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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは4人。

今月は、今年度最初ということで、神様、神の国について考えます。
私たちの信仰は、どこに向いているのか、そして、キリスト者はどのような世界を目指すのか、一緒に考えてみましょう。

 

 


 

今月のテーマ

● 神は愛 ●

 

さて、先日、教会学校の錬成会の下見に行ってきました。
これから、リーダー達で、企画を立てて準備していきます!
リーダーだけでは、目の届かない部分もあります。楽しんだり、自分自身の成長も大事ですが、後輩たちのフォロー等も含め、みんなの役目になります。
みんな、部活などもあると思いますが、是非参加してください。

 

では、始めましょう!
今日は、今年度の勉強会の最初ということで、神様の話をしたいと思います。
実は、今月の内容は、新しく入った中学1年生のために考えたのですが…今日は全員お休みですね。
でも、みんなにとっても当然これは大事な話です。知っている話もあるかもしれませんが、もう1度、いや、何度でも、私たちの信仰する神様について、思いを巡らせてみましょう。

まず、出エジプト記3章1~22節を朗読してみましょう。
有名なモーセの召命のシーンですね。
神様は、イスラエルの民を救うために、モーセを召命されました。

ここで重要な箇所が3つありますね。

  1. 神様は、柴(最もみすぼらしくて使いどころのない木)で象徴されるように、「最も低いところ」に降りてこられた
  2. 神様は、アブラハム・イサク・ヤコブとの無償の愛による契約を忘れることなく、イスラエルの民の苦しみを顧みられ、イスラエルの民を救うと宣言される。
  3. 神様は、私たちを信頼し、「わたしはある」という名を明かされた。

 

では、続いて、ヨハネの第一の手紙4章7-19節を読んでみましょう。
ありがとうございます。

この箇所も、とても有名な箇所ですね。
昨年の教会学校で行った錬成会で、山荘の聖堂に「神は愛」という言葉が書かれていたのをおぼえていますか?
ここからの引用だったんですね。

聖ヨハネは、その手紙の中で何度も「神は愛」と仰っています。
この愛というのは、アガペの事ですね。あきる野教会で行った教会学校の錬成会でTシャツづくりをしましたが、その時、胸にステンシルしたのが、「AGAPE」という文字でした。おぼえていますか?

高校になって哲学をとった子は、そろそろ習うかな?
愛には4つの種類があります。
男女の恋愛のエロス、家族愛などのストルゲー、友愛や師弟愛などのフィリア、そして、神の無限なる無償の愛を表すアガペです。

神様は、いつくしみ深く、無償の愛によるアブラハムとの契約をわすれることはありません。
イエス・キリストにより、その契約は、ユダヤ人だけではなく、私たち全ての人類との契約だということが示されました。

神様がどれ程私たちを愛してくださっているかは、先日までの四旬節の間に、十字架の道行などの受難の物語を通して、私たちは多くの事を感じることが出来ました。
それを一言で表すならば、この福音の御言葉が一番分かりやすいでしょう。

 

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。

ヨハネによる福音書3章16節

 

聖ヨハネも言っている通り、「神の愛がわたしたちの内に示され」ました。
イエス様は、ベツレヘムの城壁の外で、馬や羊たちのなか、飼い葉桶に生まれ、ご降誕されました。そして、最も貧しいものである羊飼いに祝われます。
また、エルサレムの外のゴルゴダの丘で、磔刑のよって、最も過酷で残酷な死を十字架上で迎えられました。
「わたし」ではなく、「わたしたちの内」にご降誕され、「わたしたちの内」で死を迎えられました。
神様は、罪びとである私たちのうちに、最も低い者たち、最も小さい者達のうちに、私たちの関わりの中にその「愛」を示されたのです
そして、イエス様の昇天後は、今度は聖霊が私たちのうちに住まわれます。
だから、私たちが、イエス様に従い、神様の愛のうちにいる時、私たちは、神様と共にいます。
神様から目を背け、神様に背中を向けている時、そして、関わりの中にいない時、神様は、99匹からはぐれてしまった1匹の羊のように、見つけ出してくださいます。そして、戻ってくれば、神様は放蕩息子の譬え話のように、遠くにいるうちから走って駆け寄ってきてくれて、本当に喜んでくれます。

今度の東京教区合同堅信式の際に、堅信を受けるメンバーは、5月20日に「ゆるしの秘跡」に与ってもらいますが、ゆるしの秘跡も「懺悔」というよりは、もう1度神様に心と体を向けて戻ってきたみんなを祝宴で祝ってくれる「喜びの秘跡」だと思ってください。
神様の愛のうちに、私たちの関わりの中に戻る大きな喜びがそこにはあります。この復活節に受けるゆるしの秘跡は、格別です。なぜなら、イエス様は、死に打ち勝ち、ご復活されたのですから。

 

神様は、その愛ゆえに、私たちを「神の国」へと招きます。
神の国とは、神様による支配が行われている国です。ポンティオ・ピラトとの問答で、イエス様はその国の王と仰っていますね。
私たちが人を支配する時、どうしますか?
「ルール?」
そうですね。ルールをまもってもらうためには、裏付けされたものが必要になります。ルールを破った人にペナルティを受けさせる「力」が必要です。
つまり、我々人間の支配は、力によるものです。
しかし、神様の支配は、そうではありません。
イザヤ書の11章1~10節を読んでみましょう。

ありがとうございます。
待降節に朗読される箇所ですね。この勉強会でも、何度も朗読しています。
だから、1~5節の説明は省きますね。要は、イエス様こそ救い主であり、神の子であることが示されています。今日注目するのは、6~10節です。
神様による、イエス様による支配とは、獅子が獅子のまま、子羊が子羊のまま、赤子が赤子のまま、毒蛇が毒蛇のまま、そこに存在しています。
アイディンティティを保ったまま存在し、すべてが調和しています。
この箇所は「平和の王」と呼ばれる箇所です。
私たちは、ミサのなかで平和の挨拶を行いますが、教会でいう平和とはまさにこういうことです。
私たちが「神から与えられた、ありのままの自分(最も小さな者)のまま、すべてが調和し、全ての人が幸せに暮らす」そういう世界です。
これらは、「力による支配」ではありえません。
無限の力を持った神が私たちを力によって押さえつけることは容易いでしょう。しかし、神様は、その愛によって、私たちを支配します

力による支配とはいう事は、誰かがそれによってアイディンティティを失う恐れがありますし、誰かが自由を失います。
しかし、愛による支配は、そうではありません。

私たちは、神の国を目指します。これは教会、つまり、呼び集められた私たちに与えられた一つの使命です。
それでは、ヨハネによる福音書15章9-17節を朗読してみましょう。ちょうど今日(復活節第6主日)の福音朗読の箇所です。

ありがとうございます。
これは、愛の掟と呼ばれるイエス様が私たちに最も重要な掟として伝えた2つのうちの1つ「隣人を自分のように愛しなさい」について、お話されている箇所ですね。
(もう1つをおぼえていますか?……………「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ですね)

私たちが神様から愛されたように、隣人を愛すこと。

そうすれば、神の国に近づくことが出来ます。
神の愛は、イエス様の受難・死によって示されましたよね。イエス様がそうされたように、「自分を捨て、友のために尽くす」ことこそ、神の愛の表れです。
自分を捨てるとは、「肉に従わず霊に従うこと」であって、つまり、神様のみ旨に従う事で、自分を大事にしない事ではないですよ。常に自分の中心に神様を置き、つまり、神の内ににあって、神様の愛を感じながら生き、神様のみ旨に従うことです。

ルカによる福音12章13~21節を開いてください。
イエス様はたくさんの譬え話をして、神の国についてお話されています。その中の1つですね。

ありがとうございます。
「愚かな金持ち」の譬え話ですね。

最後になんと仰っていますか?「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ
肉に従い、富をつみ、自分を誇っても意味がありません。神様が愛を注ぐのは、最も小さなものです。

運動が出来る!勉強ができる!美人だ!イケメンだ!お金持ちだ!
それを誇っても何の意味もありません。
それは、与えてくださった神様にお返しするものです。「皇帝のものは皇帝に。神のものは神に返しなさい」とイエス様も仰っていますね。
私たちは、キリスト者です。自分自身が罪びとであり、神様からの愛を受けた者である事を知っています。それ以上に何が必要でしょうか?

ちょっと余談ですが、「好き」という事も才能です。
私の知り合いに、ピアノがとても得意な女の子がしました。小学校の頃には、ピアノスクールの先生になる資格をとってしまうくらいで、有名なオーケストラのコンサートマスターの弟子入りもしていました。でも、その女の子は、高校生になる時にピアノを止めてしまいました。
「ピアノは上手く弾ける」でも「一生ずっとやっていく」程、好きではなかったんですね。
逆に、サッカーがすごく好きで、小学校の頃から地域や県、関東エリアの選抜選手に選ばれるくらいサッカーが得意な男の子がいました。
しかし、彼も高校になる時に、サッカーを止めてしまいました。
「好きだからこそ、自分に力がないことが分かった」からです。
好きでなければ、続けることは難しいです。好きだからこそ、誠意をもって、その事に向き合うことが出来ます。自分がその事に対して、ちゃんと向き合えば、自分の力というものも客観的に見ることが出来ます。主体が、その事になるからです。好きだからこそ、苦しみも乗り越えられます。続けることも出来ます。それは、大きな力であり、稀有なものです。
だから、自分が「好きなこと」に巡り合えたことも、神様に感謝してください。神様が与えてくださったものですから。
つまり、それも「神さまにお返しするもの」です。

 

さて……、では、今自分が持っているものを自分のものと勘違いし、自分を誇り、神様の愛の外にいる人はどうなるか…
マタイによる福音書25章1-13節を読んでみましょう。

ありがとうございます。
これも神の国についての譬え話のの1つです。「10人の乙女たちのたとえ話」ですね。

愚かな5人の乙女たちは、どうなりましかた?
主人(神様)に「わたしはお前たちを知らない」と言われてしまいました。
何故でしょうか?
神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる(マルコによる福音書8章38節)」とイエス様は仰っています。
自分の持っているものを誇り、自分の得たものを自分自身としてしまう。神様から与えられたものを、自分自身のものにしてしまう。
神様の愛のうちにおらず、神様や聖霊の関わりの外にいる状態です。神様に背を向けている状態ですね。

そういったものは、全て投げ捨て、神様だけを見る。体を神様に向ける。
常に「目を覚ましていなさい
そうでないと、その時がきた時、神様に「私たちを知らない」と言われてしまいます。
そこには、希望はありません。
キリスト者として生きるということは、常に目を覚まし、神様から目をそらさないことです。
もし、神様から離れてしまうような状態、つまり、自分の持っているものを誇り、自分の得たものを自分自身としていまい、神様の愛のうちにおらず、神様や聖霊の関わりの外にいるとするならば、そんなものは「ゴミ」に等しいです。捨ててしまってください。
イエス様も山上の説教のなかで、「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである(マタイによる福音書5章 28-30節)」 と仰ってますね。

今月は、聖母月ですね。
5月27日には、教会学校の子どもたちが、先頭に立ち、行列を行ってミサを開祭します。
マリア様は、いつも神様から目をそらすことはありませんでした。イエス様の受難の際ですら、自分の息子があんなひどい目にあっている時も神様から目をそらさなかったのです。
マリア様はいつも「一番ちいさなもの」でした。神様の婢として生き抜きました。
マリア様は、自らに与えられたものを、誇る事もありませんでした。自分のものとしたこともありませんでした。全てを捧げ、神様のみ旨に従いました。

私たちもマリア様のように、常に神様から目をそらさず、己を捨て、恐れず、神様をただ信じましょう。

最後にもう1度「神は愛」です。
イエス様の受難・死を通して示された神様の愛を、この復活節の間にもう1度思い起こしてみましょう。

では、マリア様の祈りを唱えて終わりにしましょう。。

 

 

 


 

来月の勉強会は、第1週に子どもの奉仕するミサが行われますので、5月20日、9時15分から行われます。

筆記用具をもって、集合して下さい。

次回は、堅信式を前に、堅信を受けるメンバーのための内容にします。
堅信を受けたメンバーもこれから受けるメンバーも堅信というものについて、考えるいい機会です。

是非集まってください!




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3月26日から3月29日までの4日間、5月20日に行われる東京教区合同堅信式で堅信に与るために中高生を対象とした「堅信のための春期集中講座」が開かれ、サポーターとして、ほかの中高生会のメンバーも参加し、中高生3名が参加しました。

 

1日3時間ずつ、堅信に与るため、勉強を重ねました。

桜が満開のなか、たくさんのことを、様々な事を覚え、学べたと思います。
使徒信条、主の祈り、秘跡、聖霊の賜物、十字架上の七つの言葉、十戒…
信者として最低限知っておくべきことを一生懸命覚えましたね。

その意味を考える事で、自分にとって神とは、イエスとは、どういう存在なのか?考えることが出来ましたか?
自分がキリスト者として、どう生きていくべきなのか、指針が見えましたか?

受難・死・復活」という「主の過越」をもう1度心に留めてみてください。それは、「神様の愛」そのものであり、私たちのアイディンティティそのものです。

 

火曜日の夜には、勉強だけじゃつまらないので、フィリップ神父様にもご参加頂き、みんなで終わった後にご飯を食べに行きました。
一生懸命勉強したので、おなか減り過ぎだったみたいですね…。

 

みんな、5月20日、堅信式が終わり、カテドラルを出た瞬間からキリスト者としてのスタートが始まります!
ご自分のひとり子を私たちのために差し出されるほど、わたしたちを愛して下さる父なる神様の「御言葉」を味わい、そのひとり子であるイエス様の「ご聖体」を頂く「ミサ」ということを理解し、みんなも1人のキリスト者として、堅信に与るまでの約2か月間を大事に過ごしてみてください。

 


 

さて、中高生の勉強会は、今年度も毎月第1週に行われています。新年度は、5月6日、午前9時15分からです。
教会学校だけでは、学びきれなかった事、そして、信徒してさらなる成長のため、大事な仲間とのつながりをさらにつよくするためにもたくさんの参加をお待ちしています。




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今日のこどもの奉仕するミサで、ピアノを弾くのが得意な中学生が初めてオルガン奉仕を行いました。

 

事前にオルガン奉仕グループの方々から指導を受け、太鼓判をおされて、ミサに望みました。

 

ミサでは、今日で卒業する教会学校の後輩のために、ミサ曲以外のすべての曲、入祭の歌、奉納の歌、拝領の歌(2曲)、閉祭の歌を弾きました。

オルガン奉仕者の方も、ミサ後、大変褒めてくださいました。

 

中高生の勉強会、堅信のための講座のなかでも、神さまから与えられたタレントをどのように使うかという事を勉強しました。
これからも、自分の頂いた才能を、神様のためどんどん人のために使い、神様との関係、人と人との関係を強くしていきましょう。

ピアノやエレクトーンを弾ける中高生はオルガンの奉仕、歌が上手な中高生は答唱、お話が旨い中高生は朗読、侍者、教会学校…教会は、自分の才能や好きな事を活かす場所が他にもたくさんあります。勇気をちょっと出してくれさえすれば、機会があります。だから、どんどん、自分の好きな事、得意な事を、教会に届けてください。

これからも、中高生のみんなのチャレンジを待っています!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは4人。

今月は、ご復活を迎える前にもう1度、受難・死・復活という私たちの信仰の根幹について学びます。
受難・死・復活を通して、神様のいつくしみをもう1度感じて、自らの洗礼について、考えてみま

しょう。

 

 


 

今月のテーマ

● 神の小羊 ●

 

最近、本当に聖書を開くのが早くなって来たなぁと思います。
前は、すごい時間がかかっていたのに…。
普段の生活の中でも、ちょっとした時に聖書を開いて、御言葉に触れる習慣があるといいですね。ふとした時のふとした御言葉のなかに、大きな気づきがあったりします。聖書はどこをとっても神の言葉ですから、全てが神様の恵みです。

 

さて、今、私たちは四旬節のど真ん中を過ごしています。
今度の4月1日の復活祭に向け、イエス様のご復活をお迎えする前に、もう1度、神様の愛、いつくしみを感じて、私達自身が、洗礼を受けた者として、ご復活の準備を整えましょう。

まず、ヨハネ福音書の3章16節を開いてください。

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

神様は、磔刑というもっとも残酷な死を通してたった一人の子供を、私たちのためにその「しるし」として、お与えになってくださいました。
こうして、この十字架は、私たちにとって、神様との繋がりを示す、神様の愛を示す、ものとなりました。

 

では、今日のテーマを思い出してみましょう。
今日のテーマは、神の小羊です。

ヨハネによる福音書1章 29-31節を開いてみましょう。

 

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

 

ありがとうございます。

イエス様が、洗礼者ヨハネのもとに行き、洗礼を受ける時の話ですね。
洗礼者ヨハネは、イエス様を見て、洗礼者ヨハネの弟子たちに「神の小羊」と言っていますね。

それでは、何故、洗礼者ヨハネは、イエス様のことを「神の小羊」と呼んだのでしょうか?「小羊」という言葉の意味にポイントがあります。
過越の話を思い出してみましょう。
出エジプト記12章1-27節を開いてみましょう。

ありがとうございます。
モーセとアーロンに神様は、命じられます。

  • イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない(3節)
  • その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。(5節)
  • イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、 その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。(6-7節)
  • 『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』(27節)

小羊の血を、家の入口に塗ったことにより、神様は、イスラエルの民を過ぎ越しました。小羊を捧げ、そのしるしが、神様とのつながりをもう1度修復したのです。
こうして、イスラエルの民は、主の過越により、エジプトから解放され、十戒を受け、約束の地であるカナンの地(エルサレム)に向かいました。
傷のない小羊をを神様のいつくしみを受け、自由を与えられ、十戒を通して、また強く結ばれた。つまり、ユダヤ人にとって、「傷のない小羊」は、「神との和解の象徴」「神による救いの象徴なのです。
もちろん、イエス様たちも羊を屠り、このユダヤ教の儀式を行います。マルコによる福音書14章12節に「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った」と書かれていますよね。そして、この「過越の食事」が「最後の晩餐」となります。

そう、もうみんな分かりましたか?
「過越の小羊」として、屠られたのは、イエス様ご本人だったのです。

この後、私たち人間は、何の罪もない、そして、神様から全く離れることなく常に神の慈しみを表してくださっていたイエス様を「十字架につけろ!」と言って、ゴルゴダで磔刑にあわせます。
十字架は、まさに「私たちと神様とのつながりを修復し、神の慈しみを受け、自由を与えられ、新たな契約を結ぶしるし」です。
神様は、数々の預言者を送ってくださりましたが、人間は、聞く耳を持たず、神様から離れ神のみ旨ではなく、自分自身の思いの中で生きました。預言者たちを殺す事すら何度もありました。
しかし、神様は、イエス様という、独り子をお与えになったほどに、世を愛されてしました。それがどれ程の愛だったのか、みんなにも想像出来ると思います。

イサクの燔祭をおぼえていますか?
創世記22章1節-18節を開いてみましょう。

アブラハムは、神様が命じるまま、不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを捧げます。
アブラハムの信仰の強さを、感じることが出来ると思います。神様は、それを見て、アブラハムをとめ、私たちと契約を結びます。
しかし、神様がイエス様を私たちのために屠った時は、誰も止めるはありませんでした。公生活を共に過ごした弟子たちも逃げ、イエス様はたった1人で、受難の道を歩みます。

アブラハムだけではないですよね。
イサクも、「自分が生贄なのだ」と、気づいたと思います。しかし、イサクも、抵抗する事無く、自らを神様に捧げる覚悟をしていたと思います。
その苦しみは、想像するに容易いですよね。

人として、御降誕されたイエス様も同じように苦しみます。
マルコによる福音書14章32-39節を開いてみましょう。「ゲッセマネの園」の話です。
弟子たち3人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れ、イエス様は、ゲッセマネで祈られます。

少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」 (35-36節)

 

イエス様が、この後来る受難に対し、怯え、恐れ、出来る事なら、逃げ出したい気持ちでいるのが分かりますよね。私たちと同じように、イエス様も苦しまれます。ルカによる福音書22章44節には、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」とも、この様子が描かれています。
イエス様は、神様に祈られます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」出来る事なら、逃げ出したい。せつに祈ります。しかし、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、神様のみ旨から離れる事はありません。

これは、本当に、私たちにとって、最もお手本になる祈りではないでしょうか。
そして、イエス様が苦しみ、祈られている時、寝てしまっていた3人の弟子たちにイエス様は、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。(38節)」と、仰います。

目を覚ましている。とは、どういう事でしょうか?
実際、寝てしまった弟子たちに言っているわけですから、起きていなさい。という意味にそのまま取れます。しかし、その後に、「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉が続きます。イエス様は、度々、「目を覚ましていなさい」という言葉を使われますね。待降節には、必ず朗読されます。

心は燃えている。これは、聖霊を表しています。
肉体は弱い。 これは、私たち人間の心を表しています。

聖パウロも、その手紙で、「霊(聖霊)」「肉(人間の心)」という表現をよくしています。
つまり、イエス様は、目を覚ましていて、弱い自分の心ではなく、神のみ旨に従う聖霊に従いなさい。常に、聖霊を意識しなさい。と仰っています。
眠くなった彼ら3人の弟子は、まさに「肉」に従ってしまったのです。だから、この後、彼らは、逃げ出し、イエスに躓きます。

イエス様は、み旨に従いました。
まさに、イエス様は、私たちに「霊に従うとはどういうことか」「み旨に生きるとはどういうことか」という見本を見せてくださったのです。
そして、十字架上でイエス様は、「成し遂げられた」(ヨハネによる福音書19章30節)と言って、息を引き取られました。神のみ旨のままを成し遂げられました。

 

 

ミサの時、「神の小羊 世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ」(平和の賛歌を)私たちは、こう歌います。
わたしたちの救いのために、神のみ旨に従い、過越の羊となってくださり、十字架上で死を迎えたイエス様に、憐れみと救いを求めます。まさに、イエス様を捧げ、私たちは神様と新たなな救いの契約を結んでいることを表しています。

だから、拝領前の信仰告白…(なんと言いますか?)
……………
主よあなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょう。」(ですね)
信仰告白をミサのなかで2回する意味を考えましょう。
なぜ、聖変化、主の祈りの後に、私たちはもう1度信仰を告白するのか?
「あなたをおいてだれのところにいきましょう」と、心の奥底から言えているのか?
イエス様という傷のない子羊、そして、独り子を私たちにお与えになった神様…
いつくしみの深さを知り、もう1度、イエス様のご復活について考え、準備を整えましょう。
では、最後に主の祈りを唱え、終わりにしましょう。

 

 

2017年度の勉強会は、今月で終わります。1年間、どうでしたか?

来年度は5月6日から行います。
来年度もがんばりましょう!




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5月20日・聖霊降臨の祭日に行われる堅信式のための(中高生のための)春期集中講座を下記の予定で行います。
(幼児洗礼を受けた18歳以上の青年もスケジュールが合えば、ご参加頂けます)

 

3月26日 午後1時半より午後4時

内容予定 : 霊印、わたしたちの信じる神様 秘跡について

3月27日 午後1時半より午後4時

内容予定 : 旧約

3月28日 午後1時半より午後4時

内容予定 : イエス・キリスト

3月29日 午後1時半より午後4時

内容予定 : 聖霊降臨、私たちのこれから

 

場所

地下ホール

 

今回は集中講座ということもあり、時間厳守で4回全てに出席して頂きます。
筆記用具、ノートをお持ちください。
代父母をお決め頂き(もし見つからないようでしたら、担当のリーダーにご相談ください)代父母の方々に6月4日の堅信式にご参加頂けるようにお約束を取り付けて頂けるようにお願い致します。

たくさんの参加をお待ちしています。