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当記事は、教会誌『みかえる』2019年12月号より転載いたしました。

 


 

 

皆様、ごきげんよう。

このたび(どのたびだ!)、カトリック松戸教会の主任司祭として着任致しました、フランシスコ・アシジ伊藤淳(いとうあつし)と申します。どうぞ宜しくお願い致します。

生来の怠け者で、人の寛容さに甘えるたちで、おまけに遅筆なので、これまで原稿依頼をのらりくらりとかわして参りました。しかし、着任半年を過ぎた頃から若干ではありますが心が痛むようになり、反省の気持ちが少しだけ湧いてきましたので、今回はなんとか頑張って巻頭言を執筆させて頂くことに致しました。

さて、王であるキリストの祭日を祝い終え、教会はいよいよ新しい年度の待降節に入ります。私にとっては松戸教会に来て初めての待降節で、希望に胸が高鳴っています。信徒の皆様と一緒に良い待降節を過ごし、良い降誕祭を迎えたいと願っているからです。

ところで、良い待降節、良い降誕祭とはどういうことでしょうか。どうしたら良い待降節を過ごし、良い降誕祭を迎えられるのでしょうか。

まずは待降節や降誕祭の意味と意義を、しっかりと把握する必要があるでしょう。

降誕祭に関しては今更ここに記す必要はないと思われますが、問題なのは待降節です。

『新カトリック大事典』の「待降節」の項には、「キリストの第一の到来である主の降誕の祭日への準備期間であるとともに、終末における第二の到来(再臨)への待望にも心を向ける期間。典礼暦年の1年を開始する期間で、主の降誕の祭日の四つ前の主日にあたる待降節第1主日の前晩の祈りから始まり、主の降誕の祭日の前晩の祈りの前まで続く」とあります。

この概括の後半部分は、待降節の具体的な期間を説明していますが、これを正確に知っているかどうかはさほど重要なことではありません。記憶していれば便利ですが、知らなくても誰かが(少なくとも教会が)教えてくれるので、覚えていなくても大丈夫です。

重要なのは前半の部分に記されている内容、つまり、待降節が「いつ」なのかではなく「何」なのか、です。特に前半の後半(ややこしい表現で申し訳ありません)がポイントでしょう。前半の前半(ややこしい表現が続いて申し訳ありません)は信者であれば誰にでも予想がつく内容ですが、前半の後半(何度もややこしい表現で申し訳ありません)はいかがでしょうか。「終末における第二の到来(再臨)への待望にも心を向ける期間」であることを、ご存じだったでしょうか。ご存じであれば、「さすが!」です。

確かに、主の第一の到来はとても素晴らしいことではありますが、過去のことです。現代日本に生きる私たちには直接体験できない、二千年前のイスラエルでの出来事です。ところが第二の到来は、私たちが将来必ず直接体験するリアルな出来事なのです。

ですから待降節には、過去だけではなく、未来にもしっかりと目を向けたいと思います。そして、主が再臨し、世が終わり、神の国が完成し、最後の審判がなされる時に、神の国の宴に迎え入れられ、永遠のいのちを頂くことをはっきりと目指すべきです。その時が来るまでに、自分が何をなすべきかをじっくりと考え、考えるだけではなくきっちりと実践しなければなりません。キリスト者なら知識だけでは不十分です。よく考え、実践して初めて「さすが!」なのです。そうでなければ信仰とは言えないし、救いには繋がらないからです。

キリスト者にとって待降節は、未来に向けて考え、実践する季節なのです。

 

主任司祭 伊藤 淳 神父




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松戸教会主任司祭      
フィリップ・ボニファチオ神父

 

「こうして今、終わりの時を迎え、私は終幕へと立ち向かう…満ちあふれた人生を生きてきた」
私は、今、このフランク・シナトラの歌を思い起こし、同じ気持ちを味わっています。

時は、またたく間に過ぎていきます。もし、私が松戸教会にいる時間を遅らせ、時を 止めることができたら、どんなに良いでしょう。しかし、異動の時が来て、次の宣教司牧を任命されました。私はそれが聖霊の働きによって、神が私に新しい使命を託されたと思っています。私の心は、愛したところを離れることで、苦しめられています。愛し、信頼し、親しく交わり、尊敬し、個人的な分かち合いをもち、気持ちよく家庭に招いてくださった皆さまのことを思うと、更に辛い思いです。

松戸教会の小教区司祭として、助任司祭として、日本人の方々と、また、外国コミュニティの方々とともに働いた9年間は、私にとって大きなチャレンジであり、実りとなり、私を変えてくれました。考え方、行動の仕方が大きく成長して、司祭のあるべき姿、宣教師としてどう働くべきかを学ぶことができました。それは、司祭は信徒を支配したり管理するのではなく、信徒が自由に発想して行動できるような空気を作ることです。信徒にアイディアを与えたり指導するのではなく、人々からすすんで学び、教えてもらうことです。司祭は、謙虚で、寛大な心をもって、ゆるし、理解する人になるべきであることも学びました。そして、羊の群れとともに、すすんで旅をする善き羊飼いになること、信仰深く祈ること、信徒とともに笑い、喜び、ジョークを分かち合い、ともにいただいたいのちを称えるべきだということも学びました。また、司祭として、神の愛を行動の中で証すること、神の言葉の内に生きる姿を見せなければなりません。病気の人、貧しい人、社会の中で低くされている人たちに心を向けなければならないことも学びました。この 9年間にわたる私の司祭生活と聖職者の仕事は、皆様の友情、協力、信頼、尊敬、愛、祈り、支援のおかげで意義あるすばらしいものになりました。
移住者、 MICHIKOTO UNITEDの仕事、聖ミカエル幼稚園で英語を教える仕事も充実さを加えるものでした。

私はフィリピン人として最初のコロンバン会司祭であり、外国人小教区司祭でしたが、69年に及ぶ松戸カトリック教会の活発な共同体を築くために一生懸命働いてこられた、たくさんの小教区司祭の中で大切に育てていただきました。皆さまがこれからも充実し繁栄し続けられることを、また司祭職の召命、シスタ一方の聖なる生活が続けられますように願い祈ります。

最後に、私が至らなかったこと、日本語を十分理解できなかったこと、皆様の気持ちを正確にくみ取れなかったこと、利己的だったこと、時には厳しかったことなど、どうぞお許しください。松戸の生活を実りある楽しいものにしてくださった皆さまに心から「どうも、ありがとう!」

 

Stephen Grelletの言葉を引用して、私のお別れのメッセージを終えます。

「私はこの世界を一度しか通過できません。だから、私にできる、仲間に示すことが できるやさしい良いことを、今やらせてください。それを後回しにしたり、なおざりに させないでください。この道を、もう一度通ることはないからです。」

 

 


 

 

Fr. Philip Ilio Bonifacio, SSC

PARISH PRIEST

As the song goes, sang by Frank Sinatra,

“And now the end is near, and so I face the final curtain……  I have lived a life that is full……”

This is what I am feeling right now.
Time is ticking very fast.  If  only  I  could  slow  it  down  or  stop  time  so  as  to prolong  my   stay in Matsudo. But time has to move  on  and  so  do  I  to  my  next Mission  Assignment.  I know it is time again to be open to the movement of the Holy Spirit and to the new mission God is unfolding before me.         My  heart   tells me that leaving a place that you  have  loved  is  difficult  to  let  go.  Much  more difficult when people of that place has loved you, trusted  you,  be  friended  you,  respected  you,  and  shared  their  personal  lives  and  have  comfortably  invited  you into their homes.

Nine years of working in Matsudo as an Assistant Priest and as a Parish Priest both for Japanese and the foreign communities has really challenged and changed me. It also developed and sharpened my way of thinking and acting. Being a foreigner I have learned a lot about Japanese culture and on how to do things.

Being in Matsudo this long, I learned how to be your priest and how to be a missionary. It is letting people exercise their freedom and initiative rather than controlling. It is seeking people where they are rather than waiting for them to come. It is not just teaching and pouring ideas on people but learning and willing to be taught by them. I learned that to be a priest of the   people one is to be gentle, forgiving, humble and understanding. One is to be prayerful and holy, one is to be a good shepherd willing to journey with his flock and ready to go an extra mile. I learned also that to be a priest of the people is to share laughter,              joy, jokes and celebrate life together. I learned also that to be a priest is to manifest God’s love in his actions and live what he preaches. I learned also that as a priest we have to take care of the sick and those who are poor and lowly in the society. My priesthood and ministry over these 9 years have been meaningful and complete because of your friendship, cooperation, trust, respect, love, prayers and support. My work with the migrants, MICHIKOTO UNITED and teaching English in the Kindergarten of St. Michael also added to that fulfillment.

Being the first Filipino Columban and a foreign Parish Priest, I am honored to be among the many Parish Priests who have labored so hard to form this vibrant and active Community of Matsudo Catholic Church over the span of 69 years. I pray that you will continue to be fruitful and prosper and encourage vocation to the priesthood and to the Religious Life for Sisters.

 

Lastly,     I am asking for your forgiveness and my apology for my shortcomings, for not mastering your language, my being insensitive to your needs, for being selfish, and hard on you at times. My apology. To all of you who made my stay in Matsudo a fruitful and enjoyable one, I say, “Thank you very much.”

Let me end my farewell message with this quote, “I expect to pass through this world but once. Any good, therefore, that I can do or any kindness I can show to any fellow creature, let me do it now. Let me not defer  nor  neglect  it for I shall not pass this way again.” —- by: Stephen Grellet

 




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主任司祭 Parish Priest

フィリップ・ボニファニチオ神父

Fr. Philip Ilio Bonifacio, SSC

 

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

主のご復活、おめでとうございます! 皆さん一人ひとりに、大きな喜びと希望をもって、復活祭おめでとう!と心から願います。復活祭は、イエスが死のふちからよみがえり、ご復活を通して希望が始まることを祝うときです。

復活祭は「希望の日」と言うことができます。イエスはファリサイ派の偽善者とローマの圧政に立ち向かいました。イエスの愛を伝えることは特権階級の宗教家と政治家にはタブーとされることでした。私たちはいつも生と死のたたかいの中にいました。イエスは死刑を宣告され、神を冒涜したという罪で処刑されました。イエスの死と共に、弟子たちは闇に呑み込まれるように、その場から逃げることを選びました。新しい世界への希望は十字架の上で握りつぶされたかのように思われました。失望が続くもっとも長い夜でした。しかし、主のご復活でその失望は希望の喜びに変わりました。キリスト教の信仰がその朝、愛と希望の知らせを持って誕生しました。一介の漁師たちが、聖霊によって力を与えられ、世界中に新しく愛を伝え始め、ついにキリスト教会を建ち上げたのです。キリストは約束したとおり三日目に死者のうちから復活なさいました。その日、人類の歴史が変わりました。その不思議なできごとの神秘性が私たちに希望を与えてくれます。私たちを癒し、力づけてくれる希望を喜び祝います。

さらに、私たちが生きる世界にはたくさんの希望を必要とします。この世は希望が奇跡を起こしてくれることを待ち望んでいます。ご復活のその日、弟子や婦人たちは墓に行ってみると、キリストが葬られていた場所から石が取りのけられているのを見ました。キリストのご復活は私たちの心の中にある石を取り除くことを意味します。つまり、ご復活の不思議なできごとが、この世に生きる一人ひとりの魂に癒しと平和と和解をもたらすように、私たちの心を動かすのです。これこそ、今日の世界に生きる教会が語り伝えて行かなければならない使命なのです。今日生きていることを、この復活祭ミサで喜び祝いましょう。さあ、いっしょに行動に参加して、人が作り出した墓に閉じ込めて出られなくしている石を取りのけましょう。

平和が始まり、さらに前進しますように。私たちの生きる社会や世界が、希望のない世界から平和と繁栄の世界に引き上げられ、「約束の地」になりますように。

ハッピー・イースター!

 


 

 

Easter 2019 Message

 

Dear brothers and sisters,

 

Happy Easter to you all!  With great joy and hope I wish each one of you, a happy Easter!  Easter celebrates the rising of Jesus from darkness of death into dawn of hope through resurrection.

Easter is a day of Hope.  Jesus stood against the hypocrisy of the

Pharisees and the oppression of the Roman Power.  His message of love was a taboo for the Religious and political elites.  Our struggle has always been between death and life. Jesus was condemned to death and murdered as a criminal because, for people he blasphemed God.  With his death, darkness seemed to engulfed his disciples and chose to flee from the scene.  Hope of a new world seemed to have been strangled on the cross.  It was the longest night of despair.  But Resurrection turned that despair into a celebration of hope. Christianity was born on that morning with the message of love and hope.   The simple fishermen were empowered through the Spirit to start a new worldwide wave of love that culminated in establishing the Christian Church.  Christ rose from the dead on the third day as he promised.  Human history changed that day.  Hope is the secret of that wonder. We celebrate that hope that heals and empowers us.

And our world needs a lot of hope.  This world waits for the miracle of Hope. On the day of resurrection, the disciples and women went to the grave but found the stones removed from where Christ was buried.   Easter is about removing the stones in our hearts and lives. Therefore, let the wonder of Easter, touch every human soul in this world so as to bring healing, peace and reconciliation. This is the prophetic mission of the church in today’s world. We celebrate life today in this Easter!  Come let us together join the march to roll out the stones that have entrapped people in man-made graves.

Let Peace break forth in the dawn.  Let our society and the world be raised from hopelessness into Peace and prosperity and become the Promise Land. 

 

Happy Easter!

 

 

 




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『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。』(マタイ5:9)

イエス・キリストに従う者として、私たちは『神の子』と呼ばれる恵みを切望します。
聖霊の助けによって、私たちは今の困難な世界に平和を実現しようと絶えず努力しています。
アシジの聖フランシスコの『平和の祈り』を思い出します。憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、闇には光を、悲しみのあるところには喜びをと切に望みます。

洗礼を受けた時、私たちの使命、召命の一つが、すすんで愛と平和と協力に向かうことでした。
最近の日本は、鉄砲水による大洪水や熱波による猛暑といった環境破壊の災害に襲われていますが、世界を見ても憎み合いや戦争、暴力が起こっています。通り魔的殺人まで日々起こる時代です。さらに、ソーシャルメディアの中では、侮辱したり傷つけたりすることばに慣れっこになってしまっています。そんなとき教会は、助けが必要な人を助けましょうと勧告し、平和と協力のために積極的に働く召命と使命を皆で共に持ち、揺るぎない確かな信念でいられるようにと強く勧めています。
イエス様が私たちにくださった平和は、悪への妥協や服従の平和ではありません。争いや混乱がないということでもありません。
しかし私たちは使徒たちと同じように、恐怖や混乱には簡単に負けてしまいがちです。聖ペトロと同じく、私たちは波の荒い海に既に大きな一歩を踏み入れているときでも、『信仰がうすい』ために沈みかけてしまいます。(マタイ14:31)
このような荒れ狂った時代に私たちを安心させることができるのは、変わらぬ存在と平和を私たちに確信させられる神様だけだと、冷静に認めるしかありません。
『恐れることはない、わたしだ!』(マタイ14:27)

2018年8月15日、「聖母の被昇天」の祭日に、共に祈りに参加し、断食して神様に憐れみを願い、自然災害から環境を守り、私たちの世界に平和の恵みを与えてくださいますようにと祈ります。また、日本やフィリピンのこと、そして全世界を、聖母マリアの『平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。』(マタイ5:9)イエス・キリストに従う者として、私たちは『神の子』と呼ばれる恵みを切望します。
聖霊の助けによって、私たちは今の困難な世界に平和を実現しようと絶えず努力しています。 アシジの聖フランシスコの『平和の祈り』を思い出します。憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、闇には光を、悲しみのあるところには喜びをと切に望みます。
洗礼を受けた時、私たちの使命、召命の一つが、すすんで愛と平和と協力に向かうことでした。最近の日本は、鉄砲水による大洪水や熱波による猛暑といった環境破壊の災害に襲われていますが、世界を見ても憎み合いや戦争、暴力が起こっています。通り魔的殺人まで日々起こる時代です。さらに、ソーシャルメディアの中では、侮辱したり傷つけたりすることばに慣れっこになってしまっています。そんなとき教会は、助けが必要な人を助けましょうと勧告し、平和と協力のために積極的に働く召命と使命を皆で共に持ち、揺るぎない確かな信念でいられるようにと強く勧めています。イエス様が私たちにくださった平和は、悪への妥協や服従の平和ではありません。争いや混乱がないということでもありません。しかし私たちは使徒たちと同じように、恐怖や混乱には簡単に負けてしまいがちです。聖ペトロと同じく、私たちは波の荒い海に既に大きな一歩を踏み入れているときでも、『信仰がうすい』ために沈みかけてしまいます。(マタイ14:
31) このような荒れ狂った時代に私たちを安心させることができるのは、変わらぬ存在と平和を私たちに確信させられる神様だけだと、冷静に認めるしかありません。
『恐れることはない、わたしだ!』(マタイ14:27)

2018年8月15日、「聖母の被昇天」の祭日に、共に祈りに参加し、断食して神様に憐れみを願い、自然災害から環境を守り、私たちの世界に平和の恵みを与えてくださいますようにと祈ります。また、日本やフィリピンのこと、そして全世界を、聖母マリアの母なる愛にゆだねましょう。イエスは母と『愛する弟子』を見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です!』と言われました。(ヨハネ19:26)
私たちは、本当に母であるマリアを、子としての愛をもって見つめます。
『教会の母であるマリアよ、私たちの近くにいてください。私たちが絶望したり、信仰、希望、愛のぶどう酒がなくなったりしたときには特にお願いします。(ヨハネ2:1-11)私たちにできることをお示しください。
そして、環境破壊と迫害に直面して心を失ったとき、あなたのそば近く、十字架のもとに立ち、あなたの愛する子、私たちの主、救い主イエス・キリストの脇腹から流れ出る水と血で強い心を取り戻すことができますように。

アーメン。

 

 


 

 

Our Resolve to be Peacemakers through Prayer and Fasting

 

“Blessed are the peacemakers, they shall be called sons and daughters of God.”(Mt 5:9)

As followers of Jesus Christ、 we aspire for the grace to be called
“sons and daughters of God. With the help of the Holy Spirit, we constantly strive to be peacemakers in these troubled times in our society and the world. We remember the Peace Prayer of St.Francis of Assisi, and with that we strive to bring love where there is hatred, pardon where there is injury, faith where there is doubt, hope where there’s despair, light where there is darkness, and joy where there ls sadness.

When we were baptized one of our mission and calling is to promote love, peace and cooperation. In these times of environmental disasters like flash flooding and heat-wave in Japan, when there is hatred, war and violence around the world,when there is murder in daily occurrence in our streets, when people have gotten so used to exchanging insults and hurting words in the social media, the Church admonishes us to help people in needヽand admonish us to remain steadfast in our common vocation and mission to actively work for peace and cooperation.
The peace that Jesus gives us is never the peace of compromise or capitulation to evil; it is also not about the absence of conflict and turmoil. But like the apostles, we are often so easily overcome by fear and panic. Even when we’re already making big steps on troubled waters like St. Peter, we find ourselves sinking because of our “little faith” (Mt14:31). There is nothing that can calm
us down in these turbulent times except the quiet recognition of him who
assured us of his abiding presence and his peace.
“Be not afraid; it is I !”(Mt 14:27)

On August 15, 2018 on the feast of the Assumption of Our Lady, let us join together in prayer and fasting to ask God in his mercy, to give us the grace of Peace in our World and environmental protection from natural calamities.
On this day also let us commend Japan, the Philippines, and the whole world to the maternal care of Mary, the woman to whom Jesus entrusted his “Beloved Disciple” and said, “Behold your son!” (John 19:26) We, for Our part, behold her – our mother in faith ― with filial love.
“Mary, mother of the Church, be near to us especially when we tend to despair and run out of the wine of faith, hope and charity.” (John 2:1-11)  Teach us to do only what your Son asks of use And when we lose heart in the face of environmental destruction and persecution, may we stand by you at the foot of the cross and regain our strength from the blood and water that flowed from the wounded side of your Beloved Son, our Lord and Savior, Jesus Christ.
AMEN.

 

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC




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皆さん、ご復活おめでとう! 主はよみがえられた、アレルヤ!

イエス・キリストの復活はキリストを信じるものにとっていちばん大切な出来事です。
聖霊の力を与えられた弟子たちを通して、福音を声高らかに宣べ伝える使命を持つた教会の礎に大きな意味を持っています。福音書に書かれたこの事実がなければキリスト教信仰はなかったでしょう。
イエス様が苦しみを受けて死に、3日の後に復活すると福音書で言われています。
イエス様が命を捧げられたことを思うと、どうしても、イエス様が受けた耐えがたい苦しみに私たちは注目してしまいがちです。
福音書に書かれたイエス様は、死ぬほどに強くむち打たれ、頭に突き刺す茨の冠をかぶせられ、自分の十字架を担がされました。手と足に釘を貫かれ、イエスさまは十字架につけられ高くかかげられました。これまでに考えられた最も残酷で非人道的な重い刑罰の形でした。私たちのために耐え忍んだイエス様の苦痛を思わずにはいられません。

しかし、このご復活を考えるとき、もう一つの見方も考えられます。
イエス様が十字架につけられる前のある時点で苦しまれたのです。イエス様のいちばん近い友に背を向けられ、裏切られた時に感じた苦痛です。
ご自分の心血を注いだ12人の弟子を、イエス様は自分で選びました。これらの人たちはこの世の家族と同じでした。イエス様を囲んで、イエス様から教えを学び、イエス様に仕えて宣教しました。彼らはイエス様の『腹心』でした。イエス様は弟子たちを愛していましたが、それでも、ずっと前から弟子たちのなかに公然と裏切る者がいるだろうとわかっていました。ユダが銀貨30枚でイエスを売るでしょう。それからペトロがイエスを知らないと言うでしょう。マルコ福音書によれば、このことをイエスさまはゲッセマネに発つ前に予告していますが、イエスさまの心を深く突き刺したに違いありません。イエスさまがこぶしで殴られ、唾を吐きかけられているとき《マルコ14:65》、ペトロはキリストから離れることにやっきになっていました《マルコ14:66-72》。そこにいた人たちは3度ペトロに近づいてイエスの仲間ではないかとたずねました。そして3度ペトロは『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と言って否定しました。《マルコ14:71、ESV》イエスさまが死刑の判決を受け、むち打たれたとき、近くにいた友たちはイエスさまに背を向けました。

イエス様はその時が来ることをわかって、そうなるべきことを理解していたとはいえ、なんと心が痛んだことでしょう!
おそらく私たちも同じようなことを感じたり、前に経験したと思つたりするかもしれません。ユダのような、自分に背を向ける友達や家族がいるかもしれません。今自分が耐えている苦しみの原因はそんな人たちかもしれません。わたしたちは苦痛と失望を通して闘っています。でも、頼れると思っていた人たちはどこかに行ってしまいました。教会の中でだれかに傷つけられたかもしません。肉体の痛みは身体が痛くなりますが、感情の痛みは霊魂をじかに切り裂きます。生きていく中で、誰かが自分を落ち込ませようとするでしょう。だれかが自分に背を向けて苦痛にさせるでしょう。
でも、ここに解決の鍵があります。イエスさまは見捨てられ、裏切られ、十字架につけられましたが、これらすべてに打ち勝ちました!
人間は不完全なものですが、キリストは復活してあなたがたを倒れさせはしないでしょう!

福音書は人間や王子たちに信仰を置かないようにと言っています。代わりに、このイースターでイエス・キリスト、復活された方、あざけり、苦痛、友の裏切りに耐えたかたに、自分たちの永遠を置きましょう。
この世の思わぬ危険や苦しみからは、ほど遠い希望を持つことができるように。
イエス・キリストは罪と死に打ち勝ったのです。このイースターで、父である神様が私たちを見捨てずに、私たちの心に、私たちの家庭に、復活されたイエス様を与えてくださったことを、皆で喜び祝いましょう。

もう一度、皆さん、ご復活おめでとう!!

 

 


 

 

Happy Easter

On The Third Day He Rose from the Dead

 

 

Happy Easter to all!

The Lord is Risen, Alleluia! The Resurrection of Jesus Christ is the most important truth in our Christian Proclamation. The effect of this is the foundation of the Church immediate Mission of Proclaiming the Gospel through the power of the Holy Spirit given to the Apostles. Without this Gospel Truth there would be no Christian Faith.

We are told in the gospel that Jesus predicted his predicament that he will suffer, die and after three days, he will come back to life. Often as we think about the sacrifice of Jesus, we tend to focus on the unbearable physical pain He endured. We have read in the gospel that He was flogged to death, and had a crown of thorns driven into His scalp. He was made to carry His own cross. Nails were punched through His hands and feet before He was hoisted into the air on the cross. The most inhumane and cruel forms of capital punishment ever devised. It’s hard not to focus on the pain He endured for us.

But, as we look at this Easter, let us consider another way of looking at it.
Jesus Was made to suffer in the moments before His crucifixion. Let us consider the emotional pain Jesus endured as his closest friends turned their backs and betrayed him. Jesus personally chose 12 disciples whom He poured himself into. These men were almost His earthly family, surrounding Him, learning from Him, and serving in His ministry. They were Jesus’ “inner circle.” Jesus loved them, and yet He knew ― long before that some of these men would publicly betray Him. Judas Would sold him for 30 pieces of silver. Then Peter would deny him ― which, according to Mark, Jesus foretold prior to leaving for Gethsemane ― must have stung deeply. As Jesus was being beaten and ridiculed (Mark 14:65), Peter was busy distancing himself from Christ (Mark 14:66-72). Three times people approached Peter to ask him if he was associated with Jesus, and three times Peter denied Him, ‘I do not know this man of whom you speak.’ ” (Mark 14:71, ESV). At a time when Jesus was being accused and beaten, His friends turned their backs on Him. What emotional pain this must have caused, even as Jesus knew it was coming and understood that it had to be!

Maybe we are feeling this, and it sounds familiar. Maybe we have friends or family members who have turned their backs on us, or perhaps ― like Judas ― they were instrumental in causing the suffering we are now enduring. Maybe we are struggling through pain and despair, and the people we thought we could depend on, have disappeared. Maybe we have been hurt by others in the church. Bodily pain hurts physically, but emotional pain slices directly to your soul.
In our lives sometimes, people will let us down. People will turn their backs on us and cause us pain. But here s the key ― Jesus was forsaken, betrayed and crucified, but He conquered all of that! People are imperfect, but Christ is risen and will not let you down!

The Gospel tells us not to put our faith into men or princes. Instead, in this Easter let us place our eternity in Jesus Christ, the Resurrected One, who endured scorn, pain, and betrayal by His friends, so that we may have a hope that extends far beyond the pitfalls and pains of this world. Jesus Christ has conquered sin and death. In this Easter, let us rejoice and be glad for God the Father, has not abandoned us but instead has given us this Jesus the resurrected One to be in our hearts and in our homes.

Again, Happy Easter to All!!!

 

 

主任司祭  PARISH PRIEST
フィリップ・ボニファチオ神父
Fr. Philip llio Bonifacio, SSC