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今日は、堅信のための第8回目の勉強会です。
実質的には、今日が最後の堅信の勉強会となります。
さて…堅信の勉強のしめくくりの内容は、「聖霊降臨」についてです。
来週、堅信に与るみんなには、聖霊が注がれます。それがどういう意味なのか、もう1度考えてみましょう。

今回も、主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● 聖 霊 ●

さて…今日は聖霊について勉強します。
前回の『イエス様について』、そして、『神様』とおなじくらい大事で、難しいですが、今日で堅信の勉強は実質的に最後になりますから、頑張りましょう。

ところで、みんなは「続唱」は、知っていますか?
年に2回しか歌う機会がないのですが、とても美しい歌です。歌う時は、アレルヤ唱の前に歌います。
復活の主日(日中)」と「聖霊降臨の主日」に歌います。先日の復活の主日(日中)でも歌いましたよね。
プリントに「聖霊の続唱」の歌詞が書いてあります。この歌詞は、そのまま「聖霊へのお祈り」でもあります。
ですから、少し長いですが、歌詞を覚えると良いと思います。素晴らしいお祈りなのに年に1回唱えないなんて勿体ないですし…。

さて…今日は主の昇天の祭日ですね。
ご復活されて40日後、イエス様は昇天され、天におられる神様の右の座にお着きになられます。40日後というと、本当は今日ではなく先週の木曜日が主の昇天の祭日なのですが、日本では平日ということもあり、日曜日が主の昇天のミサとなります。でも本当は、今日は復活節第7主日です。
そして、その10日後、つまり、今年は5月15日が聖霊降臨の祭日になります。

イエス様が亡くなった日、磔刑にあい、十字架上で亡くなられた日、ユダヤ教では「過越祭」と言われる祭日でした。
この「過越」というのは、神様がイスラエルの民をエジプトから解放してくださったことを記念してたものです。モーセのお話ですね。機会があれば『十戒』という映画を見てくださいね。『十戒』はモーセを主人公とした映画です。海がパッカーンと割れるお話と言えば…さすがにみんな知っているよね…。海、あれは紅海なのですが、パッカーンと割れたところを通って、エジプトからエルサレムを目指して逃げる、帰るわけです。そのシーンがまさに私たちの「洗礼」に当たります。まぁ…過越の話はいつかまた違う機会にしましょう。
「過越」から50日後、イスラエルの民がシナイ山でモーセを通して神様から『十戒』を与えられ、神様と契約としてことを記念した五旬祭が行われます。(出エジプト記 19章1~16節)

イエス様が亡くなった年も、もちろん五旬祭は行われていました。世界中にいるイスラエルの民が集まり、五旬祭をお祝いしていました。
そして、その日、それまで50日間、迫害を恐れ、隠れて暮らしていた弟子たち、使徒達やマリア様に奇跡が起こります。
先週(5月1日)復活節第6主日の福音朗読(ヨハネによる福音書 14章23~29節)のなかで、イエス様は、弟子たちにある約束をしましたね。覚えていますか?

 

弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

ヨハネによる福音書 14章26節

『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。
わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。

ヨハネによる福音書 14章28節

 

多分、使徒たちは、「イエス様のご復活を見て、昇天されたのも見た」にもかかわらず、まだ、その約束の本当の意味を分かっておらず、イエス様が昇天されて10日間、本当に不安だったと思います。そして、その出来事が起こります。使徒言行録2章1~4節を開いてみましょう。

 

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

使徒言行録2章1~4節

 

そうです。イエス様が約束して下さったことがこの時起こったのです。
その瞬間、「聖霊」によって、使徒たちはすべてを理解しました。
神様は、よく「風」とか「炎」とか「光」で表現されますよね。ここでは、聖霊を「風」とか「炎」などで表しています。三位一体の神であられる神様と聖霊の同一性みたいなものが少し見えますね。他にもイエス様の洗礼の時、また、絵画などでは「鳩」で表されています。豆知識ですが…絵画や御像などは、その絵を見た時に神様、イエス様、聖霊、そして、聖人と分かるようにルールがあって、それをアトリビュートといいます。アトリュビュートを覚えておくと、絵画や御像を見た時に「何々が描かれているからこれはこの方だな」ってわかります。例えば、剣と聖書を持っている聖人は、聖パウロです。松戸教会の守護聖人・大天使聖ミカエルは、剣と天秤です。いつかそういうのも勉強したいですね。

さて、聖霊降臨の出来事は、イメージしやすいですよね。
こういう風にみんなで部屋にいたら、窓も閉まっているのに突然激しい風が吹いているような音が天から聞こえてきて、炎が起こり、細く分かれて、使徒たちの所に留まる。そして、全てを理解する事が出来た。
心のなかで映像化してみてください。
この事が、来週の堅信式で、みんなに起こります。岡田大司教様の按手により、神様からみんなに聖霊が注ぎ込まれ、みんなは「聖霊に満たされる」のです。

では、「聖霊」とはどういう方なのでしょうか?
ヨハネ福音書14章26節を開いてみましょう。

 

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

ヨハネ福音書14章26節

 

ここでキーワードとして『弁護者』という言葉が出てきますよね。その弁護者は、「神様がイエス様の名によってお遣わしになる」と、イエス様は仰られています。
聖書はギリシャ語やラテン語で書かれていますから、当然、日本語に訳しているわけですが、この弁護者という訳は、他にも「そばにいて助けてくださる方」という訳した方もあります。
…まだ、イメージしにくいですよね。
神様やイエス様「聖霊」と違って、とても聖霊は説明するのが難しいです。もちろん、目に見えるモノではありませんし、頭で理解しようとしてもうまくいかないと思います。でも、それは確かに存在し、みんなにも来週の堅信式では聖霊が注ぎ込まれます。感じ取る事しか出来ません。「燃えよ!ドラゴン」という映画のなかで、ブルース・リーが「Don’t think,Feel!」と言いますが、そんな感じですよね。
私個人が聖霊を一番感じる時というのは、やはり、聖変化の時です。
ホスチアはキリストの体へ、葡萄酒はキリストの血へと変わる時、きっとミサに集まった信者のそばにいる聖霊が一つになり、それを可能にしているのだと思います。あの瞬間、確かに聖堂の雰囲気は変わりますよね。そう思いませんか?
また、他にも、私たちを「神様の意思に適う者」であるための行動をとる時、勇気が足りない時とかあると思います。そういう時に心のなかで背中を押してくれるモノがある時がありませんか?
そういう時、聖霊がきっと働いてくれているのだと思います。

 

さて…使徒たちは、聖霊を受け、福音宣教を始めました。
だから、来週の聖霊降臨の祭日は、「教会の誕生」した日、「教会の誕生日」でもあります。
みんなも来週、聖霊を受け、堅信の秘跡に与ります。
みんなにもその瞬間からキリスト者として、福音宣教の使命が与えられます。
前も話しましたが、「キリスト教を信じてください」と大勢の人たちに伝えるのが「宣教」ではありません。福音とは、「よい知らせ」という意味でしたね。神の国が始まったという「よい知らせ」を知り、感じ、そこに喜びを感じる。喜びを感じた人は、いてもたってもいられず、みんなに知らせたくなる。神様、イエス様に出会える喜び、神の国が始まっている事の喜びを伝えるのが福音宣教です。
ミサに与り、ご聖体を頂いた時、イエス様を感じていますか?
喜びを感じていますか?
みんなも、それぞれの才能、力、生き方でそれを示すことが出来るはずです。
もちろん、私たちには、いつも悪魔の誘惑があります。悪魔は、必死に私たちを神様から離そうとします。
今日は眠くて教会に行きたくない…。困っている人がいるけど私には関係ない…。悪魔は、私たちにそんな気持ちを起こさせます。
そのような時、聖霊が私たちを導いてくれます。
みんなが、来週、聖霊を受けた時、神様から、聖霊から「7つの賜物」が贈られます。
「7つの賜物」は私たちを強め、きっとみんなを「善い人」にしてくれるはずです。洗礼者ヨハネからイエス様が洗礼を受けた時のことを覚えていますか?
聖霊が天より注がれ、神様がこうおっしゃいます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(マタイによる福音書3章 17節)」
みんなも聖霊を受けて、神様にそう言われるのですよ。

 

さて、ここにそれぞれ7つの賜物が書いてあるモノがありますから、さっきの「聖霊へのお祈り」を唱えながら心のなかで「聖霊きてください!」と思って、1人1つずつ、ひいてみてください。
今ひいたものは、きっと神様が今度の聖霊降臨でもっとも強く与えてくれるもの…もしくは、これが必要だよ。と、仰っているものなのでしょう。
では、何が出たか一人ひとり発表してもらいましょう。

 

  1. 上智

    • すべてのことを神の眼差しで見る恵み。
      わたしたちは物事を自分の好みや、その時の気分で、愛や憎しみや妬みをもって眺めてしまうことがあります。しかし、これは神の眼差しではありません。上智は、わたしたちがすべてのことを神の目で見るようにとの、聖霊の働きかけです。
  2. 聡明

    • 物事の深みを神が理解するように理解できるようになる恵み
      この賜物により、物事を神の聡明によって、神が理解するように理解させてくれます。
      『人の目が見たことも、耳が聞いたことも、心に思い浮かんだこともなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために用意された』神はわたしたちにそのことを聖霊を通して啓示してくださいました。(1コリント 2,9-10)。
  3. 賢慮

    • 神との交わりのうちにイエスやその福音の論理に従ってどのように行動すべきかという具体的な選択を可能にする賜物。
      わたしたちが心の中に聖霊を迎え入れたとたん、聖霊はすぐにわたしたちの考えや感情、意向を神のみ心に沿って方向づけ始めます。そして同時に、心の目をわたしたちの行動、そして父なる神や兄弟たちと関わりの模範としての、イエスの方に常に向けさせます。
  4. 勇気

    • 神のみ言葉の成長を妨げるわたしたちの心の土地を、主のみ言葉を喜びの中に実行できるよう、無気力や不安やすべての怖れから解放してくれる恵み。
      自分自身や愛する人々の生活を揺さぶる非常に苦しく困難な体験に直面している人々が置かれた状態にある時、神の御旨を実行できる力。
      「勇気」の賜物を得るためは、わたしたちの心の謙遜が必要です。そうすれば「わたしに力を与えてくれるお方において、わたしは何でもできる」と聖パウロと共に言うことができるのです (フィリピ 4,13)。
  5. 知識

    • 被造物を通して神の偉大さやその愛、すべての被造物と神との深い関係をわたしたちに理解させてくれる恵み。
      大自然の美と宇宙の壮大さにおいて、わたしたちはすべてが神とその愛を語っていることに気づくのです。これらはわたしたちの中に大きな驚きと深い感謝の念を引き起こします。それは、わたしたちが芸術作品や、天才や創造性のすばらしい実りを目にして感じるのと同じ感覚です。これらを前に、聖霊は、わたしたちに心の底から神を賛美させ、それらの中に神の計り知れない恵みと、わたしたちへの神の無限の愛のしるしを認めさせてくれるのです。
      「知識」の賜物は、このように、美をわたしたちに見せてくれます。神を賛美し、これほどたくさんの美を与えくれた神に感謝しましょう。
  6. 孝愛

    • わたしたちの神へも帰属、神との深い絆を示す恵み。
      「孝愛」は真の宗教心、神に対する子としての信頼、そして心の謙遜な人々の特徴である、愛と単純さをもって祈る能力。
      その絆は、たとえ大きな困難や苦悩の中にあっても、わたしたちの生活全体に意義を与え、神との交わりの中にわたしたちをしっかりと支えてくれるものなのです。
  7. 主への畏敬

    • わたしたちが神とその愛を前にいかに小さい者であるか、そして謙遜と尊敬、信頼をもって神の御手に自らを委ねることが大切であるということを思い出させてくれる、聖霊の贈物。
      主への畏敬は、すべては神の恵みによるものであり、わたしたちの真の力は、主キリストに従い、御父からその優しさと憐れみを注がれることにあると悟らせます。神の優しさと憐れみがわたしたちに注がれるように心を開くことが出来るようになります。

 

どうですか?
聖霊によって、私たちと神様、そして、わたし達キリスト者同士が繋がっていくのが分かりますか?
前も話しましたが…十字架のしるしでもわかる通り、私たちは、神様とイエス様、そして、聖霊、キリスト者の繋がりの中にいます。
賜物を頂き、私たちは、その繋がりをより強くするのです。
そして、私たちは、賜物を頂き、より強く神様の心に適う者として生きれるようになれます。私たちは、悪魔の誘惑に勝ち、神様を求めます。イエス様を求めます。それによって聖霊の実を得られるのです。聖霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、親切、善意、寛容、柔和、誠実、謙遜、節制、貞潔です。聖霊の実は、神様の存在、聖霊の働きがあることを示してくれます。

だから、もし何かに迷った時、何か不安があった時、神様の存在を感じたい時、祈ってください。
1日10分間で、いいです。携帯電話もPCもテレビも切って、静かに1人で「聖霊来てください」と、祈ってみてください。

私たちは、神様から、それぞれ使命を与えられてここにいます。
その使命を果たすため、私たちに神様は、力を与えてくれています。人は、それを「才能」と呼びます。
色々な才能があります。
足が速い、頭が良い、1時間真面目に机に座り勉強ができる……、それぞれ、質も量も違います。同じ足が速いでも、1人は日本で1番になれるくらい、1人は学校で1番になれるくらいの才能しか与えられません。それはそれだけ「役割」が与えられているということです。力のある者は力のある分重い責任を負います。正直、誰がどのくらいのモノを与えられたかというのはどうでもいい話ですよね。大事なのは「神様が自分に与えてくれた使命」です。
タラントンのたとえ話(マタイ 25 章14~30節) を覚えていますか?タラントンは、「タレント」、才能の語源になった言葉です。
3人が、主人から、それぞれお金を預かり、2人はお金を増やして返します。1人は地面に埋めて置き、そのまま主人に返します。ある意味、「預かったお金をそのまま返す」ことは正しいことです。他の2人はもしかしたら、預かったお金を減らしてしまうリスクがあったわけですから…。でも、主人は、そのまま返した人を叱ります。なぜでしょうか?
大事なのは、「預けたお金をそのまま返す」ことではなく、「お金を増やす事」でもなく、「自分に信頼をおいてくれた主人を信頼し、その信頼に応えようとする行動」にあったのではないでしょうか?
みんなは、どうですか?
たぶん、まだ自分がどんな才能があるのか、分からないのかもしれません。
だから、「聖霊来てください」と祈ってください。そうすれば、聖霊が導いてくれます。
「自分が何が出来るのか?」「自分にとって、何が大事なのか?」
神様に尋ねてみてください。
そして、その道を一生懸命頑張ってください。みんなの人生はこれからですから。一生懸命頑張ってください。そして、つらい事があったら、また、「聖霊来てください」と祈ってください。きっと、また力をえれます。
もう1度言います。1日10分間で、いいです。携帯電話もPCもテレビも切って、静かに1人で「聖霊来てください」と、祈ってみてください。そんな時間が私たちには必要です。

 

最後に私が大事にしている言葉をみんなに贈ります。

Totus Tuus ego sum(わたしはすべてあなたのものです)

聖ヨハネ・パウロⅡ世の遺言です。聖ヨハネ・パウロⅡ世は、今のパパ様の前の前のパパ様ですね。
神様が与えてくださった才能、神様が与えてくださった環境、神様が与えてくださった喜び、そして、聖霊によって得られる人との繋がり…、そう考えた時、自然とこう言えるのではないでしょうか?
神様の心に適う者になって、自分の中にある力を、教会のため、社会のため、人々のために使ってください。
そうすれば、みんなの生き方を見て、多くの人々が神様の存在を感じれるようになると思います。
来週、堅信式が終わり、カテドラルを出る時から、その力を活かし、福音宣教を始めましょう。

では、最後にもう1度聖霊への祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

さて、これで今年度の堅信のための勉強会は終了です。
来週は、堅信式の説明、そして、堅信に与る前に、ゆるしの秘跡に与ります。遅刻しないように集まってください。

 

中高生の勉強会は、引き続き、第1週に行います。
受堅したからといって、まだまだ勉強は終わりません。中高生は、毎月集まってください。




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今日は、堅信のための第7回目の勉強会です。
堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

今日は、中高生の勉強会です。(月1回、第1日曜日は受堅者も含めた中高生の勉強会と合同になります。)

さて…今日の内容は、「イエス・キリスト」についてです。
イエス様については、みんな様々な話で知っていると思いますが、もう1度イエス様について考えてみましょう。
今回も、主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● イエス・キリスト ●

さて…今日はイエス様について勉強します。
前回の神様と同じくらい難しい内容です。出来るだけわかりやすく説明するように頑張りますから、みんなも一生懸命ついてきてください。今日は、本当に大事な内容です。

まず、イエス様の話に入る前に知っておいてほしい話をします。
「キリスト」という意味をみんな知っていますか?
キリストいうのは、イエス様の苗字(ラストネーム)ではありません。
キリストというのは、ギリシャ語の「クリストス」が日本語になまって「キリスト」となりました。英語で「エァプーㇽゥ」が日本語になると「アップル」になる感じですね。
また、アラム語では、「メシア」と言います。「メシア」というと、少し聞き覚えがある言葉かもしれませんね。
ギリシャ語は、当時パレスチナ(イスラエル)を支配していたローマ帝国の人々の多くが話していた言葉です。そして、アラム語は、普段イスラエルの人たちが話す言葉です。当時のパレスチナ地方は、この2つの言葉に加えて、ヘブライ語、この言語は、当時の聖書、今の旧約聖書の言葉ですね。(今でいう神父様のような)祭司を務めていたサドカイ派やファリサイ派の人達、政治家など、社会を治める人々が使っていました。当時は3つの言葉が話されていていました。3つのグループがあったと考えても良いかもしれません。
豆知識ですが…(この当時の)ユダヤ人というのは、少し定義が難しいのですよね。
この当時のユダヤ人というのは、アブラハムの子孫(血統的つながり)で、なおかつ、ユダヤ教を信仰している人達を指していて、たとえば、血統的にはアブラハムの子孫であってもユダヤ教を信仰していない、つまり、神様(ヤーウェ)を信仰していない者はユダヤ人とは言いません。よく聖書の中でも出て来る異邦人というのは、実際にアブラハムの子孫ではない人々を言う場合もありますが、もっと言えば、アブラハムの子孫だけど、ユダヤ教を信仰していない人々、つまり、神様を信じていない人々を指したりします。このあたりの話は、  来週、聖霊降臨について勉強するので来週もしますね。
とにかく、クリストス(キリスト)もメシアも「油注がれた者」という意味です。
「油注がれた者」に関しては、前少し話したと思います。
神様から役割を与えられた者が、神様からその役割を果たすために力を与えて頂く「しるし」として、油を注がれます。その人たちの事を「油注がれた者」と言うのでしたよね。
旧約聖書では、王、祭司、預言者が油を受けていました。
例えば、聖書の「~~」書とか「~~」の預言とかの「~~」という方々、これは預言者ですね。預言と予言、間違えないようにね。神様の言葉を預かってみんなに伝えるのが預言者、未来を予知するのが予言者だからね…モーセとか、エリヤ、エリシャ、イザヤ…それから、洗礼者ヨハネもみんな預言者です。
それから、士師記に出てくる士師、ダビデやソロモンのような王ももちろん油注がれた者ですね。彼らは、イスラエルの民を導き、豊かな国を作り、神様の思いを達成するために油を注がれます。

クリストス(キリスト)、メシアの本来の役割は、「神の国の実現」にあります。
預言者は、神様の言葉をイスラエルの民に伝えることで、王たちは政治によって、祭司たちは民と神様を繋げ、神の国の実現を目指します。
しかし、紀元前590年ごろ(つまり、イエス様の生まれる590年前ごろ)、イスラエルという国が滅び、イスラエルの民は奴隷にされ、解放された後も様々な国の支配を受けていくなか、いつのまにかクリストス(キリスト)、メシアの役割、意味は「ダビデやソロモン王のようなイスラエルが栄えていた頃に戻す人」という意味に変わっていきます。
始めはちょっとした違いでしたが、イエス様が生まれる頃には、だいぶ変わった意味になっていました。その違いは、「実際に日本という豊かな国で育った」みんななら分かるかもしれません。今のこの日本という国が本当に神様が望むような状態になっているかということですよね。
この違いが、イエス様を将来苦しめることになります。覚えておいてくださいね。

さて、イエス様が「クリストス(キリスト)、メシア」である事は、旧約聖書を通して、描かれています。
例えば、イザヤ書11章1~10節を開いてみてください。

ありがとうございます。
みんな勉強会を通して、だいぶ聖書をひくのが早くなってきましたね。
最後の10節にこう書かれています。

 

その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

イザヤ書11章10節

 

エッサイというのは、ダビデのお父さんです。
つまり、ダビデの子孫からクリストス(キリスト)、メシアが出るとここで預言されています。
そして、4~9節のように私たちの今の世の中では考えられないような事が起こります。例えば、「狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち…(イザヤ書11章6節)」と書いてあります。狼も豹もライオン(若獅子)普通なら食べてしまうも子羊や子山羊や子牛と共に生活し、争いはありません。クリストス(キリスト)、メシアが現れると、そのような状態になるとイザヤは記しています。まさに「平和」な状態ですよね。
イエス様がダビデの子孫である事は、マタイ福音書の一番最初(マタイ福音書1章1~17節)に書かれています。ちょっと聖書を開いてみますか?
6節にエッサイ、ダビデという名前がありますね。
イエス様がクリストス(キリスト)、メシアであることを裏付けているわけです。

さて、イエス様が、クリストス(キリスト)、メシアであることは、聖書にある通りです。
私たちは、人と出会った時、その人がどのような人であるか、その人の才能、能力がどのくらい高いのか低いのか一瞬にして判断しないといけない時があります。もしかしたら、人生において、それはとても必要な能力なのではないかなと、私は思います。自分より相対的に高いか低いか、ここは自分の方が勝っているけどここは負けているとか、スポーツをしているとそういう判断を急に迫られることが多いかもしれませんね。それを見極めることで自分を成長させることが出来るし、人を尊敬できるようになります。
福音書で出て来る多くの人々も、イエス様にあった時、様々な判断を下します。様々な気持ちを持ちます。ある人はイエス様を「主」と呼び、ある人は「詐欺師」と呼びます。ある人は「ダビデの子」つまり、クリストス、メシアと呼び、ある人は「大工の子」と呼びます。
それでは、プリントを見てください。福音書のなかで「イエス様をどう呼んでいるか」「イエス様がどう呼ばれているか」をみんなで聖書をひいて、確かめてみましょう。

 

ルカ福音書1章35節

生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる

大天使聖ガブリエルがマリア様に受胎告知をするシーンですね。
大天使聖ガブリエルは、イエス様の事を「聖なる者、神の子」と呼ばれるとマリア様に告げています。
マリア様は、それをどう思われたのでしょうか?

 

マルコ福音書   1章11節

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者

イエス様が洗礼者ヨハネに洗礼を授けられた時、神様がイエスさまに聖霊を送り、こう言われます。
神様はイエス様を「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼ばれました。

 

ルカ福音書     4章22節

この人はヨセフの子ではないか。

故郷ナザレの会堂でイエス様が安息日の礼拝(キリスト教のミサのようなもの)で朗読・説教を行った時に、故郷の人たちはイエス様を「ヨセフの子」、つまり、「大工の子」と言います。
当時は、学校に行ける人はある特定の人達だけ、お金持ちや祭司の一族だけでした。識字率(文字の読み書きが出来る人たちの割合)も非常に低かった時代です。(今でも日本のようにみんな文字の読み書きが出来る国というのは珍しいです)イエス様が大工の子と知っている故郷の人たちは、文字の読み書き、ましてや、聖書の解説など出来るはずもないと考えてしまいます。
大工の子であるという部分で、事の本質、イエス様が何者であるかということを考えず、イエス様を受け入れません。
イエス様は、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と仰います。
みんなも、兄弟や教会学校でよく知っているメンバーが叙階して、司祭となり、ミサを司式しても、お説教とかちゃんと聞ける?「~~の兄弟じゃん!」とか言っちゃわない?
事の本質、人の本質を見極める事の大事さ、「その人が何者なのか」と分かることの大事さがここでもわかると思います。
ここで、もしイエス様を「ダビデの子」と認識出来れば、その人はどれだけ救われたのだろう?

 

マルコ福音書10章47-48節

ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください

エリコという町にいたバルティマイ(バル=子、ティマイの子という意味の名前)は目が見えませんでした。
彼は、イエス様の事を「ダビデの子=クリストス(キリスト)、メシア」と呼びます。
もしかしたら、目が見えないからこそ、物事の本質が見えたのかもしれません。
当時、体に障害があったり、皮膚病になった人々は、「神様から罰を受けている人」と考えられていました。だから、社会からはじかれて、人々と交流する事が出来ませんでした。(生活がほぼできない状態だったわけです。)そういうなか、イエス様が自分が住む町に来ると聞き、いても立ってもいられなかったのでしょう。
前も話しましたが、「主(ダビデの子)よ、憐れんでください」というのはシンプルですが、とても大事なお祈りです。
神様を心の底から信じているからこそ、「憐れんでください」という言葉を発せられたのですね。

 

マタイ福音書16章13-16節

弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

イエス様に「人々は、人の子(ご自分)のことを何者だと言っているか」と尋ねられた(12使徒も含めたくさんの数の)弟子たちは、「エリヤ」や「エレミヤ」という最も尊敬されていた大預言者の名を言います。預言者は「神様の言葉を聞き(預かり)みんなに伝える人」です。イエス様は、「神の子」なわけですから、だいぶ意味が違いますよね。「手紙を出した人」と「手紙を配達してくれた人」では、まったく意味が違います。みんなも手紙が届いた時に配達してくれた人から手紙を貰ったとは思わないでしょ?もちろん、配達してくれる人がいて初めて手紙は届きますから、とても大事な仕事です。ましてや神様からのメッセージを届けてくれるわけですから、特別な人しか出来ません。でも、意味は全く違います。
聖ペトロはここで初めてイエス様を「メシア、生ける神の子」と呼びます。
このシーンは、ペトロの信仰告白と呼ばれています。もちろん、聖ペトロも心の奥底からイエス様をメシア、生ける神の子と信じてはいなかったでしょう。その意味もまだ分かっていません。先程言ったように「クリストス(キリスト)・メシア」という意味が「神の国を実現する人」から「イスラエルをダビデの時代のように栄えられる人」と認識が変わっている時代です。聖ペトロも「ローマ帝国から解放してイスラエルを栄えさせてくれる人」と思っていた部分もあったでしょう。だから、この後、聖ペトロは、イエス様に「サタン」と呼ばれてしまいますし、ご受難の際にも三度「知らない」と言ってしまいます。
イエス様を本当に心の奥底から「メシア、生ける神の子」と分かるのは、聖霊降臨の時まで待たなければなりません。それでも、聖ペトロは、「メシア、生ける神の子」とイエス様を始めて呼んだのです。これは凄い事だと思います。

 

ヨハネ福音書 4章25-30、41-42節

「わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

サマリアの女と言われるシーンですね。
サマリアというのは、当時のイスラエルで特別な地域でした。彼らは、「混血」であったために「ユダヤ人」ではないとされていたのです。(一番最初に話した話を思い出してね…)だから、ユダヤ人は、サマリアの人々と交流する事を嫌っていましたし、してはならない事とされていました。
善いサマリア人の話でもそこがポイントになります。つまり、当時のイスラエルの人々から、サマリアの人々は、神様の恵みを受けられない人々と考えられていたといっても良いかもしれません。
そして、更にこの女性は、「わたしには夫はいません」と言っています。前に話をしたと思いますが、当時のイスラエル社会では、女性は結婚しているか、子どもがいないと、社会の外に出されます。それは、実質的に生活できないという事になります。
イエス様は、「サマリア」の「女性」と話をされ、そのなかで初めて自分が「クリストス・メシア」であると仰います。
イエス様は、ご自分から「クリストス・メシア」である事はほとんど言いません。女性もイエス様を「メシア」かもと言います。社会の外にいる「サマリア」の「女」にそれを言われたという事がどれ程の慈しみであったか、考えてみましょう。女性にとっても、数千年待ち焦がれていた時が、今、まさに起ころうとしているということ、どれほどの救いになったのしょうか。
メシアと思った喜び、その方と出会えた、その喜びを女性は、町の人々、自分を疎外していた人々に伝えます。サマリアの女性がどれくらい嬉しかったかわかりますよね。喜びは、人々に、周りの人々に伝えたくなります。そうじゃないですか?美味しい食べ物や楽しかった出来事はみんなに伝えたいですよね。サマリアの人々も女性のその喜びに触れ、普通ならば「疎外していた人」の話は聞かないのでしょうが、イエス様に会いに来ます。それくらい女性から「喜び」が溢れていたのでしょう。そして、サマリアの人々もイエス様に会い、「この方が本当に世の救い主である」と信じます。
サマリアの人々も、イスラエル社会から疎外されていたので、女性と同じように喜びに満ち溢れたのではないでしょうか。そして、その出会いを起こしてくれた女性に感謝したのではないかと思います。

 

ヨハネ福音書18章33-37節

それでは、やはり王なのか

ご受難の際に、ポンティオ・ピラトから尋問を受けたシーンですね。先日の聖金曜日、主の受難の祭儀でも朗読されました。
ピラトは、「王」の意味を分かっていません。
先程話した「クリストス・メシア」の意味を、イエス様の弟子たちも含め、全員が誤解しています。ピラトの質問にイエス様は、まず、「わたしの国はこの世には属していない」とお答えになりました。
そして、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と仰います。
ピラトやイスラエルの民衆たち、そして、弟子たちが、イエス様を本当はどう思っていたのか、どう感じていたのか、何者だと思っていたのか、わかるシーンですね。

 

ルカ福音書23章47節

本当に、この人は正しい人だった

イエス様が十字架上で亡くなられた時、ローマ帝国の百人隊長がこう言います。
受難、そして、死を見たローマ帝国の百人隊長は、こう言います。その時、彼は、イエス様が、何者であったか、分かったのでしょう。

 

ちゃんと書き出せましたか?
そして、それぞれの福音書の場面でイエス様についてどう思ったか、わかりましたか?
他にも、いくつか、このような箇所があります。みんなも探してみて、イエス様の事を人々はどのように言っているのか、調べてみてください。

 

ところで、イエス様は、どのような事をなさったのでしょうか。そして、どのような方だったのでしょうか?
先程のナザレの会堂でのお説教の際にイエス様はこうおっしゃられています。

 

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。

ルカによる福音書4章18-19節

 

ここはすごく大事なところですね。
まず、冒頭の「主の霊」、これはまさに聖霊です。なぜ聖霊がイエス様の上におられるかと言えば、貧しい人に福音を告げ知らせるために油を注がれた、つまり、神様から貧しい人に「神の国」が始まったことを告げ知らせる役割を与えられたからだと仰っています。そして、その神の国とは、「捕らわれている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人に自由を与えるもの」なのだということですね。初めに読んでもらったイザヤ書のような世界がイエス様が来られることによって起こると宣言されています。
この後、イエス様は、確かに貧しい人と常に共にあり、捕らわれている人を解放し…盲人の目を見えるようにし、圧迫されている人々を自由にします。福音書にはそれらの事がたくさん書かれていますよね。
「捕らわれている」とは、お金とか、名誉とか、もっと言えば、自分自身などに縛られてしまい、本当の自由を見失ってしまっている状態です。
例えば、(ユダヤ人でありながら、ローマ帝国のために税金を集める)徴税人レヴィの話があります。徴税人は当時イスラエルの軽蔑の対象でしたが、同時にたくさんのお金を得ることが出来ました。レヴィはお金持ちになる事で、自身に集まる軽蔑を補おうとしたのでしょうか?お金を貯めて、贅沢な暮らしをすることが目的だったのでしょうが、いつのまにか、お金を貯めることが目的になってしまったのかもしれません。そういう事ってありますよね。しかし、イエス様と出会う事により、富への執着から解き放たれました。そして、彼は、マタイという名で呼ばれるようになり、12使徒となり、福音書を記しました。
みんなもいつのまにか「何か」に捕らわれえてしまい、事の本質を見失ってしまう事ってあると思う。そういう時、イエス様との出会いがそれを解放してくれる、事の本質に気づかさせてくれるとしたら、それは、とても素晴らしい事だと思います。狭くなっていた視野が一気に広がると、自分が大事だと思っていたことが実は大したことがなかった、逆に、大したことがないと思っていたことがとても大事なものだったと気付くいうことが、あります。そういう時、とても晴れやかな気持ちになりますよね。経験ある?
イエス様との出会いが、それを味合わせてくれる、受難・死・復活というモノを信じた時、受けいれた時、そういう気づきがあります。イエス様は、そうおっしゃっています。
最後の箇所に「主の恵みの年」とありますが、これは、今でいう「聖年」のことです。そう、偶然ですが…今年は「聖年」です。みんなは、主の恵みの年に堅信を受けるのですね。

マタイ福音書5章には、キリスト者としてどうあるべきかというイエス様の教えが記されています。そのなかで、神の国とはどういうものかという箇所があります。

 

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 

マタイによる福音書5章3-11節

 

有名な山上の垂訓の箇所です。
幸いであると、何度もイエス様は仰っていますね。こうすれば神の国に入れると仰っているわけですが、逆に言えば、神の国とはこういうものと仰っているのがわかりますか?
私には、下に行くにつれて難易度が上がっているように思えます。
誤解がないように言っておくと、心の貧しい人とは、自分の無力さを知っている人、謙遜の心を持っている人ですね。後は大体わかると思います。
他にも、日本はキリスト者が少ないですから、キリスト者として生きていて、誤解されて、いじめにあったり、罵られる事もあるかもしれません。だけど、最後の箇所にはそういう人は「幸い」とイエス様は言っていますよね。「キリスト者」であることに胸を張って生きてください。このマタイ5章の箇所は、他にも「主の祈り」についてや「地の塩世の光」とか、キリスト者として大事なお話がたくさんありますから、いつかしっかり勉強しましょうね。
大事な事は、もしイエス様が言うように、そして、イエス様のように生きた時、私たちは「幸い」であるということです。ここには書いていませんが、この続きには、「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と書かれています。そこには、喜びがあるはずです。

 

その喜びの礎になるのが……イエス様の受難・死・復活です。
堅信の勉強会を通して、何度も言っていますが、このイエス様の受難・死・復活、この全てを信じる者、受け入れている者でなければ、堅信に与る事は止めておいたほうがいいです。
これは、ある意味でイエス様の「アイディンティティ」です。イエス様が「神の子」「クリストス・メシア」として、イエス様によって私たちが神様に赦され、神様と私たちを繋ぎ、神様の愛を受けることが出来るという事をもう1度考えてみてください。
そのために、イエス様の「十字架上での7つの言葉」を覚えてもらえたらと思います。この7つの言葉は、イエス様が神の子である事、そして、私たちの救いのために犠牲になられていることがよくわかる言葉です。

プリントに聖書の該当箇所が書いてありますので、聖書を引いて、書き出してみましょう。

 

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか

午後3時頃…イエス様が亡くなる前に大声で仰いました。詩篇22編と関連のある言葉を言う事で、聖書の言葉が実現されていることを表している。

 

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

私たちが何もしていない、神の子を十字架につけたという事を言っているだけではなく、私たちの原罪、私たちが神様から離れていくことを、赦してくださるように、自らを犠牲にして神様に頼んでくださっている。

 

はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

一緒に十字架につけられた(熱心党 ―イスラエルをローマ帝国から解放しようと運動している人達- のメンバーと言われている)罪人が、イエスさまに「神の国で、私の事を思い出して下さい」と言った事に対する返事。罪びとであろうと回心し、イエス様を「神の子」「クリストス・メシア」と信じた者には、天の国は開かれる。何故ならそれを知ったものは生き方が変わるから。

 

父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。

全てを神様に委ねる。神様を信頼している。イエス様は、死に至るまで父なる神様を信頼し続けていました。

 

母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」

使徒ヨハネにマリア様を託します。マリア様は、この言葉によって「やもめ」にならずにすみました。(女性は、夫か子供がいなくなれば社会から弾かれる)
また、この言葉により、マリア様は、イエス様の母と言うだけではなく、私たち「キリスト者の母」となりました。

 

渇く

これも詩編22編の言葉、これによって、聖書の言葉が実現されていく。

 

成し遂げられた

聖書の言葉を全て実現され、私たちはイエス様によって、贖罪され、神様との関係が修復されました。

 

どうですか?

使徒信条とおなじくらい大事な言葉です。場面を思い描きながらこの7つの言葉を思い出せるようになりましょう。
これらを見ていたローマの百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」と言いました。みんなは「見ないで信じる者」になってください。

では、それらを踏まえて、ヨハネによる福音書21章 15-18節を読んでみてください。

ありがとうございます。

この箇所は、ついこの間、復活節第3主日で朗読された箇所ですね。復活されたイエス様が聖ペトロに「私を愛しているか」と3度問うシーンです。
3度(最もつらい状況にある)イエス様を「知らない」と言った聖ペトロにイエス様が3度「愛している」と言わせる事で赦してくださっているのです。そして、私たちの教会のリーダーとしての使命をイエス様から与えられます。
ただ、この期に及んでも、聖ペトロは「愛」の意味を取り違えています。イエス様は「アガペ(神の愛)」で尋ねたにもかかわらず、「フィリア(友愛)」の意味で答えてしまっています。(日本語の聖書だとわかりづらいですが外国語の聖書だと、はっきりと言葉の違いがあります。アガペとフィリアは…高校で哲学の時間に習うかなぁ…)
イエス様は、結局、最後、3度目の質問で「フィリア」でお尋ねになるのですが…こういう事も全てわかるようになるのは、さっきもお話したように聖霊降臨の時まで待たないといけません。
みんなはどうですか?
みんながイエス様の事をどういう存在としているのかは、これからキリスト者として生きる上でとても大事な事です。みんなにとって、イエス様は「神の子」ですか?それとも、ただの「大工の子」ですか?「私の救い主」と言えますか?そして、イエス様を愛していますか?神様が私たちを愛して下さっているように、無限で、なおかつ、無償の愛をイエスさまに誓えますか?
それによってみんなの行動は変わるはずです。さっきも言った通り、素晴らしい事、嬉しい事は人々に伝えたくなると思います。

良い事、素晴らしい事を1つだけみんなに伝えます。これは、私が一番好きなお祈りです。

 

こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 

マルコによる福音書 14章 36節

 

これは、イエス様が最後の晩餐を終え、受難前、3人の弟子(聖ペトロ、聖ヤコブ、聖ヨハネ)をつれ、お祈りしている時の言葉です。
イエス様もこれから起こることが分かっているので、とてもつらく、とても悲しいのです。出来る事なら逃げだしてしまいたい……それを隠すことなく神様にお祈りします。「この杯をわたしからとりのけてください」と…
でも、イエス様はこう付け加えます。「わたしが願う事ではなく、御心に叶う事が行われますように
すごくつらい、でも、それが本当は「善い事」なのかもしれない。神の意思にそった事なのかもしれない。それこそが自分の使命なのかもしれない。本当の喜びを得られることなのかもしれない。本当の事は私たちにはわかりません。未来も分からないし、人の本当の気持ちもわかりませんから。
だから、神様を信頼して、お祈りします。
みんなも辛いことがあった時、悲しい事があった時、このお祈りを思い出してください。キリスト者として、どうあるべきかは、イエス様が身をもって教えてくださっています。
1時間だけでは、イエス様のお話をしっかりするのは難しいですが、最後に、もう1度、イエス様の問いを思い出し下さい。

わたしを愛しているか。

みんなはどう答えますか?

 

では、イエス様が教えてくださったお祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

 

堅信を希望する中高生の皆さんは、しっかり今回の内容を確認して、次回(5月8日)の勉強会に来てくださいね。

堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

いよいよあと3週間、部活や学校の用事も大変だと思いますが、しっかり勉強して、堅信の準備を整えましょう。




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月に1回、中高生とその保護者を対象に「ゴスペルフラ」の講習会が行われています。

ゴスペルフラとは……

キリスト教の賛美歌に合わせて踊るフラ(フラダンスとは言わないそうです)のことで、ハワイの信者の方が1980年くらいから始めました。
フラを通して神様を賛美するために、今はあちこちの教会や、未信者さんの間でも広まっているそうです。

 

本日は、(復活祭のため、3月が行えなかったので)今月2回目のゴスペルフラの練習がありました。

 

今日は新しい方も参加されました!
高校生のお母さんですが、お子さんは部活で忙しくお母さんだけの参加になりました。

今日は新しい方も参加!

ところであれ?子供たちはどこに?
ちゃんとさっきまで一緒に練習してましたが…

あれ?子供たちはどこに?

何と!お母さんの踊りのビデオを撮ってダメだしをするとかで、スマホを構えています。

ビデオを撮ってダメだし!

家で反省会をするようです!
二人とも自分の親の踊る姿を一生懸命撮ってました。
(怖い怖い…)

でも自分達の練習がおろそかになってますよ!

 

 

子供より大人が頑張ってる?!
疲れたかな?というより集中力がなくなるようです。

子供より大人が頑張ってる?!

もうすぐ本番だよ!ガンバれ~

 

 

あれ?うしろに男の子が?
最初10分だけトレーニングして、あとはあちこち走ってたようです。
また来てね!

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いよいよあと一ヶ月で中高生会の「ゴスペルフラ部」デビューです!
ドキドキハラハラWAKWAK!
次回は5月28日(土曜日)14時から、幼稚園の2階ホールで!
実際の衣装を着てのリハーサルになります!
先生、ご指導よろしくお願いいたします
(>_<)




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今日は、第6回目の堅信のための勉強会です。
堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

今日は、受堅希望者のみの勉強会です。(月1回、第1日曜日は受堅者も含めた中高生の勉強会と合同になります。)出席者は4名。1名はインフルエンザで、1名は部活のため、お休みでした。

さて…今日の内容は、「堅信を受けて以後のこと」について、一緒に考えてみました。
1人の信徒として、どうあるべきなのか、何をするべきかを考え、今後の教会での生活、生き方を考えてみましょう。

主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● 私たちのこれから ●

今日は、堅信を受けて以後の私たちのこれからについて一緒に考えてみましょう。
みんな、この頃毎週教会に来て堅信に与るために勉強していますね。堅信の勉強会が終わったら、パッタリと教会に来なくなる…なんてことはないですよね。
堅信に与って、キリスト者としてゴールになるのではなく、むしろキリスト者として、ようやくスタート地点に立ったと思ってください。聖霊を注がれ、みんなには、信者として「福音(良い知らせ)宣教(述べ伝える)」、大きな役割を受けます。ようやくスタートラインに立てたのにここで来なくなってしまったらもったいないですよね。
前も言いましたが、教会が、もし楽しくないと思うなら、楽しい場所にしてください。
みんなには、聖霊が与えられ、その力が与えられます。学校は本来勉強するための場所で、楽しい場所ではないはずですが、楽しいと感じるのは、みんなが自分自身で楽しくしているからです。みんなには、その力があります。みんなの力で楽しい場所にすれば、人はもっと集まります。そしたら、もっと楽しい場所になると思います。
聖書の言葉をみんなに紹介します。堅信を受けた後の気持ちの持ち方が分かると思います。

 

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

使徒言行録 1章8節

 

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。 

ルカによる福音書 9章26節

 

使徒言行録の方は、聖霊を受けた後、みんなに福音宣教の使命が下されるというお話です。
聖霊がみんなのなかにある『(洗礼の時に造られた)神殿』に流れ込み、力を得ます。この事については、5月8日にしっかり勉強しますね。
さらに、ルカ福音書では、たとえ、この世の栄華を極めたとしても、天の国には、それを持ち込めない。いろんな欲望を叶えたとしても、神様のところに行く時には、それは持ってはいけない。
永遠の命を得て、天の国に入る事、神様、イエス様の側にいられることに比べたら、何の意味もない。何を得たとしても、神様から与えられたアイディンティティを失ってしまえば意味がない。みんなが、自分らしく、そして、何よりキリスト者として、イエス様のように考えて、イエス様のように行う事を求められているのです。
その為に、堅信を授かる際には、聖霊の力を得ますから、大丈夫です。

そこで、一人前の信徒とは、どういう事をする人なのか?少し上げてみました。イエス様のように行うとはどういうことか一緒に考えてみましょう。

  1. 祈り

    • 個人で…

      イエス様は、よく弟子たちから離れて1人で祈られていますよね。
      私たちに主の祈りについてお話された時にも「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる(マタイによる福音書6章5-6節)」と仰っています。
      神様に自らをさらけ出し、想いを伝えましょう。みんなの前だとなかなか自分をさらけ出すのは難しいですからね。
      みんなは、教会の一番シンプルなお祈りを知っていますか?ミサのなかでも歌います。
      「主よ、憐れみたまえ」とか「主よ、憐れんでください」というお祈りです。栄光の讃歌の前に歌いますよね。
      このお祈りは、福音のなかでイエス様に沢山の方々がそうおっしゃるところからとられています。例えば、エリコの町で盲人バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」とイエス様を呼び止めます。
      主と呼び、また、憐れみという神様にしか使われない単語を使う事で、イエス様を「キリスト」「神の子」であると認めています。全能の父、そして、イエス様に助けを求める、その気持ちは、放蕩息子のようなものなのだと思います。
      みんなも何か苦しい事、悲しい事があった時、1人で誰もいないところで、放蕩息子のように神様のもとに立ち帰り「主よ、憐れみたまえ」とお祈りしてみてください。
      これなら、すぐ覚えられるでしょ?

    • 共同体で

      1つの共同体、キリストの体として、共に祈ることも大事です。
      キリストの弟子である私たちが同じ場に集まり、1つの事をお祈りすることは、本当に恵み深いことです。
      例えば、被災者のための祈りなど様々な祈りを共に捧げていますが、みんなで心を一つに祈ることで、共同体として1つになっていくことが出来るのだと思います。

  2. 知識を得ること

    • 個人で…

      心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。

      ペトロの手紙一 3章15節

      勉強する事も大事です。
      松戸教会でもいくつか勉強会が行われていますし、教区や修道会でも勉強会は行われています。
      聖ペトロが仰っているように、イエス様の事を周りの人に聞かれた時、いつでも答えられるように準備しておくことはとても大事です。
      前も話しましたが、私たちは2000年続いている伝統をこれから伝えていく使命もあります。それを伝える時に、将来みんながリーダーになった時のためにも、沢山の事を知っておいてください。
      そして、それは、きっと自分が人生のなかで選択を迫られた時、助けてくれることになると思います。

    • 共同体で…

      松戸教会での勉強会に参加すると、「分かち合い」という時間があります。
      様々な意見・価値観に触れることはとても大事です。カトリック教会は、「普遍的な」という意味がありますが、普遍的な、しっかりとした教義があるからこそ、様々な意見・価値観が共存します。
      1つの御言葉でも、それぞれの経験や価値観などで、受け取り方が全然違ったりします。そのような違う受け取り方に触れることでより信仰が深められるのではないでしょうか。

  3. キリスト者として行動する…

    • 個人で…

      そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 

      マタイによる福音書 25章40節

      他にも、今日の福音書の箇所、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネによる福音書13章34-35節)」や「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイによる福音書5章44節)」など様々な事をイエス様は仰っています。
      私たちがキリスト者としてどうするべきか、人としてどうあるべきか…みんなにはわかると思います。それを素直にすれば良いだけです。
      もしその時勇気が足りなければ、神様にお祈りして下さい。きっと背中を押してくれます。聖霊が力をくださいます。

    • 共同体で…

      教会の活動に参加する事も大事です。
      様々な信徒の方々に触れ、様々な経験をすること、それも信仰を育てる事になると思います。
      教会は、聖人の集まりではありません。私も不完全な人間でよく怒られています。みんなもミサをサボったり、教会学校をサボったり、色々あるよね。
      そういう不完全な人たちが集まって、みんなで信仰を深め、みんなで成長していくのです。
      さっきも話したけど、もし教会がつまらない所なら、みんなの力で楽しい場所にしてください。みんなが笑顔で集まる教会が出来れば、神様も喜ばれます。
      それがみんなの役割です。教会の皆さんも、そういうみんなの事を応援してくれると思います。

  4. 秘跡に与る事

    • ミサに参加する事、これは「聖体」という秘跡に与りますよね。他にも、ゆるしの秘跡や病者の塗油、叙階、結婚…そして、みんながこれから与る堅信…。ミサの中で行われる洗礼式…秘跡に与ることで、私たちは神様・イエスさまに出会うことが出来ます。嬉しい事ですよね。その喜びが信仰を深めます。嬉しい事は人に伝えたくなります。なるでしょ?
    • そして、すごく大事な事…先週も話しましたが…
      イエス様の受難・死・復活を信じられますか?それをしっかり受けいれていますか?
      もし、それに少しでも疑いがあるなら、堅信を与るのは今年は止めた方が良いかもしれません。それくらい大事な事です。
      今まで一緒に行動していた仲間や弟子たちには裏切れられ、「知らない」と言われ、ムチで何十回も打たれ、棘のついた冠をかぶせられ、自分を死刑にするための十字架を担いで丘を登り、磔刑という当時でも最も残酷な刑に…腕や足に直接くぎを打たれ磔にあい、無実の罪で殺されてしまった。
      そこには、お母さんがいて、そのお母さんは自分が死ねば、当時の社会は夫か子供がいない女性は社会生活を送れないようになっていましたから、ヨゼフ様のいないマリア様、お母さんはイエス様が死ねば、社会から弾かれる、それもイエス様は分かっている…夢も希望もない……絶望…まさに言葉通り、「望みが一切ない」状態ですよね。本当に絶望です。
      みんなにも将来そういう時があるかもしれません。絶望、もう死にたい!という時。そこには一切の希望がない…そういう時が来るかもしれません。
      友達もいない、お父さんやお母さんにも助けてもらえない、自分じゃどうにもできない、という時…。
      イエス様もそこで確実に100%死にました。絶望です。完全な絶望です。
      実は生きていた、危篤?的な感じ、とかではありません。100%、完全に死にました。でも、3日後、ご復活されます。絶望の奥には希望があります。
      よく「神様がいれば大丈夫」とか仰る方もいます。その意味は、絶望しないという意味ではありません。絶望的な状況に追い込まれないという意味ではありません。
      絶望的な状況に追い込まれても、それでもなお、その奥に希望があると仰っているのです。
    • 物凄い矛盾していますよね。「絶望」なのに「その奥に希望がある」と言っているのですから。でも、神様には出来ない事は何1つないのです。物凄い厳しい話です。絶望なのに希望がある。そう信じなさい。と言っているのですから。
      でも、それはイエス様を知れば、イエス様の受難・死・復活を信じるならば、受け入れるならば、わかるはずです。
    • 秘跡に与ることは、神様、イエス様に出会う事、そして、受難・死・復活という主の過越の出来事を経験する事です。経験すれば、それを受け入れる事が出来るはずです。
      是非、しっかり与ってください。

 

今日は、みんなに「堅信までに是非覚えてほしい事」をまとめたテストを行います。
テストと言っても、プリントにはヒントが書いてありますね。なんと!聖書をひけば、答えが書いてあるという…とても優しいテストです。
さぁ…短い時間しかありませんが、やってみましょう!

……………答え合わせをします。ぜ・全部あっている人はいませんでしたね。
では、最後に(もうミサが始まってしまうので)十字架のしるしをして、終わりにしましょう。

 


 

 

さて、次回の勉強会は、5月1日・9時15分から「堅信のための勉強会」も兼ね、中高生の集まり(勉強会)として、行います。
筆記用具とノートをもって、集まってください。

堅信を希望する中高生の皆さんは、しっかり今回の内容を確認して、勉強会に来てくださいね。
堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

 

 

いよいよあと1ヶ月、部活や学校の用事も大変だと思いますが、しっかり勉強して、堅信の準備を整えましょう。




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堅信

 

今日は、第5回目の堅信のための勉強会です。
堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

今日は、受堅希望者のみの勉強会です。(月1回、第1日曜日は受堅者も含めた中高生の勉強会と合同になります。)出席者は5名。
さて…今日の内容は、「ミサ」について、考えてみました。
なぜ、ミサに与るのか、なぜ教会に来るのか、もう1度考えてみましょう。

主の祈りを唱えてスタートです。

 


 

 

今週のテーマ

● ミサについて考えてみよう? ●

今日は、ミサについて一緒に考えてみましょう。
みんなにとって、ミサは、どういうもの、どういう位置づけですか?大切なものですか?お父さんやお母さんに無理矢理連れて行かされているモノですか?
お祈りする時間?お祈りならば、家でも出来ない?それなら、わざわざ毎週集まる必要があまりないのではないですか?
教会共同体として、私たちが存在するのは、キリストのからだをうけ、キリストと一致したものとなり、キリストのからだにかえられるからです。
ミサによってミサによって、教会は教会となります。
私たちは、キリストの体となったご聖体を頂き、ともに祈りを捧げます。そして、教会共同体として1つの(キリストの)体となります。だから、教会にとっても、私たちにとっても、大事なものなんです。

もちろん、ミサだけが、私たち信徒にとって大事なモノではありません。
聖書や神学について研究し私たちに教えを伝えてくださり「教会博士」、殉教し私たちに道を示してくださった殉教者など色々な聖人たち、名もなき殉教者達や信者、もちろん、みんなのおじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さんたち、そういう方たちが作ってくれた2000年の伝統、また、それらを学ぶこと、つまり、勉強ですね。そういう事もとても大事です
勉強しないと、私たちはどうやって信仰を育てますか?そして、どうやって、次の世代、子どもたちにそれらを伝えていきますか?
堅信を受けた後は、みんなも福音宣教の使命があります。
教会が準備する機会を与えてくれるのは多分これが最後です。後は自分で、勉強会等に出て、勉強しなければなりません。みんな、この機会を大事にしてくださいね。

さて、ミサの話に戻ります。
ミサは、主の晩餐という呼び方もします。「主の晩餐」という言葉、つい最近聞きましたよね。
そうです。聖週間の「主の晩餐の夕べのミサ」ですよね。主の晩餐の夕べのミサは、イエス様がミサについて教えてくださった「最後の晩餐」を直接記念して祝うものです。
聖パウロのコリントの信徒への手紙にもこう書かれています。

 

感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

コリントの信徒への手紙一 11章 24節

 

この言葉、ミサのなかで神父様が仰いますよね。いつ仰られているか、覚えている?
そう、聖変化の時だよね。「奉献文」を唱える時に仰られています。
イエス様は、ご自分の体を私たちのために神様に捧げ、私たちはそれを食す事で、キリストと一致したものとなり、教会となります。教会とは私たち信者の集まりの事を言うと勉強しましたよね。
ご聖体を頂き、共同体として1つの体となり、共に御言葉にふれ、共に捧げ、共に祈るのです。
秘跡のお話、覚えていますか?「秘跡は、神様・キリストとの出会いそのもの」ですよね。
キリストの体、ご聖体を頂くこと、もちろん、みんな分かっていると思いますが、これは「聖体」という秘跡に与っています。
ミサに与ることで、神様、そして、イエス様に出会い、「主の晩餐」、つまり、夜ごはんをみんなでいただくのです。夜ごはんを家族で食べる時、お父さんやお母さんに今日あった事、嬉しかった事、怒った事、悲しかった事、楽しかった事、色々な事を話しますよね。
主の晩餐に招かれた私たち、そう、ミサには「行く」のではなく招待されるのです。神様が、私たちを招いてくださっていて、それに私たちは参加します。神様が呼んでくださったのですから、楽しく食事に与りませんか?神様にお父さんやお母さんに話すように、嬉しかった事、怒った事、悲しかった事、楽しかった事、色々な事を伝えましょう。神様は、みんながご自分の食卓に並んだことをとても喜ばれます。みんなの話を喜んで聞いてくれます。

それでは、聖書を読んでみましょう。少し長いですが、とてもだいじな箇所です。イエス様がご聖体についてお話して下さっている箇所です。
ヨハネ福音書の6章26~40節を読んでみましょう。

ありがとうございました。
色々な事をイエス様はお話下さっていますね。
まず、最後のところではこうおっしゃっています。

 

わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

ヨハネによる福音書6章39 40節

 

イエス様を信じる者達を神様は「永遠の命」に与らせたいと希望されていることをお話下さっていますね。さっき話した通り、私たちの希望の前に、まず「神様が私たちを求めていらっしゃること」、そして、「1人も失わないで」、みんなを「永遠の命に与らせたいと思ってくださっている」という事、そのために、イエス様を遣わされた事と仰っています。
そして、その前の箇所では…こう仰っていますね.

 

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」

ヨハネによる福音書 6章35-36節

 

ミサは、受難・死・復活を、思い起こすものです。それは、教会のあらゆる力の源泉です。
受難・死・復活こそ、神様の愛、『その独り子をお与えになったほどに』私たちを愛して下さっている神様のしるしだからです。受難・死・復活を信じられないならば、ご聖体の意味も、もちろん、ミサの意味も、もっと言えば、信者である意味がありません。ご聖体を頂いても、それはただの小麦粉です。何の意味もありません。
ミサは、学校の朝礼や集会のようなものではありません。ただの儀式ではありません。神様に出会う場です。神様の愛を感じる事の出来る、体感できる場です。もう1度、イエス様の受難・死・復活について考えてみてください。そうすれば、ミサに来る意味を見いだせるはずです。

ミサは、聖書を朗読し御言葉を味わい、(喜怒哀楽などを伝え)神様に私たち自身を捧げ、そして、心を合わせて祈り、ご聖体を頂きます。
みんな、ミサの流れ、式次第は大体頭に入っている?侍者をやってくれていたりすると、覚えているよね?
み言葉を味わう事もすごく大事です。
神様の言葉、使徒たちの言葉、イエス様の言葉、全て私たちのために仰ってくださっています。
だから、時々、聖体拝領の時だけ来て、返ってしまう人がいますが、それは違います。神様・キリストと出会うために、御言葉を聞き、説教を聞き、もう1度イエス様の受難・死・復活を思い起こしましょう。そうでなければ、何度も言いますが、「ご聖体」は聖変化せず、ただの小麦粉の塊です。それでは、意味がないでしょう?

では、ヨハネ福音書14章6節を開いてください。

 

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

ヨハネによる福音書 14章 6-7節

私たちは、ご聖体を与る事でイエス様に出会い、神様に出会っています。
イエス様にで会う事で、神様に出会う事が出来ています。ミサは、まさに「神様に出会いに来ている」、神様に食事に呼ばれている場なんです。
そして、キリストの体、私たちが一つの体になることが出来る場なんです。
こうやって、血の繋がっていない、育った環境も全く違う私たちが1つの体、家族となり、教会になります。

さて…今日は、簡単なテストをしましょう。
神様に出会う、イエス・キリストに出会うことである秘跡、7つありますよね。プリントにその7つを書いてみましょう……。

書けたかな。(か・簡単だよね)順番もあるからね、順番も大事だよ。ちなみに。堅信式までに言えるようにしようね・・・
では、最後に使徒信条を唱えて、信仰を宣言して、終わりにしましょう。

 


 

 

堅信を希望する中高生の皆さんは、しっかり今回の内容を確認して、次回(4月24日)の勉強会に来てくださいね。

堅信の勉強会のカリキュラムは、以下のページに掲載されています。

 

いよいよあと1ヶ月、部活や学校の用事も大変だと思いますが、しっかり勉強して、堅信の準備を整えましょう。