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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは2人。
学校の期末テストが近いということもあり、ちょっと寂しい感じですね。

待降節が始まった今日、クリスマスの本当の意味、そして、私たちは一体この待降節の間、どのように過ごすべきなのか…もう1度考えてみましょう。

 

 


 

今月のテーマ

● 私たちに贈られたもの ●

 

 

さて、今日から待降節が始まります。
待降節、英語で言うと、ADVENT。そのまま直訳すれば「到来」という意味ですね。
教会学校では、「イエス様のご降誕を待ち望む期間」とみんなには伝えました。そして、中高生会では、「イエス様のご降誕再臨を待ち望む期間」ともう1歩踏み込んで今まで話してきましたね。

イエス様のご降誕は、私たちにとって、どのような意味を持ちますか?
それは、なぜ、イエス様が私たちのもとにご降誕されるかということが答えになります。
イエス様のご降誕は、神様のみ旨を果たすために行われました。神様のみ旨は、いつもただ1つです。それは「私たちすべてのものを神の国に招くため」ですね。イエス様も当然「私たちすべてのものを神の国に招くため」にご降誕されました。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ福音書3章16節)」とありますね。
つまり、イエス様のご降誕は、「私たちにまさに神様の愛が示された時」ということが出来ます。

神様は愛(ヨハネの手紙一4章16節)ですから、イエス様の「到来」は、まさに神様が示されたことになりますよね。
余談ですが、堅信を受けたメンバーは勉強しましたが、秘跡とは「目に見えない神様が目に見える形で現わされたしるし」ですから、まさにイエス様こそ「秘跡のなかの秘跡」ですよね。だから、原秘跡(Original Sacrament)とよんでいます。この「原」は原罪(original sin)の「原」と同じですね。

さて、では、最初の質問の答え、「イエス様のご降誕は、私たちにとって、どのような意味を持つか」という答えが分かりましたか?
全知全能の天地の創造主である神様の愛」が示されたことが、みんなにとってどういう意味を持ちますか?
その答えは、各々違うと思います。それを「大いなる喜び」と、答えてしまうのは簡単です。でも、みんなのなかでは、それはどのようなことですか?
それは、同じように神様の愛が示された「イエス様の受難・死・復活」にも同じことが言えます。
みんなにとって、イエス様の受難・死・復活は、神様の愛は、どのような意味を持ちますか?
難しい言葉で言えば、受肉の神秘(イエス様のご降誕)十字架の神秘(イエス様の受難・死・復活)は、同じです。
ともに、私たちにイエス様を通して、神様がその愛を示してくださったものです。
神様の愛が、つまり、神様が、みんなにはどのような意味を持ちますか?どのような存在ですか?

 

これは、同時に、私たち自身にも当てはまります。
私たちは、何のために生まれてきたのでしょうか?

私たちは、それぞれ神様によって「きわめてよい」(創世記1:31)として造られました。
私たちは、神様のものです。
神様は、常に私たちに愛を示し、神の国へと招かれます。私たちを常に神様と、神様の愛のうちにいる人々への交わりへと招いています。
それが、みんなにとって、どういう意味を持ちますか?

イエス様はおっしゃいました。

『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』

ルカによる福音書9:23

そして、こうもおっしゃっています。

『自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 』

ルカによる福音書14:27

 

「十字架」とは、なんでしょう。
イエス様にとって、十字架とは、まさに自らの受難そのものですね。そして、その苦しみは、私たちへの神様の愛の現れですね。つまり、イエス様に与えられた「神様のみ旨」そのものです。
つまり、十字架を背負うとは、神様のみ旨に従うことに他なりません。そして、私たちそれぞれが、神のみ旨に従うものでなければ、キリスト者ではないとイエス様はおっしゃっています。

マリア様は、それをしっかりと果されました。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

この言葉を最後の最後までマリア様は、自分の息子が、十字架の刑に処されるのを最後まで見届け、全うされました。
マリア様は、無原罪としてお生まれになり、その力を初めから与えられていました。

みんなも同じです。
神様のみ旨を果たすため、極めてよきものとして、造られたみんなには、その力は初めから与えられています。

すでに、みんなには、神様の愛が充分に与えられています。それを受けて、みんながどう感じるのか、どう考えるのか、どう行動するのか…。
みんなにとって、神様の愛とは、どういう意味を持つのか。
神の国が、どのような価値があるのか?
それぞれ、クリスマスまで考えてみてください。

 

それでは、最後にマリア様の取次ぎを願い、アヴェ・マリアのお祈りをして終わりにしましょう。

 


 

次回の勉強会は、1月6日です。

筆記用具をもって、集まってください。




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。
今月は、参加したのは3人。

今月で、典礼歴が終わりますね。
教会の1年にふさわしい内容にしたいと思い、今月の内容は、「神の国」です。

キリスト者として、そして、自分とは?自分の人生とは?
少しゆっくり考えるきっかけになればと思います。

 


 

今月のテーマ

● 神 の 国 ●

 

 

さて、もうすぐ教会の1年が終わります。
教会の1年の終わりには、必ず毎年1つのことを私たちは、思い起こします。

それは、キリストの再臨です。
キリストがもう1度来られる時、私たちは最後の審判を受け、王であるキリストが治める神の国の住人となれるかが問われます。
キリストは神の国の王であり、私たちの真の王です。それをお祝いするのが、1年の最後の主日となる「王であるキリスト」です。
最後の主日である王であるキリストを含め、年間第32主日、年間第33主日の3回の主日は、「終末主日」と言われ、世の終わり つまり、イエス様がもう1度来られる時のことを思い起こさせます。終末的思想は、イエス様の生きていた時代に満ちていました。バビロン捕囚から後、聖書が語る(当時はもちろん新約聖書はなく、旧約聖書を聖書と呼んでいたわけですが)黙示的な世界、そして、今起こっている現実(バビロン捕囚からユダヤ人は、バビロニア、マケドニア、ローマと支配され続けてきた)からの逃避(したくなる気持ちもわかりますよね。。。)していた部分もあったかもしれませんね。世の中が終わり、キリストが降りて来られて、この哀れな現実の世界が終わり、自分達を救ってくれる……自分たちがダビデの時代のような豊かな生活を送れる…そのように思っていました。律法を守った生活を送ることで、神様がもう1度あの「出エジプト」の時のように自分たちを救ってくれると思っていたのです。

神の国とは、自分たち「神様から選ばれた、神様と契約を結んだ民である自分達」が、「自分達らしく」「自由に」「豊かに」暮せる国であると思っていたのです。だから、神様との契約をあらわす「十戒」は、何より大事とされ、それをより細かく規定した律法を守ることが大事だったのですね。
でも、「自分達らしく」「自由に」「豊かに」のとらえ方が、違いますね。
それはピラトとの問答によく表れています。

 

ピラト「お前がユダヤ人の王なのか」
イエス様「わたしの国は、この世には属していない」

ヨハネによる福音書 18章35-36節

 

イエス様の仰った「わたしの国は、この世には属していない」は、イエス様が王となる国は「この世に根拠をおいていない」という意味です。

根拠…その説明が次のイエス様の言葉によって示されます。

 

わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く

ヨハネによる福音書 18章 37節

 

では、「真理」とはなんでしょう?
「真理を証しするために来られた」ということは、イエス様の生き方、言葉によってそれが示されているということです。
イエス様の生き方、言葉…そうですね。
それは、まさに「十字架上の死」によって示されているのです。

そして、前から話している通り、十字架上の死は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネによる福音書3章16節)」の言葉とおり、神様の私たちへの愛を示されています。
つまり、イエス様が、証した真理とは、「神様の愛」なんですね。「神様の愛に属する人」こそ神の国の住人ということになります。
そう、神の国は、「神様の愛によって支配された国」なんですね。
イエス様が、「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」と否定されているように、神の国は力によって支配されるものではありません。

さて、では、キリスト者として、「神の国」の完成に務める私たちはどうすればよいのでしょうか?
どうすれば、私たちは、神の愛に属することができるのでしょうか?

イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マタイによる福音書 16章 24節) 」とその答えを仰っています。それは、ラクダを針の穴に通すくらい難しいことかもしれません。
私たちが全てを捧げ、何も持っていないものになった時、ようやく通れるものです。

最後の審判の時に、「羊」と「山羊」に分けられますよね。
山羊は、野生の動物ですから、1人で生きていける強い力を持っています。羊は、山羊が家畜化され、牧者なしには、そして、群れの中にいなければ生きていけません。
神の国に入れるのは「羊」ですね。

羊のように神様がいなければ生きていけないくらい、小さな自分になり、神の愛を受け取り、その愛に応えていく。
その応えこそが、みんなの背負う十字架です。神のみ旨です。

みんなが背負う十字架は、なんですか?

背負う十字架から逃げていませんか?
神様の愛に気づくことから、逃げていませんか?

神様から、みんな、それぞれ大きなタレントを頂いています。
そこに大きな答えがあるはずです。

したいことではなく、すべきことをしてください。
「隣人を自分のように愛すこと」が私たちにイエス様が残された大きな掟です。
目の前にいる困った人に、本当は、もっと与えられるのに、怠っていませんか?目の前にある正義から外れた世界を放置していませんか?
堅信の勉強会の時に、「怠りも罪」ということは伝えましたね。
みんな、それぞれ、もっと出来るはずです。多くの気づきがあるはずです。
神様を心から信頼して、神様の愛を真正面から受け取ってください。

イエス様は、私たちの大きな模範です。イエス様が、100%神様の愛に満たされ、どのようになさったか、みんなはもう知っています。

堅信を受けたものとして、教会の1年の終わりにもう1度私たちが目指すべき世界について考えてみてください。
そして、私たちが何をすべきか、何を背負いイエス様に従うのか、考えてみてください。

それでは、私たちの王である「イエス・キリスト」に賛美と感謝をささげながら、主の祈りを唱えて終わりにしましょう。

 


 

次回の勉強会は、12月2日です。
来月は、少し違う角度から、クリスマスについて一緒に考えてみましょう。

筆記用具をもって、集まってください。




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毎月、第1週、小集会室で中高生の勉強会が行われています。

今月は、ロザリオの月ですね。
ロザリオは、プロテスタントの教会にはない、ある意味、カトリック教会に神様から贈られた大事な信心業です。それは、私達の信仰の大きな助けになります。

今月は、ロザリオを通し、祈り、そして、聖母マリアの存在の意味をもう1度考えてみましょう。

 


 

 

今月のテーマ

● ロザリオ ●

 

さて、今日は、教会では何の日か知っていますか?
今日は、ロザリオの聖母の記念日です。
だから、今月は、ロザリオについて勉強したいと思います。

みんなは家で祈っていますか?
堅信を受けたメンバーには、必ず1日に10分で良いので祈りの時間を取りましょうという話をしていますね。祈りは私たちにとって非常に大事なものです。
福音書の中でもイエス様も弟子たちから離れいつもお1人で祈られています。
しっかりとした祈りを行えば、私たちは、キリスト者として、神様から離れることなく、常にキリストの道を歩む事が出来るはずです。
みんなのお祖父さんやおばあちゃん、お父さんやお母さんも祈り続けています。教会の方々も祈り続けています。2000年間、私たちキリスト者は、祈りというもののプライオリティを下げた事は1度もありません。今月は、ロザリオの月ですから、松戸教会でも、ミサの前にロザリオを唱えています。この中には、その時に、ロザリオの先唱(誰が呼んだか…ロザリオ隊長と呼ばれる)方々のおばあさんを持つ人たちもいますね。将来は、みんながその役割を行えるように、しなくてはいけません。そういうことを受け継ぎ、こうやって2000年の歴史を私たちは紡いで来たからです。みんなもその伝統を担う「キリストの体」なのですから。

 

さて…ところでみんなは、ロザリオの唱え方をしっかり覚えていますか?
おさらい(ですよね…)してみましょう…

まぁ…1連が主の祈り・アヴェ・マリアが10回、栄唱というのは、ここにいるメンバーには分かっていますよね。そして、1連を5回唱えれば、1環というのも知っている事だと思います。
今もそうですが、世界には文字の読み書きができない人がたくさんいます。日本のように学校にしっかり通えるような国はそれほど多くありませんし、たとえば、小さいな子は、読み書きをするのは難しいですしね。でも、3つの祈り(主の祈り、アヴェマリアの祈り、栄唱)を覚えておけば、誰でもロザリオを唱えることが出来ます。こうして、本当に昔からロザリオは私たちキリスト者に親しまれてきました。
中高生のみんなは、もちろん「使徒信条」を覚えているでしょうから、「ファティマの祈り」か「サルヴェ・レジーナ」も覚えて完全にロザリオを唱えられるようにしましょう。サルヴェ・レジーナは聖歌としてもよく歌いますね。
そして、もちろんみんなは、3つの祈りを暗唱出来ますから、特に頭の中でいちいち言葉を思い出さなくても唱えることが出来ると思います。
だから、祈りを唱えながら、心を神様に向け、たとえば、病気の方のために……たとえば、苦難に合っている友達のために……祈ることが出来ると思います。
ただ、この時注意しなくてはいけないのは、1つの1つの言葉を大事にする事です。
「天におられる私たちの父よ…」「アヴェマリア…恵みにみちたかた…」「栄光は父と子と聖霊に…」
1つ1つの言葉に意味があり、そこには、キリスト者として唱えるべき理由があります。1つ1つの言葉を丁寧に扱いながら、祈りを「紡いで」いきます。私たちは、決して意味の分からない呪文を唱えているのではないのですから。スピードも大事ですね。ゆっくり丁寧に1つ1つの言葉をかみしめながら、祈りを唱えましょう。ロザリオの珠を1つ1つ操ると、自然と言葉を大事にしようという心の動きが生まれると思います。ロザリオは、そういう意味でも素晴らしい祈りの道具です。

ロザリオの祈りは、聖ドミニコが始めたと言われています。正確に言うと、昔からマリア様への祈りを唱える習慣はあったのですが、聖ドミニコによってロザリオの祈りへと昇華されました。
元々ブラザー達は、1日に150の詩篇すべてを唱えていました。でも、聖書を読めない(字が読めない)信者は、詩篇なんて無理です。なので、一般の信者も出来るように、主の祈りを150回唱えようという事になり、更に主の祈りからマリア様への祈りへと唱えようという事になりました。それが、逆にブラザーやシスター達にも浸透していき、ロザリオの祈りへとなっていきます。ロザリオ自体は、シトー会(トラピスト会)のブラザーがマリア様の祈りを50回ずつ唱えていると、その祈りがバラの花となり、マリア像の頭上を飾ったという13世紀の伝説に由来しています。そんなわけで…ロザリオを1環おこなうと50回のアヴェマリアの祈りを唱えたことになり、それを3回(たとえば、朝・昼・夕)行えばと150回アヴェマリアの祈りを唱えるというわけですね。(今でも15連、つまり、3環行うのが一般的です)

さて、さっきロザリオを唱えながら、頭の中では別の事をお祈りするという話をしましたよね。
教会は、イエス様の救いのわざにおいて、マリア様に関連するいくつかの場面を結びつけ、黙想できるようにしています。それを玄義と呼んでいます。玄義は4つあります。
毎日できるように、4つの玄義をそれぞれ振り分けています。

  • 喜びの神秘(月曜日・土曜日)

    マリア様に対する大天使聖ガブリエルの「喜びなさい、マリア」というあいさつは、救い主がお生れになる喜びへの招きです。
    マリア様の喜びの源にあるキリスト(救い主=イエス様)を共に黙想する事で、私達もキリストの存在を感じ、「喜び」に招かれます。

    1. マリア 神のお告げを受ける
      マリア様は、受胎告知を受け、「私は主の婢です。お言葉どおり、なりますように」と答えます。
      私達も神様のみ旨に信仰をもって唱えられるように、マリア様の取次によって願います。
    2. マリア エリサベトを訪問する
      マリア様は、エリサベトを訪問し、2人は聖霊に満たされ神様を賛美します。
      私達も共に救いの訪れを賛美し、喜び合う心を持てるように、マリア様の取次によって願います。
    3. マリア イエスを生む
      マリア様は、ベツレヘムでイエス様を生み、布に包み、飼い葉おけに寝かせます。
      私達も神の御子を迎え、喜びに満ち、礼拝する心を持てるように、マリア様の取次によって願います。
    4. マリア イエスを捧げる
      マリア様とヨセフ様は、神殿に行き、幼子イエスを神様に捧げます。
      私達も、毎日の生活を神に奉献することができるように、マリア様の取次によって願います。
    5. マリア イエスを見いだす
      マリア様とヨセフ様は、見失ったイエス様を3日目に神殿で見いだします。
      私達も、日々の生活の中で、イエス様を探し求める心を持てるように、マリア様の取次によって願います。
  • 苦しみの神秘(火曜日・金曜日)

    十字架の下でマリア様はその最後のときまで、イエス様と一緒にいました。
    苦しみの神秘を黙想する事で、私達もマリア様とともに十字架の下に並んで立ちます。イエス様のご受難は私たちにとって、回心への導きであり、神様の愛、そのものです。マリア様とともに、私達に示された神様の愛の深さを知ることが出来ます。

    1. イエス 苦しみ悶える
      ゲッセマネの園でイエス様は、苦しみ悶えながらも最後まで神様のみ旨に従うことを決意されます。
      私達も、誘惑に陥らないように常に目を覚ましていられるように、マリア様の取次によって願います。
    2. イエス 鞭打たれる
      私達が自分を中心に考えるがゆえに、神のみ旨を見失い、イエス様は、鞭を打たれます。そんな中でもイエス様は、常に私達に憐れみの心を向けてくださっていました。
      私達も、聖ペトロが犯した罪から回心し立ち上がったように、罪から解放され立ち上がることができるように、マリア様の取次によって願います。
    3. イエス 茨の冠をかぶせられる
      イエス様は、死刑の判決を受け、兵士たちのなぶり者になり、茨の冠をかぶせられます。
      私達も、誤解や侮辱を恐れず、常にキリストの道を歩む事が出来るように、マリア様の取次によって願います。
    4. イエス 十字架を担う
      イエス様は、十字架を担い、群衆の嘲りの中をゴルゴダの丘に向かってお進みになります。
      私達も、日々自分の十字架を背負い、主のみ旨に従っていくことができるように、マリア様の取次によって願います。
    5. イエス 息を引き取る
      十字架に打ち付けられ、イエス様は、神様のみ旨を果たし、息を引き取られます。
      救いの恵みが、全ての人々に与えられるように、マリア様の取次によって願います。
  • 栄えの神秘(水曜日・日曜日)

    復活節の出来事は、私達の教会の最も重要な出来事です。イエス様は、受難・死に打ち勝ち、復活と昇天という栄光を私達に示してくださいました。
    私達がイエス・キリストによって神様ともう1度関わるが出来るようになり、私達が神の民の一員として、絶望の奥に必ず希望がある事を知ることが出来ます。

    1. イエス 復活する
      イエス様は、死に打ち勝ち復活し、新しい命を私達にお与えになります。
      私達も主と共に死に、その復活に与る事が出来るように、マリア様の取次によって願います。
    2. イエス 天にあげられる
      復活されたイエス様は、弟子たちの前で天にあげられ、神様の右の座にお着きになります。こうして、天と地は、イエス・キリストによって完全に繋がりました。
      私達が、神の愛を受けている者として、イエス様の復活の証人として生きる事が出来るように、マリア様の取次によって願います。
    3. 聖霊 使徒たちに降る
      イエス様が約束されたとおり、マリア様とともに祈っていた使徒たちのうえに聖霊が降ります。
      私達が聖霊に満たされ、いつも勇気をもって福音を宣べ伝えることが出来るように、マリア様の取次によって願います。
    4. マリア 天の栄光にあげられる
      神様は、イエス様の母であるマリア様も身と霊魂とともに天の栄光にあげられました。その生涯においてキリストと最も深く結ばれ、死後においてもキリストの復活と栄光にあずかっているマリア様は復活の恵みを受け、キリストを通しての神における人間の完成です。
      私達も同じように信仰者の模範としてのマリア様のように、ともに永遠の喜びに入ることが出来るように、マリア様の取次によって願います。
    5. マリア 全ての人の母となる
      天の栄光にあげられたマリア様は、キリストの救いに与る全ての人の母になりました。
      救いを求めるすべての人が御子イエスのもとに導かれるように、マリア様の取次によって願います。
  • 光の神秘(木曜日)

    イエス様は私たちにとって「世の光」そのものです。そして、キリスト者である私達も「世の光」であるとイエス様は仰いました。世の光になりなさい。ではなく、世の光であるとイエス様は仰ったのです。イエス様の公生活の主な出来事を黙想するこの光の神秘には、イエス様と常に行動を共にしていたマリア様の存在があります。私達とイエス様の取次をしてくださるマリア様の存在は、私達の信仰の大きな助けとなります。マリア様の存在を通し、私達もキリストへと導かれます。

    1. イエス ヨルダン川で洗礼を受ける
      イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊がくだり「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声が聞こえました。
      私達は、洗礼の恵みに感謝し、聖霊の導きを受け、神の子として生きられるように、マリア様の取次によって願います。
    2. イエス カナの婚礼で最初のしるしを行う
      イエス様は、マリア様の取次を受け、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えて、私達に最初のしるしを見せ、私たち弟子の信じる心を開いてくださいました。
      私達が信仰を深めることが出来るように、マリア様の取次によって願います。
    3. イエス 神の国の到来を告げ、人々を回心に招く
      イエス様は、神の国の到来を告げ、人々を回心に招き、神のいつくしみを現してくださいました。イエス様との出会いによって、私たちは神の国をすでに目にしています。
      私達が、イエス様の招きに応え、心から悔い改めて、福音を信じることが出来るように、マリア様の取次によって願います。
    4. イエス タボル山で栄光を現す
      イエス様は、ご受難に会う前に、タボル山で、3人の弟子たちに栄光の姿を現し、私達が困難を乗り越えることが出来るように希望の光を示してくださいました。
      主の変容を心に刻み、私達が困難のなかでも、イエス様に聞き従うことが出来るように、マリア様の取次によって願います。
    5. イエス 最後の晩餐で聖体の秘跡を制定する
      イエス様は、最後の晩餐のなかで、救いのいけにえ、永遠の命の糧として、聖体の秘跡を定め、私達に対する愛の記念を残してくださいました。
      私たちも、すべてを与えつくされたイエス様の愛に日々ならうことができるように、マリア様の取次によって願います。

 

以上、4つが玄義になります。
1連ごとにマリア様とともにキリストの道を歩み、マリア様の取次を願います。
これは、全てのお祈りに言えることですが、「ただ言葉を唱えるだけならば」やめてしまった方がいいです。時間の無駄です。
また、同じように、玄義にこだわり、いちいち思い出し、本や聖書を見ながら、というのも、文字をおうだけのものとなり、意味がありません。
大事なのは、「祈る」という事です。
祈りは、神様やイエス様との会話とよく話しますよね。マリア様に、マリア様やイエス様の一生の事を思い起しながら、自分がキリスト者として、マリア様のようにしっかり歩めるようにとか、神様へのお願いを聞いてもらう…それが大事です。言葉をおうだけでは、ただそれを読んでいるだけでは、また、祈りを思い出すだけに集中してしまっては、それは会話とは言えませんね。確かに、ロザリオは、触る事で、まるで天国と私たちを繋ぐ橋のように「さぁ祈ろう」という気になり、祈りのスイッチが入りますよね。大事なのは、「橋」そのものではなくて、「それを渡る人」ということです。橋があっても渡る意思がなければ意味がありません。また、実際に渡らなければ意味がありません。そして、その「橋」がしっかり神様のもと(天国)に繋がっていなければ意味がありません。そういう意味でも「玄義」は、それを確かなものにしてくれます。

 

そもそも、なぜ私たちカトリック教会は、マリア様を重視するのでしょうか?なぜ、マリア様に崇敬の心を向けるのでしょうか?

それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。(ヨハネによる福音書19章27節)

この言葉を受け、マリア様は私達の母となられました。

また、使徒言行録1章13-14節では、イエス様の昇天の後、「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。
弟子たちは、せっかく、ご復活されたイエス様が40日しか私達の側にいなくて、天に帰られてしまい、どんなに心細かったでしょうか?
そんな時もマリア様は、私達と共に祈ってくださっていました。そして、カナの婚礼の時のように、私たちの母として、てたえず気遣ってくださっていました。イエス様の母であるマリア様が一緒にいて、共に祈ってくださることがどんなに心強かったでしょうか?

また、マリア様は、第2のエヴァと言われていますね。
エヴァは、アダムのあばら骨を抜いて造られました。(創世記2章21-22節)
思い出してみてください。
十字架でイエス様が死に、あばら骨のところ(ヨハネ19章34節)を刺して、心臓を刺しましたした。この時、流れ出た水と血は、イエス様のあがないをもたらす奉献の完全なしるしであり、洗礼と聖体を通して、教会に秘跡的にいのちを与え続けています。マリア様も「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」とシメオンから言われている(ルカによる福音書2章35節)通り、まさにマリア様もこの時、イエス様が奉献されたように自らも捧げられたのです。
これらの事は、私達が、ご聖体、十字架(上の神秘)、そして、マリア様に固く繋がっていないといけないことをあらわしています。

だから、マリア様は、神(イエス様)の母であり、教会(キリストの体)の母であり、私達の母です。

10月は、ロザリオを通し、マリア様を特に思い起こす月です。ロザリオを通し、マリア様の歩んだ道を一緒に歩みましょう。

それでは、最後にゆっくり丁寧にアヴェマリアの祈りを唱えて終わりにしましょう。

 

 


 

次回の勉強会は、11月4日です。

今年は、教会暦最後の月になりますね。来月は、神の国ついて勉強しましょう!




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先日の夏の修練会で描いた「ステンドグラス風絵画」が、地下ホールへの階段の踊り場に常設展示されることになりました。
夏の修練会だけでは終わらず、別日に完成させたかいもありましたね!

教会の方々も、綺麗な絵とほめてくださっています。
「3枚だけじゃなくて、もっとないと!」というお話も頂くくらいです。

下記のテーマで描いてくれました。(左から)

  • 松戸教会の守護者大天使聖ミカエル
  • 平和の国
  • エリヤの昇天

みなさん、是非、見に来てくださいね!




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本日、教会学校の2学期始業式の中で、中高生のサブリーダー任命式が行われました。

フィリップ神父様から任命証が送られました。

サブリーダーには、以下の条件を満たしているとリーダー達が思った時、なってもらいます。

  • 堅信を受けていること
  • 奉仕の指導がしっかり出来る事(侍者リーダーになっていること等も含む)
  • 下級生のフォローをしっかり出来る事

 

これからは、教会学校で子ども達に「教える立場」になります。
困っている子がいたら一緒に考えてあげたり、お祈りの時に、十字の切り方や手の合わせ方がおかしいなという子がいれば、しっかり教えてあげましょう。
また、錬成会などの行事では、リーダーたちと一緒に子ども達をフォローする立場になります。今までのように一緒に「楽しむ」だけではいけないですね。

堅信を受けた者として、聖霊の賜物を活かし、サブリーダーとしての責任を果たしてください!
リーダー達と一緒に教会学校を盛り立てていきましょう!