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皆さんひとり残らず全員に、新年おめでとうございます。新しい年が皆さんにとって実り多い、平和に満ちた一年となりますように。

イエス様の生涯はマリア様で始まります。したがって、新年を「神の母、聖マリア」のお祝いでスタートするのはふさわしいことです。マリア様は「神の母」となったので、ずっと喜びの母であり、世界中の喜びなのです。だから、伝統的に新年の初日のあいさつは喜んで、「新年おめでとう!」です。

「新年おめでとう!」
このことばを年の初めに皆さんは何回聞くでしょうか。
そして、あなたは何回同じあいさつをするでしょうか。ただ習慣的にあいさっしたのですか、それとも本当に心から願つたあいさつでしたか。言い換えると、新しい年に幸福を見つけるのは本当に可能なことでしょうか。もちろん、この世に生きていつの年でも完全な幸福を期待するのはまちがいかもしれません。完全な幸福を求めて、私たちみんなが持ちている生来の、貪欲な衝動だけしか、次に来る人生を満足させられないのです。
聖アウグスチヌスが言っているように、「主よ、あなたはご自分のために私たちをお造りになりました。あなたの中に休息を見つけるまで、私たちの心が休まることはありません。」
しかし、だれもがこの世の生涯で持つことができる平和、深くどこまでも続く平和があります。快楽を幸福だと思ってしまうのもまた誤った考えです。快楽と幸福は一つにはならないし同じものではありません。実際、快楽はとても重大な不幸のもとにもなり得ます。アルコールやドラッグを楽しむことによって、どれだけたくさんの不幸が引き起こされているでしょうか。おそらく多くの人々にとって姦通ほど不幸の原因はほかにないでしょう。また、多くの物を所有していることが幸福と思うのもまちがいでしょう。物が人々を幸せにできるのならば、私たちは世界で一番幸福な者と言えるでしょう。私たちは昔のどの時代の人たちよりもたくさんの物を持っています。
不幸にも、私たちは物を所有することで始まり、物に所有されることで終わるのです。
多くの不幸を引き起こすのは、私たちの欲望、持っていない物への強いあこがれです。私たちのするべきことは、人を愛して、物を使うことです。物があふれている社会を見回してみると、物を愛して、愛する物を手に入れるために人を使います。幸福を探せば見つけられると考えるのも間違っています。
世界人権宣言は人類ひとりひとりに「生命、自由、幸福の追求」を保証しています。 しかし、幸福は何から副産物として生じたのですか。副作用みたいに付随的に生じる幸福があるのは何ですか。
答えはベツレヘムで見つかるでしょう。それが何かを見るためにベツレヘムに行ってみましょう。洞窟の中を見てください。布にくるまれて飼い葉桶に寝かされている美しいおさなごから目を移してまわりを見てみましょう。そこには私たちが探し求める幸福は何一つありません。お金もなく、名声もない、権力もなく、生活の便もなく、娯楽もない、ただ町はずれにある空っぽの寒々とした洞窟だけしかありません。

さて、飼い葉桶のイエス様の前でひざまずいているマリア様とヨゼフ様を見ましょう。
ふたりは疲れているはずです。彼らは75マイル(120キロ)かそのぐらいの道のりをナザレからベツレヘムまで、ロバの背中で揺られながら歩いて来たのです。おなかもすいていたでしょう。3日ぐらい前にナザレを出発してから食事らしい食事はしていません。
ふたりは真冬のじめじめした洞窟の中でどんなに寒かつたことでしょう。自分の生まれた故郷の親類たちの間でも、村の宿屋にも泊まる場所がみつからなかったのは、とても屈辱的なことだったに違いありません。こんなことばかりあってもなお、マリア様とヨゼフ様はこの地上を歩むいちばん幸福な人たちなのです。
この地ベツレヘムでふたりから私たちは驚くべき逆説を教えられます。イエス様の愛と奉仕の中で自分自身を失うときだけ、私たちは幸福を見出します。この世が決して与えることのできない幸福、しかもだれも私たちから取り上げることのできない幸福です。
でも、どのようにして私たちはイエス様の愛と奉仕の中で自分自身を失うことができるでしょうか。イエス様はそれをたいへん簡単にわかりやすく教えてくださいました。
『これらの最も小さな人のひとりにしてくれたのはわたしにしてくれたのである』

だから、新年最初の日に、神様のおめぐみを求めましょう。
イエス様をもつと親密に知ることができるように、イエス様をもつと熱心に愛し、もつとぴったりくっついて行かれるようにと。
そうすれば、私たちも隣人を愛し、困っている人たちに仕えることができます。そうすることで、真の意味で『新年おめでとう!』になるでしょう。
皆様、新年おめでとうございます!

 

 


 

 

New Year’s Message for 2017

 

 

Happy New Year to one and all. May the coming New Year be prosperous and peaceful to all people.

The life of Jesus begins with Mary. Therefore, It is appropriate that we begin the New Year with a Feast of Mary, the Mother of God. Since Mary is the Mother of God she is the mother of joy, joy to the world. So the traditional greeting on this first day of the New Year is one of joy: Happy New Year!

Happy New Year! How many times did you hear that on New Year’s day or today?
How many times did you give that same greeting to others? Was it just a conventional greeting or was it a real wish? In other words is it really possible to find happiness in the New Year?
It would be a mistake, of course,to expect perfect happiness this year or any year in this life. This innate, in satiable drive We all have for perfect happiness can only be satisfied in the next life.
As St. Augustine said,  “Lord, you have made us for yourself and our hearts are restless until they rest in You.”  
But there is a deep, lasting peace that everyone can have in this life.

It would also be a mistake also to identify happiness with pleasure. Pleasure and happiness are not one and the same thing. In fact, pleasure can be the cause of very great unhappinesse How much unhappiness has been caused by the pleasure of alcohol, heroin or cocaine? Perhaps nothing has caused as much unhappiness to as many people as the pleasure of adultery.
It would be a mistake also to think that happiness consists in amassing possessions. If things could make people happy, we would be the happiest people in the world. We have more things than any other generation.

Unfortunately we begin by possessing things and end up with things possessing us. It is the desire, the craving for things we do not have, that causes so much unhappiness. We are supposed to love people and use things. In our affluent society we turn that around and love things and use people to get the things we love. It would be a mistake also to think that we can find happiness by seeking it. The Declaration of Human Rights guarantees every human being the “right to life, liberty and the pursuit of happiness.” But what is happiness a by-product of? What is it that has happiness as a side effect? The answer is to be found in Bethlehem. Let us go to Bethlehem to see what it is.
Look into the cave. Take your eyes away from the beautiful babe wrapped in swaddling clothes lying in the manger and look around. There is none of those things in which we seek happiness. There is no riches, no fame, no power, no conveniences, no pleasure, nothing but an empty, cold cave on the outskirts of town.

Now look at Mary and Joseph kneeling before Jesus in the manger. They must be tired. They have traveled 75 miles or so from Nazareth to Bethlehem on foot and on the jolting back of a donkey. They must be very hungry. They haven’t had a real meal since they left Nazareth some 3 days ago. They must be cold in this damp cave in the midst of winter. It must have been very humiliating for them to discover no room among their relatives in their ancestral home or at the village Inn. Yet in the midst of all of this, Mary and Joseph are the happiest people to walk the face of this earth.

Here in Bethlehem they are teaching us the amazing paradox that it is only when we lose ourselves in the love and service of Jesus do we find happiness.
Happiness that this world can never give and no one can take from us. But how can we lose ourselves in the love and service of Jesus? Jesus has made it very simple, “Whatever you do for one of these least brethren you do for me.”

So on this first day of the New Year let us ask for the grace to know Jesus more intimately, love him more ardently and follow him more closely . In so doing we can love and do service to our neighbors in need. By that this may be a truly a Happy New Year!

Happy New Year to all.




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クリスマスの飾りつけの一つにキリスト降誕の馬小屋があります。
ルカ福音書に出てくるのは、『彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。』
聖家族の生活の中で、このエピソードは、キリストを受け入れなかった神の民イスラエルに対する神の不満を思い起こさせます。
預言者イザヤが言っているように、『牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない。』
また、同じことがヨハネ福音書にも見つけることができます。
『言(ことば)は世にあった。世は言(ことば)によって成ったが、世は言(ことば)を認めなかった。言(ことば)は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった』(ヨハネ1:10-11)

ある意味においては、ヨハネ福音書は神が御子イエスという最高の贈り物をくださったのに、多くの人に受け入れられなかったということを私たちに示しているのではないでしょうか。
初めから、神の子に対して『宿屋には彼らの泊まる場所がなかった。イエスを思う民の心にも場所がなかった』というのがみんなの答えでした。当時の人々の心に『場所がない』とか『イエスを認めない』というこの現実は過去の話ではありません。今日(こんにち)でも私たちがクリスマスを祝おうとするその時でも、まさしく起こりつつあります。今でもなお多くの人たちが、キリストの誕生を祝うクリスマスの一番大切な意味を見過ごしています。それは、教会が私たちの心を新たにしてイエス様を迎えるようにと、私たちを招いてくれる「特別なとき」なのです。すでに私たちに与えられたかたを新たにお迎えすること。そして『私たちのあいだに住まわれた』のです。『宿屋には彼らの泊まる場所がなかった。』イエス様のために飼い葉桶のほんの小さなスペースしかありませんでした。

ほんとうに必要なのは、質素で小さいけれど、心を開いて受け入れられる場所、そこではイエス様が心からテントを張って、とどまりたいと思えるスペースがあればよいのです。
さあ、私たちも自分の生活の中にイエス様が来てくださる場所を作りましょう。
喜びのうちにクリスマスをお祝いできますように!

 

 


 

 

Christmas Greetings

 

 

Merry Christmas to all!

One of Our Christmas decorations is the nativity. In Luke’s gospel, it says, ‘While they were there, the time came for her to have her child and she gave birth to her first born son. She wrapped him in swaddling clothes and laid him in a manger, because there was room for them in the inn.” This episode in the life of the Holy Family recalls God’s complaint about His people Israel as unwelcoming people. As the Prophet Isaiah puts it, “an ox knows it’s owner, and an ass, it’s master’s manger; but Israel does not know, my people has not understood.”

And this is also what we find in the gospel of John that says, “He was in the world, and the world came to be through him, but the world did not know him. He came to what was his own, but his own people did not accept him, ” (John 1:10-12)
In a way, the gospel of John shows us that the greatest gift, God has given his son Jesus, was not received by many.


From the beginning, such has been the response to the Son of God: “There was no room for them in the inn;  and there was no room in the hearts of the people for Jesus.”

This reality of “no vacancy” or “no admittance” for Jesus in the hearts of people is not a thing of the past. It is still happening in our midst even as we celebrate Christmas today. Still many people overlook the main point of Christmas celebrating the birth of Christ; that it is a special time in the church that invites us to welcome Jesus anew into our hearts. It is to welcome anew the One who has already been given to us, the one who “has made his dwelling among us.”

“There was no room for them in the inn.” There was only a space on a manger for Jesus.

Indeed all that is needed is a simple and small but open and receptive space on which Jesus can truly pitch his tent and stay. Let us then make room for Jesus in our lives.

Have an enjoyable Christmas celebration.

 

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC

 




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私は日本に赴任して20年間ノンストップで働いたので、サバティカルをとるようにと強く押されたのは、聖コロンバン宣教会の総長と日本管区長レオ・シューマカ神父でした。
そこでこの『いつくしみの特別聖年』の間に、6月20日から11月30日までサバティカルをとることを決心しました。このサバティカルから何か良い結果が得られることを望みます。

もしあなたが主任司祭であり、同時に近隣のフィリピン共同体3カ所を司牧する立場にあるなら、この決断をするのはやさしいことではないでしょう。

私はサバティカルに向かって出かけます。皆さんはこのサバティカルという言葉の意味は何だろうと思われるかもしれません。一例を挙げてみましょう。自分の仕事がきらいだから、さっさと辞めて、世界旅行をするために休みをとりたいと思っている人たちを見つけるのは確かに簡単でしょう。しかしながら、あなたが実は仕事がとても好きだったらどうしますか? でも、あなたは疲れ果ててどこにも行く気にならないし、毎日の仕事から離れられない、でも新しい見方と可能な限りの新しい知識技能でもって充電し直す必要があると感じてます。これがサバティカルですか?

よくあることですが、私たちの仕事の責任はただ増え続けていき、やがては、やりたいと思っていることも本当にしなくなります。その場から逃避したいと思うのは自然なことでしょう、たとえ、あなたが自分の教会を好きで、教会の信徒たちもあなたのことを好きだったとしても。いわゆる(VACATION)ではその問題は解決しないでしょう、本当の意味の(BREAK)が必要なのです。

サバティカルという言葉は、実は聖書にある言葉、『安息日(SABBATH)』から来ています。それは昔の人が生涯を生きるために休みと若返りの期間を設ける必要があったのです。伝統的に、宗教団体の人たちや教区聖職者とか教職についている人の中でサバティカルが見られますが、司祭たち、シスターたち、先生たちのためだけでは、もはやありません。だれでもサバティカルをとって旅に出ることができます。サバティカルは、変わり目を追い求めるために仕事から少し長く離れることです。私の教会信徒たちが公式のサバティカル・プログラムを持たなかったとしても、そのとき私はサバティカルをリクエストできます。あるいは、宣教国で何年も働いた後に私の上司たちが私にサバティカルをとるようにと、直接指示することができます。人々は伝統的に目的到達、技能熟達、真理探究のためにサバティカルをとります。これらのことをするために自分の家にいる必要はありません。たやすく世界を旅して、決めたゴールに到達することができます。大事なのは、遠くに離れて、古いものを新しくし、新たに元気を取り戻すことです。サバティカルは宗教上の誓い、教育、修練など、精神的に新しくすることが目的だと言えます。自分の限界への挑戦、あるいは自分の創造性に触れることが目的ともいえます。
時には職業と関係があるときもあれば、あまり直接的な方法ではないが、ただ知識技能の成長を助けるだけの場合もあります。

サバティカルは松戸教会の主任司祭と信徒の両方に利益をもたらすことができます。
遠くに離れることは精神を一新するのに欠かせません。創造力あふれる新しい考え方は技術技能を生み出すのに役立ちます。心を新たにし、頭の中のもやもやした古いゴミや日常を掃き出すのに遠く離れることは必要不可欠なのです。サバティカルから戻った時には、心も新たに、元気を取り戻し、信徒たちと共に新しい旅に出発することができます。サバティカルをとることはまた、松戸教会の信徒にとって、主任司祭不在の教会運営における最大の試練でもあります。私の不在の間、司牧評議会が教会運営に支障が出ないように、また集会奉仕も諸サービスも行われるように取りはからってくれます。

以上の説明で、松戸教会の信徒の皆さんが、主任司祭がサバティカルに行く理由を理解してくださることを望みます。

良い実りがこのサバティカルから生まれますようにと希望し、祈ります。
神さまを信じて。

 

 


 

 

Hoping For A Fruitful Sabbatical

 

After putting pressure on me to take a sabbatical from my Columban Society Superior General and from my Regional Superior Leo Schumacher after 20 years of working non – stop here in Japan, I have decided to take my sabbatical on the Jubilee Year of Mercy, starting from June 20 to November 30, 2016. Hoping something good will come out of this Sabbatical.

It is not easy to decide if you are the Parish Priest and at the same time Pastoring to 3 Filipino Communities in the neighboring areas.

I am going for my Sabbatical. People may be wondering what is this word Sabbatical means? Let me illustrate here. Sure, it is easy to find people who dislike their work and want to quit and take a break to travel around the world.

However, what if you actually like your work, but you are exhausted, feeling like you are going nowhere, stuck in a routine, and need to re-energize with a new view and possible new skillsets, is this sabbatical? Often times our work responsibilities just keep growing and growing and soon we are not really doing the things we want to be doing any longer. It is natural to want to get
away – even if you do like your Church and your Parishioners likes you.
A vacation will not solve the problem, you need a real break.

The term sabbatical actually is derived from the biblical Sabbath which serves an ancient human need to build periods of rest and rejuvenation into a lifetime. Traditionally you will find sabbaticals in the Religious Congregations or Diocesan Clergy or academic careers, but they are not just for priests, Sisters and teachers anymore. Anyone can take a sabbatical and travel. A sabbatical is simply getting an extended leave from work to pursue a break. Granted, my Congregation does not have a formal sabbatical program, then I can request for a sabbatical. Or my Superiors can direct me to take a Sabbatical after serving for a long time in a Mission Country for years.
People traditionally take a sabbaticals to fulfill a goal, build a skill, or do research. A person need not stay near his/her home to do these things.
He/She can easily travel the world and accomplish the set goals; the key is to get away, renew, refresh. Sabbatical can be about spiritual renewal of religious vows, education or training or just to refresh. It can be about pushing your limits or getting in touch with your creative side. Sometimes it has to do with careers, or just simply to help for the growth in ones skill sets in less direct ways.

Sabbatical can be beneficial to both, the Parish Priest and the Parishioners of Catholic Matsudo Church. Getting away is essential for spiritual renewal, creative and new thinking, can help build skills, is essential for spiritual renewal or simply dust off cobwebs and routines in one’s brain. Coming back from a sabbatical one is refreshed, energized, renewed and can start a new journey with the Parishioners. Taking a sabbatical is also the ultimate test to the Parishioners of Catholic Matsudo church on running the Church without the Parish Priest present. In my absence, the Parish Pastoral Council of the Church will see to it that operation in the church is not hampered and services are rendered to the people.

Hoping after the explanation above our Parishioners of Matsudo will understand why their Parish Priest has to go for a sabbatical.
Hoping and praying that something good will come out of this Sabbatical.

In God I trust.

 

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC




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さあ、行動を開始しましょう。
昨年(2015年)12月8日に「いつくしみの特別聖年」が始まり、2016年11月20日「王であるキリスト」の祭日に閉年します。
私たちは教会生活の中でこの特別な行事を十分に祝うのにはどうしたらよいか、知るべきことの手引き書を与えられています。
教皇フランシスコは昨年、典礼年を「いつくしみ」をテーマに焦点を置く一年とするよう公言されました。でも、この『いつくしみの年』は何か特別な感じです、そうです、この年を『聖年』とすると宣言されたのです! 聖年の基本概念は旧約聖書のモーゼが50年ごとに喜びの年を宣言したときに戻ります。つまり、全イスラエルの民にまもられていた聖なる一年で、負債の免除や奴隷の解放、土地の休息まで含まれます。カトリック教会として25年ごとに来るのは「ふつうの」聖年ですが、なにか目立ったことを記念するために通常のとき以外に公言されると、「特別聖年」となります。

聖年の年は教会全体のために特別なお祝いが伴います。最も特筆すべきことは「聖なる扉」を開くことです。聖なる扉、いつくしみの扉を通り抜ける巡礼者は神から慰めを受け、罪から清めてくださる特別免償が与えられます。いつくしみの思い、いつくしみに満ちた愛をもつて見つめ、そして選ばれた、これが教皇フランシスコのモットーです。
教会がいつくしみに重きを置くのは預言者的です。救いの歴史の部分として現在、私たちはいつくしみと恵みの時代に生きています。いつくしみと恵みは誰もが直面する「最後の審判の日」の前にやってきます。一人ひとりの魂は死の時に恵みといつくしみを経験します。そしてイエスが世の終わりに地上に戻られるときには皆まとまうて。「審判の日より前に私はいつくしみの日を送る」と、主は聖ファウスティナ・コヴァルスカに仰せになりました。彼女の日記に記されているように、「正しい審判者として来る前に、まず、いつくしみの王として来る。」

神のいつくしみは限りなく、生きているものへの愛は熱く燃えています。必要なときに助け、苦難を乗り越えるのを助けてくださる。イエス様を私たちの罪のために十字架上の死へと送ったことは神のいつくしみの究極の最高の行為でした。この聖年に参加することは神のいつくしみの恵みにあずかる人になることです。教皇フランシスコは宣言します。

私の心からの願いは、この聖年の間、キリスト者が身体的な慈善のわざと精神的な慈善のわざについてじつくりと考えてくださることです。

 

それでは、特別聖年の免償を得られるように次のことにチャレンジしましょう。

  1. 指定された教会を巡礼し、聖なる扉、いつくしみの扉を通り抜けましょう。
    巡礼は回心の道具となります。聖なる扉の敷居をまたぐことにより、力強く神のいつくしみに包まれ、父が私たちと共にいてくださるので、他の人にもいつくしみをもつて自分をささげることができるのです。
  2. ゆるしの秘跡を受けること
  3. ミサでキリストの聖体を受けること
  4. いつくしみをテーマに黙想すること
  5. 信仰宣言を唱えること
  6. 病者訪問
    病んでいる人、高齢の人、そして病気で外出できない人のために:
    「あなたの病気と苦しみを受け入れ、受難の神秘にある主にささげます、死と復活が痛みと苦しみを意義あるものとしてくださるように。」
  7. 死者のために祈ること:
    「この世を去った人たちのために免償を。私たちはミサの中で死者を追悼し、祈ります。父のいつくしみ深いみ顔がすべての罪から解き放ち、力強く彼らを包み込んでくださるように。」
  8. 聖なる父が、この特別ないつくしみの年に特別なやり方で私たちに望んでおられるように、昔から行われているいつくしみのわざを身体的にも精神的にも実行すること
  1. 身体的な慈善のわざ:
    • 飢えている人に食べさせること
    • 渇いている人に飲み物を与えること
    • 着るものを持たない人に衣服を与えること
    • 宿のない人に宿を提供すること
    • 病者を訪問すること
    • 受刑者を訪問すること
    • 死者のために祈ること
  2. 精神的な慈善のわざ:
    • 無知な人を教えること
    • 疑いを抱いている人に助言すること
    • 罪人を戒めること
    • 煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと
    • もろもろの侮辱をゆるすこと
    • 悲嘆に打ちひしがれている人を慰めること
    • 生者と死者のために神に祈ること

 

さあ、今からスタートしましょう。
もし、まだ「祈りと計画」していることを何もしていないなら、どのようにして特別聖年の残りの数ヶ月をお祝いしますか。神のいつくしみという宝物からあなたに与えられる途方もないたくさんの恵みを利用せずに、このときを過ぎ去らせることのないようにしましょう。あなたのいつくしみを最も必要としている人たちのことを思うことで始めましょう。さあ、行動開始です!

 

 


 

Where Are We Now In Our Celebration Of the Jubilee Year Of Mercy?

 

Let us start acting now
The Year of Mercy began last December 8, 2015, and will end on the Feast of Christ the King on November 20, 2016, and we were given primers on everything we should know on how to fully celebrate this special event in the life of the Church. Pope Francis announced last year’s liturgical year to focus on the theme of Mercy. But the Year of Mercy is something exceptional; this One he
declared to be a Jubilee!
The jubilee concept goes back to the Old Testament when Moses declared every 50th year a jubilee, that is, a holy year to be observed by all of Israel which included the remission of debts, the liberation of slaves, and a rest from the cultivation of the land.
For the Catholic Church, a Jubilee is “ordinary” if it falls every 25 years, and ″extraordinary” when it is proclaimed outside the usual time to commemorate some outstanding event.

A Jubilee Year is accompanied by special celebrations for the entire Church. The most notable of these includes the opening of the Holy Doors. Pilgrims who walk through the Holy Doors or Doors of Mercy, are granted special indulgences, consolation from God, and purification from their sins. The theme of Mercy, ‘by showing compassion and by choosing,’  is the motto of Pope Francis. The
Church’s emphasis on mercy is prophetic. As part of the salvation history we are currently living in the age of mercy and of grace. Mercy and grace comes before the Day of Judgment where all will face God’s justice. Each soul will experience grace and mercy at the time of death, and collectively When Jesus returns to Earth at the end of time.  “Before the Day of Justice I am sending the Day of Mercy”, Our Lord said to St. Faustina Kowalska as she recorded in her Diary, “Before I come as the just Judge, I am coming first as the King of Mercy.”

The mercy of God is infinite and is a burning love for his creatures. It helps us in our needs and helps us overcome our miseries. Sending Jesus to die on the cross for our sins is the most supreme act of God’s mercy. Participating in this Jubilee Year we can be vessels of God?fs mercy. Pope Francis declares, “It is my burning desire that, during this Jubilee, the Christian people may reflect and act on the corporal and spiritual works of mercy.”
We are challenged then to do the following to obtain Jubilee indulgences:

  1. pilgrimages to designated churches and pass through the Holy Doors or Doors of Mercy.
    Pilgrimage is an instrument to conversion. By crossing the threshold of the Holy Door, we will find the strength to embrace God?fs mercy and dedicate ourselves to being merciful to others as the Father has been with us.
  2. Receive the Sacrament of Reconciliation
  3. Receive the Body of Christ in the Mass
  4. Do reflection on the theme of Mercy
  5. Do the profession of faith (Shinko Sengen)
  6. Visiting the Sick
    E.1.   To those who are sick, elderly, and home-bound:
    “Accept and offer your sickness and suffering to the Lord who in the mystery of his Passion, death and Resurrection gives meaning to pain and suffering.”
  7. Praying for the dead:
    “Indulgence for the deceased. We remember the dead in our Masses and pray for them, that the merciful Face of the Father will free them of every remnant faults and strongly embrace them.”
  8. To do or practice the traditional corporal (for the body) and spiritual (for the soul) works of Mercy that our Holy Father wants us practice in an extraordinary way during this Extraordinary Year of Mercy.

 

  1. Corporal works of mercy:
    Feed the hungry;

    Give drink to the thirsty;
    Clothe the naked;
    Shelter for the homeless
    Visiting the sick;
    Visiting the prisoner
    Praying for the dead.
  2. The spiritual works of mercy:
    Instruct the ignorant;
    Counsel the doubtful;
    Admonish sinners,;
    Bear wrongs patiently;
    Forgive offenses willingly;
    Comfort the afflicted;
    Pray for the living and the dead.

 

LET US NOW GET STARTED
If we have not done anything yet “Pray and Plan”, how you will celebrate this remaining months of the Extraordinary Jubilee Year. Don’t let this pass by without taking advantage of the tremendous graces that are being offered to you from the treasures of the Mercy of God! Begin by thinking of those people who need your mercy the most and start acting now.

 

主任司祭 Parish Priest

フィリップ ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC




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親愛なる兄弟姉妹の皆さん、声を大にして3回言いましょう。
HAPPY EASTER!復活祭おめでとう!」
それから喜びと崇敬、驚きの気持ちをもってこう言いましょう。
「キリストは復活された!」

これが私たちの今ある姿です。キリスト者としてのいのちを生きる私たちの根源的な真実であり、私たちの信仰の中心をなすもので、小教区の中で互いの親しい交わりの中心となるものです。世界中でともに分かち合う福音のメッセージの核心にある友愛でもあります。墓にいた婦人たちを思い出してください、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアを。彼らは香油と香料を持って、当時の人々が葬るやり方に従って、イエスのご遺体を葬るために来ていたのでした。しかし、石が墓のわきに転がしてあり、主イエスのご遺体は見当たりませんでした。

途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言つた。『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさつたのだ。』…°そして、婦人たちは墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた

ルカ福音24:4-6,9

 

彼らはいっときも待っていられなかったのです。友人たち ― 使徒と弟子たち、「ほかのすべての人たち」のところに走って行き、このことを知らせました。この奇跡を、周りの人たちとみんなで分かち合おうと思ったのです。さあ、世界中の人たちとともに喜び合いましょう。
『キリストは復活された!!!』

まさにこの日、私たち一あなたとわたし一がそこにいたのです。教会で互いに親交を分かち合い、私たち一人ひとりを愛してくださるイエスの無限の愛に根元からつながっているのです。そして私たちが世界に愛を届けるのです。ちょうど初代教会の時代にイエスの友たちがしていたように。

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。…毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた

使徒言行録2:42,46

 

最初の福音伝道の結果は親しい交わりに根付くようにつながりました。このことがあって、彼らと会う人たちは皆わくわくして大喜びしたのでした。

こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされたのである。

使徒言行録2:47

 

2016年の復活祭を祝うとき、私は皆さんに永遠の喜びと驚嘆、そして畏敬の念とともに、「キリストは復活された!」と堂々と宣言することを願います。
さあ、大きな声で3回言いましょう。
HAPPY EASTER!復活祭おめでとう!」

それから、喜びと驚きと畏れをもって、「キリストは復活された!」と言いましょう。
家族の皆さんと喜びを分け合いなさい、友達のみんなと驚きをともにしなさい、そして、すべての人と一緒に畏れ敬いなさい!
キリストを信じていることを神に感謝します。

『われらの神に不可能はひとつもない!』

 

 

 


 

 

 

My dear Sisters and Brothers in Christ,
Let us say it loud, three times “HAPPY EASTER!”
Then let us say,”Christ is Risen!”  with joy, wonder and awe!

This is who we are. This is the fundamental truth of our lives as Christians. This is the center of our Faith. This is the center of the friendship we have with each other in our parish.
This is the friendship that is at the heart of our message of evangelization that we share with the world: “Christ is Risen!”
Think of that first Easter morning. Think back to the women at the tomb ? Mary Magdalene, Joanna, Mary, the mother of James. They had come to care for his body, to anoint it with oil and spices, to follow the traditions of their people in burying the dead. But the stone was rolled away from the tomb, and his body was gone.
While they were puzzling over this, behold, two men in dazzling garments appeared to them. They were terrified and bowed their faces to the ground.They said to them, “Why do you seek the living one among the dead? He is not here.but he has been raised.’ … Then they returned from the tomb and announced all these things to the eleven and to all the others” (Luke 24:4-6, 9).
They could not wait another moment. They ran to tell their friends ? the apostles, the disciples,  “and to all the others.” The miracle had to be shared with all they knew, with all they loved. And from there, shared with the world: “Christ is Risen!”
That must be us ? you and I ? this very day. We share our friendship with each other in our parish, rooted in the infinite love of Jesus for each of us. Then we take that love to the world. Just as his friends did in the earliest days of the church.
They devoted themselves to the teaching of the apostles and to the communal life, to the breaking of the bread and to the prayers. …They ate their meals with exultation and sincerity of heart, praising God and enjoying favor with all the people” (Acts 2:42, 46)。
The result of that first evangelization was rooted in loving friendship. Their example thrilled all who encountered them.
And every day the Lord added to their number those who were being saved” (Acts 2:47).
As we celebrate Easter 2016, I wish you the eternal joy, wonder and awe that comes with the bold pronouncement, “Christ is Risen!”


Let us say it loud, three times ” HAPPY EASTER! ”
Then let us say, ” Christ is Risen! ” with joy, wonder and awe!
Share that joy with your family, that wonder with your friends and that awe with everyone!
Grateful for Our Christian Faith that  “Nothing is Impossible with Our God.”