|  |  |  |

12月24日、6時から柴田神父様(アウグスチノ会)の司式で「子どもの奉仕するミサ」が行われました。

普段は、大人の方々がされている奉仕を教会学校の子どもたちやリーダーがするのです。(松戸教会では、1学期は8月の錬成会最終日。2学期はクリスマス。3学期は教会学校の卒業式・修了式後の3月に「子供の奉仕するミサ」を行います)

 

 

神父様が入堂される前に、先唱(司会)を担当するリーダーが、聖堂でのマナーの呼びかけをしました。

 

DSC00845

 

先唱(司会)の2人と朗読される聖書の箇所やミサの中で行われることを説明する2人。大役です!

 

IMG_7997

 

入堂後、まず献香をし、馬小屋を祝別しました。

普段のミサではやらないことですので、いつも侍者を務めている子どもたちも緊張気味です。

 

IMG_7984

 

第1朗読。

旧約聖書を朗読するのは難しいけど、難なくクリア。

侍者もいつも通り「神に感謝」と大きな声で、言えました。

 

DSC00856

 

第2朗読。

大きな声で淀みなく朗読できました。

侍者もいつも通りちゃんとお辞儀出来ました。

 

IMG_7996

 

福音朗読。

アレルヤ唱の後、聖書に献香し、柴田神父様の福音朗読。

朗読の後、いつも忘れちゃうお辞儀も今日は出来ました。

 

IMG_8000

 

奉納。

いつもは侍者やっている子どもたちは苦手にしているのだけど、練習のかいもあってちゃんとできました。

 

IMG_8006

 

1年生の子どもたちもちゃんと奉納の役目を果たせました。

 

DSC00878

 

 

IMG_8013

 

聖体拝領の後、今日のミサに来てくれた子どもたちに教会からクリスマスプレゼント。

突然のプレゼントにみんな顔がほころんでいますね。

 

IMG_8033

 

高学年は共同祈願でした。さすがでした。急きょ、新しく付け足されたりしても問題なくクリアしちゃいました。

閉祭の歌も大きな声で歌います。

 

IMG_8041

 

アクシデントもあったり、最後、ちょっと集中力きらしちゃったりもしたけど………

たくさんの方々から、「いいミサだった」とほめてもらいました。

 

 

ミサ後のパーティ。

子供たちも大役を果たしてホッとしています。

 

IMG_8051

 

パーティでは、就職や進学でなかなか松戸教会のミサに与れない教会学校を卒業した大きな子供達も集合し、近況を報告しあっていました。
教会に集まる子供たちは神様からプレゼントなのだと再確認しました。

 
さて、みんなはサンタさんからどんなプレゼントを頂いたのでしょう?
三学期にまた元気な顔を見せてください。

 
教会学校の三学期は2014年1月12日午前9時半から始まります。
未信者のお子さんも大歓迎ですので、是非、ご参加ください。




 |  |  |  |

本日、10時から、そして、13時半からの2回、共同回心式が行われ、多くの信徒が参加しました。

 

まず、カトリック亀有教会から山浦神父様から、講話を頂きました。

 

 

以下講話内容。

洗礼を受けた者は、イエス・キリストと共に生き、そして、神の子として生きる使命がある。
「罪」とは、それに背いた行動をとったことである。

自らの罪を考える時、いくつかのポイントがあるのではないだろうか。
まず、洗礼を受け、キリスト者として神の子として生きるとはどのようなことか。

  1. 神の国を追求する人
    • イエス・キリストの言動を知ること。
    • イエス・キリストの言動を思い起こし、それに倣う。
  2. 神の民は祭祀を奉仕する。
    • 祈り。
    • 教会の仕事、例えば、ミサの仕事を手伝う。
  3. 主任司祭を受け入れる。

では、奉仕をするとはどのようことをするのであろうか。

  1. 仕える
    • 教会の為の奉仕。
    • 教会共同体のための行動をしているだろうか。
  2. 伝える
    • 福音を周りの人や子供たちに伝えているか。
    • キリスト者としての言動をとり、まわりに影響を与えているか。
  3. 祈り
    • 日々の祈り
    • ミサ聖祭での奉献文は、信者を代表して司祭が言うのものである。つまり、奉献文は司祭の言葉というだけでなく、ミサ聖祭に集まった全ての信徒の言葉である。それを意識しているだろうか。

奉仕とは「イエス・キリスト」と繋がる行為であり、教会に集まるのは、イエス・キリストがそこにいるからに他ならない。一人ひとりが、自分たちに何が出来るかを考え、振り返る必要がある。

また、ミサにどれだけ参加できているだろうか。昔、ある信徒が教会に電話をかけてきて「神父様、明日の主日のミサに行くことが出来ません」とわざわざ連絡してきたことがあった。主日のミサとは、本来そのくらい大事なものなのだ。そのくらいの意識があるだろうか。日本のカトリック教会が守るべき祝日としている日を言える人はどのくらいいるだろうか。(実際、お聞きになりました。日本では、「主の生誕(クリスマス)」と「神の母聖マリア」の祭日の2つが守るべき祝日です)

大事なことは、どれだけにミサに参加しているか、どれだけイエス・キリストと心を通わせているか。ということ。ミサや秘跡を積極的に受け、イエス・キリストに繋がること。

そして、最後に「十戒」。

  1. あなたの父母を敬え。
    • 父母・そして、自分の子どもたち、家族を大事にしているか
    • 松戸教会信者との関係を大事にしているか
  2. 殺してはならない。
    • 相手の人権を奪う。
    • 自身の健康管理。
  3. 盗んではならない。
    • まわりの人々からの搾取。
    • 自らの浪費。

単純にそのまま言葉を受け取るのではなく、そこにある深い意味を感じ、考える。

これらの事柄を考え、自分が「周りの人にどれだけのことをしてあげられたか」を考えてほしい。そして、イエス・キリストが側にいる事を感じ、その愛をもう1度感じてほしい。その愛があるからこそ「罪」があり、その罪は赦される。罪を犯すということはイエス・キリストから離れてしまうことだ。罪を告白することによって、より神様に繋がり、癒される。(赦しの秘跡は、癒しの秘跡とも言われている)

赦しの秘跡を通して、神の愛を感じ、そこからもう1度新しいスタートをきれる喜びを感じ、また、神様と繋がってほしい。

 

以上

 

 

講話の終わりに山浦神父様のお導きで、お祈りをしました。

 

DSC00727

 

講話の後、4人の神父様が赦しの秘跡を授けてくださいました。(赦しの秘跡については下記参照)

山浦神父様が仰るように新しいスタートを切り、主の御降誕を迎える準備を整えましょう。

 

 

ゆるしの秘跡とは…
ゆるしの秘跡は、司祭のもとで、自分の犯した罪を告白し、罪のゆるしを願うことにより、神からの罪のゆるしが与えられるというしるしです。
この秘跡は、回心、悔い改め、和解、いやしの秘跡とも呼ばれています。
ゆるしの秘跡に必要な行為は、
- 痛悔(犯した罪を悔やむこと)
- 司祭への罪の告白
- 償いをはたす決意、およびその実行
です。

ゆるしの秘跡には、個別のゆるしの式と共同回心式があります。
前者は、ゆるしの秘跡を求める個人と神との出会いを重視します。それにくらべて、共同回心式は、ゆるしの秘跡の教会的な面をあらわしています。この式は、共同体の祈りの中で行われます。

共同回心式は、個人の罪だけでなく、教会共同体の連帯性について考え、共同体の上に神のゆるしを求めるので す。また、ゆるしを神に求めるだけでなく、兄弟姉妹にもゆるしを求めることを意識させてくれるもので、通常、主の降誕祭や主の復活という大きな祭日に向け ての準備として、待降節や四旬節の間に行われます。

引用元:女子パウロ会 Laudate | キリスト教マメ知識 「ゆるしの秘跡」




 |  |  |  |

今日は、無原罪の聖マリアの祭日です。

 

IMG_0912

 

フランス、ルルドで聖ベルナルデッタにご出現になったマリアは、ご自分を「無原罪の御宿り」と言われました。マリアは神様の特別な恵みによって、その存在の最初からあらゆる罪から守られていたのです。

今日は、イエスの母となるように選ばれたマリアが、救いの恵みを予め受け、聖アンナの胎内に宿った時から原罪から守られていたことを記念した祭日です。

 

ミサの始まる30分前からロザリオの祈りを一環唱えました。

 

IMG_0910

 

そして、10時半からミサが行われました。

入堂して、まずは祭壇、そして、無原罪の聖マリア像に献香しました。

 

IMG_0915

 

ミサのなかでは、待降節に入ってから歌わなかった「栄光の賛歌」を歌いました。

そして、フィリップ神父様は、説教のなかで「大天使聖ガブリエルに受胎告知を受けた時、「私は主の婢(はしため)、お言葉通りになりますように」(ルカによる福音書1章38節)と仰ったマリア様に少しでも近づけるように祈りましょう」と説かれました。

 

IMG_0919

 

IMG_0921

 

閉祭の歌では、Salve Regina(サルヴェ・レジナ)を歌いました。

 

Salve Regina,
Mater misericordiae:
Vita, dulcedo et spes nostra, salve.

Ad te clamamus exsules filii Hevae.
Ad te suspiramus, gementes et flentes in hac lacrimarum valle.
Eia ergo, advocata nostra,
illos tuos misericordes oculos ad nos converte.
Et Jesum, benedictum fructum ventris tui, nobis,
post hoc exsilium ostende.

O clemens:
O pia:
O dulcis Virgo Maria.

 

元后、あわれみの母
われらのいのち 喜び 希望
旅路から あなたに叫ぶエヴァの子
なげきながら泣きながらも
涙の谷にあなたを慕う

われらのためにとりなすかた
あわれみの目をわれらに注ぎ
とうといあなたの子イエズスを
旅路の果てに示してください

おお いつくしみ 恵みあふれる
喜びのおとめマリア

 

 

第1朗読 創世記 3章9~15、20節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章3~6、11~12節
福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節

 




 |  |  |  |

クリスマスの4週前の日曜日から待降節が始まります。今年は12月1日から待降節が始まりました。カトリック教会の暦では、待降節から1年が始まります。

 

待降節とは…

待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。

カトリック中央協議会 典礼解説「待降節」より

 

 

待降節は、第1主日・第2主日・第3主日・第4主日とあり、徐々にイエス・キリストの降誕を待ち望む気持ちを高めていきます。

アドベントクランツは、主日を重ねるごとに1本ずつ火を灯り、私たちの心にキリストを待ち望むことを呼びかける助けとなっています。(クリスマス・ミサでは、中央にある赤い蝋燭に火が灯ります)松戸教会公式twitterアカウントでは、主日ごとに火が灯っている蝋燭が増えていく様子を写真におさめ、投稿していきます。

 

IMG_0890

 

クリスマスを教会で過ごそうと考えてらっしゃる方がいましたら、待降節の日曜日に教会に是非いらっしゃってください。(もちろん、未信者の方も大歓迎です)ともにクリスマスを迎える準備を致しましょう。

 

 

今年から、祭壇の馬小屋が新しくなりました。
天使の顔が美しいですね。

 

IMG_0888



 |  |  |  |

本日・年間第33主日、名誉教皇ベネディクト16世が開催を宣言された信仰年を残すところ1週間となりました。

カトリック松戸教会では、信仰年行事として様々な企画を催してきました。

 

 

その締めくくりとして森司教様をお迎えして、「信仰年を締めくくるにあたって」というテーマのもと講演会を開きました。

 

 

 

講演会の前に、10時半からのミサを森司教様に司式して頂きました。

 

IMG_7590

 

IMG_7591

 

IMG_7594

 

第1朗読 マラキ書 3章19~20a節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 3章7節~12節
福音朗読 ルカによる福音書 21章5~19節

 

 

 

IMG_7607

 

ミサ後、森司教様から講話を頂きました。

(以下講話内容)

 

信仰年に当たり、もう1度、歴史を振りかえり、「教会」というものを見直してほしい。「エクレシア(古代教会)」はどのようなものだったのか、知る必要がある。それがどのようなものだったのかは、聖書の中にある。

 

この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

ルカによる福音書 7章37-38節

 

当時、ファリサイ派の人たちは、有名人を食事に招き、講演会のような形で人を集め、自らの権威や人気を高めようとしていた。

その人々が集まる中に入ってきて、イエス様の足元にまで近寄ってきた「罪深き女性」、この女性はどのような人だったのだろうか?この女性について考えてみたい。

  1. この時代の罪深い女性という場合、「娼婦」であったと考えられる。しかし、自ら進んでそのような道にすすむことはないだろう。つまり、彼女は、娼婦にならざるを得ないような環境にあり、厳しい生活を送っていたのだろう。そして、罪深さゆえ、人々からは蔑視されていた。言葉には出さなくても、態度にはあらわれるものである。
    そういったなかで、彼女は「社会での自分の居場所を無くしていまっていた
  2. 彼女は、「娼婦」という仕事のなかで、人々の二面性、たとえば、客となる男性が自分と相対した時と普段社会の中で生活している時の言動の違いを見てしまうだろう。そして、その客達(もしくは、男性)への社会の受け止めが(例えば、社会的な地位などによって)良ければ良いほど自分の見て知ってしまったものとのギャップを感じてしまう。彼女は、社会の深層にある二面性のようなものを見てしまい、「社会への信頼が揺らいでしまう
  3. 罪深い女性にも、やはり(十戒”姦淫してはならない”に背ているので、当時の倫理観からすれば)自分のしている仕事に対する自責の念があり、たとえ、表層には現れなくても、深層の中で自己を否定していまい、「自己に対する信頼感も失ってしまっている

 

そういった「居場所も社会や自分に対する信頼も無くした」女性が、ファリサイ派の人の家で人々の中にいるイエス様を見た時に感じた魅力に引き寄せられ、イエス様に対して「信頼感」を抱き、つい引き寄せられてしまう。イエス様は、一目見ただけでそういったものを感じさせる人だったのだ。罪深き女性は、イエス様に「自分の居場所」をみつけたのではないだろうか。

そういったモノに引き寄せられ集まって出来ていったのが「エクレシア」であり、教えがあったから集まってきたのではないのではないだろうか。

 

 

IMG_7612

 

我々、今の教会はそのようなエクレシアから変遷してしまっていないだろうか。教会は「教え」を持ちすぎて、「教え」を通して、イエス様に出会うようになってきてしまった。カトリック教会が日本の中で広まらないのは、「教え」、カテキズムが塀になって入ってきているのを阻害しているからではないだろうか。本来は、先の罪深き女性がイエス様に感じたような「心の響きあい」こそ大事にすべきものである。

例えば、心に傷を負い、教会を洗礼を受けたいと訪ねてきた人がいた。教会の受付で洗礼希望者は入門講座に通ってくださいと言われ、入門講座に通い始 めると、カテキズムなどを習うことになった。何を言っているのか難しくて分からない。まわりの人たちも黙って聞いているので質問してよいものかわからな い。そうしているうちに心の傷は癒さないままだんだん教会から離れていってしまう。

例えば、罪を犯し、懲役刑を受け、刑期を終えた人が、教会を訪ねてきた。その人は、教会の人に「自分は罪を犯し刑務所に入っていた。社会的に疎外感を感じている」と言って、心の拠り所として教会を訪ねてきたと言ってきた。しかし、教会の人は言葉には出さないが、また、態度には出さないように努めるが、なんとなく雰囲気として偏見の目を向けてしまう。そして、それはいつのまにかいろんな人に広まってしまい、結局、その人は教会でも疎外感を感じ、離れて行ってしまう。

このように、たとえ悪意がなくても、教え・戒律によって、外に弾かれてしまう人たちは大勢いる。

エクレシアという言葉の中には、「教え」という意味は全くない。人と人とが出会って、キリストの魅力にひき寄せられて、イエズスさまから希望をくみ取る、そういう人々の共同体である。「教え」とは全く無関係な愛の共同体、それが教会の原点、原型である。

 

フランシスコ教皇様は、「教会は裁かない」と仰った。それは、イエス様が忌むべきものとしているからだ。それはマルコによる福音書に以下の様にあることでもわかる。

 

丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。

マルコによる福音書2章17節

 

「教え通りに生き、正しいことをし、一生懸命に生きている人を褒めてくれる神様」と「(例え、罪を犯しても、やはり、受け入れ、赦してくれる)命のつながり・関係の中での神様」、どちらがイエス様の言う神様だろうか。イエス様は神様を「アッバ(お父さん)」と呼んだ。お父さんは(例え、罪を犯しても、やはり、受け入れ、赦してくれる)命のつながり・関係の中で一緒に生きてくれるのではないだろうか。親はどんなことがあっても子供を見捨てはしない。それは「放蕩息子のたとえ」(ルカによる福音書 15章11-32節)でもわかる。

教会の原型であるエクレシアは、決して知的な人間や教養のある人間の集まりではない。このような「人間のつながり・関り」のなかで存在するモノであり、そのなかで、そういう「繋がりや関わり」に感謝する心こそ「信仰」なのである。