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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

 

今日午後2時半から行われる東京教区合同堅信式が行われます。
そのため、堅信に与る予定の5名(2名が学校行事のため欠席)と、中高生1年生が集まり、堅信式の最後の準備のために集まりました。

これから堅信に与る5名も、すでに堅信に与っている1名も、もう1度、堅信という秘跡、そして、キリスト者になるとはどういうことか、考えてみましょう。

 

 


 

今月のテーマ

● 堅信に与る前に ●

 

さて、この後、午前9時半から、これから堅信に与るみんなには、ゆるしの秘跡を受けてもらいます。

7つの秘跡は、すべて覚えていますか?
洗礼・聖体・堅信・叙階・結婚・ゆるしの秘跡・病者の塗油でしたね。それぞれの意味堅信とは?)もちゃんと覚えていますよね?

秘跡とは…
私たちが見る事の出来ない神様の愛、存在を感じる事が出来る」ようになるためのものでしたね。
秘跡は、神様・キリストとの出会いそのものであり、キリストご自身が秘跡そのものです。

聖書にも、こう書かれています。

 

わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

ヨハネによる福音書 14章11節

 

 

どうしても、神様から離れてしまう私たちに慈しみ深い神は、イエス様という原秘跡、そして、秘跡を用意して下さっています。
ゆるしの秘跡は、秘跡の中でも最も神様のいつくしみ、神様の愛を感じやすい秘跡かもしれません。

放蕩息子のたとえ話(ルカ福音書15章11-32節)を覚えていますか?
「生きている父親、存在している父親」を、弟は、「亡き者・存在しない父親」としてしまいます。2人の関係性・繋がりを、弟は、「無いもの」としてしまうのです。
しかし、苦しみの中、父親の存在を思い起こし、父親のもとに戻っていきます。
自分をある意味、殺した息子を父親は、大喜びで迎い入れます。まだ、遠くにいる息子に走って駆け寄り、自分の服と指輪を息子に着せ、祝宴を開きます。
神様は、この父親のように、私たちが自分の意志で帰ってくるのを待っています。
いつも目を凝らし、私達が帰ってきたら、遠くから走って来て、大喜びで迎い入れてくれます。

こちらから、無くしてしまった関係、存在を無いものとしてしまった人との関係、神様、イエス様との関わり、つまり、「十字架のしるし」の中にもう1度戻り、その中に入っていく。

これがゆるしの秘跡です。
ですから、これから与るゆるしの秘跡も、「後ろ向きなもの、反省し懺悔して赦しを乞う」と考えるよりは、「神様のもとに戻り、人と人とのつながりの中にもう1度戻るんだ!」という前向きで、喜びに満ちたものだと思ってもらえたらなぁと思います。

ところで、みんなには、告解の内容を考えてきてもらいました。
その際に、良心の究明をしてきましたか?
「良心の究明」とは、ただ単に「~~をしてしまいました。ごめんなさい」というのではなく、自分と向き合い「なぜこうしてしまったのだろう」と、もう1歩奥にあるモノを見つけることです。行ってしまった悪い事を考えるのではなく、自分自身の良心と向き合い、自分の中の良心に「神様の御旨にそった行いが出来ていたか」を問うのです。深層にある罪(神様から離れてしまう心)を自分自身の良心によって、そして、聖霊によって、あぶりだすのです。
良心の究明をしっかり行えば、イエス様が仰った事を守れていない自分と向き合うことで悲しみや寂しさを感じると思います。

 

では、少し告解の仕方について説明しましょう。

– 告解の行い方の説明 –

 

 

ところで、6月1日から今日まで松戸教会にファティマの聖母像が安置されています

マリア様は、すべての罪びとのためにファティマの地に現れました。
告解のなかで、償いを神父様から言われたら、是非マリア様の取り次ぎを願い、祈りましょう。

では、ゆるしの秘跡に与りに行きましょう…

 

 

さて、ゆるしの秘跡に与ってどうですか?
今日、みんなは堅信の秘跡に与ります。簡単に堅信式の流れ、そして、塗油を受ける時の所作の説明をします。

– 堅信式の説明 –

 

 

最後に、堅信に与るみんなにお話をしましょう。

春期集中講座でもお話しましたが、今日、合同堅信式で最後に大司教様から「派遣の祝福」を受けた瞬間から、みんなはキリスト者として「福音宣教」の旅に出なければなりません。
1人のキリスト者として、「神の国」が始まったことを世の中に告げ知らせなければなりません。
キリストとは、油注がれた者という意味ですね。つまり、みんなも「キリスト」になるんですから。

神の国が始まる知らせは、みんなにとっても、大きな喜びであり、人々にとっても大きな喜びです。
世界が神の愛に満ち、神の愛のなかで、誰もが自分らしく、自由に生きられるからです。
それをみんなは、キリスト者として、油注がれた者として、人々に伝えなければなりません。

その力は、今日、聖霊によって、授けられます。
聖霊から、カリスマや7つの賜物を受け、どうそれを人のため、社会のため、教会のために使うのか…それは、一人ひとりに託されています。

みんなは、どうそれを使いますか?

 

私たちは、「私は在る」という神を信仰しています。

どうかそれを心の奥底から信じてください。それはとても難しいことかもしれません。
時には、迷う事もあるかもしれません。

それでも、イエス様が仰ったように「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、」神を信じてください。
神様は存在します。神様は、唯一無比の存在で、完璧な存在です。出来ない事は何1つありません。
そんな力強い存在である神が「在る」という事がどれほど私たちの救いになるでしょうか?

同時に、それは自分自身にも当てはまります。
みんなは、神が造ったたった1人の、唯一無比の存在です。どうか「自分の存在」を大事にしてください。
神を信じるならば、その神によって造られた、ありのままの自分を愛せるはずです。
見栄や肩書、そういうものは要りません。みんなには、それをはるかに上回るものが、既に与えれれています。そして、今日、更にそれを強めるものを頂けます。

そして、それは、自分以外の人間にも当てはまります。
神が造ったたった1人の、唯一無比の存在は、自分だけではありません。1人ひとりが、そうなのです。「隣人を自分のように愛し」てください。
隣人の「存在」とは、神の愛、そのものです。
必要だから与えられています。誰かの存在を無視することは、すなわち、神の愛を無視する事です。

皆一つの体となるために(使徒パウロのコリントの教会への手紙Ⅰ 12章13節)」私たちは洗礼を受け、今日更に聖霊を受けます。
教会という共同体は、1つのキリストの体として、みんなの、すでに亡くなってしまったひいひいおじいちゃんやひいひいおばあちゃんも含めた、時間軸すら存在しない「父と子と聖霊の交わり」の中に私たちは迎え入れられ、ともに、神の国を目指します。
誰が欠けても、それはなしえません。たとえ、憎むべきような人でもです。必要でない人などこの世にいません。
だから、まず、神を信じ、その神によって造られた(余計なものを脱ぎ捨てた)自分を愛し、そして、それと同じように、自分以外の人も愛してください。

「存在を無視する事」は、それを殺す事に等しいのです。
それは、最もしてはいけない事ですよね。だから、神を強く、より強く信頼してください。
唯一無比の存在で、完璧の神様は、確かに存在します。

 

そして、祈ることを忘れないでください。1日10分でいいです。テレビも携帯も切り、静かに一人で祈ってください。

ビル・ゲイツって知っていますか?知っての通り、マイクロソフトの創業者で、世界で一番のお金持ちです。
彼は、1日に必ず何もしない、誰とも交流しない時間というものを作るそうです。それによって、これからすべき事を考えるそうです。

これから、みんなは、人生において、様々な決断をしなくてはいけません。
神様によって造られた本当の自分と向き合い、認め、聖霊に力を強めてくれるように願えば、ゲッセマネでイエス様がされたように…「自分を捨て、本当の自分を得る」ことが出来ると思います。

 

もちろん、みんなは、まだまだ知っておくべきことがたくさんあります。
だから、月1回の中高生の勉強会には是非参加し続けてくださいね。

 

さて、では、最後に主の祈りを唱えて、ミサに向かいましょう。
今日のミサは、マリア様が共に、私達と祈ってくださいます!

 


 

 

来月も、7月2日、午前9時15分から中高生の勉強会を行います。
来月は、「教会」について、一緒に勉強しましょう。




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

2017年度最初の勉強会は、教会学校と合同で、「イエス様の受難・死」のリーダー作成の動画を見ました。

昨年、教会学校を卒業した新しいメンバーを含め、5人の中高生が集まってくれました?
教会学校の次は、中高生会!という流れが出来てきましたね。

 


 

今月のテーマ

● 聖 週 間 ●

 

今日は、昨年度行った聖週間の内容のおさらいです。

 

4つの福音書が時系列で繋がっている子のDVDを見て、もう1度、私たちの信仰の根幹となる神様の愛について考えてみましょう。

 

ところで、福音書には、並行箇所というものがあります。
1つの出来事を4人の福音記者がそれぞれ記している箇所です。実は、同じ出来事なのに、少しずつ内容が変わっていることがあります。この聖週間の出来事も全く同じ描き方をしている箇所もありますし、少し内容が違う事もあります。詳細に描かれていることもあれば、簡単にしか描かれていない箇所もあります。

たとえば、今回の話でも最後の晩餐のシーンや十字架の道行など、多くの場面が並行箇所としてありますが、少しずつ内容が違っていたりもします。
それは、それぞれの福音記者が、自分の共同体やその時代に必要なメッセージを込めたからです。なので、時代背景やその共同体の現状によって、内容が少しずつ変わるのです。
また、同じことを見聞きしても、人によって、記憶する内容が違いますよね。
福音書は、聖霊が福音記者を導き、福音記者によって記されたものです。私たちが、福音をより深く理解出来るように、そして、救いの源となるみ言葉を深く味わえるように、4つの福音書を用意して、4つの視点から私を導いています。

福音書はそれぞれ書かれている時代や誰に向かって書かれたかが違います。

  • マタイ福音書

    使徒聖マタイによって記された福音書。A年の年の福音朗読となる。
    イエス様とともに行動した使徒である聖マタイが、主にユダヤ人のために記されたとされる。

  • マルコ福音書

    聖マルコによって記された福音書。B年の年の福音朗読となる。
    聖ペトロや聖パウロと共に行動した聖マルコが、ユダヤ教の理解のあまりない異邦人のために記されたとされる。

  • ルカ福音書

    聖ルカによって記された福音書。C年の年の福音朗読となる。
    聖パウロと行動を共にした聖ルカが、ローマやギリシャの身分の高い人々、高い知識を持った人々のために記されたとされる。

  • ヨハネ福音書

    使徒聖ヨハネによって記された福音書。待降節や四旬節や復活節などに朗読される。
    イエス様とともに行動した使徒である聖ヨハネが、4つの福音書の一番最後に記したとされる。

 

DVDを見て、どう思いましたか?
神の愛、そして、イエス様・マリア様の神様への信頼、イエス様の人間としての苦しみ、弟子たちの気持ちをもう1度深く感じてみてください。
教会学校では過去2回このDVDを見ました。
卒業生の中には、2回とも見た人もいるでしょうし、始めてみた人もいると思います。
2回見た人は、見るごとに感想が違うかもしれません。それぞれ違う気づきがあったと思います。その思いを大事にしてください。

 

ところで、大事な話は何度もしていますし、今年度もまた、2月・3月で行おうと思いっていますので、今日は、少し視点を変えてみましょう。

「イスカリオテのユダ」の話です。

彼は、12人の弟子のひとりとして、イエス様から最も厚い信頼を置かれていた1人でした。
会計係としてお金の管理を任されていたくらいです。

しかし、イスカリオテのユダは、サタンの誘惑に勝つことが出来ませんでした。彼は、イエス様を裏切り、銀貨30枚でイエス様を祭司長や長老たちに売ってしまいます。
イエス様は、全てをご存知の上で、最後の晩餐のなかで彼の足も洗い、彼に「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言います。

もし、イスカリオテのユダが、サタンの誘惑に勝てていたら…イエス様はどうなったのでしょうか?
きっと、違う誰かによって、イエス様は受難へと向かわれ、十字架の上で死を迎えたでしょう。それは、神のご計画、神の御旨だからです。
そして、イエス様は、全てを承知の上で、神を深く信頼し、神の御旨を受けれいられました。

イスカリオテのユダは、イエス様の死刑が決まると、深く後悔し、苦しみ、銀貨30枚を祭司長や長老に叩き返します。半狂乱の中、エルサレムの郊外で首を吊り、ひもが切れ、地面に叩きつけられ、内臓がすべて飛び出して死んだと言われています。

聖ペトロも、イエス様が捕まった時に、イエス様の弟子の1人ではないかと問われ「違う」と、3度も打ち消してしまいます。「イエス様とは関係がない」「そんな人は知らない」と…最も自分が辛い時に、最も信頼していた弟子に裏切られて「知らない」と言われるイエス様は、本当に辛かったと思います。

「知らない」という言葉は、その人の存在や関連性をないものにする言葉です。
つまり、殺しているのとさほど変わりません。

イスカリオテのユダとさほど変わりのない罪を犯していると思いませんか?

聖ペトロも、後悔します。苦しみます。
しかし、ユダととった行動は違いました。
聖ペトロは、回心し、赦しを願いました。

 

1人は裏切り者の代名詞となり今に至るまで最も恥ずかしい名として残り、1人は教会の礎となります。
ほぼ同じような事をした、2人の違いはなんでしょうか?

それは、神への信頼・イエス様への信頼です。
誰しも「聖ペトロのように知らないと言ってしまう弱さ」、「イスカリオテのユダになる弱さ」を抱えていると思います。
だからこそ、神様を信頼し、常に神様への道を歩まなければならないと思います。
もし道をあやまっても、神様を見失ってしまっても、イスカリオテのユダのように絶望するのではなく、聖ペトロのように、もう1度神様を探し、神様の方に目を向けてください。

 

 

わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

ヨハネによる福音書 14章11節

 

 

最後の晩餐の時にイエス様が仰ります。
イエス様が仰っているように、もし神様を見つけることが出来なければ、秘跡に与りましょう。そして、もう1度神様の方向に歩みを続けましょう。
秘跡を受け、神様の愛を感じましょう。

聖ペトロは、ご復活されたイエス様によって赦されます。
この時ほど、聖ペトロが神の愛を感じれた時はなかったのではないでしょうか?

 

怯えることも恐れることもありません。
このDVDの続き(イエス様が亡くなった後)をみんなは知っているよね。神様に深い信頼を置いてください。
最後に、今年度の中高生会の勉強会を始めるにあたり、1つの御言葉をみんなに是非覚えてほしいと思います。

 

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書 3章16節

 

 


 

 

さて、今年度も、毎月第1日曜日午前9時15分から、中高生の勉強会を行います。
筆記用具とノートをもって、集まってください。

他の週は、教会学校で、リーダーのお手伝いをしてもらいます。
教会での奉仕も、教会学校の子ども達のお手本となるようにどんどんしていきましょう。

 

来週は、「堅信式について」、そして「ゆるしの秘跡」について、お話します。そして、実際に赦しの秘跡に与ってもらいます。

それでは、今年度もがんばりましょう!




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3月28日から3月30日までの3日間、6月4日に行われる東京教区合同堅信式で堅信に与るために中高生を対象とした「堅信のための夏期集中講座」が開かれ、中学生4名が参加しました。

 

1日3時間ずつ、堅信に与るため、勉強を重ねました。

 

暑い中、集まった甲斐もあり、様々な事を覚え、学べたと思います。
短い期間で、難しい言葉をたくさん覚えなければいけませんでしたが、大事な事は、「秘跡とは神様に出会う事」であり、これから受ける堅信の秘跡によって、「聖霊が賜物を与えてくださり」、「キリスト者としての使命である福音宣教するための力を与えてくださる」ということです。
受難・死・復活」という「主の過越」をもう1度心に留めてみてください。それは、「神様の愛」そのものであり、私たちのアイディンティティそのものです。

 

みんな、6月4日、堅信式が終わり、カテドラルを出た瞬間からキリスト者としてのスタートが始まります!
ご自分のひとり子を私たちのために差し出されるほど、わたしたちを愛して下さる父なる神様の「御言葉」を味わい、そのひとり子であるイエス様の「ご聖体」を頂く「ミサ」ということを理解し、みんなも1人のキリスト者として、堅信に与るまでの約2か月間を大事に過ごしてみてください。

 


 

さて、中高生の勉強会は、今年度も毎月第1週に行われています。新年度は、5月7日、午前9時15分からです。
教会学校だけでは、学びきれなかった事、そして、信徒してさらなる成長のため、大事な仲間とのつながりをさらにつよくするためにもたくさんの参加をお待ちしています。




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

先月・今月は、「イエス様の受難・死・復活」というもっとも大事な箇所です。
既に堅信を受けたメンバーも、堅信にもう一歩足を踏み出せないメンバーも参加して、自分の信仰についてもう1度考える機会になればと思います。

 

 

過越の聖なる3日間の出来事 1 -2016年度 第11回 勉強会- の続きです。

 


 

 

今月のテーマ

● 過越の聖なる3日間の出来事 2  ●

 

 

● 木曜日の夜から金曜の明け方までの出来事 (聖金曜日 主の受難)

 

イエス様は、聖書で預言されていた通り、捕らえられ、受難にあわれます。
今日は、過越の聖なる3日間の典礼の本を持ってきました。
せっかくなので、聖金曜日「主の受難」で朗読される受難朗読をみんなで役割をもうけて朗読してみましょう。(イエス様・ピラト、ペトロ・群衆・語り部)
1つだけ、イエス様がなくなるシーンを朗読した際には、少しの時間、今まで朗読した箇所、そして、今まで学んできた思い、イエス様が亡くなったことに関して、黙想してみましょう。イエス様が亡くなった意味を、1つの言葉で表せることが出来ると思います。
それでは、やってみましょう。

 

ありがとうございます。
イエス様のご受難のお話…どうでしたか?
クリスマスと同じくらい私たちは、この話を知っています。毎年、毎年、私たちはこの「受難・死」というものを共に経験し、共に「ご復活」の栄光を味わいます。

堅信の勉強会でも話しましたが、この話こそ、私たちの信仰の根幹です。
あまり時間もありませんから、特に重要なシーンだけ、お話ししましょう。

 

1.ペトロ三度知らないという…

まずは、最後の晩餐のなかで、イエス様は、ペトロに「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。と仰るシーンがありましたね。ペトロは、もちろん否定しますが、現実にそれが起こってしまいます。

1回目

門番の女中はペトロに言った。
「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」
ペトロは、「違う」と言った。

2回目

シモン・ペトロは立って火にあたっていた。
人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。

3回目

大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。
「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
ペトロは、再び打ち消した。

 

そして…

するとすぐ、鶏が鳴いた。

 

ペトロは、鶏が鳴いた時、イエス様の言葉を思い出し、大事な人を裏切ってしまった口惜しさ、自分の情けなさ、悲しさ…そういうものに押しつぶされそうになったでしょう。
ペトロは、号泣します。あまりに泣きすぎて、涙袋が腫れてしまい、大きく腫れぼったい涙袋になってしまいました。御像や絵画のペトロにはそれが描かれていますね。(つまり、涙袋の大きいペトロが描かれている場合は、ご受難後ということ)

この話は、よく覚えておいてください。ご復活後の話につながる話です。

 

 

● 金曜日の出来事 (聖金曜日 主の受難)

 

1.ポンティオ・ピラトとの問答

大祭司カイアファに、イエス様を死刑にするために自分の所に連れてこられたローマ総督ポンティオ・ピラトは、非常に困ります。
面倒な「自分とは関係ない宗教的な事」「ユダヤ人同士の事」に、クビを突っ込みたくないという気持ちです。まして、罪のないイエス様に、刑を与えることなど出来ません。しかし、ユダヤ人社会とうまく付き合う事も彼には必要でした。祭司や長老たちのユダヤ人社会に対する影響力は、ヘロデ(当時のユダヤの王>実質的にはガリラヤなどを含む一地域の領主)よりありました。彼らの要求を無碍にすることも出来ません。そうじゃないと、ローマ皇帝から、「イスラエルの統治が上手く行えていない」とされ、ローマ総督の地位を失う事、つまり、出世に影響が出てしまいます。

ピラトの気持ちは、みんなも想像しやすいかもしれません。
みんなならどうしますか?

ピラトは、まず逃げようとします。
「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言って、大祭司カイアファたちのもとに戻そうとします。
しかし、イエスを亡き者にしようとするカイアファや元大祭司のアンナス(アンナスはカイアファの舅 ―当時の大祭司は終生なのですが、ピラトにより無理矢理退任させられ、婿のカイアファが大祭司になっていた。そのためユダヤ人社会では、アンナスは大祭司と呼ばれ、権力も当時のまま残っていた。―)たち祭司や長老たちは、死刑にするために、あくまでピラトに裁くように求めます。(死刑にはローマ総督しか出来ない)

そして、今度は、イエス様をイエス様の出身地であるガリラヤの領主であったヘロデのもとに送ります。つまり、面倒を避け、ヘロデに押し付けたのです。
ヘロデは、イエス様がたくさんの奇跡を起し、しるし(神様がいるという証)を見せていたのを知っていたので、始めは喜びます。しかし、ヘロデの問いに、イエス様は沈黙を守られます。
ヘロデは、最終的に祭司長や長老たちと一緒にイエス様を罵り、イエス様に派手な服を着せて、ピラトのもとに送り返しました。

彼は、しょうがなくイエス様を尋問します。

お前がユダヤ人の王なのか」と、問います。
ユダヤ人の王と名乗り(王はローマ帝国から任命されたヘロデなので、もし王を名乗るならば、ローマへの反逆の意志があることが推察できる)ローマへの反逆を計画していれば、イエス様を死刑に出来ます。そうすれば、何の問題もありません。
しかし、もちろんイエス様にその意志はありません。イエス様はこう答えます。
「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

そして、重ねて尋ねるピラトに、イエス様はさらにこのようにお答えになります。
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

イエス様が王となる国は、物理的な、私たちの現実に住む世界ではありません。
神の国」の王です。神の国については、前お話しましたよね。今年の勉強会の中でもたくさん話してきました。覚えてますか?
イエス様の治める国とは、イザヤ書11章4-9節のような世界ですよね。私たちが現在住む世界とは違います。
永遠の命のなか、神様のみ旨が隅々までいきわたっている世界、全ての人々が神の御旨を尊び、神の御旨のもと、生きている世界ですよね。イエス様は律法を完成させるため、つまり、神様のみ旨を行い、神の国が行われるためにいらっしゃいました。
ピラトが言っている王とは根本的に違います。

ピラトは結局、罪が見いだせず、死刑を回避しようと試みますが、最終的な決断をすることが出来ません。彼は、神の御旨でも正義でも真理でもなく、自分の事しか考えていません。
そして、集まった群衆に尋ねます。
自らが正しい事をするではなく、責任を回避し「誰々が言っているから」とか人のせいにし、責任を回避し、流されていく。

みんなが、ピラトの立ち場ならどうしましたか?
イエス様を救う事が出来ますか?
クラスメイトがいじめられていた…友人が誤解を受けみんなからあらぬ非難を受けていた…みんなならどうしますか?

 

 

2.人々はイエス様を…

つい数日前イエス様をスーパースターのように待ち構えた群衆は、この時どうしたでしょう?

人々は、祭司長や長老たちのような権力者が「イエス様を死刑にする」という強い意志を持っていることを知り、今度は、イエス様を一斉に罵ります。
そして、イエス様を「死刑に」と、言います。
その中には、実際にイエス様によって「しるし(神様がいるということがわかるようなこと)」を受けた人もいるでしょう。
でも、彼らは、イエス様を「罵り、十字架の刑に処す」ことを望みます。
多分、そこに「意志」は無かったのかもしれません。
イエス様を十字架の刑にしたいと誰も心から思っていなかったし、誰もイエス様を救おうとも思わなかった。
ある意味、祭司長や長老、ピラトより罪深いのではないでしょうか?
誰も「おかしい」「間違っている」という人はいなかったのでしょうか?
多くの人はそうする事が出来ません。人は弱い生き物です。
だからこそ、祈りを捧げ、神の御旨に心を向けてください。ミサの開祭の時に行う回心を思い出してみてください。「怠り」も罪です。
あの時「おかしい」「間違っている」という声はもしかしたら、届かず、イエス様は同じように十字架で処されていたかもしれません。もしくは、そういう事によって、自分も十字架の刑に処されることになったかもしれません。でも、神様もイエス様も見ています。聞いています。勇気をもって、神様のみ旨にそった行動をしてください。

 

 

3.イエス様の死

この話自体は、今年の勉強会を通して何度もする機会がありましたね。
預言がその通り行われていくこと…つまり、神の御旨通り、ご計画どおりの事が行われていくこと、みんなも理解していると思います。
十字架上の7つの言葉、覚えていますか?

 

この受難朗読のなかでは、私たちが聖堂で見る磔刑の十字架に書かれている「I.N.R.I.(ユダヤ人の王 ナザレのイエス)」という罪状を貼る話も出てきましたね。
イエス様が死刑判決を受けてからの話は、錬成会の時や教会学校でも行った「十字架の道行」で、みんな知っていますし、今までもたくさん話してきました。だから、今日はその話は(時間がないので)省略します。

人々は、過越祭を祝うために、イエス様を急いで殺そうとします。
そして、(汚れない状態でいるため)それに触れることはないようにします。したがって、ほとんどの行為は、ローマ兵によって行われます。
ここでも、本当の意味での律法を分かっていない人々がいます。

ところで、過越の話を思い出してください。
ユダヤ人たちは、どうやって神様から救われたのでしょうか。
そう「傷のない子羊を屠り、血を家の壁に塗り…」ユダヤ人たちは過越す事が出来たのでしたよね。
傷のない子羊…そう、全く罪のないイエス様を死に追いやることにより、私たちは救われました。ミサのなかで平和の讃歌を歌う時、「神の子羊」と歌いますが、まさにイエス様をさしているのですね。
成し遂げられた」(十字架上の7つの言葉)、死の直前、イエス様はこう仰いました。
まさに自らを神にささげることにより、私たちを救いを成し遂げてくださったのです。

聖金曜日の事を英語で「Good Friday」と言います。なぜイエス様が亡くなったこの金曜日を「Good」なのか、気になりませんか?
それは、創世の時、神様が何かを造られた時に「良しとされた」とされたように、イエス様の十字架上で亡くなる事により、神の救いが完成した瞬間を、神様は「良しとされた」のです。だから、「Good」なのです。

亡くなる時、神殿の垂れ幕は上から下まで裂かれました。
まさにこの瞬間、神様は私たちを赦し、私達と神様は新たな契約、新約を結びました。

こうして、私たちにとって、大いなる失敗のしるしである「十字架」は、神の愛のしるしとなりました。

 

 

さて…今日はここで終わりにします。
もちろん、この話に続きがある事はみんな知っていますよね。
受難・死・復活…この3つは、3つで1つです。そうでなければ、本当の意味での「救い」はないですよね。

 

堅信の勉強の時もお話しましたが、この出来事、そして、この出来事の続き、「ご復活」を信じる事こそ、信仰の根幹です。
じゃないと、この話は、ただの悲しい、私たちが罪深いだけの話になります。
イエス様は、人として産まれ、最後の最後まで苦しまれました。その苦しみは想像を絶するものがあります。
共に過ごした弟子たち、仲間に裏切られ、肉体的にも精神的にも本当に地獄のような苦しみを味わったと思います。出来る事なら逃げ出してしまいたい、そんな誘惑もあったと思います。

でも、それに打ち勝ち、苦しみを受け、そして、100%完全に死にました。
「ポンティオピラトの下で苦しみを受け、死に、葬られ、黄泉にくだり…」と、使徒信条にもありますよね。

私達にも確かに絶望はあります。
信仰があれば、絶望しないなんてことはありません。
絶望はします。死ぬほど苦しい思いはします。

 

前にしたかもしれませんが、フィリップ神父様のイースターのお説教で「厚い雲の奥、太陽は見えない事もありますが、そこに太陽がある事を私たちは知っています」と仰っていました。
そうです。その奥には希望があります!イエス様は、それを示してくださいました。

 

4月13日からの過越の聖なる3日間には、是非与ってみてください。
そして、4月15日の復活の聖なる徹夜祭に心の奥底からご復活を祝いましょう!
私たちに希望があることがしめされたのですから。神様の愛が私たちに常にあることを示してくださったのですから。

 

 

 


 

今年度の中高生の勉強会は今月で終わります。
3月28日からは、堅信のための春季集中講座が行われます。

 

是非、多くの中高生に集まってもらえたらと思います。

 

 

来年度は、5月2日から始まります。
教会学校を卒業したメンバーも新たに加わります。中高生の皆さん、是非、集まってください!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

先月・今月は、「イエス様の受難・死・復活」というもっとも大事な箇所です。
既に堅信を受けたメンバーも、堅信にもう一歩足を踏み出せないメンバーも参加して、自分の信仰についてもう1度考える機会になればと思います。

 

 


 

 

今月のテーマ

● 過越の聖なる3日間の出来事 1 ●

 

今月も先月に引き続き、「イエス様の受難・死・復活」について、一緒に考えていきましょう。
既に受堅メンバーには伝えていますが、イエス様の受難・死・復活は、信仰の根幹です。
まず、先月のおさらいをしましょう。

 

イエス様は、「律法を完成させるために」ご降誕されました。
律法は、本来、私たち人間のために神様が私たちを幸せにするため、つまり、神の国の実現のためにあるものでした。

マルコ2章23節を開いてください。

 

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」

マルコによる福音書2章23-28節

 

神様が、私たちへの愛ゆえにご自分のひとり子イエス・キリストをお送りくださったのです。
ヨハネ福音書の3章16節を開いてみましょう。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書3章16-17節

 

モーセがシナイ山で神様から与えられた与えられた十戒は、イエス様によって、私たちにシンプルに本質をついた言葉で掟として残されています。それが、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(十戒1-3の部分) 『隣人を自分のように愛しなさい。』(十戒4~10の部分)でした。

 

そして、聖週間の日曜日から水曜日までのお話をしました。

日曜日

イエス様は、ご受難にあうのを神の御旨として受け入れ、エルサレムに入城されます。
過越祭で世界中からエルサレムに集まった人たちは、まるでスーパースターが来たかのように、イエス様に「ホサナ(救ってください)」「ダビデの子(メシア)」と、迎い入れます。この迎い入れた人たちの思いは「ローマ帝国から解放して、ダビデ王やソロモン王の頃のようなユダヤ人の栄光の時代を取り戻してくれる人」という意味でのメシアでした。しかし、イエス様はそうではありませんでしたよね。イエス様は、力の象徴の馬ではなく、平和の象徴であるロバによってエルサレムに入城されました。イエス様は、「神の国の王」として来られたからです。まだ、誰も真の意味でのイエス様のアイディンティティを理解していないのです。

月曜日

イエス様は、市場になってしまっていた祈りの場である神殿から商人たちをムチで追い出しました。これによって、祈りの場である神殿が戻ってきました。それと同時に神殿がユダヤ人だけのものではなく、私たち人間に解放されました。しかし、商人たちから利益の一部を上納させていた祭司長や長老たちの怒りをかいます。

火曜日

祭司長たちや長老、律法学者から意地悪な質問を受けますが、悉く論破し、さらに、彼らが間違った律法の理解をし、神様の意志とは別のところにあることを指摘します。これによって、祭司長や長老たちは、イエス様を殺すことを決意します。

水曜日

サタンの入ったイスカリオテのユダが、祭司長たちにイエス様を引き渡すことを約束します。彼らは、イスカリオテのユダに銀貨30枚、当時の奴隷1人分の値段を報酬として支払いました。

 

 

 

さて、今日は、木曜日から日曜日までの「過越の聖なる3日間」のお話です。
その話に入る前にまず、過越の聖なる3日間の「過越」のお話をしなくてはいけません。この「過越」は、当時のイスラエルの人々にとって、もちろん、今のイスラエルの人々にとっても、最も大事なことだからです。

過越は、この最後の晩餐が行われていた時のちょうど、1310年ごろ前にあったお話です。

 

ヤコブ(イスラエル)の12人の子(12使徒はここからきています)のなかで、父ヤコブに最も可愛がられていた末っ子のヨセフが、兄たちの妬みをかい、色々あって、エジプトに奴隷として売られてしまいました。でも、ヨセフは賢い人だったので、エジプトで王様や多くの人々の信頼を得て、エジプトの宰相(総理大臣)となります。
その後、大飢饉が中東を襲います。エジプトは、宰相であったヨセフによって食料などを貯蓄してあったこともあり無事でしたが、ヨセフの父ヤコブや兄弟たちは食料が尽きてしまいました。ヤコブたちは、ヨセフが宰相であることを知らず、助けを求めます。そして、ヨセフは、兄弟たちを赦し、ヤコブや兄弟たちをエジプトに招きます。
こうして、イスラエルの民は、エジプトで幸せに暮らすようになりました。
しかし、やがて、エジプトの人々は、ヨセフの事を忘れ、豊かになっていくイスラエルの民に対し、妬み、恐怖を抱くようになりました。そして、イスラエルの民に、重労働を課すようになりました。300年間に渡り、それは続いていきます。しかし、イスラエルの民は、重労働をさせてもさせても、子孫を増やし、繁栄していきます。ついに、エジプトの王様は、「産まれた男の子は、全員殺せ」という命令を下します。イスラエルの民の産まれた子は、産まれた瞬間に男の子と分かると、また、ナイル川に流され、殺されてしまいました。

モーセは、ちょうどその命令が出された時に産まれました。
しかし、モーセの両親は、我が子を殺すことが出来ず、3か月の間隠していました。いよいよ隠すことが出来なくなり、ナイル河畔の葦の茂みに籠にいれて様子を見ていました。
そうすると、そこに王様の娘が水浴びに来ました。王様の娘はモーセがユダヤ人と分かりながらも、殺すことが出来ず、自分の子どもとして育てる事にしました。
こうして、モーセは、ユダヤ人でありながら、王子として、育ちました。

さて、モーセは王子として育っていくなか、イスラエルの民は、そのなかも重労働を課せられていました。
その間イスラエルの人々は重労働の苦しみにうめき、叫んでしました。その助けを求める彼らの叫び声は神に届いていました。神様は、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされ」、「イスラエルの人々を顧み、御心に留められ」ていました。

そして、モーセが80歳になる頃、神様はモーセを通して、イスラエルの民を救われます。
神様は、イスラエルの民を解放するために、エジプトの民に「10の災い」のうち、9つの災いを起します。しかし、エジプトの王様は、それでもイスラエルの民を解放しませんでした。そして、最後の10個目の災いの日、いよいよイスラエルの民は、エジプトを脱出します。
脱出の夜、神様は、人間から家畜に至るまで、エジプトの初子(長子)をすべて撃たれました。しかし、モーセを通して、「傷のない雄の子羊の血が家の柱と鴨居に塗っておいた」イスラエル人の家は過越して初子を撃たれませんでした。(だから、この出来事を過越と言います)
エジプトの王の長子も、過越によって危篤となり、エジプトの王は、モーセにイスラエルの民を連れて出ていく許可を与えます。

イスラエルの民は、急いで準備して、酵母を入れない小麦粉のパン(種無しパン)を持ち、エジプトを脱出します。

その後、エジプトの王様は、イスラエルの民を追撃して来て、紅海に追い詰められます。しかし、もうこのシーンは有名ですよね。
海が2つに割け、その間をイスラエルの民は通り、パレスチナの地に戻ります。そして、イスラエルの民が渡りきったところで海は戻り、エジプト兵は、海に流されてしまいます。

この後、モーセは、シナイ山に登り、神様は新たにイスラエルの民と契約を結び、十戒をモーセを通してイスラエルの民に与えます。

 

簡単にですが、これが、過越のお話です。
いつかがっつりやりたいですね。

一番大事な言葉は、「傷のない雄の子羊」です。
神様は、イスラエルの民が「傷のない雄の子羊」を捧げる事でイスラエルの民を過越されました。

この事を覚えておいてください。

 

 

さて、本題に入りましょう。まずは、木曜日のお話です。

● 木曜日の夜の出来事… 最後の晩餐 (聖木曜日 主の晩餐の夕べのミサ)

 

 

「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」

ルカによる福音書22章15節

 

最後の晩餐は、イエス様の、この言葉で始まります。
「最後の晩餐」は、レオナルド・ダ・ヴィンチを始め、様々な画家がモチーフにしているから、みんなもイメージしやすいですよね。
想像してみてください。
自分は、これから何が起こるかわかっています。今まで命を懸け一生懸命伝えてきたことはまるで理解されてない。そして、3年間一緒に宣教の旅をしていた仲間の1人に裏切られ、日曜日にまるでスーパースターのように迎い入れたくれた群衆から、罵られ、何1つ罪は犯していないのに、最も残酷な十字架の刑、死刑にあう…みんなが知っているイエス様の受難・死が今起ころうとしています。

この「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」という言葉の重み、切なさ、悲しさは想像に余りあるものがありますよね。受難・死を迎える前に、ご自分を裏切ることになるイスカリオテのユダも含めて、食事をとろうとされるイエス様の真意を考えてみてください。
神のご計画とはいえ、イスカリオテのユダがどうなるか、ご存じで慈しみによって、一緒に食事をとろうと考えれたのかもしれませんし、もしかしたら、考えを改めてくれると思ってかもしれません。個人的には、「そんなイスカリオテのユダも含めて」一緒に旅をした仲間達全員で食事をとりたかったのではないかと思います。逆に言えば、それだけ、これから起こることにイエス様ご自身も恐怖し、悲嘆にくれ、少しでも分かち合いたかったのではないでしょうか。

 

さて、最後の晩餐は、私たちキリスト者にとって、最も大事な出来事の1つです。
なので、聖木曜日には、この最後の晩餐を直接記念した「主の晩餐の夕べのミサ」があげられます。今年は、4月13日ですね。
それだけ、大事な事がこの最後の晩餐のなかで行われました。

この「最後の晩餐」のなかで、イエス様が「このように行いなさい」と命じられた通り、行っています。つまり、この最後の晩餐に、私たちが毎日(正確にいうと363日)行っているミサが制定されました。それがどれ程、私たちにとって、素晴らしい事か…、みんなにはもうわかりますよね。

 

 

ルカによる福音書 22章19-20節を読んでみましょう。

 

それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。

ルカによる福音書 22章19-20節

 

はい。ありがとうございます。
もちろん、みんなには、この箇所が何を意味しているか分かりますよね。
感謝の典礼のなかで、聖変化の際に唱えられている言葉です。
イエス様が仰った言葉、聖書の御言葉をほぼそのままミサの中で唱えているわけです。

前にも時もしましたが、この時から約2000年間、このイエス様の言葉を守り、ミサを祝ってきました。
もちろん、この時、弟子たちは、この言葉の真の意味を分かっていません。
受難・死・復活の本当の意味を知るのは、まだまだ先です。
でも、みんなはその意味を知っています。

ミサの中で、平和の賛歌を歌います。
歌詞を覚えていますか?
神の子羊 世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。神の子羊 世の罪を除きたもう主よ、われらに平安を与えたまえ。

そして、その後、ご聖体を拝領する前に信仰告白をしますよね。
主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう

 

平和の賛歌で歌う「神の子羊」、これは、イエス様の事ですね。
過越のことを覚えていますか?
傷のない子羊を捧げ、過越されたのでしたよね。私たちは、全く罪のないイエス様を捧げ過越します。
罪人である私たちが、全く罪のないイエス様を犠牲にし、死から解放され、永遠の命を得る。

この重みを感じ取ってください。
だから、次の信仰告白に意味が生まれます。

 

主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。

ヨハネによる福音書6章 68-69節

聖ペトロの言葉です。みんなはどうですか?
自らを捧げ、神様に私たちを救ってくださるイエス様に心から伝えてみましょう。

 

では、次にヨハネによる福音書13章1~15節を読んでみましょう。

 

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 

まず、最初の箇所、 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」この言葉の意味を味わいましょう。普通に愛したではなく、「この上なく」「愛し抜かれた」のです。初めの説明を少し思い出してみましょう。
これは、神様のみ旨「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3章 16節)」にも通じるものがありますね。

そして、弟子たちの足を洗います。
当時、足を洗うという行為は、その家の召使が主人に対して行う仕事でした。
当時の靴は、サンダルのようなものでしたし、中東は、砂埃が多いですから、家に帰るとまず足を洗うのです。
つまり、召使がする仕事をイエス様が弟子たちに行いました。イエス様は、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(マタイによる福音書23章11-12節)」というみ言葉をそのまま自ら実行されたのです。
そして、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したので」す。

主の晩餐の夕べのミサのなかでは、このことに倣い、洗足式が行われます。
数年前、教皇フランシスコは、刑務所に出向き、受刑者の皆さんの足を洗われました。また、違う年には、難民キャンプに行き、難民の足を洗われました。
松戸教会でも、12人(ヤコブの息子の数、使徒の数)の信徒の足を神父様が洗います。
もし、聖木曜日にミサに与るときは、ぜひ足を洗って頂いてください。そして、イエス様がおっしゃったように、謙遜の心をもって、自ら低くなり、お互いに仕いあいましょう。

そして、イエス様は、足を洗った後、仰りました。
ヨハネによる福音書 13章 26-27節をよんでみてください。

 

イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。

ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

 

あくまで、ご自分のことではなく、神様のみ旨にそい、行動されます。

そして、その際に、ペトロは言います。
ヨハネによる福音書 13章37-38節を読んでみましょう。

 

ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」

イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

実際、ペトロは、イエス様のことを知らないと3度言ってしまいます。
ペトロは、神様のみ旨ではなく、自分のことを考えてしまいます。もし、イエス様を知っていると言ってしまえば、自分も刑に処されてしまうと考え、恐怖したのでしょう。

みんなならどういう行動をとりますか?
日本には多くの殉教者がいます。26聖人殉教者たちは、キリスト者であるとして、捕まった時にどう答えたでしょうか?
「キリスト者ではない」と答えましたか?
つい、先日遠藤周作さんの原作「沈黙」という映画が、上映されていました。
みんなが、もしキリスト者であるとして捕まり刑に処されるとしたら、どのように答えますか?

 

そして、この最後の晩餐の中で、まるで遺言のようにイエス様は、わたし達に新しい掟をお話になりました。
先月話をしたようにこれは、十戒をさらに深めるものです。イエス様は、律法を完成させるためにこられたのです。(先月の勉強会
ヨハネによる福音書 13章34-35節を開いてみましょう。

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 

 

これが、私たち信徒にとって最も大事な掟です。
イエス様がおっしゃるように、互いに愛し合えば、おのずとキリスト者であることがわかります。

 

 

● 木曜日の夜の出来事 ゲッセマネ

そして、最後の晩餐が終わると、いつものように、祈りに出かけられます。
聖書には、何か重大な決断をする時、また、岐路に立たされた時、イエス様は一人で祈られたことが記されています。
しかし、今回は1人ではなく、3人の弟子を連れていかれました。3人の弟子といわれたら、ペトロ、ヤコブ(ゼベタイの子)、ヨハネ(ゼベタイの子)ですね。
では、マタイによる福音書26章36-56節を読んでみましょう。

 

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。
「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。
このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。

 

どうですか?
人間「イエス」の孤独感、そして、恐怖を感じられませんか?
神の子でありながら、人として産まれたイエスが、神の御旨と自分の中にある感情のなかで、悲しみもだえているのです。
もし自分がイエス様だったら……イエス様の気持ちは、想像できますよね。「絶望」という言葉がまさにそのまま当てはまる状況です。しかし、イエス様は最後の最後まで父である神様に祈られ、共にいました。

でも、3人の弟子たちはイエス様のそんな思い、そして、イエス様のアイディンティティ、イエス様の言葉の意味をちゃんと分かっていなかったがために、そんな場でも寝てしまいます。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い
イエス様は、最後まで弟子(私たち)に真理を教えてくださり、そして、赦し、回心へと導いてくださいます。
私達は、人として、キリスト者として、「こうありたい」「こうすべき」と分かっていても、実際出来ないことが多いですよね。
実際は「出来ない」のはなく、「しないだけ」だったりします。聖パウロも常に肉にではなく、霊に従うように私たちを諭していますよね。
たとえば、ガラテヤの信徒への手紙5章 17節にはこうあります。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
だから、イエス様が仰るように常に目を覚まして祈りましょう。

そして、自分の弱さと向き合う時の祈りも、この時、イエス様は、模範を示してくださいました。

 

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

マタイによる福音書 26章 39節

 

 

私達も、洗礼を受け、聖パウロが「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ローマの信徒への手紙8章 15節)」と伝えるように、神の子となったのですから、神様を父と呼び、イエス様のように祈りましょう。

そして、イエス様は、人間としての苦しみ、恐怖、悲しみ、孤独感…様々な物を乗り越え、いよいよご受難へと向かわれます。

 

 


 

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