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3月25日から29日までの5日間、中高生を対象に、春季集中特別講座が行われました。
先日、教会学校を卒業した5人ももちろん対象となります。

内容は、がっつりカテキズム!
内容的には、堅信の秘跡を受けるための準備にもなりますね。堅信を受けた中高生ももう1度おさらいして、理解を深めます。
もちろん、忘れていることもあるでしょうから、復習して、しっかり覚える!
新中学生にとっては、急にレベルが上がった内容です!

 

ちょうど、桜も満開!
今までの教会学校のようなゆるーい感じではない、完全に「塾」のような集中講座が、はじまります!

 

春季集中特別講座のプログラムは、以下のような感じです!
3月25日から28日までは、午後1時から午後4時まで!そして、29日は、午後4時から、最後に金曜日の夕ミサで奉仕して集中特別講座を終えます。

3月25日

私たちの信じる神について(創造の業)旧約の2つの出来事(出エジプト・バビロン捕囚)

3月26日

わたしたちにとってイエスは誰なのか?救いとは?

3月27日

聖霊からいただけるもの。秘跡とは?

3月28日

私たちは一体何者なのか?キリスト者としての生き方、共同体について

3月29日

ミサについて(ミサ奉仕練習)・ミサ奉仕

 

 

1日目(3月25日)…

いきなり集中特別講座の洗礼を新中学1年生を中心に受けます。堅信を受けた中高生たちも、すっかり内容を忘れていました。
そう、旧約の話です。

バビロン捕囚過越…この講座の中で耳にタコができるくらい耳にする言葉が1日目から登場します。

 

そして、集中特別講座恒例の「テスト!」終わった人から帰れるというシステムです。

カテキスタを務めるリーダーの補佐として入ったリーダーがまさかの1番最後まで残るという…状況…。

使徒信条や主の祈り…ミサの中で何度も唱えていますが、実際、書いてみてと言われると……書けない。
ミサの時のように、周りの人が言ってくれるので、なんとなく唱えられる状態ではダメですね。

そう…中高生になれば、教会学校の子どもたちに教えないといけない立場ですから、しっかりと書けるように、そして、その意味がしっかり分かっていないといけません。

 

そして…完全に個人プレーですね。助け合いの精神、チームプレーの精神が全然ないです。

 

 

 

2日目(3月26日)…

2日目は、イエス様についてです。

1日目の話よりは、だいぶ反応がいいですね。
でも、今日ももちろん「バビロン捕囚」「過越」も出てきます。他にも、難しい言葉もたくさん出てきました。

イエス様が、なぜ「わたしたちのところに来られたのか」、イエス様は、しっかり目的を仰っていますよね。
イエス様の名前は、「主は救う」と言う意味です。「救う」ってどういうことか…みんなはキリスト者として、「キリストの道」を歩むわけですから、イエス様と同じようなことをしなくてはいけませんね。イエス様がどういう方のなのか、理解しなければその道を歩むことは出来ません。
みんなにとって、イエス様は、どのような方ですか?

 

そして、今日ももちろん終わった人から帰れるテストが行われます!

 

ある程度の時間が過ぎて、リーダーから「なんで助け合わないの?」という声が……。
そうです!リーダーも早く帰りたいんです!イジワルでテストをしているわけではないんです!

というわけで、ようやく机をこんな感じで並べて、助け合いながらテストをクリアしようとみんなで力を合わせ始めます

 

 

 

3日目(3月27日)…

3日目は、聖霊、そして、秘跡についてです。

教会学校では、ほぼ触れられなかった「聖霊」について学びます。
聖霊を受けて、使徒たちは、どうなり、何を始めましたか?

三位一体の神とは、どんな神様ですか?
「関り」
今日の勉強会の中で何度も何度も出てきました。この関りというキーワードが理解できると、いろいろな難しい言葉が一気に理解しやすくなりますよね。

マリア様に注目することもリーダーは、かなり強調しましたね。
クリスマスの聖劇で、マリア様やガブリエルを女の子2人は演じていますよね。マリア様はどんな方でしたか?
マリア様は、どんな時も弟子たちと共にいてくださいました。そして、常に神様に向かって歩み続けた方でした。
弁護者である聖霊の助けを受けて、私たちもマリア様とともにキリストの道を歩みたいですよね。

秘跡も、結局その関わりを確かなものにするためのものです。私たちはすぐ揺らいでしまいますから、秘跡を受けることで、目に見えない神様の存在をしっかり感じることが出来ます。

徐々に、家に帰って復習!しなきゃと思い始めてくれる子まで出てきました!
いい傾向ですね!
そして、みんなで助け合う心も出てきました。なんか教会学校のころより、みんな明るく話してますね。

 

 

 

4日目(3月28日)…

今日は、テストが終わったら、みんなでご飯を食べます!
ということは、早く終わらない人は……。

今日の内容は、キリスト者として!
「バビロン捕囚」「過越」「十戒」「イエス様の十字架上での言葉」「聖霊の賜物」……そして、「関り」
色々な言葉をこの集中講座で勉強してきました。
でも、よく聞いている人は分かったと思います。大事なことは1つだけなんですね。

キリスト者は、自分の十字架を背負ってキリストの道を歩みます。そして、福音宣教がイエス様から命じられています。
私たちが三位一体の神との関りのなかにいること、その関りのなかにいれば「喜び」があること。
もし喜びがないなら、ちゃんと関われていないんです!
十戒は、私たちが関りから離れないように、神様が与えてくれました。
自分だけが楽しければいい!には限界があります。
関りの中にいれば、限界はありません!「自分」を捨てて、キリストに従うとは、そういう意味です。

テストだって、1人では難しいけど、みんなでやれば解けますよね。
99点取れる人がいる。1点しか取れない人がいる。でも、1点しか取れない人のその1点は、99点の人の失った1点かもしれません。今回の集中講座のなかでも、そういう学びがあったように思えます。神様を信じる!とは、そういうことです。「関りの中にいる」そういうことです。隣人を自分のように愛すとは、そういうことです。

 

 

そんな勉強を終え、みんながテストでうめいている中、テストを免除された堅信を受けている高校生は、リーダーから別のミッションを受けていました。

「キャベツ死ぬほど切って!」

 

高校生は、食事会で食べるお好み焼きの準備、プラス、女子力を働かせて、予算の中でデザートまで用意してくれました。

 

 

テストを終わらし、みんなでの食事がスタート!

と……いきなり、食べ始めようとするので…お祈りは!!とリーダーから声が飛び、慌てて、食前の祈りを唱えます

 

 

食後は、みんなで片付け! 男子チームは、鉄板の片づけや掃き掃除! 女子チームは、洗い物!です。

 

 

 

5日目(3月29日)…

今日の内容は、ミサについてです。

中高生ともなれば、教会学校のころのようにただただミサを与っていればいいわけではないです。
意味をしっかり理解し、理解したうえで奉仕を行えるようにしなければなりません。
ミサは、司祭だけのものではありません。私たち共同体全員で作るものです。4日目でも、「キリストの体」という言葉でそれは学びましたね。

秘跡」について、学んだみんなは、より深く理解して、ミサに与ることが出来るはずです。
ミサ式次第にそい、リーダーから説明をうけるなかで、それを行う意味、また、司祭がどのような祈りを行い、キリストの代理者としてミサを司式しているか…理解できましたか?
ミサは、私たちにとって、どれほど大事なものか…
そして、それが分かれば、「主日」の大事さも理解できると思います。
そう!日曜日は教会!って思えるはずです!

 

 

そして、今回の講座のまとめとして、いつもより、1段高いレベルの奉仕をみんなにはしてもらいます。
ミサのことをしっかり学んだわけですから、みんなしっかりその奉仕の重要性を理解して、行えるはずです!

 

朗読奉仕の担当は、中学2年生。実は、初めての朗読です。
実は、いまだに侍者としては、赤ライン(初心者マーク)…。正直、それでは困ります!
ミサの意味を考えてもらうために、ミサの中で詩篇を歌ったりしていますが…今1つ理解できていない。。。
というわけで、今日は朗読を行います。

教えているリーダーも、1度、朗読奉仕をなめてかかり、大失敗をしたことがあります。
その時、朗読の重要性、難しさを痛感しました。その後、典礼委員の方に朗読を習い、今では、大人と同じくらい上手に朗読できるようになりました。
そういうことも一緒に、伝えてもらいます。

 

下手に、上手に朗読できてしまうと……自分の練習をしないで、こんな余裕を見せてしまうこともあります。

 

だから、1回失敗したほうがしっかり教えられます。
ミサぎりぎりまで、リーダーが付きっ切りで教えていました。この2人は、今回は一緒に成長することが出来ましたね!

 

 

こちらは共同祈願を行う3人。
リーダーから信者歴10数年のキャリアを見せて、意向をそれぞれ1つずつ考えてと言われます。

 

チーン…。
いつもは、リーダーが考えてくれますからね。
個人としてではなく、1つの共同体としてのもの、というのがポイントです。私たちが目指すものは、どんな世界ですか?それを考えて、意向を考えましょう!

 

そして、ミサ開祭、ぎりぎりで完成!

 

 

こちらは、先唱!
いつもはリーダーが用意してくれている台本もありません。
そして、いつも行っている主日とは違い、週日ですから、あわれみの賛歌や平和の賛歌は、先唱が唱え始めないといけません。

最初から、大変さが分かり、ぎりぎりまで、式次第をチェックしながら、準備を行っていました。

 

 

そして、侍者も大変です。
1人で侍者を行います。中学生になったら、侍者リーダーを目指してもらわないといけませんから、1人で侍者ができるようにならないといけません。
だから、今回は、後ろにリーダーもつきません。

清めの際に、1人で水と指拭きを神父様に出すやり方をリーダーから教えてもらいます。

 

それぞれ、みんな緊張していますね。

 

 

 

そして、ミサ開祭。

先唱…とても上手にできました。
教会学校のころに、何度か子どもの奉仕するミサで先唱を経験していますが、週日のミサは初めてですし、先唱しなければいけないことも多いので、大変だったと思います。
でも、先唱こそ、ミサがどういうものなのかを一番理解していなければならない奉仕です。

 

朗読も初めて行ったものとしては、合格です!教えたリーダーのおかげですね。
そして、何より一生懸命練習した成果です。

朗読は、神様のみ言葉を会衆に伝える大事な役割です。
朗読に限らず、ミサで行う奉仕はすべて「キリストを通して私たちが関りの中に入る」ために、一番低いものとなって、キリストの代理者である司祭のお手伝いをする大事なものです。
ミサの大事さ、関わりの大事さ、しいては、自分の大事さを感じて、これからも奉仕がしっかりできるようになるといいですね。

 

共同祈願…
自分たちで考えた意向を唱えるのはどうでしたか?

私たちを聖霊の賜物によって喜びで満たし、成長させてください。
神への理解を追い求め、キリストとともに生きる者となれますように。

主の過越を思い起こし、私たちも1人のキリスト者として今回の中高生会の春季講座を学んだことを活かし、主に自分を捧げることが出来ますように。

世界中の貧困や争いに苦しむ人々を思い起こし、私たちに隣人を思いやる愛と勇気を与えてください。
そして、喜びをともにすることが出来ますように。

みんな立派な意向を唱えることが出来ましたね。

これからも、こういう機会は増えると思います。
「共同体の祈り」 ということがどういうことか、それはそのまま「ミサとはどういうものか」「祈りとはどういうものか」ということにつながっていきます。
今回の経験を糧に、そういうことまで考えられるようになるといいですね。

 

 

そして、侍者。
入堂してきた時から、全員が心配になるくらい緊張していました。
普段からしている分、練習の手を抜いてしまったツケですね。(朗読の練習に顔を出す余裕はどこに……)

 

でも、緊張することは大事なことです。
それだけ、「大事なこと」ということが分かっている証拠です。
1人で侍者を行うのは、実は大人でも難しいです。でも、侍者リーダーになるということは、結局、1人で侍者を行うのと同じです。
役割を他の子どもたちに任せるということは、何をしないといけないか、どのくらい難しいかということを理解していないと出来ないからです。

これから、どんどん経験を積めば、できるようになります。(自分が思っているほど、失敗していたわけではなかったですよ)

 

 

フィリップ神父様は、お説教を、特別に「中高生のために行います」と仰られて、始められました。

実は、春季講座の初日にリーダーからみんなに1つの質問をしました。
正直…神様がいるか、いないかわからない人?
そうしたら、全員が手をあげました。それでリーダーは、神父様と相談して、少し勉強会の内容を変えることにしました。

幼児洗礼の中高生にとって、「神様がいる」ということは、もしかしたら、確信が持てるものではないのだと思います。

3月29日(四旬節第3金曜日)の福音の箇所は、ちょうど「愛のおきて」をイエス様がお話しする箇所でした。
春季講座のなかで、神様は私たちを信頼して、ご自分の名前を教えてくださいましたね。
わたしはある(存在する)」という名前です。

フィリップ神父様は、「神様はいます!」と何度もお説教の中で仰られましたね。
「これを理屈で説明することは、正直出来ません。みんなが人生の中でつかみ取ることしか出来ません。でも、神様は確かに存在し、私たちを愛してくださっています。そして、私たちを愛の関りの中に招いています。私たちは、もうその愛から逃げることは出来ません。堅信は、聖霊を受けて、もっともっと神様の愛を注がれます。」

 

春季講座のまとめとして、みんな、とても良いお説教を伺えましたね。

今回の講座を受けて、堅信を受けていな中高生は、家に帰って、ご両親と相談して、自分で堅信を受けるか受けないかを決めてください。
堅信を受けた人は、聖霊を受け、福音宣教の使命を負うわけですから、当然、それなりの責任が伴います。でも、自由も与えられます。
三位一体の神、教会(共同体)との関りをさらに強め、自分もキリスト者として、これから生きていくという決意を持った人は、ぜひ、堅信を受けてください!

 

 

ミサ後、みんなでフィリップ神父様と記念撮影!

 

 

 

今回の春季集中特別講座は、本当に大変だったと思います。
でも、その分、仲間意識が強まった気がします。
信仰は、知識だけが大事なわけではありませんが、知識もとても大事です。今回の春季講座で少しでも何かの糧になるようなことを得られていれば良いなぁと思います。

そして、一番大事なことは、神様と、教会と、仲間たちとの。「関り」を持つことです。
それは1つのつながりです。バラバラではありません。

これからも、キリストの体の1人として、みんなで一緒に成長していきましょう!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは5人。

今年度、最後の勉強会です。
今年度は、ずっとキリスト者として生きるということをテーマに話してきましたね。今月は、そのまとめです。

みんなにとって教会に来るという意味、「信仰」を持つという意味について考えてみましょう。

 


 

今月のテーマ

● からし種一粒ほどの信仰があれば ●

 

さて…みんなは、からし種ってどのくらいの大きさか知っていますか?
聖書学者のなかで色々議論はあるようですが、1mmにも満たないサイズだそうです。砂とかそういうレベルですね。置いておくことすら出来ないですよね。そんなサイズだったら。置いたら、もうわからなくなりますよね。

イエス様は、ある時、信仰の薄い弟子たちに向かって、こう言いました。

 

イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 

マタイによる福音書 17章 20節

 

こーーーーんな小さな信仰があれば、「出来ない事は何もない」と、仰ったんですね。
逆に言えば、出来ないことだらけの私たちは、「からし種1粒ほどの信仰もない」ことになりますよね。
でも、信仰心があれば、急に頭がよくなって、フェルマー・ワイルズの定理が理解できるようになったり、100M を9秒で走れるようになったりするかな?
出来ないよね。。。
つまり、イエス様は、そういうことを言っているんじゃないってことだよね。

 

では、「出来ない事は何もない」とは、どういう意味でしょうか?
「信仰があれば」と仰っていますから、「信仰」の意味が分かれば、その答えもわかりますね。
「信仰」とは、なんでしょうか?
神様を信じること?そうですね。

では、信じることとは、どういうことでしょうか?
難しく考えることはないです。「信じる」とは、関わりを持つということですよね。神様を知る。神様を信じる。神様と仲良くなる。みんながお父さんやお母さんを信じるのと同じように神様を信じ、お父さんやお母さんのような「関わり」をもつことです。
神様と関わりを持つということは、今までの勉強でも学んだとおり、神様のみ旨のなかにいきるということですね。
私たちは、イエス様を知っています。イエス様がどうなされたのかを見れば、それがどういうことだか分かると思います。そして、私たちはマリア様も知っています。マリア様を知っていれば、「神様と関わりを持つ」「神様を信じる」ということが分かると思います。

私たちは、本当に小さな存在です。
すぐ神様から離れてしまい、罪をおかします。本当に本当に小さな存在です。
それに気づいた時、神様がいないと生きられない!と思うと思います。バルティマイや重い皮膚病の人たちは、イエス様しかいない!イエス様がいないと生きられない!と思い、「主よ、哀れんでください」と懇願しました。だから、イエス様は、その人達に「あなたの信仰があなたを救った」と、仰ったんです。神様に不可能なことはないと、心の底から信頼し、神様を求めた時、神様は、きっとみんなと強い関わりを持ち、救ってくださいます。

 

 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 

マタイによる福音書7章7-8節

 

神様は、関わりを持ったみんな達を見捨てることはありません。だから、祈り続け、求め続けてください。
そして、その神様は、「天地の創造主」であり、「全知全能」の方ですね。だから、神様との関わりが「からし種」ほどあれば「出来ないことは何1つない」んです。

ダビデの話を覚えていますか?
イスラエルの12部族を統一し、イスラエルを初めて統一国家にした王様です。
彼の人生は本当に華々しいものでした。途中までは。。。
しかし、彼は途中で大きな罪を犯しました。
部下の奥さんを奪い、子どもを作ってしまい、それがバレないようにするために、その部下を戦争の一番激しい所に送り、殺してしまったんです。
十戒のなかの何個もの罪を犯してしまったんです。

しかし、彼はいまだにユダヤ人から尊敬を集めています。伝説の王となっています。
なぜでしょうか?

その後、王様であり、知恵もあり、戦争も強く、見た目も美しいダビデだったにもかかわらず、「神様がいないと生きていけない!」というところまで彼は回心したからです。
彼は自分がどんなに罪深く、どんなに汚く、どんなに貧しい人間かということを悟り、神様ともう1度関係を持ちたい、神様のみ旨の中でもう1度生きたいと心の奥底から願ったんですね。
その思い、祈りは、詩篇に込められています。彼の人生は、その前後で全く違うものとなります。
人間の目で見ればダビデの栄光は、その前にあったかもしれません。でも、今も彼が尊敬を集める王であるのは、回心したことによるものです。

私たちは、ダビデのような罪を犯さないかもしれません。
でも、私たちも、躓きます。罪を犯します。そして、本当にその罪が私たちを本当に小さな存在と気づかせてくれると思います。その時、神様との関係なくしては生きていけない!と思えると思います。
マリア様は、初めからそれをご存じで、初めから神様がいないと生きていられない!と思っていたんです。それが表れているのが、「私は主の婢です」という受胎告知への返事です。

私たちがこれからの人生を生きる時、絶対、神様!となる時が来ます!
その時、神様を深く信頼し、神様によって生きるようになるか、それとも、自分の中だけで生きるか…。

みんなはどっちを選びますか?
「からし種ほどの信仰があれば、できないことは何一つない」

もう1度、キリスト者として、自分にとって、神様が…イエス様が…自分にとってどういう存在なのか、考えてみましょう。

それでは、最後に主の祈りを唱えて終わりにします。

 


 

今年度の勉強会は今月で終わりです。

次回は、3月25日から29日までの春季特別講座ですね!
とても難しい内容になると思いますが、みんな頑張りましょう!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは5人。
まだ、冬休みということもあり、久しぶりに教会に来たメンバーも参加して勉強会が行われました。

今月は、先月に引き続き、キリスト者としての生き方について、考えてみましょう。

 


 

今月のテーマ

● イエスとともに歩む ●

 

 

私たちは、先日、クリスマスを迎えました。
みんなは、どのように感じましたか?
街もクリスマス一色でしたね。友達や家族とクリスマスパーティをし、楽しむ日ですか?それとも、なにげないただの冬休みの1日ですか?
それとも、「クリスチャンとして」教会行事が多くて大変で……とか、時々は教会に来てみようかなという日でしたか?
どんな日でしたか?
喜ばしい日?楽しい日?切ない日……?
みんなそれぞれ思いがあるかもしれませんね。

 

さて、先月の話を覚えていますか?
ベツレヘムという町の外の馬小屋で生まれ、ナザレという小さな町に育ち、約30年後、神の国の到来を告げ、十字架上で亡くなったイエスという人は、約2000年前に本当に存在していました。みんなは、この事実をどう思いますか?

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネ福音書には、こう記されています。
この福音書の言葉は、私たちが、神様を信じていなければ、何の意味もない言葉です。
神様の存在、神様が全知全能であること、神様が憐み深い方だということ、すべてが信じられなければ意味がない言葉です。
それが信じることが出来ていれば、おのずとクリスマスの意味は、少し違うものになりますね。

もっと言えば、私たちがどのように生きられるかということは、結局、神様を信じられるかということになるのだと思います。
実際に生きたイエス様がそうだったようにです。
イエス様は、いつも「賛美と感謝」を捧げ、祈られていましたね。

箴言の1章7節にこのような言葉があります。

 

主を畏れることは知恵の初め

 

箴言は、神様が、夢枕に立ち「何でも願うものを与えよう」と仰った時に「知恵」を求めたソロモンが残した格言がまとめられた書です。(ソロモンは、ダビデとバド・シェバの息子ですね)この言葉は、「神の前で自分の不完全さを自覚し、謙虚な心で神の教えに耳を傾けることこそが知恵の初め」という意味でです。

イエス様は、そのことを、もちろん、ご存知でした。
神様を愛し、神様を信頼しているからこそ、ご自分を「最も低く最も小さなもの」とすることが出来ました。そして、だからこそ、心から「憐み」を求められました。いや、求めらざるをえなかったのですね。

逆に考えれば、ご自分が最も低く小さな者と知るからこそ、神様の愛を感じることが出来ました。

 

イエス様は、仰いました。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである

ルカによる福音書9章23-24節

わたしのために(の)命」「私に従う」ということは、キリストの道、つまり、神様への道、神様のみ旨に生きることです。聖霊に従って生きるということです。
自分の命」「自分」ということは、自分自身、世の中の価値観、物質的な価値観の中で生きるということです。

では、「救う」ということは、どういうことですか?
救う」とは、神様との関りに入るということです。創造主であり、全知全能の神との関りのに入ること。イエス様との関りにいること。
神様と関りを持てば、「神様の造ったありのままの自分」が調和し、「神様の造ったありのままの自分」たちが共に過ごす世界が広がります。
今までの勉強の中で、その話は何度もしましたよね。たとえば、イザヤの平和の王の箇所(イザヤ11:1-10)の「狼は小羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち小さい子供がそれらを導く(6節)」のような世界です。それこそがまさに「神の国」そのものの姿です。
イエス様は、「神の国」を、私たちがいるこの地上に実現するために来られました。

ミサの中で、奉献文の最後に唱えられる栄唱を思い出してみましょう。

キリストによってキリストとともにキリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々にいたるまで、アーメン

イエス様こそ、キリストであると信じる私たちには、この祈りは、「イエス様によって…イエス様とともに…イエス様のうちに」ということになりますね。
つまり……

  1. キリストによって
    イエス様によって…
  2. キリストとともに
    イエス様とともに…
  3. キリストのうちに
    イエス様が現わされた「神様の愛」のなかで
  4. 聖霊の交わりの中で
    聖霊と聖霊の関りの中、そして、聖霊の神殿である私たちキリスト者の関りの中で
  5. 父であるあなたに……
    神様に…
  6. すべての「誉れ」と「栄光」は
    私の住むこの世界、そして、私たち自身を想像された神様の偉大さは…
  7. 世々に至るまで
    「創造」の時(α)から「世の終わり」まで(Ω)のすべての場所(4次元的にすべての場所)に広がる。
    (神を知れば、神の国の民となるから)
  8. アーメン
    「はい。確かにその通りです」

 

こうしてみると、私たちの信仰を最も直接的に表していることが分かります。

みんなの目は、どこに向いていますか?
神様ですか?自分ですか?何か欲しい物ですか?

心の中で、それを問うてみましょう。
みんなにとって、かけがえのない大事なものはなんですか?

 

それでは、マルコ福音書の4章35-41節を読んでみましょう。

ありがとうございます。

何故怖がるのか?まだ信じないのか?

イエス様は、弟子たちにおっしゃいます。
みんなも困った時、苦しい時、神様に「助けて!」とお願いしますよね。弟子たちもイエス様に「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!?」と、言います。
でも、どうですか?
弟子たちはイエス様を心から信頼していると思いますか?
弟子たちは、イエス様と出会いました。そして、イエス様は、すでに弟子たちの前で、たくさん、神の国がどのようなものか示してくださっています。
しかし、弟子たちは、イエス様が共にいても、イエス様とすでに多くの時間を過ごしていても、イエス様を「先生」と呼び、イエス様との関りを信じていません。
イエス様は、全身全霊で弟子たちとの関りを持とうとしているのに、弟子たちは、まだ心を完全に開いていません。信頼がありません。

みんなは、どうですか?
イエス様を心から信頼していますか?

それは、みんなの見ている方向によると思います。

何故怖がるのか?まだ信じないのか?

イエス様は、私たちにいつも問うています。
私たちが、イエス様を心から信頼し、イエス様とともに、イエス様とのかかわりの中で生きていけることが出来るように、最後に主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

次回の勉強会は、2月3日です。

今年度最後の勉強会です。筆記用具をもって、集まってください。




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは2人。
学校の期末テストが近いということもあり、ちょっと寂しい感じですね。

待降節が始まった今日、クリスマスの本当の意味、そして、私たちは一体この待降節の間、どのように過ごすべきなのか…もう1度考えてみましょう。

 

 


 

今月のテーマ

● 私たちに贈られたもの ●

 

 

さて、今日から待降節が始まります。
待降節、英語で言うと、ADVENT。そのまま直訳すれば「到来」という意味ですね。
教会学校では、「イエス様のご降誕を待ち望む期間」とみんなには伝えました。そして、中高生会では、「イエス様のご降誕再臨を待ち望む期間」ともう1歩踏み込んで今まで話してきましたね。

イエス様のご降誕は、私たちにとって、どのような意味を持ちますか?
それは、なぜ、イエス様が私たちのもとにご降誕されるかということが答えになります。
イエス様のご降誕は、神様のみ旨を果たすために行われました。神様のみ旨は、いつもただ1つです。それは「私たちすべてのものを神の国に招くため」ですね。イエス様も当然「私たちすべてのものを神の国に招くため」にご降誕されました。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ福音書3章16節)」とありますね。
つまり、イエス様のご降誕は、「私たちにまさに神様の愛が示された時」ということが出来ます。

神様は愛(ヨハネの手紙一4章16節)ですから、イエス様の「到来」は、まさに神様が示されたことになりますよね。
余談ですが、堅信を受けたメンバーは勉強しましたが、秘跡とは「目に見えない神様が目に見える形で現わされたしるし」ですから、まさにイエス様こそ「秘跡のなかの秘跡」ですよね。だから、原秘跡(Original Sacrament)とよんでいます。この「原」は原罪(original sin)の「原」と同じですね。

さて、では、最初の質問の答え、「イエス様のご降誕は、私たちにとって、どのような意味を持つか」という答えが分かりましたか?
全知全能の天地の創造主である神様の愛」が示されたことが、みんなにとってどういう意味を持ちますか?
その答えは、各々違うと思います。それを「大いなる喜び」と、答えてしまうのは簡単です。でも、みんなのなかでは、それはどのようなことですか?
それは、同じように神様の愛が示された「イエス様の受難・死・復活」にも同じことが言えます。
みんなにとって、イエス様の受難・死・復活は、神様の愛は、どのような意味を持ちますか?
難しい言葉で言えば、受肉の神秘(イエス様のご降誕)十字架の神秘(イエス様の受難・死・復活)は、同じです。
ともに、私たちにイエス様を通して、神様がその愛を示してくださったものです。
神様の愛が、つまり、神様が、みんなにはどのような意味を持ちますか?どのような存在ですか?

 

これは、同時に、私たち自身にも当てはまります。
私たちは、何のために生まれてきたのでしょうか?

私たちは、それぞれ神様によって「きわめてよい」(創世記1:31)として造られました。
私たちは、神様のものです。
神様は、常に私たちに愛を示し、神の国へと招かれます。私たちを常に神様と、神様の愛のうちにいる人々への交わりへと招いています。
それが、みんなにとって、どういう意味を持ちますか?

イエス様はおっしゃいました。

『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』

ルカによる福音書9:23

そして、こうもおっしゃっています。

『自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 』

ルカによる福音書14:27

 

「十字架」とは、なんでしょう。
イエス様にとって、十字架とは、まさに自らの受難そのものですね。そして、その苦しみは、私たちへの神様の愛の現れですね。つまり、イエス様に与えられた「神様のみ旨」そのものです。
つまり、十字架を背負うとは、神様のみ旨に従うことに他なりません。そして、私たちそれぞれが、神のみ旨に従うものでなければ、キリスト者ではないとイエス様はおっしゃっています。

マリア様は、それをしっかりと果されました。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

この言葉を最後の最後までマリア様は、自分の息子が、十字架の刑に処されるのを最後まで見届け、全うされました。
マリア様は、無原罪としてお生まれになり、その力を初めから与えられていました。

みんなも同じです。
神様のみ旨を果たすため、極めてよきものとして、造られたみんなには、その力は初めから与えられています。

すでに、みんなには、神様の愛が充分に与えられています。それを受けて、みんながどう感じるのか、どう考えるのか、どう行動するのか…。
みんなにとって、神様の愛とは、どういう意味を持つのか。
神の国が、どのような価値があるのか?
それぞれ、クリスマスまで考えてみてください。

 

それでは、最後にマリア様の取次ぎを願い、アヴェ・マリアのお祈りをして終わりにしましょう。

 


 

次回の勉強会は、1月6日です。

筆記用具をもって、集まってください。




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは3人。

今月で、典礼歴が終わりますね。
教会の1年にふさわしい内容にしたいと思い、今月の内容は、「神の国」です。

キリスト者として、そして、自分とは?自分の人生とは?
少しゆっくり考えるきっかけになればと思います。

 


 

今月のテーマ

● 神 の 国 ●

 

 

さて、もうすぐ教会の1年が終わります。
教会の1年の終わりには、必ず毎年1つのことを私たちは、思い起こします。

それは、キリストの再臨です。
キリストがもう1度来られる時、私たちは最後の審判を受け、王であるキリストが治める神の国の住人となれるかが問われます。
キリストは神の国の王であり、私たちの真の王です。それをお祝いするのが、1年の最後の主日となる「王であるキリスト」です。
最後の主日である王であるキリストを含め、年間第32主日、年間第33主日の3回の主日は、「終末主日」と言われ、世の終わり つまり、イエス様がもう1度来られる時のことを思い起こさせます。終末的思想は、イエス様の生きていた時代に満ちていました。バビロン捕囚から後、聖書が語る(当時はもちろん新約聖書はなく、旧約聖書を聖書と呼んでいたわけですが)黙示的な世界、そして、今起こっている現実(バビロン捕囚からユダヤ人は、バビロニア、マケドニア、ローマと支配され続けてきた)からの逃避(したくなる気持ちもわかりますよね。。。)していた部分もあったかもしれませんね。世の中が終わり、キリストが降りて来られて、この哀れな現実の世界が終わり、自分達を救ってくれる……自分たちがダビデの時代のような豊かな生活を送れる…そのように思っていました。律法を守った生活を送ることで、神様がもう1度あの「出エジプト」の時のように自分たちを救ってくれると思っていたのです。

神の国とは、自分たち「神様から選ばれた、神様と契約を結んだ民である自分達」が、「自分達らしく」「自由に」「豊かに」暮せる国であると思っていたのです。だから、神様との契約をあらわす「十戒」は、何より大事とされ、それをより細かく規定した律法を守ることが大事だったのですね。
でも、「自分達らしく」「自由に」「豊かに」のとらえ方が、違いますね。
それはピラトとの問答によく表れています。

 

ピラト「お前がユダヤ人の王なのか」
イエス様「わたしの国は、この世には属していない」

ヨハネによる福音書 18章35-36節

 

イエス様の仰った「わたしの国は、この世には属していない」は、イエス様が王となる国は「この世に根拠をおいていない」という意味です。

根拠…その説明が次のイエス様の言葉によって示されます。

 

わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く

ヨハネによる福音書 18章 37節

 

では、「真理」とはなんでしょう?
「真理を証しするために来られた」ということは、イエス様の生き方、言葉によってそれが示されているということです。
イエス様の生き方、言葉…そうですね。
それは、まさに「十字架上の死」によって示されているのです。

そして、前から話している通り、十字架上の死は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネによる福音書3章16節)」の言葉とおり、神様の私たちへの愛を示されています。
つまり、イエス様が、証した真理とは、「神様の愛」なんですね。「神様の愛に属する人」こそ神の国の住人ということになります。
そう、神の国は、「神様の愛によって支配された国」なんですね。
イエス様が、「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」と否定されているように、神の国は力によって支配されるものではありません。

さて、では、キリスト者として、「神の国」の完成に務める私たちはどうすればよいのでしょうか?
どうすれば、私たちは、神の愛に属することができるのでしょうか?

イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マタイによる福音書 16章 24節) 」とその答えを仰っています。それは、ラクダを針の穴に通すくらい難しいことかもしれません。
私たちが全てを捧げ、何も持っていないものになった時、ようやく通れるものです。

最後の審判の時に、「羊」と「山羊」に分けられますよね。
山羊は、野生の動物ですから、1人で生きていける強い力を持っています。羊は、山羊が家畜化され、牧者なしには、そして、群れの中にいなければ生きていけません。
神の国に入れるのは「羊」ですね。

羊のように神様がいなければ生きていけないくらい、小さな自分になり、神の愛を受け取り、その愛に応えていく。
その応えこそが、みんなの背負う十字架です。神のみ旨です。

みんなが背負う十字架は、なんですか?

背負う十字架から逃げていませんか?
神様の愛に気づくことから、逃げていませんか?

神様から、みんな、それぞれ大きなタレントを頂いています。
そこに大きな答えがあるはずです。

したいことではなく、すべきことをしてください。
「隣人を自分のように愛すこと」が私たちにイエス様が残された大きな掟です。
目の前にいる困った人に、本当は、もっと与えられるのに、怠っていませんか?目の前にある正義から外れた世界を放置していませんか?
堅信の勉強会の時に、「怠りも罪」ということは伝えましたね。
みんな、それぞれ、もっと出来るはずです。多くの気づきがあるはずです。
神様を心から信頼して、神様の愛を真正面から受け取ってください。

イエス様は、私たちの大きな模範です。イエス様が、100%神様の愛に満たされ、どのようになさったか、みんなはもう知っています。

堅信を受けたものとして、教会の1年の終わりにもう1度私たちが目指すべき世界について考えてみてください。
そして、私たちが何をすべきか、何を背負いイエス様に従うのか、考えてみてください。

それでは、私たちの王である「イエス・キリスト」に賛美と感謝をささげながら、主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

次回の勉強会は、12月2日です。
来月は、少し違う角度から、クリスマスについて一緒に考えてみましょう。

筆記用具をもって、集まってください。