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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは6人。

今月も、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● 主を待ち望む姿とは? ●

 

今月も、求道者の高校生が参加するということで、入門講座の内容に合わせて行おうと思います。
今日配ったプリントは、金曜日の入門講座で使われたレジュメです。今、洗礼を希望されている信徒の方が一生懸命勉強しています。
みんなは、赤ちゃんの頃に洗礼を受けているメンバーがほとんどですが、日曜日と金曜日の勉強会に出ている人は一生懸命勉強して、洗礼を受けます。入門講座を受講して、洗礼を受ける人たちは、このくらいの知識を得て、洗礼を受けます。みんなも負けないように頑張りましょう。

 

さて、もうすぐクリスマスですね。
先月の勉強会の内容をおぼえていますか?

昨日の日没から待降節が始まりました。今日から教会の新しい1年が始まります。
聖書の朗読は今年度はB年で、今日の主日から福音書はマルコ福音書が朗読されます。

さて、待降節は、イエス様をお迎えする準備をする期間です。
だから、司祭の祭服も回心を意味をする紫色となるのでしたね。
来週の主日(待降節第2主日)のミサでも「主の道を整える」をテーマに朗読の箇所が選ばれています。今日は、私たちがどのように主の道を整えればよいか一緒に考えてみましょう。

 

その前に「主がご降誕される」事の意味、私たちが「イエス様を待ち望む」とは、どのようなことかもう1度おさらいしてみましょう。
待降節のイエス様を待ち望むという事は、実は2つの意味があるのでしたね。
1つは、「イエス様のご降誕」、そして、もう1つは「イエス様の再臨」です。

 

  • イエス様のご降誕

その言葉が示す通り、「神が人となられた」という事につきます。
神様は、たった一人の御子を私たちのために、人として産まれさせました。(神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネによる福音書3章16節))
ヨハネ福音書の1章14節には、このように記されています。
言葉は肉となって、私たちの間に宿られた
「言葉」は、イエス様、そして、「肉」とは私たち人間を表します(聖パウロの手紙にもよく肉という表現がされていますね。)「私たちの間」とは、人と人との間、神様と私たちの間という意味です。神様、そして、私たち人間同士の間にイエス様が存在するにより、私たちの関係は修復されます。

これらのことを難しい言葉で「受肉の神秘」と言います。
受肉の神秘は、以下のことを私たちに与えるために行われたものです。

  • 原罪をおった(神からどうしても離れてしまう)私たち人類と神様を和解させるため
  • 神様の愛を人間に示すため
  • 人間の聖性の模範を示すために
  • イエス様を通して、私たちが、神の子となり、神の国の住人となるため

ところで、この4つを聞いた時、何か気づくことはありませんか?
イエス様の御降誕は、「イエス様の十字架の上での死」と同じような意味を持っていると思いませんか?受難・死・復活を勉強した時にも同じことを話しましたよね。おぼえていますか?イエス様の御降誕は、私たちの救いの始まりであり、神の国の始まりです。ご降誕と十字架上での死、つまり、わたしたちの救いをイメージすることが出来ます。
と、考えると少し切ないですね。そう考えることでより神様の慈しみを感じることが出来ますよね。

  • イエス様の再臨

イエス様が昇天された時、天使たちが使徒たちに「あなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります(使徒行伝1:11)」と伝えています。世の終わりにイエス様は、また私たちの所にきます。その時、私たちは、最後の審判にあい、神の国に入る者、入れない者に分けられます。
再臨、最後の審判に関しては、また今度ちゃんと勉強したいですね。
覚えておいて欲しい事は、最後の審判は「私たちを不幸にするために行うものではない」という事です。神様は、私たちを神の国の住人したいのです。だから、むしろ「神の国」の住人になるか、ならないかは、私たちに委ねられています。神様は、アブラハムを通して私たち人間を幸せにするために何の見返りもない契約を結ばれました。ただただ私たちの幸せを願っています。そのいつくしみに感謝し生きれば自ずと神の国の住人になるのではないでしょうか?
そして、1番重要な事は、神の国がイエス様の再臨によって完成するということです。

 

さて、では、神の国がどんな世界かもう1度思い起こしてみましょう。
もう何度も朗読している箇所ですね、イザヤ書の11章1節から10節までを朗読してみましょう。

ありがとうございます。
この箇所では、3つのことをみんなに考えてもらいたいと思います。

  • イエス様がキリストであること

エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊。
イザヤ書の11章1-2節
(この話も何度もしていますね)
エッサイというのは、ダビデのお父さんの名前ですね。つまり、キリストはダビデの子孫から現れるという預言です。
マタイ福音書の1章1節から17節でも分かる通り、聖ヨセフはダビデの子孫です。つまり、ヨセフの子として育てられるイエス様を指しています。
イエス様こそ預言されたキリストである。という事です。
  • キリストが来ることでどのような世界が起こるか

3節から10節までは、神の国が完成した時どのような状態になるかを予言しています。
この事を一言で表すと「平和」と表現できます。
この平和という言葉は、多分みんながイメージする平和とは少し違います。ここで表される平和は「主の平和」つまり、神様による平和です。
「その者の(たとえば、獅子が獅子として、毒蛇が毒蛇として)アイディンティティを保ちながらも、完全な調和がなされている状態です。教会が言う平和とは、そういう事です。
神の国が完成すれば、私たちは、各々が自由でありのままの自分でありながら、完全な調和がなされた世界に住むことが出来ます。

  • イエス様を待ち望む姿

エッサイのからひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち…

株ってどういう状態ですか?「切り株」というとわかりやすいですかね。
この預言が書かれた時代は、イスラエルの北王国がバビロニアに滅ぼされ、南のユダ王国も属国状態になっている状態でした。つまり、ユダヤ人たちは「切り株」のように何もかも失っていた状態といっても過言ではありません。しかし、その切り株から「芽が萌いで」ます。イエス様が来られるのです。
逆に言えば、「真にキリストを迎い入れるには切り株にならなければならない」とも言えます。
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい(マタイによる福音書 19章 24節)」とありますよね。
神様やイエス様を待ち望む心というのは、切り株になった時初めて生まれるものなのかもしれません。
財産だけではなく、才能、そして、ある意味において家族すらも、自らの全てを捧げて、イエス様に従うこと。それが私たち信者に求められていることです。(ルカによる福音書9章57-62節)家族にしても、自分の才能に関しても誰が与えてくださったのでしょうか?今、ここにいる自分は本当のありのままの、切り株になった自分でしょうか?囚われている自分を解放して、初めて神様を受けれいることが出来ます。それは、とても怖い事でしょう。でも、「恐れることはない。ただ信じなさい(マルコ5章 36節)」とありますね。
自分を主に置かず、神様に主を置くことが、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』という事です。神様のいつくしみを心から信じることが出来れば、それが可能になるのではないかなぁと思います。

 

 

それでは、イエス様の御降誕のお話を朗読してみましょう。
ルカ福音書の2章1節から14節を読んでみましょう。

ありがとうございます。
もう何度も経験したクリスマスの朗読箇所です。
まず、何か気づいたことがありませんか?

………

そうですね。
この天使たちが言うセリフは、「栄光の賛歌」の冒頭の部分ですね。
毎週歌っている(待降節や四旬節では歌いませんが)栄光の賛歌はここから引用されています。つまり、イエス様がご降誕された事を喜び味わう歌なんですね。

さて、この天使たちは、だれに伝えていますか?
「羊飼い」ですね。羊飼いは当時ユダヤ人社会の外にいる、つまり、普通には生きていけない人達でした。
つまり、「誇るモノもお金も社会的地位も生活の基盤も何も持っていない人々」でした。まさに「切り株」に近い状態ですね。そして、聖ヨセフやマリア様も決して裕福とは言えない普通の家でした。
そして、みんなも知っている通り、何軒もの宿屋に断られて、ようやくベツレヘムの町の外にある馬小屋でご降誕され、飼葉桶に寝かされました。

なぜでしょうか?
出来ない事は何1つ無い神様は、なぜお金持ちや王様、祭司の家の子としてイエス様をご降誕させなかったのでしょうか?なぜお城のふかふかのベッドの上で寝かされなかったのでしょうか?なぜ天使達は王様や祭司たちにそれらを告げなかったのでしょうか?

そして、イエス様は、エルサレムの外の丘で、磔刑という当時もっとも残酷な処刑方法で死にました。
ベツレヘムの外で生まれ、エルサレムの外で死にました。

何故でしょうか?
それは、神の愛(神様のいつくしみ、そして、恵み)は、その始まりから最後まで、持たない者(切り株)達が、最初に手にいれられるものだったからです。

 

 

「切り株になる」事の意味が分かりますか?なぜ切り株にならないといけないか、が分かりますか?
それがどのようなことか、マリア様がそれを示してくれています。

では、ルカ福音書1章26ー56節を朗読してみましょう。

ありがとうございます。
受胎告知のシーンと、マリア様が洗礼者ヨハネの母エリザベトを訪問するシーンですね。

このシーンを読んで気づくことはありませんでしたか?

……

そうですね。
大天使聖ガブリエル、そして、エリザベトが言ったセリフは、「アヴェマリアの祈り」に使われている部分ですね。

マリア様は、受胎告知を受けました。
この時のマリア様の年齢は、ちょうどみんなと同じくらいです。
想像してみてください。
ある夜、自分のもとに大天使聖ガブリエルが訪れて、イエス様の母となることを告知されることを…

マリア様は、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と聖ガブリエルに答え、自らの人生すべてを捧げました。
家族もこれから勝ち得るモノも、これからの人生で起こる様々なことを全て捧げ、神様のみ旨に従うことを選びました。
そして、身重だったにもかかわらず、エリザベトを訪問し、エリザベトの世話をします。

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさいまた、隣人を自分のように愛しなさい」というイエス様が仰った掟を「自分を捨てて」守っていますね。
きっと、マリア様に「守る」という意識はなかったでしょう。
なぜなら、マリア様は生まれながらに罪なき方(無原罪)だからです。言いかえれば、マリア様は、「神様のみ旨から決して離れることのない」方だからです。
切り株になるとは、まさにこういうことです。

 

待降節の間に是非ゆるしの秘跡に与ってください。
12月9日には、共同回心式が行われますし、自分のタイミングで神父様に告解をしてもいいです。
切り株となって、神様のみ旨に従い、イエス様の御降誕を一緒にお祝いしましょう!

12月24日は、みんなミサに与ってください。
聖劇やミサの練習も手伝ってくださいね!

 

では、最後に、折角ですから、「ガブリエル」の霊名をもつ高校生にアヴェマリアの祈りを先唱してもらって、終わりにしましょう。

 

 

 


 

来月の勉強会は1月7日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。
来月も、求道者のための内容にします。みんなももう1度自分の信仰について基礎から考えてみる良い機会です。
是非集まってください!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは3人。

今月も、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● 教会暦 ●

 

今月も、求道者の高校生が参加するということで、入門講座の内容に合わせて行おうと思います。

さて、今日は、教会の暦について勉強します。
教会学校の方でも、今週から聖劇の練習が始まります。聖劇は、去年と同じようにクリスマスミサの前に行います。

ところで、教会の1年がもう少しで終わるのは知っていますか?
今度の12月2日で1年が終わります。普通の暦より約一か月早いですよね。
カトリック教会で最も大事な日、特別な日はいつですか?
そうですね。復活祭、復活の主日ですね。
復活祭は、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日となっているので、(理由は前に過越について話した時に勉強しましたね)毎年、違います。
それに合わせ、1年の暦が決まりますから、毎年、暦が変わってきます。
今度の11月26日の「王であるキリスト」の祭日が、カトリック教会では、1年最後の日曜日になります。
だから、イエス様が、もう1度来られる(再臨する)終末の時、つまり、神の国が完成することを待ち望み、喜び、お祝いします。

でも、同時にその時は、私たちが真に裁かれる時でもあります。
神様のみ旨に沿い生きているか、生きて来たかが問われます。羊と山羊に分けられ、羊しか神の国に入る事は出来ません。
だから、常に「目を覚ましていなさい」とイエス様はおっしゃいます。いつ、イエス様がいらっしゃるかわかりませんから。
年間第32主日、33主日、王であるキリストは、イエス様の再臨に向けて準備する期間なのです。

 

さて、では、プリントを見てください。
プリントに教会暦を書いておきました。今から説明するので、メモしてください。
1つ、大事な事を覚えておかないといけません。
中東の1日は、日没から始まります
つまり、日曜日は、土曜日の日没から始まります。よって、教会も当然イスラエルの伝統に従いますから、どのように1日が始まります。

 

 

待降節

期 間 待降節第1主日 - 主の降誕の日の日没まで 祭服の色
 教会の1年の始まりは、待降節から始まります。
待降節、「待つ」「降りる」節。つまり、イエス様の御降誕を待ち望み、準備する期間です。
祭服の色の紫には、「回心する」という意味があります。
目を覚ましていなさい
イエス様がいつ来られるか、私たちは分かりません。
回心し、ゆるしの秘跡を受け、神様のみ旨に沿い、イエス様をお迎えする準備をしましょう。
この期間は、冬の静寂のなか、徐々に主の御降誕への気持ちを高める様々な用意がされます。クリスマスの飾りつけもそうですね。
サントン人形を馬小屋に並べたり、アドヴェントカレンダーを用意したりアドヴェントクランツに主日ごとに火を灯したり(侍者をする時は火をつける蝋燭を間違えないようにしないとダメですよ!)……
イエス様のご降誕は、神の国の始まりであり、救いの始まりです。

 

 

降誕節

期 間 主の降誕 - 主の洗礼 祭服の色
イエス様がご降誕された後、イエス様が神の子であり、キリスト(メシア)であることを表す期間です。
祭服の色の白には、「神の栄光」という意味があります。
神様の栄光、神様の愛がまさに表されている期間ですね。信徒が守るべき5つのことのなかに3日は、必ずミサに与りなさい。という日がありますね。
そのうちの2つが、この期間にあります。
主の降誕の祭日(12月25日)と神の母聖マリアの祭日(1月1日)ですね。

主の降誕

イエス様が神の子とご降誕され、神の愛が示された時

聖家族

イエス様・聖ヨセフ・マリア様の家族こそ、私達信徒の見習うべき、共同体の姿です。
家族は、小さいな共同体であり、父・母・子、そして、信仰を家族で育てることの意味を現わしてくださっています。

神の母聖マリア

マリア様がイエス様の母というだけではなく、私達キリスト者の母になった事を祝います。

主の公現

ご降誕されたイエス様に当方の三博士が訪問し、キリストであるイエス様に王のしるしを贈ります。
馬小屋で生まれた、大工の子イエスが、キリストであることが公にされたことを祝います。

主の洗礼

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを祝います。
聖霊が天から注がれ、「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声がその時します。
イエス様によって、聖霊による洗礼が形つくられました

 

 

年 間

期 間 主の洗礼の日の日没 - 灰の水曜日の前の日の火曜の日没まで 祭服の色
年間というと分かりづらいですね。
英語というと「Ordinary 」です。Ordinary は、「通常」とかそういう意味ですね。
祭服の緑は、若芽を表していて、みんなで成長していこう!というしるしです。イエス様の福音宣教の様子を、A年マタイ福音書、B年マルコ福音書、C年ルカ福音書をそれぞれ朗読しながら、私たちの信仰を育てていきます。

 

 

四旬節

期 間  灰の水曜日ー過越の聖なる三日間の前の日没まで 祭服の色
灰の水曜日から40日間+主日の5日間+受難の月曜日と火曜日を足した47日間の時を四旬節と言います。
受難・死・復活という主の過越を心身共に迎える準備を整えます。
40という数字からもわかる通り、私達にとって、この四旬節は、キリスト者として、内省し、もっとも成長できる期間です。
回心し、ゆるしの秘跡を受け、神様のみ旨に沿い、イエス様をお迎えする準備をしましょう。
そして、この時期、求道者にとって、また、求道者を迎い入れる信者にとっても大事な時期です。
求道者にとっては、最も苦しく、きつい時期になるかもしれません。今後、キリスト者として生きるために、様々な誘惑や迷いと戦わなければなりません。
私たち、迎い入れる信者は、その求道者のために祈り、共同体に迎い入れる準備を整えます。

 

 

過越の聖なる3日間

期 間  聖木曜日・聖金曜日・聖土曜日 祭服の色 木(白)金(赤)土(-)
聖木曜日から聖土曜日の日没までの期間を過越の聖なる3日間と呼びます。
聖金曜日と聖土曜日までは、「ミサ」は行われません。1年でこの2日間だけ、ミサは世界中で行われる事はありません。
この過越の聖なる三日間こそ、典礼の頂点です。聖木曜日は、ご聖体の制定を行った「最後の晩餐」を直接記念して、「主の晩餐の夕べのミサ」が行われます。
この日のミサの中では、イエス様が、謙遜、そして、隣人を愛すという教会の最も大事な教えを自ら表し、弟子たちの足を洗いになったことを記念して、洗足式が行われます。
また、イエス様の受難を現わすために、祭壇は裸にされ、ご聖櫃からご聖体を仮祭壇に移動します。
(聖体ランプは明かりを消されます)カテドラルでは、聖木曜日に「聖香油のミサ」 が行われ、洗礼式で使われる油病者の塗油で使われる油を司教様が祝別してくださいます。聖金曜日は「主の受難」の祭儀が行われます。
イエス様の受難・死を思い、祭儀が行われます。本当に暗い気持ちになる1日です。聖土曜日には、ミサは行われません。

 

 

復活節

期 間  復活の聖なる徹夜祭(聖土曜日の日没から)-聖霊降臨の主日 祭服の色
典礼の頂点「復活の聖なる徹夜祭」から聖霊降臨の主日までの50日間です。
主の昇天は、復活の主日から40日後(つまり、木曜日)でしたが、現在は、次の日曜日に祝われます。祭服の色は白です。まさに神の栄光が、示されている期間です。
この期間の典礼は、本当に1つ1つ大事です。もともとは、復活徹夜祭で洗礼を受けた新受洗者のための教話の期間だったと言われています。新しい仲間を迎えて若返った教会が新しい気持ちで主のご復活を喜び合います。聖霊降臨の主日には、堅信式も行われます。

 

 

年 間

期 間 聖霊降臨の主日の次の日の月曜日から待降節第1主日前の土曜日まで 祭服の色
 復活節が終わると、また年間に戻ります。

ここからまたキリストの業すべてを記念し、エルサレム入城、そして、再びイエス様が訪れる再臨の時を待ち望みながら、私たち信徒がキリスト者として成長していけるように(四旬節前の年間も合わせ)34週(もしくは33週)にわたって、過ごしていきます。

もちろん、このあいだにも、マリア様や様々な聖人の祝祭日があり、記念して祝います。
祭の際には、マリア様の祭日には青い祭服、殉教者の祝日、記念日には赤い祭服を司祭は着ます。

 

 

 

さて、どうですか?
覚えていました?

将来みんながリーダーになったら、この事を子どもたちに伝えないといけないですね。

教会学校の行事は、教会の暦と当然直結していますから、当然のように、教会暦を覚え、行動していかないといけません。

日本にいると、この教会暦というのは、教会の中の出来事というだけで、全然感じられないですよね。でも、ヨーロッパやアメリカ、中南米や東南アジアなどのキリスト教国では、当然この暦がそのまま社会に影響を与えます。そろそろ待降節の季節ですから、イルミネーションや馬小屋が用意され、街を彩ります。

教会暦は、私たち信者の成長のためにあるといっても過言ではありません。
毎年、毎年のことで、徐々に「普通」になっていくかもしれませんが、1年1年、神様の愛を感じ、様々な気づきを与えて頂けます。同じ本を読んでも、成長があれば、受け取り方は違いますよね。それと同じです。
それぞれの典礼の意味を知り、ミサに与る事が出来れば、よりミサが意味深いものになっていきます。

26日の王であるキリストの祭日には、行列を教会学校で行います。
教会暦最後の主日である王であるキリストは、「神の国の王であり、預言者とは一線を画す大預言者であり、神様と私たちをつなぐ大祭司であり、神の子である」イエス様が、すべての人を導き、神のもとに一つに集めてくださるのだ、という希望を表し祈ります。

では、今日はこれで終わりにします。
来月は、クリスマスに合わせた内容にしたいですね。
最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

来月の勉強会は12月3日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。
来月も、求道者のための内容にします。みんなももう1度自分の信仰について基礎から考えてみる良い機会です。
是非集まってください!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは5人。

今月も、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● 聖霊降臨 ●

 

今月も、求道者の高校生が参加するということで、入門講座の内容に合わせて行おうと思います。
今日のテーマは、聖霊降臨です。
この内容は、堅信を受ける際にも勉強しましたね。求道者の高校生も堅信に与る際にもう1度しっかり勉強することになると思います。

 

 

まず、はじめに典礼聖歌集の352番を開いてみてください。
毎年、聖霊降臨の主日にこの曲を歌います。ミサのどの場面で歌うか、覚えていますか?堅信を受けたメンバーは、もちろん覚えていると思います。(お・覚えているよね?)
…………この曲は、アレルヤ唱の前に、助祭が先唱をして歌います。

では、聖霊降臨の主日以外で、続唱を歌う日はいつですか…?(ヒント…カトリック教会にとって1年で一番大事な日です)
はい。そうですね。復活祭の日(復活の主日-日中-)ですね。
つまり、この「聖霊降臨の主日」というのは、復活祭に匹敵するくらい教会にとって大事な日だということです。続唱を歌うのは、教会にとって、つまり、私たちにとって、本当に大事な日だけです。

 

さて、イエス様は、ご復活後、何日間、弟子たちと共に過ごしたか覚えていますか?
………40日間ですよね。
この『40』という数字…もちろん、意味があります。
例えば、ノアの洪水は40日40夜続きました。出エジプト記 34章28節 や申命記9章18節によれば、モーセもシナイで、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏しました。そして、ユダヤ人たちは約束の地に入るまで、40年間荒れ野を彷徨いつづけました。またエリヤが、まことの神を信じない女王イゼベルの手をのがれようとシナイ山に向かって歩んだ日数も、同じく40日40夜でした(列王記上 19.8)。そして、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で過ごしたのも40日間でしたね。
求道者の高校生が洗礼に受ける復活徹夜祭の前には、四旬節という「洗礼を受ける準備をする」暦があります。私たちは、逆に「洗礼を受ける方々を迎い入れる準備をする」暦ですね。四旬節という名前の通り「40日間」(実際の日にちは、主日があったりして変わってきますが…)です。
これらの事に共通していることは分かりますか?
そう、これらの時間は「試練」だったり「修練」だったり…「何かを準備する時間」です。つまり、40という数字はそういう意味が含まれているわけです。

では、このイエス様がご復活されてから、弟子たちのもとに現れたこの40日間は、何を準備する時間だったのでしょうか?
そうですね。昇天されたイエス様に代わり、キリストの体となる教会を作り、全世界の人々に福音宣教する役割を担うための準備ですね。
この期間に、イエス様は、聖ペトロに3度自分を愛しているか問い天国の鍵を受け取り教会の頭になることを命じられたり、これから「迫害にあう」弟子たちが、福音宣教をするための準備をされました。

それでは、聖書を開いてみましょう。
ヨハネによる福音書 14章16-17節を開いてください。

 

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 

 

 

イエス様が昇天された後、今度は「聖霊」を遣わし、永遠に私たちと一緒にいてくださるようにして下さる。と約束して下さいました。弁護者というのは、聖書が書かれているギリシャ語を直訳すると「そばにいて助けてくださる方」と意味になります。弁護者というと弁護士みたいなイメージになってしまいますが、この「そばにいて助けてくださる方」という方が分かりやすいよね。しかし、イエス様が仰っている通り、「見ようとも知ろうともしない」人たちは、聖霊を受け入れることは出来ません。でも、私たちは聖霊がどのような方か知っています。そう、私たちはイエス・キリストという存在を知っているからです。

そして、その続きの26節にはこうあります。

弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 

共にイエス様の受難・死・復活を経験したにも拘らず、全てをまだ理解していない弟子たちが、全てを理解することができる。そして、聖霊によって、イエス様と同じような権能を得ることが出来る、そうおっしゃっています。しかし、もちろん、この時、弟子たちは何を言われているのか、何も理解していません。

 

ご復活してから40日後、イエス様は体ごと天にあげられました。それを見送っても弟子たちはまだ何も理解できていません。
「目の前にある事実」を見る事とその奥にある「真実」を見る事は全く意味が違うのです。私達人間には、それはとても難しいですよね。

 

そして、その10日後(つまり、ご復活から50日後)……イエス様が約束されたことが起こります。
その日、イスラエルでは、イスラエルの民がシナイ山でモーセを通して神様から『十戒』を与えられ、神様と契約としてことを記念した(出エジプト記 19章1~16節)五旬祭という祭日でした。世界中にいるイスラエルの民が集まり、お祝いしていました。(五旬祭は、過越祭から50日後に行われる)
一方、弟子たち、使徒達やマリア様は、迫害を恐れ、隠れて暮らしていました。イエス様を磔刑に追い込んだサドカイ派やファリサイ派、そして、長老たちは、イエスの弟子たちも当然捕まえ、罪に問おうとしていたからです。まだ、今に固執し、本当に価値あるもの、永遠の命に与る事を信じれないでいたんですね。喜びよりも恐怖に支配されていたといってもいいかもしれません。

では、使徒言行録2章1~4節を読んでみましょう。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 

 

使徒たち、そして、マリア様は、おびえて1つの部屋に籠っていた。誰かに見つからないように…人目を避けながら、どうすればいいのか?彼らは恐怖のなかにいたことでしょう。
その時、イエス様が約束して下さったことがこの時起こったのです。
その瞬間、「聖霊」によって、使徒たちはすべてを理解しました。そして、世界から集まった人たちに、その人たちの言葉を使い、「喜び」を伝え始めます。
ただの(もちろん、聖書の学識もなく、ヘブライ語も、ギリシャ語も話せない)漁師であった人が、常に共いてくださる聖霊により、イエス様と同じ権能を得て、人間を漁る漁師になった瞬間です。
彼らは、部屋を出て、福音宣教を開始します。もう恐怖はありません。喜びと力に満ち溢れています。

 

 

この日から、弟子たち、つまり、わたしたちによる「福音宣教」が始まりました。
堅信のための勉強をした時にも言いましたよね。「堅信を受けたその日から、私たちは福音宣教の使命」を負います。前も話しましたが、「キリスト教を信じてください」と大勢の人たちに伝えるのが「宣教」ではありません。福音とは、「よい知らせ」という意味でしたね。神の国が始まったという「よい知らせ」を知り、感じ、そこに喜びを感じる。喜びを感じた人は、いてもたってもいられず、みんなに知らせたくなる。神様、イエス様に出会える喜び、神の国が始まっている事の喜びを伝えるのが福音宣教です。使徒たちと同じように、私たちも、喜びを伝え、イエス様からキリスト者の掟を守り、周りに喜びを伝える者になります。
そして、同時に私達信者は、聖霊によって、キリストの体として、1つになりました。つまり、この日は、教会がうまれた日です。
そう、だから、神様・イエス様・聖霊という三位一体の神を信仰し、一人のキリスト者として、福音宣教する…そのために神様の慈しみのあらわれである聖霊の慈しみを願いながら、聖霊降臨の主日には「聖霊の続唱」を歌います。
この歌は、聖霊への祈りというお祈りでもあります。
みんなでいっしょにお祈りしてみましょう。

 

聖霊の続唱

聖霊来てください。
あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください。

貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。
やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。
苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。
恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、だれも清く生きてはゆけない。

汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。
固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。

 

 

 

さて、みんなは、聖霊をどんな時に感じますか?
1人ひとり聞いてみましょう…(正解不正解なんてないから…)

 

 

そうですね。
色々な時に聖霊を感じれると思います。
イエス様が言っているように、みんなはもう聖霊がどんな方だか知っているはずです。
「神様・イエス様を感じれた時」「神様・イエス様の慈しみを感じれた時」それは、聖霊が働いているのです。
みんなが答えてくれたように、聖変化やご聖体を頂く時も、そうでしょう。他にも、人のやさしさを感じた時、思わぬ助けを受けた時…みんなそうですよね。

 

そして、私たちが、堅信を受け、聖霊を受けた時、7つの賜物を受けます。
イエス様のようになるために必要な7つの要素と言ってもいいかもしれません。人によって、神様から与えられたミッションによってそれらがどう働くか…私たちには分かりません。
しかし、祈りによって、私たちはその賜物を強めることが出来ます。
みんなのなかにある賜物を、強めるために神様に聖霊に祈ってください。

それでは、7つの賜物の説明を1つ1つしていきます。

 

  1. 上智

    • すべてのことを神の眼差しで見る恵み。
      わたしたちは物事を自分の好みや、その時の気分で、愛や憎しみや妬みをもって眺めてしまうことがあります。しかし、これは神の眼差しではありません。上智は、わたしたちがすべてのことを神の目で見るようにとの、聖霊の働きかけです。
  2. 聡明

    • 物事の深みを神が理解するように理解できるようになる恵み
      この賜物により、物事を神の聡明によって、神が理解するように理解させてくれます。
      『人の目が見たことも、耳が聞いたことも、心に思い浮かんだこともなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために用意された』神はわたしたちにそのことを聖霊を通して啓示してくださいました。(1コリント 2,9-10)。
  3. 賢慮

    • 神との交わりのうちにイエスやその福音の論理に従ってどのように行動すべきかという具体的な選択を可能にする賜物。
      わたしたちが心の中に聖霊を迎え入れたとたん、聖霊はすぐにわたしたちの考えや感情、意向を神のみ心に沿って方向づけ始めます。そして同時に、心の目をわたしたちの行動、そして父なる神や兄弟たちと関わりの模範としての、イエスの方に常に向けさせます。
  4. 勇気

    • 神のみ言葉の成長を妨げるわたしたちの心の土地を、主のみ言葉を喜びの中に実行できるよう、無気力や不安やすべての怖れから解放してくれる恵み。
      自分自身や愛する人々の生活を揺さぶる非常に苦しく困難な体験に直面している人々が置かれた状態にある時、神の御旨を実行できる力。
      「勇気」の賜物を得るためは、わたしたちの心の謙遜が必要です。そうすれば「わたしに力を与えてくれるお方において、わたしは何でもできる」と聖パウロと共に言うことができるのです (フィリピ 4,13)。
  5. 知識

    • 被造物を通して神の偉大さやその愛、すべての被造物と神との深い関係をわたしたちに理解させてくれる恵み。
      大自然の美と宇宙の壮大さにおいて、わたしたちはすべてが神とその愛を語っていることに気づくのです。これらはわたしたちの中に大きな驚きと深い感謝の念を引き起こします。それは、わたしたちが芸術作品や、天才や創造性のすばらしい実りを目にして感じるのと同じ感覚です。これらを前に、聖霊は、わたしたちに心の底から神を賛美させ、それらの中に神の計り知れない恵みと、わたしたちへの神の無限の愛のしるしを認めさせてくれるのです。
      「知識」の賜物は、このように、美をわたしたちに見せてくれます。神を賛美し、これほどたくさんの美を与えくれた神に感謝しましょう。
  6. 孝愛

    • わたしたちの神へも帰属、神との深い絆を示す恵み。
      「孝愛」は真の宗教心、神に対する子としての信頼、そして心の謙遜な人々の特徴である、愛と単純さをもって祈る能力。
      その絆は、たとえ大きな困難や苦悩の中にあっても、わたしたちの生活全体に意義を与え、神との交わりの中にわたしたちをしっかりと支えてくれるものなのです。
  7. 主への畏敬

    • わたしたちが神とその愛を前にいかに小さい者であるか、そして謙遜と尊敬、信頼をもって神の御手に自らを委ねることが大切であるということを思い出させてくれる、聖霊の贈物。
      主への畏敬は、すべては神の恵みによるものであり、わたしたちの真の力は、主キリストに従い、御父からその優しさと憐れみを注がれることにあると悟らせます。神の優しさと憐れみがわたしたちに注がれるように心を開くことが出来るようになります。

 

 

聖霊によって、私たちと神様、そして、わたし達キリスト者同士が繋がっていくのが分かりますか?
前も話しましたが…十字架のしるしでもわかる通り、私たちは、神様とイエス様、そして、聖霊、キリスト者の繋がりの中にいます。
賜物を頂き、私たちは、その繋がりをより強くするのです。
そして、私たちは、賜物を頂き、より強く神様の心に適う者として生きれるようになれます。私たちは、イエス様のように、悪魔の誘惑に勝ち、神様を求めます。それによって聖霊の実を得られるのです。聖霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、親切、善意、寛容、柔和、誠実、謙遜、節制、貞潔です。聖霊の実は、神様の存在、聖霊の働きがあることを示してくれます。イエス様の存在を感じさせてくれます。

 

よく人生を自分1人で生きていると思っている人がいます。
よく「私は負けない」と言いながら、歯を食いしばって、何かと戦っている人がいます。
でも、その人たちは一体何と戦っているのでしょうか?
人の悪意を感じたり、自分以外の価値観を持つ人とでしょうか?挫けそうになる自分とでしょうか?

これから、みんなも高校受験や大学受験、就職活動や社会に出て様々な困難に当たると思います。でも、それは「戦い」ではありません。
人の悪意も自分以外の価値観とも争う事はありません。だって、たとえ、それに勝ったとして、勝利の先に何がありますか?

そう思う時、聖霊への祈りを唱えてみてください。
「人の悪意と感じるもの」「違う価値観」と決めたのは、自分というエゴの塊です。裁くのは、神様であって、自分ではありません。私たちは、弱い生き物ですし、原罪をおっていますから、つい「正義を自分に置いてしまう」ことがあります。
たとえば、戦いは、相手がいないと出来ません。むしろ、より強い結びつきを持った友人なんです。それなのに、それを「敵」と感じてしまうとしたら、それはまさに悪霊の誘惑に負けているようなものではないですか?
私たちがもし戦うとしたら、自分以外の人間を敵と思ってしまう自分の弱く貧しい心とです。

 

人生は、個人戦ではありません。人生は、チーム戦です。
私の出来ないことは、みんなが出来ます。みんなが出来ない事は私が出来ます。そうやって、お互いが助け合って、生きていくのです。これは、頑張らなくていいということではないですよ。むしろ人の分まで頑張らないといけないということです。自分の役割を果たせなければ、人に迷惑が掛かります。ただ、その時、決して1人ではないという事です。みんなが悲しい時、一緒に歩むみんなも悲しみます。みんなが嬉しい時、一緒に歩むみんなも喜びます。
みんなそれぞれの人生は、自分だけのものではなく、みんなのものです。そして、神様のものです。

そんな事言っても、結局、自分を救うのは自分と思う人がいるかもしれません。

でも、ありませんか?
なんでこんなにうまくいくんだって時。
ありませんか?
その時、願いが叶わくても、違う時、違う機会に、思わぬところで、誰かがそれを覚えていてくれて、それが違う形で叶ったこと?
みんなも誰かが頑張っていたら応援したくなるし、頑張っていることを覚えていたりしませんか?

だから、もし困難にあったら、もし「結局、自分を救うのは自分」という風に思ったら、聖霊に祈りをささげてください。そして、人生はチーム戦だという事を思い起こしてください。
みんなが誰かを支え、そして、誰かに支えられている。みんなが誰かのために祈り、誰かに祈られているということを忘れないでください。
常に側にいてくださる「聖霊」を忘れないでください。

 

それでは、最後に主の祈りを唱え、終わりにしましょう。

 

 


 

来月の勉強会は11月5日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。
来月も、求道者のための内容にします。みんなももう1度自分の信仰について基礎から考えてみる良い機会です。
是非集まってください!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは3人。

今月から、求道者の高校生も正式参加ということで、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● バルティマイのお話 ●

 

今月から、求道者の高校生が参加するということで、求道者のメンバーが、入門講座を休んでも大丈夫な内容にしたいなぁと思います。(出来るだけ同じ内容のものに出来たらと思います。)既に堅信を受けたメンバーも、良い機会ですから、もう1度「キリスト者になる」とはどういうことか、考えてもらえたらなぁと思います。

(今日は、先日、帰天された小川神父様のために子どもたちと一緒にお祈りするために、途中で教会学校の始業式に参加します。9時半になったら1度御聖堂に行きましょう)

 

さて、今日は、「バルティマイの話」をしたいなぁと思います。この話は、何度か話したことがあります。覚えていますか?
バルティマイの、「バル」というのはアラム語で、息子って意味です。つまり、バルティマイは、「ティマイの子」という意味ですね。他にも、使徒にはバルトロマイという方がいらっしゃいますね。「トロマイの子」という意味です。

実は、この話、マルコ福音書にしか載っていない話です。
前にも、お話しましたが、福音書はそれぞれ書かれている時代や誰に向かって書かれたかが違います。

  • マタイ福音書

    使徒聖マタイによって記された福音書。A年の年の福音朗読となる。70年代に成立したとされている。
    イエス様とともに行動した使徒である聖マタイが、主にユダヤ人のために記されたとされる。

  • マルコ福音書

    聖マルコによって記された福音書。B年の年の福音朗読となる。60年代に成立したとされている。
    聖ペトロや聖パウロと共に行動した聖マルコが、ユダヤ教の理解のあまりない異邦人のために記されたとされる。

  • ルカ福音書

    聖ルカによって記された福音書。C年の年の福音朗読となる。70年代に成立とされている。
    聖パウロと行動を共にした聖ルカが、ローマやギリシャの身分の高い人々、高い知識を持った人々のために記されたとされる。

  • ヨハネ福音書

    使徒聖ヨハネによって記された福音書。待降節や四旬節や復活節などに朗読される。100年頃に成立とされている。
    イエス様とともに行動した使徒である聖ヨハネが、4つの福音書の一番最後に記したとされる。

 

マタイやマルコ、ルカ、ヨハネは、自分の共同体やその時代に必要なメッセージを込めたからでしたからですよね。
だから、時代背景やその共同体の現状によって、内容が少しずつ変わります。同じ出来事でも違うように書いてあったり、このバルティマイの話のように、ある福音書には載っているけど、他の福音書には載っていない話というものもあります。
福音書は、聖霊が福音記者を導き、福音記者によって記されたものです。私たちが、福音をより深く理解出来るように、そして、救いの源となるみ言葉を深く味わえるように、4つの福音書を用意して、4つの視点から私を導いています。

 

さて、では、まず、マルコ福音書10章46節を開いてみましょう。

 

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。
ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 

 

はい。
ありがとうございます。

この話には、いくつかのポイントがあります。
では、順に追って話をしていきましょう。

  1. エリコという町

    このエリコという町は、有名な街ですね。
    旧約聖書のなかでも、モーセの後継者ヨシュアが、約束の地であるカナンに入る時に、始めに戦闘を行った話が記されています。
    その時に、エリコの人々は城門を堅く閉ざし、誰も出入りすることができませんでした。しかし、神様の言葉に従い、イスラエルの民が契約の箱を担いで7日間城壁の周りを廻り、角笛を吹くと、その巨大なエリコの城壁が崩れ、エリコを占領できたというお話です。(ヨシュア記6・20参照)
    ヨシュアはヘブライ語の呼び方で、アラム語で読むと「イエス」になります。そう、イエス様と同じ名前の預言者です。ヨシュアは、このエリコを足掛かりに「カナンの地」に王国を築きます。そして、イエス様は、この後、エルサレムに入城し、受難・死、そして、復活し、私たちに神の栄光と神の愛を示してくださいます。

    ヨシュア、イエスという名は、「神は救う」という意味です。まさに2人とも、受けた名前にふさわしいことをなさったわけです。

  2. バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた

    もう1度、当時のユダヤ人社会について、思い出してみましょう。
    当時、ユダヤ人といわれる人は、「ヤコブ(イスラエル)の12人の子の子孫である12部族の民であること」、そして、「ユダヤ教に信仰をおいている人」という2つの条件がありました。そのどちらかが欠けても、ユダヤ人とは呼ばれません。
    例えば、異邦人と呼ばれる人も聖書には出てきますよね。他にも、サマリア人も出てきます。彼らは、ユダヤ教を棄教してしまっていたり、または、(ユダヤ教を信仰していても)混血してしまったりした人々ですので、条件にあてはまりませんよね。彼らは、ユダヤ人社会の外の人として認識されます。
    そして、バルティマイのような盲人はもっと悲惨でした。
    当時ユダヤ人社会では、盲人や皮膚病、足の不自由な人などは、「神さまから罰を受けている人」とされ、人々はその人たちとの関係を断ちます。自分も罪を負うことになってしまうからです。ですから、当然のように「仕事にもつけず、友達もいない」という状況になってしまいます。つまり、バルティマイは、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人社会の外にいる人ということになります。だから、彼は「物乞い」をするしかない状況になってしまうわけです。
    想像してみてください。
    目も見えず、友達もいない。誰も助けてくれない。働けない。生きている意味すら感じられないかもしれません。
    まさに真っ暗闇の中にいる状況ですよね…

  3. ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください

    前にもお話ししましたが、「ダビデの子」というのは、「キリスト」という意味ですね。
    そして、聖書の中で、「憐れむ」という動詞は、「神様やイエス様」にしか使われない言葉です。だから、この「憐れむ」という言葉を使うこと自体、すでに「神様」や「メシア」に向かって言っているのと同じ意味になります。
    ちょうど先週(年間第21主日)、聖ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と、答える箇所が福音朗読でした。
    バルティマイは、聖ペトロのように弟子としてずっとイエス様の側にいたわけでもなく、数多くの奇跡を実際に目の前で見たわけでもありません。きっと、どこで誰を救ったとか、どのような話をし、ファリサイ派や長老たちと言い争ったか(論破したとか)等の噂話をしているのが聞こえてきたのでしょう。いつしか興味を持ち、自分でイエス様の話を聞いて回ったかもしれません。そして、「自分を救えるのはイエス様しかいない」と思うようになったのでしょう。
    バルティマイにとって、イエス様が自分の住むところに現れたことが人生において、最大の、そして、最後のチャンスだったのかもしれません。
    だから、(もちろん、そういう人物-神様から罰を受けている人-が来ればイエス様を守るために、そして、自分達が関わらないために、止めようとするでしょうが、)誰が止めても、イエス様のいるだろう方角に向かって大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、叫び続けたのでしょうね。
    もうイエス様しか、神様しか頼るものがない!助けてほしい!まさに、必死に、心の奥底から、イエス様を、神様を求める光景が浮かびますよね。
    バルティマイの気持ちになって考えれば、みんなにもわかると思います。

    教会に集う人たちの気持ちをここで当てはめてみてください。

     

  4. 行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。

    イエス様は、必死で自分を呼び続けるバルティマイを呼ばれます。
    バルティマイは「上着を脱ぎ棄てて」と、ありますね。当時は一枚布のチュニックのような「下着」をまず来て、マントルのような「上着」を着ます。
    バルティマイにとって、「上着」は「彼の持っている全て」だったに違いありません。
    全てを捨てて、呼んでくださったイエス様のところにバルティマイは駆け付けます。
    そして、イエス様に目が見えるようになりたいと訴えます。
    そのバルティマイにイエス様は、何をなさるわけでもなく、ただただ「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と、言います。
    旧約の預言者達も数々の数々の奇跡を起こします。死んだ人を生き返らせたエリヤやエリシャもいます。
    しかし、イエス様のように何もせず「ただ言葉をかけるだけで癒した」という事はありません。これは、神そのものであるイエス様と、「神様の言葉を預かる」預言者の違いなのでしょう。

    この言葉「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、他の箇所でも見ることが出来ます。

    1. マルコによる福音書 5章34節
      ヤイロのもとへ行こうとされる時に、「十二年間も出血の止まらない女」がイエス様に触れ、病気が治った時…
    2. ルカによる福音書 7章 50節
      ファリサイ派のシモンの家で食事をしている時に、罪深い女が後ろからイエス様の足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して香油を塗った時…
    3. ルカによる福音書 17章 19節
      重い皮膚病を患っている十人を癒された後、唯一サマリア人が大声で神を賛美しながら戻って来て、イエス様の足元にひれ伏して、イエス様にお礼を言った時…。

    私(イエス様)が救ったのではなく、「あなたの信仰が、あなたを救った」と、イエス様は仰います。こんなうれしい言葉ないですよね。
    私たちが何かをイエス様のために何かしたからでもなく、ただただ「イエス様を神の子、メシアと尊び、神のいつくしみを深く求める信仰」が、私たちを救うということですよね。
    神様が、アブラハムやイサク、ヤコブと契約された時、そして、罪のないイエス様を十字架上での死、復活を通して、新たに契約を結ばれた際に、まったく私たちに条件が与えられなかったように、イエス様は癒すために、私たちに「何かの条件」を、与えたわけではありません。

    ただただ「全てを捨て、神様を信頼し、そのいつくしみを求める」こと、そんなシンプルなことが私たちを救う。こんなうれしいことがありますか?

  5. 盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

    始めに、この話を始める時、マルコ福音書にしか載っていない話と言いましたよね。
    数多くある「盲人を癒す(目を見えるようにする)話」のなかで、この話は、盲人の名前「バルティマイ」という名前をわざわざ残しています。
    当時のマルコの共同体(ユダヤ教の理解がない異邦人たち・ローマの人たち)の間でも「バルティマイ」は知られた存在だったのではないかと言われています。
    つまり…「なお道を進まれるイエスに従った。」とあるように、大変な迫害にあっていた当時の初代教会の1人として、彼は信仰を守っていたのでしょう。

    さて、そのバルティマイは「元・盲人」として有名だったのでしょうか?それとも、「元・物乞い」として有名だったのでしょうか?「元・可哀想な人」としてでしょうか?
    きっと、違いますよね。
    彼がその後どのような人生を歩んだのか、聖書には残されていませんし、分かりません。
    でも、きっと「イエス様によって目が見えるようになって、初めてバルティマイは、何の色もつかない、バルティマイというひとりの人として、アイデンティティを取り戻し、他の人との関わりを持つことが出来た」のだと思います。それは、彼にとって、目が見える事より、はるかに嬉しかったことではないでしょうか?

    だから、彼はずっと残り続け、「イエス様に従いつづけた」のだと思います。
    バルティマイが有名だったのは、まさにバルティマイこそが「福音の見える現れ」であり、「神の国の欠片」だったからではないでしょうか。
    そして、バルティマイの喜びが、迫害にあう人々を支えていたのではないでしょうか。きっとですけど…

    みんなは、どうでしょうか?
    それぞれみんな「イエス様に呼ばれ」集まった者たちですから、一人ひとりの喜びに満ちた共同体になるはずです。
    アイデンティティを取り戻した本当の自分は、「極めて良い(創世記1章31節)」ものです。
    そして、マタイによる福音書6章33節には、こう記されています。

    神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、他のものはそれに添えて与えられます

    共同体に受け入れる側も、これから洗礼を受ける側も、バルティマイが上着を脱ぎ棄てて、イエス様のところにいつくしみを求めてきたように、まず全てを捨て、イエス様のところに集い、他の人と関わりあう事によって、喜びに満たされます。そうすれば、他のものは自ずとそれに添えられて与えられます。だから、神様を信頼して、全てを捨てて、飛び込んでみてください。

 

 

さて、時間も押し迫ってきたので…そろそろまとめます。
私たちもバルティマイのように、強い信仰を持つことが出来れば、どれだけ幸せでしょうか?
こんなシンプルな事が私たちには、なかなかできないでいます。
福音書のなかには、神様を求めて、神様のいつくしみに触れたくてもがいている人たちがたくさん出てきます。
私たちは、そういう方達の信仰から、多くのことを学べるはずです。

前も言いましたが、このバルティマイの「ダビデの子イエスよ、あわれみたまえ!」は、立派なお祈りです。

「主よ、憐れみたまえ」

これから、ミサのなかで私たちは歌いますよね。歌は祈りです。
私たちが、バルティマイのように「全てを捨てて、あなたのもとに歩めますように!」という強い思いで歌ってみてください。

それでは、最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

 

来月の勉強会は10月1日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。
来月は「聖霊降臨について」勉強します!




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今日は、中高生の集まりが行われました。
普段、なかなか教会に来れない中高生が夏休みの機会にみんなで集まろうという企画です。

(兄弟が参加した教会学校の子どもたちも含め)高校3年生から中学1年生まで、午後5時半から集まり、フィリップ神父様にもご参加頂き、親交を深めました。

 

まずは、乾杯!

 

みんなでお肉をみんなで頬張ります!
今日の日のために、教会の方や保護者の方々が用意して下さいました!

 

 

青年たちが置いているグルーブやボールを使って、キャッチボールをしたり、水風船で遊んだり…お腹いっぱいになった後はみんなで話したり、遊んだり…

 

仕事を終えた教会学校のリーダーも到着!
久々の再会となる中高生の成長にビックリしていましたね…

 

 

 

 

ここで、6月4日に行われた東京教区合同堅信式で堅信に与った中高生へ、フィリップ神父様から教会からのお祝いが贈られました。

 

来れなかった中高生は、代父さんが…代わりにいただきました…

来ている教会学校の子どもたちも、後何年かしたら、必ず堅信に与りましょうね!

 

 

食後には、教会の方が中高生のために差し入れしてくれたアイスをみんなでいただきました!

 

 

最後にみんなで記念撮影!

 

高3から中1までと、年齢差もあることから、「初めて会った」なんてこともあったみたいですね。
でも、誰々のお兄ちゃんとか誰々の弟とか分かると、「なるほど」みたいな…

もっとたくさんの機会を作って、たくさんの中高生に参加してもらって、親交を深める機会を作りたいですね。
これからも、月1の勉強会、そして、様々な企画を行っていきますので、是非みんな集まってください!
教会学校にも顔を出してあげてくださいね!)