|  |  |  |

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

先月・今月は、「イエス様の受難・死・復活」というもっとも大事な箇所です。
既に堅信を受けたメンバーも、堅信にもう一歩足を踏み出せないメンバーも参加して、自分の信仰についてもう1度考える機会になればと思います。

 

 

過越の聖なる3日間の出来事 1 -2016年度 第11回 勉強会- の続きです。

 


 

 

今月のテーマ

● 過越の聖なる3日間の出来事 2  ●

 

 

● 木曜日の夜から金曜の明け方までの出来事 (聖金曜日 主の受難)

 

イエス様は、聖書で預言されていた通り、捕らえられ、受難にあわれます。
今日は、過越の聖なる3日間の典礼の本を持ってきました。
せっかくなので、聖金曜日「主の受難」で朗読される受難朗読をみんなで役割をもうけて朗読してみましょう。(イエス様・ピラト、ペトロ・群衆・語り部)
1つだけ、イエス様がなくなるシーンを朗読した際には、少しの時間、今まで朗読した箇所、そして、今まで学んできた思い、イエス様が亡くなったことに関して、黙想してみましょう。イエス様が亡くなった意味を、1つの言葉で表せることが出来ると思います。
それでは、やってみましょう。

 

ありがとうございます。
イエス様のご受難のお話…どうでしたか?
クリスマスと同じくらい私たちは、この話を知っています。毎年、毎年、私たちはこの「受難・死」というものを共に経験し、共に「ご復活」の栄光を味わいます。

堅信の勉強会でも話しましたが、この話こそ、私たちの信仰の根幹です。
あまり時間もありませんから、特に重要なシーンだけ、お話ししましょう。

 

1.ペトロ三度知らないという…

まずは、最後の晩餐のなかで、イエス様は、ペトロに「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。と仰るシーンがありましたね。ペトロは、もちろん否定しますが、現実にそれが起こってしまいます。

1回目

門番の女中はペトロに言った。
「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」
ペトロは、「違う」と言った。

2回目

シモン・ペトロは立って火にあたっていた。
人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。

3回目

大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。
「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
ペトロは、再び打ち消した。

 

そして…

するとすぐ、鶏が鳴いた。

 

ペトロは、鶏が鳴いた時、イエス様の言葉を思い出し、大事な人を裏切ってしまった口惜しさ、自分の情けなさ、悲しさ…そういうものに押しつぶされそうになったでしょう。
ペトロは、号泣します。あまりに泣きすぎて、涙袋が腫れてしまい、大きく腫れぼったい涙袋になってしまいました。御像や絵画のペトロにはそれが描かれていますね。(つまり、涙袋の大きいペトロが描かれている場合は、ご受難後ということ)

この話は、よく覚えておいてください。ご復活後の話につながる話です。

 

 

● 金曜日の出来事 (聖金曜日 主の受難)

 

1.ポンティオ・ピラトとの問答

大祭司カイアファに、イエス様を死刑にするために自分の所に連れてこられたローマ総督ポンティオ・ピラトは、非常に困ります。
面倒な「自分とは関係ない宗教的な事」「ユダヤ人同士の事」に、クビを突っ込みたくないという気持ちです。まして、罪のないイエス様に、刑を与えることなど出来ません。しかし、ユダヤ人社会とうまく付き合う事も彼には必要でした。祭司や長老たちのユダヤ人社会に対する影響力は、ヘロデ(当時のユダヤの王>実質的にはガリラヤなどを含む一地域の領主)よりありました。彼らの要求を無碍にすることも出来ません。そうじゃないと、ローマ皇帝から、「イスラエルの統治が上手く行えていない」とされ、ローマ総督の地位を失う事、つまり、出世に影響が出てしまいます。

ピラトの気持ちは、みんなも想像しやすいかもしれません。
みんなならどうしますか?

ピラトは、まず逃げようとします。
「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言って、大祭司カイアファたちのもとに戻そうとします。
しかし、イエスを亡き者にしようとするカイアファや元大祭司のアンナス(アンナスはカイアファの舅 ―当時の大祭司は終生なのですが、ピラトにより無理矢理退任させられ、婿のカイアファが大祭司になっていた。そのためユダヤ人社会では、アンナスは大祭司と呼ばれ、権力も当時のまま残っていた。―)たち祭司や長老たちは、死刑にするために、あくまでピラトに裁くように求めます。(死刑にはローマ総督しか出来ない)

そして、今度は、イエス様をイエス様の出身地であるガリラヤの領主であったヘロデのもとに送ります。つまり、面倒を避け、ヘロデに押し付けたのです。
ヘロデは、イエス様がたくさんの奇跡を起し、しるし(神様がいるという証)を見せていたのを知っていたので、始めは喜びます。しかし、ヘロデの問いに、イエス様は沈黙を守られます。
ヘロデは、最終的に祭司長や長老たちと一緒にイエス様を罵り、イエス様に派手な服を着せて、ピラトのもとに送り返しました。

彼は、しょうがなくイエス様を尋問します。

お前がユダヤ人の王なのか」と、問います。
ユダヤ人の王と名乗り(王はローマ帝国から任命されたヘロデなので、もし王を名乗るならば、ローマへの反逆の意志があることが推察できる)ローマへの反逆を計画していれば、イエス様を死刑に出来ます。そうすれば、何の問題もありません。
しかし、もちろんイエス様にその意志はありません。イエス様はこう答えます。
「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

そして、重ねて尋ねるピラトに、イエス様はさらにこのようにお答えになります。
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

イエス様が王となる国は、物理的な、私たちの現実に住む世界ではありません。
神の国」の王です。神の国については、前お話しましたよね。今年の勉強会の中でもたくさん話してきました。覚えてますか?
イエス様の治める国とは、イザヤ書11章4-9節のような世界ですよね。私たちが現在住む世界とは違います。
永遠の命のなか、神様のみ旨が隅々までいきわたっている世界、全ての人々が神の御旨を尊び、神の御旨のもと、生きている世界ですよね。イエス様は律法を完成させるため、つまり、神様のみ旨を行い、神の国が行われるためにいらっしゃいました。
ピラトが言っている王とは根本的に違います。

ピラトは結局、罪が見いだせず、死刑を回避しようと試みますが、最終的な決断をすることが出来ません。彼は、神の御旨でも正義でも真理でもなく、自分の事しか考えていません。
そして、集まった群衆に尋ねます。
自らが正しい事をするではなく、責任を回避し「誰々が言っているから」とか人のせいにし、責任を回避し、流されていく。

みんなが、ピラトの立ち場ならどうしましたか?
イエス様を救う事が出来ますか?
クラスメイトがいじめられていた…友人が誤解を受けみんなからあらぬ非難を受けていた…みんなならどうしますか?

 

 

2.人々はイエス様を…

つい数日前イエス様をスーパースターのように待ち構えた群衆は、この時どうしたでしょう?

人々は、祭司長や長老たちのような権力者が「イエス様を死刑にする」という強い意志を持っていることを知り、今度は、イエス様を一斉に罵ります。
そして、イエス様を「死刑に」と、言います。
その中には、実際にイエス様によって「しるし(神様がいるということがわかるようなこと)」を受けた人もいるでしょう。
でも、彼らは、イエス様を「罵り、十字架の刑に処す」ことを望みます。
多分、そこに「意志」は無かったのかもしれません。
イエス様を十字架の刑にしたいと誰も心から思っていなかったし、誰もイエス様を救おうとも思わなかった。
ある意味、祭司長や長老、ピラトより罪深いのではないでしょうか?
誰も「おかしい」「間違っている」という人はいなかったのでしょうか?
多くの人はそうする事が出来ません。人は弱い生き物です。
だからこそ、祈りを捧げ、神の御旨に心を向けてください。ミサの開祭の時に行う回心を思い出してみてください。「怠り」も罪です。
あの時「おかしい」「間違っている」という声はもしかしたら、届かず、イエス様は同じように十字架で処されていたかもしれません。もしくは、そういう事によって、自分も十字架の刑に処されることになったかもしれません。でも、神様もイエス様も見ています。聞いています。勇気をもって、神様のみ旨にそった行動をしてください。

 

 

3.イエス様の死

この話自体は、今年の勉強会を通して何度もする機会がありましたね。
預言がその通り行われていくこと…つまり、神の御旨通り、ご計画どおりの事が行われていくこと、みんなも理解していると思います。
十字架上の7つの言葉、覚えていますか?

 

この受難朗読のなかでは、私たちが聖堂で見る磔刑の十字架に書かれている「I.N.R.I.(ユダヤ人の王 ナザレのイエス)」という罪状を貼る話も出てきましたね。
イエス様が死刑判決を受けてからの話は、錬成会の時や教会学校でも行った「十字架の道行」で、みんな知っていますし、今までもたくさん話してきました。だから、今日はその話は(時間がないので)省略します。

人々は、過越祭を祝うために、イエス様を急いで殺そうとします。
そして、(汚れない状態でいるため)それに触れることはないようにします。したがって、ほとんどの行為は、ローマ兵によって行われます。
ここでも、本当の意味での律法を分かっていない人々がいます。

ところで、過越の話を思い出してください。
ユダヤ人たちは、どうやって神様から救われたのでしょうか。
そう「傷のない子羊を屠り、血を家の壁に塗り…」ユダヤ人たちは過越す事が出来たのでしたよね。
傷のない子羊…そう、全く罪のないイエス様を死に追いやることにより、私たちは救われました。ミサのなかで平和の讃歌を歌う時、「神の子羊」と歌いますが、まさにイエス様をさしているのですね。
成し遂げられた」(十字架上の7つの言葉)、死の直前、イエス様はこう仰いました。
まさに自らを神にささげることにより、私たちを救いを成し遂げてくださったのです。

聖金曜日の事を英語で「Good Friday」と言います。なぜイエス様が亡くなったこの金曜日を「Good」なのか、気になりませんか?
それは、創世の時、神様が何かを造られた時に「良しとされた」とされたように、イエス様の十字架上で亡くなる事により、神の救いが完成した瞬間を、神様は「良しとされた」のです。だから、「Good」なのです。

亡くなる時、神殿の垂れ幕は上から下まで裂かれました。
まさにこの瞬間、神様は私たちを赦し、私達と神様は新たな契約、新約を結びました。

こうして、私たちにとって、大いなる失敗のしるしである「十字架」は、神の愛のしるしとなりました。

 

 

さて…今日はここで終わりにします。
もちろん、この話に続きがある事はみんな知っていますよね。
受難・死・復活…この3つは、3つで1つです。そうでなければ、本当の意味での「救い」はないですよね。

 

堅信の勉強の時もお話しましたが、この出来事、そして、この出来事の続き、「ご復活」を信じる事こそ、信仰の根幹です。
じゃないと、この話は、ただの悲しい、私たちが罪深いだけの話になります。
イエス様は、人として産まれ、最後の最後まで苦しまれました。その苦しみは想像を絶するものがあります。
共に過ごした弟子たち、仲間に裏切られ、肉体的にも精神的にも本当に地獄のような苦しみを味わったと思います。出来る事なら逃げ出してしまいたい、そんな誘惑もあったと思います。

でも、それに打ち勝ち、苦しみを受け、そして、100%完全に死にました。
「ポンティオピラトの下で苦しみを受け、死に、葬られ、黄泉にくだり…」と、使徒信条にもありますよね。

私達にも確かに絶望はあります。
信仰があれば、絶望しないなんてことはありません。
絶望はします。死ぬほど苦しい思いはします。

 

前にしたかもしれませんが、フィリップ神父様のイースターのお説教で「厚い雲の奥、太陽は見えない事もありますが、そこに太陽がある事を私たちは知っています」と仰っていました。
そうです。その奥には希望があります!イエス様は、それを示してくださいました。

 

4月13日からの過越の聖なる3日間には、是非与ってみてください。
そして、4月15日の復活の聖なる徹夜祭に心の奥底からご復活を祝いましょう!
私たちに希望があることがしめされたのですから。神様の愛が私たちに常にあることを示してくださったのですから。

 

 

 


 

今年度の中高生の勉強会は今月で終わります。
3月28日からは、堅信のための春季集中講座が行われます。

 

是非、多くの中高生に集まってもらえたらと思います。

 

 

来年度は、5月2日から始まります。
教会学校を卒業したメンバーも新たに加わります。中高生の皆さん、是非、集まってください!




 |  |  |  |

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

先月・今月は、「イエス様の受難・死・復活」というもっとも大事な箇所です。
既に堅信を受けたメンバーも、堅信にもう一歩足を踏み出せないメンバーも参加して、自分の信仰についてもう1度考える機会になればと思います。

 

 


 

 

今月のテーマ

● 過越の聖なる3日間の出来事 1 ●

 

今月も先月に引き続き、「イエス様の受難・死・復活」について、一緒に考えていきましょう。
既に受堅メンバーには伝えていますが、イエス様の受難・死・復活は、信仰の根幹です。
まず、先月のおさらいをしましょう。

 

イエス様は、「律法を完成させるために」ご降誕されました。
律法は、本来、私たち人間のために神様が私たちを幸せにするため、つまり、神の国の実現のためにあるものでした。

マルコ2章23節を開いてください。

 

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」

マルコによる福音書2章23-28節

 

神様が、私たちへの愛ゆえにご自分のひとり子イエス・キリストをお送りくださったのです。
ヨハネ福音書の3章16節を開いてみましょう。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書3章16-17節

 

モーセがシナイ山で神様から与えられた与えられた十戒は、イエス様によって、私たちにシンプルに本質をついた言葉で掟として残されています。それが、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(十戒1-3の部分) 『隣人を自分のように愛しなさい。』(十戒4~10の部分)でした。

 

そして、聖週間の日曜日から水曜日までのお話をしました。

日曜日

イエス様は、ご受難にあうのを神の御旨として受け入れ、エルサレムに入城されます。
過越祭で世界中からエルサレムに集まった人たちは、まるでスーパースターが来たかのように、イエス様に「ホサナ(救ってください)」「ダビデの子(メシア)」と、迎い入れます。この迎い入れた人たちの思いは「ローマ帝国から解放して、ダビデ王やソロモン王の頃のようなユダヤ人の栄光の時代を取り戻してくれる人」という意味でのメシアでした。しかし、イエス様はそうではありませんでしたよね。イエス様は、力の象徴の馬ではなく、平和の象徴であるロバによってエルサレムに入城されました。イエス様は、「神の国の王」として来られたからです。まだ、誰も真の意味でのイエス様のアイディンティティを理解していないのです。

月曜日

イエス様は、市場になってしまっていた祈りの場である神殿から商人たちをムチで追い出しました。これによって、祈りの場である神殿が戻ってきました。それと同時に神殿がユダヤ人だけのものではなく、私たち人間に解放されました。しかし、商人たちから利益の一部を上納させていた祭司長や長老たちの怒りをかいます。

火曜日

祭司長たちや長老、律法学者から意地悪な質問を受けますが、悉く論破し、さらに、彼らが間違った律法の理解をし、神様の意志とは別のところにあることを指摘します。これによって、祭司長や長老たちは、イエス様を殺すことを決意します。

水曜日

サタンの入ったイスカリオテのユダが、祭司長たちにイエス様を引き渡すことを約束します。彼らは、イスカリオテのユダに銀貨30枚、当時の奴隷1人分の値段を報酬として支払いました。

 

 

 

さて、今日は、木曜日から日曜日までの「過越の聖なる3日間」のお話です。
その話に入る前にまず、過越の聖なる3日間の「過越」のお話をしなくてはいけません。この「過越」は、当時のイスラエルの人々にとって、もちろん、今のイスラエルの人々にとっても、最も大事なことだからです。

過越は、この最後の晩餐が行われていた時のちょうど、1310年ごろ前にあったお話です。

 

ヤコブ(イスラエル)の12人の子(12使徒はここからきています)のなかで、父ヤコブに最も可愛がられていた末っ子のヨセフが、兄たちの妬みをかい、色々あって、エジプトに奴隷として売られてしまいました。でも、ヨセフは賢い人だったので、エジプトで王様や多くの人々の信頼を得て、エジプトの宰相(総理大臣)となります。
その後、大飢饉が中東を襲います。エジプトは、宰相であったヨセフによって食料などを貯蓄してあったこともあり無事でしたが、ヨセフの父ヤコブや兄弟たちは食料が尽きてしまいました。ヤコブたちは、ヨセフが宰相であることを知らず、助けを求めます。そして、ヨセフは、兄弟たちを赦し、ヤコブや兄弟たちをエジプトに招きます。
こうして、イスラエルの民は、エジプトで幸せに暮らすようになりました。
しかし、やがて、エジプトの人々は、ヨセフの事を忘れ、豊かになっていくイスラエルの民に対し、妬み、恐怖を抱くようになりました。そして、イスラエルの民に、重労働を課すようになりました。300年間に渡り、それは続いていきます。しかし、イスラエルの民は、重労働をさせてもさせても、子孫を増やし、繁栄していきます。ついに、エジプトの王様は、「産まれた男の子は、全員殺せ」という命令を下します。イスラエルの民の産まれた子は、産まれた瞬間に男の子と分かると、また、ナイル川に流され、殺されてしまいました。

モーセは、ちょうどその命令が出された時に産まれました。
しかし、モーセの両親は、我が子を殺すことが出来ず、3か月の間隠していました。いよいよ隠すことが出来なくなり、ナイル河畔の葦の茂みに籠にいれて様子を見ていました。
そうすると、そこに王様の娘が水浴びに来ました。王様の娘はモーセがユダヤ人と分かりながらも、殺すことが出来ず、自分の子どもとして育てる事にしました。
こうして、モーセは、ユダヤ人でありながら、王子として、育ちました。

さて、モーセは王子として育っていくなか、イスラエルの民は、そのなかも重労働を課せられていました。
その間イスラエルの人々は重労働の苦しみにうめき、叫んでしました。その助けを求める彼らの叫び声は神に届いていました。神様は、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ」、「イスラエルの人々を顧み、御心に留められ」ていました。

そして、モーセが80歳になる頃、神様はモーセを通して、イスラエルの民を救われます。
神様は、イスラエルの民を解放するために、エジプトの民に「10の災い」のうち、9つの災いを起します。しかし、エジプトの王様は、それでもイスラエルの民を解放しませんでした。そして、最後の10個目の災いの日、いよいよイスラエルの民は、エジプトを脱出します。
脱出の夜、神様は、人間から家畜に至るまで、エジプトの初子(長子)をすべて撃たれました。しかし、モーセを通して、「傷のない雄の子羊の血が家の柱と鴨居に塗っておいた」イスラエル人の家は過越して初子を撃たれませんでした。(だから、この出来事を過越と言います)
エジプトの王の長子も、過越によって危篤となり、エジプトの王は、モーセにイスラエルの民を連れて出ていく許可を与えます。

イスラエルの民は、急いで準備して、酵母を入れない小麦粉のパン(種無しパン)を持ち、エジプトを脱出します。

その後、エジプトの王様は、イスラエルの民を追撃して来て、紅海に追い詰められます。しかし、もうこのシーンは有名ですよね。
海が2つに割け、その間をイスラエルの民は通り、パレスチナの地に戻ります。そして、イスラエルの民が渡りきったところで海は戻り、エジプト兵は、海に流されてしまいます。

この後、モーセは、シナイ山に登り、神様は新たにイスラエルの民と契約を結び、十戒をモーセを通してイスラエルの民に与えます。

 

簡単にですが、これが、過越のお話です。
いつかがっつりやりたいですね。

一番大事な言葉は、「傷のない雄の子羊」です。
神様は、イスラエルの民が「傷のない雄の子羊」を捧げる事でイスラエルの民を過越されました。

この事を覚えておいてください。

 

 

さて、本題に入りましょう。まずは、木曜日のお話です。

● 木曜日の夜の出来事… 最後の晩餐 (聖木曜日 主の晩餐の夕べのミサ)

 

 

「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」

ルカによる福音書22章15節

 

最後の晩餐は、イエス様の、この言葉で始まります。
「最後の晩餐」は、レオナルド・ダ・ヴィンチを始め、様々な画家がモチーフにしているから、みんなもイメージしやすいですよね。
想像してみてください。
自分は、これから何が起こるかわかっています。今まで命を懸け一生懸命伝えてきたことはまるで理解されてない。そして、3年間一緒に宣教の旅をしていた仲間の1人に裏切られ、日曜日にまるでスーパースターのように迎い入れたくれた群衆から、罵られ、何1つ罪は犯していないのに、最も残酷な十字架の刑、死刑にあう…みんなが知っているイエス様の受難・死が今起ころうとしています。

この「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」という言葉の重み、切なさ、悲しさは想像に余りあるものがありますよね。受難・死を迎える前に、ご自分を裏切ることになるイスカリオテのユダも含めて、食事をとろうとされるイエス様の真意を考えてみてください。
神のご計画とはいえ、イスカリオテのユダがどうなるか、ご存じで慈しみによって、一緒に食事をとろうと考えれたのかもしれませんし、もしかしたら、考えを改めてくれると思ってかもしれません。個人的には、「そんなイスカリオテのユダも含めて」一緒に旅をした仲間達全員で食事をとりたかったのではないかと思います。逆に言えば、それだけ、これから起こることにイエス様ご自身も恐怖し、悲嘆にくれ、少しでも分かち合いたかったのではないでしょうか。

 

さて、最後の晩餐は、私たちキリスト者にとって、最も大事な出来事の1つです。
なので、聖木曜日には、この最後の晩餐を直接記念した「主の晩餐の夕べのミサ」があげられます。今年は、4月13日ですね。
それだけ、大事な事がこの最後の晩餐のなかで行われました。

この「最後の晩餐」のなかで、イエス様が「このように行いなさい」と命じられた通り、行っています。つまり、この最後の晩餐に、私たちが毎日(正確にいうと363日)行っているミサが制定されました。それがどれ程、私たちにとって、素晴らしい事か…、みんなにはもうわかりますよね。

 

 

ルカによる福音書 22章19-20節を読んでみましょう。

 

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

ルカによる福音書 22章19-20節

 

はい。ありがとうございます。
もちろん、みんなには、この箇所が何を意味しているか分かりますよね。
感謝の典礼のなかで、聖変化の際に唱えられている言葉です。
イエス様が仰った言葉、聖書の御言葉をほぼそのままミサの中で唱えているわけです。

前にも時もしましたが、この時から約2000年間、このイエス様の言葉を守り、ミサを祝ってきました。
もちろん、この時、弟子たちは、この言葉の真の意味を分かっていません。
受難・死・復活の本当の意味を知るのは、まだまだ先です。
でも、みんなはその意味を知っています。

ミサの中で、平和の賛歌を歌います。
歌詞を覚えていますか?
神の子羊 世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。神の子羊 世の罪を除きたもう主よ、われらに平安を与えたまえ。

そして、その後、ご聖体を拝領する前に信仰告白をしますよね。
主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう

 

平和の賛歌で歌う「神の子羊」、これは、イエス様の事ですね。
過越のことを覚えていますか?
傷のない子羊を捧げ、過越されたのでしたよね。私たちは、全く罪のないイエス様を捧げ過越します。
罪人である私たちが、全く罪のないイエス様を犠牲にし、死から解放され、永遠の命を得る。

この重みを感じ取ってください。
だから、次の信仰告白に意味が生まれます。

 

主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。

ヨハネによる福音書6章 68-69節

聖ペトロの言葉です。みんなはどうですか?
自らを捧げ、神様に私たちを救ってくださるイエス様に心から伝えてみましょう。

 

では、次にヨハネによる福音書13章1~15節を読んでみましょう。

 

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 

まず、最初の箇所、 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」この言葉の意味を味わいましょう。普通に愛したではなく、「この上なく」「愛し抜かれた」のです。初めの説明を少し思い出してみましょう。
これは、神様のみ旨「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3章 16節)」にも通じるものがありますね。

そして、弟子たちの足を洗います。
当時、足を洗うという行為は、その家の召使が主人に対して行う仕事でした。
当時の靴は、サンダルのようなものでしたし、中東は、砂埃が多いですから、家に帰るとまず足を洗うのです。
つまり、召使がする仕事をイエス様が弟子たちに行いました。イエス様は、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(マタイによる福音書23章11-12節)」というみ言葉をそのまま自ら実行されたのです。
そして、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したので」す。

主の晩餐の夕べのミサのなかでは、このことに倣い、洗足式が行われます。
数年前、教皇フランシスコは、刑務所に出向き、受刑者の皆さんの足を洗われました。また、違う年には、難民キャンプに行き、難民の足を洗われました。
松戸教会でも、12人(ヤコブの息子の数、使徒の数)の信徒の足を神父様が洗います。
もし、聖木曜日にミサに与るときは、ぜひ足を洗って頂いてください。そして、イエス様がおっしゃったように、謙遜の心をもって、自ら低くなり、お互いに仕いあいましょう。

そして、イエス様は、足を洗った後、仰りました。
ヨハネによる福音書 13章 26-27節をよんでみてください。

 

イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。

ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

 

あくまで、ご自分のことではなく、神様のみ旨にそい、行動されます。

そして、その際に、ペトロは言います。
ヨハネによる福音書 13章37-38節を読んでみましょう。

 

ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

実際、ペトロは、イエス様のことを知らないと3度言ってしまいます。
ペトロは、神様のみ旨ではなく、自分のことを考えてしまいます。もし、イエス様を知っていると言ってしまえば、自分も刑に処されてしまうと考え、恐怖したのでしょう。

みんなならどういう行動をとりますか?
日本には多くの殉教者がいます。26聖人殉教者たちは、キリスト者であるとして、捕まった時にどう答えたでしょうか?
「キリスト者ではない」と答えましたか?
つい、先日遠藤周作さんの原作「沈黙」という映画が、上映されていました。
みんなが、もしキリスト者であるとして捕まり刑に処されるとしたら、どのように答えますか?

 

そして、この最後の晩餐の中で、まるで遺言のようにイエス様は、わたし達に新しい掟をお話になりました。
先月話をしたようにこれは、十戒をさらに深めるものです。イエス様は、律法を完成させるためにこられたのです。(先月の勉強会
ヨハネによる福音書 13章34-35節を開いてみましょう。

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 

 

これが、私たち信徒にとって最も大事な掟です。
イエス様がおっしゃるように、互いに愛し合えば、おのずとキリスト者であることがわかります。

 

 

● 木曜日の夜の出来事 ゲッセマネ

そして、最後の晩餐が終わると、いつものように、祈りに出かけられます。
聖書には、何か重大な決断をする時、また、岐路に立たされた時、イエス様は一人で祈られたことが記されています。
しかし、今回は1人ではなく、3人の弟子を連れていかれました。3人の弟子といわれたら、ペトロ、ヤコブ(ゼベタイの子)、ヨハネ(ゼベタイの子)ですね。
では、マタイによる福音書26章36-56節を読んでみましょう。

 

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。
「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。
このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 

どうですか?
人間「イエス」の孤独感、そして、恐怖を感じられませんか?
神の子でありながら、人として産まれたイエスが、神の御旨と自分の中にある感情のなかで、悲しみもだえているのです。
もし自分がイエス様だったら……イエス様の気持ちは、想像できますよね。「絶望」という言葉がまさにそのまま当てはまる状況です。しかし、イエス様は最後の最後まで父である神様に祈られ、共にいました。

でも、3人の弟子たちはイエス様のそんな思い、そして、イエス様のアイディンティティ、イエス様の言葉の意味をちゃんと分かっていなかったがために、そんな場でも寝てしまいます。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い
イエス様は、最後まで弟子(私たち)に真理を教えてくださり、そして、赦し、回心へと導いてくださいます。
私達は、人として、キリスト者として、「こうありたい」「こうすべき」と分かっていても、実際出来ないことが多いですよね。
実際は「出来ない」のはなく、「しないだけ」だったりします。聖パウロも常に肉にではなく、霊に従うように私たちを諭していますよね。
たとえば、ガラテヤの信徒への手紙5章 17節にはこうあります。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
だから、イエス様が仰るように常に目を覚まして祈りましょう。

そして、自分の弱さと向き合う時の祈りも、この時、イエス様は、模範を示してくださいました。

 

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

マタイによる福音書 26章 39節

 

 

私達も、洗礼を受け、聖パウロが「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ローマの信徒への手紙8章 15節)」と伝えるように、神の子となったのですから、神様を父と呼び、イエス様のように祈りましょう。

そして、イエス様は、人間としての苦しみ、恐怖、悲しみ、孤独感…様々な物を乗り越え、いよいよご受難へと向かわれます。

 

 


 

続きは以下に掲載されています。




 |  |  |  |

 

6月4日・聖霊降臨の祭日に行われる堅信式のための(中高生のための)春期集中講座を下記の予定で行います。
(幼児洗礼を受けた18歳以上の青年もスケジュールが合えば、ご参加頂けます)

 

3月28日 午後1時より午後4時

内容 : 霊印、私達の信じる神、イエス・キリスト

3月29日 午後1時より午後4時

内容 : 秘跡、信仰について

3月30日 午後1時より午後4時

内容 : 聖霊降臨、私たちのこれから

 

場所

地下ホール

 

今回は集中講座ということもあり、時間厳守で3回全てに出席して頂きます。
筆記用具、ノートをお持ちください。
代父母をお決め頂き(もし見つからないようでしたら、担当のリーダーにご相談ください)代父母の方々に6月4日の堅信式にご参加頂けるようにお約束を取り付けて頂けるようにお願い致します。

たくさんの参加をお待ちしています。




 |  |  |  |

中高生

 

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは1人だけ……堅信に与ったメンバーにはお話しましたが、秘跡と知識(カテキズム)は、信仰の両輪です。
秘跡に与ってもその意味を知ることがなければ、その価値を知ることが出来ないからです。
今月・来月と四旬節に向け、「イエス様の受難・死・復活」というもっとも大事な箇所になります。
既に堅信を受けたメンバーも、堅信にもう一歩足を踏み出せないメンバーも参加して、自分の信仰についてもう1度考える機会になればと思います。

 

 


 

 

今月のテーマ

● 受難への道 ●

 

今月・来月と、「イエス様の受難・死・復活」について、一緒に考えていきましょう。
既に受堅メンバーには伝えていますが、イエス様の受難・死・復活は、信仰の根幹です。

そもそもイエス様がご降誕されたのは、なぜでしょうか?
前にも何度か話をしました。覚えていますか?

 

それは、神の国の実現のためでしたよね。
神様が、私たちへの愛ゆえにご自分のひとり子イエス・キリストをお送りくださったのです。
ヨハネ福音書の3章16節を開いてみましょう。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書3章16-17節

 

私たち人間をお造りになった神様は、私たちの幸福を望まれています。
しかし、事あるごとに私たち人間は、神様の思いとは別の方向に道を歩んでしまいます。
少し整理してみましょう。

 

  1. アダムにエデンを与えた。
    しかし、アダムは女(エヴァ)から薦められ、禁じられた実を食べてしまい、エデンを追放される。
  2. 「過越」により、エジプトから解放する。そして、モーセと契約を結び、「私たち被造物である人間がいかに生きるべきか」というみ旨を表す。
    そして、様々な預言者・王(油注がれた者)を通し、人々を神の国へと導いた。
    しかし、人々はどうしても神から離れていってしまう。
  3. ひとり子イエス・キリストを私たちのためにご降誕させ、イエス様の「受難・死・復活」により新たな契約を結ぶ。
  4. イエス様は、昇天され、神の右の座につき、代わりに聖霊を送ってくださる。
  5. 現在
  6. イエス様の再臨(神の国の完成)

 

前も話したと思いますが、この「過越」は、ユダヤ人にとって最も大事なものです。
彼にとって、それは「神によって、自分たちが解放され真の自由をえて、そして、神と契約を結んだ」ことだからです。それは、私たちにとっても同じくらい大事なモノです。
なぜなら、イエス・キリストによって、それはユダヤ人だけのものではなく、全人類のものであることが示されたからです。

イエス様は、こう言っています。

 

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

マタイによる福音書5章17節

 

律法は、過越の後、モーセを通して、神様からイスラエルの民に示されました。その道徳的おきては、十戒に要約されています。
律法学者達は、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を、研究し(例えば、十戒は出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節)、更に細かい法を定めていました。それにより、少しずつ「本来の神様のみ旨」と離れてしまったものになっていってしまいました。イエス様は、それをもう1度神様のみ旨に沿ったものにし、それを完成されるために来られたのです。

 

簡単に、十戒について説明します。もう1度言いますが、十戒は、「神によって救われた民が神に対して、また人に対してどのように生きるべきか」という神の御旨です。

 

まず、一番大事なこと、この十戒の前提です。

わたしはあなたの主なる神である。

この前提が受け入れられなければ、十戒も何もありません。
これに関しては、みんな説明も何もいりませんよね?

  • 神に対して守るべき戒め

  1. わたしのほかに神があってはならない。

    神は完全なものです。2人いれば、お互いに制限を与えることになりますから、完全ではなくなってしまいます。
    神が私たちを愛して下さるように、私たちも神を愛さなければなりません。世俗的なモノ(お金や権力)ではなく、ただ神に仕えなければなりません。

  1. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

    信仰は、神への深い信頼があって初めて成り立ちます。神は私たちを愛し、私たちのために様々なことをしてくださいます。そして、神に対し常に畏敬の念を抱かねばなりません。神の名を語り、みだりにその名を唱えることは包ましなければなりません。

  1. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

    神の創造の業に崇敬の念を抱かなければならなりません。そして、この日は、主(イエス・キリスト)のご復活を祝う日でもあります。だから、この日は聖であり、喜びに満ちた日です。神が7日目に休息されたように私たちも心も体も癒し、ご復活を祝い、気持ちを新たに、新しい1週間を過ごさなければなりません。

 

  • 人との関係で守るべき戒め

  1. あなたの父母を敬え。

    「すべての人」に愛情と感謝と尊敬を向けなければなりません。その最初のスタートが、最も身近な存在である親(子)です。そして、家庭は「もっとも基礎的な教会」です。愛情・尊敬・感謝の心をもって交わりを深くし、他と交わる心、他の人々を招きいれる心を育てなければなりません。

  1. 殺してはならない。

    人の生死は、神のご計画のうちにある。私たちは、神の御旨を尊び、神の御旨に従い生きていかなければならない。そして、神によって創造された自分・他人・被造物を殺すことは、神を冒涜することに他ならない。

  1. 姦淫してはならない。

    命は、「愛」によって生まれ、「愛」によって育まれなければなりません。そして、あらゆる破壊から自らを守らなければいけません。豊かな「愛情」は、人を自由にし、より豊かにします。

  1. 盗んではならない。

    人の人から何かを奪い取ることだけではなく、世の中の富や自然の豊かさ等あらゆるものを公正な管理と分配をしなければなりません。なぜなら、相対的権利はあっても、絶対的な権利は創造された神が有すからです。私たちは神から与えられた使命を担っていることをわすれてはいけません。それは、被造物に対する責任でもあります。

  1. 隣人に関して偽証してはならない。

    全ての真理の源である神を冒涜することに他なりません。正直であることは、神に対して誠実であることです。私たちは神に対して誠実であらなければなりません。真理は、「道であり、真理であり、いのち」であるイエス様から直接見ることが出来ます。

  1. 隣人の妻を欲してはならない。

    私たちは自らの欲望の乱れを抑えなければなりません。強欲により、一時の衝動が人格を支配し、それによって罪を犯してしまうからです。私たちは、清い心で神と向き合い、祈らなければなりません。そうすれば、誠実に一心に愛することが出来ます。

  1. 隣人の財産を欲してはならない。

    他人の不幸を望むことは「罪」です。妬みではないも生まれません。自らに向けられた神のいつくしみ、そして、聖霊によってすでに与えられた神の命に気付けば、おのずと妬みはなくなります。私たちが求めるべきものは、神であるはずです。

 

以上が、十戒です。
できるだけ覚えるようにしてくださいね。何より、私たちの生活を見直し、私たち自身を見直す時、十戒を思い出してください。
なぜなら、これは、イエス様が「掟」として、言われたことと同じだからです。

マルコ12章28-34節を読んでみましょう。

 

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

29-31節にこう書かれていますね。

 

『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』

 

前半(心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい)の箇所は、十戒の1-3を、後半(隣人を自分のように愛しなさい)の箇所は、4-10を言っています。先ほども話したとおり、イエス様は、律法を否定するために来られたのではなく、完成するためにこられたのです。
そして、イエス様の受難・死・復活によって、十戒は、ユダヤ人だけのものではなく、私人類全てのものになったのです。

 

 

さて、いよいよ本題に入りましょう。

ガリラヤ地方を中心に活動されていたイエス様は、数多くの律法学者、フィリサイ派の人々を論破し、福音を述べ伝えていきます。
先ほど、話したように「神様のみ旨」である「律法」が、人間の知恵によって、違うものになっていたので、イエス様は、それらの矛盾をときました。そして、その間、イエスは、多くの「しるし(奇跡)」を見せてくださいました。人々は、神の存在、神のいつくしみの深さに気付いていきます。
しかし、権力者(律法学者やファリサイ派の人々)と争うごとに、人々の心は、徐々に頑なになっていきます。思うように福音宣教出来ないイエス様は、いよいよエルサレムに行くことを決意します。

よくこんな疑問を持っている人がいます。
「イエス様は、ご自分の未来がわかっていたのだろうか?わかっていたのならば、なぜそれを回避しなかったのだろうか?」
イエス様は、ご自分の未来を確かにわかっていました。
ルカによる福音書の9章22節には、こうあります。

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。

そこにご自分の「受難」があることをイエスは分かっていました。しかし、同時にそれが神のご計画であることも知っていました。福音書のなかでは、3度「受難・死・復活」についてお話されています。

  1. マタイ16章21節・マルコ8章31節・ルカ9章22節
  2. マタイ17章22-23節・マルコ30-32節・ルカ9章43b-45節
  3. マタイ20章18-19節・マルコ10章33-34節・ルカ18章31-33節

 

なぜでしょうか?なぜ、イエス様はご自分の未来を知り、なぜイエス様は、そのみ旨を実行できたのでしょうか?
それは、イエス様は、どんな時も、常に祈りと共にあったからです。
イエス様は、常に祈ることで、自らがするべきこと、つまり、神様のみ旨を知り、自らの感情を抑え、神様のみ旨を実行していました。
常に祈りと共にあり、常に神様のみ旨と共にあったのです。

 

 

そして、いよいよ私たちが「聖週間」と呼ぶ、キリスト者にとってもっと大事な1週間のお話です。
この1週間、つまり、聖週間の出来事を時系列に並べてみましょう。
まず、日曜日、いよいよエルサレムに入城します。

マタイによる福音書 21章1~11節を読んでみましょう。

 

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

 

ここは、受難の主日のなかで行われる枝の式で朗読される箇所です。(今年は、4月9日ですね)
枝の式は、イエス様のエルサレム入城を模し、駐車場で棕櫚の葉を持ち、神父様をお迎えしますよね。

 

少し風景を思い描いてみましょう。
エルサレムは、みんなのイメージする町と少し違って、町の周りに城壁があります。つまり、街に入るためには城門を通らないといけないわけです。ヨーロッパや中東、中国では、敵に襲われるかわかりませんから、そういう街づくりのところが多いです。だから、今でもヨーロッパや中東、中国に行くと町の周りには城壁、もしくは、城壁の跡がありますね。
城壁は、壁といっても、ほとんど建物です。城壁の上は歩けるようになっていて、そこから、敵が来た時に弓矢を放ったり、石を投げたりして戦います。だから、町の外は危険がいっぱいですし、逆に町の中はとても安全に暮らせるわけです。夜になると、城門を閉めて、町に入るには、次の日の朝を待たなければなりません。
ここにエルサレムの城壁の写真がありますので、ちょっと見てイメージを膨らませてみましょう。

 

さて、イエス様は、ロバにのって、城門をくぐり、エルサレムに「入城」します。
「過越祭(過越を記念し祝うイスラエルの人々が一番大事にしている祭)」のためにイスラエル中からエルサレムに集まった人たちによって、「イエス様が(モーセやエリシャやエリヤのような有名な)預言者」だという噂はすでにエルサレム中に伝わっていたのでしょう。多くの人が出迎えます。

 

ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。

マタイによる福音書21章9節

 

出迎えた人は、棕櫚の葉を持ち、自らの服を道に敷き、「ホサナ!(救いたまえ!)」と言って出迎えます。
服を道に敷くのは、みたいなものでしょう。
「ダビデの子」は、前(イエス・キリストクリスマスのお話)にもお話しましたが、メシアを指しています。
集まった人々は、神様の導きによりモーセがエジプトからイスラエルの民を解放したように「自分たちをローマ帝国から解放して、ダビデ王やソロモン王の時代のような隆盛がもう1度起こる」と信じ、「救いたまえ!」と、声をかけます。
そして、「油注がれた者・王様が通る」道に、レッドカーペットを布くように、自分の服を敷きます。
まるで成田空港に海外のスターが来た時のような感じです。

これらの事は、聖書に預言されたことでした。
ゼカリア書9章9節を開いてみましょう。

 

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。

 

イエス様は、ロバにのって、入城されましたね。
もちろん、これは、ザカリア書の預言の通りの事が起こっていますよね。
でも、イエス様を出迎えた人々は先程も言ったように「自分たちをローマ帝国から解放して、ダビデ王やソロモン王の時代のような隆盛がもう1度起こる」と思っているわけですから、少し違和感を感じた人たちもいるでしょう。集まった人々は、イエスの本当のアイディンティをみんな分かっていないのです。
集まった人々は、ダビデ王のような豊かな国を作る王を期待しているわけですから、力の象徴である馬にのって入城することをイメージしていたでしょう。しかし、イエス様は、ザカリア書のように柔和の象徴であるろばにのって入城されました。それは、真の意味での平和の王という意味であり、神の国の王であることを示しています。(ポンティオ・ピラトとの問答ではまさにその事が触れられます)

 

そして、日曜日にイエス様がエルサレムに入城されてから、イエス様の月曜日・火曜日の行動によって、長老・祭司長・律法学者が我慢の限界に達してしまいます。
まず、月曜日の出来事です。
マタイによる福音書21章12-16節を読んでみましょう。

 

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。
「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」
イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

 

イエス、神殿から商人を追い払うと言われる有名なお話です。
ヨールダンスやエル・グレコもこのシーンは描いています。見たことがあるかもしれませんね。
当時のエルサレムの神殿は、当時、騒々しい市場と化してしまっていました。
不正な取引もしばしば行われていました。。家畜の商人が店を広げ、巡礼者たちに、犠牲に捧げる動物、牛や羊、山羊、鳩を売っていました。
また、神殿は、街の端から端へと行くための通り道にもなっていたので、この広場になんでも構わず持ち込まれるようになった。
また、彼らの隣には両替所が開かれていました。様々な国からやってくる人々は、買い物や神殿の税金を払えるだけのユダヤのお金を持っていなかったからです。
祭司長たちは、このような状況を認めていました。彼らもここから利益を得ていたからです。
エレミヤ書には、こういう神殿の状況が、以下のように預言されています。

 

わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。

エレミヤ書 7章11節

イエス様は、憤ります。かつて、「自分の父の家(ルカ福音書2章49節)」と仰った神殿が、そう仰るに似つかわしくない状況になっていたからです。
イエス様は鞭をつくり、商人を追い出し、店を壊します。
もちろん、この事も聖書の中で預言されていました。

 

エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。

ゼカリヤ書14章21節

 

この預言でもある通り、イエス様は、商人たちを追い出しただけではありませんでした。
この当時、ユダヤ人以外は、神殿には立ち入ってはならないとされていました。
イエス様は、同時に世界中から来ている人々、「いけにえをささげようとする者皆」が、「神」のもとに集まる障壁を取り除いたのです。
そして、この事によって、「私の家は、全ての民の祈りの家と呼ばれるイザヤ書56章7節)」となりました。

こうして、律法を完成させるために来たイエス様によって、私たちにも開かれました。
これが、月曜日の出来事です。

 

翌日…つまり、火曜日のお話です。
神殿で説教されていたイエス様に、祭司長や民の長老たちが意地悪な質問をぶつけ、イエス様を貶めようとします。
今年朗読されるマタイ福音書では、以下のような問答が行われます。

  • 2人の息子のたとえ(マタイ21章28-32節)
  • ブドウ園と農夫のたとえ(マタイ21章33-46節)
  • 婚宴のたとえ(マタイ22章1-14節)
  • 皇帝への税金(マタイ22章15-22節)
  • 復活についての問答(マタイ22章23-33節)
  • 最も重要な掟(マタイ22章34-40節)
  • ダビデの子についての問答(マタイ22章41-46節)

イエス様は、次々と意地悪な質問を論破していきます。
そして、ダビデの子についての問答の最後には…ついに…

 

ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。

マタイによる福音書22章46節

その後、イエス様は、律法学者やファリサイ派の人たちを非難します。(マタイ23章1-36節)
そして、世の終わりについて、自らの再臨について、お話されます。
しかし、もちろん、弟子たちは、その話の意味をしっかりと理解しているわけではありませんでした。
ご受難を受ける覚悟を決められ、様々なお話をされるイエス様のお気持ちはどうだったのでしょうか?

 

 

そして、水曜日…

祭司長や長老たちは、イエス様を殺すことを決意します。イエス様は、彼らにとって、危険な存在になりすぎてしまったのです。
そこにすでにサタンが入ったイスカリオテのユダが、イエス様を引き渡すと約束しに来たので、銀貨30枚(奴隷1人分の値段)支払う事にしました。

 

 

 

この日曜日から水曜日までは、「律法を完成させるために来た」イエス様がそれをしっかりとイスラエルのために提示した時間でした。
西暦30年ごろのお話なので、今から1990年くらい前のエルサレムで現実に起こった話です。
日曜日にあれ程、歓声を上げ、王様を迎えるように、イエス様を出迎えた人々が、この数日間でどのようなことをするか…
そして、イエス様の思い、弟子たちの思い…マリア様の思い…
色々な視点で思いめぐらしてみてください。

来月は、木曜日からご復活までのお話をしようと思います。過越の聖なる3日間のお話です。

では、最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

 

来月は、3月5日に行います。
キリスト者として最も大事なお話です。是非、みんな集まってください!




 |  |  |  |

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

今月は、なんだかんだで3名の参加者が…!
ちょっとずつでいいので、数が増えて来るといいですね。
近いうちに、中高生で催しを開きたいので、その為にもたくさんの中高生に来てもらえたらと思っています。

さて、今月は「クリスマス」についてです。
今月迎える主のご降誕の準備を知識の部分でも準備して、周りの人に説明できるように出来ればいいですね。

今回も、主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● クリスマスのお話 ●

 

今日は、クリスマスのお話です。
もちろん、クリスマスは何の日だか、みんな分かっていますよね。
そうですね。「イエス様の産まれた日」です。
でも、中学生になったわけですから、「ご降誕」と言う言い方を覚えましょう。
イエス様は、創造の時に神様とともにすでにいらっしゃります。その様子ももちろん聖書に描かれています。
箴言には、「知恵」としてイエス様が描かれています。そして、知恵は創造の時に神様と一緒にいらっしゃったとあります。(箴言8章23-27)また、ヨハネによる福音書では、イエス様自ら父である神様に祈られている中で創造の時のことを語られています。(ヨハネによる福音書17章5節)その話もいつかしたいと思います。
そのお話は置いておいて、イエス様は、神様のもとから「人となられて降りて来られた」のですから、「産まれた」というよりは、「ご降誕」という方が適当ですね。

さて、今は典礼歴だとどのような時期ですか。
そうですね。待降節ですね。待降節は、英語で言うと、アドヴェント(ADVENT)といいますね。
ADVENTは、「到来」という意味です。さっきも話しましたよね。つまり、「イエス様が到来される!」のを「待つ」季節なので、待(まつ)降(ご降誕)節といいます。
教会では、1月1日ではなくて、待降節第1主日から1年が始まります。待降節を迎えると、聖書の朗読箇所が新しく変わり、毎年、A年(マタイ福音書)、B年(マルコ福音書)、C年(ルカ福音書)と変わります。今年は、A年、マタイ福音書の年ですね。ちなみに、もう1つの福音書、ヨハネ福音書は、待降節、降誕節、四旬節、復活節などの特別な時に朗読されます。

つまり、待降節は、「新年の始まり」の時期です。
新しい年を迎えたら、古いものを捨て色々なものを整え、新しい気持ちを新たにしますよね。
待降節は、まさにそういう時期です。私たちが、イエス様を迎える準備をする期間です。
新しい気持ちとなり、「小さな赤ちゃんとなって降りてこられたイエス様」を思い起こし、人にイエス・キリストを見るように接する。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25章40節)」と、イエス様も仰っていますね。そうすれば、おのずと人と人との関係は修復され、関係性が取り戻され、本来の自分、そして、本来の人の姿に戻ることが出来ます。
もちろん、この時期は「ゆるしの秘跡」を与るにふさわしい時期です。
神様のいつくしみを味わい、神様に出会う喜びをもう1度感じる良い機会になると思います。堅信の勉強の時にも伝えましたが、ゆるしの秘跡は1年に1度は与りましょう。これは、「信徒として守らなければならないこと」です。

そして、「イエス様が来られる」という意味は、もう1つあります。
イエス様は、世の終わりにもう1度来られると約束されました。「再臨」と言います。
世の終わりには、何が起きますか?
羊と山羊に分けられ、羊は天の国へ、山羊は………(マタイによる福音書25章31~46節)

ちょっと怖い話ですよね。
でも、前にもお話しましたが、神様は、みんなを天の国の住人にしたいと思っています。意地悪をして、地獄に落としたいわけではありません。
私たちがこうして、準備を整える機会を作ってくださっています。

イエス様が御降誕されることで、神の国が始まり、イエス様が再臨される時、神の国は完成します。
イザヤ書11章4節を開いてください。

 

弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。

イザヤ書11章4-9節

 

今日の第1朗読の箇所ですね。
この箇所は、この勉強会でも何度も朗読しましたね。
このような夢みたいなことがイエス様が御降誕される事で始まったのです。そして、次にいらっしゃる時にそれは完成されます。
すべての人が自分が自分らしくいられる世界です。誰からも支配される事は無く、自分も支配する事は無い。真の意味での「自由」がそこには存在します。

私たちは、それを喜びを持って迎えましょう。
だって、嬉しいですよね?私たちは、(ここにいるメンバーは全員堅信に与っているわけですから)今信者として、このような世界が来ることを伝え、そして、このような世界になるように努力しなければなりません。
待降節は、こうして、私たちは、イエス様をお迎えする準備を整えます。

 

さて、今の時代は、私たちはイエス様の存在を、聖書、そして、教会の伝統を通して、知り、信じることが出来ます。
しかし、2000年前の人々はどのようにして、イエス様がご降誕されることを知ることが出来たのでしょうか?そして、どのように準備をすればよいかをどのように知ったのでしょうか?

神様は、もちろん、2000年前の人々にもそれを伝えています。
たくさんの預言者たちが、私たちを幸せにするために「イエス様が来られること」という父である神様の御言葉を伝えています。それらは、聖書に記され、後の時代の人たちにも伝えられ、キリストの到来をこの時代の人たちもずっと心待ちにしていました。(イエス・キリスト)

そして、イエス様が人々の前に現れる前に神様は最後の預言者を私たちに送ってくださいました。
それが、洗礼者ヨハネです。
イエス様がご降誕されれば、もう神様の御言葉を私たちに知らせる必要もありません。なぜなら、イエス様という存在を見れば、神様を見たことになる(ヨハネによる福音書14章9節)からです。そして、イエス様に関われば、それは神様への道、天の国への道を歩み始めれること(ヨハネによる福音書14章6節)が出来るからです。
だから、もう預言者の必要はなくなりますから、洗礼者ヨハネは、『最後の預言者』と言われています。
また、洗礼者ヨハネは、私たちと同じように「イエス様が来られる準備をする」ように呼びかけています。
今日の福音書の箇所がまさにその箇所ですね。朗読してみましょう。

 

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、
わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

マタイによる福音書 3章1-12節

 

 

また、来週、待降節第3主日の福音書も朗読してみましょう。マタイによる福音書11章7節を開いてください。

 

ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

マタイによる福音書11章7-11節

イエス様が仰っていますね。洗礼者ヨハネは、「道を準備させる者」です。
そして、イエス様が来られる前に、180度今までの生き方を変えて、もう1度神様の所に立ち帰りなさいと訴えています。
これは、どちらの意味、つまり、ご降誕と再臨、どちらにも言える事ですね。
待降節の期間に私たちがすべきことを、洗礼者ヨハネは、訴えているのです。

 

さて、もちろん、聖書にあるようにこの「道を準備させる者」である洗礼者ヨハネも神の御計画の1つでした。
そのお話をしましょう。

ルカによる福音書1章5節を開いてみてください。

 

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。
すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。
天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。
あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

ルカによる福音書 1章5-20節

 

ザカリアというおじいさんとエリザベトというおばあさんは、ずっと子供が出来ずにいたところ、ある日、天使が現れ、「母の胎内にいる時から聖霊に満たされ、やがて、人々を回心させ、イエス様が来られる前の準備をする」と、お告げがありました。やがて、お告げの通り、エリザベトは身籠り、洗礼者ヨハネを産みます。
おじいさんとおばあさんに子どもが出来る事はやはり難しいですよね。でも、神様に出来ない事は何1つありません。
ザカリアとエリザベトも、もちろん、神様のみ旨にそった生き方をされている方々でした。
アビヤ組とか、アロン家とありますが、ここでは、簡単にいうと「祭司を務める家」とだけ言っておきます。なぜ、彼らが祭司を務める家になったのか…など、もちろん、ユダヤ人の歴史、つまり、聖書に記されていますので、いつか、そういうお話もしたいですね。

ところで、エリザベトとマリア様は、親戚だったのですが……おばあさんのエリザベトが身重で生活をしなければいけませんから、マリア様がお世話に行きました。
その時、マリア様のお腹の中にもイエス様がいらっしゃいました。その時のお話が聖書に記されています。
ルカによる福音書1章39節を開いてみましょう。

 

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

ルカによる福音書1章39-56節

 

 

要約すれば、マリア様がエリザベトを訪問された時、エリザベトのお腹のなかの洗礼者ヨハネが喜び、それを感じたエリザベトが、マリア様に「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」と伝えます。そして、マリア様のお腹の中にいるイエス様こそ、キリストであること、メシアであることを喜びます。
マリア様はもちろんここでも謙遜をもってお答えになります。
自分がすごいから、イエス様の母となることに選ばれたわけではなく、あくまで、自分は『最も低い者』であり、父である神様が、その低いものにもいつくしみをくださるからこそ、そうなったのだと……。
イエス様の母となることは、とても名誉なことですが、それ以上に苦しみと悲しみを経験しなくてはいけません。その覚悟を決めたマリア様は、絶対的な信頼を神様におかれていたのでしょうね。
エリザベトが言った「女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
当然、みんなも気づいていますよね?
アヴェマリアの祈りの箇所ですね。
マリア様のお祈りをみんなも日々唱えていると思いますが、イエス様に出会えた喜びを伝える言葉であることをしっかり覚えておいてください。

お祈りと言えば、今待降節なので、ミサの時に歌われていないミサ曲がありますね。
分かりますか?(わかりますよね……)

栄光の讃歌です。
栄光の讃歌は、どういう歌か知っていますか?
ルカ福音書の2章8節を開いてください。

 

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

ルカによる福音書 2章 8-16節

 

天使が言ったセリフ、聞き覚えありませんか?
栄光の讃歌の冒頭、神父様が歌う箇所ですね。
ここは、まさにイエス様がご降誕された時、天使達が、それをユダヤ人の社会の中で「低い者たちである羊飼い」にお告げになられた場面です。
王様やお金持ち、祭司たちではなく、羊飼いにそれを告げられたということ、神様がどういう人々にイエス様の御降誕、つまり、福音を伝えようとされたか、そして、どのような人々のためにイエス様がご降誕されたのか……この話でも分かると思います。

ヨハネの手紙のなかに、このように記されています。

 

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

ヨハネの手紙1 4章9-12節

 

クリスマスは、まさに「神様の愛・いつくしみ」が、目に見える形で示された日です。
だから、私たちは、喜び、この日を心から祝います。だから、祝いましょう!心から!

 

 


 

 

来月はお休みです。
再来月、2月5日、また、集まりましょう!

クリスマスの日には、教会学校の子どもたちと一緒にパーティ、そして、ミサの奉仕をしましょう。
そして、主のご降誕を一緒に祝いましょう!