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10月2日・松戸教会の守護聖人・大天使聖ミカエルの祝日を祝うミサのなかで行われる堅信式のための(中高生のための)夏期集中講座を下記の予定で行います。
(幼児洗礼を受けた18歳以上の青年もスケジュールが合えば、ご参加頂けます)

 

  • 8月11日 午後1時より午後4時
    内容 : 霊印、私達の信じる神、イエス・キリスト
  • 8月12日 午後1時より午後4時
    内容 : 秘跡、信仰について
  • 8月13日 午後4時より午後6時(講座後、ゆるしの秘跡に与り、ミサに与ります)
    内容 : 聖霊降臨、私たちのこれから、ゆるしの秘跡

 

場所

地下ホール

 

今回は集中講座ということもあり、時間厳守で3回全てに出席して頂きます。
筆記用具、ノートをお持ちください。

 

8月11日に、「堅信申込書」を配布いたします。
代父母をお決め頂き(もし見つからないようでしたら、担当のリーダーにご相談ください)代父母の方々に10月2日10時半からのミサ、および、その後の祝賀パーティにご参加頂けるようにお約束を取り付けて頂けるようにお願い致します。

たくさんの参加をお待ちしています。




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中高生

 

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月もなんだかんだで3名の参加者が…!
ちょっとずつでいいので、数が増えて来るといいですね。

 

さて、今月は「教会について」です。
かなり広い括りですが、いくつかのポイントに集約して、勉強します。
今日の勉強会を通して、私達キリスト者にとって、「教会」がどういうものなのか、一緒に考えていければ良いなぁと思います。

今回も、主の祈りを唱えてスタートです。

 

 


 

 

今月のテーマ

● 教会って何? ●

今日は、「教会」について勉強しましょう。
まず、最初に知っておいてほしい事は、堅信の勉強会にも参加したメンバーは、覚えていると思いますが、教会とは建物のことではありません。この建物は聖堂といいますよね。もし、建物の事ならば、聖堂のない時代、迫害に会っていた時代、たとえば、イエス様が死んで(32年頃)から、313年のローマ皇帝コンスタンティヌスのキリスト教公認までの約300年間の間、教会は存在しないことになります。日本でも、江戸時代初期、キリスト者は迫害されていましたが、その間も教会は存在しないことになります。
でも、確かに「教会」は存在していました。
では、「教会」が、建物ではないとしたら、教会とはなんなのでしょうか?
私たち自身、私たちの共同体、世界中のキリスト者の集まりの事を、「教会」と言います。ギリシア語だと「エクレジア」と言います。つまり、「呼び集められた者達」という事です。
イエス様のたとえ話のなかで、種を蒔く人(マルコ福音書第4章3-20節)がありますよね。どういう話だったか覚えていますか?
神様は、平等に私たちに種を蒔きます。
撒いている間に、ある種は鳥(サタン)に食べられてしまします。ある種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が少ないのですぐ芽を出すのですが、根がないのですぐ枯れてしまいます。御言葉を聞き、すぐ受け入れるのですが、艱難や迫害にあうとすぐに躓いてしまいます。ある種は、良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、30倍、60倍、100倍の実を結ぶというお話です。
みんなにも当然神様から種が蒔かれています。私達が教会に来よう、今日の勉強会に出よう、ミサに与ろうという心の動きは、きっとその種が芽吹き、信仰を育てていってるからでしょう。
私たちは、神様に呼び集められて、ここに集い、秘跡を受けます。
イエス様はおっしゃいましたね。

 

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

マタイ福音書 18章20節

 

洗礼を受け、ご聖体に与る私たちが、イエス様と、そして、父である神様と交わり、1つのパンをみんなで分かちあう、それが「教会」です。
父である神様が、私たちを呼び集め、(神様にイニシアティブがある)、神様と交わり、イエス様と交わり、同じ信仰を持つ人たちと交わる、そういう親密な「空間」こそが教会なのです。

ところで、教会は、「キリストの花嫁」とか「キリストの体」などと表現されています。
イエス様が、神様が、まるで「花嫁」を愛するように「私たちを愛して」くれます。
旧約聖書のなかには、「エルサレム」を神様の花嫁と語られている箇所があります。ユダヤ人にとって、約束の地「エルサレム」が神様の愛を受けているように、私たちにとって、「教会」こそがまさにその場所なのです。
そして、まさに、私たちは1つの体です。みんな個人個人の喜びを怒りを哀しみを楽しさを痛みを…イエス様が私たちに対して「深い憐れみ」を感じてくださったように…「共有する」「分かち合う」、こと…そして、誰もが感じるその「喜び」を他者に与えること、行動すること、イエス様が憐れみのあと、貧しい人々、病気の人々に手を差し伸べたように、行動すること、それが「キリストを頭とする私たち体」の役目です。
聖パウロが教会を「キリストの体」と伝えたのは、そういう2つの意味が込められています。

さて、私たちは、なぜ教会に来なくてはいけないのでしょうか?
父なる神様、イエス様、そして、聖霊は、常に私たちとあるのに、なぜ教会に来なくてはいけないのでしょうか?
また、イエス様は、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と仰っています。なぜ、教会にきて、祈らないといけないのでしょうか?
それには、2つの理由があります。
1つは、秘跡に与ることです。秘跡は、堅信の時にも勉強しましたが、秘跡は、神様・キリストとの出会いそのものです。神様、イエス様に出会う奇跡、その時感じる喜びは、私たちキリスト者にとって、生きる糧であり、キリストと一致した者になるために大事なことです。

たとえば、ミサのなかで、ご聖体に与ること、赦しの秘跡に与ること…教会に来る意味がありますよね。そこには、喜びがあります。

1つは、先ほども話したとおり、私たちがキリストの体として、1つの「共同体」だからです。キリスト者である私たちが、共に祈り、共にみ言葉に与り、共に秘跡を経験すること、そして、お互いがお互いを知り、自分を豊かにしていくこと…。

みんな一人ひとりに力、カリスマを、神様は与えてくださっています。それは、自分ではわからないかもしれません。しかし、教会の中の誰かが確実にみんな1人1人を必要としています。その力を、隣人のために、使ってください。その誰かのために使ってください。そして、同時にみんなの隣の誰かが、みんなの必要なものを持っています。

私たちは、イエス様から「慈しみの心」を受けています。そして、「分かち合いの心」を学んでいます。イエス様に倣い、私たちも「油を受けたもの」として、みんな生きています。みんなも、教会に来ることで、それらを証左してください。みんなもきっと助けられると思います。

教会は、決して聖人の集まりではありません。

私も色々なことで教会の方々にご迷惑をかけてしまっています。イエス様には、ほど遠く、何でもないことで怒ったり、時には、傲慢になり色々なミスをします。

物もすぐなくしてしまいます。

共同体は、そういう不完全な人々の集まり、「1つの社会」、もっといえば、「一つの世界」です。

聖パウロが仰っているように、私たちは「キリストの体」として、みんながそれぞれの神様から与えられたカリスマ(才能)でお互いの役割を果たしていけば、自然と補いあわれ、(それは、まさに私たちの体が示すように…足が出来ない事は手が、手が出来ない事は足が行ってくれています)神の国の実現へと向かう事が出来るでしょう。
イエス様は、「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書 22章 39節)と仰られました。人は、神様がお造りになったのですから、私達1人ひとりが神様の意思です。だから、私たちは、神を崇敬する事と同じように人々を尊敬し、その存在を認めます。だから、誰が1人かけても、完全な世界、神の国には到達しません。私たちが、隣人を自分のように愛すのは、自分自身のためであり、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛」しているからです。(マタイによる福音書 22章 37節)

 

さて…
では、「聖堂」って何なのでしょうね。私も旅行に行くと、近くの聖堂を探して、行ってみます。聖堂は、各小教区ごと本当に雰囲気が違って、不思議な気持ちになります。
聖堂は、聖霊が働く場所です。わたしたちと共にいてくださる聖霊が、聖堂に集い、わたしたちを神様の意志に背くことがないように導いて下さいます。
だから、私達が、そこの所属の信徒の方々がどのように聖堂で祈り、どのように過ごしているかで少しずつ雰囲気が違うのでしょう。
さっきも言いましたが、私達は 「秘跡」に与りに、つまり、神様、イエス様に出会いに、聖堂に来ます。
どこの聖堂にもそこにはご聖体があり、そのしるしとして、聖体ランプが灯っています。その出会いは、私達の心のより所です。そこに集い、聖霊の助けを借り、キリストの体として、福音宣教の使命を全うする・・・その支えがそこにあります。
何か迷ったら、聖堂に来て、ご聖体の前で神様と少しお話しするように祈ってみて下さい。祈りは私達を成長させます。
イエス様も、いつも何かあれば祈られていました。福音書にはその様子が多く記されています。
たとえば、受難に向かわれる前にイエス様は、祈られました。

 

アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。

マルコによる福音書 14章 36節

 

みんなも神様に祈ってみてください。

 

最後に、みんなに覚えておいてほしいことを言います。
教会には、守るべき5つの掟があります。これは義務です。これを守ることで、私たちは教会との連帯した結びつきを思い起こすことが出来ます。

 

  1. 主日と守るべき祭日のミサに参加し、その日の特徴を傷つける仕事や活動を休むこと
  2. 少なくても、1年に1回赦しの秘跡に与ること
  3. 少なくても、復活節の間にご聖体に与ること
  4. 教会が定めた断食の期間と大斎・小斎を守ること
  5. 教会が必要とする物質的支援をすること

 

1は、主日がどういう日なのか考えればわかると思います。
主日は、「主の日」、つまり、イエス様の日です。なぜ、イエス様の日なのでしょうか?ミサを思い起こせばわかると思いますが、ミサのなかで私たちはいつもイエス様のご復活をお祝いします。だから、日曜日が主日なのですね。日曜日は、教会でミサに与り、イエス様のご復活を祝い、み言葉を味わい、神様、イエス様にお会いする、だから、私たちにとって、とても大事な日なのです。
2は、赦しの秘跡という秘跡の意味を考えてみましょう。私たちは罪びとですから、どうしても神様から離れようとしてしまいます。軌道修正をするのは大変です。1年に1度与ることでそれを小さいうちに直すことができます。
3は復活節の意味を考えればわかると思います。
年間でも四旬節でもなく、復活節に味わうということ…そして、先に話したミサに与る理由、赦しの秘跡を与る理由を考えればわかると思います。
神様から離れないようにするために、私たちはご聖体が必要です。ご復活を祝い、ご復活の意味を考える期間である復活節には、必ずご聖体に与りましょう。
そして、もし1年ぶり!なんていう時には、まず「赦しの秘跡」に与って、イエス様を迎える準備を整えてから、ご聖体を与りましょう。
4、5は、信徒として、「分かち合い」がとても大事だからです。
自分が今何をできるのか?神様から与えられた能力、環境をどのように使うべきなのか…よく考えれば、その理由は、よくわかるはずです。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書 22章 39節)という教えを守る私たちには、それらのことはとても大事なことです。

どうですか?
みんな守っていますか?その意味を理解すれば決して難しいことではないと思います。

では、最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

 

中高生の勉強会は、毎月、第1週に行いますが、来月は、夏休みでお休みです。
次回は、9月4日、午前9時15分からですね。
ぜひ、みんなで集まりましょう!

 




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中高生

 

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
堅信のための勉強も終わり、来る人はもういないかな…と思っていたのですが、今日も3人の中高生が来てくれました。

 

さて…今日の内容は、「イエスの弟子」についてです。
12使徒をとおして、もう1度イエス様が何を望まれたか、神様の愛について考えてみましょう。
今回も、主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今月のテーマ

● イエスの弟子 ●

さて…今日はイエス様の弟子について勉強します。
イエスの弟子と聞いて、まず最初に思い付くのは12使徒でしょうか?
使徒、全員言えますか?12使徒だけではなく、他にも使徒と呼ばれる人たちが2人います。また、使徒と同じ扱いを受けている方もいますね。
それらの方を全員言えますか?
せっかくなので、全員をあげてみましょう。自信のない人は、マルコ福音書3章13節を開いてみましょう。

  1. ペトロ

    ペトロはギリシャ語での呼び方ですね。アラム語、つまり、イスラエルの人々の呼び方だと、「ケファ」といいます。「」という意味です。元々は、シモンという名前だったのですが、イエス様がそのように呼んだことで、そう呼ばれるようになりました。パウロも、今日の第2朗読の使徒書でそう呼んでいますよね。
    なぜ、ケファと呼んだか…「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる(マタイによる福音書16章 18節)」という事でも分かりますよね。(文字通り、ペトロのお墓の上にバチカンの聖ピエトロ堂はありますね…)
    そう、ペトロは、最初のパパ様です。私たちの教会のリーダーですね。絵画や御像では、天国の鍵を持ち、そして、涙袋がものすごく大きく描かれています。イエス様が受難にあわれた時に、3度知らないと言ってしまったことを悔やみ、泣き続けた時に出来たものと言われています。

  2. ヤコブ(ゼベダイの子)

    一般的には、大ヤコブと言われています。大ヤコブと呼ばれるのは、使徒の中で最初の殉教者であり、イエスのいとこにあたるアルファイの子ヤコブと区別するためです。
    その激しい性格(ルカ福音書9章51-55節)から兄弟、ヨハネとともに「雷の子(マルコ福音書3章17節)」と呼ばれています。
    ヘルモゲネスという名の魔術師と力を試し合い、これを改宗させて洗礼を授けました。
    ヤコブの墓は、 星が現われ、墓の場所を示したと言われ、「コンポステラ」に813年に発見されました。サンティアゴ(ヤコブのスペイン名)・コンポステラは、重要な巡礼地の一つです。サンチャゴ・コンポステラの巡礼の際には、巡礼者は巡礼の証としてホタテガイをぶら下げて歩く。また、水筒代わりのひょうたんを持ちます。それは、ヤコブのシンボルであり、絵画や御像にもそれらが見られます。

  3. ヨハネ(ゼベダイの子)

    福音記者(ヨハネ福音書・ヨハネの黙示録を記した人)。
    その激しい性格(ルカ福音書9章51-55節)から兄弟、ヤコブ(大ヤコブ)とともに「雷の子(マルコ福音書3章17節)」と呼ばれています。
    イエスの愛しておられた弟子」と自らを記し、イエス様が十字架にかけられたときも弟子として十字架の下にいたとされています。その際、マリア様をイエス様から託され、マリア様を最後までお世話します。(ヨハネ 19章25-27節)そのため、使徒のなかで唯一殉教せず、100歳近くまで生きたと言われています。
    福音書を記す頃には、その激しい性格は変わり、「愛の使徒」といわれるようになりました。それは、福音書の中でも「神の愛」「イエス様の愛」を多く語り、「神は愛」と記しているからです。
    絵画や像などでは、福音記者の象徴として、「鷲」とともに描かれていたり、蛇が絡まっている「杯」とともに描かれています。

  4. アンデレ

    ペトロの兄弟。
    福音書のなかでは、イエス様が行なったパンを増やす奇跡の場面(ヨハネ6章8-10節)に登場します。
    X字の十字架に磔にされ、殉教したため、絵画や像では、X字の十字架とともに描かれています。スコットランドの国旗は、アンデレのX字の十字架から取られています(アンデレは、スコットランドの守護人)

  5. フィリポ

    イエスに従った最初の弟子の一人です。フィリポは知り合いのナタナエル(バルトロマイ)にイエスを紹介し、ナタナエル(バルトロマイ)も弟子になりました。(ヨハネ1章45-49節)

  6. バルトロマイ

    フィリポにイエス様の話をされた際に、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い始め疑いますが、イエスさまに直接会ったことをきっかけに、弟子となりました。その際、イエスさまに「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない(ヨハネ1章47節)」に言われます。
    絵画や像では、皮をはがれて殉教したことから、それを象徴して腕に(皮を)コートをかけているように描かれています。

  7. マタイ

    福音記者(マタイ福音書を記した人)。
    マタイは、レビという名の徴税人でした。しかし、イエスさまに「私に従いなさい(マルコ福音書2章 14節)」と言われ、弟子となります。

  8. トマス

    「ディディモ」(双子の意味)とも呼ばれていました。
    トマスは、イエス様が復活して現われたと聞いたとき、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。(ヨハネ福音書20章25節)」と言い、信じませんでした。そのため、「疑い深いトマス」とも言われています。
    しかし、イエス様が再び使徒たちに現われて、そこに居合わせたとき、「わたしの主よ、わたしの神よ(ヨハネ福音書20章28節)」と自らの疑い深さに気づきます。その際、イエス様から「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。(ヨハネによる福音書20章29節)」と諭されました。

  9. アルファイの子ヤコブ

    イエス様の兄弟という言われ方もしますが、兄弟は従兄弟という意味ですね。エルサレム教会の初代司教となりました。
    ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)と区別するために、小ヤコブという呼び方をします。

  10. タダイ

    ユダともいわれています。アルファイの子ヤコブ(小ヤコブ)の兄弟と言われています。宣教した小アジアの教会に送ったものが、「ユダの手紙」として聖書に記されています。

  11. 熱心党のシモン

    使徒のなかでも特に信仰が深く、モーセの律法を厳格に守っていました。
    ペトロの旧名(ケファと呼ばれる前の名前)のシモンと区別するために、熱心党(暴力をもってしてでもユダヤ民族独立を目指すグループ)に入っていたため、熱心党のシモンと呼び、区別します。

  12. イスカリオテのユダ

    説明するまでもなく…12使徒で一番有名かもしれませんね。
    祭司長たちに「銀貨30枚(当時の奴隷1人分の値段)」でイエス様を引き渡す手引きをしてしまいます。イエス様が死刑になると聞き、首を吊り、死んでしまいました。

 

さて、これが12使徒ですね。さらに12使徒と言われる人がもう1人います。イエス様が昇天された後、イスカリオテのユダの代わりに、新たに12使徒とされたメンバーですね。使徒言行録1章15節を開いてみましょう。

マティア

 弟子たちは集まって熱心に祈ってから、くじを引きました。そのくじ引きで選ばれたのがマティアです。マティアは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時から、昇天されるまでずっといた弟子の1人です。

 

そして、最後にもう1人、12使徒ではありませんが、使徒と呼ばれている方がいますね。分かりますよね……?

パウロ

パウロと呼ばれる前には、サウロと言われていました。
ダマスコで復活されたイエス様に出会い、回心し、キリスト者となり、異邦人への宣教を行いました。多くの手紙を書き、それらは、パウロ書簡と言われて、聖書に記されています。

 

ありがとうございます。
これら14人を「使徒」と私たちは呼んでいます。「使徒」とは、イエス様から直接指名され、イエス様を証する人をいいます。
使徒には、特別な権能が与えられています。そのことについては、堅信の時に話しましたよね。「堅信」を授ける力を持っている方々です。(使徒言行録8章14-17節)
他にも、聖パウロの時代の頃には、シノドス(ようなもの)が始まっていました。使徒たちがエルサレムに集まり、教会の事を話し合うことですね。その際には、たとえば、異邦人がユダヤ教の律法を守るべきなのか、など話し合われていました。使徒の権能を引き継いだ司教様たちも定期的にシノドスを行い、色々教会の問題、未来について話し合っていますよね。

質問が出ました。
「12に拘る意味があるのですか?」との質問ですか?どうでしょうか?
答えは「YES」です。
イエス様が、使徒を12人選ばれたのは、もちろん、そこに12人にしなくてはならない理由があるからです。
それは、ヤコブ(イサクの子)の子の数だからです。ヤコブの子達は、それぞれがイスラエルの12部族の祖となりました。
つまり、「12」という数は、イスラエルの全部族の数、つまり、イスラエルの人々全てに福音を伝えるという意味になります。
アブラハムやヤコブの話など、旧約の話もいつかみんなで勉強したいですね。
福音書に出て来る数字、イエス様が話される数字には意味があります。「12」のほかにもほかにも、「40」だったり、「7」だったり…いつか勉強しましょうね。
ところで、この中の聖ペトロ、聖ヤコブ(大ヤコブ)、聖ヨハネは、少し他の使徒とは違っていて、特別な時、イエス様の変容(マタイ福音書17章1~9節)の時や、ヤイロの娘を蘇らせる時(ルカ福音書8章49~56節)、ゲッセマネの園で祈る時(マタイ福音書26章36~46節)などにこの3人を連れて行かれます。この3人はイエス様にとって重要な時に一緒にいつもいる3人です。

さて、少し話を前に進めましょう。
みんなは、使徒たちをどう思いますか?使徒たちは、やっぱり、すごい方々ですか?特別な方々ですか?
イエス様は、「特別な才能を持っていたり、お金持ちだったり、勉強が出来たり、美男子ではない」人を選んで、使徒とされました。彼らは決して特別な人ではありませんでした。
「教会のリーダー」として選ばれた聖ペトロは、イエス様の受難の際に3度もイエス様を「知らない」と言い、イエス様の宣教中もイエス様に何度も怒られています。イエス様に「サタン」と呼ばれたことすらありました。(マタイ福音書16章23節)ゼベダイの子たち(大ヤコブとヨハネ)は「雷の子」と言われるほど気性が荒く、トマスは、イエス様が復活されても「手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ決して信じない」人でした。漁師や徴税人など社会的にもどちらかというと低いヒエラルキーにいる人たちを選び、使徒としました。なぜでしょうか?
イエス様は、そういう「決して特別ではない人」達、そして、社会の中で弱い人々にこそ、福音を伝えたいとお考えだったからではないでしょうか?

しかし、もちろん、使徒たちのすごいところもあります。
列王記上19章19-21節を読んでみてください。

 

エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。

列王記上19章19-21節

 

ありがとうございます。では、次にマタイ福音書4章18-20節を読んでみてください。

 

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。

マタイによる福音書4章18-20節

 

1つ目は、エリヤが、後継者となるエリシャを召命するシーンです。そして、2つ目は、イエス様が聖ペトロと聖アンデレを召命するシーンです。2つの違いが分かりますか?
エリシャは、とても有名な預言者です。彼は、預言者エリヤに召命された時、両親への別れの時間を欲しがりました。しかし、聖ペトロと聖アンデレは、「すぐに」「何もかも」を捨て、イエス様に従っています。
これがどれだけすごいことか、みんなにもわかると思います。それだけ「イエス様が特別な人(?)」のかもしれません。でも、仕事も家族も捨てることがみんなにはできると思いますか?

 

今日は、実は、「イエス様の弟子」というテーマでしたから、別の話をしようと思っていました。
だから、忘れてほしくないことを1つだけ最後に伝えておこうと思います。
「イエス様の弟子」と言われた時、それは、私たちキリスト者のことを言うということです。
キリスト者とは、「キリスト=油注がれた」者という意味です。イエス様の時に勉強しましたよね。私たちも堅信に与る時、油を塗油されました。つまり、私たちもイエス様と同じように「キリスト」なのです。
イエス様の弟子である私たちは、イエス様と同じように油を受け、福音宣教という大きな役割を得ました。
みんなもフィリップ神父様も岡田大司教様もパパ様も、イエス様の弟子です。それぞれ、役割は違いますが、イエス様から「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われ、私たちは油を受け、力をいただきました。

「自分はその力がない」と思う必要も悩む必要もありません。
なぜなら、神様が、イエス様が、私たちを選んだのですから。特別である必要はないのです。大事なことは、「すぐに」「何もかも」を捨て、イエス様に従うことです。
今日は使徒たちを通して、1億2000万人いる日本人のうち、たった44万人しかいないうちの1人であるみんなにもう1度、みんなに「キリスト者」であることを考えてほしいなぁと思います。

では、最後にアヴェ・マリアの祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

 

中高生の勉強会は、来月も、第1週に行います。来月は、7月3日、午前9時15分からですね。
ぜひ、みんなで集まりましょう!




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ついにこの日がやってきました!
ゴスペルフラ部デビューの日です。
3月から始まった練習の成果を見せる、いや、魅せる時です!

 

ゴスペルフラとは……

キリスト教の賛美歌に合わせて踊るフラ(フラダンスとは言わないそうです)のことで、ハワイの信者の方が1980年くらいから始めました。
フラを通して神様を賛美するために、今はあちこちの教会や、未信者さんの間でも広まっているそうです。

 

今日は、子ども達の初聖体があり、初聖体を祝うパーティのなかでゴスペルフラを余興として、みんなに披露しました!
曲目は、「御手の中で」です。

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フィリップ神父様を始め、みなさん、とても喜んでくれました!

 

今回は1曲だけの披露でしたが、次回披露する時には、もっとやりたい!です。
そのためにも練習を重ねないと!

 

今回見て、自分も加わりたい!、来年度から参加したい!と思った人は、是非青少年育成担当の方までご連絡くださいね!
お待ちしています!




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中高生会のゴスペルフラ部、明日のパーティーでいよいよデビューします!

 

ゴスペルフラとは……

キリスト教の賛美歌に合わせて踊るフラ(フラダンスとは言わないそうです)のことで、ハワイの信者の方が1980年くらいから始めました。
フラを通して神様を賛美するために、今はあちこちの教会や、未信者さんの間でも広まっているそうです。

 

 

今日はその最終リハーサル。
衣装を付けて、本番と同じように踊ります。

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先生も、揃ってないところをチェックしてくださいます。

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なんせ明日です。間に合わないのです。
でも頑張ります。

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途中で中学生たちが逃亡しましたが、また戻ってきて汗をかきながら最後まで頑張りました。

明日、ドキドキ本番です!

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