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青年有志たちで作っている同人誌「野ばら」の第15号が発刊されました。

「野ばら」は、2016年5月に創刊され、以来、1か月おき(奇数月)に発刊しています。
「野ばら」というタイトルは、この同人誌の発起人がつけたもので、マリア様をイメージしたものだそうです。

この同人誌の中で、青年達は、カトリック文学に挑戦しています。自分の信仰を内省し、祈りのように、書き上げています。

各号には、それぞれテーマを設け、執筆しています。
第15号は、「晩夏・初秋・善悪・天使・聖マリアの誕生・ロザリオの聖母」をテーマに、詩や散文が収録されています。

 

PDF版も無料で配布しています。バックナンバーも取り揃えています。(リンク先よりダウンロードが出来ます)

 

 

毎号、巻頭作品は、前号の読者の方々から感想を頂いたなかで、一番評価が高かった同人の作品が掲載されます。
野ばらの巻末には、連絡用メールアドレスなどを載せていますので、感想等を、御寄せ頂けたら幸いです




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September 9, 2018 included flower offering to Mama Mary by children in honor of Mama Mary’s birthday on September 8th.

 

Also Fr Cyril Veliath gave a blessing to all the September birthday celebrators.




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今日もみんな元気に集まりました!

「教会学校・はじめの祈り」でスタートです。

 

最初に、国際ミサのときに行う「大天使聖ミカエル行列」で歌う「アーメンハレルヤ」の練習をしました。

 

歌詞を丁寧に確認しながら歌いました。

 

 

 

今日は、「ザアカイ」のお話を勉強します。
初聖体のとき、みんな勉強したことがあると思います。
覚えていますか??

 

では、「ザアカイ」の出てくる「ルカによる福音」19章1〜10節を読んでみましょう。
「子どもの奉仕するミサ」で朗読することが多い高学年の男の子に読んでもらいました。
みんな、ミサで朗読が行われるときは、「聖書と典礼」は見ないようにしましょう。
読んでいる人の声を良く聞いて理解するようにしましょう。
今も、福音が書いてあるプリントは机においておいて、手を合わせてよくきいてみましょう。

 

 

ザアカイのお話思い出しましたか?

ザアカイは徴税人です。
ローマ帝国の人に「税金(おかね)を持って来て」と言われて、みんなからお金を集める人です。

地球儀で、ローマの位置とローマ帝国がどれくらい大きかったかみてみました。
そして、イスラエルの場所も確認してみました。

徴税人は、例えばローマ帝国から「一人あたり100円とってこい」と言われたら、500円とって、400円を自分のものにしていました。
だから、お金持ちだったけど、みんなから嫌われていました。
ザアカイも嫌われ者でした。

ザアカイは背が低かったので、人々に囲まれているイエス様が見えませんでした。
どうしてもイエス様を見たくて、木に登ってイエス様を上から見ました。

ザアカイを見つけたイエス様は「ザアカイの家に泊まりたい」といいます。
新約聖書はギリシア語で書かれています。この日本語訳はちょっと間違っていて、直訳すると「あなたの家に泊まらなくてはいけない」とイエス様は言っています。
周りの人々は「え〜??なんでそんな人の家に泊まるの?悪い人なのに」と思いました。

ザアカイは喜んでイエス様のところにいって、喜んでイエス様を迎えました。
でも人々は「イエス様は悪い人の家に泊まった」と言いました。
それで、ザアカイは立ち上がって言いました。
「自分の財産の半分を貧しいみんなにわけます!みんなをだまして多く取ったお金は4倍にして返します!!」
それをきいたイエス様はいいます。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子(イエス様のこと)は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

イエス様に出会えて、ザアカイは変わりました。

ここで、宿題です!
3つの問題を来週までに考えて来てほしいです。

1問目 なんでザアカイはイエス様を見たかった(イエス様に会いたかった)のでしょうか?
2問目 なんでイエス様は嫌われ者のザアカイの家に泊まると言ったのでしょうか?
3問目 イエス様が言った「救いが訪れた」とはどういうことでしょうか?

 

 

今日の教会学校はこれで終わり!
ですが、その前に、今日でお別れになってしまう子がいます。
外国にお引っ越ししてしまうので今日が教会学校最後になります。

 

子どもたちからプレゼントを渡しました。
日本のみんなのこと覚えていてね!

 

お互いに「ありがとうございました!」と声を掛け合いました。
握手もしました!

 

ミサの聖変化のとき(神父さまがご聖体やぶどう酒を掲げるとき)、世界中のみんなが繋がっています。
遠くにいっても!
みんな、今日は聖体拝領のあとに、お別れする子の為に「アヴェ・マリアの祈り」を一回となえましょう!

 

 

そして教会学校の終わりに「アヴェ・マリアの祈り」を唱えました。

また元気に来週集まってください!




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本日、教会学校の2学期始業式の中で、中高生のサブリーダー任命式が行われました。

フィリップ神父様から任命証が送られました。

サブリーダーには、以下の条件を満たしているとリーダー達が思った時、なってもらいます。

  • 堅信を受けていること
  • 奉仕の指導がしっかり出来る事(侍者リーダーになっていること等も含む)
  • 下級生のフォローをしっかり出来る事

 

これからは、教会学校で子ども達に「教える立場」になります。
困っている子がいたら一緒に考えてあげたり、お祈りの時に、十字の切り方や手の合わせ方がおかしいなという子がいれば、しっかり教えてあげましょう。
また、錬成会などの行事では、リーダーたちと一緒に子ども達をフォローする立場になります。今までのように一緒に「楽しむ」だけではいけないですね。

堅信を受けた者として、聖霊の賜物を活かし、サブリーダーとしての責任を果たしてください!
リーダー達と一緒に教会学校を盛り立てていきましょう!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは6人。

夏休みも終わり、部活がお休みだったこともあって、久々に来たメンバーも!

今月は、錬成会や修練会でもした「ミサ」についての勉強です。
錬成会のなかでも、侍者リーダーとして奉仕する時、また、下級生に教える時、様々なことを覚えておかないといけないと感じたと思います。
ミサが、私たちキリスト者にとってどのようなモノなのかという事に対する理解を深め、自分が行う奉仕がどのくらい大事なことなのか、どれほど重要な事を任されているのか…一緒に考えていきましょう。

その前に今日はまず教会学校の始業式に一緒に参加しましょう!
堅信を受けている中高生は、子ども達の後ろに座って、子ども達の様子をしっかり見てあげてください。(神父様の話をしっかり聞いていない子には注意しましょう)
まだ、堅信を受けていない中高生は、子ども達と一緒にフィリップ神父様やリーダーの話を聞いてください。

2学期始業式のなかで1人の中学生が、教会学校のサブリーダーに任命されました。

これからは子ども達に教える立場ですから、しっかりと今日の勉強も覚えて、子ども達に伝えられるようにしてください。


今月のテーマ

● 奉 献 文 ●

 

 

さて、今日は、ミサについて一緒に考えてみましょう。
今日配ったプリントは、前にも配ったことがありますね。

最初に典礼歴について書いてあります。
中高生会のメンバーとしては、教会学校の時のように「待降節 > 降誕節 > 年間 > 四旬節 > 過越の聖なる3日間 > 復活節 > 年間」と覚えておけばいいというわけではありません。
今私たちがどのような時期であり、イエス様の道をどのように歩んでいるのか…説明ができなければなりませんね。
(それぞれの詳細な説明は、今日は省きます)
ここにいるメンバーには、何度もこの話をしていますから、もう当たり前でしょうが…祭服の色、そして、その祭服がどのような意味を持っているのかなども含め、ともに成長していけるようにしていかなくてはいけませんね。
たとえば、待降節と四旬節は、同じ「紫色」の祭服ですね。この2つの時期にはどのような意味がありますか?
もちろん、みんな分かっていますね。「回心」すると言う意味ですね。待降節は「幼子イエス」、四旬節は「受難・死・復活」とともに神様の愛が私たちに示されます。その前に、私たちはその愛をしっかり受け取れるように、自分を捨て心を神様に向けなければなりません。
待降節も四旬節も、毎年A年でもB年でもC年でも同じ内容が朗読されます。待降節は「目を覚ましていなさい」というテーマ、四旬節は「洗礼後の悪魔の誘惑の話」です。そう、どちらも「神様に心も体も向け、神のみ旨のなかで生きなさい」というお話ですね。人間(自分)の意思、考えの中で生きていればそこに神様は愛は根をはることができないからです。(神は愛-2018年度 1 勉強会)

このように私たちは、毎年毎年、典礼を通し、神の愛を思い起こします。
それは、「今現実に起こっている救いの出来事」です。

聖書に書いてあることは全て事実です。
神の愛を受けた数千年前の人の思い、考え、全てが描かれています。
イエス様も2000年前に現実にいました。神の子であり、救い主であり、神様と私たちを繋ぐ役割である大祭司でありながら、人の子として私たちのうちに生き、人として、神のみ旨に生きる信仰者としての模範を示してくださいました。
これは「おとぎ話」でも「あるスーパーヒーローの夢物語」でもなく現実に起こった、そして、今みんなの前に起こっていることだということをしっかり認識してください。
それを最も示してくれているのが、ミサなのです。

 

 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

ヨハネによる福音書 1章14節

 

ヨハネ福音書の初めにこのような御言葉がありますね。
ミサは、まさにこの御言葉を体現しています。共同体でミサをともにミサに参加し、聖書の朗読箇所を聞き、頭と心で理解する。そして、その御言葉を受けた私たちは、聖変化されたパンを頂き、イエス様をお迎えする。まさに、「ことば」が「」となって、「わたしたちの間」に宿られます。
だから、よく「感謝の祭儀」だけ出ればいいと思っている人がいますが、「ことばの典礼」も「感謝の祭儀」もどちらも大事です。もし、御言葉を味わなければ、その御聖体には意味がありません。アレルヤ唱より後に御聖堂に入るようでは、聖体には意味がないといのは、そういうことです。肉となる言葉が私たちの内にないのですから。
もっと言えば、しっかりと朗読やホミリア(説教)を、頭で理解し、心で悟っていなければご聖体は無意味になります。ただミサにいるだけでは全く無意味です。
ミサは、学校の集会や朝礼とは全く違うものです。
心から、キリスト者として、松戸共同体の信徒として、ミサに参加し、心を合わせ、共に共同体全体で祈るものでなければなりません。

想像してみてください。
食事に呼ばれた時に、たくさんの人が招かれているのに、遅刻してきたり、ただそこにいるだけ、どんなメニューが出ているかも知らず、ただその時間が過ぎるのを待っているような人をどう思いますか?ホスト(招いてくれた人)や食事を作ってくれた人、周りの人に失礼ですよね。
また、自分だけが美味しく食事を頂いていたり、ホスト(招いてくれた人)と話そうとしていたりしていたら、本当の意味で美味しく食事を頂いたり、楽しく時間を過ごせますか?

分かりますよね?
イエス様は、「わたし達の間」に宿られました。「私」にではなくです。教会は、呼び集められた者達という意味でした。その「呼び集められた私達」の間、つまり、イエス様は、人と人の間にいらっしゃるのです。だからこそ私達は心を合わせて、ミサに与らなければなりません。

さて、それを最も象徴しているのが「奉献文」です。
奉献文は、叙唱からスタートし、栄唱まで、1つの祈りです。
最後の晩餐や「5つのパンと2匹の魚の奇跡」の話の時、イエス様は神様に「感謝と賛美」の祈りをし、食事を始められます。奉献文は、「キリストの代理者」である司祭によって、それがなされています。そして、この際、聖霊の働きにより、イエス・キリストの過越(受難・死・復活)が「今」に繋がり、全てのキリスト者が、神様との新しい契約の更新を行います。

 

今日は、奉献文に焦点を当て、ミサがどれ程私たちにとって大事なものか考えてみましょう。

まず、叙唱ですね。
よく勘違いされがちですが、叙唱、感謝の讃歌が終わり、奉献文と思われがちです。
つまり、祈りは感謝の讃歌が歌い終わってから始まっていると…。みんなも侍者をしていて、緊張感を持つのは、「ホザンナ~~~」と(カンパネラを鳴らすから…)歌い終わる頃かもしれませんね。
でも、これはちょっと違いますね。
叙唱は、序唱ではありません。祈りの「前(序)」のものではないのです。
叙唱は、ラテン語で、プレファチオと言います。「プレ」には、「前」という意味がありますが、この「前」は、祈りの「前」ではなく、神様の「前に」立つと意味と考えたほうが良いです。「ファチオ」は直訳すれば「やり遂げる」「行う」と意味です。つまり、これが「祈りの最初」であるという事です。

 

  • 私達は、神の前に立ち、感謝と賛美の祈りを捧げる。
  • キリストの過越(受難・死・復活)を共に経験する(行う)前に、感謝と賛美の祈りを、共同体全体で共に捧げるために、私達はまず「ことばの典礼」で受けた「み言葉」を心と頭で正しく理解するために(共通の目的化するために)宣言する。

 

オペラを知っている人は、少しピンとくるかもしれませんね。オペラでは、叙唱は「個人的な感情の独白や、状況説明、ストーリーの紹介」で歌われるものですね。ただ、このオペラの叙唱は、レチタティーヴォというイタリア語(フランス語)の訳です。でも、意味はこちらの方が近いと思います

つまり、叙唱は、「神様の前に立ち、~~~~を頂きました!みんなで感謝と賛美の歌を歌います!」と祈り始めているわけです。
こういう風に言うと、ここから祈りが始まっていると分かりますよね。

だから、清めが終わり、奉納祈願が終わったら、そこから「感謝と賛美の祈り」が始まっている!としっかり認識して下さい。侍者をするものにとっては、この認識はとても大事ですし、小さな子達にもここからは、より一層「神さまの前にいる」という認識をもってもらわないといけません。

そして、感謝の賛歌が歌われ、「聖変化」へと移ります。
ここは、ラテン語だとエピクレーシスと言います。エピクレーシスは「呼び求める」「呼び下ろす」という意味があります。
何を呼び求めるのか?簡単ですね。「聖霊」です。

最後の晩餐でイエス様が示された通りに、キリストの代理である司祭によって、「ことば」によって、そして、「聖霊」によって、この時、この瞬間、過去・現在・未来、聖ペトロから、みんなの子ども達、世界の終わりまでの全てのキリスト者が繋がります。
司祭がホスチアに按手する時、聖霊によって、私達と神様の関係、そして、私達共同体の関係は修復され、癒されます。これは、全ての秘跡において、言えることですね。
ゆるしの秘跡の時、病者の塗油の時……司祭から按手を受けている時、同じように私達は癒され、神様との関係が修復されているのです。イエス様が、手をかざしただけで病人を癒すのと一緒ですね。こうして、私達共同体は、共同体として、キリストの体へとなっていきます。
この空間は、まさに「神の空間」です。
侍者リーダーとして、カンパネラを鳴らす時、その音はまさに神の空間であることを表しているのです。それを意識してならせるといいですね。

修復という言葉で、ピンとした人がいたら、しっかり今までの勉強を覚えている証拠ですね。
「イエス様が十字架上の死において、私達と神様との関係を修復されたこと」とこの修復は同じ意味だからです。つまり、受難・死・復活というものを心の底から信じていなければ、エピクレーシスは全く無意味なものになります。
ご聖体も御血も全く無意味です。全てが無意味です。それはタダの小麦粉の塊であり、ただのぶどう酒です。みんながキリスト者である意味もありません。
ミサにしっかり与るとはそういう意味です。
十戒でも「主の日を聖とする」というものがありますね。心の奥底から聖霊を求め、神様との関係を求めてください。求めれば神様は必ず与えてくださいます。

そして、最後の晩餐でのイエス様の言葉「聖体制定」のことばが唱えられます。
私達は、ただそこにある「小麦粉の塊」が「ご聖体」になったことを祝っているのではありません。マジックが成功した!とお祝いしているわけではないのです。
イエス様がそこにいる。という事、そして、イエス様の受難・死・復活を思い起こし、神様が独り子である御子を私達のためにいけにえにして下さったほどの愛をくださったことをお祝いしているのです。そのことをしっかり心に刻んでください。
これらの事は、まさに「信仰の神秘!」です。これらの事を正しく理解していれば、心から「イエス様が来られるまで」つまり、「世の終わりまで」「イエス様の死を思い、復活を讃える」事が出来るはずです。

そして、その後、「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます」と、奉献の祈りです。
目の前で起こった神秘、イエス様の受難・死・復活を見た私達は、「奉仕出来ることに感謝」します。私達がイエス様が御自らを捧げてくださったように、私達も神様に、隣人に、自分を捧げます。完全な神様に私達は必要ないかもしれません。しかし、今、目の前でイエス様がなさったことを私達は知っています。私達にはそれぞれ神様から役割を与えられています。そのためにそれぞれタレント・カリスマを受け取っています。その役割こそがありのままの自分であり、三位一体の神との関わりの中に生きる私達のアイディンティティです。イエス様は、それを自ら示してくださいました。私たちもイエス様と同じように神様から愛を受けているわけですから、神様から与えられた役割を果たさなければなりません。

まず、神によって、癒され、愛を示され、そして、それを余すことなく受け取り、全てを捧げる。これこそ「奉献」の意味です。

そして、その奉献した私たちは、1つの共同体として、今を生きる私たち教会(全ての信者)のために、亡くなった方々のために、祈ります。
何度も言っていますが、私たち全ての(過去・現在・未来の)信者は、この瞬間、聖霊により繋がっています。私たちは、このように、昔の信者の方々に祈られていました。そして、未来の信者の方々も私たちのために祈ってくれています。また、世界中の信者が私達のために祈ってくれています。
私たちは、常に誰かに祈られています。だからこそ、私達もその祈りの繋がりのなかに入っていき、全ての信者のために祈ります。
さらに、ここで全ての聖人との交わりを願います。
神の国の住人となっている聖人との交わりを願う事で、私達もキリスト者として、キリストの道を歩める者であり続けられるように、取り次いでいただき、私達がより豊かな奉献が出来るように願います。

 

最後に、栄唱を唱えます。
「キリストによってキリストとともにキリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに」
三位一体の神様の中に入っていく、関わりの中に入っていく、キリストの道を歩んでいく……、全身で神様への賛美を唱えます。そして、その賛美に対し、私たちは、アーメン、そう、確かにその通りです!と判子を押します。
昔は、栄唱を唱える時は、頭を下げ、神様に深い敬意を示していました。
栄唱は、ただの短い一番覚えやすい祈りではありません。神様の栄光が全世界に届き、全世界の人々が神様の愛を受けることが永遠にできますように!という深いお祈りです。

私達が受けた愛が全ての人々に届く…つまり、イエス様がおっしゃったようにそれを全世界に私たちは広めないといけません。
主の過越をともに体験し、また、新しく生まれ変わった私達に何ができるでしょうか?聖霊の力により、今体験したことを受け、私たちは何をすべきでしょうか?

教会は、ミサによって、成長し、ミサによって新しく生まれ変われます。
だから、ミサは大事なのです。

これからミサに与りますが、それぞれの役割をしっかり認識し、しっかりと神様から恵みを頂きましょう。

それでは、最後に主の祈りを唱えて終わりにします。

 


 

次回の勉強会は、10月7日です。
筆記用具とロザリオをもって、集まってください!

ロザリオの月ですから、ロザリオについて勉強しましょう!