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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

今月は、ロザリオの月ですね。
ロザリオは、プロテスタントの教会にはない、ある意味、カトリック教会に神様から贈られた大事な信心業です。それは、私達の信仰の大きな助けになります。

今月は、ロザリオを通し、祈り、そして、聖母マリアの存在の意味をもう1度考えてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● ロザリオ ●

 

さて、今日は、教会では何の日か知っていますか?
今日は、ロザリオの聖母の記念日です。
だから、今月は、ロザリオについて勉強したいと思います。

みんなは家で祈っていますか?
堅信を受けたメンバーには、必ず1日に10分で良いので祈りの時間を取りましょうという話をしていますね。祈りは私たちにとって非常に大事なものです。
福音書の中でもイエス様も弟子たちから離れいつもお1人で祈られています。
しっかりとした祈りを行えば、私たちは、キリスト者として、神様から離れることなく、常にキリストの道を歩む事が出来るはずです。
みんなのお祖父さんやおばあちゃん、お父さんやお母さんも祈り続けています。教会の方々も祈り続けています。2000年間、私たちキリスト者は、祈りというもののプライオリティを下げた事は1度もありません。今月は、ロザリオの月ですから、松戸教会でも、ミサの前にロザリオを唱えています。この中には、その時に、ロザリオの先唱(誰が呼んだか…ロザリオ隊長と呼ばれる)方々のおばあさんを持つ人たちもいますね。将来は、みんながその役割を行えるように、しなくてはいけません。そういうことを受け継ぎ、こうやって2000年の歴史を私たちは紡いで来たからです。みんなもその伝統を担う「キリストの体」なのですから。

 

さて…ところでみんなは、ロザリオの唱え方をしっかり覚えていますか?
おさらい(ですよね…)してみましょう…

まぁ…1連が主の祈り・アヴェ・マリアが10回、栄唱というのは、ここにいるメンバーには分かっていますよね。そして、1連を5回唱えれば、1環というのも知っている事だと思います。
今もそうですが、世界には文字の読み書きができない人がたくさんいます。日本のように学校にしっかり通えるような国はそれほど多くありませんし、たとえば、小さいな子は、読み書きをするのは難しいですしね。でも、3つの祈り(主の祈り、アヴェマリアの祈り、栄唱)を覚えておけば、誰でもロザリオを唱えることが出来ます。こうして、本当に昔からロザリオは私たちキリスト者に親しまれてきました。
中高生のみんなは、もちろん「使徒信条」を覚えているでしょうから、「ファティマの祈り」か「サルヴェ・レジーナ」も覚えて完全にロザリオを唱えられるようにしましょう。サルヴェ・レジーナは聖歌としてもよく歌いますね。
そして、もちろんみんなは、3つの祈りを暗唱出来ますから、特に頭の中でいちいち言葉を思い出さなくても唱えることが出来ると思います。
だから、祈りを唱えながら、心を神様に向け、たとえば、病気の方のために……たとえば、苦難に合っている友達のために……祈ることが出来ると思います。
ただ、この時注意しなくてはいけないのは、1つの1つの言葉を大事にする事です。
「天におられる私たちの父よ…」「アヴェマリア…恵みにみちたかた…」「栄光は父と子と聖霊に…」
1つ1つの言葉に意味があり、そこには、キリスト者として唱えるべき理由があります。1つ1つの言葉を丁寧に扱いながら、祈りを「紡いで」いきます。私たちは、決して意味の分からない呪文を唱えているのではないのですから。スピードも大事ですね。ゆっくり丁寧に1つ1つの言葉をかみしめながら、祈りを唱えましょう。ロザリオの珠を1つ1つ操ると、自然と言葉を大事にしようという心の動きが生まれると思います。ロザリオは、そういう意味でも素晴らしい祈りの道具です。

ロザリオの祈りは、聖ドミニコが始めたと言われています。正確に言うと、昔からマリア様への祈りを唱える習慣はあったのですが、聖ドミニコによってロザリオの祈りへと昇華されました。
元々ブラザー達は、1日に150の詩篇すべてを唱えていました。でも、聖書を読めない(字が読めない)信者は、詩篇なんて無理です。なので、一般の信者も出来るように、主の祈りを150回唱えようという事になり、更に主の祈りからマリア様への祈りへと唱えようという事になりました。それが、逆にブラザーやシスター達にも浸透していき、ロザリオの祈りへとなっていきます。ロザリオ自体は、シトー会(トラピスト会)のブラザーがマリア様の祈りを50回ずつ唱えていると、その祈りがバラの花となり、マリア像の頭上を飾ったという13世紀の伝説に由来しています。そんなわけで…ロザリオを1環おこなうと50回のアヴェマリアの祈りを唱えたことになり、それを3回(たとえば、朝・昼・夕)行えばと150回アヴェマリアの祈りを唱えるというわけですね。(今でも15連、つまり、3環行うのが一般的です)

さて、さっきロザリオを唱えながら、頭の中では別の事をお祈りするという話をしましたよね。
教会は、イエス様の救いのわざにおいて、マリア様に関連するいくつかの場面を結びつけ、黙想できるようにしています。それを玄義と呼んでいます。玄義は4つあります。
毎日できるように、4つの玄義をそれぞれ振り分けています。

  • 喜びの神秘(月曜日・土曜日)

    マリア様に対する大天使聖ガブリエルの「喜びなさい、マリア」というあいさつは、救い主がお生れになる喜びへの招きです。
    マリア様の喜びの源にあるキリスト(救い主=イエス様)を共に黙想する事で、私達もキリストの存在を感じ、「喜び」に招かれます。

    1. マリア 神のお告げを受ける
      マリア様は、受胎告知を受け、「私は主の婢です。お言葉どおり、なりますように」と答えます。
      私達も神様のみ旨に信仰をもって唱えられるように、マリア様の取次によって願います。
    2. マリア エリサベトを訪問する
      マリア様は、エリサベトを訪問し、2人は聖霊に満たされ神様を賛美します。
      私達も共に救いの訪れを賛美し、喜び合う心を持てるように、マリア様の取次によって願います。
    3. マリア イエスを生む
      マリア様は、ベツレヘムでイエス様を生み、布に包み、飼い葉おけに寝かせます。
      私達も神の御子を迎え、喜びに満ち、礼拝する心を持てるように、マリア様の取次によって願います。
    4. マリア イエスを捧げる
      マリア様とヨセフ様は、神殿に行き、幼子イエスを神様に捧げます。
      私達も、毎日の生活を神に奉献することができるように、マリア様の取次によって願います。
    5. マリア イエスを見いだす
      マリア様とヨセフ様は、見失ったイエス様を3日目に神殿で見いだします。
      私達も、日々の生活の中で、イエス様を探し求める心を持てるように、マリア様の取次によって願います。
  • 苦しみの神秘(火曜日・金曜日)

    十字架の下でマリア様はその最後のときまで、イエス様と一緒にいました。
    苦しみの神秘を黙想する事で、私達もマリア様とともに十字架の下に並んで立ちます。イエス様のご受難は私たちにとって、回心への導きであり、神様の愛、そのものです。マリア様とともに、私達に示された神様の愛の深さを知ることが出来ます。

    1. イエス 苦しみ悶える
      ゲッセマネの園でイエス様は、苦しみ悶えながらも最後まで神様のみ旨に従うことを決意されます。
      私達も、誘惑に陥らないように常に目を覚ましていられるように、マリア様の取次によって願います。
    2. イエス 鞭打たれる
      私達が自分を中心に考えるがゆえに、神のみ旨を見失い、イエス様は、鞭を打たれます。そんな中でもイエス様は、常に私達に憐れみの心を向けてくださっていました。
      私達も、聖ペトロが犯した罪から回心し立ち上がったように、罪から解放され立ち上がることができるように、マリア様の取次によって願います。
    3. イエス 茨の冠をかぶせられる
      イエス様は、死刑の判決を受け、兵士たちのなぶり者になり、茨の冠をかぶせられます。
      私達も、誤解や侮辱を恐れず、常にキリストの道を歩む事が出来るように、マリア様の取次によって願います。
    4. イエス 十字架を担う
      イエス様は、十字架を担い、群衆の嘲りの中をゴルゴダの丘に向かってお進みになります。
      私達も、日々自分の十字架を背負い、主のみ旨に従っていくことができるように、マリア様の取次によって願います。
    5. イエス 息を引き取る
      十字架に打ち付けられ、イエス様は、神様のみ旨を果たし、息を引き取られます。
      救いの恵みが、全ての人々に与えられるように、マリア様の取次によって願います。
  • 栄えの神秘(水曜日・日曜日)

    復活節の出来事は、私達の教会の最も重要な出来事です。イエス様は、受難・死に打ち勝ち、復活と昇天という栄光を私達に示してくださいました。
    私達がイエス・キリストによって神様ともう1度関わるが出来るようになり、私達が神の民の一員として、絶望の奥に必ず希望がある事を知ることが出来ます。

    1. イエス 復活する
      イエス様は、死に打ち勝ち復活し、新しい命を私達にお与えになります。
      私達も主と共に死に、その復活に与る事が出来るように、マリア様の取次によって願います。
    2. イエス 天にあげられる
      復活されたイエス様は、弟子たちの前で天にあげられ、神様の右の座にお着きになります。こうして、天と地は、イエス・キリストによって完全に繋がりました。
      私達が、神の愛を受けている者として、イエス様の復活の証人として生きる事が出来るように、マリア様の取次によって願います。
    3. 聖霊 使徒たちに降る
      イエス様が約束されたとおり、マリア様とともに祈っていた使徒たちのうえに聖霊が降ります。
      私達が聖霊に満たされ、いつも勇気をもって福音を宣べ伝えることが出来るように、マリア様の取次によって願います。
    4. マリア 天の栄光にあげられる
      神様は、イエス様の母であるマリア様も身と霊魂とともに天の栄光にあげられました。その生涯においてキリストと最も深く結ばれ、死後においてもキリストの復活と栄光にあずかっているマリア様は復活の恵みを受け、キリストを通しての神における人間の完成です。
      私達も同じように信仰者の模範としてのマリア様のように、ともに永遠の喜びに入ることが出来るように、マリア様の取次によって願います。
    5. マリア 全ての人の母となる
      天の栄光にあげられたマリア様は、キリストの救いに与る全ての人の母になりました。
      救いを求めるすべての人が御子イエスのもとに導かれるように、マリア様の取次によって願います。
  • 光の神秘(木曜日)

    イエス様は私たちにとって「世の光」そのものです。そして、キリスト者である私達も「世の光」であるとイエス様は仰いました。世の光になりなさい。ではなく、世の光であるとイエス様は仰ったのです。イエス様の公生活の主な出来事を黙想するこの光の神秘には、イエス様と常に行動を共にしていたマリア様の存在があります。私達とイエス様の取次をしてくださるマリア様の存在は、私達の信仰の大きな助けとなります。マリア様の存在を通し、私達もキリストへと導かれます。

    1. イエス ヨルダン川で洗礼を受ける
      イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊がくだり「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声が聞こえました。
      私達は、洗礼の恵みに感謝し、聖霊の導きを受け、神の子として生きられるように、マリア様の取次によって願います。
    2. イエス カナの婚礼で最初のしるしを行う
      イエス様は、マリア様の取次を受け、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えて、私達に最初のしるしを見せ、私たち弟子の信じる心を開いてくださいました。
      私達が信仰を深めることが出来るように、マリア様の取次によって願います。
    3. イエス 神の国の到来を告げ、人々を回心に招く
      イエス様は、神の国の到来を告げ、人々を回心に招き、神のいつくしみを現してくださいました。イエス様との出会いによって、私たちは神の国をすでに目にしています。
      私達が、イエス様の招きに応え、心から悔い改めて、福音を信じることが出来るように、マリア様の取次によって願います。
    4. イエス タボル山で栄光を現す
      イエス様は、ご受難に会う前に、タボル山で、3人の弟子たちに栄光の姿を現し、私達が困難を乗り越えることが出来るように希望の光を示してくださいました。
      主の変容を心に刻み、私達が困難のなかでも、イエス様に聞き従うことが出来るように、マリア様の取次によって願います。
    5. イエス 最後の晩餐で聖体の秘跡を制定する
      イエス様は、最後の晩餐のなかで、救いのいけにえ、永遠の命の糧として、聖体の秘跡を定め、私達に対する愛の記念を残してくださいました。
      私たちも、すべてを与えつくされたイエス様の愛に日々ならうことができるように、マリア様の取次によって願います。

 

以上、4つが玄義になります。
1連ごとにマリア様とともにキリストの道を歩み、マリア様の取次を願います。
これは、全てのお祈りに言えることですが、「ただ言葉を唱えるだけならば」やめてしまった方がいいです。時間の無駄です。
また、同じように、玄義にこだわり、いちいち思い出し、本や聖書を見ながら、というのも、文字をおうだけのものとなり、意味がありません。
大事なのは、「祈る」という事です。
祈りは、神様やイエス様との会話とよく話しますよね。マリア様に、マリア様やイエス様の一生の事を思い起しながら、自分がキリスト者として、マリア様のようにしっかり歩めるようにとか、神様へのお願いを聞いてもらう…それが大事です。言葉をおうだけでは、ただそれを読んでいるだけでは、また、祈りを思い出すだけに集中してしまっては、それは会話とは言えませんね。確かに、ロザリオは、触る事で、まるで天国と私たちを繋ぐ橋のように「さぁ祈ろう」という気になり、祈りのスイッチが入りますよね。大事なのは、「橋」そのものではなくて、「それを渡る人」ということです。橋があっても渡る意思がなければ意味がありません。また、実際に渡らなければ意味がありません。そして、その「橋」がしっかり神様のもと(天国)に繋がっていなければ意味がありません。そういう意味でも「玄義」は、それを確かなものにしてくれます。

 

そもそも、なぜ私たちカトリック教会は、マリア様を重視するのでしょうか?なぜ、マリア様に崇敬の心を向けるのでしょうか?

それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。(ヨハネによる福音書19章27節)

この言葉を受け、マリア様は私達の母となられました。

また、使徒言行録1章13-14節では、イエス様の昇天の後、「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。
弟子たちは、せっかく、ご復活されたイエス様が40日しか私達の側にいなくて、天に帰られてしまい、どんなに心細かったでしょうか?
そんな時もマリア様は、私達と共に祈ってくださっていました。そして、カナの婚礼の時のように、私たちの母として、てたえず気遣ってくださっていました。イエス様の母であるマリア様が一緒にいて、共に祈ってくださることがどんなに心強かったでしょうか?

また、マリア様は、第2のエヴァと言われていますね。
エヴァは、アダムのあばら骨を抜いて造られました。(創世記2章21-22節)
思い出してみてください。
十字架でイエス様が死に、あばら骨のところ(ヨハネ19章34節)を刺して、心臓を刺しましたした。この時、流れ出た水と血は、イエス様のあがないをもたらす奉献の完全なしるしであり、洗礼と聖体を通して、教会に秘跡的にいのちを与え続けています。マリア様も「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」とシメオンから言われている(ルカによる福音書2章35節)通り、まさにマリア様もこの時、イエス様が奉献されたように自らも捧げられたのです。
これらの事は、私達が、ご聖体、十字架(上の神秘)、そして、マリア様に固く繋がっていないといけないことをあらわしています。

だから、マリア様は、神(イエス様)の母であり、教会(キリストの体)の母であり、私達の母です。

10月は、ロザリオを通し、マリア様を特に思い起こす月です。ロザリオを通し、マリア様の歩んだ道を一緒に歩みましょう。

それでは、最後にゆっくり丁寧にアヴェマリアの祈りを唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

次回の勉強会は、11月4日です。

今年は、教会暦最後の月になりますね。来月は、神の国ついて勉強しましょう!




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先日の夏の修練会で描いた「ステンドグラス風絵画」が、地下ホールへの階段の踊り場に常設展示されることになりました。
夏の修練会だけでは終わらず、別日に完成させたかいもありましたね!

教会の方々も、綺麗な絵とほめてくださっています。
「3枚だけじゃなくて、もっとないと!」というお話も頂くくらいです。

下記のテーマで描いてくれました。(左から)

  • 松戸教会の守護者大天使聖ミカエル
  • 平和の国
  • エリヤの昇天

みなさん、是非、見に来てくださいね!




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本日、教会学校の2学期始業式の中で、中高生のサブリーダー任命式が行われました。

フィリップ神父様から任命証が送られました。

サブリーダーには、以下の条件を満たしているとリーダー達が思った時、なってもらいます。

  • 堅信を受けていること
  • 奉仕の指導がしっかり出来る事(侍者リーダーになっていること等も含む)
  • 下級生のフォローをしっかり出来る事

 

これからは、教会学校で子ども達に「教える立場」になります。
困っている子がいたら一緒に考えてあげたり、お祈りの時に、十字の切り方や手の合わせ方がおかしいなという子がいれば、しっかり教えてあげましょう。
また、錬成会などの行事では、リーダーたちと一緒に子ども達をフォローする立場になります。今までのように一緒に「楽しむ」だけではいけないですね。

堅信を受けた者として、聖霊の賜物を活かし、サブリーダーとしての責任を果たしてください!
リーダー達と一緒に教会学校を盛り立てていきましょう!




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは6人。

夏休みも終わり、部活がお休みだったこともあって、久々に来たメンバーも!

今月は、錬成会や修練会でもした「ミサ」についての勉強です。
錬成会のなかでも、侍者リーダーとして奉仕する時、また、下級生に教える時、様々なことを覚えておかないといけないと感じたと思います。
ミサが、私たちキリスト者にとってどのようなモノなのかという事に対する理解を深め、自分が行う奉仕がどのくらい大事なことなのか、どれほど重要な事を任されているのか…一緒に考えていきましょう。

その前に今日はまず教会学校の始業式に一緒に参加しましょう!
堅信を受けている中高生は、子ども達の後ろに座って、子ども達の様子をしっかり見てあげてください。(神父様の話をしっかり聞いていない子には注意しましょう)
まだ、堅信を受けていない中高生は、子ども達と一緒にフィリップ神父様やリーダーの話を聞いてください。

2学期始業式のなかで1人の中学生が、教会学校のサブリーダーに任命されました。

これからは子ども達に教える立場ですから、しっかりと今日の勉強も覚えて、子ども達に伝えられるようにしてください。


今月のテーマ

● 奉 献 文 ●

 

 

さて、今日は、ミサについて一緒に考えてみましょう。
今日配ったプリントは、前にも配ったことがありますね。

最初に典礼歴について書いてあります。
中高生会のメンバーとしては、教会学校の時のように「待降節 > 降誕節 > 年間 > 四旬節 > 過越の聖なる3日間 > 復活節 > 年間」と覚えておけばいいというわけではありません。
今私たちがどのような時期であり、イエス様の道をどのように歩んでいるのか…説明ができなければなりませんね。
(それぞれの詳細な説明は、今日は省きます)
ここにいるメンバーには、何度もこの話をしていますから、もう当たり前でしょうが…祭服の色、そして、その祭服がどのような意味を持っているのかなども含め、ともに成長していけるようにしていかなくてはいけませんね。
たとえば、待降節と四旬節は、同じ「紫色」の祭服ですね。この2つの時期にはどのような意味がありますか?
もちろん、みんな分かっていますね。「回心」すると言う意味ですね。待降節は「幼子イエス」、四旬節は「受難・死・復活」とともに神様の愛が私たちに示されます。その前に、私たちはその愛をしっかり受け取れるように、自分を捨て心を神様に向けなければなりません。
待降節も四旬節も、毎年A年でもB年でもC年でも同じ内容が朗読されます。待降節は「目を覚ましていなさい」というテーマ、四旬節は「洗礼後の悪魔の誘惑の話」です。そう、どちらも「神様に心も体も向け、神のみ旨のなかで生きなさい」というお話ですね。人間(自分)の意思、考えの中で生きていればそこに神様は愛は根をはることができないからです。(神は愛-2018年度 1 勉強会)

このように私たちは、毎年毎年、典礼を通し、神の愛を思い起こします。
それは、「今現実に起こっている救いの出来事」です。

聖書に書いてあることは全て事実です。
神の愛を受けた数千年前の人の思い、考え、全てが描かれています。
イエス様も2000年前に現実にいました。神の子であり、救い主であり、神様と私たちを繋ぐ役割である大祭司でありながら、人の子として私たちのうちに生き、人として、神のみ旨に生きる信仰者としての模範を示してくださいました。
これは「おとぎ話」でも「あるスーパーヒーローの夢物語」でもなく現実に起こった、そして、今みんなの前に起こっていることだということをしっかり認識してください。
それを最も示してくれているのが、ミサなのです。

 

 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

ヨハネによる福音書 1章14節

 

ヨハネ福音書の初めにこのような御言葉がありますね。
ミサは、まさにこの御言葉を体現しています。共同体でミサをともにミサに参加し、聖書の朗読箇所を聞き、頭と心で理解する。そして、その御言葉を受けた私たちは、聖変化されたパンを頂き、イエス様をお迎えする。まさに、「ことば」が「」となって、「わたしたちの間」に宿られます。
だから、よく「感謝の祭儀」だけ出ればいいと思っている人がいますが、「ことばの典礼」も「感謝の祭儀」もどちらも大事です。もし、御言葉を味わなければ、その御聖体には意味がありません。アレルヤ唱より後に御聖堂に入るようでは、聖体には意味がないといのは、そういうことです。肉となる言葉が私たちの内にないのですから。
もっと言えば、しっかりと朗読やホミリア(説教)を、頭で理解し、心で悟っていなければご聖体は無意味になります。ただミサにいるだけでは全く無意味です。
ミサは、学校の集会や朝礼とは全く違うものです。
心から、キリスト者として、松戸共同体の信徒として、ミサに参加し、心を合わせ、共に共同体全体で祈るものでなければなりません。

想像してみてください。
食事に呼ばれた時に、たくさんの人が招かれているのに、遅刻してきたり、ただそこにいるだけ、どんなメニューが出ているかも知らず、ただその時間が過ぎるのを待っているような人をどう思いますか?ホスト(招いてくれた人)や食事を作ってくれた人、周りの人に失礼ですよね。
また、自分だけが美味しく食事を頂いていたり、ホスト(招いてくれた人)と話そうとしていたりしていたら、本当の意味で美味しく食事を頂いたり、楽しく時間を過ごせますか?

分かりますよね?
イエス様は、「わたし達の間」に宿られました。「私」にではなくです。教会は、呼び集められた者達という意味でした。その「呼び集められた私達」の間、つまり、イエス様は、人と人の間にいらっしゃるのです。だからこそ私達は心を合わせて、ミサに与らなければなりません。

さて、それを最も象徴しているのが「奉献文」です。
奉献文は、叙唱からスタートし、栄唱まで、1つの祈りです。
最後の晩餐や「5つのパンと2匹の魚の奇跡」の話の時、イエス様は神様に「感謝と賛美」の祈りをし、食事を始められます。奉献文は、「キリストの代理者」である司祭によって、それがなされています。そして、この際、聖霊の働きにより、イエス・キリストの過越(受難・死・復活)が「今」に繋がり、全てのキリスト者が、神様との新しい契約の更新を行います。

 

今日は、奉献文に焦点を当て、ミサがどれ程私たちにとって大事なものか考えてみましょう。

まず、叙唱ですね。
よく勘違いされがちですが、叙唱、感謝の讃歌が終わり、奉献文と思われがちです。
つまり、祈りは感謝の讃歌が歌い終わってから始まっていると…。みんなも侍者をしていて、緊張感を持つのは、「ホザンナ~~~」と(カンパネラを鳴らすから…)歌い終わる頃かもしれませんね。
でも、これはちょっと違いますね。
叙唱は、序唱ではありません。祈りの「前(序)」のものではないのです。
叙唱は、ラテン語で、プレファチオと言います。「プレ」には、「前」という意味がありますが、この「前」は、祈りの「前」ではなく、神様の「前に」立つと意味と考えたほうが良いです。「ファチオ」は直訳すれば「やり遂げる」「行う」と意味です。つまり、これが「祈りの最初」であるという事です。

 

  • 私達は、神の前に立ち、感謝と賛美の祈りを捧げる。
  • キリストの過越(受難・死・復活)を共に経験する(行う)前に、感謝と賛美の祈りを、共同体全体で共に捧げるために、私達はまず「ことばの典礼」で受けた「み言葉」を心と頭で正しく理解するために(共通の目的化するために)宣言する。

 

オペラを知っている人は、少しピンとくるかもしれませんね。オペラでは、叙唱は「個人的な感情の独白や、状況説明、ストーリーの紹介」で歌われるものですね。ただ、このオペラの叙唱は、レチタティーヴォというイタリア語(フランス語)の訳です。でも、意味はこちらの方が近いと思います

つまり、叙唱は、「神様の前に立ち、~~~~を頂きました!みんなで感謝と賛美の歌を歌います!」と祈り始めているわけです。
こういう風に言うと、ここから祈りが始まっていると分かりますよね。

だから、清めが終わり、奉納祈願が終わったら、そこから「感謝と賛美の祈り」が始まっている!としっかり認識して下さい。侍者をするものにとっては、この認識はとても大事ですし、小さな子達にもここからは、より一層「神さまの前にいる」という認識をもってもらわないといけません。

そして、感謝の賛歌が歌われ、「聖変化」へと移ります。
ここは、ラテン語だとエピクレーシスと言います。エピクレーシスは「呼び求める」「呼び下ろす」という意味があります。
何を呼び求めるのか?簡単ですね。「聖霊」です。

最後の晩餐でイエス様が示された通りに、キリストの代理である司祭によって、「ことば」によって、そして、「聖霊」によって、この時、この瞬間、過去・現在・未来、聖ペトロから、みんなの子ども達、世界の終わりまでの全てのキリスト者が繋がります。
司祭がホスチアに按手する時、聖霊によって、私達と神様の関係、そして、私達共同体の関係は修復され、癒されます。これは、全ての秘跡において、言えることですね。
ゆるしの秘跡の時、病者の塗油の時……司祭から按手を受けている時、同じように私達は癒され、神様との関係が修復されているのです。イエス様が、手をかざしただけで病人を癒すのと一緒ですね。こうして、私達共同体は、共同体として、キリストの体へとなっていきます。
この空間は、まさに「神の空間」です。
侍者リーダーとして、カンパネラを鳴らす時、その音はまさに神の空間であることを表しているのです。それを意識してならせるといいですね。

修復という言葉で、ピンとした人がいたら、しっかり今までの勉強を覚えている証拠ですね。
「イエス様が十字架上の死において、私達と神様との関係を修復されたこと」とこの修復は同じ意味だからです。つまり、受難・死・復活というものを心の底から信じていなければ、エピクレーシスは全く無意味なものになります。
ご聖体も御血も全く無意味です。全てが無意味です。それはタダの小麦粉の塊であり、ただのぶどう酒です。みんながキリスト者である意味もありません。
ミサにしっかり与るとはそういう意味です。
十戒でも「主の日を聖とする」というものがありますね。心の奥底から聖霊を求め、神様との関係を求めてください。求めれば神様は必ず与えてくださいます。

そして、最後の晩餐でのイエス様の言葉「聖体制定」のことばが唱えられます。
私達は、ただそこにある「小麦粉の塊」が「ご聖体」になったことを祝っているのではありません。マジックが成功した!とお祝いしているわけではないのです。
イエス様がそこにいる。という事、そして、イエス様の受難・死・復活を思い起こし、神様が独り子である御子を私達のためにいけにえにして下さったほどの愛をくださったことをお祝いしているのです。そのことをしっかり心に刻んでください。
これらの事は、まさに「信仰の神秘!」です。これらの事を正しく理解していれば、心から「イエス様が来られるまで」つまり、「世の終わりまで」「イエス様の死を思い、復活を讃える」事が出来るはずです。

そして、その後、「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます」と、奉献の祈りです。
目の前で起こった神秘、イエス様の受難・死・復活を見た私達は、「奉仕出来ることに感謝」します。私達がイエス様が御自らを捧げてくださったように、私達も神様に、隣人に、自分を捧げます。完全な神様に私達は必要ないかもしれません。しかし、今、目の前でイエス様がなさったことを私達は知っています。私達にはそれぞれ神様から役割を与えられています。そのためにそれぞれタレント・カリスマを受け取っています。その役割こそがありのままの自分であり、三位一体の神との関わりの中に生きる私達のアイディンティティです。イエス様は、それを自ら示してくださいました。私たちもイエス様と同じように神様から愛を受けているわけですから、神様から与えられた役割を果たさなければなりません。

まず、神によって、癒され、愛を示され、そして、それを余すことなく受け取り、全てを捧げる。これこそ「奉献」の意味です。

そして、その奉献した私たちは、1つの共同体として、今を生きる私たち教会(全ての信者)のために、亡くなった方々のために、祈ります。
何度も言っていますが、私たち全ての(過去・現在・未来の)信者は、この瞬間、聖霊により繋がっています。私たちは、このように、昔の信者の方々に祈られていました。そして、未来の信者の方々も私たちのために祈ってくれています。また、世界中の信者が私達のために祈ってくれています。
私たちは、常に誰かに祈られています。だからこそ、私達もその祈りの繋がりのなかに入っていき、全ての信者のために祈ります。
さらに、ここで全ての聖人との交わりを願います。
神の国の住人となっている聖人との交わりを願う事で、私達もキリスト者として、キリストの道を歩める者であり続けられるように、取り次いでいただき、私達がより豊かな奉献が出来るように願います。

 

最後に、栄唱を唱えます。
「キリストによってキリストとともにキリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに」
三位一体の神様の中に入っていく、関わりの中に入っていく、キリストの道を歩んでいく……、全身で神様への賛美を唱えます。そして、その賛美に対し、私たちは、アーメン、そう、確かにその通りです!と判子を押します。
昔は、栄唱を唱える時は、頭を下げ、神様に深い敬意を示していました。
栄唱は、ただの短い一番覚えやすい祈りではありません。神様の栄光が全世界に届き、全世界の人々が神様の愛を受けることが永遠にできますように!という深いお祈りです。

私達が受けた愛が全ての人々に届く…つまり、イエス様がおっしゃったようにそれを全世界に私たちは広めないといけません。
主の過越をともに体験し、また、新しく生まれ変わった私達に何ができるでしょうか?聖霊の力により、今体験したことを受け、私たちは何をすべきでしょうか?

教会は、ミサによって、成長し、ミサによって新しく生まれ変われます。
だから、ミサは大事なのです。

これからミサに与りますが、それぞれの役割をしっかり認識し、しっかりと神様から恵みを頂きましょう。

それでは、最後に主の祈りを唱えて終わりにします。

 


 

次回の勉強会は、10月7日です。
筆記用具とロザリオをもって、集まってください!

ロザリオの月ですから、ロザリオについて勉強しましょう!




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8月14日に行われた夏の修練会で時間が足りなくて、完成させることが出来なかったステンドグラス風絵画を中高生が完成させにきてくれました。

 

こちらは、「平和の国」をテーマに描かれたものですね。
教会の平和とは、みんながそれぞれのアイディンティティを保ったまま、隣人を愛し合い、生きる事(イザヤ11・6-10)です。
虹は、神様とのつながりを表します。オリーブの葉をもった鳩は聖霊を表します。
また、ノアの箱舟の時、40日40夜の雨の後、ノアのもとに神様から遣わされた平和の象徴でもありますね。
この1枚のパネルのなかにそれが生き生きと描かれている気がします。

 

こちらは、松戸教会の守護者大天使聖ミカエルをテーマに描かれたものですね。
まさに松戸教会のシンボル。
大天使聖ミカエルが、天使の大軍を率いて、サタンを天国から追放する様子が描かれています。
私達がイエス・キリストの道を通る事を阻む悪魔たちから大天使聖ミカエルは、守ってくださいます。

上下の色の雰囲気が、私たちの道の困難さを表し、そのなかで、大天使聖ミカエルが力強さが、私たちの灯となってくれているようですね。
聖ミカエルの祝日を祝う国際ミサの時に来てくださる菊池大司教様にも見て頂けますね!

 

2人も本当にありがとうございます。
2人が頂いた賜物を活かし、活動してくれたおかげで、松戸教会にまた大きな宝物が出来ました。

聖堂のどこかに2つとも展示します。

是非、松戸教会に2人が描いたパネルを観に来てくださいね!