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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは3人。

今月から、求道者の高校生も正式参加ということで、「洗礼」を意識した内容を行います。
堅信を受けたメンバーも、もう1度「キリスト者になる」ということはどういうことか思い起こしてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● バルティマイのお話 ●

 

今月から、求道者の高校生が参加するということで、今月から求道者のメンバーが、入門講座を休んでも大丈夫な内容にしたいなぁと思います。(出来るだけ同じ内容のものに出来たらと思います。)既に堅信を受けたメンバーも、良い機会ですから、もう1度「キリスト者になる」とはどういうことか、考えてもらえたらなぁと思います。

(今日は、先日、帰天された小川神父様のために子どもたちと一緒にお祈りするために、途中で教会学校の始業式に参加します。9時半になったら1度御聖堂に行きましょう)

 

さて、今日は、「バルティマイの話」をしたいなぁと思います。この話は、何度か話したことがあります。覚えていますか?
バルティマイの、「バル」というのはアラム語で、息子って意味です。つまり、バルティマイは、「ティマイの子」という意味ですね。他にも、使徒にはバルトロマイという方がいらっしゃいますね。「トロマイの子」という意味です。

実は、この話、マルコ福音書にしか載っていない話です。
前にも、お話しましたが、福音書はそれぞれ書かれている時代や誰に向かって書かれたかが違います。

  • マタイ福音書

    使徒聖マタイによって記された福音書。A年の年の福音朗読となる。70年代に成立したとされている。
    イエス様とともに行動した使徒である聖マタイが、主にユダヤ人のために記されたとされる。

  • マルコ福音書

    聖マルコによって記された福音書。B年の年の福音朗読となる。60年代に成立したとされている。
    聖ペトロや聖パウロと共に行動した聖マルコが、ユダヤ教の理解のあまりない異邦人のために記されたとされる。

  • ルカ福音書

    聖ルカによって記された福音書。C年の年の福音朗読となる。70年代に成立とされている。
    聖パウロと行動を共にした聖ルカが、ローマやギリシャの身分の高い人々、高い知識を持った人々のために記されたとされる。

  • ヨハネ福音書

    使徒聖ヨハネによって記された福音書。待降節や四旬節や復活節などに朗読される。100年頃に成立とされている。
    イエス様とともに行動した使徒である聖ヨハネが、4つの福音書の一番最後に記したとされる。

 

マタイやマルコ、ルカ、ヨハネは、自分の共同体やその時代に必要なメッセージを込めたからでしたからですよね。
だから、時代背景やその共同体の現状によって、内容が少しずつ変わります。同じ出来事でも違うように書いてあったり、このバルティマイの話のように、ある福音書には載っているけど、他の福音書には載っていない話というものもあります。
福音書は、聖霊が福音記者を導き、福音記者によって記されたものです。私たちが、福音をより深く理解出来るように、そして、救いの源となるみ言葉を深く味わえるように、4つの福音書を用意して、4つの視点から私を導いています。

 

さて、では、まず、マルコ福音書10章46節を開いてみましょう。

 

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。
ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

 

 

はい。
ありがとうございます。

この話には、いくつかのポイントがあります。
では、順に追って話をしていきましょう。

  1. エリコという町

    このエリコという町は、有名な街ですね。
    旧約聖書のなかでも、モーセの後継者ヨシュアが、約束の地であるカナンに入る時に、始めに戦闘を行った話が記されています。
    その時に、エリコの人々は城門を堅く閉ざし、誰も出入りすることができませんでした。しかし、神様の言葉に従い、イスラエルの民が契約の箱を担いで7日間城壁の周りを廻り、角笛を吹くと、その巨大なエリコの城壁が崩れ、エリコを占領できたというお話です。(ヨシュア記6・20参照)
    ヨシュアはヘブライ語の呼び方で、アラム語で読むと「イエス」になります。そう、イエス様と同じ名前の預言者です。ヨシュアは、このエリコを足掛かりに「カナンの地」に王国を築きます。そして、イエス様は、この後、エルサレムに入城し、受難・死、そして、復活し、私たちに神の栄光と神の愛を示してくださいます。

    ヨシュア、イエスという名は、「神は救う」という意味です。まさに2人とも、受けた名前にふさわしいことをなさったわけです。

  2. バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた

    もう1度、当時のユダヤ人社会について、思い出してみましょう。
    当時、ユダヤ人といわれる人は、「ヤコブ(イスラエル)の12人の子の子孫である12部族の民であること」、そして、「ユダヤ教に信仰をおいている人」という2つの条件がありました。そのどちらかが欠けても、ユダヤ人とは呼ばれません。
    例えば、異邦人と呼ばれる人も聖書には出てきますよね。他にも、サマリア人も出てきます。彼らは、ユダヤ教を棄教してしまっていたり、または、(ユダヤ教を信仰していても)混血してしまったりした人々ですので、条件にあてはまりませんよね。彼らは、ユダヤ人社会の外の人として認識されます。
    そして、バルティマイのような盲人はもっと悲惨でした。
    当時ユダヤ人社会では、盲人や皮膚病、足の不自由な人などは、「神さまから罰を受けている人」とされ、人々はその人たちとの関係を断ちます。自分も罪を負うことになってしまうからです。ですから、当然のように「仕事にもつけず、友達もいない」という状況になってしまいます。つまり、バルティマイは、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人社会の外にいる人ということになります。だから、彼は「物乞い」をするしかない状況になってしまうわけです。
    想像してみてください。
    目も見えず、友達もいない。誰も助けてくれない。働けない。生きている意味すら感じられないかもしれません。
    まさに真っ暗闇の中にいる状況ですよね…

  3. ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください

    前にもお話ししましたが、「ダビデの子」というのは、「キリスト」という意味ですね。
    そして、聖書の中で、「憐れむ」という動詞は、「神様やイエス様」にしか使われない言葉です。だから、この「憐れむ」という言葉を使うこと自体、すでに「神様」や「メシア」に向かって言っているのと同じ意味になります。
    ちょうど先週(年間第21主日)、聖ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と、答える箇所が福音朗読でした。
    バルティマイは、聖ペトロのように弟子としてずっとイエス様の側にいたわけでもなく、数多くの奇跡を実際に目の前で見たわけでもありません。きっと、どこで誰を救ったとか、どのような話をし、ファリサイ派や長老たちと言い争ったか(論破したとか)等の噂話をしているのが聞こえてきたのでしょう。いつしか興味を持ち、自分でイエス様の話を聞いて回ったかもしれません。そして、「自分を救えるのはイエス様しかいない」と思うようになったのでしょう。
    バルティマイにとって、イエス様が自分の住むところに現れたことが人生において、最大の、そして、最後のチャンスだったのかもしれません。
    だから、(もちろん、そういう人物-神様から罰を受けている人-が来ればイエス様を守るために、そして、自分達が関わらないために、止めようとするでしょうが、)誰が止めても、イエス様のいるだろう方角に向かって大声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と、叫び続けたのでしょうね。
    もうイエス様しか、神様しか頼るものがない!助けてほしい!まさに、必死に、心の奥底から、イエス様を、神様を求める光景が浮かびますよね。
    バルティマイの気持ちになって考えれば、みんなにもわかると思います。

    教会に集う人たちの気持ちをここで当てはめてみてください。

     

  4. 行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。

    イエス様は、必死で自分を呼び続けるバルティマイを呼ばれます。
    バルティマイは「上着を脱ぎ棄てて」と、ありますね。当時は一枚布のチュニックのような「下着」をまず来て、マントルのような「上着」を着ます。
    バルティマイにとって、「上着」は「彼の持っている全て」だったに違いありません。
    全てを捨てて、呼んでくださったイエス様のところにバルティマイは駆け付けます。
    そして、イエス様に目が見えるようになりたいと訴えます。
    そのバルティマイにイエス様は、何をなさるわけでもなく、ただただ「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と、言います。
    旧約の預言者達も数々の数々の奇跡を起こします。死んだ人を生き返らせたエリヤやエリシャもいます。
    しかし、イエス様のように何もせず「ただ言葉をかけるだけで癒した」という事はありません。これは、神そのものであるイエス様と、「神様の言葉を預かる」預言者の違いなのでしょう。

    この言葉「あなたの信仰があなたを救った」という言葉は、他の箇所でも見ることが出来ます。

    1. マルコによる福音書 5章34節
      ヤイロのもとへ行こうとされる時に、「十二年間も出血の止まらない女」がイエス様に触れ、病気が治った時…
    2. ルカによる福音書 7章 50節
      ファリサイ派のシモンの家で食事をしている時に、罪深い女が後ろからイエス様の足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して香油を塗った時…
    3. ルカによる福音書 17章 19節
      重い皮膚病を患っている十人を癒された後、唯一サマリア人が大声で神を賛美しながら戻って来て、イエス様の足元にひれ伏して、イエス様にお礼を言った時…。

    私(イエス様)が救ったのではなく、「あなたの信仰が、あなたを救った」と、イエス様は仰います。こんなうれしい言葉ないですよね。
    私たちが何かをイエス様のために何かしたからでもなく、ただただ「イエス様を神の子、メシアと尊び、神のいつくしみを深く求める信仰」が、私たちを救うということですよね。
    神様が、アブラハムやイサク、ヤコブと契約された時、そして、罪のないイエス様を十字架上での死、復活を通して、新たに契約を結ばれた際に、まったく私たちに条件が与えられなかったように、イエス様は癒すために、私たちに「何かの条件」を、与えたわけではありません。

    ただただ「全てを捨て、神様を信頼し、そのいつくしみを求める」こと、そんなシンプルなことが私たちを救う。こんなうれしいことがありますか?

  5. 盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

    始めに、この話を始める時、マルコ福音書にしか載っていない話と言いましたよね。
    数多くある「盲人を癒す(目を見えるようにする)話」のなかで、この話は、盲人の名前「バルティマイ」という名前をわざわざ残しています。
    当時のマルコの共同体(ユダヤ教の理解がない異邦人たち・ローマの人たち)の間でも「バルティマイ」は知られた存在だったのではないかと言われています。
    つまり…「なお道を進まれるイエスに従った。」とあるように、大変な迫害にあっていた当時の初代教会の1人として、彼は信仰を守っていたのでしょう。

    さて、そのバルティマイは「元・盲人」として有名だったのでしょうか?それとも、「元・物乞い」として有名だったのでしょうか?「元・可哀想な人」としてでしょうか?
    きっと、違いますよね。
    彼がその後どのような人生を歩んだのか、聖書には残されていませんし、分かりません。
    でも、きっと「イエス様によって目が見えるようになって、初めてバルティマイは、何の色もつかない、バルティマイというひとりの人として、アイデンティティを取り戻し、他の人との関わりを持つことが出来た」のだと思います。それは、彼にとって、目が見える事より、はるかに嬉しかったことではないでしょうか?

    だから、彼はずっと残り続け、「イエス様に従いつづけた」のだと思います。
    バルティマイが有名だったのは、まさにバルティマイこそが「福音の見える現れ」であり、「神の国の欠片」だったからではないでしょうか。
    そして、バルティマイの喜びが、迫害にあう人々を支えていたのではないでしょうか。きっとですけど…

    みんなは、どうでしょうか?
    それぞれみんな「イエス様に呼ばれ」集まった者たちですから、一人ひとりの喜びに満ちた共同体になるはずです。
    アイデンティティを取り戻した本当の自分は、「極めて良い(創世記1章31節)」ものです。
    そして、マタイによる福音書6章33節には、こう記されています。

    神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、他のものはそれに添えて与えられます

    共同体に受け入れる側も、これから洗礼を受ける側も、バルティマイが上着を脱ぎ棄てて、イエス様のところにいつくしみを求めてきたように、まず全てを捨て、イエス様のところに集い、他の人と関わりあう事によって、喜びに満たされます。そうすれば、他のものは自ずとそれに添えられて与えられます。だから、神様を信頼して、全てを捨てて、飛び込んでみてください。

 

 

さて、時間も押し迫ってきたので…そろそろまとめます。
私たちもバルティマイのように、強い信仰を持つことが出来れば、どれだけ幸せでしょうか?
こんなシンプルな事が私たちには、なかなかできないでいます。
福音書のなかには、神様を求めて、神様のいつくしみに触れたくてもがいている人たちがたくさん出てきます。
私たちは、そういう方達の信仰から、多くのことを学べるはずです。

前も言いましたが、このバルティマイの「ダビデの子イエスよ、あわれみたまえ!」は、立派なお祈りです。

「主よ、憐れみたまえ」

これから、ミサのなかで私たちは歌いますよね。歌は祈りです。
私たちが、バルティマイのように「全てを捨てて、あなたのもとに歩めますように!」という強い思いで歌ってみてください。

それでは、最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

 

来月の勉強会は10月1日、9時15分から行われます。
筆記用具をもって、集合して下さい。
来月は「聖霊降臨について」勉強します!




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今日は、中高生の集まりが行われました。
普段、なかなか教会に来れない中高生が夏休みの機会にみんなで集まろうという企画です。

(兄弟が参加した教会学校の子どもたちも含め)高校3年生から中学1年生まで、午後5時半から集まり、フィリップ神父様にもご参加頂き、親交を深めました。

 

まずは、乾杯!

 

みんなでお肉をみんなで頬張ります!
今日の日のために、教会の方や保護者の方々が用意して下さいました!

 

 

青年たちが置いているグルーブやボールを使って、キャッチボールをしたり、水風船で遊んだり…お腹いっぱいになった後はみんなで話したり、遊んだり…

 

仕事を終えた教会学校のリーダーも到着!
久々の再会となる中高生の成長にビックリしていましたね…

 

 

 

 

ここで、6月4日に行われた東京教区合同堅信式で堅信に与った中高生へ、フィリップ神父様から教会からのお祝いが贈られました。

 

来れなかった中高生は、代父さんが…代わりにいただきました…

来ている教会学校の子どもたちも、後何年かしたら、必ず堅信に与りましょうね!

 

 

食後には、教会の方が中高生のために差し入れしてくれたアイスをみんなでいただきました!

 

 

最後にみんなで記念撮影!

 

高3から中1までと、年齢差もあることから、「初めて会った」なんてこともあったみたいですね。
でも、誰々のお兄ちゃんとか誰々の弟とか分かると、「なるほど」みたいな…

もっとたくさんの機会を作って、たくさんの中高生に参加してもらって、親交を深める機会を作りたいですね。
これからも、月1の勉強会、そして、様々な企画を行っていきますので、是非みんな集まってください!
教会学校にも顔を出してあげてくださいね!)




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中高生

 

毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは3人。

今日は、今まで勉強したことをベースにもう1度、秘跡、教会、そして、キリスト者の生き方について、一緒に考えてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● 秘跡としての教会 ●

 

先週は、洗礼を受け新たに信者になった方のお祝いの会がありました。
そして、その前の週には、みんなの後輩たちが、初聖体に与りましたね。そして、初聖体に与った後ミサの後には、パーティを行いました。
なぜ、わたしたちは、これらのことを祝うのでしょうか?
儀式を済ませたから?祝うべきことだから?

「祝ってもらう」「祝ってあげる」と思っているならば、それは違います…
受洗された人、受堅された人、初聖体に与った子ども達だけに喜ばしい事があったのではありません。
私達一人ひとりに、同じくらいの喜びがあったから、共に祝うのです。
それは、本当にとても素晴らしいことが、私たち一人ひとりに起こったからです。

前に、教会の話をしましたね。教会とは、エクレジア・呼び集められた者です。キリスト者として、共に喜び、共に悲しむことができる人が加わったのです。

そして、私たち共同体は、1つのキリストの体として共に祈り、ともに神の国を目指すのでしたね。
つまり、新たに入信の秘跡(洗礼・聖体・堅信)を受けた方々が加わったということは、私たちがまた1つ大きな力を得て、神様のもとに歩めるということです。
だから、私たち、それぞれに大きな喜びがある出来事なんです。

 

さて、ところで、みんなは7つの秘跡、覚えていますよね。
みんなで1つずつ言ってみましょう。

そう、洗礼・聖体・堅信・叙階・結婚・ゆるしの秘跡・病者の塗油でしたね。
私たちは、秘跡を与ることによって、「私たちが見る事の出来ない神様の愛、存在を感じる事が出来る」ようになります。
つまり、秘跡は、神様との出会いそのものなのでしたね。
そして、信仰の弱い私たちは、「わたしはある」という名前の神様の存在を感じ、信仰を強めていきます。

また、イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ(ヨハネによる福音書14章9節)」と、仰っている通り、イエス様を通して、神様の存在、神様のことを感じることが出来ますよね。
私たちは聖書を通してそれを現わしている出来事を知っています。

イエス様においてのみ、一度だけ神の恩恵が人類に余すところなく完全に示されました。神のしるしとして、人間としてお生まれになったイエスは、同時に神御自身でもありますから、非常に「特別なしるし」だと言えます。カール・ラーナー師(20世紀を代表する神学者・イエズス会)は「実在的シンボル」と呼んでいます。

そう…キリストご自身が秘跡そのものなのです。この事を原秘跡と言います。
「原」という言葉には、他のすべての秘跡がイエス様において示された神の恩恵に由来しているという意味が込められています。

 

 

この2つのこと(私達共同体がキリストの体であること・秘跡のこと)を踏まえたうえで、今日の話をしましょう。

みんなは、十字のしるしの意味をおぼえていますか?

父と子と聖霊のみ名によって

神様・イエス様・そして、聖霊とのつながりの中にいる自分。その中に含まれる自分。
そして、使徒信条には、「聖徒の交わり」という言葉があります。
私達は、「神様・イエス様・聖霊(そして、その聖霊を注がれている信者)の交わり」によって、そして、そのなかで、生かされている…これが、十字のしるしに含まれる意味の一つです。

「聖徒」とは、使徒聖ペトロたちイエス様の時代の弟子たちから今の私たち、そして、将来のキリスト者のことを言います。
ミサで行われる聖変化の時、まさに私たちは、時空を超え、イエス様が最後に弟子たちと食事をした「最後の晩餐」の場にいます。そして、2000年間それは絶えることなく行われてきました。そして、これからもそれは続いていくでしょう。
過去、現在・未来の聖徒たちが心を合わせ、イエス様の体を頂き、繋がっていく。これこそが聖体の神秘なんですよね。それこそ、まさに「聖徒の交わり」です。
つまり、「十字架のしるし」は、時空を超えた全ての信徒との関わり、交わりをさしてもいます。

先日、ある勉強会の分かち合いのなかでで、信徒の方が、「祈りとは、自分が祈ると同時に祈られている、という事」と仰っていました。
私たちが誰かのために祈る時、誰かも私達のために祈っているということ。
みんなの亡くなった高祖父さんや高祖母さんはどうでしょう?みんなのことをきっとお祈りしていたと思います。
みんなはどうですか?将来の自分のこども、孫たちのために祈りたいとおもいませんか?
私たち、過去・現在・未来、全ての信者が、祈り、祈られている…祈りとは、私たちが、まさに「十字架の関わりの中にいる」事を認識できるものなのですよね。

 

その「聖徒の交わり」こそが、教会です。
過去・現在・未来において、全ての神様から呼び集められた者達のことを言うのです。

ところで、教会の聖堂には、必ずご聖櫃があり、「ご聖体」があります
イエス様がそこにおられるのです。
今は、様々な事情でなかなか難しいのですが、昔、建てられた聖堂には、本当に建物の真ん中にご聖櫃があります。私たち、集められた者達の真ん中にイエス様がいるということのしるしですね。
そして、聖パウロが「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場(エフェソの信徒への手紙1章23節)」という通り、イエス様を、頭とし、私達一人ひとりが、キリストの体という話はよくしていますよね。

ということは、教会は、イエス様の存在を感じる場でなければなりません。つまり、神様を感じれる場所でなければなりません。
「神様を感じれる?」という事は、秘跡とはいうことですよね?
教会は「救いの普遍的秘跡」(教会憲章48)なのです。
ということは、私たち全てのキリスト者に出会った時、出会った人が、神様やキリストを感じてもらえなければなりません。私たち「呼び集められた者」は1つの体となり、ともに神の国を目指します。教会を通して、イエス・キリストとの出会いにおいて完成するとカトリック教会は信じているのです。

キリスト者になることで、キリストの体の一部になることで、私たちはともに歩み、神の国を目指します。
復活徹夜祭の光の祭儀のなかでも、神父様が「始まり(α)から終わり(Ω)まで」といいますね。それは、「神様による創造からイエス様の再臨まで」と言う意味です。

神様は、創造の時から、私たちを幸せにするために、いつか共に神の国に到達できるように、願っていて、私たちがそれを心の底からそれを信じ、1つのキリストの体として、イエス様がもう1度来られる、終わりの時を目指し、歩んでいき、神様・イエス様によって「本当の自分、ありのままの自分が、救われる」と、私たちは信じています。
本当の自分、ありのままの自分とは、決して「わがままし放題してよい」というわけではありませんよね。

例えば、1つの点を求める時に、必ず2つの直線が必要になるように、私達も、本当の自分、ありのままの自分を知るためには、2つの直線が必要になります。
そう、まさに「十字のしるし」ですよね。
神様・イエス様・聖霊(聖徒)の交わっているところこそ、「本当の自分・ありのままの自分」なんですよね。
だから、神様だけ、イエス様だけと繋がっていればいいという人が時々いますが、それだけでは不十分です。確かに、神様は、「本当の自分・ありのままの自分」を、慈しみ、愛して下さっています。教会共同体という直線もあって初めて、本当の自分・ありのままの自分を見つけることが出来ます。お互いが交わり合い、分かち合い、愛し合ってこそ、初めて本当の自分・ありのままの自分を見つけることが出来るのです。その「本当の自分・ありのままの自分」こそ、「救われる自分」です。
だから、共同体が成長すれば、自ずと自分も成長することが出来ます。(線がy軸上でプラスになれば、点の位置も変わりますよね)
そうやって少しずつ神の国を目指し、我々は歩んでいくんですね。

だから、昔(第2バチカン公会議前)は、「教会の外には救いがない」と教会は考えていました。
もちろん、それは今でも堅持されています。しかし、私達、キリスト者がその考えにおいて、「貧しい人」を放置しておいてよいという事ではないという事を、第2バチカン公会議では、もう1度思い出します。

よくカトリック、プロテスタント各教派問わず、教会の入り口に書かれている有名なみ言葉があります。ちょうど、来週の福音の箇所ですね。マタイによる福音書11章28節から30節を開いてみましょう。

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

マタイによる福音書11章28~30節

 

はい、ありがとうございます。
では、もう1カ所、今度は、マタイによる福音書28章19節を開いてください。

 

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

マタイによる福音書28章19-20節

 

 

イエス様は、私達全てのキリスト者に「すべての民」に福音宣教を命じられています。
教会は、イエス様によって救われる場であると同時に、私達全ての「呼び集められた者達」が、教会に来た人たち、そして、お互いが、神様・イエス様を感じるものでなくてはいけません。
つまり、教会を通して、全ての人々、に神様・イエス様に出会う喜びを届ける使命を負っているのです。
教会は全人類のための救いの秘跡」だからです。

イエス様は、私たちの重荷を共に負ってくださいます。だからこそ、今度は、私たちが誰かの重荷を負うことが求められているのです。
たとえば、一人ひとりの力は「難しい数学の問題を自分は解けないかもしれなけど、人に優しくは出来る」、とか、「速く走る事は出来ないけど、歌は上手に歌える」って感じです。
でも、1人ではダメなことも、教会「呼び集められた者達」ならば、誰かがそれを担えます。誰かが、それをなせるからです。神様と違い、私たちの力は有限ですが、キリストの体となった時、それは可能になりますよね。

パパ様(教皇フランシスコ)は、教会は「野戦病院であれ」と仰られています。
キリスト者として、常に「貧しい人々」と共にあり、常に最前線の場にいることを、私達一人ひとりが忘れないようにしないといけないですね。
そして、教会は、イエス様のように、常にオープンで、誰もが、どんな人もが、来たくなるような場所でなくてはいけません。

最後に、マタイ福音書の5章13節を開いてみましょう。

 

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
マタイによる福音書 5章13-15節

 

 

有名な「地の塩世の光」の話です。
「地の塩世の光になりなさい!」じゃなくて、「私たちは、地の塩世の光」と言い切ってますよね。
教会は、私達「呼び集められた者達」は、「地の塩世の光」なんです。
でも、塩気がなくなれば…燭台の上に置かなければ、無意味ですよね。イエス様が仰る通り「捨てられて人々に踏みつけられるだけ」になります。

教会がもし「全ての人々にオープンじゃなくなり」「神様を感じれない場所」になるばら、無意味です。存在の意味はなくなります。だから、私達一人ひとりが、イエス様のように「オープンで」「貧しいものに寄り添い」「互いに愛し合わなければならない」ですね。だって、私達一人ひとりが、教会の一部なんですから。

 

では、もうすぐミサが始まります。
今日は、下原神父様の初ミサです。ミサに与って、たくさんの恵みを頂きましょう。

今日学んだことを思い出しならが、ゆっくりと、十字のしるし、そして、主の祈りを唱えて、終わりにしましょう。

 

 


 

 

来月の中高生の勉強会はお休みです。
その代わり、7月25日にみんなで集まって、BBQをしようと思います!錬成会もありますしね!

そして、9月は、第1週にまた勉強会を行います!
2学期もまた頑張りましょう!!




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東京教区の合同堅信式で無事7人の中高生が堅信の秘跡に与りました。

 

今日のために春休みに集中講座を行いました。みんな、内容を覚えていますか?

 

先日の徹夜祭で受洗され、今回堅信に与る方々8名と一緒に堅信に与るためにカテドラルまで来ました。
李助祭、代父母の方々、ご家族とともに合同堅信式が始まるのを待ちます。みんな…ちょっと緊張しているかな…?

 

 

お説教後、いよいよ堅信式が始まりました。

 

 

岡田大司教様から按手を受け、聖香油を塗油されました!
松戸教会は、左側に座っていたので最後の方だったこともあり、他の方が堅信を受ける様子を見ていて、心の準備が出来ていたようでした。

 

 

堅信に与り、これでようやく「入信の秘跡」を終えました!
勉強も大変だったと思いますが、これでようやく1人前の信者ですね!
もちろん、これからも勉強は続きますが…みんなには、神様から「決して消えない神様の愛のしるし」を頂いたのですから、信徒として「教会を善い場所」にする努力も大人と一緒に頑張りましょう!
そして、堅信を受けていない中高生のみんなも是非勉強会に参加して、堅信を与りましょう。

 

最後に…中高生の7人、そして、ご家族の方々、ご堅信、本当におめでとうございます!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

 

今日午後2時半から行われる東京教区合同堅信式が行われます。
そのため、堅信に与る予定の5名(2名が学校行事のため欠席)と、中高生1年生が集まり、堅信式の最後の準備のために集まりました。

これから堅信に与る5名も、すでに堅信に与っている1名も、もう1度、堅信という秘跡、そして、キリスト者になるとはどういうことか、考えてみましょう。

 

 


 

今月のテーマ

● 堅信に与る前に ●

 

さて、この後、午前9時半から、これから堅信に与るみんなには、ゆるしの秘跡を受けてもらいます。

7つの秘跡は、すべて覚えていますか?
洗礼・聖体・堅信・叙階・結婚・ゆるしの秘跡・病者の塗油でしたね。それぞれの意味堅信とは?)もちゃんと覚えていますよね?

秘跡とは…
私たちが見る事の出来ない神様の愛、存在を感じる事が出来る」ようになるためのものでしたね。
秘跡は、神様・キリストとの出会いそのものであり、キリストご自身が秘跡そのものです。

聖書にも、こう書かれています。

 

わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

ヨハネによる福音書 14章11節

 

 

どうしても、神様から離れてしまう私たちに慈しみ深い神は、イエス様という原秘跡、そして、秘跡を用意して下さっています。
ゆるしの秘跡は、秘跡の中でも最も神様のいつくしみ、神様の愛を感じやすい秘跡かもしれません。

放蕩息子のたとえ話(ルカ福音書15章11-32節)を覚えていますか?
「生きている父親、存在している父親」を、弟は、「亡き者・存在しない父親」としてしまいます。2人の関係性・繋がりを、弟は、「無いもの」としてしまうのです。
しかし、苦しみの中、父親の存在を思い起こし、父親のもとに戻っていきます。
自分をある意味、殺した息子を父親は、大喜びで迎い入れます。まだ、遠くにいる息子に走って駆け寄り、自分の服と指輪を息子に着せ、祝宴を開きます。
神様は、この父親のように、私たちが自分の意志で帰ってくるのを待っています。
いつも目を凝らし、私達が帰ってきたら、遠くから走って来て、大喜びで迎い入れてくれます。

こちらから、無くしてしまった関係、存在を無いものとしてしまった人との関係、神様、イエス様との関わり、つまり、「十字架のしるし」の中にもう1度戻り、その中に入っていく。

これがゆるしの秘跡です。
ですから、これから与るゆるしの秘跡も、「後ろ向きなもの、反省し懺悔して赦しを乞う」と考えるよりは、「神様のもとに戻り、人と人とのつながりの中にもう1度戻るんだ!」という前向きで、喜びに満ちたものだと思ってもらえたらなぁと思います。

ところで、みんなには、告解の内容を考えてきてもらいました。
その際に、良心の究明をしてきましたか?
「良心の究明」とは、ただ単に「~~をしてしまいました。ごめんなさい」というのではなく、自分と向き合い「なぜこうしてしまったのだろう」と、もう1歩奥にあるモノを見つけることです。行ってしまった悪い事を考えるのではなく、自分自身の良心と向き合い、自分の中の良心に「神様の御旨にそった行いが出来ていたか」を問うのです。深層にある罪(神様から離れてしまう心)を自分自身の良心によって、そして、聖霊によって、あぶりだすのです。
良心の究明をしっかり行えば、イエス様が仰った事を守れていない自分と向き合うことで悲しみや寂しさを感じると思います。

 

では、少し告解の仕方について説明しましょう。

– 告解の行い方の説明 –

 

 

ところで、6月1日から今日まで松戸教会にファティマの聖母像が安置されています

マリア様は、すべての罪びとのためにファティマの地に現れました。
告解のなかで、償いを神父様から言われたら、是非マリア様の取り次ぎを願い、祈りましょう。

では、ゆるしの秘跡に与りに行きましょう…

 

 

さて、ゆるしの秘跡に与ってどうですか?
今日、みんなは堅信の秘跡に与ります。簡単に堅信式の流れ、そして、塗油を受ける時の所作の説明をします。

– 堅信式の説明 –

 

 

最後に、堅信に与るみんなにお話をしましょう。

春期集中講座でもお話しましたが、今日、合同堅信式で最後に大司教様から「派遣の祝福」を受けた瞬間から、みんなはキリスト者として「福音宣教」の旅に出なければなりません。
1人のキリスト者として、「神の国」が始まったことを世の中に告げ知らせなければなりません。
キリストとは、油注がれた者という意味ですね。つまり、みんなも「キリスト」になるんですから。

神の国が始まる知らせは、みんなにとっても、大きな喜びであり、人々にとっても大きな喜びです。
世界が神の愛に満ち、神の愛のなかで、誰もが自分らしく、自由に生きられるからです。
それをみんなは、キリスト者として、油注がれた者として、人々に伝えなければなりません。

その力は、今日、聖霊によって、授けられます。
聖霊から、カリスマや7つの賜物を受け、どうそれを人のため、社会のため、教会のために使うのか…それは、一人ひとりに託されています。

みんなは、どうそれを使いますか?

 

私たちは、「私は在る」という神を信仰しています。

どうかそれを心の奥底から信じてください。それはとても難しいことかもしれません。
時には、迷う事もあるかもしれません。

それでも、イエス様が仰ったように「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、」神を信じてください。
神様は存在します。神様は、唯一無比の存在で、完璧な存在です。出来ない事は何1つありません。
そんな力強い存在である神が「在る」という事がどれほど私たちの救いになるでしょうか?

同時に、それは自分自身にも当てはまります。
みんなは、神が造ったたった1人の、唯一無比の存在です。どうか「自分の存在」を大事にしてください。
神を信じるならば、その神によって造られた、ありのままの自分を愛せるはずです。
見栄や肩書、そういうものは要りません。みんなには、それをはるかに上回るものが、既に与えれれています。そして、今日、更にそれを強めるものを頂けます。

そして、それは、自分以外の人間にも当てはまります。
神が造ったたった1人の、唯一無比の存在は、自分だけではありません。1人ひとりが、そうなのです。「隣人を自分のように愛し」てください。
隣人の「存在」とは、神の愛、そのものです。
必要だから与えられています。誰かの存在を無視することは、すなわち、神の愛を無視する事です。

皆一つの体となるために(使徒パウロのコリントの教会への手紙Ⅰ 12章13節)」私たちは洗礼を受け、今日更に聖霊を受けます。
教会という共同体は、1つのキリストの体として、みんなの、すでに亡くなってしまったひいひいおじいちゃんやひいひいおばあちゃんも含めた、時間軸すら存在しない「父と子と聖霊の交わり」の中に私たちは迎え入れられ、ともに、神の国を目指します。
誰が欠けても、それはなしえません。たとえ、憎むべきような人でもです。必要でない人などこの世にいません。
だから、まず、神を信じ、その神によって造られた(余計なものを脱ぎ捨てた)自分を愛し、そして、それと同じように、自分以外の人も愛してください。

「存在を無視する事」は、それを殺す事に等しいのです。
それは、最もしてはいけない事ですよね。だから、神を強く、より強く信頼してください。
唯一無比の存在で、完璧の神様は、確かに存在します。

 

そして、祈ることを忘れないでください。1日10分でいいです。テレビも携帯も切り、静かに一人で祈ってください。

ビル・ゲイツって知っていますか?知っての通り、マイクロソフトの創業者で、世界で一番のお金持ちです。
彼は、1日に必ず何もしない、誰とも交流しない時間というものを作るそうです。それによって、これからすべき事を考えるそうです。

これから、みんなは、人生において、様々な決断をしなくてはいけません。
神様によって造られた本当の自分と向き合い、認め、聖霊に力を強めてくれるように願えば、ゲッセマネでイエス様がされたように…「自分を捨て、本当の自分を得る」ことが出来ると思います。

 

もちろん、みんなは、まだまだ知っておくべきことがたくさんあります。
だから、月1回の中高生の勉強会には是非参加し続けてくださいね。

 

さて、では、最後に主の祈りを唱えて、ミサに向かいましょう。
今日のミサは、マリア様が共に、私達と祈ってくださいます!

 


 

 

来月も、7月2日、午前9時15分から中高生の勉強会を行います。
来月は、「教会」について、一緒に勉強しましょう。