|  |  |  |

01fe27c8aca55731684cd12367236f126bcaf4ddc0

 

今日は、第6回目の堅信のための勉強会です。
堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

今日は、受堅希望者のみの勉強会です。(月1回、第1日曜日は受堅者も含めた中高生の勉強会と合同になります。)出席者は4名。1名はインフルエンザで、1名は部活のため、お休みでした。

さて…今日の内容は、「堅信を受けて以後のこと」について、一緒に考えてみました。
1人の信徒として、どうあるべきなのか、何をするべきかを考え、今後の教会での生活、生き方を考えてみましょう。

主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● 私たちのこれから ●

今日は、堅信を受けて以後の私たちのこれからについて一緒に考えてみましょう。
みんな、この頃毎週教会に来て堅信に与るために勉強していますね。堅信の勉強会が終わったら、パッタリと教会に来なくなる…なんてことはないですよね。
堅信に与って、キリスト者としてゴールになるのではなく、むしろキリスト者として、ようやくスタート地点に立ったと思ってください。聖霊を注がれ、みんなには、信者として「福音(良い知らせ)宣教(述べ伝える)」、大きな役割を受けます。ようやくスタートラインに立てたのにここで来なくなってしまったらもったいないですよね。
前も言いましたが、教会が、もし楽しくないと思うなら、楽しい場所にしてください。
みんなには、聖霊が与えられ、その力が与えられます。学校は本来勉強するための場所で、楽しい場所ではないはずですが、楽しいと感じるのは、みんなが自分自身で楽しくしているからです。みんなには、その力があります。みんなの力で楽しい場所にすれば、人はもっと集まります。そしたら、もっと楽しい場所になると思います。
聖書の言葉をみんなに紹介します。堅信を受けた後の気持ちの持ち方が分かると思います。

 

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

使徒言行録 1章8節

 

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。 

ルカによる福音書 9章26節

 

使徒言行録の方は、聖霊を受けた後、みんなに福音宣教の使命が下されるというお話です。
聖霊がみんなのなかにある『(洗礼の時に造られた)神殿』に流れ込み、力を得ます。この事については、5月8日にしっかり勉強しますね。
さらに、ルカ福音書では、たとえ、この世の栄華を極めたとしても、天の国には、それを持ち込めない。いろんな欲望を叶えたとしても、神様のところに行く時には、それは持ってはいけない。
永遠の命を得て、天の国に入る事、神様、イエス様の側にいられることに比べたら、何の意味もない。何を得たとしても、神様から与えられたアイディンティティを失ってしまえば意味がない。みんなが、自分らしく、そして、何よりキリスト者として、イエス様のように考えて、イエス様のように行う事を求められているのです。
その為に、堅信を授かる際には、聖霊の力を得ますから、大丈夫です。

そこで、一人前の信徒とは、どういう事をする人なのか?少し上げてみました。イエス様のように行うとはどういうことか一緒に考えてみましょう。

  1. 祈り

    • 個人で…

      イエス様は、よく弟子たちから離れて1人で祈られていますよね。
      私たちに主の祈りについてお話された時にも「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる(マタイによる福音書6章5-6節)」と仰っています。
      神様に自らをさらけ出し、想いを伝えましょう。みんなの前だとなかなか自分をさらけ出すのは難しいですからね。
      みんなは、教会の一番シンプルなお祈りを知っていますか?ミサのなかでも歌います。
      「主よ、憐れみたまえ」とか「主よ、憐れんでください」というお祈りです。栄光の讃歌の前に歌いますよね。
      このお祈りは、福音のなかでイエス様に沢山の方々がそうおっしゃるところからとられています。例えば、エリコの町で盲人バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」とイエス様を呼び止めます。
      主と呼び、また、憐れみという神様にしか使われない単語を使う事で、イエス様を「キリスト」「神の子」であると認めています。全能の父、そして、イエス様に助けを求める、その気持ちは、放蕩息子のようなものなのだと思います。
      みんなも何か苦しい事、悲しい事があった時、1人で誰もいないところで、放蕩息子のように神様のもとに立ち帰り「主よ、憐れみたまえ」とお祈りしてみてください。
      これなら、すぐ覚えられるでしょ?

    • 共同体で

      1つの共同体、キリストの体として、共に祈ることも大事です。
      キリストの弟子である私たちが同じ場に集まり、1つの事をお祈りすることは、本当に恵み深いことです。
      例えば、被災者のための祈りなど様々な祈りを共に捧げていますが、みんなで心を一つに祈ることで、共同体として1つになっていくことが出来るのだと思います。

  2. 知識を得ること

    • 個人で…

      心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。

      ペトロの手紙一 3章15節

      勉強する事も大事です。
      松戸教会でもいくつか勉強会が行われていますし、教区や修道会でも勉強会は行われています。
      聖ペトロが仰っているように、イエス様の事を周りの人に聞かれた時、いつでも答えられるように準備しておくことはとても大事です。
      前も話しましたが、私たちは2000年続いている伝統をこれから伝えていく使命もあります。それを伝える時に、将来みんながリーダーになった時のためにも、沢山の事を知っておいてください。
      そして、それは、きっと自分が人生のなかで選択を迫られた時、助けてくれることになると思います。

    • 共同体で…

      松戸教会での勉強会に参加すると、「分かち合い」という時間があります。
      様々な意見・価値観に触れることはとても大事です。カトリック教会は、「普遍的な」という意味がありますが、普遍的な、しっかりとした教義があるからこそ、様々な意見・価値観が共存します。
      1つの御言葉でも、それぞれの経験や価値観などで、受け取り方が全然違ったりします。そのような違う受け取り方に触れることでより信仰が深められるのではないでしょうか。

  3. キリスト者として行動する…

    • 個人で…

      そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 

      マタイによる福音書 25章40節

      他にも、今日の福音書の箇所、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネによる福音書13章34-35節)」や「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイによる福音書5章44節)」など様々な事をイエス様は仰っています。
      私たちがキリスト者としてどうするべきか、人としてどうあるべきか…みんなにはわかると思います。それを素直にすれば良いだけです。
      もしその時勇気が足りなければ、神様にお祈りして下さい。きっと背中を押してくれます。聖霊が力をくださいます。

    • 共同体で…

      教会の活動に参加する事も大事です。
      様々な信徒の方々に触れ、様々な経験をすること、それも信仰を育てる事になると思います。
      教会は、聖人の集まりではありません。私も不完全な人間でよく怒られています。みんなもミサをサボったり、教会学校をサボったり、色々あるよね。
      そういう不完全な人たちが集まって、みんなで信仰を深め、みんなで成長していくのです。
      さっきも話したけど、もし教会がつまらない所なら、みんなの力で楽しい場所にしてください。みんなが笑顔で集まる教会が出来れば、神様も喜ばれます。
      それがみんなの役割です。教会の皆さんも、そういうみんなの事を応援してくれると思います。

  4. 秘跡に与る事

    • ミサに参加する事、これは「聖体」という秘跡に与りますよね。他にも、ゆるしの秘跡や病者の塗油、叙階、結婚…そして、みんながこれから与る堅信…。ミサの中で行われる洗礼式…秘跡に与ることで、私たちは神様・イエスさまに出会うことが出来ます。嬉しい事ですよね。その喜びが信仰を深めます。嬉しい事は人に伝えたくなります。なるでしょ?
    • そして、すごく大事な事…先週も話しましたが…
      イエス様の受難・死・復活を信じられますか?それをしっかり受けいれていますか?
      もし、それに少しでも疑いがあるなら、堅信を与るのは今年は止めた方が良いかもしれません。それくらい大事な事です。
      今まで一緒に行動していた仲間や弟子たちには裏切れられ、「知らない」と言われ、ムチで何十回も打たれ、棘のついた冠をかぶせられ、自分を死刑にするための十字架を担いで丘を登り、磔刑という当時でも最も残酷な刑に…腕や足に直接くぎを打たれ磔にあい、無実の罪で殺されてしまった。
      そこには、お母さんがいて、そのお母さんは自分が死ねば、当時の社会は夫か子供がいない女性は社会生活を送れないようになっていましたから、ヨゼフ様のいないマリア様、お母さんはイエス様が死ねば、社会から弾かれる、それもイエス様は分かっている…夢も希望もない……絶望…まさに言葉通り、「望みが一切ない」状態ですよね。本当に絶望です。
      みんなにも将来そういう時があるかもしれません。絶望、もう死にたい!という時。そこには一切の希望がない…そういう時が来るかもしれません。
      友達もいない、お父さんやお母さんにも助けてもらえない、自分じゃどうにもできない、という時…。
      イエス様もそこで確実に100%死にました。絶望です。完全な絶望です。
      実は生きていた、危篤?的な感じ、とかではありません。100%、完全に死にました。でも、3日後、ご復活されます。絶望の奥には希望があります。
      よく「神様がいれば大丈夫」とか仰る方もいます。その意味は、絶望しないという意味ではありません。絶望的な状況に追い込まれないという意味ではありません。
      絶望的な状況に追い込まれても、それでもなお、その奥に希望があると仰っているのです。
    • 物凄い矛盾していますよね。「絶望」なのに「その奥に希望がある」と言っているのですから。でも、神様には出来ない事は何1つないのです。物凄い厳しい話です。絶望なのに希望がある。そう信じなさい。と言っているのですから。
      でも、それはイエス様を知れば、イエス様の受難・死・復活を信じるならば、受け入れるならば、わかるはずです。
    • 秘跡に与ることは、神様、イエス様に出会う事、そして、受難・死・復活という主の過越の出来事を経験する事です。経験すれば、それを受け入れる事が出来るはずです。
      是非、しっかり与ってください。

 

今日は、みんなに「堅信までに是非覚えてほしい事」をまとめたテストを行います。
テストと言っても、プリントにはヒントが書いてありますね。なんと!聖書をひけば、答えが書いてあるという…とても優しいテストです。
さぁ…短い時間しかありませんが、やってみましょう!

……………答え合わせをします。ぜ・全部あっている人はいませんでしたね。
では、最後に(もうミサが始まってしまうので)十字架のしるしをして、終わりにしましょう。

 


 

 

さて、次回の勉強会は、5月1日・9時15分から「堅信のための勉強会」も兼ね、中高生の集まり(勉強会)として、行います。
筆記用具とノートをもって、集まってください。

堅信を希望する中高生の皆さんは、しっかり今回の内容を確認して、勉強会に来てくださいね。
堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

 

 

いよいよあと1ヶ月、部活や学校の用事も大変だと思いますが、しっかり勉強して、堅信の準備を整えましょう。




 |  |  |  |

堅信

 

今日は、第5回目の堅信のための勉強会です。
堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

今日は、受堅希望者のみの勉強会です。(月1回、第1日曜日は受堅者も含めた中高生の勉強会と合同になります。)出席者は5名。
さて…今日の内容は、「ミサ」について、考えてみました。
なぜ、ミサに与るのか、なぜ教会に来るのか、もう1度考えてみましょう。

主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● ミサについて考えてみよう? ●

今日は、ミサについて一緒に考えてみましょう。
みんなにとって、ミサは、どういうもの、どういう位置づけですか?大切なものですか?お父さんやお母さんに無理矢理連れて行かされているモノですか?
お祈りする時間?お祈りならば、家でも出来ない?それなら、わざわざ毎週集まる必要があまりないのではないですか?
教会共同体として、私たちが存在するのは、キリストのからだをうけ、キリストと一致したものとなり、キリストのからだにかえられるからです。
ミサによってミサによって、教会は教会となります。
私たちは、キリストの体となったご聖体を頂き、ともに祈りを捧げます。そして、教会共同体として1つの(キリストの)体となります。だから、教会にとっても、私たちにとっても、大事なものなんです。

もちろん、ミサだけが、私たち信徒にとって大事なモノではありません。
聖書や神学について研究し私たちに教えを伝えてくださり「教会博士」、殉教し私たちに道を示してくださった殉教者など色々な聖人たち、名もなき殉教者達や信者、もちろん、みんなのおじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さんたち、そういう方たちが作ってくれた2000年の伝統、また、それらを学ぶこと、つまり、勉強ですね。そういう事もとても大事です
勉強しないと、私たちはどうやって信仰を育てますか?そして、どうやって、次の世代、子どもたちにそれらを伝えていきますか?
堅信を受けた後は、みんなも福音宣教の使命があります。
教会が準備する機会を与えてくれるのは多分これが最後です。後は自分で、勉強会等に出て、勉強しなければなりません。みんな、この機会を大事にしてくださいね。

さて、ミサの話に戻ります。
ミサは、主の晩餐という呼び方もします。「主の晩餐」という言葉、つい最近聞きましたよね。
そうです。聖週間の「主の晩餐の夕べのミサ」ですよね。主の晩餐の夕べのミサは、イエス様がミサについて教えてくださった「最後の晩餐」を直接記念して祝うものです。
聖パウロのコリントの信徒への手紙にもこう書かれています。

 

感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

コリントの信徒への手紙一 11章 24節

 

この言葉、ミサのなかで神父様が仰いますよね。いつ仰られているか、覚えている?
そう、聖変化の時だよね。「奉献文」を唱える時に仰られています。
イエス様は、ご自分の体を私たちのために神様に捧げ、私たちはそれを食す事で、キリストと一致したものとなり、教会となります。教会とは私たち信者の集まりの事を言うと勉強しましたよね。
ご聖体を頂き、共同体として1つの体となり、共に御言葉にふれ、共に捧げ、共に祈るのです。
秘跡のお話、覚えていますか?「秘跡は、神様・キリストとの出会いそのもの」ですよね。
キリストの体、ご聖体を頂くこと、もちろん、みんな分かっていると思いますが、これは「聖体」という秘跡に与っています。
ミサに与ることで、神様、そして、イエス様に出会い、「主の晩餐」、つまり、夜ごはんをみんなでいただくのです。夜ごはんを家族で食べる時、お父さんやお母さんに今日あった事、嬉しかった事、怒った事、悲しかった事、楽しかった事、色々な事を話しますよね。
主の晩餐に招かれた私たち、そう、ミサには「行く」のではなく招待されるのです。神様が、私たちを招いてくださっていて、それに私たちは参加します。神様が呼んでくださったのですから、楽しく食事に与りませんか?神様にお父さんやお母さんに話すように、嬉しかった事、怒った事、悲しかった事、楽しかった事、色々な事を伝えましょう。神様は、みんながご自分の食卓に並んだことをとても喜ばれます。みんなの話を喜んで聞いてくれます。

それでは、聖書を読んでみましょう。少し長いですが、とてもだいじな箇所です。イエス様がご聖体についてお話して下さっている箇所です。
ヨハネ福音書の6章26~40節を読んでみましょう。

ありがとうございました。
色々な事をイエス様はお話下さっていますね。
まず、最後のところではこうおっしゃっています。

 

わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

ヨハネによる福音書6章39 40節

 

イエス様を信じる者達を神様は「永遠の命」に与らせたいと希望されていることをお話下さっていますね。さっき話した通り、私たちの希望の前に、まず「神様が私たちを求めていらっしゃること」、そして、「1人も失わないで」、みんなを「永遠の命に与らせたいと思ってくださっている」という事、そのために、イエス様を遣わされた事と仰っています。
そして、その前の箇所では…こう仰っていますね.

 

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」

ヨハネによる福音書 6章35-36節

 

ミサは、受難・死・復活を、思い起こすものです。それは、教会のあらゆる力の源泉です。
受難・死・復活こそ、神様の愛、『その独り子をお与えになったほどに』私たちを愛して下さっている神様のしるしだからです。受難・死・復活を信じられないならば、ご聖体の意味も、もちろん、ミサの意味も、もっと言えば、信者である意味がありません。ご聖体を頂いても、それはただの小麦粉です。何の意味もありません。
ミサは、学校の朝礼や集会のようなものではありません。ただの儀式ではありません。神様に出会う場です。神様の愛を感じる事の出来る、体感できる場です。もう1度、イエス様の受難・死・復活について考えてみてください。そうすれば、ミサに来る意味を見いだせるはずです。

ミサは、聖書を朗読し御言葉を味わい、(喜怒哀楽などを伝え)神様に私たち自身を捧げ、そして、心を合わせて祈り、ご聖体を頂きます。
みんな、ミサの流れ、式次第は大体頭に入っている?侍者をやってくれていたりすると、覚えているよね?
み言葉を味わう事もすごく大事です。
神様の言葉、使徒たちの言葉、イエス様の言葉、全て私たちのために仰ってくださっています。
だから、時々、聖体拝領の時だけ来て、返ってしまう人がいますが、それは違います。神様・キリストと出会うために、御言葉を聞き、説教を聞き、もう1度イエス様の受難・死・復活を思い起こしましょう。そうでなければ、何度も言いますが、「ご聖体」は聖変化せず、ただの小麦粉の塊です。それでは、意味がないでしょう?

では、ヨハネ福音書14章6節を開いてください。

 

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

ヨハネによる福音書 14章 6-7節

私たちは、ご聖体を与る事でイエス様に出会い、神様に出会っています。
イエス様にで会う事で、神様に出会う事が出来ています。ミサは、まさに「神様に出会いに来ている」、神様に食事に呼ばれている場なんです。
そして、キリストの体、私たちが一つの体になることが出来る場なんです。
こうやって、血の繋がっていない、育った環境も全く違う私たちが1つの体、家族となり、教会になります。

さて…今日は、簡単なテストをしましょう。
神様に出会う、イエス・キリストに出会うことである秘跡、7つありますよね。プリントにその7つを書いてみましょう……。

書けたかな。(か・簡単だよね)順番もあるからね、順番も大事だよ。ちなみに。堅信式までに言えるようにしようね・・・
では、最後に使徒信条を唱えて、信仰を宣言して、終わりにしましょう。

 


 

 

堅信を希望する中高生の皆さんは、しっかり今回の内容を確認して、次回(4月24日)の勉強会に来てくださいね。

堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

いよいよあと1ヶ月、部活や学校の用事も大変だと思いますが、しっかり勉強して、堅信の準備を整えましょう。

 




 |  |  |  |

016f23c36d75a0883ac8c3f4b506c75e81a7918c35

 

月に1回、中高生とその保護者を対象に「ゴスペルフラ」の講習会が行われています。

ゴスペルフラとは……

キリスト教の賛美歌に合わせて踊るフラ(フラダンスとは言わないそうです)のことで、ハワイの信者の方が1980年くらいから始めました。
フラを通して神様を賛美するために、今はあちこちの教会や、未信者さんの間でも広まっているそうです。

 

 

いよいよ「キリストの聖体」の祭日に行われる子ども達の初聖体を祝うパーティでゴスペルフラを披露します!
そのため、本番の場所である地下ホールで練習を行いました。地下ホールに馴れるためと、動く範囲を把握するためです。

今日の写真は、先生に撮っていただきました。
このポーズはを表すのだそうです。
私たちの愛、イエス様の愛がみなさんに届きますように!

 

ところで、参加メンバーの1人の女の子は、すごく頑張っていて、学校の発表会でもこのゴスペルフラを1人で披露したそうです!
すごい!
毎日毎日練習して覚えているそうです

 

次回の練習は、4月30日14時から行います。(先月、復活祭でお休みだったので今月2回行います!)
教会の地下ホールに集合してくださいね。

興味のある中高生は、ぜひご参加ください。
お待ちしています!




 |  |  |  |

017c41e436722393f6e5266ef46255c0d45873db79

 

今日は、第4回目の堅信のための勉強会です。
堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

今日は、受堅希望者のみの勉強会です。(月1回、第1日曜日は受堅者も含めた中高生の勉強会と合同になります。)出席者は3名。
さて…今日の内容は、(出席者が少ないために)予定を変更して、今までの復習も兼ねた話しをしました。

主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● 共同体ってなんだろう? ●

今日は、教会学校の入学式に参加してもらいました。
どうでしたか?みんながいた頃より子ども達の数が減っていてなんか寂しい感じですよね。

今日は、ちょっと今までのおさらい的な話をしようかなと思っています。
「使徒信条」と「主の祈り」のプリントを持ってきました。以前から言っているように堅信式までには、覚えておいてくださいね。
このプリントには、意味が書いてあります。意味を覚えると本当に簡単ですよね。
カトリック教会のお祈りというのは、「文字が読めない人」達にも覚えられるようにすごく簡単にしてあります。
昔は、文字が読めない人がほとんどでしたし、現在も文字の読み書きがみんな出来る国というのは、(戦争や貧困で学校がなかったり、あっても通えない国というのは世界には沢山ありますから)結構珍しいので、こういう簡単な内容にしているのですね。
ところで、使徒信条のプリントを見てもらうと何か気づくことはありませんか?
洗礼式の時に神父様が質問する内容と同じですよね。受洗者の方は、洗礼式のなかで「使徒信条」を唱えているのですよね。
つまり、私たちは、ミサのなかで洗礼式と同じように神様やイエス様、聖霊、そして、カトリック教会の教えを信じることを宣言しているわけです。自分達の信仰の理由、意味、全てがこの「使徒信条」で唱えられていると言っても過言ではありません。堅信式までに覚えましょうね。

さて…みんなは教会ってどういう風に思っていますか?
正直言うと、「お父さんやお母さんに行きなさい。と言われているから来ている」感じなのかもしれません。教会に来ると良い気分になったり、楽しかったりすることはありませんか?
ところで、「教会」とは、建物の事じゃないのを知っていますか?建物は、「聖堂」と呼びますよね。「教会」とは、私たち信者の集まりの事を言います。
イエス様がいた時代、そして、使徒達がいた…聖ペトロや聖パウロがいた時代は、聖堂なんてまだありませんから、誰々のうちに集まって、みんなでミサに与っていました。その頃から「教会」は、もちろんありました。今日の福音書の箇所で、ご復活されたイエス様が、聖ペトロに「わたしの羊を飼いなさい(ヨハネ福音書21章17節)」と、教会の頭となることを命じられます。「『建物(聖堂)』の頭になる」じゃ、日本語としておかしいでしょ?
バチカンにある聖堂の名前は分かる?「サン・ピエトロ大聖堂」だよね。サン・ピエトロ、つまり、聖ペトロの聖堂ですね。(松戸教会は、大天使聖ミカエルだよね。)
イエス様が聖ペトロに仰った御言葉「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる(マタイによる福音書 16章 18節)」の通り、聖ペトロのお墓の上にサン・ピエトロ大聖堂のお御堂はあります。古い教会だと聖人のお墓や遺骨の上に聖堂が建てられているという事はよくあります。
もちろん、ここでもイエス様がここでおっしゃっている「教会」は、聖堂ではなく、「聖霊に導かれ、イエスに従う人々の集まり」を指しています。

 

聖パウロは、教会を「キリストの体」と仰いました。
私たちは、ミサのなかで、ご聖体を拝領して、信者全員が、イエス・キリストの1つの体となります。
そう考えた時、例えば、私が足の小指、みんながそれぞれ右手とか左手とかだとして、誰かが傷ついた時、誰かが痛みを感じた時、それを共有することが出来ると思えませんか?
私はよく足の小指を角にぶつけるのだけど、みんなも経験あるよね?すごく痛いよね。他の場所はもちろん痛みはおっていない。だけど、すごく痛い。足の小指の事だけど、私は、すごく痛い。人の痛み、傷を自分のものとして、共に感じる。教会は、そういうところです。もちろん、嬉しい事や楽しい事も自分のことのように感じられたらいいよね。
だから、教会は、「共同体」という言い方で呼びます。
「兄弟姉妹」という言い方もするよね。信徒は、家族みたいな言い方。どれも同じ意味です。

教会学校の錬成会の下見や巡礼をしていて思うのだけど、本当に様々な小教区があるよね。聖堂に入ると、不思議と雰囲気が違うのだよね。
ある教会では、ちょうど待降節に入る頃伺ったのだけど、クリスマスの飾り付けを外国人の人がしていました。話を聞くと、その小教区には、日本人信徒はほとんど来なくて、私が見たのはブラジル人だったのだけど、外国人が中心になって、教会の活動を行っているそうです。
ある教会は、ミサに与る信徒が10人くらいしかいなくて、侍者もいないし、先唱もいない。もちろん、カンパネラも鳴らない。その信徒の方々もほとんどご老人でした。
ある教会は、夕方頃行ったんだけど、子ども達の声が聞こえ、大人たちと一緒に歌の練習をしていたりして、とても盛り上がっている雰囲気を感じました。

松戸教会は、どうだろう?
多分、東京教区でも信徒の数が多い方の教会だと思います。ミサには、毎週、お御堂に一杯の信徒が集まって、与っているよね。
でも、20年後はどうだろう?
今、自分と同じ年くらいの人達、どのくらいミサに与っている?20代・30代の人たちは?
人口分布図が、逆ピラミッドどころか、コマ型だよね、正直。
20年経ったら、今、来ている人たちは、病気や怪我で教会に来れなくなっているかもしれない。もしかしたら、亡くなっている人もいらっしゃるかもしれない。
20年後、ミサにどのくらいの人たちが与っているだろう?どのくらいの人たちが、教会の活動を支えているだろう?
30代の半ばのみんながクリスマスの飾り付けとか、頑張らないといけないけど、その時、どのくらいの人たちがいるかな。もしかしたら、ここにいるメンバーだけかもしれない。そしたら、凄い大変だよね…。
今、みんなにとって当たり前にある松戸教会は、みんなのお祖父さんやお祖母さん達が、教会の活動を一生懸命してくれているおかげで、たくさんの人達が集まる教会になっています。そして、それをお父さんやお母さんたちが引き継いで行っているよね。お父さんもお母さんも本当に一生懸命教会の事をしてくれているよね。
堅信を受け、一人前の信徒となったみんなは、どうするだろう?
「当たり前にあると思っていたものが、ある日突然無くなってしまう」なんて事は普通にあります。私たちが住むこの世界に「当たり前」のものなんてないんだよね。
本当に大事なものは、無くなってから気づくのだよね。そして、気付いた時にはもう遅くて、本当に後悔するよね。(私も何度も経験があります)

みんなには、まだ「教会が大事なんて思えない」かもしれない。
でも、例えばね、公立の小学校や中学校に通っていた子は、わかると思うけど、本当に色々な人がいたでしょ?
勉強が出来る人、運動の出来る人、逆に勉強が出来ない人、運動の出来ない人、お金持ちの子、貧乏な子…色々な環境、色々な考え方、色々な能力・個性の人達が集まっていたよね。
でも、高校から、たぶん、これからずっと、大体同じくらいの勉強のレベルの人たち、似たような環境な人達と一緒に過ごす事になると思います。必然的に同じような価値観を持った人達だけが周りにいる環境になります。中学生や小学校の頃はなんであんなに面白かったのだろう。と、高校生になると思ったりするのだけど、多分、色々な環境の色々な価値観をもあった人たちが、いたからだと思うのだよね。
教会は、イエス様のもとに色々な人達が集まります。お年寄りから子供まで、色々な環境から、集まります。みんなの事は、赤ちゃんの頃から知っているなんて人も多いですよね。
そういう空間は、本当に大人になると大事だなぁと思います。多分、みんなも段々歳をとっていく中で、そう思えるのではないかなぁと思います。
そして、お互いが、同じ喜びや痛みを自分のものとして感じようとするなんて、とても素晴らしい事とは思いませんか?

みんなは、学校を楽しいと思う?でも、学校自体は、別に楽しい場所ではないよね。本来は、勉強するところだし。
でも、なんで楽しいのだろう。多分、自分で楽しい場所にしたのではないかな?
教会も一緒だよ。
将来も松戸教会にたくさんの人たちが集まって、今みたいな教会(聖霊に導かれ、イエスに従う人々の集まり)であり続けるためには、今、みんなが教会を楽しい場所にしていくことが必要なのだと思います。
そのために、教会もみんなの活動を一生懸命応援してくれると思います。
堅信を受けた後、みんなは1人前の信徒として、福音宣教の役割を担います。みんなが教会を楽しい場所にしてくことは、まさに福音宣教になるのかなと思います。
みんなは、教会の未来なのだから。

では、最後に使徒信条を唱えて、信仰を宣言して、終わりにしましょう。

 


 

 

堅信を希望する中高生の皆さんは、しっかり今回の内容を確認して、次回(4月17日)の勉強会に来てくださいね。

堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

いよいよあと1ヶ月、部活や学校の用事も大変だと思いますが、しっかり勉強して、堅信の準備を整えましょう。




 |  |  |  |

017c41e436722393f6e5266ef46255c0d45873db79

 

今日は、堅信のための第3回目の勉強会です。
堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

今日は、中高生の勉強会です。(月1回、第1日曜日は受堅者も含めた中高生の勉強会と合同になります。)
出席者は6名!なんか徐々に増えてきました。

さて…今日の内容は、「神様」についてです。
そもそも、私たちが信じている神様はどのような方なのか?もう1度、一緒に考えてみましょう。
今回も、主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● わたしたちの信じる神様 ●

主のご復活おめでとうございます。
今日は、とても難しい内容です。そして、とても大事な内容です。しっかり説明出来るか、わかりませんが、何か1つでも持ち帰ってもらえればと思います。

みんなは、ミサの時に信仰宣言を唱えます。堅信を受けるまでに「主の祈り」と「使徒信条」は、空で1人でも唱えられるようになりましょうね。今年、受洗されて、堅信を希望されている方々は、シスターからしっかり教わってきているので、「主の祈り」と「使徒信条」はしっかり覚えていると思いますし、東京教区の合同堅信式には、毎年200人を超える方々が集まります。松戸教会のみんなだけが「唱えられていない」のは、とても寂しいですから、あと1ヶ月ありますから、しっかり覚えましょう。

どちらも実は覚えるのは、簡単です。
特に使徒信条はとても簡単ですよ。使徒信条は、3つのパートに分かれています。
最初に「神様を信じます」、次に「イエス様の一生を言い」、最後に「聖霊、そして、教会が大事にしている事を信じる、大事にすること」を宣言するのです。
だから、みんなが、しっかりそれらを理解していれば、簡単に覚えられちゃうんですよね。
ちなみに、今の教会学校の子ども達のほとんどは、主の祈りは唱えられますよ。後輩たちに負けないようにしっかり覚えましょうね。
さて、今日は、まさに使徒信条の最初の「天地の創造主、全能の父である神を信じます」という箇所について一緒に考えていこうと思います。

そもそも、私たちは、なぜ「神様」を信じるのでしょうか?それは、私たちのもっとも深いところにある欲求だからです。
もともと、わたしたちは、神に似たものとして造られ、「楽園」に住んでいました。
聖書には、こう書かれています。

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

創世記1章26・ 27節

しかし、「原罪」を負ったため、楽園を出て、永遠の命を失ってしまいました。その話は、第1回目の勉強会で少し触れましたね。
それ以来、私たちは、ずっと神様に対する憧れを抱いています。例えば、私は、時々絵を描いているのですが、雨上がりに雲間から差し込む陽光を見たり、綺麗な夕日を見たり、美しい動物を見た時、自分もこのようなモノを描きたいと思います。同時に、神様の偉大さを感じてしまいます。「こういうものを描けたら」と思うわけです。
みんなの中にもそういう思いを持ったことはありませんか?「もっと優しくなれたら…どんなことも赦せる人になれたら」とか「サッカーとか野球が自分の思い描くようにうまくなりたい」とか…もっと言えば「空を飛びたい」とか「ワープしたい」とか…多分、世界中の人たちがそのように感じていて、それを叶えるために、様々な研究や努力を重ねているのだと思います。
私たち人間は、常に「神」を心の一番深いところで求め、そういうものになりたいと思っているのです。
聖アウグスチヌスは、「あなたはわたしたちを、ご自分に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心はあなたのうちに憩うまで安らぎを得ることが出来ません」と、言っています。
存在があることを知っているのに、「信じられない」という事はないですよね。
数年前のフィリップ神父様が復活祭のお説教で「厚く雲で閉ざされた空の向こうに太陽があることを私たちは知っています」と仰っていました。みんなもそういう日でも太陽があることは知っていますよね。確かに厚く雲で閉ざされた空に太陽を見ることは出来ません。しかし、太陽はそこに必ず存在します。
憧れを抱く対象の「存在」があり、「存在」があることを知っている私たちは、その時点で、信仰が始まっているのです。それは、とても自然なことです。それを否定することは出来ません。

では、「天地の創造主、全能の父である神を信じます」について、しっかり説明しましょう。
聖書にはこう書かれています。

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 

申命記6:4

地の果てのすべての人々よ。わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。

イザヤ書 45章 22節

みんなは「矛盾」という中国の逸話をもう学校で習いましたか?「なんでも突き通す矛」と「なんでも防ぐ盾」……辻褄が合いませんよね。
もし2人の神様がいるならば、どちらかがどちらかを制限する事になり、どちらかは無限ではなくなりますよね。つまり、「完全な者」ではなくなります。「全能」ではなくなるわけです。
神様は、唯一の存在で、そして、全能の神なのです。
「神にできないことは何一つない(ルカによる福音書 1章 37節)」のですよね。
そして、神様は唯一であるので「名前」は必要ありません。唯一の存在に名前はいらないでしょう。「神様」とか「主」と言えば、良いだけです。
イスラエル(ユダヤ教)の人々は、畏敬(心から服し敬うこと)の念を込め、未だに名前を呼びません。ユダヤ人向けに書かれたと言われているマタイ福音書の中では「天」と呼んだり、白い雲や光、火などで表しています。
しかし、神様は名前を「私たちへの愛ゆえ」に明かしになりました。
出エジプト記3章14節を開いてみてください。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

出エジプト記3章14節

ありがとうございます。
神様は、エジプトでの奴隷状態から開放しエルサレムに旅立つイスラエルの民に「わたしはある」、YHWH(ヤーウェ)と、モーセを通して、教えて下さいました。長くイスラエルの地を離れていた民は「神の存在」を信じられないと思い、その名を教えてくださったのでしょう。「わたしはある」、存在している…。とても、心強いですよね。
豆知識ですが、イスラエルの名前というのは、とても大事です。名前自体に「その人の使命」が表されているからです。
例えば、福音書に出てくる「ヤイロと娘(マルコ5:21-24,35-43)」の話に出てくる「ヤイロ」の名前の意味は、「神は起こす」という意味です。イエス様は、ヤイロの娘を復活させましたよね。イエス様が奇跡を起こし、神様を表す(前回参照)ことを使命にしていたのですね。
みんなの霊名ももちろん意味があります。自分の霊名を頂いた聖人が、どういう方だったか覚えていますか?聖人に倣い、神様から与えられた使命を果たしてくださいね。

さて、神様の話しに戻ります。
神様は、どういう方のなのでしょうか?みんなは、神様をどういう方だと感じていますか?
イエス様は、神様についてよくお話してくださっていますね。
ルカ福音書15章にある3つのお話、覚えていますか?
「99頭のヒツジと1頭のヒツジ、1枚の銀貨、放蕩息子のたとえ話」ですね。どんな話だったか覚えていますか?
神様は、どんな時も私達を愛し、いつもご自分のそばに居てくださります。もし、私達が神様から離れてしまったとしても、いつも私たちのことを探してくれます。待っていてくれています。
使徒ヨハネは、手紙のなかでこう記しています。

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

ヨハネの手紙一 4章8節

わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。 

ヨハネの手紙一 4章16節

でも、旧約聖書を読むと、ちょっとこのイエス様や使徒ヨハネがいう神様とは違う神様が書かれています。
旧約の時代は、預言者を通して直接私たちと関係を持っています。ノアの時には大洪水を起こしますし、塔を建てた時には塔を壊し私達が別々の言葉を話すようにしてしまいました。さっきみんなに読んでもらったモーセの時代には、アロンというモーセのお兄さんが金の仔牛の像を作って、それを神としたので神様は非常に怒り、『彼ら(人々)を滅ぼし尽く』そうとしました(モーセに宥められましたが…)
怖いですよね…でも、よく読むと、「私達が神様から離れてしまった」ことに怒っているのですよね。そして、ノアの時もそうですが、必ず赦し、ご自分のもとに戻そうとしてくださっているのですよね。
では、もう1回聖書を引いてみましょう。イザヤ書49章15節を読んでみてください。

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。

はい。ありがとうございました。
お父さんやお母さんが、どんなにみんなが悪いことをしても許してくれて、また、いつものように「子供」として大事にしてくれますよね。みんなも父となり、母となった時に気づくと思いますけど、本当に可愛いんですよね。赦しちゃうんです。どんなことをされても。犬や猫を飼ってると少しわかるかな。
そして、みんなも、そんなお父さんやお母さんが好きですよね。
「親子」の関係は決して切れることがないように、神様も私たちとの関係を断ち切ることは決してありません。
神様も「忘れることは決してない」とおっしゃってますよね。お父さんやお母さん以上に「神様は私達を愛してくれている」と、この箇所に書かれているのですよね。すごい「愛」ですよね。
これこそ「神の愛」なんですね。
今日は、「神のいつくしみの主日」です。
「いつくしみ」という言葉は、英語というと「mercy」となります。この言葉、神様とイエス様にしか使われない言葉です。
今日は、ご自分のひとり子を犠牲にして、しかも、磔刑という最も残酷な死を味わせるようなことをしてでも、私達を赦し、私たちが御自分のところに戻ることを望む神様の「いつくしみ」を感謝する日です。

でも、私達は少し「神様」を「神様」として崇めすぎているところもありますよね。すごいから逆に。遠い存在に、勝手にしてしまっているかもしれませんね。
イエス様のいた時代のイスラエルの人たちもそういう感じでした。今よりもすごく崇めすぎていて、遠い存在にしてしまっていたと思います。
そんな時に、イエス様が主の祈りを教えてくださりました。イエス様は、神様を「アッバ」と呼びなさいと教えてくださいます。
「アッバ」は、「おとうさん」とか、もっと言っちゃうと「オヤジ」とか「トウチャン」とかそういうくだけた感じです。決して、「父上」とか「お父様」とかという感じではないんですよね。
イエス様から見れば確かに「おとうさん」という感じなのでしょうが、私たちは?言っていいの?と思うかもしれませんが、聖書にもこう書かれています。

彼は造り主なる父あなたを造り、堅く立てられた方。

申命記32章6節

我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。

マラキ書2章10節

イエス様がいらっしゃった時代の聖書にもしっかり「父」と書かれているのですね。
だから、みんなもイエス様が教えてくださったように「おとうさん」と呼びかけて、お祈りしてしてください。神様に出来ないことは何1つないのですから。
最後にイエス様が教えてくださったお祈り「主の祈り」を唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

さて…今回の勉強会は、「堅信のための勉強会」も兼ねていました。(中高生の勉強会+堅信の勉強会)
堅信を希望する中高生の皆さんは、しっかり今回の内容を確認して、次回(4月10日)の勉強会に来てくださいね。

堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

中高生の勉強会は、来月は、5月1日・9時15分から行います。
こちらは、受堅済みのみなさんも来てくださいね。(次回の勉強会も堅信のための勉強会と合わせて行われます)