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6月4日・聖霊降臨の祭日に行われる堅信式のための(中高生のための)春期集中講座を下記の予定で行います。
(幼児洗礼を受けた18歳以上の青年もスケジュールが合えば、ご参加頂けます)

 

3月28日 午後1時より午後4時

内容 : 霊印、私達の信じる神、イエス・キリスト

3月29日 午後1時より午後4時

内容 : 秘跡、信仰について

3月30日 午後1時より午後4時

内容 : 聖霊降臨、私たちのこれから

 

場所

地下ホール

 

今回は集中講座ということもあり、時間厳守で3回全てに出席して頂きます。
筆記用具、ノートをお持ちください。
代父母をお決め頂き(もし見つからないようでしたら、担当のリーダーにご相談ください)代父母の方々に6月4日の堅信式にご参加頂けるようにお約束を取り付けて頂けるようにお願い致します。

たくさんの参加をお待ちしています。




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中高生

 

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは1人だけ……堅信に与ったメンバーにはお話しましたが、秘跡と知識(カテキズム)は、信仰の両輪です。
秘跡に与ってもその意味を知ることがなければ、その価値を知ることが出来ないからです。
今月・来月と四旬節に向け、「イエス様の受難・死・復活」というもっとも大事な箇所になります。
既に堅信を受けたメンバーも、堅信にもう一歩足を踏み出せないメンバーも参加して、自分の信仰についてもう1度考える機会になればと思います。

 

 


 

 

今月のテーマ

● 受難への道 ●

 

今月・来月と、「イエス様の受難・死・復活」について、一緒に考えていきましょう。
既に受堅メンバーには伝えていますが、イエス様の受難・死・復活は、信仰の根幹です。

そもそもイエス様がご降誕されたのは、なぜでしょうか?
前にも何度か話をしました。覚えていますか?

 

それは、神の国の実現のためでしたよね。
神様が、私たちへの愛ゆえにご自分のひとり子イエス・キリストをお送りくださったのです。
ヨハネ福音書の3章16節を開いてみましょう。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書3章16-17節

 

私たち人間をお造りになった神様は、私たちの幸福を望まれています。
しかし、事あるごとに私たち人間は、神様の思いとは別の方向に道を歩んでしまいます。
少し整理してみましょう。

 

  1. アダムにエデンを与えた。
    しかし、アダムは女(エヴァ)から薦められ、禁じられた実を食べてしまい、エデンを追放される。
  2. 「過越」により、エジプトから解放する。そして、モーセと契約を結び、「私たち被造物である人間がいかに生きるべきか」というみ旨を表す。
    そして、様々な預言者・王(油注がれた者)を通し、人々を神の国へと導いた。
    しかし、人々はどうしても神から離れていってしまう。
  3. ひとり子イエス・キリストを私たちのためにご降誕させ、イエス様の「受難・死・復活」により新たな契約を結ぶ。
  4. イエス様は、昇天され、神の右の座につき、代わりに聖霊を送ってくださる。
  5. 現在
  6. イエス様の再臨(神の国の完成)

 

前も話したと思いますが、この「過越」は、ユダヤ人にとって最も大事なものです。
彼にとって、それは「神によって、自分たちが解放され真の自由をえて、そして、神と契約を結んだ」ことだからです。それは、私たちにとっても同じくらい大事なモノです。
なぜなら、イエス・キリストによって、それはユダヤ人だけのものではなく、全人類のものであることが示されたからです。

イエス様は、こう言っています。

 

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

マタイによる福音書5章17節

 

律法は、過越の後、モーセを通して、神様からイスラエルの民に示されました。その道徳的おきては、十戒に要約されています。
律法学者達は、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を、研究し(例えば、十戒は出エジプト記20章3節から17節、申命記5章7節から21節)、更に細かい法を定めていました。それにより、少しずつ「本来の神様のみ旨」と離れてしまったものになっていってしまいました。イエス様は、それをもう1度神様のみ旨に沿ったものにし、それを完成されるために来られたのです。

 

簡単に、十戒について説明します。もう1度言いますが、十戒は、「神によって救われた民が神に対して、また人に対してどのように生きるべきか」という神の御旨です。

 

まず、一番大事なこと、この十戒の前提です。

わたしはあなたの主なる神である。

この前提が受け入れられなければ、十戒も何もありません。
これに関しては、みんな説明も何もいりませんよね?

  • 神に対して守るべき戒め

  1. わたしのほかに神があってはならない。

    神は完全なものです。2人いれば、お互いに制限を与えることになりますから、完全ではなくなってしまいます。
    神が私たちを愛して下さるように、私たちも神を愛さなければなりません。世俗的なモノ(お金や権力)ではなく、ただ神に仕えなければなりません。

  1. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

    信仰は、神への深い信頼があって初めて成り立ちます。神は私たちを愛し、私たちのために様々なことをしてくださいます。そして、神に対し常に畏敬の念を抱かねばなりません。神の名を語り、みだりにその名を唱えることは包ましなければなりません。

  1. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

    神の創造の業に崇敬の念を抱かなければならなりません。そして、この日は、主(イエス・キリスト)のご復活を祝う日でもあります。だから、この日は聖であり、喜びに満ちた日です。神が7日目に休息されたように私たちも心も体も癒し、ご復活を祝い、気持ちを新たに、新しい1週間を過ごさなければなりません。

 

  • 人との関係で守るべき戒め

  1. あなたの父母を敬え。

    「すべての人」に愛情と感謝と尊敬を向けなければなりません。その最初のスタートが、最も身近な存在である親(子)です。そして、家庭は「もっとも基礎的な教会」です。愛情・尊敬・感謝の心をもって交わりを深くし、他と交わる心、他の人々を招きいれる心を育てなければなりません。

  1. 殺してはならない。

    人の生死は、神のご計画のうちにある。私たちは、神の御旨を尊び、神の御旨に従い生きていかなければならない。そして、神によって創造された自分・他人・被造物を殺すことは、神を冒涜することに他ならない。

  1. 姦淫してはならない。

    命は、「愛」によって生まれ、「愛」によって育まれなければなりません。そして、あらゆる破壊から自らを守らなければいけません。豊かな「愛情」は、人を自由にし、より豊かにします。

  1. 盗んではならない。

    人の人から何かを奪い取ることだけではなく、世の中の富や自然の豊かさ等あらゆるものを公正な管理と分配をしなければなりません。なぜなら、相対的権利はあっても、絶対的な権利は創造された神が有すからです。私たちは神から与えられた使命を担っていることをわすれてはいけません。それは、被造物に対する責任でもあります。

  1. 隣人に関して偽証してはならない。

    全ての真理の源である神を冒涜することに他なりません。正直であることは、神に対して誠実であることです。私たちは神に対して誠実であらなければなりません。真理は、「道であり、真理であり、いのち」であるイエス様から直接見ることが出来ます。

  1. 隣人の妻を欲してはならない。

    私たちは自らの欲望の乱れを抑えなければなりません。強欲により、一時の衝動が人格を支配し、それによって罪を犯してしまうからです。私たちは、清い心で神と向き合い、祈らなければなりません。そうすれば、誠実に一心に愛することが出来ます。

  1. 隣人の財産を欲してはならない。

    他人の不幸を望むことは「罪」です。妬みではないも生まれません。自らに向けられた神のいつくしみ、そして、聖霊によってすでに与えられた神の命に気付けば、おのずと妬みはなくなります。私たちが求めるべきものは、神であるはずです。

 

以上が、十戒です。
できるだけ覚えるようにしてくださいね。何より、私たちの生活を見直し、私たち自身を見直す時、十戒を思い出してください。
なぜなら、これは、イエス様が「掟」として、言われたことと同じだからです。

マルコ12章28-34節を読んでみましょう。

 

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

29-31節にこう書かれていますね。

 

『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』

 

前半(心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい)の箇所は、十戒の1-3を、後半(隣人を自分のように愛しなさい)の箇所は、4-10を言っています。先ほども話したとおり、イエス様は、律法を否定するために来られたのではなく、完成するためにこられたのです。
そして、イエス様の受難・死・復活によって、十戒は、ユダヤ人だけのものではなく、私人類全てのものになったのです。

 

 

さて、いよいよ本題に入りましょう。

ガリラヤ地方を中心に活動されていたイエス様は、数多くの律法学者、フィリサイ派の人々を論破し、福音を述べ伝えていきます。
先ほど、話したように「神様のみ旨」である「律法」が、人間の知恵によって、違うものになっていたので、イエス様は、それらの矛盾をときました。そして、その間、イエスは、多くの「しるし(奇跡)」を見せてくださいました。人々は、神の存在、神のいつくしみの深さに気付いていきます。
しかし、権力者(律法学者やファリサイ派の人々)と争うごとに、人々の心は、徐々に頑なになっていきます。思うように福音宣教出来ないイエス様は、いよいよエルサレムに行くことを決意します。

よくこんな疑問を持っている人がいます。
「イエス様は、ご自分の未来がわかっていたのだろうか?わかっていたのならば、なぜそれを回避しなかったのだろうか?」
イエス様は、ご自分の未来を確かにわかっていました。
ルカによる福音書の9章22節には、こうあります。

人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。

そこにご自分の「受難」があることをイエスは分かっていました。しかし、同時にそれが神のご計画であることも知っていました。福音書のなかでは、3度「受難・死・復活」についてお話されています。

  1. マタイ16章21節・マルコ8章31節・ルカ9章22節
  2. マタイ17章22-23節・マルコ30-32節・ルカ9章43b-45節
  3. マタイ20章18-19節・マルコ10章33-34節・ルカ18章31-33節

 

なぜでしょうか?なぜ、イエス様はご自分の未来を知り、なぜイエス様は、そのみ旨を実行できたのでしょうか?
それは、イエス様は、どんな時も、常に祈りと共にあったからです。
イエス様は、常に祈ることで、自らがするべきこと、つまり、神様のみ旨を知り、自らの感情を抑え、神様のみ旨を実行していました。
常に祈りと共にあり、常に神様のみ旨と共にあったのです。

 

 

そして、いよいよ私たちが「聖週間」と呼ぶ、キリスト者にとってもっと大事な1週間のお話です。
この1週間、つまり、聖週間の出来事を時系列に並べてみましょう。
まず、日曜日、いよいよエルサレムに入城します。

マタイによる福音書 21章1~11節を読んでみましょう。

 

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

 

ここは、受難の主日のなかで行われる枝の式で朗読される箇所です。(今年は、4月9日ですね)
枝の式は、イエス様のエルサレム入城を模し、駐車場で棕櫚の葉を持ち、神父様をお迎えしますよね。

 

少し風景を思い描いてみましょう。
エルサレムは、みんなのイメージする町と少し違って、町の周りに城壁があります。つまり、街に入るためには城門を通らないといけないわけです。ヨーロッパや中東、中国では、敵に襲われるかわかりませんから、そういう街づくりのところが多いです。だから、今でもヨーロッパや中東、中国に行くと町の周りには城壁、もしくは、城壁の跡がありますね。
城壁は、壁といっても、ほとんど建物です。城壁の上は歩けるようになっていて、そこから、敵が来た時に弓矢を放ったり、石を投げたりして戦います。だから、町の外は危険がいっぱいですし、逆に町の中はとても安全に暮らせるわけです。夜になると、城門を閉めて、町に入るには、次の日の朝を待たなければなりません。
ここにエルサレムの城壁の写真がありますので、ちょっと見てイメージを膨らませてみましょう。

 

さて、イエス様は、ロバにのって、城門をくぐり、エルサレムに「入城」します。
「過越祭(過越を記念し祝うイスラエルの人々が一番大事にしている祭)」のためにイスラエル中からエルサレムに集まった人たちによって、「イエス様が(モーセやエリシャやエリヤのような有名な)預言者」だという噂はすでにエルサレム中に伝わっていたのでしょう。多くの人が出迎えます。

 

ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。

マタイによる福音書21章9節

 

出迎えた人は、棕櫚の葉を持ち、自らの服を道に敷き、「ホサナ!(救いたまえ!)」と言って出迎えます。
服を道に敷くのは、みたいなものでしょう。
「ダビデの子」は、前(イエス・キリストクリスマスのお話)にもお話しましたが、メシアを指しています。
集まった人々は、神様の導きによりモーセがエジプトからイスラエルの民を解放したように「自分たちをローマ帝国から解放して、ダビデ王やソロモン王の時代のような隆盛がもう1度起こる」と信じ、「救いたまえ!」と、声をかけます。
そして、「油注がれた者・王様が通る」道に、レッドカーペットを布くように、自分の服を敷きます。
まるで成田空港に海外のスターが来た時のような感じです。

これらの事は、聖書に預言されたことでした。
ゼカリア書9章9節を開いてみましょう。

 

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。

 

イエス様は、ロバにのって、入城されましたね。
もちろん、これは、ザカリア書の預言の通りの事が起こっていますよね。
でも、イエス様を出迎えた人々は先程も言ったように「自分たちをローマ帝国から解放して、ダビデ王やソロモン王の時代のような隆盛がもう1度起こる」と思っているわけですから、少し違和感を感じた人たちもいるでしょう。集まった人々は、イエスの本当のアイディンティをみんな分かっていないのです。
集まった人々は、ダビデ王のような豊かな国を作る王を期待しているわけですから、力の象徴である馬にのって入城することをイメージしていたでしょう。しかし、イエス様は、ザカリア書のように柔和の象徴であるろばにのって入城されました。それは、真の意味での平和の王という意味であり、神の国の王であることを示しています。(ポンティオ・ピラトとの問答ではまさにその事が触れられます)

 

そして、日曜日にイエス様がエルサレムに入城されてから、イエス様の月曜日・火曜日の行動によって、長老・祭司長・律法学者が我慢の限界に達してしまいます。
まず、月曜日の出来事です。
マタイによる福音書21章12-16節を読んでみましょう。

 

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。
「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」
イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

 

イエス、神殿から商人を追い払うと言われる有名なお話です。
ヨールダンスやエル・グレコもこのシーンは描いています。見たことがあるかもしれませんね。
当時のエルサレムの神殿は、当時、騒々しい市場と化してしまっていました。
不正な取引もしばしば行われていました。。家畜の商人が店を広げ、巡礼者たちに、犠牲に捧げる動物、牛や羊、山羊、鳩を売っていました。
また、神殿は、街の端から端へと行くための通り道にもなっていたので、この広場になんでも構わず持ち込まれるようになった。
また、彼らの隣には両替所が開かれていました。様々な国からやってくる人々は、買い物や神殿の税金を払えるだけのユダヤのお金を持っていなかったからです。
祭司長たちは、このような状況を認めていました。彼らもここから利益を得ていたからです。
エレミヤ書には、こういう神殿の状況が、以下のように預言されています。

 

わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。

エレミヤ書 7章11節

イエス様は、憤ります。かつて、「自分の父の家(ルカ福音書2章49節)」と仰った神殿が、そう仰るに似つかわしくない状況になっていたからです。
イエス様は鞭をつくり、商人を追い出し、店を壊します。
もちろん、この事も聖書の中で預言されていました。

 

エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。

ゼカリヤ書14章21節

 

この預言でもある通り、イエス様は、商人たちを追い出しただけではありませんでした。
この当時、ユダヤ人以外は、神殿には立ち入ってはならないとされていました。
イエス様は、同時に世界中から来ている人々、「いけにえをささげようとする者皆」が、「神」のもとに集まる障壁を取り除いたのです。
そして、この事によって、「私の家は、全ての民の祈りの家と呼ばれるイザヤ書56章7節)」となりました。

こうして、律法を完成させるために来たイエス様によって、私たちにも開かれました。
これが、月曜日の出来事です。

 

翌日…つまり、火曜日のお話です。
神殿で説教されていたイエス様に、祭司長や民の長老たちが意地悪な質問をぶつけ、イエス様を貶めようとします。
今年朗読されるマタイ福音書では、以下のような問答が行われます。

  • 2人の息子のたとえ(マタイ21章28-32節)
  • ブドウ園と農夫のたとえ(マタイ21章33-46節)
  • 婚宴のたとえ(マタイ22章1-14節)
  • 皇帝への税金(マタイ22章15-22節)
  • 復活についての問答(マタイ22章23-33節)
  • 最も重要な掟(マタイ22章34-40節)
  • ダビデの子についての問答(マタイ22章41-46節)

イエス様は、次々と意地悪な質問を論破していきます。
そして、ダビデの子についての問答の最後には…ついに…

 

ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。

マタイによる福音書22章46節

その後、イエス様は、律法学者やファリサイ派の人たちを非難します。(マタイ23章1-36節)
そして、世の終わりについて、自らの再臨について、お話されます。
しかし、もちろん、弟子たちは、その話の意味をしっかりと理解しているわけではありませんでした。
ご受難を受ける覚悟を決められ、様々なお話をされるイエス様のお気持ちはどうだったのでしょうか?

 

 

そして、水曜日…

祭司長や長老たちは、イエス様を殺すことを決意します。イエス様は、彼らにとって、危険な存在になりすぎてしまったのです。
そこにすでにサタンが入ったイスカリオテのユダが、イエス様を引き渡すと約束しに来たので、銀貨30枚(奴隷1人分の値段)支払う事にしました。

 

 

 

この日曜日から水曜日までは、「律法を完成させるために来た」イエス様がそれをしっかりとイスラエルのために提示した時間でした。
西暦30年ごろのお話なので、今から1990年くらい前のエルサレムで現実に起こった話です。
日曜日にあれ程、歓声を上げ、王様を迎えるように、イエス様を出迎えた人々が、この数日間でどのようなことをするか…
そして、イエス様の思い、弟子たちの思い…マリア様の思い…
色々な視点で思いめぐらしてみてください。

来月は、木曜日からご復活までのお話をしようと思います。過越の聖なる3日間のお話です。

では、最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

 

来月は、3月5日に行います。
キリスト者として最も大事なお話です。是非、みんな集まってください!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

今月は、なんだかんだで3名の参加者が…!
ちょっとずつでいいので、数が増えて来るといいですね。
近いうちに、中高生で催しを開きたいので、その為にもたくさんの中高生に来てもらえたらと思っています。

さて、今月は「クリスマス」についてです。
今月迎える主のご降誕の準備を知識の部分でも準備して、周りの人に説明できるように出来ればいいですね。

今回も、主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● クリスマスのお話 ●

 

今日は、クリスマスのお話です。
もちろん、クリスマスは何の日だか、みんな分かっていますよね。
そうですね。「イエス様の産まれた日」です。
でも、中学生になったわけですから、「ご降誕」と言う言い方を覚えましょう。
イエス様は、創造の時に神様とともにすでにいらっしゃります。その様子ももちろん聖書に描かれています。
箴言には、「知恵」としてイエス様が描かれています。そして、知恵は創造の時に神様と一緒にいらっしゃったとあります。(箴言8章23-27)また、ヨハネによる福音書では、イエス様自ら父である神様に祈られている中で創造の時のことを語られています。(ヨハネによる福音書17章5節)その話もいつかしたいと思います。
そのお話は置いておいて、イエス様は、神様のもとから「人となられて降りて来られた」のですから、「産まれた」というよりは、「ご降誕」という方が適当ですね。

さて、今は典礼歴だとどのような時期ですか。
そうですね。待降節ですね。待降節は、英語で言うと、アドヴェント(ADVENT)といいますね。
ADVENTは、「到来」という意味です。さっきも話しましたよね。つまり、「イエス様が到来される!」のを「待つ」季節なので、待(まつ)降(ご降誕)節といいます。
教会では、1月1日ではなくて、待降節第1主日から1年が始まります。待降節を迎えると、聖書の朗読箇所が新しく変わり、毎年、A年(マタイ福音書)、B年(マルコ福音書)、C年(ルカ福音書)と変わります。今年は、A年、マタイ福音書の年ですね。ちなみに、もう1つの福音書、ヨハネ福音書は、待降節、降誕節、四旬節、復活節などの特別な時に朗読されます。

つまり、待降節は、「新年の始まり」の時期です。
新しい年を迎えたら、古いものを捨て色々なものを整え、新しい気持ちを新たにしますよね。
待降節は、まさにそういう時期です。私たちが、イエス様を迎える準備をする期間です。
新しい気持ちとなり、「小さな赤ちゃんとなって降りてこられたイエス様」を思い起こし、人にイエス・キリストを見るように接する。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイによる福音書25章40節)」と、イエス様も仰っていますね。そうすれば、おのずと人と人との関係は修復され、関係性が取り戻され、本来の自分、そして、本来の人の姿に戻ることが出来ます。
もちろん、この時期は「ゆるしの秘跡」を与るにふさわしい時期です。
神様のいつくしみを味わい、神様に出会う喜びをもう1度感じる良い機会になると思います。堅信の勉強の時にも伝えましたが、ゆるしの秘跡は1年に1度は与りましょう。これは、「信徒として守らなければならないこと」です。

そして、「イエス様が来られる」という意味は、もう1つあります。
イエス様は、世の終わりにもう1度来られると約束されました。「再臨」と言います。
世の終わりには、何が起きますか?
羊と山羊に分けられ、羊は天の国へ、山羊は………(マタイによる福音書25章31~46節)

ちょっと怖い話ですよね。
でも、前にもお話しましたが、神様は、みんなを天の国の住人にしたいと思っています。意地悪をして、地獄に落としたいわけではありません。
私たちがこうして、準備を整える機会を作ってくださっています。

イエス様が御降誕されることで、神の国が始まり、イエス様が再臨される時、神の国は完成します。
イザヤ書11章4節を開いてください。

 

弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。

イザヤ書11章4-9節

 

今日の第1朗読の箇所ですね。
この箇所は、この勉強会でも何度も朗読しましたね。
このような夢みたいなことがイエス様が御降誕される事で始まったのです。そして、次にいらっしゃる時にそれは完成されます。
すべての人が自分が自分らしくいられる世界です。誰からも支配される事は無く、自分も支配する事は無い。真の意味での「自由」がそこには存在します。

私たちは、それを喜びを持って迎えましょう。
だって、嬉しいですよね?私たちは、(ここにいるメンバーは全員堅信に与っているわけですから)今信者として、このような世界が来ることを伝え、そして、このような世界になるように努力しなければなりません。
待降節は、こうして、私たちは、イエス様をお迎えする準備を整えます。

 

さて、今の時代は、私たちはイエス様の存在を、聖書、そして、教会の伝統を通して、知り、信じることが出来ます。
しかし、2000年前の人々はどのようにして、イエス様がご降誕されることを知ることが出来たのでしょうか?そして、どのように準備をすればよいかをどのように知ったのでしょうか?

神様は、もちろん、2000年前の人々にもそれを伝えています。
たくさんの預言者たちが、私たちを幸せにするために「イエス様が来られること」という父である神様の御言葉を伝えています。それらは、聖書に記され、後の時代の人たちにも伝えられ、キリストの到来をこの時代の人たちもずっと心待ちにしていました。(イエス・キリスト)

そして、イエス様が人々の前に現れる前に神様は最後の預言者を私たちに送ってくださいました。
それが、洗礼者ヨハネです。
イエス様がご降誕されれば、もう神様の御言葉を私たちに知らせる必要もありません。なぜなら、イエス様という存在を見れば、神様を見たことになる(ヨハネによる福音書14章9節)からです。そして、イエス様に関われば、それは神様への道、天の国への道を歩み始めれること(ヨハネによる福音書14章6節)が出来るからです。
だから、もう預言者の必要はなくなりますから、洗礼者ヨハネは、『最後の預言者』と言われています。
また、洗礼者ヨハネは、私たちと同じように「イエス様が来られる準備をする」ように呼びかけています。
今日の福音書の箇所がまさにその箇所ですね。朗読してみましょう。

 

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、
わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

マタイによる福音書 3章1-12節

 

 

また、来週、待降節第3主日の福音書も朗読してみましょう。マタイによる福音書11章7節を開いてください。

 

ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

マタイによる福音書11章7-11節

イエス様が仰っていますね。洗礼者ヨハネは、「道を準備させる者」です。
そして、イエス様が来られる前に、180度今までの生き方を変えて、もう1度神様の所に立ち帰りなさいと訴えています。
これは、どちらの意味、つまり、ご降誕と再臨、どちらにも言える事ですね。
待降節の期間に私たちがすべきことを、洗礼者ヨハネは、訴えているのです。

 

さて、もちろん、聖書にあるようにこの「道を準備させる者」である洗礼者ヨハネも神の御計画の1つでした。
そのお話をしましょう。

ルカによる福音書1章5節を開いてみてください。

 

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。
さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。
すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。
天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。
その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。
あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

ルカによる福音書 1章5-20節

 

ザカリアというおじいさんとエリザベトというおばあさんは、ずっと子供が出来ずにいたところ、ある日、天使が現れ、「母の胎内にいる時から聖霊に満たされ、やがて、人々を回心させ、イエス様が来られる前の準備をする」と、お告げがありました。やがて、お告げの通り、エリザベトは身籠り、洗礼者ヨハネを産みます。
おじいさんとおばあさんに子どもが出来る事はやはり難しいですよね。でも、神様に出来ない事は何1つありません。
ザカリアとエリザベトも、もちろん、神様のみ旨にそった生き方をされている方々でした。
アビヤ組とか、アロン家とありますが、ここでは、簡単にいうと「祭司を務める家」とだけ言っておきます。なぜ、彼らが祭司を務める家になったのか…など、もちろん、ユダヤ人の歴史、つまり、聖書に記されていますので、いつか、そういうお話もしたいですね。

ところで、エリザベトとマリア様は、親戚だったのですが……おばあさんのエリザベトが身重で生活をしなければいけませんから、マリア様がお世話に行きました。
その時、マリア様のお腹の中にもイエス様がいらっしゃいました。その時のお話が聖書に記されています。
ルカによる福音書1章39節を開いてみましょう。

 

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
そこで、マリアは言った。
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

ルカによる福音書1章39-56節

 

 

要約すれば、マリア様がエリザベトを訪問された時、エリザベトのお腹のなかの洗礼者ヨハネが喜び、それを感じたエリザベトが、マリア様に「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」と伝えます。そして、マリア様のお腹の中にいるイエス様こそ、キリストであること、メシアであることを喜びます。
マリア様はもちろんここでも謙遜をもってお答えになります。
自分がすごいから、イエス様の母となることに選ばれたわけではなく、あくまで、自分は『最も低い者』であり、父である神様が、その低いものにもいつくしみをくださるからこそ、そうなったのだと……。
イエス様の母となることは、とても名誉なことですが、それ以上に苦しみと悲しみを経験しなくてはいけません。その覚悟を決めたマリア様は、絶対的な信頼を神様におかれていたのでしょうね。
エリザベトが言った「女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
当然、みんなも気づいていますよね?
アヴェマリアの祈りの箇所ですね。
マリア様のお祈りをみんなも日々唱えていると思いますが、イエス様に出会えた喜びを伝える言葉であることをしっかり覚えておいてください。

お祈りと言えば、今待降節なので、ミサの時に歌われていないミサ曲がありますね。
分かりますか?(わかりますよね……)

栄光の讃歌です。
栄光の讃歌は、どういう歌か知っていますか?
ルカ福音書の2章8節を開いてください。

 

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。

ルカによる福音書 2章 8-16節

 

天使が言ったセリフ、聞き覚えありませんか?
栄光の讃歌の冒頭、神父様が歌う箇所ですね。
ここは、まさにイエス様がご降誕された時、天使達が、それをユダヤ人の社会の中で「低い者たちである羊飼い」にお告げになられた場面です。
王様やお金持ち、祭司たちではなく、羊飼いにそれを告げられたということ、神様がどういう人々にイエス様の御降誕、つまり、福音を伝えようとされたか、そして、どのような人々のためにイエス様がご降誕されたのか……この話でも分かると思います。

ヨハネの手紙のなかに、このように記されています。

 

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。

ヨハネの手紙1 4章9-12節

 

クリスマスは、まさに「神様の愛・いつくしみ」が、目に見える形で示された日です。
だから、私たちは、喜び、この日を心から祝います。だから、祝いましょう!心から!

 

 


 

 

来月はお休みです。
再来月、2月5日、また、集まりましょう!

クリスマスの日には、教会学校の子どもたちと一緒にパーティ、そして、ミサの奉仕をしましょう。
そして、主のご降誕を一緒に祝いましょう!




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出演するクリスマスチャリティーコンサートが、 いよいよあと2週間となりました。
今日はリハーサルを兼ねていたので、朗読組もやってきました(男性陣)。

今回は朗読とコラボです。
これから毎回出演ごとに朗読を入れて、神様の御言葉と共に、祈りを深めていこうと思います!

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リハーサル…うーん。
最初どうなることかとハラハラしましたが、
少しずつ形になり始めています。
間違っても、暖かい目で見てくださいね!
頑張ろう!
今回は小学生も大学生も特別出演(友情出演?)しています。

みんなで盛り上げましょう!




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中高生

 

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、なんと1人も来ない……堅信に与ったメンバーにはお話しましたが、秘跡と知識(カテキズム)は、信仰の両輪です。
秘跡に与ってもその意味を知ることがなければ、その価値を知ることが出来ないからです。
来月は、待降節に入っていますから、クリスマスのお話をしようと思っていますので、是非集まってくださいね。

 

 


 

 

今週のテーマ

● 人間とは ●

私達は、なぜ生まれ、何故生き続けているのでしょうか?
私達「人間」とは、どのような存在なのでしょうか?そして、私達自身は、どのような存在なのでしょうか?

では、まず創世記第1章を開いてみましょう。聖書の1番初め。『全ての始まり』です。
神の創造の業が、ダイナミックに描かれています。目を閉じ、静かに想像してみてください。
事端(じたん)』という言葉があります。「物事のきっかけ。事件の発端。」という意味ですが、「ことば」とも読めますよね。創造の出来事は、まさに事端でした。

まず、「初めに、神は天地を創造され」ました。
そして、神は「光あれ」と、言われ、光が生まれました。神は光を見て、良しとされた
昼と夜が生まれます。1日目の出来事でした
そして、次々と神は創造されていきます。
創世記1章26節から、いよいよ「人」が創造されます。6日目の出来事でした。

 

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

創世記 1章27-28節

 

何かを創造されるたびに「神はこれを見て、良しとされた。」とあります。「良しとされた」のです。
造られたもの全てをご覧になった神は、「極めて良かった(創世記1章31節)」と、されます。

 

知恵の書第11章24節を開いてみましょう。このように書かれています。

 

あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。

知恵の書第11章24-25節

 

創世記 1章27節にあるように私達は、神にかたどって創造され、私達は、霊(息吹)を授けられました。他の植物や動物、無機物と違う点です。
私達は、人格的存在です。なぜなら、人は知力や意志によって愛を受け入れるか否か、自分で判断することが出来るからです。そして、私達は、神の愛を感じることにより他者の人格を認め、尊厳ある者として認め、愛することを知っています。また、同じ被造物である植物や動物達を敬う事を知っています。

私達は、神に祝福されるために生まれました。
私達は、神の愛に気づき、神の愛に感謝し、生涯を通して、神と関わって生きることを望まれています。

ラテン語でPERSONA(ペルソナ)という言葉があります。
英語の「PERSON」の語源の言葉です。つまり、「人」という言葉の語源です。
(三位一体の神の話をした時にもペルソナという言葉を使いました。覚えていますか?)
per=~を通って」と「sonare=響く」が合わさってできた言葉です。
「十字架のしるし」のお話をした時にも話しましたが、)私達は、神、御子(イエス様)、聖霊を注がれた人々(信者)と、関わり、繋がって、生きています。
イザヤ書43章5節には、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と、書かれています。

だから、常に「個」であると思わないでください。
神と私が繋がっていればいい。神とイエス様が繋がっていればいい。というわけではありません。
祈りは、神・イエス・他者との関わり・つながりを感じるために行うものです。

私達は、確かに原罪によって、神とのつながりを拒むような誘惑にかられることがあります。
神の意思、つまり、他の交わりをさけたいと思う事もあるでしょう。しかし、私達が描く善悪は、神の善ではありません。「自分の善」ではなく、神の善を行う者になってください。
自由とは、悪の誘惑にかられ享楽に走ったり、他者や他の被造物とのつながりを壊すものでもなく、「まことの善」を行うためのものです。それを「選ぶことが出来る」ことです。

私達は、誰もが「神に望まれ」「神によって造られた者」なのです。誰もが「神から愛されている人」なのですから、誰もに「尊厳」があり、誰もに「自由」があります。
自分が神に愛されているということは、隣の人も神に愛されているのです。だから、神様を悲しませるようなことをしてはいけません。
誰もが「幸せ」になる、つまり、神の愛に満たされる権利があります。

「幸せの形」は、人によって違うでしょう。
真福八端を覚えていますか。イエス様が山上で教えてくださった「幸せ」になる方法です。

 

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

マタイによる福音書 5章3-12節

 

福音は、人によって違います。神の恵みは、川のように低いところに流れていき、全ての人々に行きわたります。そして、特に「低い者」とされた者のところに留まります。だから、常に「低い者」であってください。神とともに、イエス様とともにある人でいてください。

 

ところで、イエス様が私達に課した唯一の掟を覚えていますか?

神を愛し、そして、それと同じように隣人を愛する

これが、私達キリスト者の唯一の掟です。常にそれを忘れないようにしましょう。
聖パウロは、エフィソの信徒たちにこのような言葉をおくっています。

 

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

エフェソの信徒への手紙6章10-18節

 

どのような時にも、聖霊に助けられ、祈り、願い求め、全ての人々のために、絶えず、神様・イエス様の存在を信じ、根気よく祈り続けてください。
それでも、これをもし破ってしまったら、他人の事を傷つけてしまったら…回心し、赦しの秘跡に与りましょう。

宗教という英単語を知っていますか?
religion」と言います。
これは、ラテン語の「religious」から来ているのですが、この「religious」の意味は、「神と人との絆」です。
私達は、罪を犯しても(神様から離れるような行動をしても)、回心し、いつでも神様のもとに帰ることが出来ます。

もう1度、最後に、私達は「極めて良かった(創世記1章31節)」者なのですから、常に神の愛を感じ、自分自身、そして、隣人を、父である神が私達にしてくれた、ご自分の愛する御子を、あの残酷な受難・死に捧げる程、愛されたように、愛し、行動しましょう。

それが私たちの、唯一の掟です。

 


 

来月は、12月4日、午前9時15分から行います。
待降節ですから、ご降誕のお話をしようと思います。