Resurrection gives meaning to pain and suffering.”
  7. Praying for the dead:
    “Indulgence for the deceased. We remember the dead in our Masses and pray for them, that the merciful Face of the Father will free them of every remnant faults and strongly embrace them.”
  8. To do or practice the traditional corporal (for the body) and spiritual (for the soul) works of Mercy that our Holy Father wants us practice in an extraordinary way during this Extraordinary Year of Mercy.

 

  1. Corporal works of mercy:
    Feed the hungry;

    Give drink to the thirsty;
    Clothe the naked;
    Shelter for the homeless
    Visiting the sick;
    Visiting the prisoner
    Praying for the dead.
  2. The spiritual works of mercy:
    Instruct the ignorant;
    Counsel the doubtful;
    Admonish sinners,;
    Bear wrongs patiently;
    Forgive offenses willingly;
    Comfort the afflicted;
    Pray for the living and the dead.

 

LET US NOW GET STARTED
If we have not done anything yet “Pray and Plan”, how you will celebrate this remaining months of the Extraordinary Jubilee Year. Don’t let this pass by without taking advantage of the tremendous graces that are being offered to you from the treasures of the Mercy of God! Begin by thinking of those people who need your mercy the most and start acting now.

 

主任司祭 Parish Priest

フィリップ ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC




 |  |  |  |

D30_7846

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、声を大にして3回言いましょう。
HAPPY EASTER!復活祭おめでとう!」
それから喜びと崇敬、驚きの気持ちをもってこう言いましょう。
「キリストは復活された!」

これが私たちの今ある姿です。キリスト者としてのいのちを生きる私たちの根源的な真実であり、私たちの信仰の中心をなすもので、小教区の中で互いの親しい交わりの中心となるものです。世界中でともに分かち合う福音のメッセージの核心にある友愛でもあります。墓にいた婦人たちを思い出してください、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアを。彼らは香油と香料を持って、当時の人々が葬るやり方に従って、イエスのご遺体を葬るために来ていたのでした。しかし、石が墓のわきに転がしてあり、主イエスのご遺体は見当たりませんでした。

途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言つた。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさつたのだ。』…°そして、婦人たちは墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた

ルカ福音24:4-6,9

 

彼らはいっときも待っていられなかったのです。友人たち ― 使徒と弟子たち、「ほかのすべての人たち」のところに走って行き、このことを知らせました。この奇跡を、周りの人たちとみんなで分かち合おうと思ったのです。さあ、世界中の人たちとともに喜び合いましょう。
『キリストは復活された!!!』

まさにこの日、私たち一あなたとわたし一がそこにいたのです。教会で互いに親交を分かち合い、私たち一人ひとりを愛してくださるイエスの無限の愛に根元からつながっているのです。そして私たちが世界に愛を届けるのです。ちょうど初代教会の時代にイエスの友たちがしていたように。

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。…毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた

使徒言行録2:42,46

 

最初の福音伝道の結果は親しい交わりに根付くようにつながりました。このことがあって、彼らと会う人たちは皆わくわくして大喜びしたのでした。

こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされたのである。

使徒言行録2:47

 

2016年の復活祭を祝うとき、私は皆さんに永遠の喜びと驚嘆、そして畏敬の念とともに、「キリストは復活された!」と堂々と宣言することを願います。
さあ、大きな声で3回言いましょう。
HAPPY EASTER!復活祭おめでとう!」

それから、喜びと驚きと畏れをもって、「キリストは復活された!」と言いましょう。
家族の皆さんと喜びを分け合いなさい、友達のみんなと驚きをともにしなさい、そして、すべての人と一緒に畏れ敬いなさい!
キリストを信じていることを神に感謝します。

『われらの神に不可能はひとつもない!』

 

 

 


 

 

 

My dear Sisters and Brothers in Christ,
Let us say it loud, three times “HAPPY EASTER!”
Then let us say,”Christ is Risen!”  with joy, wonder and awe!

This is who we are. This is the fundamental truth of our lives as Christians. This is the center of our Faith. This is the center of the friendship we have with each other in our parish.
This is the friendship that is at the heart of our message of evangelization that we share with the world: “Christ is Risen!”
Think of that first Easter morning. Think back to the women at the tomb ? Mary Magdalene, Joanna, Mary, the mother of James. They had come to care for his body, to anoint it with oil and spices, to follow the traditions of their people in burying the dead. But the stone was rolled away from the tomb, and his body was gone.
While they were puzzling over this, behold, two men in dazzling garments appeared to them. They were terrified and bowed their faces to the ground.They said to them, “Why do you seek the living one among the dead? He is not here.but he has been raised.’ … Then they returned from the tomb and announced all these things to the eleven and to all the others” (Luke 24:4-6, 9).
They could not wait another moment. They ran to tell their friends ? the apostles, the disciples,  “and to all the others.” The miracle had to be shared with all they knew, with all they loved. And from there, shared with the world: “Christ is Risen!”
That must be us ? you and I ? this very day. We share our friendship with each other in our parish, rooted in the infinite love of Jesus for each of us. Then we take that love to the world. Just as his friends did in the earliest days of the church.
They devoted themselves to the teaching of the apostles and to the communal life, to the breaking of the bread and to the prayers. …They ate their meals with exultation and sincerity of heart, praising God and enjoying favor with all the people” (Acts 2:42, 46)。
The result of that first evangelization was rooted in loving friendship. Their example thrilled all who encountered them.
And every day the Lord added to their number those who were being saved” (Acts 2:47).
As we celebrate Easter 2016, I wish you the eternal joy, wonder and awe that comes with the bold pronouncement, “Christ is Risen!”


Let us say it loud, three times ” HAPPY EASTER! ”
Then let us say, ” Christ is Risen! ” with joy, wonder and awe!
Share that joy with your family, that wonder with your friends and that awe with everyone!
Grateful for Our Christian Faith that  “Nothing is Impossible with Our God.”




 |  |  |  |

主任司祭より教皇フランシスコの言葉が贈られます。

 

親愛なる信徒の皆さん
常にいつくしみと祈りをもって司祭の近くにいなさい
司祭たちがいつも神様の心に従って牧する羊飼いであるように。
そして、神様が司祭に召し出そうとしている人たちのために祈りなさい。
彼らが謙遜と喜びをもって神様の呼びかけに応えることができますように。

親愛なる司祭の皆さん
父である神が油を注いでくださった聖なる霊をわたしたちの中で新たにしてくださるように。
わたしたちの心の中に新しい霊を送り、この塗油が皆にも広がるように、
特にいちばん探し求めて感謝する一般信徒の端にいる人たちにまで広がるように。
人々が自分たちを主の弟子であると感じとることができるように。
司祭たちのことばと行動を通して油注がれた者、救い主イエスがもたらした喜びの油を人々が受けることができますように。

 


 

From Parish Priest “Words of Pope Francis”

 

Dear lay faithful, be close to your priests with affection and with your prayers, that they may be always be shepherds according to God’s heart. And pray for those whom God is calling to be priests that they may respond to this call with humility and joy.

Dear priests, may God the Father renew in us the Spirit of holiness with whom we have been anointed. May he renew his spirit in our hearts so that this anointing may spread to everyone, especially to those “outskirts” where our lay faithful people most look for it and most appreciate it. May our people sense that we are the Lord’s disciples; and may they receive through our words and deeds the oil of gladness which Jesus, the Anointed One, came to bring us.




 |  |  |  |

主任司祭のデスクより

皆さん、新年おめでとうございます。私たちは再び「元日」と呼ばれるこの神秘的な瞬間に入っていきます。なぜ神秘的かというと、一年一年私たちは主のもとに集まり、私たちを待ち構えているのは何だろうか、また、この一年がどのように展開していくのだろうか『幸運か、それともまったく逆か?』とわくわくして考えるからです。中には自分の作ったリストー覧をもってきて、これから来る年に成し遂げたいことを主に告げたり、それを達成するのに神さまに力をくださいとお願いしたりする人もいるでしょう。残念にもうまくできなかった時は、多くの人がそうであるように、最初の一ヶ月もたたないうちに、せっかく心に決めた抱負をすべてあきらめている自分に知らないうちに気づくでしょう、新しい年に求めていたものにやっと追いついたのに。

今日、私は主にみことばを求めます。このとても大切な日、元日に、主の民に話しかけてくださるみことばを求めます。聖別されたみことばであり、主が民に伝えたいことだけを伝えるみことばです。古代の預言者に彼らが生きていた時代のしるしに従って、主はいつもみことばを伝えていました。神のみことばはいつも特定の状況場面に向けて話しかけています。では、2016年の人々には何を伝えたいのでしょうか?
私のビジョンには、何か偉大なものの可能性、成功の可能性、成就の可能性が見えます。
私たちが生きる世の中をしっかりつかみたいと神さまは強く願っておられるのがわかります。しかしまた、すべてが失われるようにも見えます。もしこの現在の瞬間を一人ひとりが、また全体の人がしっかりつかまなければ、主ご自身がそこにおられるのに、そのチャンスを失うてしまうでしょう。私のビジョンには、松戸教会と東京大司教区のあるべき姿を作っていく協力体制を主が熱心に探しておられるのが見えます。
私のビジョンには、教皇フランシスコが、使徒的勧告《Evangelii Gaudium》『福音の喜び』を通して教会全体に新しい福音化、神の国への熱意を呼びかけているのが聞こえます。私たちに違う種類の教会になって、神の民の飢えと渇きに気づくようにと拓いておられるのが私には聞こえます。神様はわたしたちみんなにいろいろ呼びかけています。

  1. 福音の喜びによって特色のある教会一一常に新しい喜び、誰かと共に分かち合うとき嬉しく心地よさを感じる喜び。
  2. 神さまは、みんなと分かち合う福音に導かれるよう宣言され呼びかけておられます。
  3. 福音の心からの使命をもって前進する教会となるように神様は呼びかけておられます。
  4. 開かれた心を持った母である教会、今の世界の挑戦に心して立ち向かえる教会になるよう神さまは呼びかけておられます。つまり…
    • 排斥的経済にはノーと言いましょう。
    • お金への盲信にはノーと言いましょう。
    • 仕えるよりもむしろ支配する財政の組織にはノーと言いましょう。
    • 暴力を引き起こす不平等にはノーと言いましょう。
  5. 自分たちが何をしようとも一つ確かなことは、全員を巻き込んでだれもが全世界の教会に呼びかけられている新しい福音化の一員だと言うことです。教会は心のタンクを満たすために来るガソリンスタンドではありません。それはむしろ生きる社会です。いろいろなタイプの人たちの社会です。人種、肌の色、信条、階級など、皆それぞれ違った問題をもっています。そして、個人としての役割と集団としての役割を実行して、天の国の永遠に向かって働くために共に生きています。
  6. 私のビジョンには、私たちが神さまの子どもであることを想い出させようとしている聖パウロの声が聞こえます。
  7. 私たちが子どもであることは神さまが息子である聖霊を私たちの心に送ってくださったことです。聖霊は「アッバ、父よ」と叫びます、こうして私たちは子どもになりました。
  8. もはや奴隷ではありません、もし神さまが私たちをお造りになったのなら、その時私たちを相続者になさったでしょう、 『あなたがたは永遠に受け継ぐ権利を持っていると言う意味である』
  9. 私のビジョンには、神の母、聖マリアが見えます。マリア様はご自分に起こったことに最も完璧に受け入れる気持ちを持っていたこと、すなわち、母となる召命を受け入れたのです。御摂理に導かれて羊飼いたちはマリア様の粗末な住まいにやってきたのです。
  10. 羊飼いたちはおさなごを見て、今まで語ってきたことを繰り返し話し羊飼いたちの話を聞いただれもが驚きました。マリア様はというと、大切に思い心の中にそっとしまっていたのでした。
  11. 愛する皆さん、私たちもまた、この新しい年に入るとき、険悪と思われる状況に合っても、聖母マリアのように心の中でじっくり考えて向かっていくようにと呼びかけられています。私たちがとらわれている世の中は性急すぎます。すぐに満足しないと気がすまないと思っています。他人にも自分にさえも忍耐して待つことが欠けています。
    偉大な神学者のカール・ラーナーは、幸いにも想い出しましたが、今日のキリスト者が世の中を生き抜くためには神秘主義者でなければならないとよく言っていました。神秘主義者とは人生で起こる様々なことをじっくりと思いめぐらす人、究極的に求めるのは、神さまの話すこと、なさることに計り知れない大きなものを感じて思いめぐらす人です。この気持ちをもって新しい年を踏み出しましょう。そうすれば、少なくとも私たちの時代に主が言われることをしっかり聴くことができるでしょう。この一年が「傾聴の年」でありますように、私たちの行動が、壊すのではなく、いつも創造することでありますように。私たち一人ひとりに、私たちの家族や共同体、教会に希望の火を燃え立たせてくださいますように。
  12. 今日のお祝いに選んだ最初の教えが「数の祝福」であるのには理由があります。神様の神聖なお導きのもとに2016年にビジョンをおくのにふさわしいからです。 そして愛する皆さん、私は祈ります。
    • 主があなたがたを祝福し、ささえてくださいますように!
    • 主があなたがたの上に御顔をかがやかせ、喜びほほえんでくださいますように!
    • 主があなたがたに御顔をあらわし、主の平和をもたらしてくださいますように!
      アーメン!

皆さん、新年おめでとうございます!
皆さんが実り多く、しあわせな新年2016年を過ごすことができますように!

 

 


 

 

My Vision of the Year 2016

From the desk of the Parish Priest:

 

Happy New Year to everyone. we come once again into this mysterious moment called New Year’s Day. l say mysterious because, year after year, we gather at the feet Of the Lord, wondering what is in store for us, wondering how the year will unfold:― with fortunes Or the contrary? Some of us come with our own lists, to tell the Lord what we would like to achieve in the coming year, and asking him to lend a hand in bringing them to fruition. The unfortunate truth is that, for many of us, even before the first month is over, we unwittingly find ourselves abandoning all the beautiful resolutions we have made, as we get caught up with the demands of the New Year.
Today, I ask the Lord for a word? a word which will speak to the hearts of his people, On this very important day, this New Year’s Day; an anointed word; a word which will say only what the Lord wants to say to his people. As with the prophets of old, the Lord always inspired a word in them, but in accordance with the signs of the times in which they lived. The word of God always speaks to a particular context. what, therefore, does the Lord want to say to his people in 2015?
In my vision Of the times, I see possibilities for things great, possibilities for success、 possibilities for accomplishments. I see the absolute desire of our God to take hold of the world in which we live.
But I also see that all can be lost; if there is no individual and collective embrace of the present moment; of the opportunities being presented us by the Lord himself. In my vision of the times, I hear the Lord earnestly seeking our cooperation in making MATSUDO Church and the Archdiocese of Tokyo what they ought to be.
In my vision of the times, I hear Pope Francis, through his recent Apostolic Exhortation: Evangё lii Gaudium, The Joy of the Gospel, beckoning the entire Church to a new evangelization, a new zeal for the Kingdom. I hear him beckoning us to be a different kind of Church; to posture ourselves to attend to the hungers and thirsts of God’s people. I hear him calling us all to be:

  1. A church that is characterised by the joy of the gospel ? a joy that is ever new and a joy that is delightful and comforting when it is shared;
  2. He call us to an evangelization which is addressed to all and shared by all;
  3. He calls us to be a church that goes forth with a mission that comes from the heart of the gospel;
  4. He calls us to be a Church which is a mother with an open heart; a church ready to face the challenges of today’ s world, saying:
    • No to an economy of exclusion;
    • No to the idolatry of money;
    • No to a financial s,Stem which rules rather than serves;
    • No to the inequality which spawns violence.
  5. One thing l am certain is that whatever we do, we include everyone. and to see everyone as part of the new evangelisation that is being called for by the Church universal. The Church is not a gas station where persons come to fill up their spiritual tanks. It is rather a living community; a community persons of all types: race, colour, creed and class; all with their varied concerns. And together we exist to carry Out our individual and collective roles, working towards our heavenly eternity.
  6. In my vision of the times, I hear St. Paul reminding us, that we are God’ s children.
  7. The proof that we are children is that God has sent the Spirit of his Son into our hearts: the Spirit that cries, `Abba, Father’ , and it is this that makes us children, we are not a slave anymore; and if God has made us, then he made us heir.’ It simply means you have a right to an eternal inheritance.
  8. Now let us work earnestly, not to allow ourselves to be enslaved in any form or fashion during this coming year, whether spiritually, socially, physically, politically or otherwise.
  9. In my vision of the times, I see our Lady, as Mother of God. adopting the most perfect disposition towards what had happened to her; that is. embracing her vocation of motherhood. The shepherds who were led by providence to her humble abode,
  10. When they saw the child they repeated what they had been told about him, and everyone who heard it was astonished at what the shepherds had to say. As for Mary, she treasured all these things and pondered them in her heart.
  11. We too, dear friends, as we enter this New Year, even in what can be regarded as a hostile climate, are being called to develop a pondering disposition, in the likeness of Our Lady. Ours is such a hasty world in which we all caught. We all want our needs to be satisfied instantly. We lack patience with others and even with ourselves. The great theologian, Karl Rahner, of happy memory, used to say that, in order for the Christian of today to survive this world he/she must be a mystic. A mystic is one who ponders on the things of life; one who seek ultimately to contemplate the immensity of God in all he Says and does. Let us enter this New Year seeking that disposition, so we can at least hear what the Lord is saying in our time.
    May this year be one of listening, so that our actions may always build and not destroy; that they may fan the flame of hope in each of us, individually, in our families, in our,community and in our church!
  12. It is not without reason that the first lesson chosen for today’s celebration is the Blessing of Numbers. lt is therefore fitting that l place the vision for 2015 under God’ s divine guidance.
    And so l pray, dear friends:

    • May the Lord bless you and keep you!
    • May the Lord let his face shine upon you and be gracious to you!
    • May the Lord uncover his face to you and bring you His peace!
      Amen!

 

Happy New Year to all!
May you all have a prosperous and a happy new Year 2016!

 

主任司祭 Parish Priest

フィリップ ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC