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今日のこどもの奉仕するミサで、ピアノを弾くのが得意な中学生が初めてオルガン奉仕を行いました。

 

事前にオルガン奉仕グループの方々から指導を受け、太鼓判をおされて、ミサに望みました。

 

ミサでは、今日で卒業する教会学校の後輩のために、ミサ曲以外のすべての曲、入祭の歌、奉納の歌、拝領の歌(2曲)、閉祭の歌を弾きました。

オルガン奉仕者の方も、ミサ後、大変褒めてくださいました。

 

中高生の勉強会、堅信のための講座のなかでも、神さまから与えられたタレントをどのように使うかという事を勉強しました。
これからも、自分の頂いた才能を、神様のためどんどん人のために使い、神様との関係、人と人との関係を強くしていきましょう。

ピアノやエレクトーンを弾ける中高生はオルガンの奉仕、歌が上手な中高生は答唱、お話が旨い中高生は朗読、侍者、教会学校…教会は、自分の才能や好きな事を活かす場所が他にもたくさんあります。勇気をちょっと出してくれさえすれば、機会があります。だから、どんどん、自分の好きな事、得意な事を、教会に届けてください。

これからも、中高生のみんなのチャレンジを待っています!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは4人。

今月は、ご復活を迎える前にもう1度、受難・死・復活という私たちの信仰の根幹について学びます。
受難・死・復活を通して、神様のいつくしみをもう1度感じて、自らの洗礼について、考えてみま

しょう。

 

 


 

今月のテーマ

● 神の小羊 ●

 

最近、本当に聖書を開くのが早くなって来たなぁと思います。
前は、すごい時間がかかっていたのに…。
普段の生活の中でも、ちょっとした時に聖書を開いて、御言葉に触れる習慣があるといいですね。ふとした時のふとした御言葉のなかに、大きな気づきがあったりします。聖書はどこをとっても神の言葉ですから、全てが神様の恵みです。

 

さて、今、私たちは四旬節のど真ん中を過ごしています。
今度の4月1日の復活祭に向け、イエス様のご復活をお迎えする前に、もう1度、神様の愛、いつくしみを感じて、私達自身が、洗礼を受けた者として、ご復活の準備を整えましょう。

まず、ヨハネ福音書の3章16節を開いてください。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

神様は、磔刑というもっとも残酷な死を通してたった一人の子供を、私たちのためにその「しるし」として、お与えになってくださいました。
こうして、この十字架は、私たちにとって、神様との繋がりを示す、神様の愛を示す、ものとなりました。

 

では、今日のテーマを思い出してみましょう。
今日のテーマは、神の小羊です。

ヨハネによる福音書1章 29-31節を開いてみましょう。

 

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

 

ありがとうございます。

イエス様が、洗礼者ヨハネのもとに行き、洗礼を受ける時の話ですね。
洗礼者ヨハネは、イエス様を見て、洗礼者ヨハネの弟子たちに「神の小羊」と言っていますね。

それでは、何故、洗礼者ヨハネは、イエス様のことを「神の小羊」と呼んだのでしょうか?「小羊」という言葉の意味にポイントがあります。
過越の話を思い出してみましょう。
出エジプト記12章1-27節を開いてみましょう。

ありがとうございます。
モーセとアーロンに神様は、命じられます。

  • イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない(3節)
  • その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。(5節)
  • イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、 その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。(6-7節)
  • 『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』(27節)

小羊の血を、家の入口に塗ったことにより、神様は、イスラエルの民を過ぎ越しました。小羊を捧げ、そのしるしが、神様とのつながりをもう1度修復したのです。
こうして、イスラエルの民は、主の過越により、エジプトから解放され、十戒を受け、約束の地であるカナンの地(エルサレム)に向かいました。
傷のない小羊をを神様のいつくしみを受け、自由を与えられ、十戒を通して、また強く結ばれた。つまり、ユダヤ人にとって、「傷のない小羊」は、「神との和解の象徴」「神による救いの象徴なのです。
もちろん、イエス様たちも羊を屠り、このユダヤ教の儀式を行います。マルコによる福音書14章12節に「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った」と書かれていますよね。そして、この「過越の食事」が「最後の晩餐」となります。

そう、もうみんな分かりましたか?
「過越の小羊」として、屠られたのは、イエス様ご本人だったのです。

この後、私たち人間は、何の罪もない、そして、神様から全く離れることなく常に神の慈しみを表してくださっていたイエス様を「十字架につけろ!」と言って、ゴルゴダで磔刑にあわせます。
十字架は、まさに「私たちと神様とのつながりを修復し、神の慈しみを受け、自由を与えられ、新たな契約を結ぶしるし」です。
神様は、数々の預言者を送ってくださりましたが、人間は、聞く耳を持たず、神様から離れ神のみ旨ではなく、自分自身の思いの中で生きました。預言者たちを殺す事すら何度もありました。
しかし、神様は、イエス様という、独り子をお与えになったほどに、世を愛されてしました。それがどれ程の愛だったのか、みんなにも想像出来ると思います。

イサクの燔祭をおぼえていますか?
創世記22章1節-18節を開いてみましょう。

アブラハムは、神様が命じるまま、不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを捧げます。
アブラハムの信仰の強さを、感じることが出来ると思います。神様は、それを見て、アブラハムをとめ、私たちと契約を結びます。
しかし、神様がイエス様を私たちのために屠った時は、誰も止めるはありませんでした。公生活を共に過ごした弟子たちも逃げ、イエス様はたった1人で、受難の道を歩みます。

アブラハムだけではないですよね。
イサクも、「自分が生贄なのだ」と、気づいたと思います。しかし、イサクも、抵抗する事無く、自らを神様に捧げる覚悟をしていたと思います。
その苦しみは、想像するに容易いですよね。

人として、御降誕されたイエス様も同じように苦しみます。
マルコによる福音書14章32-39節を開いてみましょう。「ゲッセマネの園」の話です。
弟子たち3人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れ、イエス様は、ゲッセマネで祈られます。

少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」 (35-36節)

 

イエス様が、この後来る受難に対し、怯え、恐れ、出来る事なら、逃げ出したい気持ちでいるのが分かりますよね。私たちと同じように、イエス様も苦しまれます。ルカによる福音書22章44節には、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」とも、この様子が描かれています。
イエス様は、神様に祈られます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」出来る事なら、逃げ出したい。せつに祈ります。しかし、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、神様のみ旨から離れる事はありません。

これは、本当に、私たちにとって、最もお手本になる祈りではないでしょうか。
そして、イエス様が苦しみ、祈られている時、寝てしまっていた3人の弟子たちにイエス様は、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。(38節)」と、仰います。

目を覚ましている。とは、どういう事でしょうか?
実際、寝てしまった弟子たちに言っているわけですから、起きていなさい。という意味にそのまま取れます。しかし、その後に、「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉が続きます。イエス様は、度々、「目を覚ましていなさい」という言葉を使われますね。待降節には、必ず朗読されます。

心は燃えている。これは、聖霊を表しています。
肉体は弱い。 これは、私たち人間の心を表しています。

聖パウロも、その手紙で、「霊(聖霊)」「肉(人間の心)」という表現をよくしています。
つまり、イエス様は、目を覚ましていて、弱い自分の心ではなく、神のみ旨に従う聖霊に従いなさい。常に、聖霊を意識しなさい。と仰っています。
眠くなった彼ら3人の弟子は、まさに「肉」に従ってしまったのです。だから、この後、彼らは、逃げ出し、イエスに躓きます。

イエス様は、み旨に従いました。
まさに、イエス様は、私たちに「霊に従うとはどういうことか」「み旨に生きるとはどういうことか」という見本を見せてくださったのです。
そして、十字架上でイエス様は、「成し遂げられた」(ヨハネによる福音書19章30節)と言って、息を引き取られました。神のみ旨のままを成し遂げられました。

 

 

ミサの時、「神の小羊 世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」(平和の賛歌を)私たちは、こう歌います。
わたしたちの救いのために、神のみ旨に従い、過越の羊となってくださり、十字架上で死を迎えたイエス様に、憐れみと救いを求めます。まさに、イエス様を捧げ、私たちは神様と新たなな救いの契約を結んでいることを表しています。

だから、拝領前の信仰告白…(なんと言いますか?)
……………
主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう。」(ですね)
信仰告白をミサのなかで2回する意味を考えましょう。
なぜ、聖変化、主の祈りの後に、私たちはもう1度信仰を告白するのか?
「あなたをおいてだれのところにいきましょう」と、心の奥底から言えているのか?
イエス様という傷のない子羊、そして、独り子を私たちにお与えになった神様…
いつくしみの深さを知り、もう1度、イエス様のご復活について考え、準備を整えましょう。
では、最後に主の祈りを唱え、終わりにしましょう。

 

 

2017年度の勉強会は、今月で終わります。1年間、どうでしたか?

来年度は5月6日から行います。
来年度もがんばりましょう!




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5月20日・聖霊降臨の祭日に行われる堅信式のための(中高生のための)春期集中講座を下記の予定で行います。
(幼児洗礼を受けた18歳以上の青年もスケジュールが合えば、ご参加頂けます)

 

3月26日 午後1時半より午後4時

内容予定 : 霊印、わたしたちの信じる神様 秘跡について

3月27日 午後1時半より午後4時

内容予定 : 旧約

3月28日 午後1時半より午後4時

内容予定 : イエス・キリスト

3月29日 午後1時半より午後4時

内容予定 : 聖霊降臨、私たちのこれから

 

場所

地下ホール

 

今回は集中講座ということもあり、時間厳守で4回全てに出席して頂きます。
筆記用具、ノートをお持ちください。
代父母をお決め頂き(もし見つからないようでしたら、担当のリーダーにご相談ください)代父母の方々に6月4日の堅信式にご参加頂けるようにお約束を取り付けて頂けるようにお願い致します。

たくさんの参加をお待ちしています。




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは3人。

今月も、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 

 


 

今月は、2つのテーマをやりたいと思います。
何故かというと、求道者の高校生が受けるはずの日曜日の入門講座で今日行う内容「叙階と結婚」についてと、中高生の勉強会で行う予定だった「四旬節」について、どちらも行いたいからです。
全く違う2つのテーマですが、1つのテーマとして考えることも出来ます。
それは、「イエスに従う」ということです。
イエス様も「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(ルカによる福音書9章23節)」と仰っていますね。
今日は、イエスに従うという事を頭の中心に置いて、一緒に考えてみましょう。

 

 

今月のテーマ 1

● 7つの秘跡 叙階・結婚 ●

まず、プリントを見てください。
秘跡が7つある事はみんな覚えていますね。
秘跡とは、神様・キリストとの出会いそのものでしたね。
私たちは秘跡を与ることによって、「私たちが見る事の出来ない神様の愛、存在を感じる事が出来る」ようになります。だから、私たちが一番神様の愛、存在を感じることが出来るイエス様は、原秘跡と言われているのでしたね。(堅信とは? -2016年度 第2回 堅信準備 勉強会-) そして、教会自体が、秘跡(秘跡としての教会 -2017年度 第3回 勉強会-)でもありましたね。

プリントには、入信の秘跡(3つ空欄になっている)・神のもとに立ちかえらせ癒しを与える秘跡(2つ空欄になっている)・交わりや使命を与えられる秘跡(結婚・叙階)と書いてあります。空欄の箇所を埋めてみましょう。(入信の秘跡は順番も大事です!)

では、答え合わせしていきましょう…
入信の秘跡は、洗礼>聖体>堅信神のもとに立ちかえらせ癒しを与える秘跡は、ゆるしの秘跡と病者の塗油。ですね。

 

さて、今日は、7つの秘跡のうち「叙階」と「結婚」についてです。
どちらも神様によって福音宣教のために与えられるしるしです。
十字のしるしが表す通り、私たちは、父である神様、イエス様、聖霊、そして、過去・現在・未来、すべてのキリスト者と繋がった者です。それらの繋がりを強くし、イエス様が私たちに命じたとおり、「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝え」なければなりません。(マルコによる福音書16章15節)
福音(良い知らせ)、つまり、神の国は始まっているのだという喜びを、私たちはすべての人に伝えなければいけないのです。
そのために、私たちは、聖霊を通して、賜物を頂き、また、常に一緒に聖霊とともにあることで、父である神様やイエス様と一緒にいる事が出来ます。
その「しるし」として、教会は、叙階と結婚という2つの秘跡を定めました。ちなみに、この2つとも「堅信」を受けたものしか与る事が出来ない秘跡です。そして、(原則的に)どちらかしか与ることは出来ません。

それでは、1つずつ説明していきましょう。

 

叙 階

聖霊によって、イエス・キリストの祭司職の権能を引き継ぎ、神の国へと導く牧者としての力を受ける

マタイ福音書28章18-20節にはこうあります。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

ご復活後、使徒たちにイエス様はこのように命じられました。
その為に、堅信を受けた召命を受けた者達が、叙階という恵みを頂きます。叙階の際には、しるしとして、司教の按手と油を受けます。

それでは、具体的な叙階の恵みについて1つ1つ説明しましょう。

教皇(ローマ司教) 枢機卿 大司教 司教

司教は、使徒の後継者です。
聖霊降臨の際に、使徒たちがキリストの権能を引き継いだことにより、キリストの祭司職の権能すべてを引き継いでいます。
よって、全ての秘跡の権能をもち、悪魔祓い、聖別、祝別、祝福することが出来ます。
司教しか出来ない秘跡は、堅信と叙階ですね。だから、堅信を受ける際には、司教から受けます。
司教は、教会を聖化し、統治し、私達を導いてくれます。

  • 教皇

    教皇は、使徒たちのリーダーである聖ペトロの後継者です。司教達が集まるコンクラーヴェという選挙で選ばれます。コンクラーヴェは、過半数をとるまで、何度でも繰り返され、長い時は、何週間も決まらない事があります。その間、司教たちは外部との接触は出来ず、神様に祈り、聖霊の助けを借り、投票を行います。
    パパ様という風に私達は呼びますが、これはローマ司教(ローマ司教区の司教)の昔からの呼び名です。今の教皇フランシスコは、教皇と呼ばれる事より、このローマ司教という呼ばれ方を好まれるようですね。それは多分、自らが引っ張るリーダー像ではなく、すべての司教、そして、私達とともに歩むというリーダー像を掲げているからだと思います。
    教皇は、漁夫の指輪をしていますが、これは、イエス様が聖ペトロを召命した時に仰った「人間をとる漁師にしよう」という言葉から来ています。

  • 枢機卿

    教皇の任命により、特にバチカンで何らかの役割に就く司教を枢機卿と呼びます。日本では、先々代の東京教区の大司教だった白柳枢機卿が最後の枢機卿ですね。

  • 大司教 司教

    教皇の任命により、各司教区の責任者となります。教皇も枢機卿も「司教」ですから、当然自分の管理する司教区があります。(パパ様はさっきも話したとおり、ローマ司教区ですね)
    補佐司教は、今は無くなってしまった記録のみ残っている教区の司教です。大司教は、大司教区、日本だと松戸教会も含まれる東京、大阪、長崎が大司教区ですね。司教は、司教区、日本だと札幌、仙台、新潟、さいたま、横浜、名古屋、京都、広島、福岡、大分、鹿児島ですね。ちなみに司教区の名前は、カテドラルのある都市の名前です。だからさいたま教区は、埼玉ではなく、さいたま市という意味で「さいたま教区」なんですね。
    この間いったのは、着座式でしたが。司教叙階式では、頭に油を受けます。おそらく、近いうちに補佐司教の叙階式があるかもしれませんから、その時には是非みんなで行きましょう。

司祭

神父様ですね。
司教によって、しるしを受け、叙階します。先日まで司牧実習に来てくださっていた李助祭も今度3月21日の福岡教区司祭叙階の恵みに与りますね。
司教の協力者として、司教から任命を受け、小教区の管理者となります。初代教会の頃、つまり、聖書では「長老」という人たちが、司祭ですね。
堅信と叙階を除く秘跡、そして、悪魔祓い、聖別、祝別、祝福することが出来ます。司教の権能でも「聖別」と書いてありますが、これは簡単に言うと「聖変化出来ます」という意味です。だから、ミサをあげられるのは、司教と司祭だけです。

助祭

使徒言行録6章1-7節で、使徒たちは助祭を任命します。最初の殉教者と呼ばれ、イケメンでおなじみの聖ステファノも助祭として任命されたのは、この時ですね。
助祭は、英語でいうとDeaconと言いますね。これを直訳すると執事となります。その名の通り、司教によって叙階され、司祭の執事として、共同体に奉仕するのが役割です。
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように(マタイによる福音書28章20節)」という御言葉を体現されている方たちですね。今は、(東京教区にもお1人いますが)終身助祭という方もいて、結婚していても終身助祭として(叙階し)務めることは出来ます。ただ、もちろん司祭には叙階できません。

 

聖霊降臨の時を思い起こしてみてください。
使徒たち、そして、弟子たちは、みんな迫害を恐れ、怯え暮らしていました。
でも、聖霊降臨を受け、使徒たちや弟子たちは、外に出て、福音宣教を始め、たくさんの人々が洗礼を受けました。
叙階された神父様たちは、命をかけ、人生をかけ、キリストに従い、福音宣教して下さっています。勇気をもって、常識的な人生の外に出て、イエス様の道を歩んでくださっています。
そこには、きっと大きな恵みがあると思います。イエス様が呼ぶ「召命」に耳を背けてはいけません。もし…背いたら…嵐にあってクジラに飲み込まれちゃいますよ…

 

ところで、私達信者全員に福音宣教の役割は与えられていますから、みんなも洗礼を受けた時点で共通祭司職についています。
だから、私達は、洗礼を授けることも出来ます(後で主任司祭に報告義務がある)
他にも、司教様から任命されて聖体奉仕者となったり、教会学校のリーダーになったり、侍者をしたり、カテキスタになったり、様々な奉仕を行い、福音宣教に努めなければなりません。何より、私達が生活の中で「キリストを証するもの」でなければなりません。それは、堅信を受けた者の大きな役割です。(堅信を受け、聖霊を受けた私達にはそれが出来るはずです)

 

 

結 婚

神のしるしによって、最も小さな共同体である家族を作り、そのなかで、豊かな成長を促し、歴史の中で神の国の建設に奉仕する

結婚の秘跡は、堅信を受けた一組の男女が神と教会の前で誓いを交わす。その誓いに司祭により受諾と確証を与え、しるしとされます。

イエス様は、「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と仰っています。神様がアダムにエヴァを与えたように、私達は1人では生きていけません。私達の神様は「関りのなか」にいる神様です。関りのなかで、お互いがお互いを成長させ、キリストを証しすることが出来ます。もちろん、子どもが生まれれば、父親と母親を見て、愛を学ぶ事でしょう。

聖パウロのエフィソの手紙の5章には結婚についての聖パウロの教えがのっています。
今の時代の者が読むと、男女差別だ!とか言われそうですが…聖パウロが言いたいことは「隣人を自分のように愛しなさい」という事ですね。キリスト者にとって1番大事な掟を最も表すのがまさに「家族」「夫婦」なんですね。だから、聖家族がそうだったように、家族とは最も小さい教会なのです。自分達がキリストと教会の間にある愛の似姿という認識が必要です。

ちなみに、この秘跡を受けるには条件が3つあります。(もちろん、堅信を受けているキリスト者ということは当然なのですが)

  1. 自由な同意
  2. 生涯にわたり、唯一の相手であることの確約
  3. 子どもの出産に開かれている事(家庭を作る事

 

前に、ある有名人が離婚した時に「家族は作れたけど、家庭は作れなかった」と、記者の質問に答えていました。
私達が作るべきは、家族ではなく、家庭、最も小さい教会だということを忘れないでください。
信者の家族には、イエス様がいらっしゃるのですから。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(マタイによる福音書18:20)」

 

教会は建物のことではなく、私達信者の集まりを言うと前に勉強しましたね。
そして、教会も「秘跡」であるわけですから、私達自身から「神の愛を感じる存在」でなくてはいけません。
叙階・結婚の秘跡は、それを強めます。祈り、イエスの声をきき、イエスに従って行きましょう。

 

 

 

今月のテーマ 2

● 四旬節 ●

 

 

時間もないので、大事なところだけ、話します。

四旬節は、四旬節は46日前から始まります。主日が6回入るので40日になりますね。実際は、聖週間の木曜日の日没まで(カトリック教会の1日は日没から始まる)で四旬節は終わりますから、43日間が四旬節ですね。
祭服は、回心を示す紫色」のものとなり、栄光の賛歌やアレルヤ唱が歌われません。(受難の主日では、殉教を示す赤い祭服が着られます)栄光の賛歌やアレルヤ唱は、お祝いを意味する歌ですから、受難を黙想するこの時期には相応しくないからです。

四旬節は、イエス様のご復活を準備する機関であると同時に、初代教会の頃から、洗礼を準備する期間とされてきました。
イエス様のご復活を祝う復活祭(復活の聖なる徹夜祭)に洗礼を受けるのが相応しいとされてきたからです。
なので、信者、そして、求道者は、四旬節の間に以下の事が求められます。

  1. 自らの洗礼を思い起こす。そして、洗礼志願者を共同体に迎い入れる準備をする期間。洗礼志願者のため、共同体のために祈る期間。
  2. 求道者は、しかるべき主日に志願式を行い、志願者となる。自らがキリスト者になる準備を行う。

 

その為に、四旬節の朗読箇所も設定されています。

主日 テーマ
灰の水曜日 回心して福音を信じる
四旬節第1主日 回心への導き
四旬節第2主日 イエスはキリスト、神の子である
四旬節第3主日
四旬節第4主日
四旬節第5主日  火(命)

 

四旬節第3主日、第4主日、第5主日は、特に洗礼志願者のための主日とされています。
復活の聖なる徹夜祭のなかでテーマとしておかれる「水(洗礼)・光(神・復活)・火(復活ろうそく)」を、それぞれ1つの主日ごとにテーマとしておかれ、私達が、より深い理解のもと、受難・死・復活という過越の神秘を味わえるように準備されています。
みんなは、求道者の高校生を、「キリスト者として」「私達の共同体」にどう迎い入れるか、もう1度考えてみてください。そして、無事、洗礼、そして、私達の新しい兄弟姉妹となるようにお祈りして下さい。

四旬節は、本当に大事な時期です。
イエス様の受難・死・復活という私達の希望の根源をもう1度振り返る時期です。
イエス様が、洗礼を受けた後、40日荒れ野で過ごしたお話をもう1度黙想してみましょう。

この40日間「祈り・断食・施し」という3つのことを私達は求められています。
イエス様が、40日荒れ野で過ごした時にそうされたようにです。

人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(申命記8章3節)

悪魔の誘惑を受けた時、イエス様はこう仰いました。
神様に祈り、本当に必要な分だけを食べ、他はそれを本当に必要にしている方々、そして、神様に捧げる。四旬節の節制(祈り・断食・施し)は、そういうことを意味します。
それはまさに「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」というイエス様が教えてくださった最も大事な2つの掟を守る事そのままですね。

共同回心式もありますが、みんなも四旬節中にゆるしの秘跡に与りましょう。イエス様のご復活の時に、相応しい自分でいましょう。

 

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい

このイエス様の言葉の意味をもう1度味わいましょう。
これから始まる四旬節を通し、キリスト者として、そして、何より新しい仲間を迎い入れるという事をもう1度考えてみましょう。

 

それでは、最後に主の祈りを唱えて、終わりにします。

 


 

来月の勉強会は3月4日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。来月は、今年度最後の勉強会です。是非観んな集まってください!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは4人。(写真を撮った時には遅刻していていませんでした…)

今月も、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 

 


 

今月のテーマ

● キリスト者の掟 ●

 

今月も、求道者の高校生が参加するということで、これから洗礼を意識したものにしたいと思います。
ところが、主の公現のミサの準備があっていつもよりも時間がありません。30分くらいで終わる感じにしたいと思います。

 

さて、今日から教会学校は、3学期が始まります。
教会学校では、「教会学校の掟」というものをリーダー達で作りました。「教会学校のメンバーとして、そして、キリスト者としてこうしてもらいたい」というリーダーの思いを、12のルールに込めました。(すごく当たり前のこと過ぎて、みんなが聞いたら笑っちゃうようなことです)今、リーダーが始業式のなかで、1つ1つ説明してくれています

さて、イエス様の時代にも、同じようにルールがありました。
サドカイ派やファリサイ派らの律法学者が聖書の「トーラ(モーセ五書)」を研究し、作った613もの「律法」という厳しいルールです。
ルールのそもそもの目的は、なんでしたでしょうか?

神様が、アブラハムと契約を結んだ時、神様はまず「私たちを幸せにする」と宣言し、その後に「神様を信じること」と言います。決して、「信じる代わりに幸せにする」と言ったわけではありません。(アブラハムの話はいつかしっかり勉強したいですね)神様は、何か条件があって、その代償に「幸せにしてくれる」わけではないのです。神様は、無条件に「私たちを幸せにする」方です。

 

プリントの1番上に書いてある言葉は、イエス様が私たちに残したたった2つの掟です。
律法学者との論争のなかでも、イエス様は、この2つを最も重要な掟として仰っていますね。

  • 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい
  • 隣人を自分のように愛しなさい

 

最初の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は、申命記6章 4-5節に書かれています。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」は、レビ記18節に書かれています。どちらも律法のもとになっている「トーラ(モーセ五書)」に書かれている言葉です。
イエス様の時代、イエス様も律法学者も同じ所を読み、同じ箇所を大事としているにもかかわらず、いつのまにかそもそもの目的を忘れてしまい、「律法を守ることが善い事」としまいました。「律法を守るから、神様が私たちを救ってくれる」と考える律法学者と、無条件に私たちを幸せにしてくれる神様(イエス様)、そこに大きな違いがありますね。

大事な事は、私たちが神様を愛したから、私たちが善い行いをするから、神様が愛してくれるのではなく、神様がまず私たちを愛して下さったということです。
イエス様も「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない (マルコによる福音書2章27節)」と、言っていますよね。
神様が下さった掟は、私たちを縛るためのものではなく、私たちをより自由にするため、そして、幸せにするためにあるのです。

 

では、この2つを大きな1番の掟として、モーセを通して、神様が下さった「十戒」を見てましょう。
十戒に関しては、前にやったことがあります。おぼえていますか?

プリントには、十戒が書いてあります。が、3と4の間に線を引いてください。
1から3が、「あなたの神である主を愛しなさい」について、4-10が「隣人を自分のように愛しなさい」についての決まりです。
十戒は、神様が、どうしても神様から離れてしまう私たち人間のために、具体的にどのようにすれば神様から離れずにすむかを、教えてくださったものです。

これも、「十戒」を守る人間を愛すると言っているのではありません。
まず、神様が私たちを愛しているがゆえに、教えてくださったのです。

それでは、1つ1つ簡単に解説していきましょう。

 

あなたの神である主を愛しなさい

  1. わたしはあなたの主なる神。
    わたしのほかに神があってはならない。

    私たちは、あらゆるすべての事よりも「神様を第1」と、しなければなりません。それは、「自分を含めて」です。自分の主観、欲望、自分自身の(神様から見ればはるかに)浅はかな知恵に頼らず、自分の中の正義ではなく、まず、神様に主を置き、物事を進めなければなりません。聖パウロも、「肉(自分)に従うのではなく、(聖)霊に従いなさい」と言っていますね。私たちは、神様と繋がる事で初めて生きられる小さな存在です。自分自身のプライド、知識、常識、正義にこだわり、神様のみ旨から離れてしまうならばそれを捨てるべきです。(マタイ18章6-10節)また、お金や物、権威に支配されてしまわないようにしなければなりません。「~~がなければ生きていけない」というものは、神様以外には存在しません。

  2. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

    神様は、私たちにモーセを通して、「わたしはある」という名前を教えてくださいました。(出エジプト記3章14節)
    私たちに名前を教えてくださったのは、私たちへの信頼があるからです。だから、「神様」の名のもとに、自分の正義を押し通そうとしてはいけません。「神様」の名のもとに、相手を非難してはいけません。それは、神様の信頼を裏切るものです。神様の慈しみや知恵が私たち人間には及びもつかないものにもかかわらず、私たちはその名を使い、人を裁いてはいけません。また、何より神様の存在を忘れかけた私たちに名前を教えてくださる事で、その存在を教えてくださいました。ユダヤ人社会では、名前はアイディンティティを示すものでしたよね。「出来ない事は何一つない」「慈しみ深い」「存在する」という意味の名をもつ神様がいるという事の喜びを味わいましょう。そして、賛美し、感謝しましょう。

  3. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

    イエス様の時代、主の日とは安息日と言われていました。安息日は、創造の時に「7日目に休まれた」ことを記念します。イエス様が「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない(マルコによる福音書2章27節)」言っているとおり、安息日は、神様が私たちのために用意したものです。私たちは、普段の生活の中で一生懸命働いたり、勉強したりして、生きています。時には、休息も必要です。私たちが、心も体も健康な状態だからこそ、働けることをご存知だからです。イエス様がご復活された後、安息日は「主の日(主日・日曜日)」となりました。日曜日は、ミサに与りますね。1週間生活してきた全てを捧げて、また、神様のみ旨のもとに生きるようになるためです。だから、例えば、体調が悪いのにミサに与るのは違いますよね。ミサに与ったことで、死んでしまった。それでは、本末転倒です。この日は、神様に感謝し神様を賛美する日です。

 

隣人を自分のように愛しなさい

  1. あなたの父母を敬え

    お父さんやお母さん、お祖父さんやお祖母さんを敬いなさい。そして、親は子どもの人権をしっかり守りなさい。つまり、家族を大事にしなさい。という意味そのままですね。
    「家族は、最も小さな共同体」です。家族の中で「隣人を愛する」ことが出来なければ、家族以外の人たちを愛する事が出来るでしょうか。家族の中で、学べるものは多いです。年長者への尊敬、年少者へのいたわり、愛情、尊敬、感謝、様々な事が学べるはずです。そして、私たちが成長する、そして、存在するには、他者の存在が不可欠です。食事を作ってくれたお母さん、その食事の材料をスーパーマーケットまで運んだ人、材料を作ってくれた人…そう考えていくとすべての人と私たちが繋がっていることに気付きます。そういう人たち、すべてのおかげで私たちは生きているのですから、他者に感謝の気持ちを持たなければなりません。

  2. 殺してはならない。

    これも「殺してはならない」という意味そのままです。
    私たちは、神様によって造られました。そして、私たちだけではなく、この世のすべては、神様によって、造られました。それらを「殺す」ことは、神様を冒涜する事です。それらは、自然を壊す事、地球の環境を破壊する事も一緒ですよね。神様が造ってくださったものを大事にし、神様への感謝を忘れることがあってはいけません。そして、直接的に殺すという意味だけではなく、「わたしは在る」という名の神を信じる私たちは、聖ペトロがイエス様を「知らない」と言って、「関わり合いをなかったこと」をしてしまった事が罪である事も知っています。私たちは「関わり合い」のなかで生きています。その人を知らない、なかったことにする、無視する、これらの行為も「殺す」事と一緒です。

  3. 姦淫してはならない。

    この世の中には、男と女がいます。どちらが上とか下とかいうことはありません。神様がアダムにエヴァを与えたように、お互いがお互いのために存在しているのです。出会いがあり、お互いへの愛が生まれ、私たちは、恋愛をしたり、結婚したりします。やがて、子どもが出来ることもあるでしょう。そういうプロセスのなかで、男にないものを女が与え、女にないものを男が与え、私たちを成長させます。だから、誠意をもって、しっかりとした恋愛をしてください。お父さんやお母さん、周りの人が、悲しむようなことはしないでください。

  4. 盗んではならない。

    人の努力してえたものや大事にしているものを、盗むことはいけません。これは、例えば、アイディアなんかも含みます。もしみんなが社長になって、その人の働きに相応しい対価を与えないならば、それも「盗み」です。他にも神様が造った自然を壊す行為も「盗み」ですね。自然環境を壊すことは、他の動物たちが生きていけないようにすること、そして、未来の人たちから、美しい自然や豊かな環境、自然の恵みを奪うことに他なりません。創造の時、神様は私たち人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。(創世記1章28節)」と仰いました。 この「支配」という言葉、英語では「govern」という言葉が使われています。日本語訳では「支配」ですが、governには「管理する」という意味もあります。私たちは、自然を思うがままにしてよいのではありません。あくまでお預かりしたものですから、恵みを頂きながら、次の世代に受け渡すことが大事です。また、私たち日本人は、世界でGDP(国民総生産)が3番目の、非常に豊かな先進国の国民です。私たち先進国の人間がどれ程恵まれているか…私たちは覚えていないといけません。みんなの年くらいまで生きれることや、みんなみたいに電気や水道やインターネットががスイッチ一つで手に入る国は世界にはそれほどありません。前に1%(豊かな人々)と99%(搾取される人々)という話が話題になっていましたが、私たちは「1%」の人間だという事を認識しておくべきです。だからこそ、私たちは今「苦しんでいる人々がいる」という想像を途切れさせてはいけません。その事を忘れてしまったら、それは「盗んでいる」事と一緒だと思ってください。

  5. 隣人に関して偽証してはならない。

    ウソにもよいウソがありますよね。たとえば、本当のことを言ったら、悲しむ人がいる場合、自分の胸に納めておいて、ウソをつくことは、悪い事ではないと思います。ただ、人を傷つけたり、自分がした悪い行為を隠すためのウソはダメですよね。みんなそれは分かっていると思います。他にも、故意に間違った情報を流したりしまう事は、どうでしょうか?自らが発信者になれる時代だからこそ、私たちはこの事について、しっかり考えなければなりません。また、「物事の本質から目をそらしてしまうこと」はどうでしょうか?神様と真に向き合う事が出来ないようなことはしてはいけません。ましてや、自分を守るためにするなら、余計に悪いです。自分自身に対するウソも一緒です。たとえば、「いじめられている子がいる。でも、見なかった事にしよう」「ゴミが落ちている。でも、みなかったことにしよう」自分自身に嘘をついたことは、他の人は分からなくても自分は分かると思います。「怠り」も罪です。

  6. 隣人の妻を欲してはならない。

    もし、Aちゃんの彼氏をBちゃんが奪ったら、2人の関係はもうメチャクチャですよね。2人だけではなく、周りの人間も巻き込んで、全てが壊れていってしまいます。私たちは関りの中で生きています。そういうものを破壊することがあってはいけません。私たちは、時に欲望が暴走してしまうことがあります。欲望が暴走している時、私たちは本当の自分から離れ、別の生き物になってしまったかのようになってしまいます。神様が与えてくださった自分自身を信じてください。自分のポケットのなかに、必ず本当に自分に必要なものが入っています。自らの分を知り、恥を知れば、自ずとそれがわかるはずです。(恥ずかしいからいろんなことをしないという意味ではないですよ…中高生の出し物、期待しています…)

  7. 隣人の財産を欲してはならない。

    私たちが求めるべきなのは、神様の愛であって、それ以外はありません。相手の持っている物は相手が持っているから素晴らしいのであって、自分が持っていたら、そんなに大したものではないのです。神様は本当に必要なものは与えてくださいます。だから、お祈りして下さい。神様の愛を求めてください。物やお金だけじゃないですよ。
    Aちゃんは目が大きくて可愛い…Bちゃんはなんであんなに頭がいいんだろう?…なんで、神様は私にC君みたいにピアノを上手に弾く力を与えてくれなかったのだろう…?そういったものもいけません。神様は、もう充分にみんなに与えています。イエス様は「貧しい者は幸いである」とおっしゃいました。力がないと自分で気づくことで、もっていないものほど、神様は愛してくださいます。むしろ、持たない自分を誇ってください。

 

 

どうですか?
実はそんなに厳しい掟じゃないですよね。でも、簡単ではありませんよね。でも、逆にこの十戒を破っていたら、神様から離れているのだなって感じれることが出来ると思います。その場合は、ゆるしの秘跡を受けましょう。「神様を信頼して、お祈りして、神様のみ旨を尊び、感謝の気持ちをもつ」ことが出来れば、破らないでいいのかなっておもいます。

 

さて、この十戒を踏まえたうえで、教会には5つの守るべき掟があります。十戒が理解出来れば、この掟も「当たり前」じゃないと思うと思います。
十戒が理解できたみんなには分かるはずです。
この5つの掟も『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』そして、『隣人を自分のように愛しなさい。』という掟、十戒にそったものです。信者としてこの5つの掟はまもりましょう。

 

  1. 主日と守るべき祭日(主の降誕神の母聖マリア復活の主日)にミサに参加し、その日の特徴を傷つけるような仕事や活動を休む事

    十戒の1~3が理解出来れば、この理由は、簡単ですよね。
    日曜日は、神様に感謝をささげる日ですから、神様に全てを捧げる日です。ミサに与り、み言葉を味わい、ご聖体を頂くことによって、共同体との関りをより強いものとしていきます。ミサに参加出来なくても、「神様を第1にする日」にすればよいです。逆に言えば、神様を第1にすれば、自ずとミサへ参加する事になると思います。

  2. 少なくても、1年に1度ゆるしの秘跡を受ける事

    どうしても神様から離れてしまう私たちは、1年に1度はゆるしの秘跡に与らなければなりません。1年に1度も罪をおっていない人間はいないと思います。イエス様が教えてくださった2つの掟を守るために、神様や隣人との関係のなかに戻っていくことはとても大事なことです。放蕩息子(ルカによる福音書15章11-32節)のように、恐れることなく、心待ちして、大喜びで出迎えてくださる神様の所に戻りましょう。

  3. 少なくても復活節の間に、ご聖体を受ける事

    ご聖体を頂くことは、神様を感じることのできる大きな「しるし」を体験する事です。
    復活節は「イエス様のご復活」を記念する期間に、その「しるし」を体験する事は、私たちがイエス様のご復活、そして、私達自身が永遠の命をえるという大きな希望を信じるうえでの大きな助けになるはずです。
    もし、久しぶりにミサに参加してご聖体を頂く時は、ゆるしの秘跡を受けて、ミサに与りましょう。大事なお客様をお迎えするときに家を綺麗にするように、イエス様をお迎えするのですから、私たちもそれにふさわしい状況になっていなければなりません。(おじいさんやおばあさんの時代は、これは厳格に守られていました)
  4. 教会が定めた断食の期間と大斎・小斎の日を守る事

    大斎 日に1回だけの十分な食事とそのほかに朝ともう1回わずかな食事をとることができ、満60歳に達するまでのすべての成人が守ります。
    小斎 肉類を食べないことですが、各自の判断で償いの他の形式、とくに愛徳のわざ、信心業、節制のわざの実行をもって替えることができ、満14歳以上の人が守ります。

    教会が定めた断食の期間で、パッと思いつくのが、四旬節ですね。今年は2月14日から始まります。
    四旬節では、毎年、節制(祈り、断食、慈善)し、イエス様のご復活をお迎えする準備を整えます。この3つが1つになる意味がわかりますか?私たちは、普段、本当に必要でないものまで、自分のものにしていませんか?私たちが、断食する事で、貧しい人たちに本当に必要なものが渡る事もあると思います。そして、満足することで、神様への感謝を忘れている時もあります。この期間を通し、十戒の「盗んではならない」や「隣人の財産を欲してはならない」という事をもう1度考えてみましょう。
    人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」のですから、神様の御言葉を思い起こし、隣人を愛せと命じられた神様・イエス様のいつくしみを、他の人々にも伝えましょう。

  5. 教会が必要とする物質的な支援をすること

    物質的とは、お金やモノだけではなく、奉仕なども含みます。キリスト者は、常に祈り(霊的)と行動(物質的)が、求められています。どちらが欠けてもダメですよね。
    世界中の人々のため、身近な、目の前にいる、貧しい人々のため、可哀想な人々のため、みんなが出来ることをしてください。「隣にいる事」を感じさせてあげてください。
    たとえば、教会学校は、毎月信者の方々が払ってくださる月定献金からお金を頂き、みんなは錬成会に行ったり、パーティをしたり、プリントやテキストを作ったり、出来ています。教会の皆さん、全員に支えらています。そして、教会学校の子どもたちのために、お祈りもしてもらっています。クリスマスに聖劇をすれば、たくさんの方々が見に来てくださいます。
    それは、なぜでしょうか?隣人、つまり、教会学校の子どもたちであるみんなを自分のように愛して下さっているからですね。
    教会の皆さんが、私たちを隣人にして下さっている時、みんなは、どうしますか?他人のままですか?
    教会は、教会自体、つまり、私たち1人1人が「秘跡」です。
    私たちに出会った人が、教会に来た人が、神様を感じれるような行動を行いましょう。

 

 

さて、少し早いですが、今日はこれで終わりです。
今日は、教会学校の1年生が、東方の3博士になって神父様と一緒に入堂します。着替えのお手伝いをお願いします。

では、最後に「主の祈り」を唱えて終わりにします。

 

 

 


 

来月の勉強会は2月4日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。
来月も、求道者のための内容にします。みんなももう1度自分の信仰について基礎から考えてみる良い機会です。
是非集まってください!