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本日、「主の受難」の祭儀が行われました。
「主の受難」の祭儀では、パンとぶどう酒は聖別されません。古来の伝統に従い、この日はミサがささげられない日と定められているからです。祭儀は「言葉の典礼」「十字架の崇敬」「交わりの儀」の3つの部分で構成されています。

聖金曜日に行われるこの祭儀のなかで、救いの歴史におけるキリストの受難と死の意義を思い起こし、復活への希望のうちに十字架の勝利を賛美します。

 

 

祭壇は、昨晩の「主の晩餐の夕べのミサ」の時に裸にしたまま、十字架も蝋燭も置かず、祭壇にも布をかけません。
キリストが死んだことの「かたどり」です。

 

 

祭儀は、入際の歌は歌わず沈黙のうちに始まります。
フィリップ神父様は、祭壇につくと、しばらく跪かれ、沈黙のうちに祈られます。

 

祈りの後、祈願が唱えられます。

 

 

 

第1朗読と第2朗読の箇所も「主のご受難・死」についての箇所が朗読されます。

 

第1朗読は、「第2イザヤ」と呼ばれる新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられていた捕囚期(紀元前6世紀)の預言のなかで主の僕について歌われる第4の箇所が朗読されます。
苦しみを通して多くの人の救いをもたらす僕の姿は、イエス様の姿を思い起こさせます。

 

 

第2朗読では、キリストがただ1度ご自身を捧げたことによって、救いが成就したと語るヘブライ書が、主・イエスのご受難について語る箇所が朗読されます。

真の「祭司」であるイエス様は、神との完全なつながり、人々との完全なつながりによって、神と人とを結び合わせることが出来ます。私たちが、信仰を保ち、恵み深い神様に近づくことを求められています。

 

詠唱は、受難の主日にも歌われた受難と復活を讃えるものが歌われます。

 

 

そして、受難朗読

最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちに遺言のような説教をし、弟子たちと後に続く人々のために祈られた直後の場面から朗読されます。
(ご受難・死の箇所を、受難の主日の朗読とは違い、すべてを朗読します)

ゲツセマネの園での出来事、イエス様が予告していた聖ペトロの3度の否認、ポンティオ・ピラトとの問答、ゴルゴタの丘での出来事…そして、死、そして、その後のことを、神父様(イエス様)と朗読者2人(第1朗読者;語り手、第2朗読者:その他の登場人物)と会衆全員(群衆)で行います。

 

イエス様が亡くなられた箇所では、頭を下げ、沈黙のうちに祈ります。

 

 

 

第1朗読 イザヤ書 52章13節~53章12節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節、5章7~9節
受難の朗読 ヨハネによる主イエス・キリストの受難 18章1節~19章42節

 

 

 

そして、フィリップ神父様のお説教が行われました。

 

説教要旨

今日は、イエス様のご受難を思い出すため、その神秘を祝うために集まりました。
暴力に反対した愛、暴力を忍耐した愛、十字架に達した愛を聖なるものにするために集まりました。
その愛に感謝するため、そして、勇敢な愛のうえで暴力の被害者になる人と団結するために集まりました。
イエス様の十字架は解体されていませんし、その苦しみは終わっていません。十字架は、私たちの人生の中心に立ち、福音の価値によって生きる人々は、世界でどんな扱いをされるのか、ということを私たちに思い出させます。
イエス様は、ご自身から十字架を選んだわけではなく、イスラエルの祭司・長老・ファリサイ派の人々、普通の民、そして、世界が彼に反抗するため、十字架という手段を選びました。
十字架は、父である神様の発想ではなく、イエス様と争っていた世界が考えた最終的な解決でした。
父である神様は、自分のひとり子の破壊を目論んだサディストではありません。
父である神様は、危ない事にも関わらず、脆弱なひとり子を人間の手にゆだねました。全ての親がその危険を分かつ必要があります。愛は、十字架を必要としていませんが、イエス様の人生においては、愛は十字架に及びました。愛は、それによって現れる苦しみから逃げません。
イエス様は、公にエルサレムに入り、彼に対抗する圧迫的な権力に立ち向かいました。この行動によって、イエス様が苦しみを公に成し、目立つものとしました。
イエス様は、人々の現実的な苦しみを無視することを選びませんでした。人々の苦しみや争いに触れ、神様の愛を見せ、ご自身が人々と同じ痛みやすい体に表れた「神様の愛」であることを示したかったのです。
イエス様は、神様の深い愛、そのものでした。イエス様は、神様の危険な行動でした。
2004年に上映された「パッション」は、イエス様がその時代の支配者から受けた暴力と憎しみを描いています。
しかし、なぜ私たちはイエス様のご受難を心にとどめておくべきなのでしょうか?なぜこのような苦しみの記憶を活かすべきですか?
それは、キリスト者として、イエス様のご受難を記憶することに関わるためです。
最後の晩餐で、イエス様は「これは、あなた方のためのわたしのからである。私の記念としてこのように行いなさい」と仰いました。
ある共同体が苦しみを覚えようとすると、その記憶は「訴え」となります。「苦しみの記憶」が過去の繰り返しではなく、解決の未来を要求します。イエス様のご受難を記憶することは、このようなことが再び起こらないようにするための訴えです。そうすれば「無罪の人が冤罪」で苦しむことはないはずです。
そして、この記憶は、私たちの間にある十字架を意識させます。十字架は、イエス様のご受難は、人々の苦しみに注目するように私たちに伝えます。
十字架は、その注目を求めています。
今晩は、イエス様の苦しみ、誇り、人々の憎しみ、暴力、そして、権力者たちの被害者の苦しみと悲しみに注目しましょう。
この聖金曜日に、神様は、御子イエス・キリストの十字架によって私達1人ひとりに限りない愛を示したことに感謝しながら、私たちも死に至るまでイエス・キリストに従う事が出来るように祈りましょう。
父と子と聖霊の御名によって アーメン

 

 

 

説教の後、盛式共同祈願が行われます。
1年の典礼のなかで、もっとも豊かな共同祈願が唱えられました。
イエス様がすべての人のために命を捧げてくださったことを思いながら、すべての人のために「教会」「教皇様」「教会に仕える全ての人」「洗礼志願者」「キリスト者の一致」「キリストを信じない人々」「神を信じない人々」「国を治める人々」「困難に直面する人々」のためにそれぞれ祈ります。

普段の共同祈願とは違い、一つ一つの意向に従って李助祭が先唱し、しばらく、沈黙のうちに祈ります。そして、神父様が祈願を唱え、会衆は「アーメン」と続きます。

 

 

 

「盛式共同祈願」が終わると、李助祭はいったん退堂され、「十字架の礼拝」が始まります。
ます、一度、神父様は退堂されます。

 

 

そして、再度、紫の布に覆われた十字架を捧げて入堂してきます。
途中、三度、「見よ、キリストの十字架、世の救い」とフィリップ神父様が歌われ、会衆は、「ともにあがめたたえよう」と答え、十字架のおおわれた布を徐々にはずしていきます。

 

 

顕示が終わると、李助祭が、十字架が祭壇の前を置き、司祭・奉仕者・会衆の順に行列して十字架の前に進み、深い礼をして崇敬を表します。

 

その間、聖歌奉仕グループの方々を中心に「十字架賛歌 クルーチェム・トゥアム」「とがめの交唱(インプロペリウム)」「ハギオス・ホ・テオス」「十字架讃歌 クルクス・フィデーリス」を歌います。

 

 

 

 

十字架の礼拝を終えると、「交わりの儀」が始まります。
祭壇が用意され、李助祭は再度一度退堂します。

 

そして、ご聖体が入堂し、祭壇に置かれます。

 

 

 

 

ミサとは違い、司祭が主の祈りに招くと、主の祈りの副文と応唱を唱えた後、すぐに拝領前の信仰告白を唱え、拝領が始まります。

 

 

拝領祈願が唱えられた後、フィリップ神父様は、派遣の祝福と閉祭の挨拶の代わりに、会衆のために祈願を唱えられました。

 

 

そして、閉祭の歌もなく、沈黙のうちに退堂します。
ご聖体は、今一度、聖体安置室に移され、祭壇も裸の状態にされます。

 

 

 

 

そして……信者は、ご復活をお待ちし、静かに祈りの夜を過ごします。

 

 

いよいよ明日は「復活の聖なる徹夜祭」です。
キリスト教の最大の祭りは、クリスマスではなく、復活祭です。
そして、明日の「復活の聖なる徹夜祭(Easter Vigil」は、一年の典礼のうち、最も盛大で、中心的な祭儀です。教会は十字架上で死に、葬られたキリストが復活するのを祝うのです。




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イエス・キリストが亡くなられた午後3時から松戸教会では、十字架の道行を行いました。
多くの方々が集まり、主のご受難・死を黙想し、ご受難の先にある十字架の勝利に思いをはせました。

 

「十字架の道行」の祈りは、

イエスの受難の各場面を黙想し、回心しキリストの愛にならうための祈りです。各留にとどまり、しばらく黙想し、順次回っていきます。聖堂内にイエス・キリストの裁判から十字架の死に至るご受難の歩みを描いたレリーフが並べて掛けてあります。14場面あり、これは ” 留(りゅう)”と呼ばれています。

 

 

イエス様が亡くなられる第12留…
フィリップ神父様のお導きで「初めの祈り」が行われました。

 

フィリップ神父様が祈りへと導かれ、信徒が1留ずつ先唱を行いました。
そして、あらゆる困難、試練があろうともただただ父である神様の御心に適う行いをするイエス様に倣う者になろうと、祈りに心を合わせます。

 

イエス様が亡くなられる第12留…

 

 

最後に15留目となる十字架に向かい十字架讃歌を唱え、主の復活を黙想し、主の祈りを唱えました。

 

 

4世紀末のエルサレムでは、木曜日の夜から続く徹夜の祈りの後、人々は夜が明けると町に戻り、ゴルゴダの丘に建てられた教会堂でキリストの受難の出来事のなかから、ピラトの尋問の箇所の朗読を聞きました。また、昼頃まで、そこには十字架の遺物が展示され、人々はそれに礼拝しました。そして、正午から午後3時までは、旧約聖書と新約聖書からキリストの受難と死を思い起こすのにふさわしい箇所が朗読され、午後3時からは、ヨハネ福音書からキリストの死の箇所が朗読されました。

松戸教会では、こうして、十字架の道行を通して、主の受難・死を思い起こし、午後7時から始まる主の受難の祭儀に与る準備をします。




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本日、「主の晩餐の夕べのミサ」が行われました。
聖木曜日の夕刻に行われるこのミサでは、キリストが聖体を制定し、自らの記念としてこれを行うように命じた「最後の晩餐」を直接記念します。

 

 

聖木曜日の夕刻にささげられるこのミサの直前で四旬節が終わり、「過越の聖なる3日間」が始まります。
イエス様の「受難・死・復活」を一年のうちで最も荘厳に記念する「過越の聖なる3日間」は、典礼暦年全体の頂点に位置づけられています。

 

 

入堂と共に祭壇、十字架に献香します。

 

開祭の際には、四旬節の間歌われなかった栄光の讃歌を歌われました。

 

そして、集会祈願が唱えられ、ミサが開祭されます。

 

 

 

 

第1朗読と第2朗読の箇所も「過越の食事」についての箇所が朗読されます。

第1朗読では…

エジプトの奴隷状態から脱出する夜の事を前もってモーセとアーロンが告げられる箇所が朗読されました。
神様は、過越の際、どのような食事をとるか、どのようにするべきか、細かく告げてくださり、ユダヤ人は、エジプトを脱出することが出来ます。
神様は、「傷のない1歳の雄の子羊」を屠り、その「血を子羊を食べる家の入口の2本の柱と鴨居に塗り」、肉を火で焼いて食べろと仰ります。また、「酵母を入れないパン」を苦菜を添えて食べろと伝えます。
この出来事を「過越」と呼び、ユダヤ人は、この出来事を記念して、毎年、過越祭を祝います。

 

 

第2朗読では…

使徒パウロが、コリントの教会の信徒に「主の晩餐」の意味を解き明かした箇所が朗読されました。
コリント教会では、主の晩餐を祝いながら、仲間割れがあり、貧しい人への配慮に欠けているという問題がありました。そこで、聖パウロは、もう1度「最後の晩餐」でイエス様が使徒たちに仰った言葉を引用され、ミサの意味を伝えます。

 

 

福音朗読では…

過越祭の前日に行われた「最後の晩餐」の箇所が朗読されます。(マタイ・マルコ・ルカ福音書では、最後の晩餐は過越の食事であったと伝えていますが、ヨハネ福音書では、過越祭の前日のことになっています)
この最後の晩餐の中、イエス様は、弟子たちの足を洗い、遜ること、そして、互いに愛し合う事の大事さを身をもって示されます。

 

 

そして、お説教が行われました。

 

説教要旨

イエス様は、迫ってくる受難と死を迎えるために弟子たちとともに一緒にいることを望まれました。
イエス様は、弟子たちに最後まで限りない愛を示し、師であり主であるイエスが弟子たちの足を洗いました。イエス様の世界では、この世の中の反対に王は僕となり、主は仕える者となりました。
抑圧的な者たちは、愛の福音ではなく、力によって押し付けようとします。
イエス様は弟子たちの前に跪き、彼らの足を洗いました。その愛と謙虚さが食事の席で更に示されました。弟子たちに一番価値のある贈り物、すなわち、ご自身を捧げたのです。
これが私たちもミサのなかで拝領するご聖体の秘跡です。
その夜に起きた事、悲しみ、弟子たちの無理解にもかかわらず、イエス様は「自分が誰であるか」「何をしようとしているのか」をはっきり意識し、そのための対価を払う事を受け入れました。それは、ご自分の体と血を捧げることです。イエス様の力のあるメッセージは、私たちが、私たちの弱さや人生の苦しみ、思いがけない悲しみや出来事を受け入れ、主の受難に合わせて捧げることによって、神様の愛が私たちを高めてくださるだけでなく、私たちの苦しむも含む世の救いのために役立たせていらっしゃるということです。
今夜、みなさんは、悲しみや落胆、喜びや希望、様々な気持ちをもって、このイエス様の食卓に集まってこられたことでしょう。
苦しみと死を経験された主は、私たち一人ひとりの状態を分かち合って共に歩みたいのです。
しかし、まず私たちが主のお招きに応えましょう。主がしてくださったことを私たちもしてみましょう。自分がキリスト者である対価を払いましょう。お互いに足を洗い合うこと、つまり、赦しあい、希望と豊かさを分かちあうこと、このためのパンと葡萄酒になる事、すなわち、お互いに命を大切に育てることが求められています。イエス様の模範を学び、イエス様に倣うためにこのミサのなかで神様の助けと聖霊の光を心から願いましょう。
父と子と聖霊のみ名によって。

 

 

 

第1朗読 出エジプト記 12章1~8節,11-14節
第2朗読 コリントの教会への手紙 11章23~26節
福音朗読 ヨハネによる福音書 13章1~15節

 

 

 

お説教の後、今日、朗読された福音書のなかでもあったように、イエス・キリストが最後の晩餐の夜、自ら弟子たちの足を洗うことにより、ご自分が「仕えられるためではなく、仕えるために来た」ことをお示しになったことを記念し、洗足式が行われました。

(12使徒、イスラエル12部族からちなんで)松戸教会の8つの地区から各1名ずつ、MCCICから2名、青年から2名の12人の信徒が代表して、フィリップ神父様に足を洗っていただきました。

 

 

 

共同祈願が唱えられた後、感謝の祭儀が始まります。
まず、奉納行列が行われ、感謝の気持ちとともにホスチアとぶどう酒・水が奉納されます。

 

そして、祭壇が清められます。

 

 

 

 

そして、奉献文が司祭によって唱えられ、聖変化が行われます。
最後の晩餐のなかで、最後の晩餐でキリスト自身が仰せになった言葉をもって供え物のパンとぶどう酒がキリストの御体と御血になったことを示します。

 

イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

マタイによる福音書 26章26-29節

会衆は深い信仰と尊敬をもってそれを仰ぎ見ます。

 

 

その後、聖体拝領が行われました。
同じ1つのパンを分け合うことを通して、キリストとの一致を深く味わいます。こうして、ミサが一致の秘跡であり、キリスト者の生活の中心であることが明らかにされます。

 

 

 

 

聖体拝領後、祭壇上のご聖体に献香し、ご聖体を別の場所に移動します。

そして、ご聖体を仮祭壇に移し、献香してから聖体を仮の聖櫃におさめます。

 

 

 

 

最後に信徒たちは、左右に分かれ、詩編55と詩編27を唱和して祈ります。

 

その後、その場で閉祭の歌を歌い、閉祭となりました。

 

 

 

 

ミサ後、仮祭壇の前でお祈りされている信徒の方が大勢いました。

 

 

祭壇上のすべてのものを取り除き、裸の状態にされます。聖体ランプも灯っていません。
キリストの受難と死が始まったのです。

明日は、聖金曜日「主の受難」の祭儀です。




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今日は、四旬節最後の主日である受難の主日(枝の主日)です。
松戸教会では、午前8時、そして、午前10時半からミサが行われました。

 

受難の主日(枝の主日)は、信者がそれぞれに枝を持ち、行列をして受難の道に入ったことを思い出す典礼です。(ユダヤ人の)過越祭に合わせ、主イエスがエルサレムに入ったことをを記念して行われます。
その際、多くの群集が、子ロバにまたがって入城するイエス様を群集が衣服や枝を持ち、歓呼を持って迎えます。(しかし、その数日後、その群衆は、イエス様を「十字架につけろ!」と叫びます。)

今日から、典礼暦の頂点である聖週間が始まります。

 

 

今日は、雨が降っていましたので、駐車場ではなく、地下ホールで用意された枝を受け取り、聖堂へと向かいます。

 

 

 

 

午前10時半からのミサでは、まず、「枝の式」が行われます。
信徒は、地下ホールで、フィリップ神父様を待ち、交唱を歌い、神父様をお迎えします。

 

 

そして、枝の式が始まり、枝を持った会衆を祝福する祈りが唱えられます。

 

そして、フィリップ神父様が枝(棕櫚の葉)を祝福をします。

 

 

 

そして、入城の福音朗読が行われます。

 

福音朗読 マタイによる福音書 21章1~11節

 

 

 

 

福音朗読後、枝の行列を行いました。

「ダビテの子」を歌いながら、地下ホールから階段を登り、入堂します。

 

入堂の際には、祭壇や十字架に献香します。

 

そして、会衆が到着するのを待ちます。

 

そして、集会祈願を唱え、ミサが開祭します。

そして、ことばの典礼が行われます。

 

詠唱は、今日は少し長めのものが歌われます。

 

 

そして、受難朗読が始まります。
ご受難の朗読(福音朗読)は、神父様(イエス様)と朗読者2人(第1朗読者;語り手、第2朗読者:その他の登場人物)と会衆全員(群衆)で行います。

 

イエス様が亡くなられる箇所では、頭を下げて、しばらく沈黙のうちに祈ります。

 

 

第1朗読 イザヤの預言 50章4-7節
第2朗読 使徒パウロのフィリピの教会への手紙 2章6~11節
受難朗読 マタイによる主イエス・キリストの受難 27章11~54節

 

 

 

いよいよ聖週間が始まりました。
聖週間の祭儀に出来るだけ参加し、キリストの過越の神秘に感謝しましょう。




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本日、10時から、そして、13時半からの2回、共同回心式が行われ、多くの信徒が参加しました。

 

まず、山口道孝神父様(横浜教区)から、講話を頂きました。
山口神父様は、始めに主の祈りへと導かられ、祈りと共に共同回心式が始まりました。

 

<講話要旨>

四旬節になると告解をするように教会に呼び掛けられます。
告解は、義務だから行うのではなく、告解をすることによって「力を与えられる」または、「光を受けられるのか」と考えながらすることが大事なのだと思います。反省するだけではなく、新しく前に進むためにも、ゆるしの秘跡は非常に大切です。
自分の怠り、人を傷つけていながら、相手に対して謝罪をしていないという事もあると思います。
そういうことを全て綺麗にして頂き、今の言い方で言えば、リセットして頂きたいと思います。
しかし、いくら告解をしても、傷ついた心は消えないという方もいらっしゃると思います。
それは信じるか信じないかという事だと思います。
司祭から「赦された」と言われた時に、みなさん自身が、それを受け入れられなけば、本当の意味で赦された事にはならないと思います。
出来れば、今日は、告解された後、全てすっきりしてご復活に向かう準備が出来ればと思います。

さて、「怠り」「謝罪」のなかに、今まで伝統的に「教会における罪」とされていたことがあると思います。
たとえば、「主日のミサに与りませんでした」とか「毎日の祈りが心を込めて出来ませんでした」とか、そういう習慣をちゃんと出来なかったというだけで良いのでしょうか。
反省の中には、一人ひとりの私たちの生活自体のなかにある、「思いやりのなさ」とか「世界に貧しい人がたくさんいるのにその人たちの事は、考えないで毎日を過ごしている」とか、そういったことも思い出して頂けたらと思います。
フィリップ神父様の聖コロンバン会のマカーティン神父様という方がいらっしゃいますが、「黙想会のなかで環境問題について話したのが全く意味がなかった。その後、私が話したことについて、告解をしてきた人は誰もいなかった。みんなオーソドックスな、いつも通りの告解しか受けなかった…」と仰っていました。
それは、我々のメンタリティのなかに、「教会用の罪」と「実生活の中の罪」を分けているからかもしれません。でも、それで良いのでしょうか?
神様は、それでよいと思いでしょうか?

 

 

私は、叙階する前から海外や日本国内でボランティアをしてきました。叙階後も、小教区で土曜日・日曜日にミサを上げる一方、その活動を続けています。
なぜそのような事をやり始めたかというと、(小さなチャンタラという絵本として出版しましたが)、私は学生時代に国連のボランティアスタッフとして、タイに行きました。(タイとカンボジアの国境の戦場のタイ側)。
1979年~80年、ポルポト政権が倒れて、カンボジアにベトナム軍が進駐し始めて内戦がひどくなった時、着の身着のまま、難民がタイまで逃げてきました。私が向かった場所には、難民25000人が、収容されていました。その中には、孤児院があり、650人の孤児がそこにいました。私の担当は、その子供達のうち、13歳~15歳の男のグループ30人位でした。
その中には、逃げてきたばかりで、これから足を切断しないといけない子や、目の中に爆弾の破片が入っていて、(私がいる間に、そのうち)2人の子は、目をくりぬかなければいけない状況でした。(片方の子は、両目をそれで失いました。)
食事の時になると、大きなテントのなかで、みんなで筵のうえで、給食のように係の人が配り、みんなで食事をするという感じでした。
私が最初にそのなかで任された仕事は、青年男女5、6人でハタキを叩いて、大量のハエをご飯につかないようにするというものでした。
みんな逃げてきたばかりでゆっくりしか食べることが出来ないので、あっという間にハエが食事についてしまい、弱い子は、口の中までハエが集ってしまう状況だったのです。
そのハエはどこから来るのだろうと…ゴミ捨て場ではないかと思い、ゴミ捨て場を見に行きました。見に行くと…私は、思わず、フリーズしてしまいました。
切断した足や手が、私の背より高く積んで、まだ燃やしてもいない状況でした。
なぜ、私がこのような話をしたかというと、そういう状況にある人々の事を忘れてはいないかという事です。あるいは、日本は第2次世界大戦後、確かに経済成長し豊かになりました。しかし、世界のどこかにはまだ戦争を続けている地域があることを忘れてはいないかということです。

チャンタラちゃんの話に戻ります。
チャンタラちゃんは、口もきけない、笑う事も出来ない子でした。
彼女は、食事になると自分のお皿をもって、テントの下から抜けてどこかに行っていました。でも、職員は650人の子どもたちに対して、十数人しかいないので、放っておくことしか出来ませんでした。でも、あまりにひどいので、職員が押さえつけて、シャワーを無理矢理浴びさせたりとかしても、やっぱり、声も出さない。
おかしいなと思って、25000人いる家族が生活している所の掲示板に「彼女の事を知っている人はいませんか?」と張り出しました。そうしたら、その日のうちに、「自分がここに連れてきた」という男性が来ました。彼に、彼女に何が起こったのかと尋ねると、こういう話でした。

彼女とその家族(両親と兄姉たち)は逃げている中、クメール人少年兵士に見つかり捕まってしまい、まず、お父さんとお兄さんたちが羽交い絞めにされ銃剣で刺され殺され、次に姉たちが銃剣で刺され殺され、最後に、チャンタラちゃんを抱いているお母さんからチャンタラちゃんを奪い取り、お母さんに銃剣を刺しました。お母さんにはそれだけではなく、更に銃剣でお腹を割き、少年兵の1人が手をその中に入れ、お母さんの内臓を出して、チャンタラちゃんの口の中に入れたんです。その後、一人だけ放置されていたチャンタラちゃんを近くで隠れていたその男性が助けて、ここまで連れて来たのだとそうです。
チャンタラちゃんは、そういう事があり、口もきけなず、笑う事もない子になってしまいました。

その話を聞き、ちょうど1か月くらいたち、とても暑い日でした。
私がマラリアにかかり、熱があってハンモックで寝ていました。
ふと、目をあけると、チャンタラちゃんが私のおなかで、いっしょに寝ていました。目が合うと、慌ててどこかに行ってしまいました。
でも、次の日、(難民キャンプに車で通っていたのですが)車を降りると、たくさんの人の中から、チャンタラが走って私の方にやって来て、まるで映画のように、ハグしあいました。目が合うと、初めて彼女はそこで笑いました。そして、小さな手で私の指をつかんで、一緒に難民キャンプへの中へと歩いて、向かいました。
それから3日ぐらいして、彼女は声を出すようになり、やがて、同じ年くらいの子たちとご飯を食べるようになり、少しずつ回復していきました。
私だけではなく、スタッフや周りの大人みんなが、見守って心を寄せたことによって、チャンタラちゃんはもう1度「生き返ることが出来た」のだと思います。

私達も自分より弱い人、自分より大変そうな人のために祈る事、(お節介にならない程度に)手伝う事…そういう事が、とても重要なのではないかと思います。
特に、教皇フランシスコは、教会の一人ひとり、みんなが、あるいは、教会が、社会の最前線の野戦病院になりなさいと仰っています。
どういう意味でしょうか?
それは、「自分だけがこういうことが出来なかった」とか「自分はこのような罪を犯しました」とか反省しているだけでは足りない。我々一人ひとりが世界の、社会の一員であることをどれだけ認識しているかという事だと思います。

SNSでたくさんの人達にシェアされているあることばがあります。(原文は英語)

私たちはいつも自分が手に入れたいと思うものを手に入れることが出来ないかもしれない。
でも、考えてみてください。
世界中には、今私たちが持っている物すら一生手に入れることが出来ない人がどれほどいるか…

 

そういうことを思った時、私たちはこのままでよいのでしょうか?
ご存知の方も多いと思いますが、「人間にとって大切な基本な4つの関係」というものがあります。

  1. 相手との関係
    関係が崩れているならば、謝罪する、和解する…そうやって人との関係を大切にする
  2. 自然との関係
    共有財産である自然との関係を整えていく
  3. 自分との関係
    動物のなかで人間だけが出来る事と言われていますが、自分の闇、自分のアイディンティを見つめ、自分と和解し、前向きな気持ちになり、前に進む力とする。
  4. 神様との関係
    祈り等を通して、神様との関係を見つめ直す事で、自分がすべきことが分かる。

 

四旬節中というのは、こういった事を、ゆっくり考えたり反省したりするには最適です。でも、反省してそれで終わりなら意味がありません。そして、反省してもまだ傷が癒えないならば意味がありません。
主のご復活の際に、新しくなるという事を自覚することが出来るようになれば良いと思います。
先週の四旬節第4主日は、祭服は紫ではなく、ピンクのものを着たりすることもあります。
紫を着て喪に服しているようですが、少しずつ復活の光が見えてきているということを表すために、ピンクの祭服を着る司祭がいらっしゃるのだと思います。

私たちは、ただ真面目な顔をして祈っているふりをして、節制をしているふりをして、四旬節を過ごすのではなく、むしろ、復活祭の光に向かって「これから頑張っていこう」と気持ちで過ごしましょう。

告解の際には、全てを神様に捧げて、すっきりして、新しくなりましょう。そして、みなさんが、良い状態でご復活を迎えることが出来る事が出来ればと思います。

 

 

 

 

講話の後、山口神父様、渡邊神父様(豊四季教会)、山浦神父様(亀有教会)、赤岩神父様(市川教会)、フィリップ神父様が赦しの秘跡を授けてくださいました。
(赦しの秘跡については下記参照)

 

ゆるしの秘跡とは…

ゆるしの秘跡は、司祭のもとで、自分の犯した罪を告白し、罪のゆるしを願うことにより、神からの罪のゆるしが与えられるというしるしです。
この秘跡は、回心、悔い改め、和解、いやしの秘跡とも呼ばれています。
ゆるしの秘跡に必要な行為は、
- 痛悔(犯した罪を悔やむこと)
- 司祭への罪の告白
- 償いをはたす決意、およびその実行
です。

ゆるしの秘跡には、個別のゆるしの式と共同回心式があります。
前者は、ゆるしの秘跡を求める個人と神との出会いを重視します。それにくらべて、共同回心式は、ゆるしの秘跡の教会的な面をあらわしています。この式は、共同体の祈りの中で行われます。

共同回心式は、個人の罪だけでなく、教会共同体の連帯性について考え、共同体の上に神のゆるしを求めるので す。また、ゆるしを神に求めるだけでなく、兄弟姉妹にもゆるしを求めることを意識させてくれるもので、通常、主の降誕祭や主の復活という大きな祭日に向け ての準備として、待降節や四旬節の間に行われます。

引用元:女子パウロ会 Laudate | キリスト教マメ知識 「ゆるしの秘跡」

 

 

赦しの秘蹟は個別にも受けられますので、四旬節の間に授かられてはどうでしょうか…