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『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。』(マタイ5:9)

イエス・キリストに従う者として、私たちは『神の子』と呼ばれる恵みを切望します。
聖霊の助けによって、私たちは今の困難な世界に平和を実現しようと絶えず努力しています。
アシジの聖フランシスコの『平和の祈り』を思い出します。憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、闇には光を、悲しみのあるところには喜びをと切に望みます。

洗礼を受けた時、私たちの使命、召命の一つが、すすんで愛と平和と協力に向かうことでした。
最近の日本は、鉄砲水による大洪水や熱波による猛暑といった環境破壊の災害に襲われていますが、世界を見ても憎み合いや戦争、暴力が起こっています。通り魔的殺人まで日々起こる時代です。さらに、ソーシャルメディアの中では、侮辱したり傷つけたりすることばに慣れっこになってしまっています。そんなとき教会は、助けが必要な人を助けましょうと勧告し、平和と協力のために積極的に働く召命と使命を皆で共に持ち、揺るぎない確かな信念でいられるようにと強く勧めています。
イエス様が私たちにくださった平和は、悪への妥協や服従の平和ではありません。争いや混乱がないということでもありません。
しかし私たちは使徒たちと同じように、恐怖や混乱には簡単に負けてしまいがちです。聖ペトロと同じく、私たちは波の荒い海に既に大きな一歩を踏み入れているときでも、『信仰がうすい』ために沈みかけてしまいます。(マタイ14:31)
このような荒れ狂った時代に私たちを安心させることができるのは、変わらぬ存在と平和を私たちに確信させられる神様だけだと、冷静に認めるしかありません。
『恐れることはない、わたしだ!』(マタイ14:27)

2018年8月15日、「聖母の被昇天」の祭日に、共に祈りに参加し、断食して神様に憐れみを願い、自然災害から環境を守り、私たちの世界に平和の恵みを与えてくださいますようにと祈ります。また、日本やフィリピンのこと、そして全世界を、聖母マリアの『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。』(マタイ5:9)イエス・キリストに従う者として、私たちは『神の子』と呼ばれる恵みを切望します。
聖霊の助けによって、私たちは今の困難な世界に平和を実現しようと絶えず努力しています。 アシジの聖フランシスコの『平和の祈り』を思い出します。憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、闇には光を、悲しみのあるところには喜びをと切に望みます。
洗礼を受けた時、私たちの使命、召命の一つが、すすんで愛と平和と協力に向かうことでした。最近の日本は、鉄砲水による大洪水や熱波による猛暑といった環境破壊の災害に襲われていますが、世界を見ても憎み合いや戦争、暴力が起こっています。通り魔的殺人まで日々起こる時代です。さらに、ソーシャルメディアの中では、侮辱したり傷つけたりすることばに慣れっこになってしまっています。そんなとき教会は、助けが必要な人を助けましょうと勧告し、平和と協力のために積極的に働く召命と使命を皆で共に持ち、揺るぎない確かな信念でいられるようにと強く勧めています。イエス様が私たちにくださった平和は、悪への妥協や服従の平和ではありません。争いや混乱がないということでもありません。しかし私たちは使徒たちと同じように、恐怖や混乱には簡単に負けてしまいがちです。聖ペトロと同じく、私たちは波の荒い海に既に大きな一歩を踏み入れているときでも、『信仰がうすい』ために沈みかけてしまいます。(マタイ14:
31) このような荒れ狂った時代に私たちを安心させることができるのは、変わらぬ存在と平和を私たちに確信させられる神様だけだと、冷静に認めるしかありません。
『恐れることはない、わたしだ!』(マタイ14:27)

2018年8月15日、「聖母の被昇天」の祭日に、共に祈りに参加し、断食して神様に憐れみを願い、自然災害から環境を守り、私たちの世界に平和の恵みを与えてくださいますようにと祈ります。また、日本やフィリピンのこと、そして全世界を、聖母マリアの母なる愛にゆだねましょう。イエスは母と『愛する弟子』を見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です!』と言われました。(ヨハネ19:26)
私たちは、本当に母であるマリアを、子としての愛をもって見つめます。
『教会の母であるマリアよ、私たちの近くにいてください。私たちが絶望したり、信仰、希望、愛のぶどう酒がなくなったりしたときには特にお願いします。(ヨハネ2:1-11)私たちにできることをお示しください。
そして、環境破壊と迫害に直面して心を失ったとき、あなたのそば近く、十字架のもとに立ち、あなたの愛する子、私たちの主、救い主イエス・キリストの脇腹から流れ出る水と血で強い心を取り戻すことができますように。

アーメン。

 

 


 

 

Our Resolve to be Peacemakers through Prayer and Fasting

 

“Blessed are the peacemakers, they shall be called sons and daughters of God.”(Mt 5:9)

As followers of Jesus Christ、 we aspire for the grace to be called
“sons and daughters of God. With the help of the Holy Spirit, we constantly strive to be peacemakers in these troubled times in our society and the world. We remember the Peace Prayer of St.Francis of Assisi, and with that we strive to bring love where there is hatred, pardon where there is injury, faith where there is doubt, hope where there’s despair, light where there is darkness, and joy where there ls sadness.

When we were baptized one of our mission and calling is to promote love, peace and cooperation. In these times of environmental disasters like flash flooding and heat-wave in Japan, when there is hatred, war and violence around the world,when there is murder in daily occurrence in our streets, when people have gotten so used to exchanging insults and hurting words in the social media, the Church admonishes us to help people in needヽand admonish us to remain steadfast in our common vocation and mission to actively work for peace and cooperation.
The peace that Jesus gives us is never the peace of compromise or capitulation to evil; it is also not about the absence of conflict and turmoil. But like the apostles, we are often so easily overcome by fear and panic. Even when we’re already making big steps on troubled waters like St. Peter, we find ourselves sinking because of our “little faith” (Mt14:31). There is nothing that can calm
us down in these turbulent times except the quiet recognition of him who
assured us of his abiding presence and his peace.
“Be not afraid; it is I !”(Mt 14:27)

On August 15, 2018 on the feast of the Assumption of Our Lady, let us join together in prayer and fasting to ask God in his mercy, to give us the grace of Peace in our World and environmental protection from natural calamities.
On this day also let us commend Japan, the Philippines, and the whole world to the maternal care of Mary, the woman to whom Jesus entrusted his “Beloved Disciple” and said, “Behold your son!” (John 19:26) We, for Our part, behold her – our mother in faith ― with filial love.
“Mary, mother of the Church, be near to us especially when we tend to despair and run out of the wine of faith, hope and charity.” (John 2:1-11)  Teach us to do only what your Son asks of use And when we lose heart in the face of environmental destruction and persecution, may we stand by you at the foot of the cross and regain our strength from the blood and water that flowed from the wounded side of your Beloved Son, our Lord and Savior, Jesus Christ.
AMEN.

 

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC




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● ごあいさつ ●

 

本日(7月14日)行われた黙想会の講話が、マイクの関係で良く聞き取れなかったという方が、何人かいらっしゃいました。

とても良い講話でしたので、テープ起こしをして、分かりやすく修正した文章が出来ましたので、掲載致します。テープ起こしの作業を経て、神父様に確認を取り、修正しましたので、時間がかかってしまいましたことをお詫び申し上げます。

この講話が、皆様の信仰生活の助けとなりますようにと祈りつつ。

 

カトリック松戸教会
2018年度マリア会会長

 

 

 

 

 

 

神 の 子 ど も

 

― 午前の部 

 

 1. 「神の子ども」のシンボル

「神の子ども」と言う言葉の意味を知る為にまず聖書を読みましょう。聖書における神の子どもとはどういうものか、調べてみましょう。

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない。そして子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

(マルコ10:13)

 

有名な箇所の1つですね。ある神学者によりますと、子供の洗礼の理由はそこにあります。
イエス様に祝福してもらうと一生、大きな恵み(聖霊の証印)が注がれるからです。そういう観点から子供の洗礼は行われています。教会の習慣です。けれども、この「子ども」はイエスの弟子のシンボルにもなっています。先のマルコの福音書の個所の中に書いてある「ように」ですね。幼子だけではなくて、大人も子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ないと、子供のようになることが、強調されています。

私たちは神をどういう風に考えているでしょうか。いろいろな考えがありますけれども、親しい関係、親子の関係と考えるように、聖書は私たちを導いています。
それに関してヨハネ3章5節をみましょう。

イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない』

 

長い話ですが、その後で

ニコデモが言った「歳をとったものがどうして生まれることができましょうか」。

 

イエスは誰でも「水と霊とによって」生まれなければ神の国に入ることは出来ないとお答えになった。

 

 

 

2. 2つの洗礼

2つの洗礼があると教父たちは教えています。

第1は水の洗礼。「神の子ども」の道に入る洗礼。2つめは霊による洗礼。

「聖霊による洗礼」という説明は特に10世紀の教父シメオンという神学者が唱えています。
彼によりますと「2つの洗礼があります。水と聖霊による洗礼。私たちは一生聖霊によって照らされて、清められて、温められて、そして変わっていく」と。変容ですね。私たちは神の子どもになるというプロセスに入ります。それに伴い涙を流す人もいます。(そのために今日みたいに告解する方々の為にテイシューの準備が必要になります)シメオンに寄れば涙は霊が働いている証拠です。

 

 

 

3. 謙遜である条件

神の子どもである為に謙遜という条件も伴っています。神さまは謙遜な人にのみご自分をあらわしているからです。 謙虚で、謙遜な態度が必要です。
イエス様はこれに関してマタイ11章25節にこう教えています

そのとき、イエスはこう言われた。天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

 

私たちは地上に住んでいますが、聖霊に導かれて、天国から世界を見ることが出来ます。すると全く新しいものの見方が生まれます。この世の見方ではなく、天国からの見方なのです。同時に私たちが祈ると、神の栄光が入り、新しい世界が登場します。新しい天と地が始まります。

 

 

 

4. 聖書は神の子供の「母乳」

生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです

第1ペトロ2:2

 

聖書、神の言葉は、私たちにとって母乳のようなものです。それによって私たちは神の子どもとして成長します。聖書との関係を強調したいです。私は種々の聖書を学ぶグループと接しています。グループで聖書を読んで祈ると聖霊が働きます。必要なことを人に示し、人を自由にします。間違いないです。教会の素晴らしい宝物がそこにありますから、是非聖書を読むグループに参加するようにお勧めします。

私は最近韓国へ行きました。その時2つの説教をしました。1つ目はポーランド語で、2つ目は日本語で話しました。それは韓国語に通訳されました。コットンネという大きな共同体があります。100人ぐらいのシスター、50人のブラザー、また大勢の若い司祭がいる朝のミサに参加しました。そのミサで、コットンネの創立者のオウ神父が説教しました。彼は説教の時、突然ストップして、「外国からお客さんがいますので、バトンタッチしましょう。」といって私に話を頼みました。突然のことですが、その時前日ソウルでした説教を思い出しました。「あなたは日本にいて、どういう風に日本で神の愛を体験していますか。それを皆さんに話してみてください。」という現地の神父の依頼に答える説教でした。驚きについて二つ説教することになりました。

祈ると神の愛が働きます。それによって私たちは癒されます。神が人間を癒す。大きな仕事ですが、私たちはそれに気づいていないことが多いです。一昨日のミサのホセア書の第1朗読に、「私はあなた方を癒したけれども、あなた方はそのことをしらなかった」とありました。神の言葉は治療です。教会は最近(19世紀の終わりでしょうか)この宝を再発見しました。そこから1つの新しい道が開かれています.

 

 

 

5. ご聖体との深い関係

み言葉の他にご聖体は教会の宝物です。そのことについて最近フルトン シーン司教(1895−1979)の証しを聞きました。彼はアメリカで有名な説教師でしたが、「ご聖体がおいてあるところしか話が出来ない。イエス様が中心でなければならないからです」という条件をつけて黙想会や説教をしていました。ご聖体と親しくなると、特別な神秘家でなくとも直接的に神様と話すことが出来きます。私たちはみんな神秘家になりましょう。そういう時代になっています。直接的にご聖体におけるイエス様と話す必要があります。そして沈黙からの返事がきます。神の第一の言語は沈黙であるからです。また十字架の聖ヨハネは強調したように、深い心のレベルでないと神様と話すことは出来ません。静かに深い所においてです。情報のレベルじゃないです。私たちはスマートフォンにかなり執着して来ましたが、そのレベルじゃないです。それを止めて自分の心の深い所に入り、神様の愛の息吹を体験し、神の言葉を聞くようになりましょう。エリヤの体験が教訓となります。(列王記上19)、静かに神様は心に語りかける。結果としてエリアは癒やされます。神様の言葉をいただくと同時に、神の愛の導きで私たちも生かされて導かれています。

 

 

 

6. 固い食物—信仰

ヘブライ書にある謎めいた箇所があります。1度イエズス様と親しくなって子供になりますけれども、「かたい食べ物」を食べるようにと言われています。どういう意味でしょうか。

実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。(ヘブライ書5:12)

 

この固い食べ物は信仰だと思います。信仰生活が始まると、神様との関係を深める必要があります。一方この世の中にいるために試練が訪れます。しかしそれによってまた信仰が大きくなって磨かれる事実があります。信仰はもともとギリシャ語で「信頼 -pistis-」を意味しています。神様に信頼することが信仰です。最近教会はその「信頼」の意味を再考しています。聖ファウスチナ(1905-1938)は「イエスよ、あなたに信頼します」と信仰宣言しました。それに伴ういつくしみのイエス様の大きな絵があるでしょう。この絵は今の教会において導きになっていると思います。この「信頼します」は人の協力を表しています。
聖書の聖ペトロのある体験を見ましょう。

天使が、帯を締め、履物を履きなさいと言ったので、ペトロはその通りにした。また天使は、『上着をきて、ついてきなさい』と言った。それでペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んでいくと急に天使は離れさった。(使徒行禄12:8)

 

私たちの信仰生活はこれに似ています。神の恵みは天使が先に、私たちを導いていますが、この天使がある時去って行く。その時どうすればいいでしょうか。聖書にまた頼りましょう。

 

 

 

7. 聖霊による確信

あなたがたが子であることは、神が、『アッバ父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。(ガラテヤ4:6)

 

心に聖霊が与えられていると聖書が教えています。ギリシャ語の言葉を直接話しますと、天の父は御子の霊をわたしたちの心の上に置く( -thesis- )。そうすると基本的に心が変わる。神の子どもになる。 それを感じる。結果として、自分の中に天の父が親しくなる。と同時に神様は私たちをご自分の子どもとしてみてくださるというような確信がうまれます。

ヘブライ書11章1節が教えています。信仰の対象は目に見えないものです。天の都、エルサレムに行く道です。いつか私たちはそれにたどり着く。祈りの中で、霊によってこの新しい天と地をちらっと見ることが出来ます(黙示録1:10など)。聖人たちからまたそれを学ぶことができます。

メソジスト教会を作った兄弟がいます。18世紀のウェスリー兄弟。
青山学院大学と関係があり、兄弟の一人ジョンの像がそこにあります。メソジスト教会を作った人たちは聖公会で洗礼を受けました。2人の兄弟の父は司祭でした。聖公会の司祭は結婚しています。その司祭が亡くなる前に遺言を残しました。「確信、聖霊による確信。それは私たちへのキリストからの大きなプレゼントです」そして実際にそれによって2人の人生が大きく変わりました。チャールスは賛美歌を作って、ジョンは新しい教会、もっと神様の心に近いメソジスト教会の創立者になりました。聖人たちの中でこのような話が多いと思います。

もう一つ似た聖書の箇所を見ましょう。この言葉を私は司祭になった時に自分のモットーとして選びました。

あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは『アッバ父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、私たちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししています。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(ロ-マ書8:15−17)

 

ここに一緒になるという言葉があります:ギリシャ語で「シネルギア」。
それに注目しましょう。

 

 

 

8. シネルギア
一緒(神と人間)のエネルギ-

教父たちの教えを見ますと、ギリシャ語でシンエネルゲーヤという言葉があります。
「シン」というのは一緒で、「エネルゲーヤ」はエネルギーです。面白いことにある日本のハイブリッド車の会社の車の後ろにシンエネルギーとローマ字(SYNERGY)で書いてあります。2つのエネルギーが一緒になっている(電気とガゾリンのエネルギー)
それはもともと神学からとった言葉です。神の霊と人間の霊2つのエネルギーが一緒になっている。 人間の意志や理性が弱いから、助けを必要としている。そのためにイエス様は聖霊をプレゼントとして、教会にお与えになりました。それによって聖霊は私たちと世の終わりまでいらっしゃるのです。

心の中に「一緒」という言葉を刻んで下さい。重要なことです 。そうでなければ人間ひとりで生きるのは不安です。日本では不安の中に生きる人が多いと思います。私は40年以上日本にいますから、よくその問題に気づいています。老人病棟に行くと、信仰をもっていない方達がたくさんいます。いかにその人たちが無意味で苦しんでいるでしょうか。ある地方の病院で見た様子。一人のお婆さんがずっと寝ていました。時たま起きると「やだやだ」と言ってばかりいました。そしてまた寝ていました。全く神様のプレゼントを知らない人たち。神様のプレゼントを頂くと、この聖霊を頂くと、病気しても、寂しくなっても、それでもイエス様とのなんとも言えない美しい存在の次元には入ります。 わたしたちの想像を超える神の栄光の世界です。生きる意味が出てきます。人間にとって一番の苦しみは、意味のない生活。意味を与えるのは聖霊の導きです。またマリア様は母として、特にそのためにわたしたちに与えられている事実があります(午後の話)。

最近、ベネディクト16世の説教を読みました。「キリスト教は恐怖の宗教ではない」と。彼は現代では1番優れている神学者だと思います。本当に彼の教えに耳を傾けると心が満足します。彼が言っている言葉には深い意味があります。キリスト教は恐怖の宗教ではないのです。信頼する、愛する、私たちを愛している天の父への宗教です。

 

 

 

9. 天の父の祝福

天の父の祝福の説明は特にヤコブの手紙1-17と第1ペトロ第1-1−5にあります。世界にある祝福は全部父なる神様の心ら出ていて、私たちの心に届いて、私たちを変容します。それによって私たちは不安ではなく、心の中に喜び、平安があって、新しい天と地の証人になります。

私の経験を話します。私は40年前に日本に来て、最初に東京で3年間くらい日本語を勉強しました。これはありがたいですね。その後に福島県福島市松木町教会に助任司祭として派遣されました。今でもその教会との関係があります。幸いなことにそこで聖人のようなカナダ人の主任司祭に巡り合いました。10年前に亡くなりました。優れた詩人でもあったし、日本のことを良く理解していました。私は反対に色々な事柄において悩んでいました。私の考えは現実に合わなかったのです。ある日、夢の中で自分が高い塔の上に立って、下に福島の人達をみていました。とても近づけない世界が見えました。接するのは無理でした。どうしようと思っていました。なかなか出口が見つかりませんでした、その時一緒にいた神父はずっと私を眺めていたのです。その当時はよく小さい子供達が教会に来ていました。その神父が私を見て、毎日のように「子供のようにならなければ、天国は無理です」と私に言っていました。幸いにある時、その言葉が心に響きました。今でもそれを持っています。聖人からの言葉です。

 

 

 

10. 聖霊とマリアさまとの関係

人間は言うまでもなく一人で生きるのは難しいです。他の人の助けを必要としています。みなさん、よく覚えておいてください。信頼できる人の話を聞いてくださいね。それは「神の子どもになる」一つの条件です。私にとってそれは一生の道になって来ました。アメリカの大学や、上智でも心理学を勉強して、子供であるという心の態度は1番健康的だと思っています。

「鷲のように」という新しい賛美歌があります。実際に鷲のように私たちはいろんな問題を上からみることが出来ると思います

聖霊との関係の他にマリア様との関係は重要です。それも育ててください。朝目が覚めると、私は必ず言います。「聖霊様、マリア様、おはようございます」。またロザリオを一日中かなり祈っています。ロザリオを唱えるとマリア様は深い所から神秘的に私たちを導くからです。それはある程度、経験しないと分からないです。

最後の分かち合いですが、私は日本に来て10年経ってから日本から離れることになったのです。アメリカに行って心理学を勉強しました。もっと人間の心を知りたかったからです。そこにいてある日、夢の中で福島の教会を見ました。あるグループの婦人たちがマリア像の前でロザリオを唱えていました。なんのためにロザリオを唱えていたと思いますか。パウロ神父が日本に帰るようにと祈っていたのです。そんな夢をみました。摂理的な夢だったと思います。目が醒めた時なぜか日本が親しく感じられました。日本に帰りたいという気持ちになりました。マリア様に一生感謝したいです。ありがとうございました。

 

 

 

 

― 午後の部 ―

 

 

「聖母マリアへのまことの信心」という本があります。18世紀、聖グレニョン・ド・モンフォールというフランスの聖人が書きました。今日は2つの理由で彼に関してお話します。

第1は最近教皇たちは、「まことの信心」に注目しています。特にヨハネ・パウロ二世はモンフォールの影響を受け、カトリック教会の宝物としてマリア様を見ています。私たちも、マリア様はカトリック教会の宝物であることを再発見しているところです。
第2の理由は「まことの信心」をゆっくりと勉強したことがあります。福島で、小さなグループではあるけれども、ロザリオを唱えて、その前にこの「まことの信心」をゆっくりと読んで、味わって心の中に入ってくる良い本だと思いました。

 

今日は「まことの信心」の1番肝心なところを、みなさんに話したいと思います。

この本の歴史も興味深いです。18世紀に書かれていたのですが、あとで大変なことがおきました。フランス革命。フランス革命の評価というのは色々あるでしょう。あるカトリック系の大学の教授の書いた本によるとたくさんの犠牲者が出て、ノートルダム寺院の中にご像がいっぱい無茶苦茶になるという、実際にとんでもないことがあったのです。その状態の中でこの聖人が預言しました。「悪魔が一生懸命にこの本を抹殺しようとするでしょう」と。事実ほとんど全部なくなりました。その聖人は悪魔の働きとして見ていたのです。ところが、そのあとで逆にマリアへの信心、「マリア様を大切にする人の数が増えるでしょう」と預言しました。私たちもその中に入っていると思います。日本の教会もこれからそうなると私は信じています。

私はこの「まことの信心」の3冊の翻訳書をみました。色々な注が書いてありましたが、面白い注が1つあって、この本のその後の歴史が書いてありました。革命があった時にほとんどこの本は姿を消してしまったのです。1847年、革命の50年あとに1冊発見されました。パリのある家の屋根の下に置かれた箱から発見され、今この本は世界中で有名になりました。教皇様たちも読みました。本は復活したと思ってもいいです。悪魔の働きはすごいですが、その出来事を通して恵みが働きます。

グレニョン・ド・モンフォールの本の1部を紹介しますと、みなさんに配ったプリント2枚ありますけれども、1番大事なのはこの赤のマリア様の絵のプリントで、まことの信心の特徴が書いてあります。白黒のプリントで、ウソの信心と書いてありますね。ウソの信心から話を始めます。

このウソの信心についてよく考えてみると日本の教会にも関係があります。神学的な側面から、見てみようと思うのですが、第1の問題はよろず評論型信心と書いてあります。評論家のような人がいて、なんでも知っているというようなものの見方をする人。それはウソの信心。基本的にはマリア様を認めているけれども、表面的に見ていて本当は軽蔑している。単純な祈りをしている人を優れていないとか、神学を知らないとか。単純ということが嫌いです。神の子どもの特徴である謙遜な態度は単純です。困っている時、神様に祈るだけじゃなくて、親しい関係、それは子どものような心が必要です。そういうような心を持っていない人。1例をあげると、このような評論型の神父がアメリカで説教したのです。バチカン公会議のあと、彼は説教台になんとマリア像とロザリオとゴミ箱をもって来たのです。今はもうマリアへの信心は古臭い、教会は古びた信心をやめた方が良い。それでこのごみ箱の中に、マリア像とロザリオを入れてしまったのです。それを見ていた信者さんがおかしいと思って、主任司祭のところに文句を言うのです。このようなことはよくないでしょうと。主任司祭は、はい、注意しますと言ったのですが、注意しません。そこで司教のところに行って同じような文句を言うのですが、はい、注意しますと言って、注意しません。この神父は今どこにいるかというと、刑務所にいるのです。犯罪を犯してしまった、結局、マリア様を大切にしないと本当に弱くなるのです。私たちは神の子どもとして創られていて、生きていて、そしてマリアは教会の母となっていますから、その母の助けがないと人間は弱いですよ。知識は意外と危ないです。

 

皆さんに図を見せます。私は心理学の勉強をしていて、これは人間の心の図ですね。これによりますと、人間の心は氷山みたいなアイスの塊ですね。潜在意識の世界がほとんどで、意識の世界はちょっとだけです。私たちは自分の心を知らない。潜在意識があって1番深い所は人間の心です。そこに神様が働きかけて、愛はそこからでなければ本物ではないです。知識のレベルは意外と悪魔が使うのです。悪魔付きの現象を研究しましたけれども、知識ですよ。人を驚かせる知識を悪魔が投げるのです。そうすると人は高慢になります。高慢になると当然神様から離れているでしょう?神様の知恵の働きは愛です。それで分かります。なんでも、神様からかどうか、愛がなければ知識だけでは、それは悪魔の働きの可能性が強いです。私は白百合で教えていますが、1番大きなホールに、前の前の学長の書いた言葉が残っていますけれども、「愛に導かれない知識は何の役にも立たない」と書いてある。知識だけでは人を惑わすこともありますし、霊的な世界に入ると悪魔が使うこともありますから。このようなタイプの神学とか、態度は危ないです。嘘と書いてあります。

 

おどおど型信心

おどおどというのは、恐れている。何を恐れているのか、マリア様を礼拝すると、イエズス様の礼拝が少なくなるのではないか。プロテスタント式ですね。でも、私たちは信仰を持って、マリア様は必ず私たちをイエス様の所に導くとイコンにも表れていますし、マリア様は謙虚な方ですから、神様が誰よりも中心となっていて、人をイエス様の方に導く母です。自分の崇拝のために求めていることはあり得ないです。マリア様は謙遜そのものです。

 

チンドン屋

ポーランドにはいろんなマリア様の行事があるのですが、聖母行列とか、教会の色々な祭りですね。それが好きな人です。ぐるぐると回って、深みがないのですね。表面的に行事に参加しているタイプの人です。

 

ワンマン型

皆さんのプリントには書いてないのですが続きがあって、エコノミック・アニマル型といのもあります。この2つは似ています。自分の目的で祈る。例えば裁判に勝ちたいから一生懸命にマリア様に祈る。それは別の名称を使うと、自動販売機ですね。このぐらいお金を入れるとこのぐらいもらうはずですと計算して、マリア様を機械のようにみている。これは間違った信心の仕方です。逆に本当のまことの信心の仕方は無欲です。無欲。自分のためではなくて、マリア様のために祈りたい。

 

シリ焼け型信心

研修会が好きな人です。研修会の数によって人が救われると思っている。数があればあるほど救われると。そういう人がいるんです。シスター達にもいるんです。ある程度気持ちは分かる。新しい情報を知りたいと思うのですが、でもそれによって人が救われるわけではないです。知識のレベルだけでは人は救われないと覚えましょう。本当の出会いは霊です。私たちは謙遜になってイエズス様の贖いを受けないと、人は救われないですよ。最後の審判を見て下さい。2つの部分があります。命の書に名前が書かれている人たちというのは、カトリック説明書を読みましたが、イエズス様の贖いを頂きながら、洗い清めるプロセスで、永遠の命の書に名前が書かれることになります。それを否定する人は、命の書に名前が書いてないんです。あるカトリックの無名の作家は2つの部分があると言っています。神のみ旨を行う人と、そうではない人を神様がある程度残している。いつくしみの年があったでしょう?教会は目覚めている。神はこういうものです。いつくしみそのものです。ですから私たちは謙遜にそれを頂く必要があります。すると再生になって聖霊から賜物を頂いて、神の子どもとして成長していく。信仰の恵みです。

 

ファリサイ人タイプ

それは永遠のテーマですね。ファリサイ人というのは、演じる人です。私はマリア様を愛していますと言いますが、表面的だけで本当には崇敬していない。ですから、いくら考えても告解しないとマリア様を愛することが出来ないのです。聖なるものの特徴に書いてあります。聖なる者ではないと、人は嘘をつきます。ギリシャ語でヒポクリトス、ファリサイ人=ヒポクリトス、というのは他の人の役を演じる人。自分じゃないです。自分が回心していないのに、自分が回心しているような態度をしています。

 

 

さて、「聖母マリアへのまことの信心」の明るい方をみましょう。
回心は内面的信心じゃないと出来ない。いろんな聖人たちが語っていますが、特に十字架の聖ヨハネ、こころの中でなければ、神様に会うことは出来ないです。マリア様を母として受け入れるときも同じです。共通点は謙遜です。神様に対して、マリア様に対して謙遜でなければ、まことの信心にならないです。愛の働きと関係がありますね。人間の心というのは、意志があって理性もありますし、人間は神の型取りとして創られていますから、愛の雰囲気を変える必要があります。ヨハネの手紙にあるように、神の子どもというのは、愛の領域に入っている人です。神は愛です。

19世紀のキルケゴールというプロテスタントの神学者ですが、彼は信仰とは、恋みたいなもの、と言いました。それは頭で計ることではない。心で分かっている。愛の働きですね。神様は恋人。見て下さい。教会は私たちは花嫁であるとか、子供であるというのは、全部愛の話でしょう。愛があると本物になる。深い所から愛の働きがあります。私たちはそれによって愛の人になります。愛の領域に入ります。

第2は愛情です。ここに面白いことが色々書いてありましたが、母に対する気持ちです。愛情。ですからマリア様に対して、親しい言葉を使う。「お母さん」とか、これは愛情の印でしょう。「お母さん、助けて下さい」それを母は聞くのですよ。このような心の態度、そうすると何が起きるかというと、綺麗に書いてあるのですが、例えば、分からない時、マリア様からの光が与えられます。つまり、お母さんが教えて下さるのですよ。そして誘惑を受ける時、私たちは残念ながら弱く、欠けている存在です。イエズス様が誘惑された時のように、霊によってイエズス様が打ち勝ったように、マリア様も母として、私たちが誘惑を受ける時、霊によって保護します。マリア様に助けを求める必要がある。ここでもう一度謙遜が必要です。助けて下さい、とね。やってみましょうね。

そして、人間は時々、非常に弱くなることがあります。特に病気の時。病気になるとその時本当に危ないです。悪魔が1番弱い所を選んで、攻撃します。チプリアノとうい聖人によりますと、悪魔は獅子のように人間の心を回っているのです。弱い所を探しているのです。見つけるとそこを攻撃します。ここで悪魔の話はしたくないですが、チプリアノの話では、みつからないと、何が起きるかと言うと、怒って爆発して教会に大迫害が始まる。迫害の理由です。聖人が言うには、悪魔が嫉妬して、迫害が始まる。もちろん神様の許しがなければ出来ないけれども、実際に悪魔が攻撃します。そしてその聖なる信心というのは、聖なるというのは、聖という言葉があると聖霊ですね。一致しましょう。見て下さい。聖変化の時、聖霊が来るように、「これを聖なるものにして下さい。」

そして、聖霊は全部世界を聖なるものにします。この信心もそうです。聖霊の働きの結果、回心して、私たちは世界を捧げたり、司祭になる。それは叙階式だけじゃなくて、みんな司祭ですよ。司祭職。小さなグループは色々あるけれども、日本では初穂という言葉があるでしょう。それは全部召命を受けて、日本を神様に捧げる。司祭職です。このような聖霊の促しである、聖なるものと書いてある。あるいは預言者になるときも似ています。

 

最近あったことで、1つの例を話します。私の友達のシスター大島という方が96歳で亡くなりました。そのシスターと私は友達になったのです。96歳で亡くなるまで、毎月会って、告解とか色々話をして、その前にまだ元気だった時に一緒に祈りの集いをあちこちに始めました。最初は白百合でね。卒業生のために。そして何人かは洗礼を受けたのです。そこから6人シスターが生まれました。祈りの集いがあるとシスターも生まれる。
今日、この時間に20年くらい続いている祈りの集いがあります。松戸の女性信徒 *(注)神父様はその方の名前を仰いましたが、サイトポリシーにより信徒とさせていただきます も参加していますが、その中から5人のシスターが生まれました。クララ会とかイスラエルにいるシスターとか、色々なシスターがいるのですが、やっぱり祈りの集いで祈りますから、親しくなって召命の言葉や声が分かるようになります。祈りは必要です。

そのシスター大島の話を続けますと、祈りの集いが仙川、九段にもあって、そして最後に、片瀬江ノ島の湘南白百合でも始まりました。子供達の集いです。子供は神様を賛美する。聖書に書いてあります。「神は子供の口から賛美を整えた」と。中高生も神様を賛美することが出来ます。シスターは自分の経験の本を書いたのです。これは面白いです。この本は「聖霊の風に導かれる」というタイトルです。《禅体験から神への体験へ》というタイトルです。というのは、日本によくあることですけれども、キリスト教っぽい禅の祈りが、あるのですね。そちらの座禅か何かのモデルを使って祈る。体の姿勢とかね。悪いことだというわけではないですけれども、シスターはそのようなグループに関わっていました。そこに通っていましたけれども、どこかで物足りないということを感じていたのです。それは全く人間の次元だけじゃないですか。神の領域がどこにあるのでしょうか。

彼女は神様との関係を深めて、神の恵みの働きを体験して、それについて本を書きました。霊的な本だと私は思います。というのは私から見ると日本は素晴らしい国です。アメリカ人の知り合いの牧師がいるのですが、アメリカの若者と日本の若者を比べると、日本の若者が天使に似ている。ほめているのですね。そんなに悪いことをしない。それは素晴らしい。人間として成長しています。私もそう思います。実情とかいろんな素晴らしいことがあるけれども、人間はこれだけでしょうか。ドミニコ会の神学者は恵みの働きを例えて、2階建ての建物に例えています。1階は自然そのもので、2階は恵みの働き。だから自然と恵みは、別々のこと、対立じゃないです。逆に一致です。ラテン語の言葉を日本語に訳しますと、恵みは自然を前提にしている。否定しないです。日本の社会は忙しい社会ですけど、神の子どもとして生きるように天国の味というか、神の子どもの召命について話す必要があります。神の愛について話す必要があります。

私はその使命を受けています。神の愛について話す。話す必要があります。聞く必要があります。神は愛です。私たちを愛しています。恵みを与えようとしている。恵みが豊かだと人間は自然の次元を超えて、聖霊の恵みによってもっと素晴らしい人になるに違いないです。他の人を助けることが出来ますし、そして不安から解放されます。

 

[まことの信心」の本に戻ります。不動の信心。これも面白いです。教会の歴史を長く勉強して、あるプロテスタントの神学者が面白い例え話をしています。もともと聖書にも同じような話があります。聖人たちを星に例えています。天に輝いているずーと光を放つ。ですから、聖人というのは不動です。ずーと神の栄光を放つ。そして反対に流星という言葉がありますね。一時的に爆発するすごい何か現象が起きるけれども、続かない。終わります。そこが違います。聖人はずっと続けて祈る。その神の栄光の輝きを放つ。その違いがあると聖人たちは星のようだとエレミヤ書にも書いてあります。

 

私は今「神が人間を癒す」という本を読んで勉強していますが、ずっと続けて祈っている人はどういう状態になるかというと、この人は癒されます。研究の結果があります。3つのアメリカの大学の結果です。ハーバード大学は、ロザリオの祈りを研究しました。ロザリオを祈る人は元気になると、書いてあります。そしてジョン・テンプレトンという人が有名ですけれども、3.4年前に亡くなりました。大きな会社を作って宗教に関する書を書きました。テンプレトンはプロテスタントではあったけれども、その研究でずっと祈っている人はどうなるかというと、毎週、礼拝かミサに来る人は寿命が7年長くなりました。いろんなストレスが解消します。教会に来ると、ミサに来ると聖霊が働いて、私たちを癒します。神様が癒す道の一つがミサです。間違いないです。彼は客観的に研究しました。

 

テンプレトンの話を続けます。彼よりもずっと若い奥さんが癌になって、その時に友達に言われたのは、宗教を大切にしているのに、今奥さんがこのような状態になっていることを、どう思いますかと。彼は非常に謙遜な人だったのですね。「寿命というのは神様が決めることですので、私はなんとも言えないです、この人にとってこの時は一番良いかも知れない」と答えました。奥さんは亡くなりましたけれども、彼はずっと宗教を大切にしてきたのです。不動の信心の1つの実例です。

 

そして1番最後に無欲。無欲というのは自分の利益を考えないこと。自分の利益じゃなくてマリア様に関して、「マリア様を女王として見て、マリア様にプレゼントする、マリア様を喜ばせること」だけを考える。そうするとすごいね、マリア様はその人を大切にしますし、保護しますし、その関係はもっと深くなります。間違いないです。マリア様は女王だから、マリア様のために何かをする。

ここで、そのマリア様のために何かをするという心で、最近生まれた運動を紹介したいです。希望のロザリオ。これは去年始まった運動です。和歌子ゲスマンさんという方が中心となって始まりました。彼女はすごい賜物を持っています。日本のために素晴らしい賛美歌を作ります。私はこれを聞くと心が完全に満足します。シンプルで単純です。何か着飾ったものではないですね。この賛美歌の中には、神様を紹介する、導く力が入っています。ご主人はドイツ人でドイツに住んでいますが、日本のために一生懸命奉仕しています。時々日本に来て、ミオバラダさんという方と二人で組になって賛美の集いとか、信仰のセミナーを行っています。ミオバラダさんは、神様について話す賜物を持っています。真理に満ちた話で、難しくないです。良い神学というのは、God is simple( 神は複雑じゃない)。神秘家はそのことを良く知っています。神様を複雑にするのは人間です。神様との関係はシンプルですよ。そのことはとても大事です。親と子供の関係に入ります。神様はそういう人たちを望んでいる。ヨハネの福音書の中に「霊がアッバ父よと叫ぶ、神の子どもにする、この礼拝者、この人を神様は望んでいる」とあります。望んでいるとは大変な大きなことです。それと、恵みによって私は完全に変容されます。聖人になります。神様と親しくなって、話し合うことになります。特別な人じゃなくて、今、教会は神秘家の教会になるべきです。皆さんに話します。驚かないで下さい。

ある特別な人のことじゃなくて、今、皆が聖霊の働きで神と親しくなっていく。今日の話もその目的です。それでこの関係で希望のロザリオの運動が始まった。

このグレニョン・ド・モンフォールが言ったように、今マリア様を大切にする人の数が、ロシア革命の後にすごく増えています。

そして、希望のロザリオはどういう形になっているかと言うと、希望は私たちが作るものではないです。希望は恵みです。信仰と同じです。私たちはそれを謙遜に頂くことしか出来ないです。謙遜に頂くために、その道がある。それは聖人たちに教えられたロザリオです。このロザリオは日本のためのロザリオですが、見て下さい。抽象的な祈りではなくて、若い日本人のためにマリア様に1連だけ、ずっと祈る。ずっと。そうすると何がおきるでしょうね。マリア様は母の愛を持って、必ずそれに応えて下さると私は思います

今日本の教会を見ると、色々と改革は必要ですね。いつも改革は必要です。聖アンセルモが言ったように、「教会はいつも改革しなければならない」今こそです。今は小教区を倒れないように一生懸命維持しています。教会はそれだけでしょうか。聖霊の領域はどこにあるか、マリア様の助けはどこにあるか。今の菊地大司教様は新しい道を示して下さる。秋田への巡礼とか、そして教区ニュースの中で、福音宣教のことが強調されている。これは新しい展望、パーソナリティーが出てきて、それなりの祈りは必要です。40年日本にいて、人間の力だけでは無理ということが多かった。会社ではないから、霊的なシステムですから、神様の恵みが必要です。聖霊の息吹があるとあっという間にうまく行くのです。それは空気です。風です。自分でいくらその空気を出しても、あまり先へ進まないところを、聖霊の風に教会を開けると、あっという間にうまく行くのですよ。これは教会の現実なのです。この世的な解釈で考えると何も変わらないです。新しいことが生まれない。新しいものが必要です。神様の助けが必要です。そしてマリア様の助けは、特に具体的です。自分の心を変容しないと他の人に言えません。まず、自分が変わらなければならない。そのためのロザリオも初穂のような特徴を持っています。人のために祈るだけじゃなくて、マリア様との関係を深めるために、ロザリオをずっと祈ると神秘的なことが起きます。前に私はそんなにロザリオを唱えていなかったけれども、マリア様にロザリオを唱えるように示されました。今は唱えると人が本当に変わります。中から変わります。マリア様はこの人を再生して、母としてイエズス様の方へ導く。この人を使う。奉仕する。本当に思いがけない所に奉仕する。マリア様の愛は大きいです。それでみなさんに進めたいのは、この希望のロザリオの申し込み用紙を記入して、苫小牧の事務所に送って下さい。それが1つ。

でも、マリア様との個人的な関係も重要です。みなさん、びっくりなさるかもしれないけれども、できれば歩いている時、会社に行くとき、ロザリオを唱えてみて下さい。時間を無駄にしないし、3環を唱えると、3環ですよ。でもあっと言う間に終わるのです。そうすると奇跡が起きます。間違いないです。ミオバラダさんの例えですが、三位一体と関係があって、まず、マリア様のマントに守られて、悪魔祓いになります。悪魔が近づけないです。やってみて下さい。これは本当に神秘的です。そうするとマリア様は色々なインスピレーションを与えて、それによって教会も変わります。聖霊は非常にデリケートです。魂にぱっとインスピレーションを与える、魂は心ですね。それはイメージとして出てきて、大切にすると人が生かされます。恵みによって。そして教会も生かされます。恵みの働き。命をもたらす愛。そして愛を感じることがありますから、いかに神は愛をもって私たちを導くかに気づきます。そして愛の人になります。他の人に愛の証人になるとそれ以上はいらないです。

 

聖ヨハネが黙示録を書いたとき、大変な迫害が起きていましたね。そしてその時、たくさんの殉教者が出ましたし、教会を燃やす、そして聖書も燃やす。そしてヨハネの所に若い1人の弟子が来て、「先生、この教会はどうなるのでしょうか。今聖書が燃やされているのですよ。何も残らないじゃないですか」と。聖ヨハネが「もし聖書が燃やされていたとしても、神は愛であるということが残ったら、キリスト教は必ず復活する」と言いました。

神は愛です。それは基本的なキリスト教の大事なポイントです。他にはないです。そこからすべてが始まる。マリア様は誰よりもそのことを知っていて、神の愛の方に私たちを導いて下さる。特にロザリオを通して。色々な聖人たちが同じことを言っています。ロザリオを唱えるように。聖ヨハネ・パウロ2世やフランシスコ教皇も忙しいにも関わらず、毎日3環祈っているのですよ。忙しいですけれども唱えています。分かっているのです。そうじゃないと、人間の思いだけでは、教会はとんでもないことになってしまうのです。同じように小教区のことを考えると、これから宣教の時代になると思いますがまず、自分が聖人になる必要があります。

感謝します。アーメン。

 

修正:和気 千穂子

 


 

 

注尺:聖グレニョンド・モンフォール著、山下房三郎(トラピスト会司祭)訳 愛心館

聖母マリアへのまことの信心」という本から一部をコピーして下さり、そのプリントを見ながら、講話をして下さいました。

 

プリントより

第二節 マリアへのウソの信心

  • よろず評論型信心家
  • オドオド型信心家
  • チンドン屋型信心家
  • ワンマン型信心家
  • シリ焼け型信心家
  • パリサイ型信心家
  • エコノミック・アニマル型信心家

 

第三節 マリアへのまことの信心とその特徴

  • 内面的な信心
  • 愛情のこもった信心
  • 聖なる信心
  • 不動の信心
  • 無欲な信心



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皆さん、ご復活おめでとう! 主はよみがえられた、アレルヤ!

イエス・キリストの復活はキリストを信じるものにとっていちばん大切な出来事です。
聖霊の力を与えられた弟子たちを通して、福音を声高らかに宣べ伝える使命を持つた教会の礎に大きな意味を持っています。福音書に書かれたこの事実がなければキリスト教信仰はなかったでしょう。
イエス様が苦しみを受けて死に、3日の後に復活すると福音書で言われています。
イエス様が命を捧げられたことを思うと、どうしても、イエス様が受けた耐えがたい苦しみに私たちは注目してしまいがちです。
福音書に書かれたイエス様は、死ぬほどに強くむち打たれ、頭に突き刺す茨の冠をかぶせられ、自分の十字架を担がされました。手と足に釘を貫かれ、イエスさまは十字架につけられ高くかかげられました。これまでに考えられた最も残酷で非人道的な重い刑罰の形でした。私たちのために耐え忍んだイエス様の苦痛を思わずにはいられません。

しかし、このご復活を考えるとき、もう一つの見方も考えられます。
イエス様が十字架につけられる前のある時点で苦しまれたのです。イエス様のいちばん近い友に背を向けられ、裏切られた時に感じた苦痛です。
ご自分の心血を注いだ12人の弟子を、イエス様は自分で選びました。これらの人たちはこの世の家族と同じでした。イエス様を囲んで、イエス様から教えを学び、イエス様に仕えて宣教しました。彼らはイエス様の『腹心』でした。イエス様は弟子たちを愛していましたが、それでも、ずっと前から弟子たちのなかに公然と裏切る者がいるだろうとわかっていました。ユダが銀貨30枚でイエスを売るでしょう。それからペトロがイエスを知らないと言うでしょう。マルコ福音書によれば、このことをイエスさまはゲッセマネに発つ前に予告していますが、イエスさまの心を深く突き刺したに違いありません。イエスさまがこぶしで殴られ、唾を吐きかけられているとき《マルコ14:65》、ペトロはキリストから離れることにやっきになっていました《マルコ14:66-72》。そこにいた人たちは3度ペトロに近づいてイエスの仲間ではないかとたずねました。そして3度ペトロは『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と言って否定しました。《マルコ14:71、ESV》イエスさまが死刑の判決を受け、むち打たれたとき、近くにいた友たちはイエスさまに背を向けました。

イエス様はその時が来ることをわかって、そうなるべきことを理解していたとはいえ、なんと心が痛んだことでしょう!
おそらく私たちも同じようなことを感じたり、前に経験したと思つたりするかもしれません。ユダのような、自分に背を向ける友達や家族がいるかもしれません。今自分が耐えている苦しみの原因はそんな人たちかもしれません。わたしたちは苦痛と失望を通して闘っています。でも、頼れると思っていた人たちはどこかに行ってしまいました。教会の中でだれかに傷つけられたかもしません。肉体の痛みは身体が痛くなりますが、感情の痛みは霊魂をじかに切り裂きます。生きていく中で、誰かが自分を落ち込ませようとするでしょう。だれかが自分に背を向けて苦痛にさせるでしょう。
でも、ここに解決の鍵があります。イエスさまは見捨てられ、裏切られ、十字架につけられましたが、これらすべてに打ち勝ちました!
人間は不完全なものですが、キリストは復活してあなたがたを倒れさせはしないでしょう!

福音書は人間や王子たちに信仰を置かないようにと言っています。代わりに、このイースターでイエス・キリスト、復活された方、あざけり、苦痛、友の裏切りに耐えたかたに、自分たちの永遠を置きましょう。
この世の思わぬ危険や苦しみからは、ほど遠い希望を持つことができるように。
イエス・キリストは罪と死に打ち勝ったのです。このイースターで、父である神様が私たちを見捨てずに、私たちの心に、私たちの家庭に、復活されたイエス様を与えてくださったことを、皆で喜び祝いましょう。

もう一度、皆さん、ご復活おめでとう!!

 

 


 

 

Happy Easter

On The Third Day He Rose from the Dead

 

 

Happy Easter to all!

The Lord is Risen, Alleluia! The Resurrection of Jesus Christ is the most important truth in our Christian Proclamation. The effect of this is the foundation of the Church immediate Mission of Proclaiming the Gospel through the power of the Holy Spirit given to the Apostles. Without this Gospel Truth there would be no Christian Faith.

We are told in the gospel that Jesus predicted his predicament that he will suffer, die and after three days, he will come back to life. Often as we think about the sacrifice of Jesus, we tend to focus on the unbearable physical pain He endured. We have read in the gospel that He was flogged to death, and had a crown of thorns driven into His scalp. He was made to carry His own cross. Nails were punched through His hands and feet before He was hoisted into the air on the cross. The most inhumane and cruel forms of capital punishment ever devised. It’s hard not to focus on the pain He endured for us.

But, as we look at this Easter, let us consider another way of looking at it.
Jesus Was made to suffer in the moments before His crucifixion. Let us consider the emotional pain Jesus endured as his closest friends turned their backs and betrayed him. Jesus personally chose 12 disciples whom He poured himself into. These men were almost His earthly family, surrounding Him, learning from Him, and serving in His ministry. They were Jesus’ “inner circle.” Jesus loved them, and yet He knew ― long before that some of these men would publicly betray Him. Judas Would sold him for 30 pieces of silver. Then Peter would deny him ― which, according to Mark, Jesus foretold prior to leaving for Gethsemane ― must have stung deeply. As Jesus was being beaten and ridiculed (Mark 14:65), Peter was busy distancing himself from Christ (Mark 14:66-72). Three times people approached Peter to ask him if he was associated with Jesus, and three times Peter denied Him, ‘I do not know this man of whom you speak.’ ” (Mark 14:71, ESV). At a time when Jesus was being accused and beaten, His friends turned their backs on Him. What emotional pain this must have caused, even as Jesus knew it was coming and understood that it had to be!

Maybe we are feeling this, and it sounds familiar. Maybe we have friends or family members who have turned their backs on us, or perhaps ― like Judas ― they were instrumental in causing the suffering we are now enduring. Maybe we are struggling through pain and despair, and the people we thought we could depend on, have disappeared. Maybe we have been hurt by others in the church. Bodily pain hurts physically, but emotional pain slices directly to your soul.
In our lives sometimes, people will let us down. People will turn their backs on us and cause us pain. But here s the key ― Jesus was forsaken, betrayed and crucified, but He conquered all of that! People are imperfect, but Christ is risen and will not let you down!

The Gospel tells us not to put our faith into men or princes. Instead, in this Easter let us place our eternity in Jesus Christ, the Resurrected One, who endured scorn, pain, and betrayal by His friends, so that we may have a hope that extends far beyond the pitfalls and pains of this world. Jesus Christ has conquered sin and death. In this Easter, let us rejoice and be glad for God the Father, has not abandoned us but instead has given us this Jesus the resurrected One to be in our hearts and in our homes.

Again, Happy Easter to All!!!

 

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC




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わたしたちは、額に灰をうけて四旬節をスタートしました。
四旬節の40日間、わたしたちは心の中で思い巡らし、助けを必要としている隣人たちのために実際にできることは何かと、自分の生活を思い返すように招かれています。

この四旬節は、またキリスト者としての生活を深めて、神との関係、隣人との関係を深くするのに良い機会をわたしたちに与えてくれます。
献金や祈り、断食を通して、環境を守り、希望をなくして社会からはずされている人たちと共に、深く関わっていく機会を与えてくれます。彼らに希望と愛をもたらす仲介者となりましょう。

7年前に起こった大震災に今もなお影響を受けている東日本の兄弟姉妹たちは、自分の家に帰りたいと強くねがい、わたしたちの助けを必要としています。

タルチシオ菊池功大司教は、下記に示す書簡のとおり、これらの人々のために、続けて支援し、祈り、断食するようにと勧めています。
でも、いちばんは、犠牲になった方々のために祈り続けることです。
1人だけで祈り続けているのではないという事を忘れないようにしましょう。

イエス様は、私たちとともにおられ、日々責任を果たせるよう助けてくださいます。

 

 

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC

 

 

 


 

 

<タルチシオ 菊池 功 大司教 書簡>

東日本大震災の発生から

7年を迎えるにあたって

 

東京教区の皆さま

 

ある人にとってはあっという間に過ぎ去った時間であつても、同じ時間を耐えがたいほどに長い時間と感じられる方もおられる。そういう7年間であったと思います。
巨大な地震と津波が、主に東北の地を襲った2017年3月11日から、まもなく7年です。

あの日から復興の道を歩んで来られた多くの方々にとって、7年という時間は非常に長い時間であったと思います。あらためてこの大災害で生命を落とされた方々と、その後の復興の過程で亡くなられた方々の永遠の安息をお祈り申し上げます。

破災地における復興の歩みは、7年を経過しても完了はしていません。とりわけ原子方発電所の事故の影響が残る福島県内では、将来を見通すことが難しい状況が今でも続しヽています。帰還が可能だという地域でも、結局は地域共同体をどのように再興させるのかが、長期的課題として重くのしかかります。復興庁の統計によれば、昨年12月の段階で、8万人近い方々が避難生活を送られているといいます。これほど多くの方が、普通の生活を取り戻すことができない状態が続いていることを、私たちは心にとめなくてはなりません。

日本のカトリック教会は、2021年3月末までの全国的な復興支援活動の継続を決めています。東京教区にあっても、主にCTVCの活動やそのほか多くの信徒の方々の取り組みが、被災地の教会のつながりと地元の方々との『絆』を生み出してきました。これからも仙台教区との協力のうちに、このつながりを豊かに、そして大切に育ててまいりましょう。

さて、7年目に当たる3月11日は主日です。それぞれの小教区の主日ミサにおいて、東日本大震災で亡くなられた方々の永遠の安息のために、また被災地の復興のためにお祈りくださるようにお願い申し上げます。
なお、同日午後1時半からは、CTVC主催で「思いつづける 3.11」と題した祈りの集いが、上智大学ソフィアタワー101教室で開催される予定です。こちらにも是非ご参加ください。

 

 

2018年2月18日 四旬節第一主日
カトリック東京教区 大司教 菊地 功




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おめでとう、新しい年2018年!

そしてことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた』(ヨハネ1:14)

 

新年の贈り物を祝うわたしたち一人ひとりに、おめでとうございます!クリスマスの日には、わたしたちの主、御子イエス・キリストを与えてくださったあと、神さまは新年というもう一つの
贈り物をくださいました。皆さんの中には、終わろうとしているこの年がとても苦しくつらい1年であった人もいるでしょう。悲しみや不幸、喪失の一年だつたことでしょう。愛する人たちを
亡くしたすべての人に心からお悔やみを申し上げます。やさしい主があなたがたを慰めてくださいますように。

また何人かの人にとっては、終わりつつあるこの年が勝利と成功と、生きる上で成長の一年だったことでしょう。そして共に喜び神に感謝します。でも、多くのわたしたちにとっては、喜びと
悲しみ、良かったときもあれば悪かったときもあり、成功と失敗が合わさったものだったかもしれません。そして、嬉しかったことと苦しかったことを思い起こしてみる時、わたしたちは神さ
まに向かって、安心と慰め、力、感謝の気持ちと道案内を求めます。わたしたちは、神さまがわたしたちの人生に決定的に入って来られるクリスマスを祝い続けます。

預言者イザヤのことば(9:1〉が新しい一年間ずっとわたしたちに寄り添ってくれるでしょう。
『闇の中を歩む民は、大いなる光を見た。』
さあ、わたしたちが生きるこの世の光、キリストを迎えるために懸命に努力しましょう。神に感謝、イエス・キリストと聖霊がたくさんのいのちにふれて、わたしたちの教会は活躍し続けてきました。一人ひとりが参加して力を出し合い、松戸教会をだれでも温かく迎えられる素晴らしい教会にしてくださることに感謝したいと思います。
教会にささげる皆さんの金銭的な支えや、霊的、精神的に支えてくださることに感謝します。やさしい神さまがあなたがたに続けて報いてくださいますように。グループでの勉強会、洗礼、初聖体、堅信、聖なる婚姻など、この1年のあいだ、松戸教会で祝福してくれたことを神さまに感謝します。イエスさまが復活され、ここ千葉県のカトリック松戸教会にお住みになる場所を見つ
けられたことが確かなしるしです。

ローマ教皇フランシスコは日本のために素晴らしい贈り物をくださいました。二人の司教様の任命です。ひとりは東京大司教区に、もう1人は沖縄の那覇司教区に、2017年の終わりに贈ってく
ださいました。日本の教会を新たにし、強めてくださるためになさったことすべて神に感謝します。これからやってくる一年間、聖霊に元気づけられたわたしたちの良い行いのために天の父が
賛美されますようにと、わたしたちは信仰を強め続けるでしょう。きっと神さまは、わたしたち皆にとって2018年を良い年にするのに必要な助けをすべて用意してくださっているはずです。毎
日、一所懸命に正しいことを頑張っていたしましょう。そして、教会の新しい福音化の一助となるために、一日さえも無駄にしないようにいたしましょう。一年の終わりには手にいっぱい持っ
て神さまに会いに行かれるように、皆さんが良い年を過ごせますように。主があなたがたを祝福し、守ってくださいますように。主があなたがたに微笑みかけ、慈しんでくださいますように。
主があなたがたに優しさを示し、平和を与えてくださいますように。アーメン。

新年おめでとうございます。

 

 

 


 

 

HAPPY NEW YEAR 2018

 

 
“And the world became flesh and made his dwelling among us.” (John 1:14)

 

Congratulations to each one of us as we celebrate the gift of the New Year. After giving us his Son our Lord Jesus Christ,on Christmas day, God has given us another gift of the New Year.
For some of you,the year that ends has been very difficult. It has been a year of grief sadness,and loss. We express our deepest sympathies to all who have lost their dear ones.May the
good Lord console you.

For some of you the year that ends has been a year of triumph,success,progress in life and we rejoice with you and we thank God.However for most of us,it has been a combination of joy and sadness,ups and downs,triumph,and failure and as we reflect on the joys and pains,we turn to God for comfort,consolation,strength,thanksgiving and guidance. We continue to celebrate Christmas as,God’s decisive intervention in our life.

The words of prophet lsaiah 9:2 should accompany us during the New Year.
The people who walk in darkness have seen a great light.”

Let us strive to welcome Christ,the light of the world in our lives.Thanks be to God,our parish has continued to flourish with Jesus Christ and the Holy Spirit touching many lives. We would like to thank everyone for participation and contribution in making Matsudo Catholic church a welcoming and beautiful parish. We thank you for the financial,spiritual,and moral support that you have given to the parish.
May the good Lord continue to reward you.We thank God for the Group Study (Benkyou-Kai), baptisms,First Holy Communions, Confirmations, Holy Matrimonies celebrated in our parish during the year that ends. This is a sure sign that Jesus is risen and has found a home at Matsudo Catholic Church here in Chiba Ken.

The Holy Father,Pope Francis has a beautiful gift for Japan,commissioning two bishops,one for the Archdiocese of Tokyo and another one for the Diocese of Naha of Okinawa before the year ends of 2017.We thank God for all that has been done to renew and strengthen the Church of Japan. During the coming year, we shall continue to strengthen our faith so that the heavenly Father may be praised because of our good deeds inspired by the Holy Spirit.

am sure that Clod has prepared all the help we need to make 2018 a good year for all of us. Let us work hard doing the right things everyday and let us not waste even a single day in helping in the New Evangelization of the Church. May we all have a good year so that at the end we can come to God with hands full. May the Lord bless you and protect you. May the Lord smile on you and be gracious to you. May the Lord show you his favor and give you his peace.Amen.

HAPPY NEW YEAR 2018

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC