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本日、教会学校の2学期始業式の中で、中高生のサブリーダー任命式が行われました。

フィリップ神父様から任命証が送られました。

サブリーダーには、以下の条件を満たしているとリーダー達が思った時、なってもらいます。

  • 堅信を受けていること
  • 奉仕の指導がしっかり出来る事(侍者リーダーになっていること等も含む)
  • 下級生のフォローをしっかり出来る事

 

これからは、教会学校で子ども達に「教える立場」になります。
困っている子がいたら一緒に考えてあげたり、お祈りの時に、十字の切り方や手の合わせ方がおかしいなという子がいれば、しっかり教えてあげましょう。
また、錬成会などの行事では、リーダーたちと一緒に子ども達をフォローする立場になります。今までのように一緒に「楽しむ」だけではいけないですね。

堅信を受けた者として、聖霊の賜物を活かし、サブリーダーとしての責任を果たしてください!
リーダー達と一緒に教会学校を盛り立てていきましょう!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは6人。

夏休みも終わり、部活がお休みだったこともあって、久々に来たメンバーも!

今月は、錬成会や修練会でもした「ミサ」についての勉強です。
錬成会のなかでも、侍者リーダーとして奉仕する時、また、下級生に教える時、様々なことを覚えておかないといけないと感じたと思います。
ミサが、私たちキリスト者にとってどのようなモノなのかという事に対する理解を深め、自分が行う奉仕がどのくらい大事なことなのか、どれほど重要な事を任されているのか…一緒に考えていきましょう。

その前に今日はまず教会学校の始業式に一緒に参加しましょう!
堅信を受けている中高生は、子ども達の後ろに座って、子ども達の様子をしっかり見てあげてください。(神父様の話をしっかり聞いていない子には注意しましょう)
まだ、堅信を受けていない中高生は、子ども達と一緒にフィリップ神父様やリーダーの話を聞いてください。

2学期始業式のなかで1人の中学生が、教会学校のサブリーダーに任命されました。

これからは子ども達に教える立場ですから、しっかりと今日の勉強も覚えて、子ども達に伝えられるようにしてください。


今月のテーマ

● 奉 献 文 ●

 

 

さて、今日は、ミサについて一緒に考えてみましょう。
今日配ったプリントは、前にも配ったことがありますね。

最初に典礼歴について書いてあります。
中高生会のメンバーとしては、教会学校の時のように「待降節 > 降誕節 > 年間 > 四旬節 > 過越の聖なる3日間 > 復活節 > 年間」と覚えておけばいいというわけではありません。
今私たちがどのような時期であり、イエス様の道をどのように歩んでいるのか…説明ができなければなりませんね。
(それぞれの詳細な説明は、今日は省きます)
ここにいるメンバーには、何度もこの話をしていますから、もう当たり前でしょうが…祭服の色、そして、その祭服がどのような意味を持っているのかなども含め、ともに成長していけるようにしていかなくてはいけませんね。
たとえば、待降節と四旬節は、同じ「紫色」の祭服ですね。この2つの時期にはどのような意味がありますか?
もちろん、みんな分かっていますね。「回心」すると言う意味ですね。待降節は「幼子イエス」、四旬節は「受難・死・復活」とともに神様の愛が私たちに示されます。その前に、私たちはその愛をしっかり受け取れるように、自分を捨て心を神様に向けなければなりません。
待降節も四旬節も、毎年A年でもB年でもC年でも同じ内容が朗読されます。待降節は「目を覚ましていなさい」というテーマ、四旬節は「洗礼後の悪魔の誘惑の話」です。そう、どちらも「神様に心も体も向け、神のみ旨のなかで生きなさい」というお話ですね。人間(自分)の意思、考えの中で生きていればそこに神様は愛は根をはることができないからです。(神は愛-2018年度 1 勉強会)

このように私たちは、毎年毎年、典礼を通し、神の愛を思い起こします。
それは、「今現実に起こっている救いの出来事」です。

聖書に書いてあることは全て事実です。
神の愛を受けた数千年前の人の思い、考え、全てが描かれています。
イエス様も2000年前に現実にいました。神の子であり、救い主であり、神様と私たちを繋ぐ役割である大祭司でありながら、人の子として私たちのうちに生き、人として、神のみ旨に生きる信仰者としての模範を示してくださいました。
これは「おとぎ話」でも「あるスーパーヒーローの夢物語」でもなく現実に起こった、そして、今みんなの前に起こっていることだということをしっかり認識してください。
それを最も示してくれているのが、ミサなのです。

 

 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

ヨハネによる福音書 1章14節

 

ヨハネ福音書の初めにこのような御言葉がありますね。
ミサは、まさにこの御言葉を体現しています。共同体でミサをともにミサに参加し、聖書の朗読箇所を聞き、頭と心で理解する。そして、その御言葉を受けた私たちは、聖変化されたパンを頂き、イエス様をお迎えする。まさに、「ことば」が「」となって、「わたしたちの間」に宿られます。
だから、よく「感謝の祭儀」だけ出ればいいと思っている人がいますが、「ことばの典礼」も「感謝の祭儀」もどちらも大事です。もし、御言葉を味わなければ、その御聖体には意味がありません。アレルヤ唱より後に御聖堂に入るようでは、聖体には意味がないといのは、そういうことです。肉となる言葉が私たちの内にないのですから。
もっと言えば、しっかりと朗読やホミリア(説教)を、頭で理解し、心で悟っていなければご聖体は無意味になります。ただミサにいるだけでは全く無意味です。
ミサは、学校の集会や朝礼とは全く違うものです。
心から、キリスト者として、松戸共同体の信徒として、ミサに参加し、心を合わせ、共に共同体全体で祈るものでなければなりません。

想像してみてください。
食事に呼ばれた時に、たくさんの人が招かれているのに、遅刻してきたり、ただそこにいるだけ、どんなメニューが出ているかも知らず、ただその時間が過ぎるのを待っているような人をどう思いますか?ホスト(招いてくれた人)や食事を作ってくれた人、周りの人に失礼ですよね。
また、自分だけが美味しく食事を頂いていたり、ホスト(招いてくれた人)と話そうとしていたりしていたら、本当の意味で美味しく食事を頂いたり、楽しく時間を過ごせますか?

分かりますよね?
イエス様は、「わたし達の間」に宿られました。「私」にではなくです。教会は、呼び集められた者達という意味でした。その「呼び集められた私達」の間、つまり、イエス様は、人と人の間にいらっしゃるのです。だからこそ私達は心を合わせて、ミサに与らなければなりません。

さて、それを最も象徴しているのが「奉献文」です。
奉献文は、叙唱からスタートし、栄唱まで、1つの祈りです。
最後の晩餐や「5つのパンと2匹の魚の奇跡」の話の時、イエス様は神様に「感謝と賛美」の祈りをし、食事を始められます。奉献文は、「キリストの代理者」である司祭によって、それがなされています。そして、この際、聖霊の働きにより、イエス・キリストの過越(受難・死・復活)が「今」に繋がり、全てのキリスト者が、神様との新しい契約の更新を行います。

 

今日は、奉献文に焦点を当て、ミサがどれ程私たちにとって大事なものか考えてみましょう。

まず、叙唱ですね。
よく勘違いされがちですが、叙唱、感謝の讃歌が終わり、奉献文と思われがちです。
つまり、祈りは感謝の讃歌が歌い終わってから始まっていると…。みんなも侍者をしていて、緊張感を持つのは、「ホザンナ~~~」と(カンパネラを鳴らすから…)歌い終わる頃かもしれませんね。
でも、これはちょっと違いますね。
叙唱は、序唱ではありません。祈りの「前(序)」のものではないのです。
叙唱は、ラテン語で、プレファチオと言います。「プレ」には、「前」という意味がありますが、この「前」は、祈りの「前」ではなく、神様の「前に」立つと意味と考えたほうが良いです。「ファチオ」は直訳すれば「やり遂げる」「行う」と意味です。つまり、これが「祈りの最初」であるという事です。

 

  • 私達は、神の前に立ち、感謝と賛美の祈りを捧げる。
  • キリストの過越(受難・死・復活)を共に経験する(行う)前に、感謝と賛美の祈りを、共同体全体で共に捧げるために、私達はまず「ことばの典礼」で受けた「み言葉」を心と頭で正しく理解するために(共通の目的化するために)宣言する。

 

オペラを知っている人は、少しピンとくるかもしれませんね。オペラでは、叙唱は「個人的な感情の独白や、状況説明、ストーリーの紹介」で歌われるものですね。ただ、このオペラの叙唱は、レチタティーヴォというイタリア語(フランス語)の訳です。でも、意味はこちらの方が近いと思います

つまり、叙唱は、「神様の前に立ち、~~~~を頂きました!みんなで感謝と賛美の歌を歌います!」と祈り始めているわけです。
こういう風に言うと、ここから祈りが始まっていると分かりますよね。

だから、清めが終わり、奉納祈願が終わったら、そこから「感謝と賛美の祈り」が始まっている!としっかり認識して下さい。侍者をするものにとっては、この認識はとても大事ですし、小さな子達にもここからは、より一層「神さまの前にいる」という認識をもってもらわないといけません。

そして、感謝の賛歌が歌われ、「聖変化」へと移ります。
ここは、ラテン語だとエピクレーシスと言います。エピクレーシスは「呼び求める」「呼び下ろす」という意味があります。
何を呼び求めるのか?簡単ですね。「聖霊」です。

最後の晩餐でイエス様が示された通りに、キリストの代理である司祭によって、「ことば」によって、そして、「聖霊」によって、この時、この瞬間、過去・現在・未来、聖ペトロから、みんなの子ども達、世界の終わりまでの全てのキリスト者が繋がります。
司祭がホスチアに按手する時、聖霊によって、私達と神様の関係、そして、私達共同体の関係は修復され、癒されます。これは、全ての秘跡において、言えることですね。
ゆるしの秘跡の時、病者の塗油の時……司祭から按手を受けている時、同じように私達は癒され、神様との関係が修復されているのです。イエス様が、手をかざしただけで病人を癒すのと一緒ですね。こうして、私達共同体は、共同体として、キリストの体へとなっていきます。
この空間は、まさに「神の空間」です。
侍者リーダーとして、カンパネラを鳴らす時、その音はまさに神の空間であることを表しているのです。それを意識してならせるといいですね。

修復という言葉で、ピンとした人がいたら、しっかり今までの勉強を覚えている証拠ですね。
「イエス様が十字架上の死において、私達と神様との関係を修復されたこと」とこの修復は同じ意味だからです。つまり、受難・死・復活というものを心の底から信じていなければ、エピクレーシスは全く無意味なものになります。
ご聖体も御血も全く無意味です。全てが無意味です。それはタダの小麦粉の塊であり、ただのぶどう酒です。みんながキリスト者である意味もありません。
ミサにしっかり与るとはそういう意味です。
十戒でも「主の日を聖とする」というものがありますね。心の奥底から聖霊を求め、神様との関係を求めてください。求めれば神様は必ず与えてくださいます。

そして、最後の晩餐でのイエス様の言葉「聖体制定」のことばが唱えられます。
私達は、ただそこにある「小麦粉の塊」が「ご聖体」になったことを祝っているのではありません。マジックが成功した!とお祝いしているわけではないのです。
イエス様がそこにいる。という事、そして、イエス様の受難・死・復活を思い起こし、神様が独り子である御子を私達のためにいけにえにして下さったほどの愛をくださったことをお祝いしているのです。そのことをしっかり心に刻んでください。
これらの事は、まさに「信仰の神秘!」です。これらの事を正しく理解していれば、心から「イエス様が来られるまで」つまり、「世の終わりまで」「イエス様の死を思い、復活を讃える」事が出来るはずです。

そして、その後、「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます」と、奉献の祈りです。
目の前で起こった神秘、イエス様の受難・死・復活を見た私達は、「奉仕出来ることに感謝」します。私達がイエス様が御自らを捧げてくださったように、私達も神様に、隣人に、自分を捧げます。完全な神様に私達は必要ないかもしれません。しかし、今、目の前でイエス様がなさったことを私達は知っています。私達にはそれぞれ神様から役割を与えられています。そのためにそれぞれタレント・カリスマを受け取っています。その役割こそがありのままの自分であり、三位一体の神との関わりの中に生きる私達のアイディンティティです。イエス様は、それを自ら示してくださいました。私たちもイエス様と同じように神様から愛を受けているわけですから、神様から与えられた役割を果たさなければなりません。

まず、神によって、癒され、愛を示され、そして、それを余すことなく受け取り、全てを捧げる。これこそ「奉献」の意味です。

そして、その奉献した私たちは、1つの共同体として、今を生きる私たち教会(全ての信者)のために、亡くなった方々のために、祈ります。
何度も言っていますが、私たち全ての(過去・現在・未来の)信者は、この瞬間、聖霊により繋がっています。私たちは、このように、昔の信者の方々に祈られていました。そして、未来の信者の方々も私たちのために祈ってくれています。また、世界中の信者が私達のために祈ってくれています。
私たちは、常に誰かに祈られています。だからこそ、私達もその祈りの繋がりのなかに入っていき、全ての信者のために祈ります。
さらに、ここで全ての聖人との交わりを願います。
神の国の住人となっている聖人との交わりを願う事で、私達もキリスト者として、キリストの道を歩める者であり続けられるように、取り次いでいただき、私達がより豊かな奉献が出来るように願います。

 

最後に、栄唱を唱えます。
「キリストによってキリストとともにキリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに」
三位一体の神様の中に入っていく、関わりの中に入っていく、キリストの道を歩んでいく……、全身で神様への賛美を唱えます。そして、その賛美に対し、私たちは、アーメン、そう、確かにその通りです!と判子を押します。
昔は、栄唱を唱える時は、頭を下げ、神様に深い敬意を示していました。
栄唱は、ただの短い一番覚えやすい祈りではありません。神様の栄光が全世界に届き、全世界の人々が神様の愛を受けることが永遠にできますように!という深いお祈りです。

私達が受けた愛が全ての人々に届く…つまり、イエス様がおっしゃったようにそれを全世界に私たちは広めないといけません。
主の過越をともに体験し、また、新しく生まれ変わった私達に何ができるでしょうか?聖霊の力により、今体験したことを受け、私たちは何をすべきでしょうか?

教会は、ミサによって、成長し、ミサによって新しく生まれ変われます。
だから、ミサは大事なのです。

これからミサに与りますが、それぞれの役割をしっかり認識し、しっかりと神様から恵みを頂きましょう。

それでは、最後に主の祈りを唱えて終わりにします。

 


 

次回の勉強会は、10月7日です。
筆記用具とロザリオをもって、集まってください!

ロザリオの月ですから、ロザリオについて勉強しましょう!




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8月14日に行われた夏の修練会で時間が足りなくて、完成させることが出来なかったステンドグラス風絵画を中高生が完成させにきてくれました。

 

こちらは、「平和の国」をテーマに描かれたものですね。
教会の平和とは、みんながそれぞれのアイディンティティを保ったまま、隣人を愛し合い、生きる事(イザヤ11・6-10)です。
虹は、神様とのつながりを表します。オリーブの葉をもった鳩は聖霊を表します。
また、ノアの箱舟の時、40日40夜の雨の後、ノアのもとに神様から遣わされた平和の象徴でもありますね。
この1枚のパネルのなかにそれが生き生きと描かれている気がします。

 

こちらは、松戸教会の守護者大天使聖ミカエルをテーマに描かれたものですね。
まさに松戸教会のシンボル。
大天使聖ミカエルが、天使の大軍を率いて、サタンを天国から追放する様子が描かれています。
私達がイエス・キリストの道を通る事を阻む悪魔たちから大天使聖ミカエルは、守ってくださいます。

上下の色の雰囲気が、私たちの道の困難さを表し、そのなかで、大天使聖ミカエルが力強さが、私たちの灯となってくれているようですね。
聖ミカエルの祝日を祝う国際ミサの時に来てくださる菊池大司教様にも見て頂けますね!

 

2人も本当にありがとうございます。
2人が頂いた賜物を活かし、活動してくれたおかげで、松戸教会にまた大きな宝物が出来ました。

聖堂のどこかに2つとも展示します。

是非、松戸教会に2人が描いたパネルを観に来てくださいね!




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本日、午後2時から中高生の夏の修練会が行われました。

昨年から始まった中高生の夏の集まりを今年はもう少しグレードアップして、夏の修練会として、中高生担当のリーダーを中心に企画されました。

 

今回の一番の目的は、中高生が自分たちに与えられた賜物を活かし、全体に奉仕するためのトレーニングです。
あらかじめ、参加者の中高生に得意なこと、好きな事を聞き、担当のリーダーがまとめ、3つのグループに分けました

  1. 料理(夕食作り)
  2. 侍者

 

 

こちらは、料理チーム。

午前11時には集合して、2人で決めたメニューに基づき、レシピを考え、必要な材料のリストを作ります。

 

リストに挙げたものを買って来て、早速料理開始!

 

お母さんたちも手伝ってくださいました。

 

緊張の瞬間!!

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作ってくれた物は……(それぞれ、参加者と保護者、リーダーの分、神父様の分…合わせて15名分!)

  • お米
  • たまごスープ
  • 羽付き餃子(2種類)
  • マーボー春雨
  • 麻婆豆腐
  • チキンフライ
  • パンナコッタ

 

15人の料理を大変でしたね!本当に、ありがとうございました!

 

 

こちらは、絵チーム。

担当のリーダーと一緒に、まず下書きを描き、アクリル板にガラス絵の具で上描きしていきます。

1枚は、松戸教会の大天使聖ミカエルをモチーフにしたもの。1枚は、主の平和をモチーフにしたもの。1枚は、エリヤが火の馬が曳く火の戦車で天に召されるシーンを描いたものです。

 

残念ながら、時間内に完成させることは出来ませんでした。
是非、教会に来て、最後まで完成させてくださいね!

完成したら、聖堂に展示します!
みなさん、是非、見に来てください!

 

 

 

こちらは、侍者チーム。

この2人の中学生は、すでに、主日のミサで、侍者リーダーとして奉仕しています。
侍者リーダーは、自分の事だけではなく、侍者全員に指示を出し、司祭がスムーズにミサ、祭儀をたてられるように奉仕しなけくてはいけません。
小さい子達の所作等にも目を配り、内陣の中に入る者として相応しい姿勢でミサに与るように指導しなくてはいけません。
堅信を受けるための勉強や、中高生の勉強を通して、そういう事は普段から勉強していますね。

そのためには、自分自身が、しっかりとミサの流れを把握し、次に何をするべきか、何を支持すべきかを分かっていないといけません。
今、行われていることがどのような意味があるのか、分かっていなければいけません。

 

そこで、今日は、復活の主日(日中)のミサの侍者をしている事を想定して、練習を行いました。
教会学校で行っている侍者会では、子ども達も一緒なのであまり高度な事は練習できませんが、今日は中学生以上だけですから、より高度に、普段の勉強を活かした練習となります。

担当のリーダー2人と、入堂から順に今「どのような意味」があり、「どのような事をしているのか」考えながら、1つ1つ丁寧に所作を確認していきます。
また、今は、リーダーのみが行っている香炉(トゥリブルム)や香舟(ナビクラ)の扱い方も練習します。

まずは、入堂から…。

もちろん、ここで歩くペースや所作など、子ども達にもしっかり指導しなくてはいけません。
礼には2種類あり、十字架に対してする深い礼と浅い礼とありますよね。
侍者は、所作の美しさも求められます。
体をしっかり正面に向け、美しい礼を出来るようにしなくてはいけません。
子どもたちはどうしても司祭の方を向いてしまう子がいますから、香部屋にいる時点で、その子達にもそれを伝えないといけませんね。

復活祭などの祭日、祝日では、司祭が香を捧げます。
司祭が香炉(トゥリブルム)を振る際には、司祭から向かって右側に香舟(ナビクラ)を持った侍者がたち、素早くふたを開け、スプーンを司祭側に、右手で持ちやすいように向けます。
香炉(トゥリブルム)も素早く開け、司祭が香を入れやすいような高さまで上げなくてはいけません。

 

そして、回心、憐れみの賛歌と続きます。
栄光の賛歌の際には、カンパネラを鳴らし続けなければなりません。
オルガニストの伴奏に合わせて、リズムよりカンパネラを鳴らす、練習をしました。

「カンパネラが鳴っている時間は、聖なる時間。聖なる空間になる」
リーダーからそう教えられましたね。そういう美しい音が出るように、頑張りましょう。

 

 

奉納の際は、侍者リーダーが最も働かないといけない場面ですね。
まず、奉納行列に行くメンバーを2人選び、行ってもらいます。その他の自分以外のメンバーは、司祭と一緒に内陣で奉納行列を待ちます。それも分かっていない子がいますから、的確に指示しなければなりませんね。
そして、自分はカリスを祭壇まで届けます。この時、祭壇ギリギリまで行き、助祭や神父様に前に出てこられることがないようにしなければいけません。

「もし、助祭や神父様が待っていたり、祭壇を越えて前に出て来られたら、侍者リーダーとして失敗したと思うべき」と、リーダーから注意を受けます。
これは、奉納行列後の、水と葡萄酒の準備の際や清めの際も同様です。小さな子達がしっかり行えるように的確に指示しなければなりませんね。
「チボリウムは誰がどうするのか」「水と葡萄酒はどうするのか」
司祭の意向や、その場の状況(侍者の人数等、諸々ありますね)に合わせて、侍者リーダーが臨機応変に対応しないといけません。そのためには、何をするのが正解なのか、今行われていることにどのような意味があるのか…もう1度思い出してみましょう。

 

ここで、2人には新しいことを練習してもらいましょう。

司祭が内陣で清めの献香をした後、司祭や会衆にも清めの香を振ります。
香炉の扱いは難しいですね。
利き手に関わらず、香炉は右手で持ちます。(教会のことは、全てそうかもしれませんね)
そして、2回振って1回下ろす。を1セットとして、それを3回行います。
会衆へは、中央、右、左と順に1セットずつ振っていきます。

 

感謝の賛歌が終わったら、侍者リーダーは、カンパネラを鳴らす準備をしていましたね。
香炉が用意されている場合は、感謝の賛歌の途中で、香炉に香を入れ、奉献文が唱えられ始める前に祭壇の前に香炉をもってひざまずいておいてください。そして、ご聖体、御血の顕示の際に、香炉を振ります。

最初にも言いましたが、侍者には所作の美しさも求められます。
ただ振ればいいというわけではありません。
「振って出る煙が天に昇り神様に届く」事をイメージして行いましょう。神様に、ミサに集まった方々の気もちを煙にのせてしっかりと捧げられるような美しい所作を目指しましょう。

この場合、あらかじめ、カンパネラを鳴らす侍者を指定しておかないといけませんね。カンパネラを鳴らすタイミングなどをその子に伝えて、任せられるようにしておきましょう。

 

カンパネラを鳴らすタイミングも、司祭によって変わりますね。
また、どの奉献文を唱えるかによっても変わります。しっかり、司祭の動きなどを見て、しっかりとカンパネラを鳴らせるようにしましょう。
目の見えない方にとっては、カンパネラの音だけが「聖変化やご聖体や御血の顕示が今されている」と分かるものなのですから。

平和の賛歌の際には、ご聖櫃への礼を侍者全員でする。
聖体拝領時には、足の不自由な方などがいた場合は、それを司祭や助祭、聖体奉仕者の方々に伝え、自分達が並ぶより早く拝領して頂くようにしなければなりません。

また、礼や起立・着席は、全員がそろって行った方が綺麗に見えます。
侍者リーダーが合図を出し、しっかりと揃えて行えるようにしましょう。
その時、合図は小さな子でも分かりやすく出来るものがいいですね。かといって、「せーの」とかミサ中に言えるわけありませんから、あらかじめしっかりと決めておく必要があります。所作のなかに組み込まれると分かりやすいかもしれませんね。そういう意味でも、しっかりとミサの流れを把握しておく必要がありますね。

 

 

約2時間みっちり侍者の練習をした後、錬成会のためにリーダーと一緒に買い物に行き、その後、みんなで少し遊びました。

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水風船キャッチやメントスコーラなどで男子チームはたのしく遊んでいる中…女子チームは、黙々と作業を続けます。

そして、午後7時頃、ご飯がましたので、男子も配膳を手伝います。

 

 

そして、食前の祈りを唱え、料理チームが作ってくれたご飯を頂きます!

 

おいしかったですね!

 

ところが…量が…

お気づきの方もあったと思いますが、フィリップ神父様にもご参加頂くつもりで料理を作ってくれていたのですが、急なご用事で参加出来ないことに…
しかも、大食いでおなじみのリーダーが「おなかを減らしてきた」と言っていたので、料理係の女の子たちが(かなり)多めに作ってくれていました。

なんと餃子だけで200個もあり....
男子チームは、途中から、楽しい食事から戦いになっていきました。(一人は、早々に脱落しましたが...)

 

最後にみんなで片付け!

 

会の最後には、今年堅信を受けた2人の高校生に教会からお祝いが贈られました。
参加した中高生やリーダー、保護者の方からもお祝いの拍手が贈られました。

 

堅信を受けたことによって、初聖体のときのように、ご聖体を頂けるような何か具体的な変化をもしかしたら感じることはないかもしれません。
でも、大司教様を通して、注がれた聖霊、そして、神様の愛は確実に堅信を受けた者を強めてくださっています。
堅信のための講座や中高生の勉強会で学んだことを通して、堅信を受けたキリスト者としての行動が出来るように頑張りましょう。

そして、もう1つ。忘れないでほしい事は…「みんなには沢山の仲間がいる」ということです。
キリストによって結ばれた決して切れる事のないつながりによって、私たちが結ばれている事を決して忘れないでください。

 

 

初めての中高生の修練会、どうでしたか?
みんなにそれぞれ与えられた賜物を活かし、全体のために働いてもらいました。
「こんなことが、全体のためになるの?」と、思うかもしれませんが...

自分の得意なこと、自分の好きなことをみんなのために惜しみなくいかすことが、どれだけ全体のためになるか?私たちのためになるか?
みんなが神様から与えられた賜物を存分に発揮し、みんなのために奉仕することがどれだけ自分を自由にするか?

教会は、それを具現化した場所です。
是非、これからも、与えられた賜物を活かし、みんなで頑張っていきましょう!

 

 


 

次回の勉強会は、9月の第1週です。

筆記用具をもって集まってください!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは2人。
高校生は、テストの時期と重なってしまい、みんなテスト勉強で教会はお休みでした…

 

今月は、6月29日が使徒聖ペトロの祭日でしたから、聖ペトロの召命を通して、キリスト者の生き方について、一緒に考えてみようと思います。

 

 


 

今月のテーマ

● 聖ペトロの召命 ●

 

さて、今日は、聖ペトロについて考えたいと思います。
なぜ、聖ペトロを今日を注目するかわかりますか?

それでは、その質問の答えを考えるために、少し視点を変えましょう。
教会のなかで最も大事な日とされているは、大祭日といいます。大祭日は、分かりますよね…そう、イースター。復活祭ですね。

なぜですか?
イエス様が復活されたから?
そうですね。
イエス様が受難・死に打ち勝ち、復活し、神様の愛が示されたからですね。
神様は、自らの独り子を私たちにお与えになった程に私たちを愛して下さり、私たちも同じように、絶望があろうと、その奥には必ず希望があり、全ての人々が神の国に招かれていることを示してくださいました。それを私たちは1年ごとに思い起こし(新たに体験する事・記憶の最も新しい箇所にその出来事をもってくること)神様・イエス様の愛を感じ、洗礼を更新するのですよね。それは、カトリック教会にとって、最も大事な出来事です。

と、いうように教会には、大事な出来事を私たちが思い起こし、神様・イエス様の愛を感じられるように、祝日を作っています。
祝日には、大祭日、祭日、祝日、記念日とあります。

大祭日は、復活祭。
祭日は、イエス様や、マリア様、洗礼者ヨハネなど、神様の直接的な働きを感じられるとき。
祝日は、主に、イエス様やマリア様、洗礼者ヨハネなどの出来事や、使徒たちなどの日。
そして、記念日は、主に聖人を思い起こす日です。。

2人も霊名を頂いた聖人の日をおぼえていますか?
旧約の時代からイエス様が生きていた時代、名前は、神様の意図、ミッションを表すものでした。
2人も霊名も神様から与えられたものですから、それぞれの聖人の働きをしっかり把握して、自らの霊名に相応しい生き方をしましょう。霊名の祝日は、それを思い起こすのにとても良い機会ですから、自分の霊名の聖人の日には、記念してお祝いして、自らの生き方について考えてみましょう。

話を戻します。先日の6月29日は、聖ペトロ・聖パウロの祭日でした。
だから、今日は聖ペトロに注目し、聖ペトロを通して、キリスト者の道を一緒に考えていければと思います。
ところで…これでいうと、聖ペトロも聖パウロも使徒ですから、普通、祝日ですよね。でも、教会は、この日を祭日、つまり、神様の直接的な働きを感じれる日としています。

何故でしょうか?
2人は、教会の大きな2つの柱ですね。
聖ペトロも聖パウロもイエス様から直接教会を導くように命じられました。
2人には大きな聖霊の働きがあり、聖霊に導かれ、私たちの礎になりました。それはまさに「神さまの直接的な働き」ですね。今、私たちの教会があるのは、2人の働きによるものと言っていいのかもしれません。
だから、私達は、この2人から多くの事を学ぶ事が出来ます。
特に聖ペトロは、私たちに与えられた最初の教皇です(今、教皇は知っているよね…ニュースにも結構出てくるし、ミサの奉献文のなかでもお名前を言っているよね…………)イエス様に直接教会のリーダーとなることを求められ、全てを捧げ、そのみ旨を果たしました。
イエス様から「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われ、教会の礎となった聖ペトロの働きは、まさに神様の愛の表れに他ならないと思います。

さて…今日は、その聖ペトロの召命の場面を味わい、キリスト者の道を考えてみましょう。
それでは、ルカ福音書の5章1節から11節までを早速朗読してみましょう。

ありがとうございます。
ペトロの召命のシーンは4つの福音書全てに載っています。

ヨハネ福音書(ヨハネによる福音書1章35-42節)では、聖アンデレが、兄弟の聖ペトロに「メシアに出会った」と伝え、2人で弟子になります。ペトロに出会った時、イエス様は、聖ペトロに「ケファ(アラム語で岩という意味)=ペトロ(ギリシア語で岩という意味)」と名付けます。この時にイエス様は、最初の弟子となった聖ペトロを私達弟子のリーダーとして最も低い所に置くことを定められていたのですね。前も離しましたが、教会では高い所にある人ほど仕える者になります。それは、イエス様が、最後の晩餐の時に弟子の足を洗って示してくださっていますね(ヨハネによる福音書13章1-20節)

マタイ(マタイによる福音書4章18-22節)とマルコ(マルコによる福音書1章16-20節)は、イエス様が洗礼を受け、悪霊からの誘惑に打ち勝った後すぐ弟子にしています。
イエス様が「人間を漁る漁師にしよう。わたしについてきなさい」と、聖ペトロに言い、聖ペトロは網を捨て、すぐに従います。
網を捨てるという事は、「仕事」も「家族」も「今までの人生をすべてをなげうって」イエス様に従うということです。迷いも「~~してから」ということもなく、すぐに従います。
別の箇所(マタイによる福音書8章18-22節・ルカによる福音書9章57-62節)で父親の葬式をしてから従うという人や家族にいとまごいをしてからという人に対し、イエス様は「神の国にふさわしくない」と言っています。イエス様は「すぐに」従うことを望まれています。
なぜなら、それは、考えてわかるものではないからです。
イエス様との出会いは、神様との出会いです。神様と出会った人には、大きな変化が起こるはずです。イエス様に従うという事は、まさに聖ペトロがすぐ従ったように衝動によって起こるものです。考えて行動するものではありません。衝動が起こらない時は、神様に出会っていない、イエス様に出会っていないことなのかもしれません。つまり、それは、イエス様を受けれいるという事が出来ていない、それを妨げるものが自分にあるという事ですね。

 

それが、今読んでもらったルカ福音書では、非常に分かりやすく描かれています。
「プロの漁師である」聖ペトロには、「大工の子である」イエス様に「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言われても、「漁れるわけないだろ」とその言葉を受け入れることが出来ません。確かに漁は深夜(午前2時頃から)するものです。その時間でなければ魚は(売るほど)漁れないからです。(今もそうですね)現に聖ペトロ達はすでに漁を終え、片づけをしている最中でした。
人間としての、もっと言えば世の中の常識としては、聖ペトロの方がもちろん正しいわけです。ましてや、その日は、魚は全く漁れなかったのです。
それなのに「大工の子である」イエス様に「もう1度」と、言われれば、当然イラつきすら(なんなら怒りすら)あったと思います。1日の仕事を終え片付けをしている最中に、素人のイエス様に「(漁れるはずもないのに)もう1度漁に出ろ」と言われているわけですから。
この時代、「先生」と呼ばれるような神の道に生きている人のいう事を聞かないわけにはいきません。しょうがなく「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答え、漁に出ます。

しかし、聖ペトロの考えとは、真逆の結果が出ます。
網が破れる程の魚がかかり、聖ペトロの舟だけでは足りず、もう1艘舟を呼んでようやく引き上げられるほどの大量でした。
あまりに大漁で、魚の重みで2艘の船は沈みになりながら、ようやく岸に戻りました。

聖ペトロは、イエス様の足元にひれ伏し「主よ、私から離れてください。私は罪深いものですと、イエス様に回心します。
聖ペトロは何か悪いことをしましたか?
イエス様に怒ったから?

回心というのはどういうことだったっけ?
回心とは、「自分や社会の常識、物質的なものに目を向けていた心を、神様に向ける事」ですよね。
人間は、自分では正しい事をしているつもりでも、それは本当にみ旨なのか……。
自分の中の常識、自分の好き嫌い、自分の能力、世の中の常識、……そういった事だけで考えてしまう時がほとんどです。しかし、祈ることで、神のみ旨を感じ、神のみ旨にそって生きるようになります。そのためには、まず「ありのままの自分」、つまり、自分が神様に造られた小さな被造物である事を思い起こさないといけません。神様を信頼し、神様のみ旨のなかで生きている人が「山に動けと言えば山も動く」のです。信仰を持っている者ならば、出来ない事は何1つありません。(マタイによる福音書17章20節)

聖ペトロは、それに気づいたのです。
自分自身が常識の中にいた。自分自身が自分の考え、自分の能力のなかにいた、自分を中心に置いていた、神のみ旨に生きていなかった事に気付きます。そして、イエス様が特別な方である事に気付きます。

そして、イエス様は、回心した聖ペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間を漁る漁師になる」と、言います。

自らにないものを信頼しなくてはいけないことは、確かに怖い事です。
自分自身の外に出ることは本当に怖くて怖くてたまらない事だと思います。誰だって、自分の知識や自分の知恵、自分の常識のなかで生きている事の方が安心です。
でも、『恐れることはない。』イエス様は、なんどもこの言葉を弟子たちに向かって伝えます。もちろん、この言葉は、私達にも仰っている言葉です。
自らを着飾らなくても良いのです。(ルカ12章22-34節)神様は、私たちに必要なものはご存知です。自らを誇っても、自らに富を詰んでもしょうがありません。大事なことは、誰より優れているか、優れていないかという事ではなく、神様のみ旨にそってどれだけ生きれたかということです。だから、自分が常に小さな者、貧しい者である事を知り、自分が神様に作られた被造物であること、自分が神の道具になる事を知らなくてはいけません。

聖ペトロは、それに気付きました。
それは、まさにイエス様の存在という神秘によるものでした。

イエス様は、聖ペトロに「人間を取る漁師になる」と言います。「なりなさい」ではなく、「なる」といいます。マタイやマルコでは「しよう」と仰います。つまり、神のみ旨によって、聖ペトロは人間を取る漁師になる(してくださる)のです。
全てを捨て、イエス様に従った、弱く貧しい者である聖ペトロが、2000年の歴史をその後紡ぐことになったカトリック教会の礎をつくったことが、それを証明してくれています。

私達も、イエス様に招かれて、洗礼を受けました。
神様やイエス様は、時々私たちに難題をぶつけることがあります。
例えば、リーダーに、自分では無理だと思うようなことを頼まれたりすることがありますよね。
リーダーは、みんなを信頼して、出来ると思って頼んでいます。もちろん、その為の準備や練習の時間が必要かもしれません。でも、出来ます。出来るから頼んでいます。

「出来ない」と思う時、よく考えてみると「したくない」という感情が混ざっていることがありませんか?
「出来ない」と思う時、たとえば、自分の常識とか能力とか、そんな自分の範疇でしかものを考えていない時はありませんか?
「出来ない」と思う時、ものの本質的な目的を見失っている時はありませんか?

頼まれた相手を信頼し、神を信頼し、聖霊の働きを願えば、出来ない事は何1つありません。
あなたがたが私を選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ」(ヨハネによる福音書15:16)と、イエス様は仰っています。
からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない(マタイによる福音書 17章 20節)」のです。

私たちが信じる神様は、いつくしみ深く、死者を復活させる方です。私たちはその証人です。
そして、聖ペトロの信仰のあゆみを知っています。
私たちがキリスト者として生きることは、神のみ旨に従い生きる事です。
聖ペトロを模範として、私達も神様を心から信頼して、それぞれの賜物を活かし、周りの人に仕えましょう。

 

それでは、最後に神様への信頼を示し、主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

次回の勉強会は、9月の第1週です。
夏休みには、錬成会や中高生の集まりもあります。
中高生の集まりでは、それぞれの賜物を活かして、みんなに活躍してもらいます。

教会は、みんなで楽しくするものです。それを実践してみましょう!!